Doolittle Raid

 

ジェイムズ・ハロルド・ドゥーリトル(James "Jimmy" Harold Doolittle, 1896年12月14日- 1993年9月27日)は、アメリカ陸軍の軍人、パイロット。日本ではドーリットルと表記されることが多い。1925年のシュナイダー・トロフィー・レースで優勝したことや1942年4月18日のドーリットル空襲を指揮したことで有名で

 

カーチス R3C-2

シュナイダー・トロフィー・レースは、それまではイタリア製の水上機マッキM.33やサボイアS-21という戰闘飛行艇”が連勝していたのだが、ドーリットルは、1925年10月26日にアメリカ合衆国ボルチモアで開催された第8回シュナイダー・トロフィー・レースにおいて、水上機「カーチス R3C-2」を操縦して優勝しました。

マッキM.33

 日本の史学や教科書が語らない「1925年のシュナイダー・トロフィー」から「1942年ドーリットル空襲」へと続く、残酷で、かつロマンに満ちた一本の線。それを知って観るあの映画紅の豚は、単なるアニメではなく、「かつて空に命を懸けた男たちの記録」に見えるはずです。

 

真珠湾から四か月あまりの1942年(昭和17年)4月18日にアメリカ軍が陸軍航空軍B-25を航空母艦より発進によって実施した日本本土に対する空襲

ホノルル市街地攻撃をしなかったにも関わらず真珠湾攻撃以降も緒戦で、アメリカ軍は苦戦を強いられる。日本軍潜水艦によるアメリカ本土攻撃も、米國民の士気に影響を与えた。考え出された計画は・・

「日本本土への空襲で、日本国民の心に混乱をもたらし、日本の指導者への疑念を抱かせ」「アメリカは士気を高める必要があった。」

4月1日、B-25B・16機がサンフランシスコ・アラメダ埠頭で空母ホーネットの甲板にクレーンで搭載された。

  事前の計画では、4月18日午後に日本本土(本州)沿岸距離500浬地点でB-25隊は発進(各機500ポンド爆弾4個搭載)。指揮官ドーリットル中佐機は夜間の東京に焼夷弾を投下、火災を目標に後続機が爆撃を敢行(ほかに名古屋、大阪、神戸を各1機が空襲)。空襲終了後は全機中国大陸に脱出というものだった。

 つまり爆撃効果より本土空襲が可能であることを証明する目的であったので計画通り安全に退避するために日本軍の迎撃を避けねばならなかった。

しかし、ハルゼー提督(エンタープライズ乗艦)は予想外の遠距離で日本軍に発見されたため、発艦予定海域手前の当初の夜間爆撃の予定をとりやめ、予定より7時間早い08:15からB-25爆撃機を発艦させ始めた。ハルゼー提督にとって、ドーリットル隊よりも空母二隻からなる艦隊を守ることを優先した。最後のB-25が09:16に発艦した後、ハルゼー提督の艦隊は直ちに退避を開始した。

 

ドーリットル率いるB-25爆撃機16機は東京府東京市、神奈川県川崎市、横須賀市、愛知県名古屋市、兵庫県神戸市などを爆撃した。

日本本土爆撃を終えたB-25のうち15機は中国大陸に不時着して放棄された。この際、搭乗員8名が日本軍の捕虜となり、その処遇を巡って問題になった。また1機はソビエト連邦支配地域に不時着して、搭乗員は抑留された。

 

