前回の記事「罪悪感と無価値感③」の続きです。今回は、乳幼児期に言語化されないまま植え付けてしまった罪悪感と無力感が、その後の人生でどのように影響を与える可能性があるかを考えてみたいと思います。
傾向としては自責方向、他責方向の正反対の現れ方になると思いますが、どちらも基本的には「過剰」というのがキーワードになると思っています。どの要素も人の性格的な傾向として誰もがどれか、もしくは複数持ち合わせているでしょう。それが本人や周囲にとって、生き辛さや強いストレス、そこからくる心身の不調にまでつながらないのであれば、それほど問題にはならないかもしれません。
ただ、それが自覚なく駆り立ててくる罪悪感や無価値感によるものである場合、自分の思考や感情が制御できないということになります。制御ができないので結局「過剰」になってしまうという感じですが、その過剰さも自覚できないということになってしまいます。この2種類の方向性の具体的な現れ方について挙げていきたいと思います。
自責方向(落ち込み傾向が強い)
・すみません、ごめんなさいといった言葉が口癖になっている
・謙遜し過ぎる
・他人の気分や感情をつねに気にする
・褒められると否定したくなる
・新しいことにチャレンジ出来ない
・習慣化がとても苦手
・他者やものごとなどへの依存が強い
・素直に喜んだり楽しんだりできない
・不安や恐怖心が強い
・関係無いことにまで責任を感じる
他責方向(攻撃傾向が強い)
罪悪感や無力感と戦う方向です。自責とは正反対に主張が強かったり、テンションが高かったり、世話焼きだったり、といった感じなので、自他ともに幼少期からの罪悪感や無価値感が潜んでいるとは気づき難いだろうと思います。
・批判や非難が多い
・成功へのこだわりが強い
・負けず嫌い
・完璧主義
・正義感が強すぎる
・他人や状況へのコントロール欲求が強い
・自己正当化が多い
・被害者スタンスを取りやすい
・常に忙しくする
・成功しても幸せを感じにくい
これらの傾向が、たいていの場合は複数組み合わさって現れるという感じだと思います。また、正反対の傾向も、1個人において1つの方向だけとは限らずに、ある部分においては自責傾向、また違う部分においては他責傾向といったように、一貫していない場合の方が多いかもしれません。
全てにおいて共通するのは「過剰」であるということと、生き辛さを感じやすいということだと思います。罪悪感や無価値感を内包しているならば、自己肯定感は当然低くなるだろうと思いますが、自分でも気づかずに無理を重ね、社会的な「価値」を追い続けて結果を出すことで、自分では自己肯定感が高いと思っているという場合もあるかもしれません。その場合は、他者、社会、世界に対する評価をひじょうに低くするということもあるでしょう。
他者、社会、世界に対する評価がひじょうに低いと、自分が馬鹿にされているという根拠のない思い込みに繋がりやすいので、切れやすかったり、クレーマーになったり、マウントを取りたがったり、ヘイト的な言動をしがちだったりということにも繋がるのではないかと思います。
また、罪悪感と無力感を抱えている人にとって1番危険なのは、これらの感情を刺激されると他者のコントロールに従ってしまいやすくなることだと思います。カルト宗教などはその典型で、「ご先祖が苦しんでいる」という何の根拠もない話で罪悪感や無力感を刺激して、その供養が必要だと言って入信を促し、高価なものを売りつけるといった手法になっているようです。
冷静に考えられるのであれば、そのような根拠のない話は信じるに値しないものですが、罪悪感と無力感を抱えている人にとっては、そのせいで自分は幸せではないのだと短絡的に結び付けて焦燥感を抱きやすく、救われたい一心で信じてしまうということも起こり得るでしょう。
次回の記事「罪悪感と無価値感⑤」では、自分の中に罪悪感と無力感を抱えている場合、どうすればその影響を軽減できるのかについて考えてみたいと思います。
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