昭和時代支那兵の実態

1937-10-31

※※ 228を迎えるにあたって・・

日本人の支那兵認識の誤解!

多くの歴史研究者は支那兵を普通の國軍兵士として歴史を語る。

異文化コミュニケーションを理解していないのです。

戦後の臺灣人が一番よく知っている、國府軍がやってきたとき・・・

占領軍よりもみすぼらしかった歴史を知っています。

日本占據時代に産業革命の蒸気機関・電気・通信・文化を知っている・

しかし大陸チャイナは50年以上も文化が止まっていたのでした。

臺灣人と大陸華人との異文化コミュニケーションが出来なかった歴史です。

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支那軍の行軍の様子

 

軍中楽園(台湾映画2014年)と

台湾海峡一九四九(原題:大江大海。2012年)

著者・龍應台(馬英九政権時代の初代文化部長)

から見える近代支那兵の実態を探る。

支那兵の実態は弐戰後の臺灣人が体験している。

制度に基づき訓練を受けて戦地に派遣された人たちではなかったのです!!

多くの臺灣元國軍老人兵士がそうであるんです、

年金削減しないでください。??

 

映画軍中楽園の場面に登場する大陸出身の老兵老張の回想には、

①郷里の畑で母と野良仕事してるとき兵隊にさらわれる。

②母は布靴を形見に作ろうとしたが布靴の底しか届けられなかった。

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台湾海峡一九四九の内容から

①「軍の人さらいだ!」母が「逃げなさい!」私に餅を渡しました。

②引き出しに仕舞ってある布靴の底を手にするとき父はいつも泣くのだ。

③林精武は草履が作れなかった、読み書きできない老兵のために新聞を読み手紙を代筆し、その代わりに自分の草履を作ってもらった。

④國民黨政府の徴兵は当初は買っていたが、さらうしかなくなっていった。

⑤将校は部下に命じて兵隊になれそうな若者をさらいに行かせた、さらってきた兵が多ければ分隊長・小隊長になれる。

⑥我々を捕まえたのは第八二砲兵中隊で一人四発の砲弾を運びました、前後に二発ずつ括りました。

⑦内戦時捕虜になると一週間もすれば立派な敵國兵になる、紅色腕章をつければ紅軍兵士で星模様帽子を被れば國府軍になれる。ご飯が食べれたらどちらも同じ。高齢者になって記憶が曖昧になり、當時自分がドチラの軍隊かわからない老人がいる。

 

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昭和12年9月頃上海海軍陸戦隊の通信記録には次のようなものがある。

①敵は前線に児童まで送り込んでいる。

②最前線と督戦隊の間で同士討ちが始まった。

 

日本軍についてきた児童

待ち構える支那兵

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結果検討考察結論:

日本の大河ドラマで見える戦国時代の方がまだマシ!!

ごきげんよう・・・

 

房総に残る昭和の世界・・

茂原市ホームページ・茂原の文化財から・・「掩体壕」

茂原海軍航空基地跡・3号掩体壕

 

太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年9月に、木崎・谷本・町保・新小轡・本小轡等の約150戸の民家や東郷国民学校(現東郷小学校)及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地の建設が始まりました。

司令部跡は現萩原小学校、兵舎跡は現茂原中学校、滑走路跡は三井化学(株)東側の約1,000mの道路で、基地の東端は東郷保育所前を通る通称海軍道路と呼ばれている辺りです。基地の北側には誘導路が巡らされ、戦闘機を敵襲から守るための格納施設である掩体壕が造られました。

掩体壕(3号掩体壕)は土砂を壕の形に盛って転圧して筵(むしろ)や板を並べ、その上に鉄網等を張ってセメントを流して造られており、総面積365平方メートル、壕の中の面積286平方メートル、高さは最大6m70cmあります。築城は、主に横須賀鎮守府から派遣されてきた海軍設営隊が行っておりましたが、長生中学校や茂原農学校(現長生高校・茂原樟陽高校)の生徒、近隣住民等も動員されたことが確認されております。

戦争の記憶が薄れていく中、当時の様子を物語る貴重な戦争遺跡です。

 

なぜ蒋介石は山本義信さんへ?

山本氏記念碑 (新北市中和區自強公園内)と以徳報怨之碑(いすみ市)の関係・・

*

山本義信さんとは、大正年間に多くの鑛業權を獲得し、山本鑛業合資會社を成立し社長となります。その後に公共事業への投資にも力を入れ、板橋庄協議會員、臺灣鑛業會理事,板橋市長を務め、陽明山草山羽衣園の建設を開始します。(七星山を中心とする国家公園、現在の陽明山、草山行舘、陽明書屋、一帯すべてです)。。山本義信さんと妻子は日本へ返還された。この時、所持出来るお金は規定により一人千圓でした。山本義信さんは千葉縣茂源市の実家に帰りましたが、それ以来、台湾のことについては口を開きませんでした。

1956年(民國31年)の初めごろ山本義信さん75歲の時,國民政府の董顯光から感謝状を受取ります。(董顯光さんは1952年5月に駐日大使、1956年5月から駐米大使をした人です。)

同年3月24日國民政府から蒋介石総統拜訪のため台湾へ招待されます。

1957年5月國民政府は山本義信さんへ、特別な送還者手当を支給しました。

 

※つまり蒋介石さんは台湾に残した日本人財産のゼ~ンブを自分のモノにしちゃったのですが・・

オイオイ、梅屋庄吉別荘の同郷とあらば、ちょっとは御礼・仁義を通しておこうかと・・・

と、まあ、そういうところではないでしょうか?

 

梅屋庄吉と蔣介石の関係をいすみ市に探す..

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表面:梅屋庄吉先生顕彰会  梅屋別荘跡地  梅屋庄吉愛用の井戸

裏面:梅屋庄吉(一八六八~一九三四)の事跡

明治元年(一八六八)十一月二十六日、長崎の貿易商の跡継ぎとして誕生。

若年より東南アジア各地に雄飛し、明治二十七年(一八九四)初頭、香港

に居を定める。明治二十八年(一八九五)一月、この地にて、孫文と邂逅。

孫文の革命思想・大アジア主義に肝胆相照らして義兄弟の盟約を結ぶ。

以降、東京に於いて映画事業を経営し、その巨額の成果を尽くして、辛亥

革命(一九〇五~一九二五)の成就を支援した。その間、大正四年(十九

には、東京の自宅に於いて、妻トクと共に隠れたる仲人として、孫

文と宋慶齢の結婚式を挙行。また、亡命中の孫文、蔣介石等の革命の志士

達に憩いの場を提供すべく、大正十年(一九二一)に三門海岸に別荘(一

万五千坪)を購入し、志士達や本邦名士達を招くと共に、三門の人々と風

物をこよなく愛し、晩年の大半を此の地で過ごした。孫文の国葬には日本

代表として招待され弔辞を述べると共に、更に孫文の冥福を祈るため、髙

さ十数尺の孫文の銅像五基を建造して中国各地に寄贈した。(現存)

昭和九年(一九三四)十一月十五日、廣田弘毅外務大臣の要請を受け、日

中問題打開のために、蔣介石総統と会談すべく、療養中の三門の別荘から

駅に向かったが、列車を待つ三門駅ホームにて昏倒、七日目に帰らぬ人と

なった。孫文と義兄弟の盟を結び、日中友好に生涯をかけ、その心と財を

尽くした梅屋庄吉、享年満六十五であった。

平成十三年八月吉日

この地を開発するに当たり記念碑を設立する。

(株)東昭建設

(株)御宿土地

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ChatGPT:さんの検索結果によれば・・・

梅屋庄吉は孫文さんの「ATM」ではなく「ルーター」国際人脈

 

民間消費財・文化産業だけで辛亥革命級の資本力はあり得るのか? あり得ません。!