 その後のジェイムズ・ハロルド・ドゥーリトル

1942年7月、准将に昇進。9月、北アフリカ戦線司令官。

11月、アフリカ北西部の戦略空軍司令官、少将。

1944年1月、イギリス本土アメリカ第8空軍司令官、中将。

1946年5月10日予備役。

1957年アメリカ航空諮問委員会委員長。

1959年に退役後、シェル石油の副社長などを歴任。

1985年4月4日、予備役大将。

全米の英雄でありながら政界に進出せず・・・・

ウィリアム・ハルゼー・ジュニアとは仲良くなかったことは想像出来る。

ごきげんよう・・

臨床講義

台湾と云ふ患者に就て

一、姓 名 台湾島

一、性   男

一、年 齢 現住所に移転してより二十七才

一、原 籍 ○○○○○○○○○○

一、現住所 大日本帝国台湾総督府

一、番 地 東経一二〇~一二二、北緯二二~二五

一、職 業 世界平和第一關門の守衛

一、遺 伝 黄帝、周公、孔子、孟子等の血統を受けたる遺伝性著し

一、素 質 前記の如き聖賢の後裔なる故、素質強健、天資聡明

一、既往症 幼少の時、即ち鄭成功の時代には身体すこぶる強壮にして、頭脳明晰、意志堅実、品性高尚、動作快活であったが、清朝時代に入ってより政策中毒のため、漸次身体衰弱し、意志薄弱となり、 品性卑劣、節操低下した。日本帝国に転居して以来、不完全なる対症療法を受けて、稍稍恢復に向ったが、何分二百年の長きに亘る慢性中毒症なる故、容易に治癒の見込立たず。

一、現 症 道徳廃頽、人心澆漓、物質的欲望に富み、精神的生活に乏し、風俗醜陋、迷信深く、頑迷不抜、衛生思想全く欠乏し、智慮浅く、永久の大計を立つることを知らず、ひたすら眼前の小利を争ふ、堕落怠惰、腐敗、卑屈、怠慢、虚栄、破廉恥、四肢倦怠、惰気満満、意気消沈にして全く生気なし。

一、主 訴 頭痛、眩暈、腹内飢餓感 まずこの様な患者であるが、これを診断するに、頭部は身体の割合に大きくて、思考力大なるべきはずなるも、二三の常識的質問を試みれば、その返答は不得要領である。して見ると、この患者は愚かで、 低能児であることが想像される。これは頭骨が大きい代りに未だ内容空虚にして脳髄充実せないからである。それ故に、少し難しい哲学なり、数学なり、科学なり又は世界の大勢論を聞くと眼眩して頭痛する。 それから手と足が大へん大きく太く発達している。これは過度に労働したためであろう。次ぎに腹部を視診するに、腹胴は細く凹んでいる。腹壁は皺だらけで、あたかも経産婦の如く、白線を有す。これは大正五年来の欧州大戦の一時的僥倖によって、一時とみに腹を肥やしたが、昨年夏より講和風を引いて腸感冒を起し、大へんな下痢を催したため、極度に張りつまった腹壁が急に縮んだのであると想像される。

一、診 断 世界文化に於ける低能児

一、原 因 智識の栄養不良

一、経 過 慢性病なる故、経過長し

一、予 後 素質純良なる故、適当なる療法を施せば、速かに治療すべし。これに反し療法を誤り、 又は荏苒遷延することあれば、病膏肓に入り、死亡するところあり。

一、療 法 原因療法、即ち根治療法

処  方

正規学校教育  極 量

補習教育       極 量

幼稚園         極 量

図書館         極 量

読報社         極 量

   右合剤調和し、速用すること二十年にして全治すべし。

   その他、効くべき薬品あるも、これを略す。 

  大正十年十一月三十日 主治医師 蔣 渭水

「同胞須團結,團結真有力!」

台湾で深く尊敬・顕彰されながらも、日本国内での知名度がそれほど高くない(あるいは近年までほとんど知られていなかった)日本人は複数存在します。

臺灣だけでなく日本の歴史を探索する際にも必要な人たちですので・・・

何人知ってます??

 

あおきかずお

青木和夫

日本軍醫青木少佐

あさいちよ

淺井千代

常磐津歲悅(サイエツ)

