房総に残る昭和の世界・・
茂原市ホームページ・茂原の文化財から・・「掩体壕」
茂原海軍航空基地跡・3号掩体壕


太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年9月に、木崎・谷本・町保・新小轡・本小轡等の約150戸の民家や東郷国民学校(現東郷小学校)及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地の建設が始まりました。
司令部跡は現萩原小学校、兵舎跡は現茂原中学校、滑走路跡は三井化学(株)東側の約1,000mの道路で、基地の東端は東郷保育所前を通る通称海軍道路と呼ばれている辺りです。基地の北側には誘導路が巡らされ、戦闘機を敵襲から守るための格納施設である掩体壕が造られました。
掩体壕(3号掩体壕)は土砂を壕の形に盛って転圧して筵(むしろ)や板を並べ、その上に鉄網等を張ってセメントを流して造られており、総面積365平方メートル、壕の中の面積286平方メートル、高さは最大6m70cmあります。築城は、主に横須賀鎮守府から派遣されてきた海軍設営隊が行っておりましたが、長生中学校や茂原農学校(現長生高校・茂原樟陽高校)の生徒、近隣住民等も動員されたことが確認されております。
戦争の記憶が薄れていく中、当時の様子を物語る貴重な戦争遺跡です。
なぜ蒋介石は山本義信さんへ?
山本氏記念碑 (新北市中和區自強公園内)と以徳報怨之碑(いすみ市)の関係・・


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山本義信さんとは、大正年間に多くの鑛業權を獲得し、山本鑛業合資會社を成立し社長となります。その後に公共事業への投資にも力を入れ、板橋庄協議會員、臺灣鑛業會理事,板橋市長を務め、陽明山草山羽衣園の建設を開始します。(七星山を中心とする国家公園、現在の陽明山、草山行舘、陽明書屋、一帯すべてです)。。山本義信さんと妻子は日本へ返還された。この時、所持出来るお金は規定により一人千圓でした。山本義信さんは千葉縣茂源市の実家に帰りましたが、それ以来、台湾のことについては口を開きませんでした。
1956年(民國31年)の初めごろ山本義信さん75歲の時,國民政府の董顯光から感謝状を受取ります。(董顯光さんは1952年5月に駐日大使、1956年5月から駐米大使をした人です。)
同年3月24日國民政府から蒋介石総統拜訪のため台湾へ招待されます。
1957年5月國民政府は山本義信さんへ、特別な送還者手当を支給しました。
※つまり蒋介石さんは台湾に残した日本人財産のゼ~ンブを自分のモノにしちゃったのですが・・
オイオイ、梅屋庄吉別荘の同郷とあらば、ちょっとは御礼・仁義を通しておこうかと・・・
と、まあ、そういうところではないでしょうか?
梅屋庄吉と蔣介石の関係をいすみ市に探す..
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表面:梅屋庄吉先生顕彰会 梅屋別荘跡地 梅屋庄吉愛用の井戸
裏面:梅屋庄吉(一八六八~一九三四)の事跡
明治元年(一八六八)十一月二十六日、長崎の貿易商の跡継ぎとして誕生。
若年より東南アジア各地に雄飛し、明治二十七年(一八九四)初頭、香港
に居を定める。明治二十八年(一八九五)一月、この地にて、孫文と邂逅。
孫文の革命思想・大アジア主義に肝胆相照らして義兄弟の盟約を結ぶ。
以降、東京に於いて映画事業を経営し、その巨額の成果を尽くして、辛亥
革命(一九〇五~一九二五)の成就を支援した。その間、大正四年(十九
には、東京の自宅に於いて、妻トクと共に隠れたる仲人として、孫
文と宋慶齢の結婚式を挙行。また、亡命中の孫文、蔣介石等の革命の志士
達に憩いの場を提供すべく、大正十年(一九二一)に三門海岸に別荘(一
万五千坪)を購入し、志士達や本邦名士達を招くと共に、三門の人々と風
物をこよなく愛し、晩年の大半を此の地で過ごした。孫文の国葬には日本
代表として招待され弔辞を述べると共に、更に孫文の冥福を祈るため、髙
さ十数尺の孫文の銅像五基を建造して中国各地に寄贈した。(現存)
昭和九年(一九三四)十一月十五日、廣田弘毅外務大臣の要請を受け、日
中問題打開のために、蔣介石総統と会談すべく、療養中の三門の別荘から
駅に向かったが、列車を待つ三門駅ホームにて昏倒、七日目に帰らぬ人と
なった。孫文と義兄弟の盟を結び、日中友好に生涯をかけ、その心と財を
尽くした梅屋庄吉、享年満六十五であった。
平成十三年八月吉日
この地を開発するに当たり記念碑を設立する。
(株)東昭建設
(株)御宿土地
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ChatGPT:さんの検索結果によれば・・・
梅屋庄吉は孫文さんの「ATM」ではなく「ルーター」国際人脈
民間消費財・文化産業だけで辛亥革命級の資本力はあり得るのか? あり得ません。!