「幕末〜近代東アジアにおいて、武力・資金・国際ネットワークを動かせる“非国家アクター”が連続的に登場した」しかし・・

武器商人坂本龍馬⇒岩崎弥太郎⇒梅屋庄吉⇒孫文⇒蔣介石・・は繋がらないか?。

「梅屋庄吉が“自分の事業収益だけで”辛亥革命を財政的に支えた」

というイメージは、ほぼ確実に誇張です。

梅屋庄吉さんと孫文さんにダマされてお金を出したと思はれる人に、孫文の支援ネットワークに関わった人物として、松方幸次郎・安川恵一郎・鈴木九五郎等の名前がある。

梅屋庄吉をめぐる世界は、「立志伝の実業家」・・実際にあった 秘密結社・亡命者・地下資金・偽名・匿流・・列強の半植民地状況・公然とやれないから地下化せざるを得なかった現実が生んだ当時の標準的な政治運動の形だった。「秘密結社っぽさ」は歴史です。

 

仮に孫文の主張する革命が成功していたら?・・・

「革命いまだならず、同志なおすべからく努力すべし」
(革命尚未成功,同志仍須努力)・・・・成功せんでエエ!! 

孫文が「国父」として神格化されたのは、皮肉にも「志半ばで倒れ、権力の汚濁に完全に染まりきる前に退場したから」という側面否定できません。

結果として「民権」ではなく「外国資本と結託した一部の資本家による独裁」に変貌していた恐れがあります。孫文の活動を支えた資本家による「国家の私物化」革命資金の返済として、利権の切り売り、結果、「外国資本と結託した一部の資本家による独裁」に変貌していた恐れがあります。孫文が提唱した「軍政・訓政・憲政」の三段階論は、理屈の上では民主主義への準備期間ですが、実態としては「国民が賢くなるまで党が独裁する」という免罪符になり得ます。蒋介石時代の國民黨がそうであったように、「今は訓政の時期だから」という理由で言論統制や政敵排除が正当化され、結局は「民国」という看板を掲げただけの専制政治が長く続いた可能性が高い。孫文には自前の強力な軍隊が不足していた。

恩賞としての官職: 資金援助した勢力や、協力した地方軍人に「実効支配権」を安売りせざるを得ず、中央政府の威信は形骸化します。軍閥割拠と実態は何も変わらない

中華民國同様に実効支配不在・民衆支持欠如・国名と実態の不一致は同様であったでしょう。

 

房総に残る支那共和国

北洋政府時代、孫文さんと蔣介石さんは大原漁港のイセエビ食べとったらしいゾ!

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ロシア戰爭企業・ワグネルのプリゴジンか國民黨の蔣介石か?

*以徳報怨之碑・由緒(碑の裏面)

 昭和二十年(一九四五)八月。日本の降服で戦争は終わった。

 あの、泥沼さながらの全面戦争のなかで、日華両国、両族が体験した惨状、痛苦は言語を絶し、

今にしてもなお、胸えぐられる想いを禁じ得ない。

私たちは、戦勝国による国家分断占領、民族離別の危機に直面したが、中華民国の蔣介石総統の

尽瘁を戴くことに依り、現在を迎えることが出来得た。

 即ち蔣介石総統は日本の国体変革、分断占領の非を強く主張され二百余万人に及ぶ在華日本国

将兵、邦人の速やかな送還を実現されたのみならず、日本再生のためにと戰爭賠償すら求められ

なかった。

 往古以来の歴史を繙いても、この様な寛大極まる措置は稀有である。

 蒋介石総統は説かれた。「徳を以って怨に報いる」と。以徳報怨。僅か四文字。

 然し、そこにこめられた蔣介石総統の温情は天地を満たしてもなお余りあり、中国の国父

孫文の大アジア主義を礎とされていることに、深い感動を覚える。

 顧みるに此の地、千葉県夷隅郡岬町は、日華親善に生涯を捧げられ、慈父と仰がれた国士梅屋

庄吉翁(一八六八~一九三四)の終焉の地である。

 翁は若き日より義兄弟の盟を誓い合った親友孫文のために、私たちの想像を絶する莫大な私財

を投じ、革命支援、新生中国誕生に献身された。

 岬町江場土海岸に今なお跡の残る翁の別荘には、日本亡命中の国父孫文が秘かに身を寄せられ、

蔣介石総統も若き日に、しばしば訪れ中華革命の烈士ともども、幾度も挙兵の策を練られた。

 この様に、由緒深き地に在る私たちは、蒋介石総統に戴いた、あの恩義なくしては、今日の

日本の繁栄は有り得ないことを想い、有志相語らい、日本各地の同志各位の賛同を仰ぎ、ここに、

彼の恩義を石に刻み、以徳報怨之碑として永世に伝える。

   昭和六十年四月吉日

              蒋介石総統顕彰会  議

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碑の建立が1985(昭和60)年、蔣介石死去が1975(昭和50)年。

「中正紀念堂」が出来たのが1980(昭和55)年で・・その後・・

蔣介石、蔣経国が死去し、戒厳令が解かれると、蔣介石像は一般市民からたびたび議論の的となり、破壊され、撤去されるということが繰り返されるようになった。一部の市民は、主に二・二八事件の日に合わせて蔣介石像を破壊するようになり、現在でも蔣介石像の破壊活動は頻発している。

国民党は一貫して蔣介石を支持してきたが、2000年に台湾最初かつ最大野党の民主進歩党が初めて政権を握り、陳水扁総統は精力的に去蔣化を推し進めた。

2020年10月時点の政府機関の統計によると、台湾全土の公共空間に蔣介石・蔣経国の像が971体あるという。

慈湖紀念雕塑公園 慈湖蔣公銅像公園 | 八条院暲子内親王之令旨 **** 乍恐以電信奉申上候

高雄県が2000年に最初に像を寄贈すると、続いて全土から続々と不要になった蔣介石像が送られ、さらに民主進歩党の蔡英文総統の時期には各地で公共の場所からの撤去が進められたが廃棄されずに寄贈されてくるものも多く、2022年時点で約300体の蔣介石像が展示された。

***

1929年3月26日

蔣介石設宴招待護送孫中山銅像到中國的梅屋庄吉。

蔣介石、宋美齡與梅屋庄吉夫婦及女兒等合影

 

※:この場所「三門別荘」、蒋介石と梅屋庄吉の深い絆を示す歴史的拠点でした。 

梅屋庄吉は、三門海岸近くに15,000坪(約5ヘクタール)という非常に広大な土地を購入し、別荘を構えていました。蒋介石は日本滞在中、しばしばこの別荘を訪れ、孫文二人いすみ川で釣りを楽しんだ。大原海岸で獲れるイセエビやアワビを堪能していたと言われています。

この別荘には、蒋介石だけでなく犬養毅や頭山満といった当時の日本の有力者も招かれていました。 

蒋介石にとって三門の地は、政治的な亡命生活の合間に、信頼する梅屋庄吉夫妻のもとで心身を休めた「安息の地」の一つだったと言えます

※:だからと言ってバカデカイ銅像はいらんゾ!

