「裁判員バッジ」は「守秘義務」消滅の一里塚か?
「裁判員バッジ」のデザイン
最高裁は「裁判員バッジ」の試作品を公開 したそうです。裁判員を務めた人への感謝をかたちで伝えようと製作したといいますが、「1個160円也」とあるところを見ると、しっかり代金は受け取るのかと思ったら、さすがに判決後にプレゼントされるものらしく、金額は原価のようです。
裁判員制度広報のための懇談会 で司法教習生のつけるバッジのことが話題になっていますが、考えてみると裁判官、検事、弁護士とそれぞれ独自のバッジをつけていますから、私服の裁判員にも何かと考えても不思議はありません。ただそれを裁判員として裁判に参加しているときでなく、その任務終了後に手にできるというのは最高裁の見識なのでしょう。
しかし、裁判員であったことを不特定多数の人に知らせることは裁判員の守秘義務に入っていなかったでしょうか? 裁判員バッジとそのデザインが報道されたのですから、そのバッジを着用している人を見れば、その人は裁判員経験者であることがわかります。家族とか勤め先の人でなく、例えば電車の中でもわかるわけです。電車での同乗者などを不特定多数というのだと思いますが、裁判後の裁判員の身の安全を考えての守秘義務だったはずですが、その辺どういう理屈で折り合いをつけるのか、是非知りたいものです。
それに、裁判員バッジによって裁判員経験者であることがわかれば、その裁判での経験を聞きたがる人がいるのは当然でしょう。良心的裁判員経験者としては評議の内容などは話さないようにするでしょうが、世の中には聞き方のうまい人がおり、全国規模で言えば相当数の評議内容が洩れる可能性があります。裁判員経験者が厳格に守秘義務を守るかどうかはもとより保証できませんし、一応の心得があっても聞きただされる端緒ができれば、ついしゃべってしまうことも多くなるでしょう。
裁判後の裁判員の身の安全という考えは、不利な判決を下された被告の関係者が裁判員を逆恨みするというようなことを考えたのでしょうが、これに関していくらなんでも裁判員経験者であるというだけでは襲ってこないだろうと楽観視している人もいるのでしょう。しかしバッジの裏面に5桁の番号が刻んであり、これは同一の番号はないということです。番号がランダムになっていればいいのですが、何番から何番までは○○地裁というようにあらかじめ配布してあれば、裁判員バッジが人手に渡った時に、担当した裁判がわかるという可能性はないでしょうか? そういえば試作品の写真には地裁名が刻まれているのもある ようです。大丈夫なのでしょうか? 番号等について詳しい仕組みはわからないのですが、いずれは刑事物のテレビドラマなどで、こういうことを下地にしたストーリーを見られるのではないかと思います。
バッジに刻んだ5桁の番号といえば、冒頭に引用した記事に「最高裁は『貴重な経験の記念。できればネットオークションに出したりせず、長く手元に置いてもらいたい』と話す。」ともありました。続き番号といえば紙幣で12345といったものや、あるいは33333といった「ゾロメ」のものに高い価格がつくことが知られています。最高裁も日銀の向うを張ってお宝戦線に参入というのは冗談としても、最高裁の方から「ネットオークション」の言葉が出たのが本当であれば、隠すより顕われるのかもしれません。
しかし想像をたくましくすれば、裁判員としての体験に対してに課された守秘義務を一生守るということは、誰が考えても無理な相談ですので、そういう事例があっても罰金や懲役を科することは非現実であるので立件は避けることになるのではないかと思われます。裁判員バッジの存在は守秘義務の根幹を揺るがすものですから、守秘義務を済し崩しに無意味なものとしていくことを示す、サインとしての意味があるのではないかとも考えられます。
裁判員制度について知れば知るほど、無理が多くて配慮が少ないことを感じるのですが、小さなこととはいえ、裁判員バッジはその最たるものの一つです。
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冤罪・誤審・裁判員・時効
hand-cuffs
菅家利和さんの釈放でまず思ったのは、裁判員の候補者になっている方々がどう思ったかでした。「だから裁判員になるのはいやだ」と思ったか、それとも「DNAのような文明の利器があるのだから、それを信頼してやればよい」と思ったか。最初は前者が多いでしょうが、時間がたつと後者が増えてくるような気がします。官庁やマスコミもそっちの方に誘導するでしょう。
菅家さんも第一声で「警察と検事は許せない」と発言していましたが、裁判官はどうなのでしょうか? 後になると裁判官も批判していたようですが、それは解説的な記事やアナウンスの中だったので、やはりストレートに恨みたいのは警察と検事なのでしょうか。検察庁、警察庁、それに栃木県警がそれぞれ検討委員会のようなものを作るようですが、内部の者だけがメンバーというのだったら大した結論は出ないでしょう。国家公安委員長は当時としてはベストを尽くしたのだろうからと発言したそうですが、それはそういう部分もあることは確かですが、内部の者がいきなりそんなことを言ってはいけません。いや、公安委員というのは外部の者なのかな? 今の内閣の大臣がその辺をはっきり意識して発言するとも思えませんが。それでも富山の痴漢冤罪事件ではとくに検討組織を作ったとも聞きませんから、事件の大きさの他に裁判員裁判のことを意識したことが「検討」の動機になったのでしょう。
そこで裁判所ですが、とくに反省めいた発言はないようです。私が見落としたかもしれませんが、警察が誤った調査をし、検察がそれをチェックしないで裁判に持ち込んだのだから、裁判所に責任はないというのが本音だと思います。三審制という手間をかけられる制度を与えられ、再審請求で悟るチャンスもあったのにことごとく無為にしたのですから、もう少し反省してもいいと思われます。富山の事件では冤罪にかかわった刑事や検事を証人とすることを認めなかったのですから、期待するほうが無理でしょうか。あるいは、「だから裁判員制度が必要なんだ」という声が起こるのを期待しての今の態度なのかもしれません。
菅谷さんは合計で17年半囚われていたのですから、元の事件は時効になっているわけです。菅谷さん御本人のことを別とすれば、実はこれが一番問題なのではないでしょうか? 同じ時期に同じ地域に同じような事件が5件あったそうです。今から思えば警察はよく菅谷さんにそのうちの何件かを押し付けなかったものだと思います。おそらく明快なアリバイ等があったのでしょう。しかし逮捕に至った事件は菅谷さんが犯人だからというので、他の事件が同一の犯人によるものであるという見方を放棄したとさきほどのニュースで言っていました。地元では5件とも同一犯ということが根強く語られているそうですが。
