
千葉大学医学部本館前の庭園に記念碑があります。明治44(1911)年は辛亥に当たり革命運動が起こり、清王朝が倒れたのが辛亥革命です。その當時千葉医学専門學校はじめ全国の医学校に中国からの留学生が多数おり、母国に帰り医療行動をしたいという希望が高まり学生運動が起こった。

1905年8月、東京で「中国革命同盟会」が結成された。革命の気運を高める動きが明確になっていく。そして、遂に、1911年10月10日、湖北省武昌での武装蜂起を発端とし、翌年1月には孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府が南京に樹立されるに至った。
その頃,千葉医学専門学校には,39名の清国留学生が滞留して居り,祖国の難を憂え,同士相集いて救国の志に燃え,戦陣に駆け参ずることを誓いあった。この快挙を契機に他の大学にもその情報は波及し,多勢の中国留学生の決起を促すことになりました。
千葉医専にはそのころ40名弱の中国学生が在籍していたが、1911年4月27日の広州蜂起に、医専学生であった方声洞と喩培倫は、すでに落命していた。1911年秋、10月17日に千葉医専生の余継敏方を山口商業高等学校在籍の清国人・孫韜が訪問し、「革命軍は医官の不足及病院の設備なき為め、傷病兵の収容並に救療の途に窮せり。此条在日学生は赤十字軍を組織し、革命軍の為め、大に勢援せざるべからず。本校在学生は全部この任に当たられたし」と説得勧誘した。これに対し、千葉医専の在学生たちは「集合凝議の結果、敢て不同意者なかりしも、目下同校在学生は三十九名にして、うち僅かに四年生四名、他は何れも一二年生なるを以て、未だ実務に通ぜされば、活動力乏しく、而巳ならず、費用の出所なきより、ヤヤゝ躊躇するに至れり」との反応であった。
10月の武昌蜂起前に千葉医専学生の王錦雲・夏候沛らも帰国した事など、留学生周辺が慌しくなってきたことを伝えるが、千葉に残った中国在学生は清朝政府から「官費」を受給していたことなどもあり、革命への対処法について苦慮した。
1911 年10月、辛亥革命が起きた際、千葉医学専門学校(現 国立大学法人千葉大学医学部・薬学部)に在籍していた清国留学生たち 39名は、紅十字隊を組織して母国に戻り、 戦闘で傷ついた人々の医療・看護活動に従事した。
當時千葉医学専門學校、校長の医学博士、荻生録造 教授(1884年6月~1914年12月)は、学生の要請を受けて文部省,外務省に要望し,戦陣より帰還の後必ず復学せしむるとの認可を取り付け,戦陣へ送り出すことを決した。
千葉医専の留学生たちは、何度も議論を重ねた結果、最終的に、革命軍のみの支援でなく、清朝軍、革命軍の隔てなく救護する「紅十字隊」を組織し、祖国に赴くことを決定する。

1911年10月30日付け『東京朝日新聞』
千葉医専の留学生が協定した条項
①赤十字社の旨趣に基き、赤十字軍を組織し、官軍革命軍を問はず、負傷疾病病者を救護する事、
②清国公使及び学生監督に稟請し、之が許可を受くる事、
③赤十字軍組織の認可あれば、公使の手を経て、北京政府に電報する事、
④赤十字軍に関する費用は、予て横浜神戸其他各地に在留する清商の義捐に仰ぐ事、
⑤赤十字軍組織成れば、日本有名の医家を傭聘し、之を顧問とする事、
⑥赤十字軍組織に関し、熊本仙台岡山名古屋其他在留清国学生に向って檄を飛ばすこと、
⑦赤十字軍成ると同時に檄文を各地に飛ばし且之を新聞に掲載を請ひ、その旨趣を明かにする事、
⑧上海に於て組織されたる赤十字社と連絡し、共に活動する事。
そして「中立の態度を固持して之に従事し、戦争終局するに至れば、直に日本に帰来し、専心医学を修め得業せんことを期すといふにあり」
千葉医専校長・荻生録造は、同校教授で県立千葉病院院長であった三輪徳寛等と連携を取り、帰国する留学生たちに、戦地における応急医療技術の講習会を開くことにした。11 月1日から8日の間に実施され、そこでは、三輪が「創傷療法」を担当したほか、筒井八百珠「外科手術」、井上善次郎「内科学」、荻生録造「眼科学」、平野一貫「調剤術」、森理記「包帯および担架術」、岩槻「看護法」等の講義がもたれた。
ところで、当時の清国軍隊の衛生施設が未整備であったことを伝える証言が残る。清朝政府の衛生顧問として三年間武昌に招聘されていた日本の一等軍医某いわく、「清国の軍隊には全然衛生隊なしと云ふも不可なき有様(略)軍医の如きもほとんど日本と同数を備へあるも、その大半は漢方医にて、甚だしきは繃帯の巻き方も出血に対する応急手当も知らず、日本の即効紙の如き膏薬を貼って一時を凌ぐといふ有様なり」云々。正式な軍隊である清国軍がこの有様であれば、ましてや革命軍はさらに未整備の状態であっただろう。
応急医療術を学んだ千葉医専などの留学生が重要な役目を果せたことは、想像に難くない。 11 月9日には、出発する清国留学生たちのために、日本人在校生650名と教職員が亥鼻キャンパスで壮行会を開いた。参加した日本人たちは、薬品や衛生資材を購入するための資金として、一人50銭ずつの寄付も行なった上、壮行会が終わると、全員で千葉駅まで行進し、見送りをしている