ごきげんよう・・・

財團法人台北市私立愛愛院のホームページより・・

財團法人台北市私立愛愛院は、1923年に愛愛寮として設立されました。淡水出身の実業家であった創設者の施乾は、当初、物乞いや社会的に疎外された人々を保護することを目的としました。彼は自身の財産を売却し、これらの社会的弱者のための住宅を建設し、彼らの生活を根本的に改善しました。時が経つにつれ、「愛愛」の機能は徐々に変化し、物乞いのための特別な避難所から高齢者のための介護施設へと変化し、「財團法人台北市私立愛愛院」と改称されました。その運営理念は、「愛情と忍耐による包括的なケア、ホリスティックケア、人間中心のアプローチ、ケアを託された人々を大切にし、心からの愛情をもって個別のケアを提供する」です。今日、台北愛愛基金会は100以上の歴史を誇り、数万人の高齢者を支援し、革新的な精神で慈善活動を推進し続けています。

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「台湾乞食の父」・・施乾

写真は、「台湾乞食の父」として知られる愛愛寮の創設者、施乾先生です。台北県淡水街に生まれ(1899~1944年)、裕福な家庭に育ちながらも、謙虚さと自制心を強く持ち、仁の徳を体現する人物として育てられました。

 

施乾は滬尾公學校を卒業後台湾総督府工業研修所(台北工業学校、現台北理工大学)に入学しました。その後、総督府で技師として働き、工業・商業調査や統計業務を担当しました。この間、艋舺地區の貧困層の生活調査を命じられました。艋舺の貧困層の窮状を調査した際、路上で物乞いをしたり病に苦しむ同胞の苦しみに深く心を打たれました。貧しい同胞たちが路上で物乞いを強いられ、飢え、病気、そして無視に苦しむ姿を目の当たりにした彼は、1923年(大正12年)、困窮した乞食たちを保護するため、彼は決意を固めて職を辞し、全財産を投じて親戚からも借金をして艋舺に土地を購入し、より多くの貧しい乞食を助けるために愛愛寮を設立しました。

茅葺き小屋を建てて乞食たちの住居としました。自ら彼らの体を洗い、読み書きを教え、豚の飼育、野菜の栽培、帽子や靴の編み方などを教え、自給自足の生活を教えました。さらに、物乞いの生活を観察した施乾は、物乞い問題の解決に向けた行動計画を提言し、この問題への意識を高めるための著書を執筆しました。

施乾(し かん、Shi Qian)は、日本統治時代の台湾で乞食や浮浪者の救済事業に尽力した社会事業家です。彼の著書や著作に関連する資料は以下の通りです。 

『乞食群衆の評論』 (原題: 乞丐群衆の評論)施乾が台湾の乞食の実態や、乞食となる原因について分析・執筆した著作です。

関連書籍(伝記・研究)

『臺灣乞丐之父:施乾』(玉山社) - 施乾の生涯をまとめた書籍。

『台灣乞丐之父: 施乾的思與為』施乾の思想と行動についての研究書。 

施乾は、賀川豊彦の『貧民心理の研究』などを参考にしつつ、自身が設立した「愛愛寮」における実践に基づいた乞食救済事業の記録を残しました

施乾は、自身が創設した乞食収容施設「愛愛寮(あいあいりょう)」での実体験を基に、乞食の生活を観察・分析しました。この本では、乞食問題を解決するための具体的な行動方針や社会への提案がなされています。

単なる施しではなく、乞食に住居と仕事(農業、工芸など)を提供し、自立を促す「更生」を目指しました。

社会運動家としての施乾:当時の社会で疎外されていた乞食に対し、敬意と愛情を持って接し、彼らの人間性を取り戻すための活動を生涯続けました。

社会的評価:1930年には、その功績が認められ、日本宮内省から天皇より下賜金(御賜賞金)を授与されました。 施乾の活動は、現代のSDGs(持続可能な開発目標)の目標1「貧困をなくそう」の先駆的な取り組みとして、現在でも高く評価されています。彼は物乞いをなくすという理想を実践しただけでなく、国民が担うべき社会改革の責任も示した。

施乾愛愛寮を設立した後、物乞いの世話と経費管理という困難に直面した時、最初の妻である謝惜女士は常に揺るぎない支えとなりました。彼女は持参金を愛愛寮の運営資金に充て、物乞いと共に暮らし、食事を共にし、昼夜を問わず世話を続けました。1930年、施乾は天皇に謁見し、愛愛寮にとって大きな栄誉となる皇室褒賞を授与されました。しかし、妻の謝惜は1932年に過労で亡くなりました。愛愛寮の運営危機と、物乞いの世話を担う有能な助手を失ったにもかかわらず、施乾は活動を諦めませんでした。 ******

 

日本の文豪である菊池寛は、台湾を訪れた際に台北の街から乞食が消えたことに驚き、その背後に施乾の活動があることを知りました。菊池は施乾の理念と献身に感銘を受け、日本国内のメディアでこの活動を広く紹介しました。これにより、施乾の事業は日本でも大きな注目を集めることとなりました。 

 

清水照子は1910年、京都市下京区の紙商の家に生まれました。4人姉妹の長女として、古都京都で育ち、使用人の世話を受け、祇園祭や稲荷祭を体験しました。清水照子は京都府立第二高等女学校(現・京都府立朱雀高等学校)を卒業後、茶道や華道といった婚礼の技を学び、父の縁結びを待ちました。

 当時、清水照子は菊池寛の文章などを通じて施乾の活動を知り、深い感銘を受けました。そして偶然にも、彼女の隣人であった施秀鳳は施乾の従妹であった。

施秀鳳が施乾清水照子相互文通の仲立ちを務めた。二人は手紙のやり取りをし、やがて結婚の話が持ち上がった。当時、施乾は妻を亡くしたばかりで、最初の妻謝惜との間に二人の娘を育てていた。しかし、両親の反対を押し切って、清水照子は1933年、加茂神社で施乾と結婚した。神戸港から台湾へ向けて出航した日、親族の見送りはなかった。

{清水照子死後になって彼女には當時銀行家御令息との見合い話があったことがわかる}

昭和9(1934)年、施乾の慈悲深い心に感銘を受けた日籍富家女清水照子女士は彼と結婚し、愛愛寮の活動を支援するために台湾に渡りました。清水照子もまた、物乞いたちの世話に自ら心を尽くしました。1944年(昭和19年)、施乾が脳出血で亡くなった後、清水照子は施乾の無私の愛を受け継ぎ、愛愛寮の運営を引き継ぎました。

 

「台灣乞丐之母」~施照子本名清水照子

 

施照子(してるこ、1909年3月30日 - 2001年12月9日)は、本名を清水照子といい、京都市下京区に生まれました。彼女は台湾で愛愛院の創設者である施干と結婚し、夫の物乞いを助けたいという思いを継承しました。

 

台湾に到着後、清水照子と夫は養護施設で野菜栽培、養豚、竹細工、裁縫など、農業と手工芸に従事した。当初、彼女は貧困と病に苦しむ住民たちとの暮らしに不安を感じ、ホームシックを和らげるため、近くの台湾製糖公司に頻繁に足を運び、日本人従業員と会話を交わしていた。結婚前、施乾は手紙の中で、乞食たちがユニフォームを着て野球をしている様子を描写していたため、彼女は乞食たちが清潔できちんとした生活をしているだろうと想像していたが、実際は全く違っていた。その後まもなく、彼女はアメーバ赤痢にかかり、1週間血便が続いた。アヘンの残留物と蜂蜜を混ぜた民間療法を服用し、回復した。

