MRT新店站の地下の丸亀製麺でうどんを喰って・・・
碧潭水舞、に行ってきました・・・


例年4月に行われていたものが今年は5/17~6/16まで・・
さらに水曜日は20:00から花火も上がるようです。
30分毎に5分間やってるみたいです。
18:30から・・・ところが・・・・・暗くないからライティング効果なし・・・
なんじゃこりゃ・・ただの噴水やんけ!


19:00からの水舞をYOUTUBEにUPしときました。
やっぱりこれでないとイカンわい。


ぽちっとしてください☟
2024碧潭水舞0527-19:00 (youtube.com)

以前に山佳火車站は来ているが、なんで來たのかがハッキリしない。恐らく古い駅舎なので富岡車站へ行く途中で降りたかもしれない。
山佳火車站は明治34年(1901年)「山仔腳停車場」として造られ民國51年(1962年)に山佳車站に改名。歴史ファンが好きな駅舎ですが・・・今回は違ふ所が目的で降りました。
カマボコ板のグーグルマップも正常にGPSが位置を示している。
駅前でU-BIKEを借りようとしたが全部出てしまってない、そこで近くの小学校にあるU-BIKEステーションまで少し歩く・・・街並み探索に丁度良い。
イザ使ってない橋を探しに向かう!否、使えない橋。
行程の半分以上が登りなので自転車を降りて押して歩く、シンドイ。


看板を見つけるが、よく探さないとすぐには見えない。
石灰坑拱橋
この位置から撮影は超危険・・川石ですってんころりんとなりそう・・


この橋には二つの説があり、一つは昭和十五(1940)年前後に山麓の炭鉱輸送にトロッコが谷を渡りやすくするために建設されたもの。もう一つは昭和初期(1933-1940年)頃に石灰坑地區から溪流を渡るためのものだった。のちに民和街が出来たので使わなくなった。

橋の上から見たら、こんな感じ・・


今では当時の道路がどうなっていたのか推測が難しいが、レンガアーチの橋梁は歴史的建造物として保存対象になっています。
戦争でも地震でも円安でも壊れなかった煉瓦アーチ積みの橋!


さて次は、どうでもよい池に向かう・・・・ずーっと下りで自転車ラクチン。
本当はハートじゃないけどハートに見える池
樹林河濱公園・沐心池


プレートがあります、この位置から見ないとハートには見えません。

日陰を探してお弁当昼食・・

公園のなかを通って站に戻る・・・
折角だから站も見ていこう・・・・


雨降りが続く日々だったが、この日は青空の一日でした。
みなさんのお近くの池もハートに見えますように・・・
ごきげんよう・・・

 

ドアーはドコでもあるが、鳥居はドコでもあるワケではないが。。

日式宿舎遺跡が修復されて・・なぜか鳥居があって・・
最近はショッピングセンターや飲食店までニセモノ鳥居が多くなって・・


果ては、カンガルー神社や蛙港神社まで出来るありさま・・・
オイコラ!鳥居の上にネコをのせるな・・
物干し竿をかけるんじゃないよ!!



日本人は台湾人にとっては、スネ夫君であって、しずかちゃんではない。
しずかちゃんのポストはアメリカ人がすでにおる。
しかし昔々の日本人は・・・・・
ドラえもんのポケットから数々のものを出してきた・・・・
伝染病予防に農地開拓・鉄道・都市整備・・・・
二戦後でも東芝炊飯器が大同電鍋になりスーパーカブがバイク社会をつくり、コミックとアニメが愛を教えた、小七と全家がコンビニ大国に変えた・・・
・・・・「四次元ポケット」・・


いつまでもジャイアンの顔色を伺うスネ夫君であってはいけない。
のび太君とドラえもんの友情を再び!!
ごきげんよう・・・
 

塗潭假日線
新北市新巴士、新北市がバス会社に運行させているタダバスのひとつ。


休日運行なのでハイカーが利用するのかと思いきや、乗客は皆沿線の住民でキャスター付き ショッピングカートを持っている。おそらくは朝の便で新店まで出て買い物をして還るのであろう、乗客は皆知り合いのようにバイバイと言って降りていった。そして最後に残ったのはワラワ一人、終点で降りる。



