かめおかゆみこ です。
メルマガ「今日のフォーカスチェンジ」 15周年記念企画
THE量稽古★150日チャレンジ
「表現」ということで考えてみると、ひとつには、「表現」をとお
すことで、自分のありように気づいたり、膠着した状況を脱し
ていくひとたちがいます。
もうひとつは、自分自身が満たされてくると、「表現」すること
に目が向いていく、というケースです。どちらもありで、どちら
もおもしろいなあと想います。
「表現」って、人間だけにあたえられた特権です。ほかの動
物にも感情はあるし、ある種の遊びをするものもいるけれど、
わざわざ、歌をつくったり、楽器演奏をしたり、彫刻をしたり、
ましてや、小道具・大道具・衣装・照明・音響などなどを総合
して、舞台をつくるなんてのは、人間だけがやることです。
また、それと真逆で、舞台もなく、照明・音響いっさい使わず、
ただ、「素」としての自分が、そこにあるということを、「表現」
するスタイルもあります。
いずれにしても、そこには、「表現」しようとする意図がありま
す。満たされるための表現であれ、満たされたのちの表現で
あれ、
ひとは、何かを表現することで、自分をたしかめ、それを
共有することで、ひととつながっていく生きもののように想
うのです。
だからこそ、表現は、そのひとそのものであり、そのひとらし
さが、表現のすべてと言ってもいいと想うのです。
にもかかわらず、多くのひとが、「表現することは苦手だ」と
想いこんでいるのは、そこに「評価」が加わるからです。
これは、あきらかに学校教育の弊害だと、私は想っていま
す。算数の計算にマルバツをつけるように、絵や音楽を評
価してはいけないのです。
それは、人間だけの、人間そのもののいとなみなのですか
ら、ただ、そのひとであることをみとめあえばいいのです。
そのうえで、より、多くのひとのこころを揺さぶりたいと想っ
たときに、技術を磨いたり、趣向をこらしたりということが生
じてくるわけです。
それはそれで、それぞれにすばらしいわけですが、そこで
もやはり、評価というものは必要なく、私は「表現」は、すべ
て、「好み」のモンダイだと想うようになりました。
「好み」だから、たくさんのひとに支持されるもののあれば、
そうでないものがあっても、どちらでもいいのです。どちらが
価値がある・ないかなど、問う必要がないのです。
その意味で、すべてのひとが、自分の「表現」をもっと楽し
んでいいし、もっと多彩に、表現する場をひらいていってい
いと想うのです。
ひとがひととして、自分をみとめ、同時に、その多様さをみ
とめあう「表現」があり、それをわかちあえる場があること。
今回の15周年記念イベントのタイトル「生きるとは表現す
ること」には、まさに、そういう世界への期待というか、祈り
がこめられています。
そんな想いが、伝わるように、告知文を書きたいと想って
います。今週中には、参加者募集を開始します。どうか、
この想いに共振してくださるかたに、届きますように。![ラブラブ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/084.png)
![ラブラブ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/084.png)