施乾與清水照子(左起 1.2.)及其幼女。

 

夫の前妻との間に生まれた二人の娘、施明月、施美代のほかに、施敏娜、施香、施愛鄉、施武靖、3人の娘と1人の息子を育てた。 1939年、太平洋戦争が勃発し、情勢は緊迫し、物資も乏しかった。彼女は食料を得るために、婚約指輪や着物などを質入れせざるを得なかった。夫は1944年8月、過労で亡くなった。その後、彼女は精神的な支えを求め、キリスト教を信仰するようになった。彼女は住民たちを率いて朝の祈りを捧げ。次女の施美代は、父の死後、母は当初日本への帰国を考えていたが、100人以上の住民が再び物乞いをするのを見るのが耐えられず、宣教を続けるために残ったと回想している。

 

1945年、彼女は中華民国に帰化し、「施照子」と改名した。1946年、台湾の物価が高騰した。6月9日、彼女は台北の龍山寺で許乃昌(日治時代の左派政治運動者 らと会談し、外部からの経済援助を求めた。翌年、彼女は二・二八事件を目撃したが、その出来事を思い出すことも、語ることもしなかった。

 経営初期には、療養所の物乞いが道端の慰霊祭で遺族に金銭を乞うという問題に直面した。彼女は遺族に対し、同様の状況に遭遇した場合はまず療養所に知らせるよう求め、職員を派遣して取り締まらせなければならなかった。

 夫は以前、物乞いを捕まえて療養所に強制的に収容し、カウンセリングと研修を受けた後に釈放していた。そのため、遺族は愛愛療養所の旗を掲げ、物乞いを脅して金銭を乞わせようとした。 また、彼女は台北市衛生部隊の路上清掃などの衛生活動に住民を派遣した。療養所の経済収入は、主に入所者の自立訓練と、危機を徐々に解決するためのアメリカからの援助に依存していた。

施乾夫婦に加え、愛愛ではもう一つの異文化結婚が起こった。清水照子の親戚である島敏恭が、施乾の養孫である謝伶姜と結婚したのだ。島敏恭が台湾の清水照子を訪ねた際、謝伶姜が案内役を務めたことがきっかけで、思いがけず二人は結婚に至った。

入所者たちにとって、施院長は常に親切で思いやりがあり、頻繁に巡回し、入所者たちの健康状態を気遣っていた。 記者たちは、施院長が大和撫子のような優しく忍耐強い性格だと称賛した。1954年3月8日、彼女は「模範婦人」の称号を授与された。

しかし、彼女は子孫たちに、言葉が通じない土地に嫁ぐことを禁じていました。なぜなら、彼女の子孫は誰も日本語で彼女とコミュニケーションをとることができなかったからです。

1995年11月19日、施照子は淡水小学校を訪れ、夫の石像の除幕式に出席した。彼女は非常に控えめな性格で、授賞式にもほとんど出席しなかった。唯一の例外は、2000年にロータリークラブが主催した資深職業婦女成就獎の授賞式だった。 彼女はかつて記者の董智森に対し、過去50年間、人生は何も変わっておらず、書くこともないと語ったことがある。2001年11月、息子の施武靖が母の後を継いで理事長に就任した。

 

2001年12月9日、「台湾乞食の母」として知られる施照子が逝去した。12月24日、陳水扁総統は彼女を偲ぶ命令を発布した。遺品を整理していた遺族は、施照子が箪笥の中にこっそり隠していた日本人男性の写真を偶然発見した。この男性は、京都の裕福な銀行家の息子で、彼女に熱烈に求愛したものの、叶わなかった元婚約者だった

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1997走尋台北人愛愛寮

 

最後までご覧くださりありがとうございました。ごきげんよう・・

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竹田車站
先週土曜日、竹田站、池上一郎博士文庫25周年慶だったので・・
現役の駅は隣に電化複線高架となっています。
歴史遺産として残してくれております。



枋寮車站
駅前にU-BIKEステーションが出来ていた。電力輔助タイプ有
屏東佳冬鄉は一大養殖魚拠点。ハタやスズキにエビも養殖しているらしい。太い塩ビのパイプが道路脇にたくさんあって海水と地下水の両方を使っているらしい。ハタやスズキの養殖場らしい。


乃木將軍登陸紀念公園.・乃木將軍登陸地點


1895年10月11日乃木希典率いる第二師團は台灣屏東枋寮に上陸し,東港、鳳山を占領した。清朝役人劉永福は臺南府城を放棄して廈門へ逃げた。10月20日多くの臺南民衆と上級紳士は和平を求め乃木希典一行を臺南府城小南門から入城させた。これにより府城五萬人は戰火に会わず流血なく占領を果たした。
大堆客家族火燒庄戰役1895年11月12日、屏東平原の平埔族は客家人に怨念を持っており日本軍を支持したが客家人は六堆義軍を結成して日本軍と対抗し現在の屏東市近郊、長治鄉長興村で最後の抵抗會戰が行われた。

1896年10月14日乃木希典は第3代台灣總督となる。-1898年2月)

太い塩ビのパイプから漏れた海水が道に溢れてグーグルマップで通れる道が通れないので迂回する。

佳冬神社
2012年09月24日屏東縣歷史建築指定。創建/起源年代・昭和11年(西元1936年)。


1936年4月9日7人代表、臺灣總督府提出申請。4月13日鎮座,主祀天照大神、大國魂命、少彥名命、大己貴命、北白川宮能久親王。
佳冬飛行基地、1930年5月23日完工啟用。佳冬神社は「航空神社」でもありました。神社から東へ2kmほどに現在は屏南工業區がありますが、戰前は佳冬陸軍飛行場がありました。飛行場勤務の軍士官兵たちの信仰対象でもありました。


國立佳冬高級農業職業學校の狛犬さん・・
佳冬神社の狛犬さんは保護の為、佳冬高農學校に置かれている。


佳冬戰備跑道をU-BIKEで走る
良い子の皆さんはマネしないように。
案内標識・道路標識・信号機、一切無し!
中央分離帯の大型コンクリートブロックは移動用に吊り下げ金具がついている。
E-2KもF-16も、いなかった。


佳冬戰備跑道を通って枋寮車站へ戻った。
近年臺灣南部でもU-BIKEが普及して便利になりました。
ごきげんよう・・・


 

 

地理と歴史は政治利用される・・

南京は歴史として真珠湾と同じ意味に利用される

ホノルルを爆撃しなかったのは“倫理”ではなく“合理”

それでもアメリカ人が「攻撃しなかった」と強調する理由

ここからが本題です。

戦後アメリカの自己物語=アメリカの一般的認識はこうです:

「日本は卑劣な奇襲をしたが、無差別都市爆撃まではしなかった」

これは実は、

アメリカ自身の都市無差別爆撃(東京大空襲・原爆)

それを正当化するための比較対象として機能します。

 つまり

「日本はやらなかった」=「我々は仕方なくやった」

 南京と真珠湾との対称性、ここで南京とつながります。

 

南京                       真珠湾

日本は「野蛮な陸戦国家」     日本は「卑劣な奇襲国家」

市民殺害の象徴            不意打ちの象徴

中国の被害者性            アメリカの被害者性

両者は

同じ物語構造の両輪です。

 

