地理と歴史は政治利用される・・

南京は歴史として真珠湾と同じ意味に利用される

ホノルルを爆撃しなかったのは“倫理”ではなく“合理”

それでもアメリカ人が「攻撃しなかった」と強調する理由

ここからが本題です。

戦後アメリカの自己物語=アメリカの一般的認識はこうです:

「日本は卑劣な奇襲をしたが、無差別都市爆撃まではしなかった」

これは実は、

アメリカ自身の都市無差別爆撃(東京大空襲・原爆)

それを正当化するための比較対象として機能します。

 つまり

「日本はやらなかった」=「我々は仕方なくやった」

 南京と真珠湾との対称性、ここで南京とつながります。

 

南京                       真珠湾

日本は「野蛮な陸戦国家」     日本は「卑劣な奇襲国家」

市民殺害の象徴            不意打ちの象徴

中国の被害者性            アメリカの被害者性

両者は

同じ物語構造の両輪です。

 

1937年12月6日南京衛戌司令唐生智は六日夕刻を期し南京四圍の城門を一齊に閉鎖

六日午後三時空中偵察によれば南京市内は大火災を起し黑煙天に冲して悽惨な光景を呈して居る

 

蒋介石は1937年12月7日正午頃宋美齢と共に飛行機にて南京を脱出。市内には諸所に火災を起し人影殆ど絶え南京の大市街は廃墟の如く凄惨な光景を呈して居る、因に七日朝まで市民の四分の一は残存しアメリカ人十三名は居残りその他の外人は何れも各自國汽船に待機している、市中には小數の軍隊、憲兵が警戒に當り下關方面にも掠奪が行はれ支那軍常套手段の敗退の際における混亂が起ってゐる模様である

 

昭和12年12月9日に日本軍から飛行機により南京防衛司令官に對し投降勸告文を投下し十日正午までに回答を要求。(未回答)

日本軍十日午前六時過ぎ南京城中華門(南門)に達し各部隊城壁に殺到。

 

蒋介石は12月11日前後に脱出・撤退命令を出し、その後12月12日午後〜夕方にかけて、その命令が唐生智ら南京守備司令部へ伝えられた

 

【十二日午後九時半大本營陸軍部發表】南方地區より南京城を攻撃中の我軍は昭和十二年十二月十二日正午南京城門中最も堅固なる中華門を攻略し引續き南側城壁全部を占領せり

 

唐生智は1937年12月12日21:00頃(午後9時)に北側の義江門から長江方面へ脱出(船等を利用)

退却命令は十分に末端部隊へ伝わらなかった(この際、公式に日本軍に降伏や開城の意思を通知せず逃走した)。秩序的撤退にはならず混乱が生じた。

唐生智

 

☆昭和12年12月13日東京朝日新聞

南京南側全城壁に日章旗翻る  潮の如く城内へ殺到  凄絶・暗夜の大市街戰

【十二日午後九時半大本營陸軍部發表】南方地區より南京城を攻撃中の我軍は昭和十二年十二月十二日正午南京城門中最も堅固なる中華門を攻略し引續き南側城壁全部を占領せり

【南京にて本社前線通信本部十二日發】皇軍は南京城に入った、皇國正義の征矢はどす黑い抗日一色の血に狂ふ支那の心臓をぐさりと突き通したのだ、時に十二月十二日午後零時半、世界歴史を不朽に飾る歴史的な瞬間であった、仰ぎ見る日章旗の感激的なはためき、極東平和を永遠に象徴する正義の炬火は今こそ皇軍將兵の逞ましい双手によって首都南京の空高々と掲げられたのである。萬感胸に迫り感慨無量の面持で○○部隊は「総て我が○○部隊將兵の忠勇豪健の賜である、今の私の氣持ち推量してくれ給へ」と言葉少く語った

平和甦る南京

南京城内親善風景

南京は微笑む

手を握り合って越年

 

アメリカ国内世論と「南京」1937年当時のアメリカは:

強固な孤立主義・欧州問題(対独)が優先・対日参戦の正当化が極めて困難

そこで必要だったのが、

「太平洋の彼方で起きたが、道徳的に無視できない事件」

南京はこれに非常によく適合しました。

宣教師・外国人証言がある

写真・記事が使いやすい

「文明 vs 野蛮」という物語に載せやすい

つまり

南京は「利用された」のであって、「創作された」わけではない

ごきげんよう・・・

『日本書紀』では日本武尊の妃・弟橘媛。

『古事記』では倭建命の后・弟橘比売命。

さねさし 相武(サガム)の小野に 燃ゆる火の 火中(ホナカ)に立ちて 問ひし君はも

景行天皇(第12代)の時代、西暦110年頃、熊襲征伐で強制性交を繰り返して世を乱した景行天皇・大足彦尊(おおたらしひこのみこと)は東国平定に際し、女が少ないからという理由で大碓命(おおうすのみこと)に振ろうとしていたのだが、美濃国造の娘が美人というウワサで見に行かせたら、大碓命がその娘と密通して復命せず、景行天皇から恨まれて、のち美濃国に封じられた。大碓命がダメならと日本武尊ヤマトタケルが煽てられて、その気になって東国平定に行くことになってしまった。尚ヤマトタケルは古事記では倭建命、日本書紀では日本武尊、なのでこのあたり720年頃から「日本」と言ってよいのであろう。

