前回の記事「罪悪感と無価値感⑤」の続きです。今回は、罪悪感と無価値感があると、なぜ他人からコントロールされやすくなるのかについて考えてみたいと思います。
以前、心理学理論のご紹介の記事で何度か取り上げた、エリック・バーンの交流分析という理論の中に、人生の初期に子供が確立する人生に対する4つの構えという考え方があります。4種類の構えは以下の通りです。
2 私はOKだが、あなたはOKでない。
3 私はOKでなく、あなたはOKである。
4 私はOKでなく、あなたもOKでない。
このうち、罪悪感と無価値感が自罰的方向性を持つと3番か4番、他罰的方向を持つと2番および隠れ4番ということになると思います。なぜ「隠れ」と付けたかというと、一般的には4番は自閉的で拒絶的、人生にも自分にも絶望している状態だとされているからです。ところが、無意識下の罪悪感や無価値感と「戦う」タイプの人は、「私はOK」だと自分にも他人にも証明しようとしているのだと思っています。
証明しなければいけないということは、実際には「自分はありのままでOKだとは本心では信じられていない」ということなので、言動としては2番のようでありながら、実際には4番という可能性も少なくないかもしれないと私は考えています。
どちらにしても罪悪感や無価値感が潜在意識下に存在しているということは、基本姿勢として自分はOKではないわけなので、OKになるために自分には何かが足りないので、何かを得なければいけないという思い込みが生じるでしょう。これは幼少期に「ありのままの自分自身であってはいけない」というメッセージを養育者や大人から受け取ってしまったことに起因すると思います。
実際はといえば、ありのままの自分で良いのだと思えない人は、たいていの場合は何かが「足りない」というよりも、むしろ、ものごとに過度に意味を与えすぎてしまう、過度に重要だと思い込んでしまう、など「過剰」なのだろうと私は考えます。ありのままの自分で良いと思えるということは、自分が自分であることに対して、何も過不足は感じ無いということだと思うからです。
「自分には何かが足りない」という漠然とした不安や焦燥感があると、自分に何かを与えてくれると思える、または言ってくる人や集団や物に対して依存が起こりやすくなるでしょう。逆にコントロールしてくる側は、他者の中にある罪悪感や無価値感を上手く刺激します。
潜在意識下に隠れている罪悪感や無価値感は、まるで頭の中のフックのようなものです。自分が見る世界や他人に何かしら引っ掛かりがあれば、すぐにそのフックで釣り上げられてしまいます。そのフックに引っかかるような何かしらの出来事、他人の言動、状況などに、フックを持つ人は自ら引っかかりに行ってしまうということが起こりがちなのではないかと私は考えています。
この連投の記事の最後に1つ。私自身の考えなのですが、今、世の中で「罪悪感」や「価値」という言葉があまりにもあふれかえっているように感じます。簡単な例で言うと、低カロリーレシピの紹介に「罪悪感なし」ですとか、「あなたの価値を上げる」などの謳い文句をSNSなどで日常的に目にします。こういった言葉に無意識に引っかかってしまうのが頭の中のフックです。何かを食べること(生命維持のために必須)に罪悪感を感じることの方がおかしな話ですし、「人の価値」という考え方は私は持っていません。
「価値」というものは、時代によっても場所によっても状況によっても変わるものです。これは人間の考え出す「自分にとって損か得か?」という損得勘定に過ぎません。ですから「価値」とは誰かや何かにとって利益をもたらすか、役に立つかというように、道具や仕組みなどに対する言葉だと思っています。対して人の存在そのもの、つまり命は、通常の妊娠・出産を経ずに人工的に作り出すことのできない、安易な価値などという評価が不可能なものだと私は考えています。
私が今この世界に生きて存在していること。それは揺るぎのない事実です。そこに他人であれ社会であれ評価できることは何もありません。誰であっても人の存在はそれくらい大きく重いものだというのが私の感じていることです。ですから私自身の基本的な生きる姿勢は、つねに上記の1の「私はOK、あなたもOK。」でありたいと思っています。
本サイトのAuto-Groove はこちら
↓
私のプロフィール詳細はこちらからご覧ください。
↓
DTMで曲作っています。現在27曲。こちらから聴けます。
↓
Youtubeで曲の動画も公開しています。
↓