1937年12月6日南京衛戌司令唐生智は六日夕刻を期し南京四圍の城門を一齊に閉鎖

六日午後三時空中偵察によれば南京市内は大火災を起し黑煙天に冲して悽惨な光景を呈して居る

 

蒋介石は1937年12月7日正午頃宋美齢と共に飛行機にて南京を脱出。市内には諸所に火災を起し人影殆ど絶え南京の大市街は廃墟の如く凄惨な光景を呈して居る、因に七日朝まで市民の四分の一は残存しアメリカ人十三名は居残りその他の外人は何れも各自國汽船に待機している、市中には小數の軍隊、憲兵が警戒に當り下關方面にも掠奪が行はれ支那軍常套手段の敗退の際における混亂が起ってゐる模様である

 

昭和12年12月9日に日本軍から飛行機により南京防衛司令官に對し投降勸告文を投下し十日正午までに回答を要求。(未回答)

日本軍十日午前六時過ぎ南京城中華門(南門)に達し各部隊城壁に殺到。

 

蒋介石は12月11日前後に脱出・撤退命令を出し、その後12月12日午後〜夕方にかけて、その命令が唐生智ら南京守備司令部へ伝えられた

 

【十二日午後九時半大本營陸軍部發表】南方地區より南京城を攻撃中の我軍は昭和十二年十二月十二日正午南京城門中最も堅固なる中華門を攻略し引續き南側城壁全部を占領せり

 

唐生智は1937年12月12日21:00頃(午後9時)に北側の義江門から長江方面へ脱出(船等を利用)

退却命令は十分に末端部隊へ伝わらなかった(この際、公式に日本軍に降伏や開城の意思を通知せず逃走した)。秩序的撤退にはならず混乱が生じた。

唐生智

 

☆昭和12年12月13日東京朝日新聞

南京南側全城壁に日章旗翻る  潮の如く城内へ殺到  凄絶・暗夜の大市街戰

【十二日午後九時半大本營陸軍部發表】南方地區より南京城を攻撃中の我軍は昭和十二年十二月十二日正午南京城門中最も堅固なる中華門を攻略し引續き南側城壁全部を占領せり

【南京にて本社前線通信本部十二日發】皇軍は南京城に入った、皇國正義の征矢はどす黑い抗日一色の血に狂ふ支那の心臓をぐさりと突き通したのだ、時に十二月十二日午後零時半、世界歴史を不朽に飾る歴史的な瞬間であった、仰ぎ見る日章旗の感激的なはためき、極東平和を永遠に象徴する正義の炬火は今こそ皇軍將兵の逞ましい双手によって首都南京の空高々と掲げられたのである。萬感胸に迫り感慨無量の面持で○○部隊は「総て我が○○部隊將兵の忠勇豪健の賜である、今の私の氣持ち推量してくれ給へ」と言葉少く語った

平和甦る南京

南京城内親善風景

南京は微笑む

手を握り合って越年

 

アメリカ国内世論と「南京」1937年当時のアメリカは:

強固な孤立主義・欧州問題(対独)が優先・対日参戦の正当化が極めて困難

そこで必要だったのが、

「太平洋の彼方で起きたが、道徳的に無視できない事件」

南京はこれに非常によく適合しました。

宣教師・外国人証言がある

写真・記事が使いやすい

「文明 vs 野蛮」という物語に載せやすい

つまり

南京は「利用された」のであって、「創作された」わけではない

ごきげんよう・・・

『日本書紀』では日本武尊の妃・弟橘媛。

『古事記』では倭建命の后・弟橘比売命。

さねさし 相武(サガム)の小野に 燃ゆる火の 火中(ホナカ)に立ちて 問ひし君はも

景行天皇(第12代)の時代、西暦110年頃、熊襲征伐で強制性交を繰り返して世を乱した景行天皇・大足彦尊(おおたらしひこのみこと)は東国平定に際し、女が少ないからという理由で大碓命(おおうすのみこと)に振ろうとしていたのだが、美濃国造の娘が美人というウワサで見に行かせたら、大碓命がその娘と密通して復命せず、景行天皇から恨まれて、のち美濃国に封じられた。大碓命がダメならと日本武尊ヤマトタケルが煽てられて、その気になって東国平定に行くことになってしまった。尚ヤマトタケルは古事記では倭建命、日本書紀では日本武尊、なのでこのあたり720年頃から「日本」と言ってよいのであろう。

景行天皇は熊襲征伐で数限りなく「女狩り」を繰り返し、被害者へ交際関係を強要する手口は物品供与で誘い、暴力で脅し、従わない時は強姦する組織的・計画的で惨忍な犯行と言わざるを得ない。別名を関係者からは、「おんなたらしひこやりまくりのすめらみこと」と呼ばれていたのだが・・

日本武尊と関係した女性は、両道入皇女・吉備穴戸武媛・弟橘媛・宮簀媛の四人であり、遠征途中で交際が始まったのは宮簀媛一人である。

 各地でイジメに会いながら一行が、箱根を越えて房州(千葉県)に渡ろうと、走水の沖(現材の横須賀市浦賀水道)に差し掛かった時、海は荒れ狂い、船は木の葉のように翻弄された。

このとき暴風を起こしたヤツが支那斗弁命(しなとべのみこと)という海の女風神。支那という名前がいかにもイジワルであることがワカル。コイツは女であるが同様に海の男風神で志那都比古尊(しなつひこのみこと)と言ふヤツも居るがコチラは志那と表記する。

 弟橘媛が尊に申し上げたことは、『君公の佩(ハ)せ給へる御劔は、むかし素戔嗚尊大蛇の尾より切出したまふ宝劔なれば、悪神龍御船を覆し、宝劔を奪んとして起こる所の暴風ならん、吾宝劔と君とにかわり、海中に入りて悪龍を退治し、君公と宝劔を安泰ならしめ、又天下後世の人をして渡海風波の難を救ひ、永々海中の守護神となるべし』・・

海神の怒りを解くため、弟橘媛は「私は夫である皇子の身に替わって海の中に入ります。どうぞ皇子の東征を護らせ給え」と念じ、浪の上にボードを敷いて、その上に座って海に下りた。すると波が穏やかになり、船を進めることが可能になったが、ウェットスーツやラッシュガードを着ていなかったし、なによりサーフボードでなかった。リップカレントに流され着ていた着物の袖が岸に着いたところが袖ケ浦だった。

 暴風はすぐに止んだ。船は無事岸につけられた。時の人は、その海を名づけて、馳水といった。こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。日本武尊が木更津芸者と遊んでいた紀録は記紀にはない。弟橘媛が海に身を投じて難を救ったことから、日本武尊は御陵を作り、弟橘媛の櫛を納めて、橘の木を植えてここに祀った。『橘樹神社 (茂原市)』

石灯籠には天保十年(1839年)や嘉永二巳酉年(1849年)の文字が読める。

尚、ココは縄文遺跡の出土する宮ノ下遺跡でもある。裏の森が古墳。又海岸へ出て27km程南へ行くと志田下ポイント(2020年の東京オリンピック会場・釣ヶ崎海岸)になる。

弟橘比売命御陵

本殿

三社並ぶ境内社

向かって左から・・保食神(うけもちのかみ)・木花開耶媛命(このはなのさくやびめ)・天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)