景行天皇は熊襲征伐で数限りなく「女狩り」を繰り返し、被害者へ交際関係を強要する手口は物品供与で誘い、暴力で脅し、従わない時は強姦する組織的・計画的で惨忍な犯行と言わざるを得ない。別名を関係者からは、「おんなたらしひこやりまくりのすめらみこと」と呼ばれていたのだが・・

日本武尊と関係した女性は、両道入皇女・吉備穴戸武媛・弟橘媛・宮簀媛の四人であり、遠征途中で交際が始まったのは宮簀媛一人である。

 各地でイジメに会いながら一行が、箱根を越えて房州(千葉県)に渡ろうと、走水の沖(現材の横須賀市浦賀水道)に差し掛かった時、海は荒れ狂い、船は木の葉のように翻弄された。

このとき暴風を起こしたヤツが支那斗弁命(しなとべのみこと)という海の女風神。支那という名前がいかにもイジワルであることがワカル。コイツは女であるが同様に海の男風神で志那都比古尊(しなつひこのみこと)と言ふヤツも居るがコチラは志那と表記する。

 弟橘媛が尊に申し上げたことは、『君公の佩(ハ)せ給へる御劔は、むかし素戔嗚尊大蛇の尾より切出したまふ宝劔なれば、悪神龍御船を覆し、宝劔を奪んとして起こる所の暴風ならん、吾宝劔と君とにかわり、海中に入りて悪龍を退治し、君公と宝劔を安泰ならしめ、又天下後世の人をして渡海風波の難を救ひ、永々海中の守護神となるべし』・・

海神の怒りを解くため、弟橘媛は「私は夫である皇子の身に替わって海の中に入ります。どうぞ皇子の東征を護らせ給え」と念じ、浪の上にボードを敷いて、その上に座って海に下りた。すると波が穏やかになり、船を進めることが可能になったが、ウェットスーツやラッシュガードを着ていなかったし、なによりサーフボードでなかった。リップカレントに流され着ていた着物の袖が岸に着いたところが袖ケ浦だった。

 暴風はすぐに止んだ。船は無事岸につけられた。時の人は、その海を名づけて、馳水といった。こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。日本武尊が木更津芸者と遊んでいた紀録は記紀にはない。弟橘媛が海に身を投じて難を救ったことから、日本武尊は御陵を作り、弟橘媛の櫛を納めて、橘の木を植えてここに祀った。『橘樹神社 (茂原市)』

石灯籠には天保十年(1839年)や嘉永二巳酉年(1849年)の文字が読める。

尚、ココは縄文遺跡の出土する宮ノ下遺跡でもある。裏の森が古墳。又海岸へ出て27km程南へ行くと志田下ポイント(2020年の東京オリンピック会場・釣ヶ崎海岸)になる。

弟橘比売命御陵

本殿

三社並ぶ境内社

向かって左から・・保食神(うけもちのかみ)・木花開耶媛命(このはなのさくやびめ)・天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)

日露戦争凱旋紀念

橘の紋

 

ところが話はこれで収まらづ・・風の神の支那斗弁命(しなとべのみこと)が厚かましくも無事に木更津まで着かせてやったのだから志那都比古尊も含めた社を作ってくれと言ってきた。日本武尊は民泊營業しないことを条件に建ててやったのだが、支那斗弁命はすぐに来たのに志那都比古尊は待っていても来なかった。そこで姉埼神社(あねさきじんじゃ)と言ふようになった。

島穴神社:主祭神は志那都比古尊(しなつひこのみこと)。

姉埼神社:主祭神は支那斗弁命(しなとべのみこと)。

 

「地名起源説話」

支那斗弁命が先に來たから・・・姉埼神社(あねさきじんじゃ)

弟橘媛の帯や袖が流れ着いたという伝説から・・・袖ケ浦市・習志野市袖ケ浦など

日本武尊は「吾妻はや」と嘆いた。・・・・日本の東部を「あずま」と呼ぶ

サーファーのご先祖様は房総で鎮座されておられます。ごきげんよう・・

千葉大学医学部本館前の庭園に記念碑があります。明治44(1911)年は辛亥に当たり革命運動が起こり、清王朝が倒れたのが辛亥革命です。その當時千葉医学専門學校はじめ全国の医学校に中国からの留学生が多数おり、母国に帰り医療行動をしたいという希望が高まり学生運動が起こった。

