足利の味 で空腹を満たした後は、いよいよ鑁阿寺(ばんなじ)の探索へ。
毎度毎度コピペしないと変換に困って如何ともしがたい難しい漢字の名前ですけれど、
大日如来を本尊としていることから、足利の人たちにはもっぱら「大日さま」と呼ばれ

親しまれているそうな。


こうした歴としたお寺さんではありますけれど、
元々この地には源姓足利氏の二代目・足利義兼が居館を構え、
敷地内に持仏堂を建てたのが始まりとされていますので、
立派なお寺さんであると同時に、足利氏居館跡という史跡でもあるのですね。


ちなみに足利の地には、
藤原氏の流れを組む藤姓足利氏と源氏の流れである源姓足利氏とがおり、
両者が争った結果、源姓足利氏が勝ち残ったと言います。


足利氏と言えば室町幕府を開いたことも併せて

源姓足利氏のことを指すのが一般的かと思いますが、

正確には区別する必要があるために、藤姓足利氏、源姓足利氏というのだそうです。

ですが、以降は足利氏といえば断りなく源氏足利氏のことを言ってると思ってくださいまし。


ついでですから、足利氏につながる源氏の流れに触れておこうかと。
八幡太郎義家の息子たちのうち源為義の系統が源頼朝、義経に繋がっていくのに対して、
もうひとりの息子、源義国の子どもたちが新田、足利を名乗るようになるようで。


新田を名乗った新田義重の流れが後に足利尊氏と争うことになる新田義貞につながります。
一方で、足利を名乗った義康、これが源姓足利氏の祖となって尊氏につながる。
新田、足利は領地も近く、系図的には一族ですから、張り合うところも人一倍だったのでしょうね。


と、歴史話が長くなりましたけれど、さて境内をひと回りするといたしましょう。
まずは、今年の8月7日官報告示とつい最近国宝になりたてほやほやの鑁阿寺本堂であります。


国宝・鑁阿寺本堂


現在の本堂は再建されたものとはいえ、再建の年代が1299年と言いますから鎌倉時代のもの。
尊氏の父である足利貞氏により再建されたということですが、重量感ありますねえ。
こうしたことも武家のやることだからなんでしょうか。


そして、本堂の裏手にはさまざまな用途の建物が並んでいるのですね。
まずは創建者・足利義兼の室であった北条時子を祀る蛭子堂(時姫堂とも)です。


鑁阿寺 蛭子堂


昔から安産守護で信仰されているようで、
写真でも安産祈願のよだれかけが見てとれるものと思いますけれど、
北条時子姫はかの北条政子の妹とのこと。


姉妹とはいえ、妹御の方は安産祈願をかけられるとは
ずいぶんと姉様とは異なるタイプだったのではなかろうかと…。


続いては、いささか唐突に校倉造りの建物ですが、
やはりお宝は校倉造りで保存するのが一番なのか、宝物庫とされていたようです。


鑁阿寺 校倉


今では(お宝は他へ移して)足利家伝来の大黒天を祀ってあることから

大黒堂とも呼ばれるのだそうで。


鑁阿寺 大酉堂

お次は、本来足利尊氏を祀るために室町時代に造られた御堂ですが、
明治になって皇国史観の広まりから尊氏は逆賊とされたため、
堂内にあった尊氏公木像を避難?させ、今では大酉大権現を祀っているのだとか。

歴史の変転を感じますですねえ。


鑁阿寺 御霊屋

さらには、見た目どおりに赤御堂とも言われる目立つ建物が。
足利十五代の将軍像を祀る御霊屋とされているとのこと。
残念ながら、中は覗くことも叶いませんでしたが…。


鑁阿寺 一切経堂


そして、こちらが一切経堂。

鑁阿寺を創建した足利義兼が亡き妻(蛭子堂に祀られた時子姫ですね)を供養するため、

一切経会を修する道場として鎌倉時代に建造されたのだとか。

今の建物は1407年に再建されたものだそうですけれど、

それでも国の重文指定を受けてるそうな。


他にも鐘楼が国の重要文化財だそうですが、

鐘楼の周り、心字池を配した庭園部分が工事中で近寄れませんでした。


とまあ、こうした建物に取り囲まれた鑁阿寺。

いわゆるお寺さんの伽藍とはイメージが異なる気がしますけれど、

元が足利居館であったところと思えば、なんとなぁく「そうか」と思えるような。


本堂脇の大イチョウは、そうして移り変わりをどの程度見てきたのでありましょうかね…。


鑁阿寺 大銀杏