長松寺で狩野探雲 作品を矯めつ眇めつした後、
いろいろお世話くださった住職のお母様に「ありがとうございました」と声を掛けますと、
「忠長公の方は…?」とのお尋ねが。
「今、それをお伺いしようと思っていたところで」と返しますと、「では、こちらへ」と。
本堂を離れ、案内されました一室は「徳川忠長自刃の客殿」と伝えられているのでありました。
徳川忠長(1606-1633)は二代将軍秀忠の子、三代将軍家光の弟にあたりますけれど、
歴史ドラマでもいろいろ取り上げられている中で比較的最近のものでは、
2011年の大河ドラマ「江」の中で竹千代(後の家光)が乳母(お福、後の春日局)に育てられて、
父母を遠目に眺めやる一方、国松(後の忠長)は実の父母近くに置かれて
屈託なく育っていくようすが描かれ、後に爆発する火種は十分に仕込まれた感があったものです。
竹千代が病弱であったりもしたことから、次期将軍に国松の擁立を図る向きもあり、
結果としては兄の竹千代が三代将軍家光となっていくわけですが、
家光にとっては忠長の存在あること自体、煙たい、疎ましいてなことであったように
想像されますですね。
それでも父・秀忠の存命中の忠長は駿府城にあって
甲斐、信濃、駿河、遠江の五十五万石を領し、駿河大納言と呼ばれてもいたそうな。
ちなみに御三家と言いますと、
尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家を指しているやに思うところながら、
本来的には将軍家、尾張、紀州の三家こそが御三家であったそうですね。
尾張、紀州が大納言であるのに、水戸は中納言といささか格下。
そうした辺りから想像を巡らしますと、駿河大納言忠長の家系が続いておれば、
後に御三家とは駿府、尾張、紀州を指すことになっていたかもしれませんですなあ。
また、水戸に関していえば、
館林にあった榊原康政
を関ヶ原後に水戸へ加増転封する話があり、
康政はこれを固辞したわけですが、もしこれを受けていれば、
幕末まで続く水戸徳川家があったかどうか…。
まあ「もし」ばかりの話をしていても詮無いことですが。
話を戻して忠長ですけれど、
家光にとっては忠長が大きな勢力でいることが落ち着かなかったのでしょうか、
はたまた「忠長御乱心」は本当のことなのか、ともあれ乱行狼藉数々ありとされてを論われて、
寛永八年(1631年)甲府城に押し込められ、翌年には高崎城へと移されて幽閉生活となりました。
それでも忠長が生きておれば誰かしら担ぎ出す輩が現れるてな思いが
拭い去れないとも思えたか、家光は忠長に切腹を命じるのですなあ。
これに対して忠長は唯々諾々と腹を切るを潔しとせず、
寛永十年自刃して果てたのだそうでありますよ。
江戸中期(1730頃とされる)に高崎城
本丸を改築する際、
不要とされた城内建物の一部を長松寺に移築をしたそうなんですが、
その時にもってこられたのが「忠長自刃の客間」であったと。
いくらお寺さんとはいえ、そうと知ってて移築したんでしょうかね…。
それがこの部屋ですけれど、普通は座敷が分かるように写すところながら、
日頃から普通に使っているのか、集会所のような細長い座卓がたくさん並んでおり、
敢えて「長押」を狙っておきました。
御住職のお母様曰く「それらしい名残りは何もないけれど、長押に手を入れてごらんなさい」と。
言われるままにしてみますと、長押の裏側がかなり深く繰り抜いてあるようす。
「槍や何かを入れておけるようになっていて、お城にあった部屋だというのはそれくらい」
てなことでありましたよ。それでも「へぇ~」と思いましたけれど。
自刃の最期とはいえ、乱行の咎があった(とされる)忠長は、
その死後43年を経、四代将軍家綱の時代になってようやく墓石が建ててよいことになったそうな。
墓所は長松寺ではなく、高崎駅から程近い大信寺にあるということで、こちらにもお邪魔を。
本堂裏側の墓地に出てすぐ、大きな五輪塔なのですぐに分かりますですよ。
高さが2メートル34もありますから。
大きさもある上に、元は立派な廟(戦災で焼失)の中にあったということを思えば、
死してなお忠長を偲ぶ気持ちの強い者たちがいたということでもありましょうか。
もっともそうしたところが家光には黙過できないことでもあったように思えてきますけれど、
どうも判官贔屓なのか、すっかり家光を悪者扱いしてしまってますが、
隙を見せられない権力者としては致し方のないところであったのかも。
それだけに家光としては、異母弟である保科正之
との関係に
忠長とは適わなかった兄弟の間柄を欲したのかもしれませんですなあ…。