1905年8月、東京で「中国革命同盟会」が結成された。革命の気運を高める動きが明確になっていく。そして、遂に、1911年10月10日、湖北省武昌での武装蜂起を発端とし、翌年1月には孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府が南京に樹立されるに至った。

 その頃,千葉医学専門学校には,39名の清国留学生が滞留して居り,祖国の難を憂え,同士相集いて救国の志に燃え,戦陣に駆け参ずることを誓いあった。この快挙を契機に他の大学にもその情報は波及し,多勢の中国留学生の決起を促すことになりました。

 千葉医専にはそのころ40名弱の中国学生が在籍していたが、1911年4月27日の広州蜂起に、医専学生であった方声洞と喩培倫は、すでに落命していた。1911年秋、10月17日に千葉医専生の余継敏方を山口商業高等学校在籍の清国人・孫韜が訪問し、「革命軍は医官の不足及病院の設備なき為め、傷病兵の収容並に救療の途に窮せり。此条在日学生は赤十字軍を組織し、革命軍の為め、大に勢援せざるべからず。本校在学生は全部この任に当たられたし」と説得勧誘した。これに対し、千葉医専の在学生たちは「集合凝議の結果、敢て不同意者なかりしも、目下同校在学生は三十九名にして、うち僅かに四年生四名、他は何れも一二年生なるを以て、未だ実務に通ぜされば、活動力乏しく、而巳ならず、費用の出所なきより、ヤヤゝ躊躇するに至れり」との反応であった。

10月の武昌蜂起前に千葉医専学生の王錦雲・夏候沛らも帰国した事など、留学生周辺が慌しくなってきたことを伝えるが、千葉に残った中国在学生は清朝政府から「官費」を受給していたことなどもあり、革命への対処法について苦慮した。

 

1911 年10月、辛亥革命が起きた際、千葉医学専門学校(現 国立大学法人千葉大学医学部・薬学部)に在籍していた清国留学生たち 39名は、紅十字隊を組織して母国に戻り、 戦闘で傷ついた人々の医療・看護活動に従事した。

 

 當時千葉医学専門學校、校長の医学博士、荻生録造 教授(1884年6月~1914年12月)は、学生の要請を受けて文部省,外務省に要望し,戦陣より帰還の後必ず復学せしむるとの認可を取り付け,戦陣へ送り出すことを決した。

  千葉医専の留学生たちは、何度も議論を重ねた結果、最終的に、革命軍のみの支援でなく、清朝軍、革命軍の隔てなく救護する「紅十字隊」を組織し、祖国に赴くことを決定する。

1911年10月30日付け『東京朝日新聞』

千葉医専の留学生が協定した条項

①赤十字社の旨趣に基き、赤十字軍を組織し、官軍革命軍を問はず、負傷疾病病者を救護する事、

②清国公使及び学生監督に稟請し、之が許可を受くる事、

③赤十字軍組織の認可あれば、公使の手を経て、北京政府に電報する事、

④赤十字軍に関する費用は、予て横浜神戸其他各地に在留する清商の義捐に仰ぐ事、

⑤赤十字軍組織成れば、日本有名の医家を傭聘し、之を顧問とする事、

⑥赤十字軍組織に関し、熊本仙台岡山名古屋其他在留清国学生に向って檄を飛ばすこと、

⑦赤十字軍成ると同時に檄文を各地に飛ばし且之を新聞に掲載を請ひ、その旨趣を明かにする事、

⑧上海に於て組織されたる赤十字社と連絡し、共に活動する事。

 そして「中立の態度を固持して之に従事し、戦争終局するに至れば、直に日本に帰来し、専心医学を修め得業せんことを期すといふにあり」

 

千葉医専校長・荻生録造は、同校教授で県立千葉病院院長であった三輪徳寛等と連携を取り、帰国する留学生たちに、戦地における応急医療技術の講習会を開くことにした。11 月1日から8日の間に実施され、そこでは、三輪が「創傷療法」を担当したほか、筒井八百珠「外科手術」、井上善次郎「内科学」、荻生録造「眼科学」、平野一貫「調剤術」、森理記「包帯および担架術」、岩槻「看護法」等の講義がもたれた。

ところで、当時の清国軍隊の衛生施設が未整備であったことを伝える証言が残る。清朝政府の衛生顧問として三年間武昌に招聘されていた日本の一等軍医某いわく、「清国の軍隊には全然衛生隊なしと云ふも不可なき有様(略)軍医の如きもほとんど日本と同数を備へあるも、その大半は漢方医にて、甚だしきは繃帯の巻き方も出血に対する応急手当も知らず、日本の即効紙の如き膏薬を貼って一時を凌ぐといふ有様なり」云々。正式な軍隊である清国軍がこの有様であれば、ましてや革命軍はさらに未整備の状態であっただろう。

