毎年のことですけれど、8月は戦争に思いを馳せる月とも言えましょうか。先の戦争が終結して80年とは、当時を記憶する人はかなり少なくなってきているのでは。「新しい戦前」という言葉を生んだタモリでさえ、80年前の生まれなわけで。
ただ、戦争の記憶にまつわるTV番組が増えるのも毎年のことですなあ。先日もNHKで『映像の世紀 高精細スペシャル』という3回続きの番組がありまして、これはもっぱら欧州大戦の話ではあるも、テヘラン会談の駆け引きなどを思えば、世界大戦の一翼に日本があってしまったことを思わずにはおれないわけですね。
英米をはじめ連合国軍はナチスに欧州大陸から押い出されたままになっており、正面切って独軍と対峙しているのはソ連軍だけではないかと不平を募らすスターリン、欧州大陸への再上陸に気乗りせず独ソの消耗戦をむしろ望ましいとみているチャーチル、一方で対日戦にソ連を引き込みたいルーズベルトはチャーチルをなだめて大陸への再上陸を約束するといった駆け引きには、日本軍の存在が影を落としているわけで。
これによって、後のノルマンディー上陸作戦は実行に移されることになりますが、先の番組の中では連合国軍最高司令官のアイゼンハワーがこの作戦展開に際して「5万人の兵員の犠牲」を覚悟していたてなことが紹介されていたような。
5つの上陸地点でそれぞれ被害の軽重はあるも、結果として想定を遥かに下回る損害(2000人とか…)で済んだことが伝わるわけですが、5万人とか2千人とか、これった単なる数字ではない、人の命であるのになあと思ったものです。
これに加え、上陸に先立って連合国軍は海岸近辺の村や町に爆撃を繰り返したのであるとも。上陸地点を独軍から推測されないように、ノルマンディー地方から離れた地点まで含めて空爆し、その被害は民間人にも及んだというのですね。
それが戦争だから…と言えばその通りなのでしょうけれど、そういうものであるとするならば、どう考えてもやってはいけないことだろうと思わずにはいられない。人の命を単に数として、平然と見積もったりする状況があっていいはずもないですよね。
とまあ、そんな今さらわざわざ口に出して言うこともないこと(それでいて、タモリをして「新しい戦前」と言わしめる空気は確かにあり…)ではありますが、そうした折も折、『オペレーション・ミンスミート ナチを欺いた死体』という映画を見たのでありますよ。
話は、ノルマンディー上陸作戦に先立つシチリア上陸の前夜、やはり上陸地点をナチに気取られたくない英国側では「ミンスミート作戦」を立案実行したという史実に基づく内容でありました。
…「オペレーション・ミンスミート」と命名されたその作戦は、「イギリス軍がギリシャ上陸を計画している」という偽造文書を持たせた死体を地中海に流し、ヒトラーを騙し討ちにするというものだった。(映画.comの解説・あらすじより)
この作戦のことは戦後長らく秘匿されたということでして、その理由のひとつには死体を利用したということにもありましょうかね。もはや生きてはいないにもせよ、他の生き物と異なって「死」にも尊厳を意識するのが人間でしょうから。
映画の中でも、身元不明として作戦に利用(?)されることになった遺体を巡って、作戦決行目前に現れた近親者に対して、遺体がどうされるのかも伝えられないことに、実行側にもいささかの逡巡が見られたような。それも、戦争に勝つため、御国のためといったような理屈で抑え込まれるのですけれど。
そのことには見ている側としても砂を噛むようなじゃりっと感が残るわけでして、それはやはり人の死を特別なものとして受け止める(くどいですが他の生物ににありませんですね)人間だからということがありましょう。
死者に対してさえそうなのですから、ましてや生きている一人一人を単に数として見るような(その状況下においてそれを仕方がないとさせてしまうような)戦争という状況は、それにどんな大義を被せようともあってはならないことですし、準備をすること自体にも危うさはあろうかと。
かようなことは長年の平和ボケ以外の何物でもないと見る向きもありましょうけれど、ボケるくらいに平和であったのであれば、それに越したことはないわけで、それが長く続くことこそを考えたいものではなかろうかと思ったりしておりますよ。