清朝時代の台湾は全島が統治されていたのではなかった。
日本列島に日本人が日本という國に暮らしている、ところがコレは珍しいことで、世界ではパレスチナにユダヤ人がイスラエルという國で暮らしている。


険しい梯子を登る・・・・
新店獅仔頭山隘勇線の碑があるところまで行くのが目的だった。そこまで行くのもテクテク、バス停から30分以上も山を登った・・・天気が良くないが、この景色が見られたらそれで良かったのだが・・・
「いらっしゃ~い」と言ってる入り口が見える・・


「まあ~しゃあないなあ・・登るか・・」登り30分下り25分・・
険しい梯子を登る・・高校生時代に山岳部のクラスメイトから聞いた三点ホールドを実行する。手足四か所の三か所は常にグリップして一か所だけで前進する。ボルダリングみたいなアホなことは決してやってはイケマセン!。。。


生蕃と熟蕃
苗族は、南部・タイ北部・ビルマ・ラオス・ベトナムの山地に住む民族で、一般にはミャオ族と呼ばれています。アマテラス女神を主神とする日蝕神話の分布する民族でもあり、夫婦は別居し、訪婚が行われ、子女は母のもとで成育する、まるで日本の平安時代みたいな民族です。台湾だけでなくチャイナには統治されていない民族がありました。
生苗とは漢化されていない苗族をさし、熟苗とは漢人になった苗族グループを言います。
台湾でも同様に生蕃は日本統治に反抗する原住民であり、日本統治に従う原住民を熟蕃と言いました。・・・

新店獅仔頭山隘勇線
清朝は台湾を制圧したが、原住民の居住地域までは実効支配が及ばなかったので「境界線」を設けた。
隘勇制度(あいゆうせいど)は、日本統治時代までの台湾に存在した台湾原住民の襲撃に備えるために設けられた一連の防衛組織のことで、
「隘勇線」とは、先住民族の住む山地を砦と柵で包囲して閉じ込めるものでした。日本統治時代になり、台湾総督府は隘勇制度の必要性を認め、官費で維持されることになった。
総督府は、「隘勇線」を圧縮して先住民族の生活圏を狭め、その武装抵抗を誘発した。樟脳の採取により生活圏を荒らされていた原住民側も反乱を起こした。
新店獅仔頭山隘勇線では1903(明治36)年に泰雅(タイヤル)族と日本警察との間で激しい戦いがありました。
今でも烏來におる泰雅(タイヤル)族・・今は首狩り族ではありません。

1909年(明治42年)には、軍隊を投入して総攻撃を行い、全島の「隘勇線」を圧縮して包囲網を狭め、「生蕃」を標高3000メートル級の高山が連なる山系に追いあげ、追いつめ、餓死か降伏かの択一を迫るという作戦を展開し1914年(大正3年)に5カ年計画を終了させた。

ところが最近テレビで国会中継見てるとね・・・
日本統治に反抗する「生蕃」が台湾じゃなくて日本列島におるやないかい!
出ていけ境外敵國勢力生蕃ども・・・

ごきげんよう・・・
 

 

「唐土人(もろこしびと)」(Wikipedia)から

日本では、伝統的に黄河流域の国家に対し「唐・漢・唐土」の文字を用いて「とう・から・もろこし」と呼び、玄奘三蔵の訳業が輸入されてからは、仏教界で「支那」が利用され、明治時代に入り「支那」が一般化した。**

 

昔々小野妹子さんが聖徳太子に頼まれて海外出張へ出かけたときは隋という國でした、アノ有名な(ひ いずるところのてんし しょを ひをぼっするところのてんしにいたす つつがなきやいなや)という手紙を持って行かされた。よく生きて歸ってこれたと思ふのでございますが。さらに歸國してからも聖徳太子さんは返書を早く出せとパワハラするのでありました。

小野妹子:返書?あれかな~、失くしました。

              上海の地下鉄乗った時に風で飛んでった。

聖徳太子:アホボケカス!讀んで内容覚えてるやろ、記憶にあるだけでも早う言へ。

小野妹子:そんなん覚えてません。あんな手紙を持って行かせて無事に歸って來ただ                 けでいいじゃないですか、コッチは死ぬかと思ったんですよ!