「幕末〜近代東アジアにおいて、武力・資金・国際ネットワークを動かせる“非国家アクター”が連続的に登場した」しかし・・
武器商人坂本龍馬⇒岩崎弥太郎⇒梅屋庄吉⇒孫文⇒蔣介石・・は繋がらないか?。
「梅屋庄吉が“自分の事業収益だけで”辛亥革命を財政的に支えた」
というイメージは、ほぼ確実に誇張です。
梅屋庄吉さんと孫文さんにダマされてお金を出したと思はれる人に、孫文の支援ネットワークに関わった人物として、松方幸次郎・安川恵一郎・鈴木九五郎等の名前がある。
梅屋庄吉をめぐる世界は、「立志伝の実業家」・・実際にあった 秘密結社・亡命者・地下資金・偽名・匿流・・列強の半植民地状況・公然とやれないから地下化せざるを得なかった現実が生んだ当時の標準的な政治運動の形だった。「秘密結社っぽさ」は歴史です。
仮に孫文の主張する革命が成功していたら?・・・
「革命いまだならず、同志なおすべからく努力すべし」
(革命尚未成功,同志仍須努力)・・・・成功せんでエエ!!
孫文が「国父」として神格化されたのは、皮肉にも「志半ばで倒れ、権力の汚濁に完全に染まりきる前に退場したから」という側面は否定できません。
結果として「民権」ではなく「外国資本と結託した一部の資本家による独裁」に変貌していた恐れがあります。孫文の活動を支えた資本家による「国家の私物化」と革命資金の返済として、利権の切り売り、結果、「外国資本と結託した一部の資本家による独裁」に変貌していた恐れがあります。孫文が提唱した「軍政・訓政・憲政」の三段階論は、理屈の上では民主主義への準備期間ですが、実態としては「国民が賢くなるまで党が独裁する」という免罪符になり得ます。蒋介石時代の國民黨がそうであったように、「今は訓政の時期だから」という理由で言論統制や政敵排除が正当化され、結局は「民国」という看板を掲げただけの専制政治が長く続いた可能性が高い。孫文には自前の強力な軍隊が不足していた。
恩賞としての官職: 資金援助した勢力や、協力した地方軍人に「実効支配権」を安売りせざるを得ず、中央政府の威信は形骸化します。軍閥割拠と実態は何も変わらない。
中華民國同様に実効支配不在・民衆支持欠如・国名と実態の不一致は同様であったでしょう。
房総に残る支那共和国
北洋政府時代、孫文さんと蔣介石さんは大原漁港のイセエビ食べとったらしいゾ!
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ロシア戰爭企業・ワグネルのプリゴジンか國民黨の蔣介石か?