応急医療術を学んだ千葉医専などの留学生が重要な役目を果せたことは、想像に難くない。 11 月9日には、出発する清国留学生たちのために、日本人在校生650名と教職員が亥鼻キャンパスで壮行会を開いた。参加した日本人たちは、薬品や衛生資材を購入するための資金として、一人50銭ずつの寄付も行なった上、壮行会が終わると、全員で千葉駅まで行進し、見送りをしている

『紅十字隊の活躍』。留日学生による紅十字隊は,湖南省のほか湖北・ 江西・安徽・江蘇省などの地で,救護活動に当っ た。

「南京陸軍軍医院長一等軍医長」に就いていた王琨芳が、母校の荻生校長に宛てた手紙(1912年3月16日付け)には、荻生校長たちから「御深厚なる御教示に預り候事は、陸軍部総長、黄閣下[黄興=南京臨時政府陸軍総長]にも伝言致し候処、深く感謝致居候」と記されていた。

 

 1912年1月1日、孫文を臨時大統領として中華民国樹立を果たした。戦時に馳せ参じた留学生も中国国内が落ち着いた1912年4月ころから、漸次キャンパスに戻りはじめ、ほとんどの学生は復学を果した。そして、全学挙げての支援に感謝し,恩義に対する礼節を示すために出発からちょうど一年後の1912年11月9日に亥鼻キャンパスの一角に、記念碑を建立した。

〔碑文和訳〕

辛亥(一九一一年)秋、中華民国に革命が起こり、武漢での南北軍の戦争は、甚だ烈しくなってきた。留学生は、戦禍の蔓延にともなって、負傷したり死亡する者が多くなってきたので、同志を集めて赤十字隊を組織した。留日の医学薬学の学生を連合して、祖国に帰り、救援に赴いた。学校校長および諸先生方は、この挙を高く評価して、負傷の治療看護に関して、懇切に指導してくださった。また、学友は資金を醵出して、医薬品を購入し寄贈してくれ、出発に際しては資金計画を拡大して励ましてくれた。留学生一行は、祖国に帰り、湘・漢・江・准の各地に分駐して、負傷兵の大きな頼りとなった。六ヶ月が経って戦局は終りを告げたので、母校に帰ってきた。善事の記すべきものは無いが、諸先生および諸学友の行為を忘れないように、ここに樹を植え、碑を建てて記念とします。

その辞に曰わく。

王綱紐を解きてより(清朝宣統帝の退位)、共和を初めて打ち建てたが、国の歩みは艱難で、戦争は絶えず、伏屍は川を塞ぎ、山野を血ぬらせている。この人民の悲しみは、誰が護るのであろうか。三軍を励ますのは赤十字の旗、生死肉骨の難を救い、危うきを助ける。諸先生方も学友たちも、極めて公平で平和な世の中を願っている。世の中に仁寿を致し、人道を広め、徳意が盛んである。樹を植え、碑を建てて、万年永く讃える。

中華民国留学千葉医学専門学校学生同建

中華民国元年十一月九日  

日本大正元年十一月九日

 

日本留学経験のある「黃花崗七十二烈士」は、有名な慶應義塾の林覚民がいるが、千葉医学専門学校(現・千葉大学医学部)からは、方声洞と喩培倫の二人がいる。

 方聲洞  1906年入学、1911年中退、1911年辛亥革命に関わり、死去

  喩培倫 1908年入学、1910年中退、1911年辛亥革命に関わり、死去

 

林覚民

方聲洞

 喩培倫

 

日本留学経験のある「黃花崗七十二烈士」

AI検索できた日本留学経験者

氏名(日本語読み)    出身地(清代) 留学先/備考

林覚民(りん かくみん) 福建省侯官県 慶應義塾

方声洞(ほう せいどう) 福建省侯官県 千葉医学専門学校

喩培倫(ゆ ばいりん) 広東省南海県 千葉医学専門学校

陳和申(ちん かしん) 福建省侯官県 中国側に早稲田大学学生??

陳君 (ちん くん)   福建省侯官県 黃花岗烈士伝に留日記載

陳更新(ちん こうしん) 福建省侯官県 东渡日本,入九段体育会

 

引用文献:

辛亥革命. 留学生派遣記念碑           奥井勝二

明治~昭和期の千葉医学専門学校・千葉医科大学における留学生の動向

(付 千葉医専留学生・辛亥革命紅十字隊関係史料) 見城 悌治

 

ごきげんよう・・

*北新橋から北側


二十張福德宮の横にある日本軍醫青木少佐を祀る「聖靈公」は元は新店復興路付近、萬新鐵路の鐵路橋下にあったものが鐵路橋が壊されて現在の場所に移転したといふ言い伝えです。
*地図


北新橋は、1921年から1965年まで運行されていた鐵路新店線(萬華~新店間)の景美溪に架かる鉄道橋でした。当時は列車専用の鉄道橋で、車両や歩行者は現在の景美橋(景美舊橋)を利用していました。1965年に鉄道が廃止された後、道路橋に転換されました。
*萬新鐵路公館驛