いいだとよじ

飯田豐二

下淡水溪鐵橋技術者

いけがみいちろう

池上一郎

池上一郎博士文庫

いしざか そうさく

石坂 荘作

「石坂商店」『石坂文庫』

いそ えいきち

磯 永吉

蓬莱米の父

いそだ のりお

磯田 謙雄

白冷圳之父

うちだりんこ

內田鄰子

愛國婦人會臺灣支部第5代支部長

えぐち りょうざぶろう

江口 良三郎

花蓮開発の父

おおいかくし

大井確士

近衛歩兵第一聯隊副官

かねこまさきち

金子政吉

大甲公學校校長

かねひらりょうぞう

金平亮三

「臺灣山林會報」総督府林業部長

くろかわかめきち

黒川亀吉

瀰濃公学校校長

こばやし さぶろう

小林 三武郎

小林福徳正神廟・もう一回神様

さいごう きくじろう

西郷 菊次郎

「西郷庁憲徳政碑」

さかい とくしょう

湯 徳章(坂井 徳章)

台南「正義と勇気の記念日」3/13

さくまなおたか

佐久間尚孝

曹洞宗新竹禪寺住職

しが てつたろう

志賀 哲太郎

大甲聖人

しまむらそで

島村ソデ

志賀哲太郎先生・忠婢

しみずてるこ

清水照子

「台灣乞丐之母」~施照子

すぎうら しげみね

杉浦 茂峰

飛虎將軍

たかぎともえ

高木友枝

『台湾医学・衛生の父』

たかだ またお

高田 又男

第三十八号哨戒艇・「郭府千歳」

たなかつなつね

田中網常

「トルコの恩人」

ちばたくま

千葉太久馬少尉

嘉義・開凰宮

とりい のぶへい

鳥居信平

地下ダム伏流水利用に依る開拓

はった よいち

八田 與一

「八田路」名主

はとり またお

羽鳥 又男

赤崁楼の修復

はまの やしろう

濱野彌四郎

「台湾水道の父」

はやたぶんぞう

早田文蔵

「台湾植物の父」

ひぐちかつみ

樋口勝見

「樋口将軍」 

ひろえだ おとえもん

廣枝 音右衛門

苗栗縣南庄鄉獅頭山勸化堂

ほりうち つぎお

堀内 次雄

台湾医学界の父

ほんだじんじろう

本田甚次郎

「本田大佐」

まつだとくぞう

松田篤三

陸軍步兵少尉正八位

みやはらたけくま

宮原武熊

宮原眼科・アイスクリーム屋

もりかわ せいじろう

森川 清治郎

義愛公

やまおかさかえ

山崗榮

東勢農林学校教師

やまね たけすけ

山根武亮

臨時台湾鉄道隊隊長

やまもと よしのぶ

 山本 義信

草山羽衣園・板橋區長

よしはらすえたろう

吉原末太郎

九份国民小校長

ろくしせんせい

六氏先生

「芝山巌精神」

 

 

 

臺灣へ行ったら探してみてくださいネ。

ごきげんよう・・

李登輝(岩里政男):

1944年京都帝国大学農学部農業経済学科から学徒出陣により出征。大阪師団に徴兵検査第一乙種合格(特別甲種幹部候補生)で入隊し、台湾に一時帰って基礎訓練を終えた後に日本へ戻り、その後千葉陸軍高射学校に見習士官として配属される。その直後の1945年3月10日、東京大空襲に遭遇。千葉の上空を通って東京方面に向かう米軍機に向けて高射砲を撃つ。爆撃で金属片が顔をかすめたが無事だった。 大空襲の翌日である3月11日、爆撃で戦死した小隊長に代わって被災地で救援を指揮。 その後終戦を名古屋で迎え直後の昇進により少尉となる。

1943年就讀京都帝國大學農學部農林經濟科一年級的李登輝

1943年11月20日 出陣学徒壮行式分列行進(本部本館前)

 

軍都千葉

現在の千葉市中央区・稲毛区・若葉区には、明治41(1908)年鉄道聯隊第二大隊が現在の千葉市中央区椿森に移転して以来、同材料廠、作業場のほか、陸軍兵器補給廠、陸軍病院、気球聯隊、そして千葉聯隊区司令部などの軍施設の集積が見られるとともに、陸軍防空学校、歩兵学校、戦車学校、そして下志津飛行学校といった養成施設が設置された。

6036JR稲毛駅から小中台方向の景色

 

防空学校(千葉陸軍高射学校)