日露戦争凱旋紀念

橘の紋

 

ところが話はこれで収まらづ・・風の神の支那斗弁命(しなとべのみこと)が厚かましくも無事に木更津まで着かせてやったのだから志那都比古尊も含めた社を作ってくれと言ってきた。日本武尊は民泊營業しないことを条件に建ててやったのだが、支那斗弁命はすぐに来たのに志那都比古尊は待っていても来なかった。そこで姉埼神社(あねさきじんじゃ)と言ふようになった。

島穴神社:主祭神は志那都比古尊(しなつひこのみこと)。

姉埼神社:主祭神は支那斗弁命(しなとべのみこと)。

 

「地名起源説話」

支那斗弁命が先に來たから・・・姉埼神社(あねさきじんじゃ)

弟橘媛の帯や袖が流れ着いたという伝説から・・・袖ケ浦市・習志野市袖ケ浦など

日本武尊は「吾妻はや」と嘆いた。・・・・日本の東部を「あずま」と呼ぶ

サーファーのご先祖様は房総で鎮座されておられます。ごきげんよう・・

千葉大学医学部本館前の庭園に記念碑があります。明治44(1911)年は辛亥に当たり革命運動が起こり、清王朝が倒れたのが辛亥革命です。その當時千葉医学専門學校はじめ全国の医学校に中国からの留学生が多数おり、母国に帰り医療行動をしたいという希望が高まり学生運動が起こった。

1905年8月、東京で「中国革命同盟会」が結成された。革命の気運を高める動きが明確になっていく。そして、遂に、1911年10月10日、湖北省武昌での武装蜂起を発端とし、翌年1月には孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府が南京に樹立されるに至った。

 その頃,千葉医学専門学校には,39名の清国留学生が滞留して居り,祖国の難を憂え,同士相集いて救国の志に燃え,戦陣に駆け参ずることを誓いあった。この快挙を契機に他の大学にもその情報は波及し,多勢の中国留学生の決起を促すことになりました。

 千葉医専にはそのころ40名弱の中国学生が在籍していたが、1911年4月27日の広州蜂起に、医専学生であった方声洞と喩培倫は、すでに落命していた。1911年秋、10月17日に千葉医専生の余継敏方を山口商業高等学校在籍の清国人・孫韜が訪問し、「革命軍は医官の不足及病院の設備なき為め、傷病兵の収容並に救療の途に窮せり。此条在日学生は赤十字軍を組織し、革命軍の為め、大に勢援せざるべからず。本校在学生は全部この任に当たられたし」と説得勧誘した。これに対し、千葉医専の在学生たちは「集合凝議の結果、敢て不同意者なかりしも、目下同校在学生は三十九名にして、うち僅かに四年生四名、他は何れも一二年生なるを以て、未だ実務に通ぜされば、活動力乏しく、而巳ならず、費用の出所なきより、ヤヤゝ躊躇するに至れり」との反応であった。

10月の武昌蜂起前に千葉医専学生の王錦雲・夏候沛らも帰国した事など、留学生周辺が慌しくなってきたことを伝えるが、千葉に残った中国在学生は清朝政府から「官費」を受給していたことなどもあり、革命への対処法について苦慮した。

 

1911 年10月、辛亥革命が起きた際、千葉医学専門学校(現 国立大学法人千葉大学医学部・薬学部)に在籍していた清国留学生たち 39名は、紅十字隊を組織して母国に戻り、 戦闘で傷ついた人々の医療・看護活動に従事した。

 

 當時千葉医学専門學校、校長の医学博士、荻生録造 教授(1884年6月~1914年12月)は、学生の要請を受けて文部省,外務省に要望し,戦陣より帰還の後必ず復学せしむるとの認可を取り付け,戦陣へ送り出すことを決した。

  千葉医専の留学生たちは、何度も議論を重ねた結果、最終的に、革命軍のみの支援でなく、清朝軍、革命軍の隔てなく救護する「紅十字隊」を組織し、祖国に赴くことを決定する。

1911年10月30日付け『東京朝日新聞』

千葉医専の留学生が協定した条項

①赤十字社の旨趣に基き、赤十字軍を組織し、官軍革命軍を問はず、負傷疾病病者を救護する事、

②清国公使及び学生監督に稟請し、之が許可を受くる事、

③赤十字軍組織の認可あれば、公使の手を経て、北京政府に電報する事、

④赤十字軍に関する費用は、予て横浜神戸其他各地に在留する清商の義捐に仰ぐ事、

⑤赤十字軍組織成れば、日本有名の医家を傭聘し、之を顧問とする事、

⑥赤十字軍組織に関し、熊本仙台岡山名古屋其他在留清国学生に向って檄を飛ばすこと、

⑦赤十字軍成ると同時に檄文を各地に飛ばし且之を新聞に掲載を請ひ、その旨趣を明かにする事、

⑧上海に於て組織されたる赤十字社と連絡し、共に活動する事。

 そして「中立の態度を固持して之に従事し、戦争終局するに至れば、直に日本に帰来し、専心医学を修め得業せんことを期すといふにあり」

 

千葉医専校長・荻生録造は、同校教授で県立千葉病院院長であった三輪徳寛等と連携を取り、帰国する留学生たちに、戦地における応急医療技術の講習会を開くことにした。11 月1日から8日の間に実施され、そこでは、三輪が「創傷療法」を担当したほか、筒井八百珠「外科手術」、井上善次郎「内科学」、荻生録造「眼科学」、平野一貫「調剤術」、森理記「包帯および担架術」、岩槻「看護法」等の講義がもたれた。

ところで、当時の清国軍隊の衛生施設が未整備であったことを伝える証言が残る。清朝政府の衛生顧問として三年間武昌に招聘されていた日本の一等軍医某いわく、「清国の軍隊には全然衛生隊なしと云ふも不可なき有様(略)軍医の如きもほとんど日本と同数を備へあるも、その大半は漢方医にて、甚だしきは繃帯の巻き方も出血に対する応急手当も知らず、日本の即効紙の如き膏薬を貼って一時を凌ぐといふ有様なり」云々。正式な軍隊である清国軍がこの有様であれば、ましてや革命軍はさらに未整備の状態であっただろう。

応急医療術を学んだ千葉医専などの留学生が重要な役目を果せたことは、想像に難くない。 11 月9日には、出発する清国留学生たちのために、日本人在校生650名と教職員が亥鼻キャンパスで壮行会を開いた。参加した日本人たちは、薬品や衛生資材を購入するための資金として、一人50銭ずつの寄付も行なった上、壮行会が終わると、全員で千葉駅まで行進し、見送りをしている

『紅十字隊の活躍』。留日学生による紅十字隊は,湖南省のほか湖北・ 江西・安徽・江蘇省などの地で,救護活動に当っ た。

「南京陸軍軍医院長一等軍医長」に就いていた王琨芳が、母校の荻生校長に宛てた手紙(1912年3月16日付け)には、荻生校長たちから「御深厚なる御教示に預り候事は、陸軍部総長、黄閣下[黄興=南京臨時政府陸軍総長]にも伝言致し候処、深く感謝致居候」と記されていた。

 

 1912年1月1日、孫文を臨時大統領として中華民国樹立を果たした。戦時に馳せ参じた留学生も中国国内が落ち着いた1912年4月ころから、漸次キャンパスに戻りはじめ、ほとんどの学生は復学を果した。そして、全学挙げての支援に感謝し,恩義に対する礼節を示すために出発からちょうど一年後の1912年11月9日に亥鼻キャンパスの一角に、記念碑を建立した。