*撤去が始まった景美驛


ことはそれで収まらず、おかしな橋がこの北新橋にくっついている。
台北羅斯福(ルーズベルト)路六段と新店北新路を結ぶ橋は、北新橋と鳴遠橋が連結した複合橋となっており、非常に珍しい状況になっています。鳴遠橋は景美溪の南側の復興路に架かる橋になっています。
*北新橋と *境界


つまり、台北市の景美から新北市の大坪林へ向かうと北新橋を渡るのであるが渡り終わったところは鳴遠橋となる。現在の北新橋は民國54(1965)年10月完成。鳴遠橋は民國85(1996)年1月完成。新北市と台北市の境界は北新橋の途中に表示がある。
*鳴遠橋


そこで気になるのが、1965年から1996年まで間は、新店側の復興路を跨ぐ橋がなかったとしたら?高低差はさほど無いにしても北新路と復興路の交差点がどうなっていたのか気になるところです。現在の復興路は鳴遠橋との交差部分が掘り下げられているので普通の交差点だったのでしょう。
*萬新鐵路新店驛


思えば淡水線も今は台北站から民權西路站まで地下鉄で圓山站から高架になっているが昔はず~と地上を走っていたのである。
ここだけではないのである。ただ橋が連結してるのはココだけ。
ごきげんよう・・

 

*映画では千代さんは・・・

*千代さんの碑

 圓山臨済護国禅寺の敷地の外、公園との法地にある石碑で、明らかに立場が中途半端なシロモノです。正面は潰されています。当初は抗日國民黨が潰したと思われたのですが、内容から判断して本土軍事化が進む過程で遊興的なものとして日本軍部が潰したものを、旧日本統治時代の復旧過程で宗教的石碑とともに建て直されたものと推測します。

日治時期《臺灣日日新報》から源氏名が「歲悅」本名は「浅井千代」と分かりました。彼女は1858年(安政5年)、横浜港で生まれました。実家は「唐物商」を営み、支那(一般的に「唐」と呼ばれていた)から輸入された様々な品物を販売していました。

台北檢番のゼネラルマネージャー

1929(昭和42月、常磐津歲悅71歳で、黄疸と胆石を患い、引退を発表しました。臺北檢番は西門共樂座で盛大な「引退披露演藝會」を開催し、艋舺、北投、基隆の商人たちが集まり、歲悅師匠の引退を見守りました。

1929(昭和4)年3月、後半の芸人人生を台湾に捧げた常磐津歲悅辭世。葬儀は、檢番の監視の下、西門弘法寺護国十善会・現在は台北天后宮)で執り行われました。

臺灣日日新報

しかし、ここで疑問が生じます。西門弘法寺で葬儀が行われたにもかかわらず、常磐津歲悅の墓石が圓山臨済護国禅寺の隣に置かれているのはなぜでしょうか。

戦後に西門町界隈にあった西本願寺や弘法寺などが壊されて石碑や石灯籠などが林口區の竹林山觀音寺や士林區北投區に移されたという話が残っていることから、このときに臨済護国禅寺に移されたとするのが妥当だと思ひます。しかしなぜ正面が潰されているのか、それはいつなのかについての疑問は残ります。

 *常磐津文字大夫流派家紋

 裏面本文を讀むまでもなく、正面敷石だけ見て想像が出来ます。「藝妓師匠」・「撿番」・「料亭置屋」という文字だけで当時の日本軍が許すとは思えません。

この家紋が使える人物とは相当な上位者だとお座敷藝の経験者の意見でした。

碑の建立は1929(昭和49月。

  蔣渭水が台湾民衆党を結成したのが昭和2年(1927)です。台北旧市街、大稻埕には,「江山樓」、「東薈芳」、「春風得意樓」、「蓬萊閣」という四つの大きな料亭がありました。そして春風得意樓の経営者は蒋渭水です。これらは「有歌女陪侍的酒家」で女性は「藝旦」と言われていたとあります。

  接待女性が全てチャイナドレスで胡弓を弾いていたというにはムリがあります。「置屋」「撿番」があったことに加えて、三味線に鼓に小唄長唄清元常磐津の世界があったと考えるのが普通だと思います。

台灣藝妲オールスターズ

*台北西門町古地図

日治時代に台北には三箇所の檢番があったそうです。台北檢番、大稻埕檢番、そして萬華共立檢番です。台北と萬華は日本藝妓で大稻埕は台灣藝妲(Yì dá)でした。台北は日本髮で三味線を、大稻埕は旗袍(チャイナドレス)に胡弓でしたが、萬華の方は今で言ふ「枕芸者」だったらしいです。

*大安医院

花柳界ですから当然に芸事だけではなく「色事」もあるわけで、蒋渭水の大安医院の写真には診療科目が「内科・花柳科」となっています。「花柳科?」なんとも粋な表現です。

  蔣渭水は社会運動家として知られていますが、大稻埕の花柳界に大きな力を持っていたことが想像できます。昭和4年石碑の常磐津女師匠が亡くなったとき蔣渭水38歳、亡くなる2年前です。蔣渭水と石碑の女性は、なにがしらの面識、仕事上での関係があったと思っています。

