高崎市街
の中心地近辺を徘徊した翌日には、
JR信越本線で高崎駅から横川方面に二つ目の群馬八幡駅に出かけたのでありました。
信越本線というからには信州と越後を結ぶ動脈であったわけですけれど、
長野行きの新幹線(現在は北陸新幹線というべきでしょうか)の開通に際して、
群馬・長野県境である横川(駅弁「峠の釜めし」で有名)・軽井沢間が廃止されていますので、
高崎から横川までの盲腸線状態になっているという。
かつてこの線路は横川からアプト式のラックレールで
碓氷峠の難所を越えて行ったのですが、それも今は昔。
名残りを留めるように横川には「碓氷峠鉄道文化むら」が開設されていますので、
やがては訪ねてみようとは思っておりますが、この時は群馬八幡駅下車でありました。
駅前の駐輪場事務所で貸し自転車(館林でもそうでしたが、群馬では無料なのですな)を拝借。
郊外だけに離れたポイント2地点をこれで走破しようという目論み…ですが、
ここでは目的地までの途上、寄り道のお話でして。
碓氷川を背にして、長く続く参道の入口をどっかと跨いでいる大鳥居。
これを見れば「さぞかし立派なお社であろう」と、当初の予定には入れてなかったものの、
「上野国一社八幡宮」に立ち寄ってみようかと思ったのでありますよ。
特段の賑わいもない参道の突き当たりにはお寺さんでいうところの山門にあたる門があり、
解説に曰く「江戸時代よりの神仏混淆様式を残し…」とはこの辺りのことでもあろうかと。
おそらくは仁王門として左右に阿吽の仁王像が配されていたのでは思いますが、
明治になってからの廃仏毀釈の故でしょうか、今ではスペースにしっくりこない提灯があるのみ。
今では隨神門と呼ばれるこの門を抜けて石段を上がることしばし。
斜面の上に鎮座ましました社殿はなかなかに立派なものでありましたですよ。
天徳元年(957年)に京都の石清水八幡宮を勧請して創建されたそうな。
八幡さまと言えば武運長久の祈願と繋がるようわけでして、こちらでも
承久六年(1051年)源頼義・義家父子が奥州合戦の戦勝を祈願し、
社殿を改修したと伝わるようで。
八幡宮のあるあたり一帯は八幡荘と呼ばれる荘園であったそうなんですが、
源頼信以来、先の頼義、義家、義国、義重と代々が拠点としていたそうな。
源義重は新田荘にあって新田義重と名乗ることから、以降新田氏に受け継がれていったとか。
後に鎌倉幕府を打倒すべく新田義貞
が挙兵した際、
八幡荘は信州、越後方面の同盟者との合流地点となったてな記載もwikipediaにありました。
というように歴史的な背景はたっぷりありそうなところですけれど、
こちらの方も今は昔なのですかね。一見立派なお社も修繕しないといけんなあという印象が。
以前、東海道は興津宿
で清見寺
を訪ねたときにも、かつて歴史上数々の大舞台となったところが
今ではかなり寂しい状況になっているのを目の当たりにしましたですが、
そういう埋もれていきつつあるところは数多あるのやもしれませんですね。
ところで、この上野国一社八幡宮は
別名「八幡八幡宮」(やわたはちまんぐう)とも呼ばれるのだとか。
八幡(やわた)にある八幡(はちまん)さまということなんでしょうけれど、ちょっと妙な気が…。
八幡さまがあるから地名が八幡(はちまん、あるいは読み代えてやはた/やわた)になったのか、
元から八幡と呼ばれていた土地に八幡宮を勧請したのか、
前者の方が可能性高しの印象だけに、八幡さまのある八幡の地の八幡さま…とは
やっぱり得心いたしかねるわけでして。
とまあ、そんな余談はともかくも門のところまで戻って、左側の登り坂を自転車で一気に…
押して上がり(笑)、本来の目的地を目指すのでありました。
まずもっての目的地はこちらでございます。