ということで、旧中山道
がまだ狭い道だったあたりにある長松寺に戻って行ったわけですが、
そもそもは当然に岡醤油からほどない歩きで、日の高いうちに到達していたのでして。
このお寺さんには江戸期の絵師・狩野探雲(1725-1812)作の天井画と涅槃絵(軸装)があり、
しかも涅槃絵は2月にしか見られないというでしたので、立ち寄ったみたというわけでありますよ。
で、この本堂の中にあるのだなとは思ったものの、本堂入口にはガラス戸が閉てられており、
覗くでもなく透かし見えるのは本堂内に大勢集まって何かしておるということ。
ここまで来てただ引き下がるのもなんだなと、
寺務所の方へ廻って尋ねてみれば、お若い住職が申し訳なさそうに言うことには
「写経の会の真っ最中で今は(拝観するのは)無理…」と。
写経の会が終わって後片付けもあるので4時頃だったら間違いなしと言われてしまったのでした。
だもんですから、差し当たり近所にスタバなどのあるはずもなく旧中山道ぶらりを先んじてしまい、
結果として再び取って返すことになってしまったという、ことの次第でありました。
まずは天井画ですけれど、本堂大間の天井いっぱいに龍が描かれておりましたですよ。
探雲67歳の作ともはや老境にあろうかと思うところながら、
生没年をご覧になってお分かりのとおり当時としては大変な長命と言えましょうから、
まだまだ元気に溢れていたのかも。
生き生きとした龍の姿、そして目付きには愛嬌すら感じられるあたりは、
枯淡といったようすはありませんものね。
そして、涅槃絵の方でありますけれど、これも本堂内に掛けてありました。
縦218cm、横195cmという大ぶりな中に極彩色でお釈迦様の入滅が描かれているですが、
こちらは何とまあ探雲81歳の作とはまあ、恐れ入りましたと申しましょうか。
写真を撮ってもよいかと尋ねますと、住職のお母様が「どうぞどうぞ」と言いつつ、
涅槃図の前に置かれた花やら蝋燭立てをせってとどけてくれたりして
申し訳なく思ったものですから、こちらもせっせと写真を撮りましたですが、
例によって携帯電話のおまけカメラでは環境的に無理であったようで…。
それでも何とか画像修正なんぞという人工的な細工を施しつつご覧願いますと、
実に描写が細かいではありませんか。小さな生き物もたくさん描き込んであります。
なのに、右側には確かに「探雲 八十一歳」と記してあるわけで、
手の震えなぞ無かったんでしょうかね。
しかしまあ、長命であった探雲だけに見聞は広いと思うところながら、
それでも想像で描くしかないものもあったと思われますね。
この白象をご覧くださいまし。こんなふうに前脚をたたんで座るってことは、象にはないだろうと。
ところで、この狩野探雲その人のことですけれど、はっきり言ってあんまり聞く名前ではない。
ひと口に狩野派といっても相当に大所帯ですから、全部が全部知っているはずもないですが、
師匠筋は江戸狩野
の中でも鍛冶橋狩野家に連なる狩野探林であったとか。
(狩野探信の門人とする記述は誤りであると、長松寺でもらった解説にはありました)
鍛冶橋狩野家は江戸狩野の始祖である狩野探幽の直系ではあるも、
他家に比べるとその後は余り目立つ存在ではなくなってしまっていたようす。
ですので、弟子としてその系譜に連なる探雲も余り知られていないとしても
むべなるかなと言いますか。
むしろ、高崎の寺に天井絵を描くことになったというのも、
高崎市のお隣にあたる今の富岡市(富岡製糸場のあるところですな)で生まれたという
地縁でもあろうかと。
ですので、狩野探雲という呼ばれ方ともども、
上野探雲(上野国の探雲ということでしょうか)ですとか
佐藤探雲(実際の姓が佐藤のようで)ですとか呼ばれてもいるようです。
とはいえ、江戸城西の丸普請の絵画制作にも携わり、
法眼の位階に叙せられた絵師に描いてもらったことは
当時としては相当に誇るべきことであったろうなあと想像するのでありました。