碑文裏面

碑文裏面(解読出来たもの
常磐津(止玉)祝(仯マ)文字太夫の流れを
傅へて明治三十一年○渡る○江戸生粋    (1898)
の(懐・順)に玉を(やつ河をし)解かれふ正(潤)の(供)に
席(破)急を希望○三十三年の久しきを
塙撟○○○昇りつくし昭和四年三月退(懐)
○出○大命を○○在方り病急の○り
病裾に(千代)直くしの(撰)(掉)を(聞)き莞爾
仰して瞑す本名井千代享年七十一
命しるとで仕舞を
ことのの弾みから
昭和四年九月  (1929)

 *臺北市榮座‧臺北檢番藝妓連の舞踊─

******

千代さんは、台北檢番で若手の藝者さん達を育ててゐたのでしょう。

その場所は現在の西門です。

*ラジヲにも登場していた常磐津歲悅・・

研究論文『1925年6月の台湾に於ける芸能活動』長嶺亮子の表1、ラジオプログラムより。

1924年に東京放送局が設立されてラジオ放送が開始し、 次いで大阪放送局も設立した。 台湾放送局は、1925年6月8日展覧会第3会場交通館から実験放送として展覧会会期中の6月17日から十日間行われた。その番組表に常磐津歲悅が登場しているから、台湾を代表する芸能家であったことがわかる。

ちよこおばちん。

そこでもう一つヘンな神様が宜蘭に居るのです。名前がちよこおばちん。

宜蘭牛埔仔永惠廟-開漳聖王に神様にされた芸者さんとされる人がいます。温泉旅館の帳場の神様で、経営不振だった温泉旅館に色々アドバイスして立て直しをしたという言い伝えがあります。宜蘭縣1901まで臺北縣でその後臺北廳1920から1945まで臺北州でしたので行政区が同じとなると温泉旅館の宴会に関して臺北檢番の指導を受けていたと考えられます。淺井千代さんが芸者さん指導や花代の取り決めに関係していたことが考えられます。

   最後までご覧いただき有難う御座います。

台北に来られたときは、この石碑も見てください。

感謝:【五丁目的美術史專欄】

《臺灣日日新報》藝妓回憶錄:關於圓山捷運站旁臨濟護國禪寺石碑的秘密

2025.04.07劉錡豫 を引用しています。

ごきげんよう

關西東安古橋
上から見るとブサイクな橋ですが下から見ると・・


キャーエッチ、ドコ見てんのよ~と言はれながら・・・
エ~やんか減るもんやないし・と関西弁で言いながら川岸に降りる。


 新舊兩橋並立
1933年に建造された橋に、2003年に旧橋を損傷することなく新橋が架けられた。アンタはエライ!!
台湾の古橋を見に行くと横に新橋があることが多い。新しい橋が架けられても古い橋が残されていることは良い文化だと思ふ。さらにココは古い橋をそのまま使っていることが超エライと思ふ!

舊橋側から見たお姿。
關西の市街地から見て左が新橋、右が舊橋。


橋脚がキレイやなあ~・・まだ見てんの、警察呼ぶヨ、
橋からそう言はれて橋の上に戻るとパトカーが止まってた。
職務質問は受けなかった。

東安橋は元々は木造橋で、洪水によってしばしば流され、地元住民は堅牢な石橋の建設を訴えました。日本人技術者の設計と、地元で名高い石工の李鎮による施工が行われました。数十年を経た現在も、橋は当時の姿をそのまま残しており、その卓越した技術力と品質の高さを物語っています。


上流にある情人橋

キレイな公衆トイレ・立ちション便器もドア付きです。


牛蘭渓の河畔は台湾北部の象徴的な名所として、際立った水辺の景観を形成しています。東安橋は周囲の景観に溶け込む優美なフォルムを誇り、地域性と現代性を体現しています。その優れた構造は、未来の世代にとって模範となるものです。後世の補強工事により橋の外観の一部は不明瞭になっていますが、当時の景観を鑑賞する上では損なわれることなく、建築技術の研究にとって貴重な資料となっています。

毎年10月になると、九降風と言はれる竹北海岸から鳳山渓や龍潭を経て關西へ吹き付け風があり、冷たく乾燥しており、雨は少なく、日照時間は豊富です。この環境が黄金色に輝く漬物を発酵させるのに最適で、酸味と香りが際立っています。ここは古くから漬物の名産地なのです。
關西の古名は鹹菜甕と呼ばれていました。
客家人が漬物(鹹菜)作りに長けていたこと、そして「鹹菜」の発音が北京語では「シエンツアイ」ですが客家語では「カンサイ」という発音が日本語の「關西」に通じることから、關西鎮といふ日本語化された地名となりました。

客家童謠【鹹菜歌】童謠帶動唱客家兒歌という唄を聞いてください。

カンサイ・カンサイ と唄っています。童謠で【鹹菜歌】漬物歌作るか?