冤罪の一人を逮捕して起訴したことにより、他の4件の犯人を逃してしまった。そして時効になった。これは常識で考えてもおかしな話です。少なくとも菅家さんのせいだということにした一件については、菅家さんを起訴したことによって捜査はほぼ終了したのですから、起訴の時点で時効の進行は停止していたのではないでしょうか? そして再審で無罪となった時点から、再び進行するのではないでしょうか? 犯人が「逮捕」され裁判にかけられている間は、該当事件の時効が停止しているのは当然です。
時効が再スタートするとすれば、栃木県警としては捜査本部を再設しなければなりません。こういう場合にもよく見られるように、「○○事件捜査本部」というのを墨痕淋漓と書いた紙を、所轄署あるいは栃木県警本部の玄関か入ったところに張り出すべきでしょう。刑事の個人個人には、取り調べ方法に違法がなければたしかに責任はありません。しかし警察としてはこういう形でしめしをつけるべきであると思います。
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記者会見--ものの見方について
記者会見
朝日新聞の夕刊に週1回ほど、元NHKの池上彰氏の『新聞ななめ読み』というコラムが載ります。池上氏はニュースとその背景を噛み砕いて解説するのが上手で、この欄でもなるほどと思わされることがあるのですが、5月25日の「小沢氏辞任記者会見」というのには首を傾げました。内容よりも「露呈した番記者との関係」というサブタイトルのほうが、より問題であるのかもしれません。
5月11日の民主党小沢代表の前日の辞任を受けての記者会見ですが、これを報じる読売の見出しは「『西松事件』ただす声もなく」で、本文では「西松事件による違法献金事件について、小沢氏にただす発言はまったく出なかった」とあり、民主党の不甲斐なさがよくわかる記事としています。しかし読売に民主党のだらしなさを批判できるのかというのが池上氏の意見で、Busines Media誠 によればその会見での読売記者の質問は、「辞意を決断するにいたった経緯、決断したのがいつかということを教えてください。また、今後の政治活動で『新代表を支える』ということですが、例えば総選挙対策として具体的にどのような活動をしていくおつもりなのでしょうか。」であり、小沢氏の責任を問うてはいないから、民主党を批判できるのかというものです。
一方朝日の記者は同じくBusines Media誠によれば「代表選挙についてですが、『どのような代表が望ましいのか』『現時点で意中の方はいらっしゃるか』についてうかがわせてください。また、衆議院選挙では代表自身が『自分自身の公認は最後でいい』ということでまだ公認をしていませんが、次期衆議院選挙で立候補されるのか、そして(立候補するとすれば)その選挙区はどうなるのか教えてください。」であり、やはり小沢氏を正面から追及していないとしています。
そして結論として「小沢番」の各社の記者たちは小沢氏に遠慮して責任を追及していないとしています。次に出しているのが小沢番でない日テレのキャスターの質問で、これは上記の二人の発言とは違って部分を引用していますが、「ここから先にさらに進んで離党、あるいは議員辞職ということも選択肢として考えられるのかどうかお聞かせください。」これに対しての小沢氏の発言だけが池上氏の記憶したもののようで、「あなたどこだっけ、会社?」。Busines Media誠にはこれはなく、「なぜ離党、議員辞職しなきゃいけないんですか?」となっています。
そして最後に小沢番でない人の真正面からの質問に小沢氏が腹を立てているのがわかり、小沢氏と小沢番記者たちのふだんの関係が思わず露呈した瞬間だったと結んでいます。
日テレのキャスターの発言に対する評価がブログで見かけるそれとは相当違うこところを見ると、いくらか冷静沈着に見える池上さんでもこうなのかと失望を覚えます。この結びが「露呈した番記者との関係」というサブタイトルとあいまって小沢氏の傲岸不遜のイメージをいやが上にも強めていることを考えると、池上氏のふだんのトーンとあいまって、失望ではすまないかもしれません。
惜しまれるのは、政権交代後は記者会見の出席者をいわゆる記者クラブに限ることはしないという言質を、ジャーナリストの上杉隆氏が小沢氏本人から得ていることが、池上氏の念頭になかったらしいことです。もしあったのであれば、小沢氏の傲岸不遜ぶりはその通りとしても、ことは政治家と番記者の矮小な人間関係というより、記者クラブに情報を独占させようとする構造こそが問題なのであることに、池上氏は当然気づいて上のような論旨展開とはならなかったでしょう。もっとも、小沢氏と番記者というようにまとめてあり、自公政権の誰彼の場合にそういうケースがあることには触れていませんから。池上氏もやはり大マスコミの一員であるのかもしれませんが。
記者クラブについての上杉氏と小沢氏のやり取り は次の通りです。
上杉「政権交代が実現したら記者クラブを開放し(続け)て首相官邸に入るのか。(それともこれまでの自民党政権のように、記者クラブをクローズにしたままにするのか)〉」
小沢 「私は政治も行政も経済社会も日本はもっとオープンな社会にならなくてはいけない。ディスクロージャー。横文字、カタカナを使えばそういうことですが、それが大事だと思っております。これは自民党の幹事長をしていたとき以来、どなたとでもお話をしますということを言ってきた思いもございます。そしてまた、それ以降も特に制限は全くしておりません。どなたでも会見にはおいでくださいということを申し上げております。この考えは変わりません」
(以下上杉氏の文)これによって、民主党は、正式に記者クラブの開放を宣言したことになる。少なくとも、小沢代表の言質は取った。民主党が2002年に記者会見を開放して7年、ようやく世間にも周知されたことだろう。
なお、この後に上杉氏が書いていますが、「とはいえ、産経新聞のウェブ版以外は、全記者クラブメディアがこの日の筆者の質問と小沢代表の回答を黙殺している」とのことで、これでもって池上氏は免罪されるのかもしれません。
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裁判員制度への疑問(5)「平易な言葉」は可能か?