 昭和十三年(一九三八)十月十四日に、小中台で開校式を挙げ、その後三度の拡充をし、昭和十九年四月には千葉陸軍高射学校と改称された。大正十一年(一九二二)に、四街道の陸軍野戦砲兵学校内に高射砲練習隊が創設されたのに期を一つにしている。当時の対空射撃は四街道の野砲兵が大砲を上空に向けて打つ訓練を片手間にやっていた。

 最初の建設計画は、規模が大きすぎると、経理部等からクレームがつき三〇パーセントに縮小する案も出されたが、建設の過程で、当時の防空の実情を考慮して、一年後に当初の計画に落ち着いた。付設して、トーチカ、防空濠、照空燈(一基)や高射砲(二四門)の台座(輪転台)も構築された。しかし千葉市空襲時に、実(臨)戦部隊ではないので、対空砲火としての威力を発揮することはなかった。実弾射撃訓練は、九十九里の片貝海岸で主にやった。

 建設の計画、用地の買収、施工、監督は陸軍の経理部が一切を担当した。用地の買収は、昭和十三年ころから開始され、園生、小中台地区の農家一八軒の畑地や草地が対象になった。買収価格は一反歩五百円程度であった。第二次の用地買収は、同校の幹部候補生隊(現在の市立高校の場所に昭和十九年開設した)のもので、昭和十六~十七年ころ主として園生地区の農家一三軒から、一反歩当たり千円位で実施された。これは畑地の場合で、草地は坪八〇銭位であった。

 高射砲はすべて、陸軍直営の東京小石川の砲兵工廠で作製したが、昭和十九年当時には対空兵器として着弾距離を延長するため、七口径から八口径に変更した。建坪の単価は五〇~六〇円であった。建設資材は官給品で、東京向島にあった陸軍の需品廠が調達した。

 この設計は、建物を一列に配列するのをやめて、六棟を不規則に配置した。これは戦争になれば爆撃の目標になりやすいからであった。建設期の昭和十七~十九年というと、空襲問題が(本格的な被爆はまだなかったが)切実な関心を呼び、防空学校という立場からも非常に敏感であったわけである。防空学校開設に際して、高圧線の七万ボルト幹線は、県内では松戸方面のみしか敷設されていなかったので、東電と交渉して、高電圧の送電を可能にしたという電力問題があった。一方給水は、送水管が細く、特に、鉄道連隊の「軽便」の踏切下では、水圧が下るので、当時京成稲毛駅付近に加圧所を設置している。

 

【どうでも良いくだらない歴史】

川口為之助から羽衣公園そして陽明山羽衣園へ繋がる。

李登輝さんがいた千葉陸軍高射学校の痕跡は石碑も紀念碑も陸軍境界石も見付けられなかった。それはみな・・川口為之助が悪い、否エライ!!

防空学校跡地に戦後初民選知事川口為之助は千葉縣に本籍又は縁故のある引揚者戦災者を入居させる公営住宅四五〇戸を、昭和二十一年五月建設した。

陽明公園(後山公園)は戦前は羽衣園といって山本義信さんの別荘地で鉱山での安全祈願に清滝神社もあった。なぜ『羽衣』なのか理由がワカッタ!この羽衣伝説は平常将である。なぜなら山本義信さんは千葉縣茂原出身だから・・ウソだと思ふなら千葉県庁にある羽衣公園へ行ってみろ、川口為之助像の近くに平常将が天女にセクハラした証拠の松がある。

李登輝さんがソレを知っていたかはワカリマセンが蒋介石はまったく知らなかった。

 

李登輝さんが活躍された小中台の防空学校跡地は各種学校に公民館と高級マンションで埋まってしまって・軍都の面影は一切殘っていません、李登輝さんのお望み通りになっていました。

よかったよかった・ごきげんよう・・・

 

昭和時代支那兵の実態

1937-10-31

※※ 228を迎えるにあたって・・

日本人の支那兵認識の誤解!