客家童謠【鹹菜歌】童謠帶動唱客家兒歌 - YouTube
これは、大正9年の日本統治時代の市制改正で、12府県が5府2県に縮小された際に、關西と改称されました。。しかし、日本の「関西」は地名ではなく地域名であって関西地方と呼ばれます。実際に地名として使われているのは、新竹縣の「關西」だけです。



關西鎮の田んぼアート
皆さんは、アレ?・・と思ふでしょ!!
そうなんです、ココは台湾ですから・・・
『米は二度なる 甘蔗は伸びる名さえ蓬莱 宝島』
これ今年二回目のお米で御座います。
關西鎮ですから兵庫大阪京都などあって・・ウソです。
古橋のある雰囲気が良い街です。
關西鎮への行き方・・
國光客運、台北轉運站から竹東行きのバスで途中下車ですが注意!
竹東行きは【1820】と【1820A】があって【1820A】に乗ること。
そうでないと高速道路降りたところで停車し街中へは行きません。
【1820A】だと關西鎮公所北側のバス停に止まります。
ごきげんよう・・

日本統治時代、政府は水利施設を非常に重視しました。1923年には竹東水利組合が設立され、現在の竹東、瓊林、衡山の3地域を管轄し、1,328ヘクタールの灌漑面積を誇りました。1924年、当時の新竹州知事古木章光と竹東郡守內田芳雄の指導の下、竹東圳の建設が開始されました。しかし、資金は著しく不足しており、不足分は受益農地の地主によって負担されました。最大の受益者は林春秀でした。林春秀は運河建設のため「三益株式會社」を1926年8月に正式に設立し竹東圳の建設が開始され、林春秀が工事責任者となった。


林春秀は清朝光緒元年(1875年)に生まれ、1958年に亡くなりました。清朝光緒17年(1891年)、16歳で父と共に二重埔に移り住み、後に旧式の製糖工場を経営し、後に土地を購入して茶や米などの作物を栽培し、目覚ましい成功を収めました。林春秀は事業だけでなく、地域活動にも熱心に取り組み、1900年には聯合青年団の団長を務めました。 1918年には(授佩紳章)栄誉勲章を授与されました。1919年には地方稅調查委員、國勢調查委員、庄協議員を務め、後に學務委員や保甲聯合會長を務め、地域社会で高い評価を得ました。
これが文化部の國家文化資産網にある記述。


ところが題字の部分を見るとなにやらオカシイ・・・
なにがなんでも大正も昭和もイカン!!
大正15年を民國15年に・・昭和3年を民國17年に。。
こうなると「創設功勞者林春秀」もアヤシイなあ・・
白冷圳で有名な磯田謙雄さんが関係しているという情報もあるが一次資料は確認できない。一般に土木技師の名前を刻むことは少ないので当時の新竹州知事古木章光さんあたりの名前があったのではないかと推測する。
この水が新竹サイエンスパークに利用されている。エライ水です。



磯田謙雄(1892年5月6日—1974年8月16日),日本石川縣石川県金沢市族家庭,1918年7月東京帝国大学土木工学科を卒業後、すぐに台湾総督府土木局に入局し,約29年間台湾で勤務。日本統治時代の台湾では、水利事業に携わり、台中市新社に白冷圳を建設したことで「白冷圳之父」として有名。


磯田謙雄は、八田與一技師と同じ金沢(現・尾山町)出身で7歳年下、旧制金沢一中、旧制四高、東京帝国大学工科大学土木工学科から台湾総督府、まさに八田與一と同じ道を歩みます。大正7年、台湾総督府に赴任した磯田を「丁度今は家内が内地に行って僕一人だから・・」と言って自宅の離れに住まわせてくれたのが、先輩・八田與一でした。
磯田謙雄の多くの功績のなかに頭前渓治水工事があり(八田與一文化芸術基金会が公表している資料)頭前渓とは新竹中心を流れる川であってその上流が上坪渓になり竹東圳と同じ水系になるワケで、限りなく竹東圳の主役が磯田謙雄であった可能性が高い。

竹東圳は新竹地區の水利事業だけでなく、その完成は地域の生活と産業の発展に寄与し、当時の社会に大きく貢献しました。現在、新竹サイエンスパークの水源となっている寶山水庫は、1985年の開通当時、竹東圳からの取水に依存しており、台湾の経済発展にも貢献しています。
ごきげんよう・・・
 

