さてと少しばかり、先日両親と出かけてまいりました秩父、長瀞周辺のお話でありますが、
差し当たりまず訪ねたのが秩父神社でありまして。
そういえば御朱印帳を持っていたのだった…と母親が思い出したものですから、
どうせならば御朱印の頂戴できるところにも立ち寄るかということになったという次第。
かといって秩父札所34カ所を巡るほどに体力・気力もないもので、
(もっとも体力・気力があったところで全部回るには相当の日数が必要で)
そういうことで秩父神社には失礼ながら、「差し当たり」「取り敢えず」訪ねたのでありました。
秩父には何度か来ていますのでこちらともニアミス的な遭遇はしているわけですながら、
ちゃあんと向き合うのは初めて。そこで改めてご由緒なども。
なんでも平安初期の典籍によりますと、崇神天皇の御代、
関東に武蔵国が成立する以前に栄えたという知知夫国に創建されたと。
西暦で考えれば紀元前の話になり、すでに鎮座2100年を超えるとは
実にすごいことなわけですけれど、言い伝えですからねえ。
それでも知知夫(秩父)が相当に昔から人の活動する場所であったことは窺えますな。
かような長い由緒のある秩父神社ですけれど、
永禄十二年(1569年)、今川・北条と戦う武田信玄の軍勢により火を掛けられ、
それまでの古い社殿は灰燼に帰したそうな。
現在に至る本殿は天正二十年(1592年)、関東に移されていた徳川家康の寄進により
建造されたということで。東照宮と同じく権現造りであるのはそうした関係でありましょうか。
例によって本殿の前後左右は彩色のほどこされた彫り物で飾られていますけれど、
四方を守護するのが青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北)とはよく聞くところながら
こちらのお社はちと異なっておるのですなあ。
まずもって龍の彫り物は東というより北東面にありまして、
いわゆる丑寅の方角、要するに鬼門封じになっているのですなあ。
「つなぎの龍」(よく見ると鎖でつながれている)と呼ばれるこの青龍は
左甚五郎の作と言われているそうですけれど、落語や講談では
甚五郎先生、あちこちの宿屋にふらりと現れては支払い代わりに彫り物を残して去っていく。
なんだかどこへ行っても甚五郎先生の作に行き当たるような気もします。
それはともかく、残念ながらこの青龍は社殿修復の一環で取り外されており、
上の写真は現場の仮囲いにあった写真を撮ったものですので悪しからず。
ところで本殿の他の面ですけれど、東(北東)の青龍はいいとして、
本来は西にいると思しき虎が南面にいるのですよねえ。
これまた左甚五郎の作と伝わるものですが、「子宝子育ての虎」とは何とも微笑ましい。
子虎と戯れる母虎の姿ということながら、母虎はいかにも虎らしい縞の模様ではなくして
言ってみれば豹柄なのですなあ。
甚五郎先生の生きた江戸初期頃までは豹がメスの虎そのものだと考えられていたと。
その証左がここにも見ることができるということですな。
「豹」を「彪」とも書くのは、虎との混同の故でしょうか。
と、虎が南面を占めているとなると、西面に何がいるかと見てみれば何と猿。
もっともEテレ「趣味どきっ! 京都・江戸 魔界めぐり」の第1回で
都の鬼門を守っているのが「猿」であると紹介していましたですものね。
語呂として魔や災いが「さる」として使われているのでしょうけれど、
ここの猿がまた愛嬌たっぷりといいますか。
一般に「三猿」と言えば「見ざる・聞かざる・言わざる」となるわけですが、
秩父神社の三匹は「見る・聞く・話す」の姿をしていて
「お元気三猿」と呼びならわされているとか。珍しい例なのだそうですよ。
そして最後に北面、本来は朱雀で伝説上の鳥のはずながら、ここでは梟でありました。
「北辰の梟」と呼ばれているようです。
体の部分は背を向けているも、頭は正面を向いている。
つまり、頭のめぐりが良いとして「知恵のシンボル」となっているとのことですけれど、
西洋の「ミネルバのフクロウ」も同じようなことが理由になっているのですかね…。
と、本殿から境内を振り返りますと、
大木ではないながら繁茂しているイチョウの木がありまして、
昭和8年(1933年)、秩父宮妃のお手植えであるとか。
皇族が植えたから珍しいというのではありませんで、実はこのイチョウ、
近付いてみるとこのような姿をしておるのでありますよ。
「乳銀杏」と呼ばれるこの変わったイチョウは他の土地でも見られるようですが、
特にこういう種類というわけでなく、イチョウにはやおら変種が現れたりするようです。
イチョウの木というのは古代からの生き残りであるだけに、
特殊な環境変化に対応して変種が生じるという古代種ならではパワーが秘められている。
そうなると創建2100年の秩父神社以上に「ほお~」となってしまいそうな気も。
ま、そんなこんなの秩父神社詣でなのでありました。