さて、ドイツ・ヴィッテンベルクの町の中心、マルクト広場にやってきたわけですが、
広場を取り巻く家並みのひとつ奥側に双子の塔の立ち上る姿が見えましたので、立ち寄ってみることに。
ヴィッテンベルクの市教会(Stadtkirche St. Marien zu Wittenberg)であるということで。
歴史は古く、1187年には建っていたことが記録に残っているらしいですが、
最も古い部分は1280年に建てられたそうな。それをもって、ヴィッテンベルクでは最古の建物とされるようです。
とまれ、教会の堂内に入ってみますけれど、これがなんともさっぱりした印象で。
プロテスタントであるからということはあるにしても、歴史ある建物であることが全く感じられないといいますか。
まあ、後付けの知恵にしても、ここでまた、ルター、メランヒトンに加えて
第三のヴィッテンベルク大学教授の名前を出すことにいたしましょう。
アンドレアス・ルドルフ・ボーデンシュタインという人物、カールシュタットという名で呼ばれることもあるようです。
キリスト教を改革せんならんと思っていたのはルターばかりではないわけですが、
その進むべき方向性にはにさまざまな考え方があった中、カールシュタットは聖像の排除を主張していたようで、
1522年、ルターがヴァルトブルク城に滞在している頃にこの教会内部を飾っていたものはことごとく撤去されてしまったと。
(この手の活動はオランダあたりで激しかったとは思っていましたが、ルターのおひざ元でもあったことなのですなあ)
これを聞きつけたルターは(帝国追放で姿を見せてはいけないところを)ヴィッテンベルクに現れて、
運動の先鋭化に警鐘を鳴らす説教をしたということでありますよ。
現在、内陣に飾られている祭壇画はクラーナハ父子と工房による1547~48年の作。
主題は宗教改革とのことですから、すっからかんになった会堂内を飾るにふさわしいものをと
クラーナハを依頼されたのでありましょうかね。
ちなみに祭壇画の中央上部、一番大きな面は最後の晩餐かとも思える図像ながら、
立っている人物も含める合計14人が描かれているのですよね。
右端のグラスの受け渡しをしているふたり、座っている方がルターで立っている方がクラーナハ当人であるとか。
絵の主題が宗教改革とあっては、いずれ劣らぬ立役者であるということなのかもしれません。
ところで、堂内にはかようなものもありましたなあ。
墓碑と思われるわけですが、床に記されたグスタフ2世アドルフとあります。
グスタフという名はスウェーデン王家にたくさん出てくる名前でして、
今の王様、カール16世の先代がグスタフ6世アドルフですけれど、
その300年以上も前のスウェーデン国王の名が何故にヴィッテンベルクに?とは言うまでなく、
三十年戦争との関係でありましょうなあ、きっと。
1618年から30年間にわたって続いた大戦争は、プロテスタント側とカトリック側とに分かれた宗教戦争として知られるも、
長い戦いの中ではいくつかのフェーズがあるわけでして、当時バルト海周辺に覇を唱えたスウェーデンのグスタフ・アドルフ王が
神聖ローマ帝国の北方進出を危ぶんで、帝国の敵側、つまりプロテスタント側に立って参戦したという局面がありますね。
スウェーデン軍は相当に強かったようですけれど、ボヘミア(つまりは帝国側ですな)の傭兵隊長ヴァレンシュタインの軍と
ライプツィヒ郊外・リュッツェンでの戦いでは敗北を喫し、グスタフ・アドルフ王も戦死してしまったと。
グスタフ・アドルフ王の参戦は北方の広大な領土を守るためという実利的な側面があったにせよ、
プロテスタント側の旗頭とも見られていましたから、ルターゆかりのヴィッテンベルクの教会にこうした墓碑があるのでは…、
とそんなふうに想像したのですけれど、いかがでありましょうや。
ちなみにシラーは、むしろヴァレンシュタインを取り上げて三部作まで書いていますので、
物語の主人公にするには王様よりも傭兵隊長の方が魅力的に思えたのかもしれませんですなあ。
と、話がいささか膨らみかけたところで、お次はルーカス・クラーナハゆかりの場所を訪ねることにいたします。