ということで、あれこれ見てまいった上州高崎。
最後に少々の落穂拾いをしておきたいと思うのでありまして。
アントニン・レーモンドが設計した群馬音楽センター
のところで触れましたように、
高崎は地方都市としてはいち早くプロのオーケストラを持った土地柄であって、
そこここで楽都らしさを醸してもいるようですね。
高崎駅からペデストリアンデッキに出るところにはこのような飾りがありましたし、
駅前大通りから引き続き市役所、そして群馬音楽センターへと続く道は
シンフォニーロードと名付けられ、こんなオブジェもどっかりと。
「ハープの泉」と呼ばれる、この古代ハープの形を組み合わせたモニュメントからは
音楽が流れて出ているそうな(そうとは知らず、近寄ってない…)。
また、群馬音楽センター正面入口前には何ともユニークなことに
コントラバスを象った公衆電話ボックスがあったりもするという。
これ以外に音楽関係ばかりでないオブジェもそこここにあるようですが、
ひとつ目だっていたのが市役所前にあった「将軍の孫」(1918年)という彫像でしょうか。
長崎の平和祈念像を作った彫刻家の北村西望の作品ですけれど、
日露戦争で戦死した軍人の像を制作している折、制作のために送られてきていた軍帽を被り、
軍靴を履いて敬礼してみせるといういたずらをしていた作家の長男がモデルとのこと。
つまりは「将軍の孫」というのも御愛嬌なのではと思いますが、
ともかく時代として今のようなやたらに「かわいい」という文化は無かったと思われるも、
そこには狙わずして醸し出される愛らしさの故か、
結構いろんなところにこの同じ像が設置されているようですね。
ついこの間、八王子でも見かけましたし。
ところで、こちらは学校の古い校舎のように見えませんでしょうか。
狩野探雲
による天井画のある長松寺の門前にかような建物が建てられておりまして、
「なんだぁ?」と思うとこれが、「子守学校」との説明板が。
名称からすると、子守の方法を教える学校でもあろうかと思えてくるところながら、
実は家が貧しく子守に雇われることで家計を助け、
そのために学校に通えないでいた12~13歳の少女たちのために
開かれた学校で、明治36年(1902年)以来40年余りにわたり、
3,000人がここで学んだのだそうでありますよ。
と、最後の最後に観音塚古墳
とは別の古墳を。
少林山達磨寺
のいちばん高い地点あたりにある少林山2号古墳というものです。
どうやら達磨寺を抱える裏山には古墳がわんさとあるようですが、これのユニークなところは
石室の奥の壁面に線描のお地蔵さまが見つかったことという。
素朴な絵で棟方志功が彫ったかにも見えますが(?)、
古墳の成立が6世紀中頃とされるのに対して、絵の方は室町時代のものであるらしい。
室町時代の人が石室の空間に神秘なものを感じて
地蔵菩薩に願掛けする場所としたのかもしれませんですね。
ということで思った以上にいろんなことを知ることになった上州高崎紀行は
全巻の読み終わりにございます。
そうそう、今回は高崎からの帰りに八高線で帰ってきたのでありますよ。
かつては富岡製糸場の生糸を八王子
へ、そして横浜線につないで横浜
へと運ぶのに
活躍したものと思いますが、今ではワンマン運転の気動車が走るのみ。
これもまた歴史でありますねえ。