jargon
裁判員裁判における裁判員選任と公判と評議の過程で、最高裁が手話通訳を解しない聴覚障害者のためにどういう手段を用いるかは、実施の直前になってもなお判然としません。裁判所で裁判のために用いられるのは言うまでもなく日本語ですが、法律畑で使用される言葉が難解であるのはよく知られています。手話通訳については法廷用語の手話化 が試みられており、それを模擬裁判で用いて検証するという機会 も与えられています。ところが手話を解しない聴覚障害者のための筆記者に対する研修については、裁判所に要請をしても必要なしと拒否されています。
「裁判員裁判では理解しやすいよう平易な言葉を用いた分かりやすい審理が行われ、専門的な法律用語がことさらに用いられることはなくなる」とか、「要約筆記者が裁判に立ち会った場合、裁判所や訴訟当事者は、適切に要約筆記が行われ、聴覚障害者の方が裁判の内容をきちんと理解できるように、明瞭でわかりやすい表現を用いるようにすることになると思われる」というのが最高裁側の論理であるようですが、専門家が「平易」であるとした言葉が実は平易ではなかったという経験をした方は多いでしょうし、また後の方は最高裁の判断、つまり障害当事者抜きの判断ですから、模擬裁判を行っていない以上そのまま受け取ることができません。さらに法廷で発言するのは裁判官弁護士検事の法曹三者のみではありません。被告や証人も発言するのであり、そこで「平易」な言葉を強制するわけにはいかないでしょう。最高裁はこの指摘に対しては答えていないようで、ひどく鈍感な部分もあるようです。
そもそも裁判に用いられる用語とその体系は一世紀以上の歴史を経たものであるので、裁判員法成立以降のたかだか5年間で急速に「平易」になるものでしょうか。私は法律には素人ですが、そんなことが簡単に起こりうるとは思えません。日常生活で使われぬ言葉が使われ、また日常生活で使われる言葉であっても特殊な読みが用いられるのは、単なる習慣であることも多いでしょうが、それなりに意味のあることも少なくないと思われます。それらを一斉に「平易」に言い換えるというのは、これまでの法廷用語のシステムを崩す危険を考えねばならないことだと思います。最高裁の言うことはあまりにも安直で、司法の最高機関だとは思えません。
早い話が、裁判員裁判の対象は死刑や無期懲役の判決の可能性がある重罪に限られるので、そのような裁判にのみ「平易」な言葉が使われ、他の刑事裁判では元のままだというのでしょうか? さらに民事裁判ではどうなるのでしょうか? 今後刑事が専門の裁判官や弁護士と、民事が専門のそれとは違った語彙で話すことになるのでしょうか? 税や金融や証券にからんだ裁判の場合も「平易」な言葉で行うのであれば、そのために使われるエネルギーは膨大なものになると思われます。このままでは裁判所の中で異なった系統の言語が話されることになるかもしれません。日本の裁判所の中に複数のバベルの塔が建つのです。
多分言葉の「平易化」はすべての裁判で行われるのだと思います。とすれば問題は元にもどり、たかだか5年間では無理ではないかということになります。
以上は裁判員裁判には無理がある、素人が考えても無理があるということの一つの例にすぎません。法廷用語の平易化が必要であることはよく理解できますが、それを拙速におこなうことは日本の裁判を荒廃させるのではないかということが言いたいのです。
今回は筆記による模擬裁判がないのはおろか、筆記通訳のための用語の研修すらないというのが主眼のつもりでしたが、考えてみると用語の「平易化」そのものにも疑問があるので、いささかまとまりのないものになりました。ともあれ裁判員法の付則第三条は「環境整備」として、「国は、裁判員の参加する刑事裁判の制度を円滑に運用するためには、国民がより容易に裁判員として裁判に参加することができるようにすることが不可欠であることにかんがみ、そのために必要な環境の整備に努めなければならない。 」と規定しています。最高裁以下がその環境の整備に努めているどころか、実施後の混乱が目に見えるので、私は21日の実施に反対します。
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裁判員制度に対する疑問(4)ネグレクトの危惧
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5月21日から裁判員制度が始まります。裁判員法中の障害者に係わる欠格条項で「裁判員となることができない」とするものは、第14条3項の「心身の故障のため裁判員の職務の遂行に著しい支障がある者」であり、障害をもつというだけでは裁判員から除外されることはないと最高裁も再三言明しています。
裁判員法の是非はここでは触れませんが、この法律は経済法や行政法とは違って目先の事態の調整を目的とするものではなく、理念的なものであると思われます。従って適用は平等を旨とすべきであり、障害者に対しても可能な配慮を尽くした上で施行されるべきもので、参加の意思のある者を除外するような措置は取るべきでないのは言うまでもありません。(一方で辞退を望む者には辞退を認めるべきであると思いますが、それは制度自体の本質にかかわることであるのでここでは別の問題とします)。
注目すべきは最高裁事務総局刑事局付の判事である小野寺明氏が『ノーマライゼーション』誌08年12月号の特集「障害者と裁判員制度の課題」の中で、「あくまで個別の判断ですが、障害者の方が障害のあることを理由に裁判員の辞退の申し立てをされた場合は、基本的に事態を認めることになると考えています。」と述べていることです。これを見ると個々の裁判所で裁判員候補から裁判員を選任する過程での裁判長の考え方によっては、障害者の多くが辞退という方向にもっていかれる危惧を感じないわけにはいきません。