推古天皇:まあまあいいじゃないですか・・どうせ、なにぬかしとんねん、ぐらいの                 内容でしょう。ところで私にお土産はないの?

小野妹子:あ”・・忘れた・ここはドコ?わたしはダレ?

推古天皇:おまえなあ・・島流し決定!!

 

東南アジアへの中国人の移住は隋・唐代にさかのぼるという・・・

うそコケ!!そんとき中国はまだないヨ!!

中華民國や中華人民共和国を「中国」と言うなら、大韓民国は大国様か!!

支那そば・中華そば、と言うが・・中国そばとは言わん!

文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)に蒙古(元)軍が日本来襲、長門,周防両国守護として派遣し,敵襲の防衛にあたらせたのが,長門探題で別名を中國探題と言った。まさか6百年以上も経って攻めてきた相手が中國と名乗るなど考えもつかなかったワイ、と北条時宗さんは言っていた。

中国山地は日本固有の領土です。中国銀行本店は岡山です。中国銀行の前身は1878年(明治11年)設立の第八十六銀行国立銀行です。その後第一合同銀行などとの合併を繰り返し1930年(昭和5年)中國銀行、1990年(平成2年)商号変更により中国銀行となりました。英語表記はThe Chugoku Bank、これに対して北京市に本店を置く中国銀行はBank of China です。

中国食品工業は社名が仇となって風評被害で2007年に倒産。

 

日本人は自分のことを日国人とは言わんし、英国人米国人と言うがイギリス国人とかアメリカ国人とは言わん。イギリス人アメリカ人日本人と言うルールからすれば中人でなく華人が相応しい。或いは中華人もありえる。それがなぜ中国人や韓国人と呼称するようになったのだろうか?

日本の場合は同じ地域に同じ國が継続し同じ民族が住んでいる、ところが外國では、同じ地域なのにコロコロ國が変わり民族はあっちこっち移動する。

イスラエルに住むのはユダヤ人ですが中華民国建国以前の1912年に台湾に住んでいたのはナニ人ですか?まだ中國はないのだから台湾人でしょ。

「華僑・華人・華裔」

華僑=中国共産党政府の解釈では、「中国大陸本土・台湾・香港・マカオ以外の国家・地域に移住しながらも、中国の国籍を持つ漢民族」を指す呼称。

(実際は居住国の国籍を取っていない者を指し、無国籍もいる。)

華人=中国以外の移住先の国籍を取得した中国系住民

華裔=中華民族の子孫

中国人・華人・華裔(かえい)

自らを Chinese と認めるすべての外国居住者は華人とし,中国籍を有しなお且つ外国に定住する者は華僑とし,外国の国籍を有し華人の血統を有する者を華裔とする。しかしこれは中国人と華人を同一視した見方で、ウイグルやチベットや南蒙古は中国人であっても華人ではない。

中国人と華人の違いは確かに微妙で、文化的な背景や国籍の概念によって異なる。華人を華僑が居住国の国籍を取ったものとする見解が普通。しかし華人も中国人に含まれるという概念も実際にある。

それでは今はヘイトスピーチとなっている支那人はどうなのか・・

(支那)本土を中心として居住する漢民族を指す。日本語における支那は地理的概念であり、平安時代に漢訳仏典を通じて中国からもたらされた。この地域を王朝名を利用して呼称するのが通例であり、明治中期まではこの地域を清国、その住人を清国人と呼んでいた。