『紅十字隊の活躍』。留日学生による紅十字隊は,湖南省のほか湖北・ 江西・安徽・江蘇省などの地で,救護活動に当っ た。
「南京陸軍軍医院長一等軍医長」に就いていた王琨芳が、母校の荻生校長に宛てた手紙(1912年3月16日付け)には、荻生校長たちから「御深厚なる御教示に預り候事は、陸軍部総長、黄閣下[黄興=南京臨時政府陸軍総長]にも伝言致し候処、深く感謝致居候」と記されていた。
1912年1月1日、孫文を臨時大統領として中華民国樹立を果たした。戦時に馳せ参じた留学生も中国国内が落ち着いた1912年4月ころから、漸次キャンパスに戻りはじめ、ほとんどの学生は復学を果した。そして、全学挙げての支援に感謝し,恩義に対する礼節を示すために出発からちょうど一年後の1912年11月9日に亥鼻キャンパスの一角に、記念碑を建立した。

〔碑文和訳〕
辛亥(一九一一年)秋、中華民国に革命が起こり、武漢での南北軍の戦争は、甚だ烈しくなってきた。留学生は、戦禍の蔓延にともなって、負傷したり死亡する者が多くなってきたので、同志を集めて赤十字隊を組織した。留日の医学薬学の学生を連合して、祖国に帰り、救援に赴いた。学校校長および諸先生方は、この挙を高く評価して、負傷の治療看護に関して、懇切に指導してくださった。また、学友は資金を醵出して、医薬品を購入し寄贈してくれ、出発に際しては資金計画を拡大して励ましてくれた。留学生一行は、祖国に帰り、湘・漢・江・准の各地に分駐して、負傷兵の大きな頼りとなった。六ヶ月が経って戦局は終りを告げたので、母校に帰ってきた。善事の記すべきものは無いが、諸先生および諸学友の行為を忘れないように、ここに樹を植え、碑を建てて記念とします。
その辞に曰わく。
王綱紐を解きてより(清朝宣統帝の退位)、共和を初めて打ち建てたが、国の歩みは艱難で、戦争は絶えず、伏屍は川を塞ぎ、山野を血ぬらせている。この人民の悲しみは、誰が護るのであろうか。三軍を励ますのは赤十字の旗、生死肉骨の難を救い、危うきを助ける。諸先生方も学友たちも、極めて公平で平和な世の中を願っている。世の中に仁寿を致し、人道を広め、徳意が盛んである。樹を植え、碑を建てて、万年永く讃える。
中華民国留学千葉医学専門学校学生同建
中華民国元年十一月九日
日本大正元年十一月九日
日本留学経験のある「黃花崗七十二烈士」は、有名な慶應義塾の林覚民がいるが、千葉医学専門学校(現・千葉大学医学部)からは、方声洞と喩培倫の二人がいる。
方聲洞 1906年入学、1911年中退、1911年辛亥革命に関わり、死去
喩培倫 1908年入学、1910年中退、1911年辛亥革命に関わり、死去

林覚民

方聲洞

喩培倫
日本留学経験のある「黃花崗七十二烈士」
AI検索できた日本留学経験者
氏名(日本語読み) 出身地(清代) 留学先/備考
林覚民(りん かくみん) 福建省侯官県 慶應義塾
方声洞(ほう せいどう) 福建省侯官県 千葉医学専門学校
喩培倫(ゆ ばいりん) 広東省南海県 千葉医学専門学校
陳和申(ちん かしん) 福建省侯官県 中国側に早稲田大学学生??
陳君 (ちん くん) 福建省侯官県 黃花岗烈士伝に留日記載
陳更新(ちん こうしん) 福建省侯官県 东渡日本,入九段体育会
引用文献:
辛亥革命. 留学生派遣記念碑 奥井勝二
明治~昭和期の千葉医学専門学校・千葉医科大学における留学生の動向
(付 千葉医専留学生・辛亥革命紅十字隊関係史料) 見城 悌治
ごきげんよう・・