多くの歴史研究者は支那兵を普通の國軍兵士として歴史を語る。

異文化コミュニケーションを理解していないのです。

戦後の臺灣人が一番よく知っている、國府軍がやってきたとき・・・

占領軍よりもみすぼらしかった歴史を知っています。

日本占據時代に産業革命の蒸気機関・電気・通信・文化を知っている・

しかし大陸チャイナは50年以上も文化が止まっていたのでした。

臺灣人と大陸華人との異文化コミュニケーションが出来なかった歴史です。

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支那軍の行軍の様子

 

軍中楽園(台湾映画2014年)と

台湾海峡一九四九(原題:大江大海。2012年)

著者・龍應台(馬英九政権時代の初代文化部長)

から見える近代支那兵の実態を探る。

支那兵の実態は弐戰後の臺灣人が体験している。

制度に基づき訓練を受けて戦地に派遣された人たちではなかったのです!!

多くの臺灣元國軍老人兵士がそうであるんです、

年金削減しないでください。??

 

映画軍中楽園の場面に登場する大陸出身の老兵老張の回想には、

①郷里の畑で母と野良仕事してるとき兵隊にさらわれる。

②母は布靴を形見に作ろうとしたが布靴の底しか届けられなかった。

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台湾海峡一九四九の内容から

①「軍の人さらいだ!」母が「逃げなさい!」私に餅を渡しました。

②引き出しに仕舞ってある布靴の底を手にするとき父はいつも泣くのだ。

③林精武は草履が作れなかった、読み書きできない老兵のために新聞を読み手紙を代筆し、その代わりに自分の草履を作ってもらった。

④國民黨政府の徴兵は当初は買っていたが、さらうしかなくなっていった。

⑤将校は部下に命じて兵隊になれそうな若者をさらいに行かせた、さらってきた兵が多ければ分隊長・小隊長になれる。

⑥我々を捕まえたのは第八二砲兵中隊で一人四発の砲弾を運びました、前後に二発ずつ括りました。

⑦内戦時捕虜になると一週間もすれば立派な敵國兵になる、紅色腕章をつければ紅軍兵士で星模様帽子を被れば國府軍になれる。ご飯が食べれたらどちらも同じ。高齢者になって記憶が曖昧になり、當時自分がドチラの軍隊かわからない老人がいる。

 

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昭和12年9月頃上海海軍陸戦隊の通信記録には次のようなものがある。

①敵は前線に児童まで送り込んでいる。

②最前線と督戦隊の間で同士討ちが始まった。

 

日本軍についてきた児童

待ち構える支那兵

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結果検討考察結論:

日本の大河ドラマで見える戦国時代の方がまだマシ!!

ごきげんよう・・・

 

房総に残る昭和の世界・・

茂原市ホームページ・茂原の文化財から・・「掩体壕」

茂原海軍航空基地跡・3号掩体壕

 

太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年9月に、木崎・谷本・町保・新小轡・本小轡等の約150戸の民家や東郷国民学校(現東郷小学校)及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地の建設が始まりました。

司令部跡は現萩原小学校、兵舎跡は現茂原中学校、滑走路跡は三井化学(株)東側の約1,000mの道路で、基地の東端は東郷保育所前を通る通称海軍道路と呼ばれている辺りです。基地の北側には誘導路が巡らされ、戦闘機を敵襲から守るための格納施設である掩体壕が造られました。

掩体壕(3号掩体壕)は土砂を壕の形に盛って転圧して筵(むしろ)や板を並べ、その上に鉄網等を張ってセメントを流して造られており、総面積365平方メートル、壕の中の面積286平方メートル、高さは最大6m70cmあります。築城は、主に横須賀鎮守府から派遣されてきた海軍設営隊が行っておりましたが、長生中学校や茂原農学校(現長生高校・茂原樟陽高校)の生徒、近隣住民等も動員されたことが確認されております。

戦争の記憶が薄れていく中、当時の様子を物語る貴重な戦争遺跡です。

 

なぜ蒋介石は山本義信さんへ?