支那は漢民族を指すと限定すれば多くの民族が現在の中国からは除外される。

華人も同様に漢民族を指すと限定していると解される。明確に漢民族と限定していると思はれるのが華裔だと言える。

香港人は香港独自の身分証明書と香港特別行政区のパスポートを持っており、日本を含む多くの政府に対して、中国のパスポート保持者とは異なるビザの手配と免除を与えている。 香港人の「国籍」を「香港」ではなく「中国」と表示することは、不必要な混乱を引き起こし、香港人と中国人のビザが異なるという法的現実を反映していない。一国二制度ではなくチベット等を含めた六国一政府という表現が現実に近い。

清国の時代には、支那には隋唐宋元明清という王朝があった、それを中国四千年の歴史とするなら中国は地理的概念であり國家名は中華ということになる。中華に住む支那人を中国人と呼び、海外に住む支那人を華人と呼び、自らを 支那人と認めない漢民族を華裔とすれば簡単明快になるのだが、そうしない理由はなにがあるのだろうか?

支那は地理的概念であり、本土を中心として居住する漢民族を指すとすれば明らかに、地理的概念と国家概念を同一視する現代の中国という定義ではない。領土問題を武力による現状変更と民族の移動で正当化する。そこに「支那」をヘイトスピーチ規制語句にして中華や華人でなく「中国」にした理由がある。現代社会の中國とは歴史的に地理的に民族的にも超越した概念の表現であることが分かる。しかし現実にそぐはないことが起こっている。漢字と佛教は中國から日本へ傳來された。ところが現代の中國には佛教も漢字もない。同じ地域同じ國家同じ文化ではないものが同じ中國とされている。昔々支那には隋や唐という國があって日本に漢字や仏教が傳來したが近代になって支那に住む人々は従来の封建体制を改革し新國家建設を行って今では支那に仏教も漢字もなくなっている。・そう理解するのが普通ではないか。

この地図をみても中華民国は・・無いぞ!!

「落葉帰根」(華僑)から「落地生根」(華人)へ、そして華裔へ・・

落葉帰根「人間は落ち葉が根元に帰るように死んだら故郷に帰る」

落地生根「異国の地に渡り、その地に同化し、その地の土に帰る」

華裔  「自らを中國人と認めない漢民族」

華裔の歴史は、反清復明.滅満興漢から・・暴支膺懲へ

1912年に中華民国建国宣言、そのとき台湾に暮らしていた大陸系民族の人たちはナニ人だったのか?聯合國軍加盟國一覧の漢字表記は支那となっていてもAIさんはゼッタイに支那人とは回答しない。せめて台湾人と回答してくれたら許してやったのに。蒋介石さんも毛沢東さんも滅満興漢だけでなく新国家建設を理想としていた、そのときなぜ英文Chinaも変更しなかったのでしょうか?同じROCでも

Republic of central flower civilizationの方がキレイでしょ!

隋唐宋元明清中?「白・發・中」の中かいな?白板・緑發・紅中

たしかに中は紅い!

注目すべき1971年のアルバニア決議文・・

the People's Republic of China が

the only lawful representatives of China to the United Nations ,であり、

the representatives of Chiang Kai-shek をand to expel forthwith ・・

つまりthe People's Republic of ChinaがChinaの代表であり、追い出されるのはRepublic of ChinaではなくてChiang Kai-shek 別の表現をすれば、この時点でも中華民國は存在していない。そして中国も中華も漢人もない。

あるのはChina支那と蒋介石だけです。ここには台湾という地域も登場しない。つまりいくら反清復明.滅満興漢と言っても國際社會では中國でも中華でもなく大陸はChinaのままなのです。

隋唐宋元明清中?ゼ~ンブひっくるめてChina !! 