〔碑文和訳〕

辛亥(一九一一年)秋、中華民国に革命が起こり、武漢での南北軍の戦争は、甚だ烈しくなってきた。留学生は、戦禍の蔓延にともなって、負傷したり死亡する者が多くなってきたので、同志を集めて赤十字隊を組織した。留日の医学薬学の学生を連合して、祖国に帰り、救援に赴いた。学校校長および諸先生方は、この挙を高く評価して、負傷の治療看護に関して、懇切に指導してくださった。また、学友は資金を醵出して、医薬品を購入し寄贈してくれ、出発に際しては資金計画を拡大して励ましてくれた。留学生一行は、祖国に帰り、湘・漢・江・准の各地に分駐して、負傷兵の大きな頼りとなった。六ヶ月が経って戦局は終りを告げたので、母校に帰ってきた。善事の記すべきものは無いが、諸先生および諸学友の行為を忘れないように、ここに樹を植え、碑を建てて記念とします。

その辞に曰わく。

王綱紐を解きてより(清朝宣統帝の退位)、共和を初めて打ち建てたが、国の歩みは艱難で、戦争は絶えず、伏屍は川を塞ぎ、山野を血ぬらせている。この人民の悲しみは、誰が護るのであろうか。三軍を励ますのは赤十字の旗、生死肉骨の難を救い、危うきを助ける。諸先生方も学友たちも、極めて公平で平和な世の中を願っている。世の中に仁寿を致し、人道を広め、徳意が盛んである。樹を植え、碑を建てて、万年永く讃える。

中華民国留学千葉医学専門学校学生同建

中華民国元年十一月九日  

日本大正元年十一月九日

 

日本留学経験のある「黃花崗七十二烈士」は、有名な慶應義塾の林覚民がいるが、千葉医学専門学校(現・千葉大学医学部)からは、方声洞と喩培倫の二人がいる。

 方聲洞  1906年入学、1911年中退、1911年辛亥革命に関わり、死去

  喩培倫 1908年入学、1910年中退、1911年辛亥革命に関わり、死去

 

林覚民

方聲洞

 喩培倫

 

日本留学経験のある「黃花崗七十二烈士」

AI検索できた日本留学経験者

氏名(日本語読み)    出身地(清代) 留学先/備考

林覚民(りん かくみん) 福建省侯官県 慶應義塾

方声洞(ほう せいどう) 福建省侯官県 千葉医学専門学校

喩培倫(ゆ ばいりん) 広東省南海県 千葉医学専門学校

陳和申(ちん かしん) 福建省侯官県 中国側に早稲田大学学生??

陳君 (ちん くん)   福建省侯官県 黃花岗烈士伝に留日記載

陳更新(ちん こうしん) 福建省侯官県 东渡日本,入九段体育会

 

引用文献:

辛亥革命. 留学生派遣記念碑           奥井勝二

明治~昭和期の千葉医学専門学校・千葉医科大学における留学生の動向

(付 千葉医専留学生・辛亥革命紅十字隊関係史料) 見城 悌治

 

ごきげんよう・・

*北新橋から北側


二十張福德宮の横にある日本軍醫青木少佐を祀る「聖靈公」は元は新店復興路付近、萬新鐵路の鐵路橋下にあったものが鐵路橋が壊されて現在の場所に移転したといふ言い伝えです。
*地図


北新橋は、1921年から1965年まで運行されていた鐵路新店線(萬華~新店間)の景美溪に架かる鉄道橋でした。当時は列車専用の鉄道橋で、車両や歩行者は現在の景美橋(景美舊橋)を利用していました。1965年に鉄道が廃止された後、道路橋に転換されました。
*萬新鐵路公館驛


*撤去が始まった景美驛


ことはそれで収まらず、おかしな橋がこの北新橋にくっついている。
台北羅斯福(ルーズベルト)路六段と新店北新路を結ぶ橋は、北新橋と鳴遠橋が連結した複合橋となっており、非常に珍しい状況になっています。鳴遠橋は景美溪の南側の復興路に架かる橋になっています。
*北新橋と *境界


つまり、台北市の景美から新北市の大坪林へ向かうと北新橋を渡るのであるが渡り終わったところは鳴遠橋となる。現在の北新橋は民國54(1965)年10月完成。鳴遠橋は民國85(1996)年1月完成。新北市と台北市の境界は北新橋の途中に表示がある。
*鳴遠橋


そこで気になるのが、1965年から1996年まで間は、新店側の復興路を跨ぐ橋がなかったとしたら?高低差はさほど無いにしても北新路と復興路の交差点がどうなっていたのか気になるところです。現在の復興路は鳴遠橋との交差部分が掘り下げられているので普通の交差点だったのでしょう。
*萬新鐵路新店驛


思えば淡水線も今は台北站から民權西路站まで地下鉄で圓山站から高架になっているが昔はず~と地上を走っていたのである。
ここだけではないのである。ただ橋が連結してるのはココだけ。
ごきげんよう・・

 

*映画では千代さんは・・・

*千代さんの碑

 圓山臨済護国禅寺の敷地の外、公園との法地にある石碑で、明らかに立場が中途半端なシロモノです。正面は潰されています。当初は抗日國民黨が潰したと思われたのですが、内容から判断して本土軍事化が進む過程で遊興的なものとして日本軍部が潰したものを、旧日本統治時代の復旧過程で宗教的石碑とともに建て直されたものと推測します。

日治時期《臺灣日日新報》から源氏名が「歲悅」本名は「浅井千代」と分かりました。彼女は1858年(安政5年)、横浜港で生まれました。実家は「唐物商」を営み、支那(一般的に「唐」と呼ばれていた)から輸入された様々な品物を販売していました。

台北檢番のゼネラルマネージャー

1929(昭和42月、常磐津歲悅71歳で、黄疸と胆石を患い、引退を発表しました。臺北檢番は西門共樂座で盛大な「引退披露演藝會」を開催し、艋舺、北投、基隆の商人たちが集まり、歲悅師匠の引退を見守りました。

1929(昭和4)年3月、後半の芸人人生を台湾に捧げた常磐津歲悅辭世。葬儀は、檢番の監視の下、西門弘法寺護国十善会・現在は台北天后宮)で執り行われました。

臺灣日日新報

しかし、ここで疑問が生じます。西門弘法寺で葬儀が行われたにもかかわらず、常磐津歲悅の墓石が圓山臨済護国禅寺の隣に置かれているのはなぜでしょうか。

戦後に西門町界隈にあった西本願寺や弘法寺などが壊されて石碑や石灯籠などが林口區の竹林山觀音寺や士林區北投區に移されたという話が残っていることから、このときに臨済護国禅寺に移されたとするのが妥当だと思ひます。しかしなぜ正面が潰されているのか、それはいつなのかについての疑問は残ります。

 *常磐津文字大夫流派家紋

 裏面本文を讀むまでもなく、正面敷石だけ見て想像が出来ます。「藝妓師匠」・「撿番」・「料亭置屋」という文字だけで当時の日本軍が許すとは思えません。

この家紋が使える人物とは相当な上位者だとお座敷藝の経験者の意見でした。

碑の建立は1929(昭和49月。

  蔣渭水が台湾民衆党を結成したのが昭和2年(1927)です。台北旧市街、大稻埕には,「江山樓」、「東薈芳」、「春風得意樓」、「蓬萊閣」という四つの大きな料亭がありました。そして春風得意樓の経営者は蒋渭水です。これらは「有歌女陪侍的酒家」で女性は「藝旦」と言われていたとあります。