私は中途失聴の聴覚障害者であるので、その立場から知りえた情報によりますと、まずくじによって選ばれた裁判員候補は、疑問があればそのために設立されたコールセンター に問い合わせることが可能なのですが、その手段が電話のみであり、聴覚障害者には多くの場合問合せの道をふさがれています。また某県で候補とされた聴覚障害者が連絡のためのファクスの番号を地裁に尋ねたところ、知らせるのを拒否されたというケースもあるということです。何らかの手段で連絡を可能にする余地はまだ実施前にもあるはずですが、これらについて最高裁は次年度からの検討課題であるとしています。
また裁判の本番では「聴覚障害者には手話通訳と要約筆記で対応する」ということが最高裁の見解として繰り返されています。手話通訳による模擬裁判は何回も行われ、ある程度の検討も行われてマニュアルのようなものが作られているということです。しかし要約筆記等の筆記による模擬裁判は行われていません。当初から予定していなかったふしもあります。また補聴器を併用する聴覚障害者は多いのですが、その有効利用のための磁気ループなどの補聴システムの配置については、裁判所側は知識を持たかったようです。手話を十分に使用できるのは聴覚障害者の2割程度だと言われていますが、この状態ではその他の8割はネグレクトされているというべきでしょう。
検察審査会法というものがあり、やはりくじで選ばれるのですが、以前は視覚障害および聴覚障害を絶対的欠格としていました。2000年の改正でその規定は削除されましたが、これは医師法等の欠格条項の緩和に先立つものであり、裁判員法の内容を審議した司法制度改革審議会でもしばしば引用されています。ところが2006年12月11日の読売新聞 によれば、2000年4月からその時点までに聴覚障害者で審査員に選ばれた聴覚障害者は全国で合計9人ということです。最高裁事務総局刑事局の検察審査会係に封書を送って確認したところ、この期間に審査員として9人、補充員として4人が選ばれ、審査員の9人のうち手話を利用したのが6名、筆記を利用したのが3名ということでした。
当時検察審査会は全国に約200ヶ所。審査員は任期半年の者が各11名、すなわち各審査会ごとに22名で、1年あたりの全国合計は約4400名。これに昨年の全国有権者数と厚生労働省の障害者統計 を勘案しますと、年間の聴覚障害者である審査員数は14名前後となります。くじで選ばれた者としますと、法改正の2000年以降7年間の合計として9名というのはいかにも過少です。
この過少である理由と、手話を使用した者の比率が聴覚障害者の現実と齟齬がある理由についてさらに検察審査会係に問い合わせたのですが、理由は不明ということでした。何らかの理由がないとは思われませんが。裁判員に関しても要約筆記者の数そのものが少ないということもあり、コミュニケーション能力の欠損を言い立てて陰に陽に辞退を勧めたというような事態が考えられます。下手をすると隠れた欠格条項が誕生することになりかねません。このような事態への防止装置の一つとして、毎年裁判員となった障害者の人数を公表するということが考えられます。上記のように検察審議会については類似の統計があるので、裁判員制度についてもできない理由はないでしょう。なお第36条に「理由を示さない不選任の請求」というのがあり、検察側弁護側それぞれ4人まで理由を示さず不選任の決定を請求できるのですが、この制度で不選任となった者にも障害があることが判明しておれば、上記の人数に加えるべきでしょう。
裁判員法ではさまざまな場面で守秘義務が存在し、罰則も規定されていますが、最高裁からの情報として、「裁判員候補者には守秘義務はないので、裁判員候補者が選任手続において裁判長からどのような質問をされたかということを当該裁判員候補者自身の判断で公表することは、守秘義務違反の問題にはならない」ということです。障害者団体自身もこのことを明らかにして、候補者となった障害者から具体的情報を集める方針を立てるべきであると思います。新しい法や制度が作られるたびに、欠格条項に類したものが生まれるのは、もういい加減にしてほしいと思います。当初から障害当事者の意見を十分に聞くということをすれば、それは防げるはずです。
☆不平等 かかえて裁判 発足か
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裁判員制度に対する疑問(3)模擬裁判の成果と欠落
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≪「模擬裁判での工夫例」の部分を若干改訂しました。≫
裁判員制度実施を控えて、最高裁は1月中旬にこれまで約550回行った模擬裁判の報告書をまとめました。『模擬裁判の成果と課題』というものですが、最高裁の裁判員制度サイトでも触れていないので、部内資料のようなものかと思っていました。ところが日本の主要な法律専門雑誌のひとつである『判例タイムズ』1287号 にほぼ全文が掲載されましたので、私なりの視点からここで取り上げます。
この報告書の分量はB5版の雑誌で55頁。目次を見ると48項目になります。全体の構成を記すと、
第1 裁判員裁判における公判前整理手続,審理,評議及び判決の在り方について
1 公判前整理手続の在り方
2 審理の在り方
*(12) 障害者が裁判員として参加する場合の審理の在り方
3 評議の在り方
4 判決の在り方
5 その他
第2 裁判員等選任手続の運用の在り方について
1 辞退事由の判断の在り方について
2 選任手続期日における質問手続の運用の在り方について