台湾の英字表記からRepublic of central flower civilization にしましょう・・

ごきげんよう・・

前日天馬茶房前の出来事があり、
1947年2月28日、民衆はこの建物の前に集まった・・
そして焼き討ちした・・    台湾省専売局台北分局
残念ながら歴史建築であって、228遺産ではない。文化部のアホ~!
原辰馬商會本町店鋪 2012-10-29 登録歴史建築
1929年(昭和4年)に日本の河東富次によって建てられ、その後昭和10年に株式會社辰馬商會に移管された。
元日本統治時代には台湾総督府専売局台北支局であり、国民政府に接収された。当時は台北地区の樟脳、酒、タバコなどの専売業務を行っていた。昭和43年3月1日に第一製品保険有限公司に、同年5月17日に彰化銀行の台北支店になった。

監視カメラはそこいら中にある

ごきげんよう・・・・

 

 

三貂嶺隧道へ向かうのに猴硐車站で降りる。
三貂嶺車站は川の西側でトンネルは東側、渡るには鐵路を渡らねばならず、道路がある猴硐から三貂嶺車站の川向うへ行く。

まずはU-BIKEを借りる。
アップダウンが比較的少なくて、のんびりサイクリング・・・
平溪線と宜蘭線の分岐点へ向かう・・


トンネルを抜けるとまたトンネル。
三貂嶺車站から牡丹車站の間にある2㎞程のトンネル
三貂嶺側の短いトンネルは自転車を押して歩かないといけませんが牡丹側は自転車に乗って通過出来ます。


施工大倉組、1921年1月14日完成導坑貫通・
入るにはQRコードでインターネットから入場を申請する必要があります。(安全の為)


臺灣第7任總督明石元二郎所題「至誠動天地」
なかなか・・知ってないと読めんワイ。
 

鉱山労働者用宿舎が残っていた。


猴硐車站で昼食・80元、以前食べたときと同じスープが和風でヨカッタ。
猴硐はネコだけの村ではない、トロッコもあれば神社もある。


2018年10月の紀録・・👇ポチッと・・
猴硐 | 八条院暲子内親王之令旨 **** 乍恐以電信奉申上候 (ameblo.jp)

https://ameblo.jp/jingmingguang/entry-12471014610.html

 


猴硐車站から三貂嶺車站まで一駅乗ってみた・・・・・・
プラットホーム狭い、なんじゃコノ駅は!!
不思議なことがある・・・三貂嶺車站には民家もなければ道もない!!
いったい何の為の駅なんや?と不思議・・・・


平溪線も宜蘭線もおかしな駅が多い・・・・
ごきげんよう・・・

新莊地藏庵

新莊神社の狛犬さんとされている石獅がオカシイ!!!
石獅さんは左がメスで足元に子供がいて、右がオスで珠を持っている。ココの石獅のオスはコインを持っとる、文字は「昭和〇寶」・・なんでや!!
日本の狛犬さんはオスメスなく、右が「あ」で口を開けて、左が「うん」で口をふさいでいる。そもそも狛犬さんでなく「お狐さん」じゃなかったのか!!


1937年11月17日,新莊神社舉行鎮座祭,祭神は明治天皇、倉稻魂大神「お稲荷さん」、北白川宮能久親王。
二戰後新莊神社は1950年に取り壊され、土地は 1966 年に新荘工場建設のために和泰汽車に売却された。、
狛犬、石燈籠、神輿が近くの新莊地藏庵に保存された。
石灯籠は14基が「昭和十二年十月建之」、6基が新しいもの。
神輿の神紋は「左三つ巴」で最も多く見られるタイプ。


新莊地藏庵は乾隆廿二年(1757年)に建てられた。嘉慶18年(1813年)、光緒元年(1875年)、1912年、1972年に再建された。
当初の主神は武大眾爺、それが地藏王菩薩に変わる。
18世紀半ばから19世紀 末にかけて、先祖代々の故郷が福建省である閩南人、広東省である客家人、および祖先が広東省である潮州人が武装衝突を繰り返していました。当時の死者はここに祀られ日本統治時代になって集団墓地の移設があり地蔵大菩薩の庇護へ次第に信仰は神様へと変化していきました。そして終戦。
壊されたとはいへ、1966年までは残跡は残っていたと想像出来る、神輿や石灯籠、そして石獅がいつ頃移転したのかがワカラナイ。手水鉢が見当たらない。新莊神社の古い画像が一枚残っているが鳥居は神明式。これが明神式なら狛犬でなく「お狐さん」である可能性が高くなる。

