八王子の美術館に行こうとして、ついでだからもそっと立ち寄りどころはないかしらん…と

ふと八王子市郷土資料館のHPを見たところ、コーナー展として(つうことは、極めて小規模な)

「八王子と鉄道」なる展示をやっておると。


個人的にはさほどに鉄分豊富な方でもないですが、

歴史的なところには興味もあり、覗いてみたのでありますよ。


元来、入場無料ですので、入場券の類いは無い資料館ながら、

今回ばかりはこのようなものが配られた(実際にはまず整理券を貰い、後から引き換え)のですな。


郷土資料館限定記念きっぷ


コーナー展関連イベント「郷土資料館限定記念きっぷ」というもの。

かつて鉄道の切符では当たり前であった硬券を模して、

資料館の方がせっせと作られたのですかね、もしかして。


実際の硬券の方がもそっと存在感のある硬さだったなと思うと、

むしろ子供が鉄道ごっこするときのおもちゃの切符を思い出させる気がして、

「子供はいいけど、大人はいくら鉄分があっても喜ぶまでには至るまい」と。


ですが、イベントは切符が配布されただけにとどまらず、

本当に国鉄(この場合、JRより馴染む)で使われていたらしい改札鋏で切符切りができ、

しかも刻印機で日付を入れることができるという「体験型イベント」なのでありました。


成果のほどは上の写真のとおり。

左側に当日の日付が刻印されておる(自分でやりました)。

下側やや右寄りには入鋏の跡がある(自分でやりました)。

こうしたところは、もしかして鉄道マニアの中には胸の高鳴ってしまう方がおられるのかも。

(なんだか自分も「隠れ鉄」なのか?…と思えてくるような)


ちなみにですが、改札鋏による切り取り跡の形状は30種類くらいあるそうで。

さすがにひと駅ごとに違った形とまでしていなかったようで、

八王子駅で使われていたのは「22番」(その切り取り跡が上のような形)とのこと。

近くの駅では原町田(現・町田)や分倍河原で、22番が使われていたということでありますよ。


というところで展示の方ですが、ここで知りえた歴史絡みのお話をしますと、

八王子に鉄道(当時は当然に蒸気機関車ですが)がやってきたのは、

明治22年(1889年)8月11日のことであったそうな。


鉄路を敷いたのは国ではなくって、甲州財閥 とも関わってくる甲武鉄道。

まずは新宿・八王子間(今はそのままJR中央線)で開通し、

所要1時間14分で1日4往復していた…と聞くと、隔世の感ありですなあ。


ちなみにその頃の鉄道運賃ですが、そうそう乗れたものではなかったろうなと。

解説にあったのは新橋・横浜間の運賃ですけれど、

3等級に分かれておりまして、上等:1円12銭5厘、中等:75銭、下等:37銭5厘。


これを米価を基準に現在の金額に換算してみると、

上からおよそ15,000円、10,000円、5,000円となるそうですから、高い高い。

今なら東京・新横浜間をのぞみで移動しても、運賃・特急料金合わせて2960円ですものね。

おいそれと乗れる乗り物でないことからすると、豪華客船並みとでもいいますか。


とまれ、そうした高嶺の花的な鉄道ではあっても、物流には圧倒的な威力を発揮するところから

交通の要衝であった八王子は次々と発着路線が増えていったという。


官営鉄道として中央線(八王子・名古屋間)、八高線、

私設鉄道では横浜鉄道(現・横浜線)、玉南電気鉄道(現・京王電鉄)、

そして武蔵中央電気鉄道(今はなき八王子市内の路面電車)などなど。


ここで肝心な点のひとつは八高線と横浜鉄道でしょうか。

絹の産地(富岡製糸場)と貿易港(横浜)をつなぐことになるわけですから。


もっともそもそも八王子からして桑都との別名があるごとく、養蚕業、織物業の地場ですし、

一方で中央線経由で山梨からも同様に入ってきたものが八王子に集積され、神奈川の港へ。

鉄道開通以前から荷駄が通った「絹の道」と呼ばれる道があったのですものねえ。


こうした鉄道建設ラッシュで必要になったのが、関連構築物を造るための煉瓦でして、

明治20年には多摩地域では初めての煉瓦工場が(八王子市のお隣)日野に設立されたそうな。

日野市民会館に「ひの煉瓦ホール」という名前が付いているのは、

その外観によるのでなく、こうした歴史的背景があったのですなあ。

(もっとも日野の煉瓦工場は明治23年には廃業という短い運命であったようですが…)


と、いささか唐突ながら、最近では外国人も大注目しているらしい高尾山の、

JRではお膝元となる高尾駅のことを(本当の最寄りは、京王線の高尾山口駅)。


JR中央線の都内の駅は線路がほぼ高架化されたことにもより、

どこもおんなじような駅舎になってしまってますが、高尾駅は宮大工が関わっているのか?

といった雰囲気(もはや東京とは思えないという気も)を湛えているのですが、

これには言われがあったのですな。


大正天皇大喪の折、御稜を高尾駅(当時は浅川駅)のちと東京寄りの辺りに造営する関係で

高尾駅手前に仮駅が造られた(この駅はその後取り壊されたのでしょう)。

一方で、都心からの送り出しにあたっても新宿御苑のあたりに仮駅が造られたそうですが、

その新宿御苑仮駅の部分を移築して利用したのが高尾駅の駅舎であるということです。


なるほどそういうことで、ああした駅舎なんだね…と腑に落ちたわけですけれど、

小規模展示をちょっと覗きに行ったというわりにはずいぶんと長くなってしまいました。

いやはやローカルな話で申し訳ない限りです(笑)。


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