冤罪・誤審・裁判員・時効 | 回廊を行く――重複障害者の生活と意見

冤罪・誤審・裁判員・時効

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菅家利和さんの釈放でまず思ったのは、裁判員の候補者になっている方々がどう思ったかでした。「だから裁判員になるのはいやだ」と思ったか、それとも「DNAのような文明の利器があるのだから、それを信頼してやればよい」と思ったか。最初は前者が多いでしょうが、時間がたつと後者が増えてくるような気がします。官庁やマスコミもそっちの方に誘導するでしょう。

菅家さんも第一声で「警察と検事は許せない」と発言していましたが、裁判官はどうなのでしょうか? 後になると裁判官も批判していたようですが、それは解説的な記事やアナウンスの中だったので、やはりストレートに恨みたいのは警察と検事なのでしょうか。検察庁、警察庁、それに栃木県警がそれぞれ検討委員会のようなものを作るようですが、内部の者だけがメンバーというのだったら大した結論は出ないでしょう。国家公安委員長は当時としてはベストを尽くしたのだろうからと発言したそうですが、それはそういう部分もあることは確かですが、内部の者がいきなりそんなことを言ってはいけません。いや、公安委員というのは外部の者なのかな? 今の内閣の大臣がその辺をはっきり意識して発言するとも思えませんが。それでも富山の痴漢冤罪事件ではとくに検討組織を作ったとも聞きませんから、事件の大きさの他に裁判員裁判のことを意識したことが「検討」の動機になったのでしょう。

そこで裁判所ですが、とくに反省めいた発言はないようです。私が見落としたかもしれませんが、警察が誤った調査をし、検察がそれをチェックしないで裁判に持ち込んだのだから、裁判所に責任はないというのが本音だと思います。三審制という手間をかけられる制度を与えられ、再審請求で悟るチャンスもあったのにことごとく無為にしたのですから、もう少し反省してもいいと思われます。富山の事件では冤罪にかかわった刑事や検事を証人とすることを認めなかったのですから、期待するほうが無理でしょうか。
あるいは、「だから裁判員制度が必要なんだ」という声が起こるのを期待しての今の態度なのかもしれません。

菅谷さんは合計で17年半囚われていたのですから、元の事件は時効になっているわけです。菅谷さん御本人のことを別とすれば、実はこれが一番問題なのではないでしょうか? 同じ時期に同じ地域に同じような事件が5件あったそうです。今から思えば警察はよく菅谷さんにそのうちの何件かを押し付けなかったものだと思います。おそらく明快なアリバイ等があったのでしょう。しかし逮捕に至った事件は菅谷さんが犯人だからというので、他の事件が同一の犯人によるものであるという見方を放棄したとさきほどのニュースで言っていました。地元では5件とも同一犯ということが根強く語られているそうですが。

冤罪の一人を逮捕して起訴したことにより、他の4件の犯人を逃してしまった。そして時効になった。これは常識で考えてもおかしな話です。少なくとも菅家さんのせいだということにした一件については、菅家さんを起訴したことによって捜査はほぼ終了したのですから、起訴の時点で時効の進行は停止していたのではないでしょうか? そして再審で無罪となった時点から、再び進行するのではないでしょうか? 犯人が「逮捕」され裁判にかけられている間は、該当事件の時効が停止しているのは当然です。

時効が再スタートするとすれば、栃木県警としては捜査本部を再設しなければなりません。こういう場合にもよく見られるように、「○○事件捜査本部」というのを墨痕淋漓と書いた紙を、所轄署あるいは栃木県警本部の玄関か入ったところに張り出すべきでしょう。刑事の個人個人には、取り調べ方法に違法がなければたしかに責任はありません。しかし警察としてはこういう形でしめしをつけるべきであると思います。

☆裁判員 当分無罪を 言いやすい


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