東寧橋のたもと…思いがけない発見:別世界!
曉江亭


現在の東寧路にある東寧橋…石造アーチ橋、この橋は当初「軟坡橋」と呼ばれ、簡素な橋でした。

大正十(1921)年当時、地元の有力者である甘承宗が多額の寄付を行い、石造アーチ橋に架け替えました。地元住民は寄付金の一部を使い、橋の脇に茶亭を建て、曉江亭と名付けた。そこは輕便鐵道の休憩所であり、憩いの場であり、近隣住民があらゆることについて語り合う場所でもありました。ここでは、お茶を楽しみ、語り合い、そして世の中について学ぶことができます。そして洗濯もします。


曉江亭は産業、交通、そして伝統信仰が一堂に会する唯一の建造物です。
2017年、新竹県歴史遺跡・歴史建造物審査委員会は現地調査を行った後、この建物を史跡に指定した。
石造アーチ橋が造られ、重厚で幅広の石造アーチ橋
澄んだ洗い場…客家女性の質素な美徳
昔は輕便鐵道(路面鐡道)がありました。


地図にある樹杞林が竹東鎮の舊称になります。
1920年に新竹の東方になるので「竹東」になりました。 
昔は「軟坡橋」だったワケでお寺と洗衫坑があったとすればそこは絶好の客家人の「ナンパ橋」。軟坡soft slope 意味もイイ。
と言ふことで日本各地に点在する「ナンパ橋」の漢字表記は。。。
軟派でなくて「軟坡橋」にしよう!
ごきげんよう・・・

 

誰もツッコミを入れない・

學校で教えられない・・・

♬:マッカーサーは台湾へ遊びに来ていたことがある

真ん中のおじいちゃん、昔から共産党と仲良しだった。

 

♬:八田與一は野球部の幹事をしていたことがある

ダムと用水路を作っていただけとちがう。

 

♬:非暴力運動家とされる蔣渭水は暴力事件で処分受けてた。

蔣渭水文化基金会門外不出、週刊文春に知られたらヤバイ。

 

♬:終戦の年に新店區新潭路三段には連合軍兵捕虜収容所があった。

今はなにもないが戰俘營紀念碑だけがある

 

♬:台中清水神社の狛犬さんは撤去されて戻されたが左右逆にされた。

向きも90度違ふ。

 

♬:杉並区にある「汪兆銘」の墓碑に「滅漢興漢」、正しくは「滅満興漢」

だれかツッコミ入れたらんかい!

 

♬:鳳山三界万靈塔は塀に向かって立っている

もう・・笑うしかない。

 

ごきげんよう・・


 

誰がいつどこに建立したものかわからない。
しかしこの慰霊碑に記載された内容は昭和16年3月1日、美幌海軍航空隊の歴史と一致している。

美幌海軍航空隊の歴史から・・・
昭和16年3月1日、美幌空は長崎県・大村基地や千葉県・館山基地で訓練を続ける中、台湾・台中基地に向けて移動の際、司令・宗雪新之助大佐、飛行長・馬野光中佐が同乗していた分隊長・奥山正市大尉操縦の指揮官機は、台湾・新竹Hsinchu東方20km、桃園Taoyuan上空、高度3500mにおいて空中分解して墜落し、11名全員が殉職しました。
【石碑の階級は一部昇進しており氏名階級は記述と完全に一致する】


『ウィキペディア(Wikipedia)』の美幌海軍航空隊には・・
歴代司令・宗雪新之助 大佐:1940年10月1日 - 1941年3月1日殉職となっている。


桃園市政府・
飛行機が桃園空港に墜落し、慰霊碑も元々は空港の近くにあったという。その後、軍人村の住民の反対で大北坑に移設されたという。

しかし、ここまで遠くまで移設するのはおかしい。日本の記録を調べてみると、墜落は新埔か龍潭付近で起きたようだが、詳細は失われている。「移転があった」とする情報は複数の台湾側・日本側の二次情報で裏付けられるが、「最初の慰霊碑の正確な座標」「移転の日時や公式記録」を示す一次史料は確認できない。
新竹東方20km、桃園上空であれば桃園空港より現在の慰霊碑の方が近いし、そもそも桃園空港が出来たのは1979年だからなんでそんなところに慰霊碑をつくるのかがワカラン!戦前の桃園飛行場の建設は 昭和19年(1944年)頃であって、しかも陸軍が行っていた。海軍はいない。

ここへ行くのには三度目の挑戦でやっと行けた。一回目は知人のバイクを借りて行ったのはよいが途中でエンジンストップ、断念してバスで帰り翌日バイクを修理屋へ持ち込むが結局廃車となり、たまに使っていた彼の奥さんが怒り出して夫婦ゲンカが収まらない。二回目はバスで行こうと始発の新竹客運楊梅站で待っていたがバスがない。三回目は台湾のバスはあてにならんとバス停を変えて楊梅火車站で待つと予定時間にやってきて乗る。乗客は一人だけ、一日三往復だから帰りの便が不安だったが・・やはり来なかった。7km程をテクテク歩いて駅まで歸る。

地方へ行くと台湾のバスは探偵会社が運行している・ウソですよ。
良い子の皆さんはマネしないように・・ごきげんよう・・