3 その他
*(2) 障害者対応
です。以上が大項目と中項目ですが、雑誌ではこの下の小項目ともいうべきところまで出ています。そのうち障害者関連を含むのが*をつけた小項目ですが、多くには細項目がついていて、2の(12)には、
ア 視覚障害者(点字翻訳を解する者)が参加した場合
イ 聴覚障害者(手話通訳者を解する者)が参加した場合
ウ その他の工夫例
とあります。これを見ると視覚障害者に「(点字翻訳を解する者)」と注記し、聴覚障害者には「(手話通訳者を解する者)」と注記してあります。これを見た人の中には、最高裁も障害者にもさまざまなケースがあり、それぞれに適した対応が必要なことをようやく認識するようになったと思う人もいることでしょう。一瞬ですが、実は私もそうでした。ところが目次のどこを探してもこれらの対応項目である「視覚障害者(点字翻訳を解しない者)が参加した場合」および「聴覚障害者(手話通訳者を解しない者)が参加した場合」というのは存在しないのです。厚生労働省の『平成18年身体障害児・者実態調査結果』 によれば点字あるいは手話を主なコミュニケーション手段とする視聴覚障害者は、それぞれ2割程度とされていますので、残り8割は一切扱われていないことになります。官僚的思考で言えば、それぞれに対する模擬裁判は行われていないのであるから、それらの対しての成果や課題は存在しないことになり、したがって報告書に記述がないのは当然ということになるのでしょう。
しかしこれは新しい制度を作り、国民全部を裁判制度に組み込もうとする者の態度として是認できるものでしょうか? 最高裁はかねてからいろいろな場面で「聴覚障害者に対しては手話通訳と要約筆記で対応する」と述べていました。そこで各種のルートで筆記による模擬裁判を行うよう要請したのですが、最高裁はことごとく拒否しました。その理由も、「もう時間がない」から、「検証用模擬裁判では、あらかじめ検証事項を定めて時間をかけて準備をするので、制度施行まで3ヵ月となった現段階においては、既に予定されている以上に新たな検証事項を定めて検証用模擬裁判をすることは困難だと思われます。なお、制度実施後は、実施状況を踏まえて必要な検証を行う予定です。」というのもあり、これでははじめからやる予定はなかったと解されても抗弁できないでしょう。
さらに最近では、手話通訳に加えて、従来の裁判でも経験の蓄積がある筈の外国語通訳を加えた模擬裁判まで行っているのに、筆記によるものがないのは何故かという問に対しては、「たまたま手話通訳による模擬裁判が実施できたということであって、要約筆記より手話通訳をより重視しているということではありません。外国人被告人の要外国語通訳事件の模擬裁判についても同様です」という回答でした。付け加えれば手話通訳による模擬裁判は十回を超えているはずです。最高裁によれば、10対0のアンバランスは「たまたま」によるランダムな現象であるということになります。この調子では日本の裁判に対する危惧の念を感じることになってしまいそうです。
もちろん手話通訳は必要です。法曹関係者も見慣れないものですから、模擬裁判によってなれさせる必要もあるかもしれません。一方で筆記は見慣れたものですから、聴覚障害者にとって情報保障のための大事な方法の一つであるという認識がなければ、関係者から多少のことを聞いておけば、変わったことをするわけはないからぶっつけ本番でもいいだろうということになるかもしれません。本当にそうであるか? 『成果と課題』にある記述で考えてみます。
「模擬裁判での工夫例」という細項目から例を引きます。
① 手話通訳者に対しては,事前に裁判員裁判のパンフレットを送付するなどして,刑事裁判への理解を深めてもらうとともに,裁判官との事前打合せの機会を設けて,法廷内や評議室での立ち位置等を確認した。
⇒(本来なら記載されるべき筆記担当者への工夫)
① 筆記担当者に対しては、事前に裁判員裁判のパンフレットを送付するなどして、刑事裁判への理解を深めてもらうとともに、裁判官との事前打ち合わせの機会を設けて、法廷内や評議室での位置や交代時の動線等を確認した。また事件に登場する固有名詞等の読みや用字に関する情報を提供した。
② 聴覚障害者の裁判員役が,証言台で発言する者の表情等と手話通訳を同一視野に入れることができるようにするために,証言台の延長線上に手話通訳者を配置した。
⇒(本来なら記載されるべき筆記通訳利用者への工夫)
② 聴覚障害者の裁判員役が、証言台で発言する者の表情等と筆記を表示するディスプレイおよび法廷のスクリーンを同一視野に入れることができるようにするために、適当な座席の配置とした。
③ 手話通訳者は,3名で各20分をめどに適宜交代することとし,交代を円滑に行うため,法廷内に適宜着席してもらった。
⇒(本来なら記載されるべき筆記通訳利用者への工夫)
③ 筆記担当者は,かねて取り決めた人数でこれも取り決めた時間をめどに適宜交代することとし、キーボード等を各人が持つため全員がはじめから一定の位置に着席できるようにした。それが物理的に不可能な場合は、交代を円滑に行うため動線についても考慮した。
④ 評議室においては,聴覚障害者の分かりやすさの観点から,手話通訳者には聴覚障害者の対面に着席してもらった。
⇒(本来なら記載されるべき筆記通訳利用者への工夫)
④ 評議室においては、聴覚障害者の分かりやすさの観点から、筆記担当者の一部に聴覚障害者の隣席に着席してもらった。
これ以上の説明は不要だと思われます。
☆最高裁 証拠探さず 配慮せず
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ブログがマスコミを変えているのか?