 

文化部の「國家文化記憶庫」に2019年の神輿画像はあるが、「國家文化資産網」に新莊神社に関するものはナニもない。
怪しいこと、この上なきなり。

古き写真に残っていた新莊神社

ごきげんよう・・・

 

揺れる ひかりだ  緑の 風だ
南風(みなみ) そよ吹きや  豊かな 穂波
米は 二度なる  甘蔗は 伸びる
名さへ 蓬莱  寳島
台湾 楽しや  良い所

久しぶりの晴れだったので磯小屋へ行ってまいりました。
舊高等農林學校作業室
磯永吉さんの作業場・・・・
1925(大正14)年からあります。
米は売っておりません。


臺灣蓬萊米之父-・・・・・・・・磯永吉・・・・・・・
お姉ちゃん誰で、御爺ちゃん誰と。。。。
疑問に思ふ人はいませんが。。。
臺灣蓬萊米之母と言われる人はいます。末永仁さん。


数年前のゴールデンウイークが明けてからの時期に・・
有名米ブランドの産地、池上へ行った、
さぞかし青々と茂った田圃を想像してたのに・・な~んもない!!
二期作だと完全に忘れていた!米は 二度なる  甘蔗は 伸びる


(Wikipedia)によると磯永吉さんは、至難の業といわれたジャポニカ米とインディカ米の交配を1000種以上の膨大な数を繰り返し、台湾米の品質改良に取り組んだ。育成した品種は214種にも及ぶ。・・・・
1935年、台中農事試験場の場長だった末永仁技師と共同研究していた「「神力」{と「「亀治」の交配種が成功。「台中65号」と命名した。この品種は一期作二期作共に適応し、倒伏しにくく、施肥による収穫が増える「夢のような品種」であった。「台中65号」の成功は多くの台湾農民に支持され、作付面積が急増した。大正15年、台湾総督伊沢多喜男は「台中65号」を含む台湾産のジャポニカ種全体をさす言葉として「蓬莱米」と命名し、台湾の農業発展に大きく貢献した。そして八田與市さんの嘉南大圳によって水を得た嘉南平野は豊かになり日本経済を支えたのでした。
ちなみにワタクシは八条女院の女官たちからは・・・・・・・・・
役立たずの母と崇められております。
ごきげんよう・・


最近日本人が多い、・・・木柵からバスに乗って平溪へ行く、壊れた橋と防空壕を確認するため・・、

腹が減ったので瑞芳へ行って昼飯、バスのなか鐵路のなか日本語が聞こえる、

最近は観光地では必ず日本人がおるし、更には「なんで日本人がココにおる?」という山中に現れたりする。

そういうワラワも日本人だけど・・・大人の旅をして欲しい・・・・・

そう言えば四脚亭がトナリやから行ってみようか・・
・・一度行ってみたいと思っていた砲台がある。行ってみようか・・
火車站降りてグーグルマップ確認、駅とかバス停・コンビニがあれば無料のWifiが飛んでる、

GPSも正確に駅にいることを示している、
イザ行かんテクテク・・最初は平坦な道テクテク・・遠いテクテク、

登山口から登り坂テクテクしんどい。来るんじゃなかったテクテク・・

砲台に着いたらコレがスゴイ。まるで戦国時代の山城。



1901年(明治34年)に建設され、1903年(明治36年)に完成し、日露戦争に対応して総督府基隆支部

によって建設された防衛プロジェクト、建設目的は基隆港を守ることであり、標高は203〜206メートル、

面積は約9ヘクタール(90,117平方メートル)、 1903年(明治34年)には、高砲臺が1基、低砲臺が2基あり、

それぞれに大砲が2門、計6門の大砲が備えられていた。 

・・人生の分かれ道・・・
高砲臺へ向かふ石階段を登ったらコノ画像・・・
ドッチも同じとこへ行くが・・・遠回りした方が景色はよい・・・
ごきげんよう・・・・