*以徳報怨之碑・由緒(碑の裏面)
昭和二十年(一九四五)八月。日本の降服で戦争は終わった。
あの、泥沼さながらの全面戦争のなかで、日華両国、両族が体験した惨状、痛苦は言語を絶し、
今にしてもなお、胸えぐられる想いを禁じ得ない。
私たちは、戦勝国による国家分断占領、民族離別の危機に直面したが、中華民国の蔣介石総統の
尽瘁を戴くことに依り、現在を迎えることが出来得た。
即ち蔣介石総統は日本の国体変革、分断占領の非を強く主張され二百余万人に及ぶ在華日本国
将兵、邦人の速やかな送還を実現されたのみならず、日本再生のためにと戰爭賠償すら求められ
なかった。
往古以来の歴史を繙いても、この様な寛大極まる措置は稀有である。
蒋介石総統は説かれた。「徳を以って怨に報いる」と。以徳報怨。僅か四文字。
然し、そこにこめられた蔣介石総統の温情は天地を満たしてもなお余りあり、中国の国父
孫文の大アジア主義を礎とされていることに、深い感動を覚える。
顧みるに此の地、千葉県夷隅郡岬町は、日華親善に生涯を捧げられ、慈父と仰がれた国士梅屋
庄吉翁(一八六八~一九三四)の終焉の地である。
翁は若き日より義兄弟の盟を誓い合った親友孫文のために、私たちの想像を絶する莫大な私財
を投じ、革命支援、新生中国誕生に献身された。
岬町江場土海岸に今なお跡の残る翁の別荘には、日本亡命中の国父孫文が秘かに身を寄せられ、
蔣介石総統も若き日に、しばしば訪れ中華革命の烈士ともども、幾度も挙兵の策を練られた。
この様に、由緒深き地に在る私たちは、蒋介石総統に戴いた、あの恩義なくしては、今日の
日本の繁栄は有り得ないことを想い、有志相語らい、日本各地の同志各位の賛同を仰ぎ、ここに、
彼の恩義を石に刻み、以徳報怨之碑として永世に伝える。
昭和六十年四月吉日
蒋介石総統顕彰会 議
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碑の建立が1985(昭和60)年、蔣介石死去が1975(昭和50)年。
「中正紀念堂」が出来たのが1980(昭和55)年で・・その後・・
蔣介石、蔣経国が死去し、戒厳令が解かれると、蔣介石像は一般市民からたびたび議論の的となり、破壊され、撤去されるということが繰り返されるようになった。一部の市民は、主に二・二八事件の日に合わせて蔣介石像を破壊するようになり、現在でも蔣介石像の破壊活動は頻発している。
国民党は一貫して蔣介石を支持してきたが、2000年に台湾最初かつ最大野党の民主進歩党が初めて政権を握り、陳水扁総統は精力的に去蔣化を推し進めた。
2020年10月時点の政府機関の統計によると、台湾全土の公共空間に蔣介石・蔣経国の像が971体あるという。
慈湖紀念雕塑公園 慈湖蔣公銅像公園 | 八条院暲子内親王之令旨 **** 乍恐以電信奉申上候
高雄県が2000年に最初に像を寄贈すると、続いて全土から続々と不要になった蔣介石像が送られ、さらに民主進歩党の蔡英文総統の時期には各地で公共の場所からの撤去が進められたが廃棄されずに寄贈されてくるものも多く、2022年時点で約300体の蔣介石像が展示された。
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1929年3月26日
蔣介石設宴招待護送孫中山銅像到中國的梅屋庄吉。
蔣介石、宋美齡與梅屋庄吉夫婦及女兒等合影
※:この場所「三門別荘」は、蒋介石と梅屋庄吉の深い絆を示す歴史的拠点でした。
梅屋庄吉は、三門海岸近くに15,000坪(約5ヘクタール)という非常に広大な土地を購入し、別荘を構えていました。蒋介石は日本滞在中、しばしばこの別荘を訪れ、孫文と二人でいすみ川で釣りを楽しんだ。大原海岸で獲れるイセエビやアワビを堪能していたと言われています。
この別荘には、蒋介石だけでなく犬養毅や頭山満といった当時の日本の有力者も招かれていました。
蒋介石にとって三門の地は、政治的な亡命生活の合間に、信頼する梅屋庄吉夫妻のもとで心身を休めた「安息の地」の一つだったとも言えます。
※:だからと言ってバカデカイ銅像はいらんゾ!
ごきげんよう・・・