bell and tongue
朝日新聞の読者が対象だというサイト を見ていたら、掲載されている中堅どころの記者のブログが、「民主党の小沢代表が徐々に追いつめられています。」という一文で始まっていました。そこから発展して自分の心情なり意見なりに進むのならいいのですが、はじめの文を継承して民主党の低迷に筆が及び、やがて別の話題に移っています。
もともとが世相を材料に言葉遊びをするというのが主旨のブログですから、いちいち目くじらを立てるには及ばないのですが、全体として小沢氏側に非があるのはもはや自明という書き方なのが気になります。3月25日の朝日の社説のタイトルが「西松献金事件/小沢代表は身を引くべきだ」だったのには驚いたので、こういうタイトルをつける新聞社の記者だから疑問を持たないのでしょうが、首相や閣僚など公的な地位のものに辞職を勧告することがあるのは当然としても、野党の党首に辞任を促すというのは行きすぎではないでしょうか? 麻生首相が「郵政民営化には反対だった」と公言したとき、多くの人がこれでは自民党の首相である資格がないと思ったでしょうが、だから辞めろと社説に書いた例はないようです。
まあ、社説云々は新聞社のプリンシプルの問題としても、総選挙を控えたこの時期にとか、事情聴取の前にいきなり逮捕とかはスルーしてよい問題なのか。その後も検察がリークしたとしか思えないような情報を、時には一面トップでまで報じたとか、そういうことにこの記者は一片の懐疑も持たないのかと思わされました。リークらしきものの中に逮捕された秘書が自供したというのもありましたが、これは弁護士がわざわざ会見して否定しています。そのニュースは朝日の場合たしかに報道しましたが、社会面のマンガのあたりに一段見出しだったと思います。他の、直接小沢氏の「罪」に結びつくかどうかもわからないものを一面トップにしたのとは大きな開きがあります。
新聞記者というものはおしなべて素直でなく、情報については裏から横からいろいろ見方を変えて検証するものだと思っていました。いろいろな情報といろいろな考え方をつき合わせてちょっとでも真実に近づこうというしているのだと。ありあわせの情報を記事にするとどうしてもお上寄りになりますから、新聞は野党寄りでちょうどよいという言い方も出てくる所以です。新聞だったか新聞記者だったかのことを「社会の木鐸」と言いますが、調べてみると古代中国で布告するときに鳴らす鈴が鐸で、それが軍事的なものであれば鈴の舌は金属だから金鐸、行政的なものであれば舌は木製だから木鐸と称したそうです。なるほど、木製ならば歳月で朽ちることもあるのだなと得心しました。
朽ちる、腐るの他にもうひとつ考えたのは、ネットの普及が木鐸の音を鈍くさせているのではないかということです。新聞記者たるものいろんな見方が必要なことはいくらなんでも心得ているが、昨今はその方はネットに氾濫している。小沢事件に関する疑惑や懐疑も情報豊富で論理的なブログがいくつも取り上げています。ちょっと気にはなるが、自分が書かなくてもネットに出ているから良心はそれで済むということでないでしょうか? 公的情報やリークされたものを記事にしていれば、当面紙面は空かないし、自分も順調に上に行けるというものでしょう。
以上はこのところ考えていたことですが、ちょうど昨日読み始めた斉藤美奈子さんの『それってどうなの主義』 という本に、よく似たことが書いてありました。「各紙の社説が比較しやすくなったのは、朝のニュースショーで新聞を紹介するのが常態化したのと、ネットで新聞の社説が読めるようになったことが大きい。」朝日の社説が右顧左眄しているようでみっともないということから出てきた見解ですが、さすがに犀利な評論を書き続けている人だけのことはあると感服しました。
☆木鐸も ネットを頼りで 鳴り静め
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裁判員制度への疑問-2-移動と宿泊への配慮
裁判官3人+裁判員6人
今年の5月に裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(以下裁判員法) が実施されるということで、それを既定の事実とするマスコミは批判的な意見はあまり取り上げません。秋からずっと裁判員制度と聴覚障害者について個人的に啓発活動をして、弁護士や障害者団体や聴覚障害者支援者、あるいは制度に意見を言う立場の方々と情報の交換を続けていて手一杯だったのですが、ここでブログに戻って12月に書いた「裁判員制度への疑問(1)コールセンターが使えない 」を続けたいと思います。
裁判員法には「心身の故障のため裁判員の職務の遂行に著しい支障がある者」と第14条第3項の欠格事由がありますが、原則として障害をもつというだけでは裁判員から除外されることはないのが原則です。つまり裁判所は障害のある者でも裁判員の職務を行うことができるように配慮し、必要十分な便宜を提供すべきなのですが、裁判所というか法曹一般に障害者に対する認識が乏しく、任せておいたのでは結果的に障害者を除外することになりかねないのが実情です。コールセンターの例では裁判員候補にされた聴覚障害者が、裁判所に問い合わせたいことがあっても電話が使えないので方法がないというものでしたが、以下の例を見ても、裁判所も報道もすっかり障害者のことを失念しているようです。
少し古いのですが昨年11月23日の毎日新聞の記事 に、「裁判員制度を実施する全国60地裁・支部のうち約8割の49カ所で、宿泊が必要な裁判員が生まれる可能性の高いことが、毎日新聞のアンケートで分かった。〔中略〕最高裁は 裁判員裁判の7割が3日以内で終わるとしているが、多くの地域で想定以上に拘束される裁判員が出そうだ。」そして「宿泊料は実費でなく、地域によって7800円か8700円が支払われる。裁判所への移動は公共交通機関の利用が原則で、鉄道、船、飛行機は利用分の運賃、バスやタクシーの場合は1キロ当たり37円が支給される。」とあります。締めくくりは「前日から泊まる必要があると、裁判が3日で終わっても、拘束は事実上4日間になる。最高裁は『辞退を認めるかは各裁判所の判断。ただ、管内に居住する場合、法令は遠隔地というだけでは辞退理由として認めていない』としているので、この記事の主眼は裁判員は言われている3日間以上に拘束される可能性があるということのようです。