  接待女性が全てチャイナドレスで胡弓を弾いていたというにはムリがあります。「置屋」「撿番」があったことに加えて、三味線に鼓に小唄長唄清元常磐津の世界があったと考えるのが普通だと思います。

台灣藝妲オールスターズ

*台北西門町古地図

日治時代に台北には三箇所の檢番があったそうです。台北檢番、大稻埕檢番、そして萬華共立檢番です。台北と萬華は日本藝妓で大稻埕は台灣藝妲(Yì dá)でした。台北は日本髮で三味線を、大稻埕は旗袍(チャイナドレス)に胡弓でしたが、萬華の方は今で言ふ「枕芸者」だったらしいです。

*大安医院

花柳界ですから当然に芸事だけではなく「色事」もあるわけで、蒋渭水の大安医院の写真には診療科目が「内科・花柳科」となっています。「花柳科?」なんとも粋な表現です。

  蔣渭水は社会運動家として知られていますが、大稻埕の花柳界に大きな力を持っていたことが想像できます。昭和4年石碑の常磐津女師匠が亡くなったとき蔣渭水38歳、亡くなる2年前です。蔣渭水と石碑の女性は、なにがしらの面識、仕事上での関係があったと思っています。

碑文裏面

碑文裏面(解読出来たもの
常磐津(止玉)祝(仯マ)文字太夫の流れを
傅へて明治三十一年○渡る○江戸生粋    (1898)
の(懐・順)に玉を(やつ河をし)解かれふ正(潤)の(供)に
席(破)急を希望○三十三年の久しきを
塙撟○○○昇りつくし昭和四年三月退(懐)
○出○大命を○○在方り病急の○り
病裾に(千代)直くしの(撰)(掉)を(聞)き莞爾
仰して瞑す本名井千代享年七十一
命しるとで仕舞を
ことのの弾みから
昭和四年九月  (1929)

 *臺北市榮座‧臺北檢番藝妓連の舞踊─

******

千代さんは、台北檢番で若手の藝者さん達を育ててゐたのでしょう。

その場所は現在の西門です。

*ラジヲにも登場していた常磐津歲悅・・

研究論文『1925年6月の台湾に於ける芸能活動』長嶺亮子の表1、ラジオプログラムより。

1924年に東京放送局が設立されてラジオ放送が開始し、 次いで大阪放送局も設立した。 台湾放送局は、1925年6月8日展覧会第3会場交通館から実験放送として展覧会会期中の6月17日から十日間行われた。その番組表に常磐津歲悅が登場しているから、台湾を代表する芸能家であったことがわかる。

ちよこおばちん。

そこでもう一つヘンな神様が宜蘭に居るのです。名前がちよこおばちん。

宜蘭牛埔仔永惠廟-開漳聖王に神様にされた芸者さんとされる人がいます。温泉旅館の帳場の神様で、経営不振だった温泉旅館に色々アドバイスして立て直しをしたという言い伝えがあります。宜蘭縣1901まで臺北縣でその後臺北廳1920から1945まで臺北州でしたので行政区が同じとなると温泉旅館の宴会に関して臺北檢番の指導を受けていたと考えられます。淺井千代さんが芸者さん指導や花代の取り決めに関係していたことが考えられます。

   最後までご覧いただき有難う御座います。

台北に来られたときは、この石碑も見てください。

感謝:【五丁目的美術史專欄】

《臺灣日日新報》藝妓回憶錄:關於圓山捷運站旁臨濟護國禪寺石碑的秘密

2025.04.07劉錡豫 を引用しています。

ごきげんよう

關西東安古橋
上から見るとブサイクな橋ですが下から見ると・・


キャーエッチ、ドコ見てんのよ~と言はれながら・・・
エ~やんか減るもんやないし・と関西弁で言いながら川岸に降りる。


 新舊兩橋並立
1933年に建造された橋に、2003年に旧橋を損傷することなく新橋が架けられた。アンタはエライ!!
台湾の古橋を見に行くと横に新橋があることが多い。新しい橋が架けられても古い橋が残されていることは良い文化だと思ふ。さらにココは古い橋をそのまま使っていることが超エライと思ふ!

舊橋側から見たお姿。
關西の市街地から見て左が新橋、右が舊橋。


橋脚がキレイやなあ~・・まだ見てんの、警察呼ぶヨ、
橋からそう言はれて橋の上に戻るとパトカーが止まってた。
職務質問は受けなかった。

東安橋は元々は木造橋で、洪水によってしばしば流され、地元住民は堅牢な石橋の建設を訴えました。日本人技術者の設計と、地元で名高い石工の李鎮による施工が行われました。数十年を経た現在も、橋は当時の姿をそのまま残しており、その卓越した技術力と品質の高さを物語っています。


上流にある情人橋

キレイな公衆トイレ・立ちション便器もドア付きです。


牛蘭渓の河畔は台湾北部の象徴的な名所として、際立った水辺の景観を形成しています。東安橋は周囲の景観に溶け込む優美なフォルムを誇り、地域性と現代性を体現しています。その優れた構造は、未来の世代にとって模範となるものです。後世の補強工事により橋の外観の一部は不明瞭になっていますが、当時の景観を鑑賞する上では損なわれることなく、建築技術の研究にとって貴重な資料となっています。

毎年10月になると、九降風と言はれる竹北海岸から鳳山渓や龍潭を経て關西へ吹き付け風があり、冷たく乾燥しており、雨は少なく、日照時間は豊富です。この環境が黄金色に輝く漬物を発酵させるのに最適で、酸味と香りが際立っています。ここは古くから漬物の名産地なのです。
關西の古名は鹹菜甕と呼ばれていました。
客家人が漬物(鹹菜)作りに長けていたこと、そして「鹹菜」の発音が北京語では「シエンツアイ」ですが客家語では「カンサイ」という発音が日本語の「關西」に通じることから、關西鎮といふ日本語化された地名となりました。

客家童謠【鹹菜歌】童謠帶動唱客家兒歌という唄を聞いてください。

カンサイ・カンサイ と唄っています。童謠で【鹹菜歌】漬物歌作るか?

客家童謠【鹹菜歌】童謠帶動唱客家兒歌 - YouTube
これは、大正9年の日本統治時代の市制改正で、12府県が5府2県に縮小された際に、關西と改称されました。。しかし、日本の「関西」は地名ではなく地域名であって関西地方と呼ばれます。実際に地名として使われているのは、新竹縣の「關西」だけです。



關西鎮の田んぼアート
皆さんは、アレ?・・と思ふでしょ!!
そうなんです、ココは台湾ですから・・・
『米は二度なる 甘蔗は伸びる名さえ蓬莱 宝島』
これ今年二回目のお米で御座います。
關西鎮ですから兵庫大阪京都などあって・・ウソです。
古橋のある雰囲気が良い街です。
關西鎮への行き方・・
國光客運、台北轉運站から竹東行きのバスで途中下車ですが注意!
竹東行きは【1820】と【1820A】があって【1820A】に乗ること。
そうでないと高速道路降りたところで停車し街中へは行きません。
【1820A】だと關西鎮公所北側のバス停に止まります。
ごきげんよう・・