しかし裁判員が障害者の場合はどうでしょうか? もちろん障害の種類や程度にもよりますが、まず考えるのは移動に介助者が必要な場合で、二人目の旅費や宿泊費はどうなるのでしょうか? また最寄の鉄道駅に到着したとして、その先は公共交通機関が存在しても設備如何では利用できないこともあります。こういう場合にタクシー代が支給されるのでしょうか。さらには、車いす利用者などの場合、バリアフリーの設備のないところでは宿泊が困難です。加えて設備のあるところが裁判所の近隣にない場合も想像されます。裁判所はその辺の情報も把握しておく義務があるわけです。このような宿泊施設の場合、公設のところでなければ規定の宿泊料で不足はないかも考えてみるべき事項でしょう。
最後にもっとも看過されそうなことですが、聴覚障害者の場合は一人で移動するのは可能ですが、いざ宿泊となった場合、聴覚障害者のみでは災害時に危険だと断わられることが多いのです。バリアフリー施設の設置が不十分であるからですが、この事情を裁判所に話しても果たして受け入れられるか? どういう対応を示すでしょうか? だったらと辞退を勧められることはないでしょうか? ここまで考えると、一般の国民を洩れなく司法に参加させるということは、法曹関係の人々が考える以上に大変なことです。経済法や行政法であれば眼前の不合理を正すために、とりあえずの立法を行なうということも理解できますが、裁判員法はいわば理念法であり、国民の司法参加という「大義」の前でも、平等を軽視した形では実施すべきでないと思われます。
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オバマ大統領就任式をめぐる断章
Lincoln(30代後半)
(1)
空港近くの川に旅客機を不時着させて一人の死者も出さなかったという「ハドソン川の奇跡」のニュースを知って、オバマ氏の大統領就任を前にして何よりの祝砲だと感じました。大事故から免れたのですから、この連想は不謹慎ではないでしょう。就任9ヵ月後の同時多発テロがその後のブッシュ大統領を刻印付けたのに対して、「ハドソン川の奇跡」における機長の行動は、危機における指揮官の冷静さと能力の発揮というイメージを、潜在意識的にせよオバマ大統領に投影するものだと思われます。弾みというものはあると思います。それを知ってか知らずか、サレンバーガー機長は就任式に招かれていたそうです。招待客のリストは事件以前にとっくに決まっていたと思われますが、さすがというほかはありません。
(2)
オバマ大統領のミシェル夫人の余裕のある笑顔を見ていて、これまで何人かのモデルが変革しつつあった女性美の基準が、一つの頂点に達したかなと思いました。もちろんそれまでに知っていたキャリアに関する情報もあってのことだったでしょうが、彼女はたしかに知性豊かで魅力的な美人です。ただこう感じたのには、それまでにアフリカ系の女性が各界に進出して下地を作っていたということが無視できないでしょう。ところでテレビを見ていてミシェル夫人はアフリカ系にしてはやはりいくらか色が薄い。だから美人に感じるのかと、いささか後ろめたくも思いながら考えていたのですが、ヤフーニュースに掲載された『ニューズウィーク』の記事 によると、「たいていの場合、『美しい黒人女性』とは、肌の色が薄く、髪が真っすぐで、ヨーロッパ風の顔立ちである場合が多い」。しかし黒人の女性に言わせるとミシェル夫人は「雑誌やテレビ番組でミシェルを見ると、肌が黒いと思う」だそうです。基準が変わりつつあるのです。ライトを浴びていたせいもあるでしょうが、きれいに見えるのは黒さが薄いからと考えたのを、改めて反省したいと思います。
ここでかねてからの私の妄想を記しておきます。それはオバマ氏の妻が白人であったら、どうなったであろうかという妄想です。オバマ氏のように名門大学・弁護士・上院議員と駆け上った存在が、白人女性と結婚していてもそう不思議はないでしょう。しかしもしそうであれば、オバマ氏が大統領はもちろんのこと、大統領候補、いや上院議員にすらなれなかったのは確実ではないでしょうか? 白人の妻を持つセレブの黒人に反発する黒人は多いでしょうし、一方で白人の妻を持つ黒人に対する一般白人の反感というか憎悪はきわめて激しいようです。アメリカというか、世界は、もしかしたらバラクとミシェルが出会ったことを感謝しなければならないようになるのかもしれません。
(3)
就任式の前にオバマ氏がボルティモアで行なった演説に気になった個所がありました。私がもっとも信頼するブログの一つである「カナダde日本語」の訳文を拝借すると、「それは、何かというと、みんなが1人1人を認めて、ひとつになれたらという信念です。民主党も共和党も無党派も、ラテンアメリカ系もアジア系も原住民も、黒人も白人も、ゲイもストレートも、障がい者も健常者も。そうすれば、希望と機会を元どおりに回復させるだけでなく、多分、私達は、その過程で1つになることを望むかもしれないのです。」というところです。付随している原文の該当個所は次の通りです。
a belief that if we could just recognize ourselves in one another and bring everyone together - Democrats, Republicans, and Independents; Latino, Asian, and Native American; black and white, gay and straight, disabled and not - then not only would we restore hope and opportunity in places that yearned for both, but maybe, just maybe, we might perfect our union in the process.
私の注目したのは「障がい者も健常者も」という部分ですが、これの原文はdisabled and not です。"and not"を「健常者」としているわけですが、他の訳文を検索すると中日新聞 では「障害者やそうでない人たち」であり、gooニュース では「障害者も障害のない人たちも」となっていました。いずれも誤りではありませんが、実は「健常者」にあたる英語はないということになっています。normalというのはこの場合使うわけにはいかないでしょう。nondisabledという言葉が作られてはいますが、これはすべての人間は遅かれ早かれdisabledになるが、まだなっていない状態を指すといったアイロニカルなもので、「健常者」の正式の訳語ではありません。新聞などがこのことを意識したかどうかはわかりませんが。
それにしても訳文に相違があるのには不思議はありませんが、いくつか見た原文にも食い違いが少なくなかったのには少々驚きました。予定稿と実際に話されたものの相違でしょうが、今後気をつけねばならないことの一つです。それにしてもAとB、CとD、EとFとGというように畳み込むように羅列するのがオバマ氏の好みのレトリックなのでしょうか。一躍名を上げた民主党大会の演説でも用いられています。あるいは英語に元からあるレトリックなのかもしれませんが、日本にこの種のものがあまり見られないのは、雄弁というものが重んじられないせいか、あるいはレトリックの欠如が雄弁を生まなかったのか、難しいところです。
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差出人のない賀状
HappyNewYear
遅まきながら明けましておめでとうございます。このブログも5年目です。我ながら読んで楽しいものとは思えませんが、それでもわざわざ来ていただいている方々、どうもありがとうございます。
この年になって出す賀状も、いただく賀状も微増傾向なのはありがたいことですが、今年はいただいた中に差出人不明のものがありました。実はこういうのはまったくの初めてでないのですが、今年のは手が込んでいるというのか、表の宛名は郵便番号ともども正確で、差出人の郵便番号○○○0008というのも書いてありました。気になったのは裏面で、賀春、丑という字と、肥えたうしろ向きの牛にもたれた子供の絵、および新年の挨拶が上半分に印刷してあるできあいのものの下に、7行も細かな字で書いてあったことです。
この人はリウマチが寛解せず10年近いそうで、近くの神社、仏閣、海浜への散歩にも杖が必要。それでも辞めて以来の精神の解放は誠に日々好日の思い、というものです。さて、こう言われても見当がつきません。元の職場の人だとは思いますが、やはりわかりません。家内の方が詳しい教会関係の付き合いかと考えても、こちらも思い当たる人はないそうです。第一、クリスチャンが「神社仏閣」と書くかどうか。そこで具体的の唯一の手がかりである上記の郵便番号を検索してみました。東京近県の海辺の住宅都市ということはわかりましたが、それでも人の名は浮かんできません。唯一昔の課長が以前その市の住民で、今はその隣の市に住んでいるのですが、この人からは別に賀状が来ています。結局わからずじまいですが、書かれた文字はきれいですけれど、病後の文字のように震えが感じられるのはやはり気になりました。リウマチでこのようになるのかなと。
案外この賀状は、病みさらばえて前途不透明な今年の日本を象徴しているのかもしれません。
個人的には二日に家族全員が集まり、我が家風の和洋折衷のおせちをたいらげました。家族といっても二人の息子の家族と老夫婦で、2+4+4の計10人ですが、重なる重病を経てきた私にとっては、これだけの人数が一堂に会するだけでも感慨があります。妙な言い方をしますと、私のDNAを持つのが私自身を入れて7人もいるわけですから。小さい孫たちも自己責任性というか、自分たちでやっているのは助かりました。
元旦には午後に次男の運転で、家内と上の孫も同乗、家から元の勤務先あたりまで行って、そこから皇居の周囲を一周、都心から六本木のあたりを通って、名のみ喧伝されている建築物を外から見るなど、空いた道路のドライヴを楽しみました。外出というよりは乗り物の乗り降りが面倒な私にとって、乗ったままでの2時間ほどは楽ちんでした。いつも似たコースを通ることにすれば、変動があってもわかるわけで、事情が許せば毎年の慣例にしようかなと思います。パソコンで情報を発信していると、定点観測ということの重要性がよくわかりますから。
とにあれ、本年もよろしくお願いいたします。
☆新年は その日のうちに 思い出に
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