山本氏記念碑 (新北市中和區自強公園内)と以徳報怨之碑(いすみ市)の関係・・

*

山本義信さんとは、大正年間に多くの鑛業權を獲得し、山本鑛業合資會社を成立し社長となります。その後に公共事業への投資にも力を入れ、板橋庄協議會員、臺灣鑛業會理事,板橋市長を務め、陽明山草山羽衣園の建設を開始します。(七星山を中心とする国家公園、現在の陽明山、草山行舘、陽明書屋、一帯すべてです)。。山本義信さんと妻子は日本へ返還された。この時、所持出来るお金は規定により一人千圓でした。山本義信さんは千葉縣茂源市の実家に帰りましたが、それ以来、台湾のことについては口を開きませんでした。

1956年(民國31年)の初めごろ山本義信さん75歲の時,國民政府の董顯光から感謝状を受取ります。(董顯光さんは1952年5月に駐日大使、1956年5月から駐米大使をした人です。)

同年3月24日國民政府から蒋介石総統拜訪のため台湾へ招待されます。

1957年5月國民政府は山本義信さんへ、特別な送還者手当を支給しました。

 

※つまり蒋介石さんは台湾に残した日本人財産のゼ~ンブを自分のモノにしちゃったのですが・・

オイオイ、梅屋庄吉別荘の同郷とあらば、ちょっとは御礼・仁義を通しておこうかと・・・

と、まあ、そういうところではないでしょうか?

 

梅屋庄吉と蔣介石の関係をいすみ市に探す..

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表面:梅屋庄吉先生顕彰会  梅屋別荘跡地  梅屋庄吉愛用の井戸

裏面:梅屋庄吉(一八六八~一九三四)の事跡

明治元年(一八六八)十一月二十六日、長崎の貿易商の跡継ぎとして誕生。

若年より東南アジア各地に雄飛し、明治二十七年(一八九四)初頭、香港

に居を定める。明治二十八年(一八九五)一月、この地にて、孫文と邂逅。

孫文の革命思想・大アジア主義に肝胆相照らして義兄弟の盟約を結ぶ。

以降、東京に於いて映画事業を経営し、その巨額の成果を尽くして、辛亥

革命(一九〇五~一九二五)の成就を支援した。その間、大正四年(十九

には、東京の自宅に於いて、妻トクと共に隠れたる仲人として、孫

文と宋慶齢の結婚式を挙行。また、亡命中の孫文、蔣介石等の革命の志士

達に憩いの場を提供すべく、大正十年(一九二一)に三門海岸に別荘(一

万五千坪)を購入し、志士達や本邦名士達を招くと共に、三門の人々と風

物をこよなく愛し、晩年の大半を此の地で過ごした。孫文の国葬には日本

代表として招待され弔辞を述べると共に、更に孫文の冥福を祈るため、髙

さ十数尺の孫文の銅像五基を建造して中国各地に寄贈した。(現存)

昭和九年(一九三四)十一月十五日、廣田弘毅外務大臣の要請を受け、日

中問題打開のために、蔣介石総統と会談すべく、療養中の三門の別荘から

駅に向かったが、列車を待つ三門駅ホームにて昏倒、七日目に帰らぬ人と

なった。孫文と義兄弟の盟を結び、日中友好に生涯をかけ、その心と財を

尽くした梅屋庄吉、享年満六十五であった。

平成十三年八月吉日

この地を開発するに当たり記念碑を設立する。

(株)東昭建設

(株)御宿土地

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ChatGPT:さんの検索結果によれば・・・

梅屋庄吉は孫文さんの「ATM」ではなく「ルーター」国際人脈

 

民間消費財・文化産業だけで辛亥革命級の資本力はあり得るのか? あり得ません。!

「幕末〜近代東アジアにおいて、武力・資金・国際ネットワークを動かせる“非国家アクター”が連続的に登場した」しかし・・

武器商人坂本龍馬⇒岩崎弥太郎⇒梅屋庄吉⇒孫文⇒蔣介石・・は繋がらないか?。

「梅屋庄吉が“自分の事業収益だけで”辛亥革命を財政的に支えた」

というイメージは、ほぼ確実に誇張です。

梅屋庄吉さんと孫文さんにダマされてお金を出したと思はれる人に、孫文の支援ネットワークに関わった人物として、松方幸次郎・安川恵一郎・鈴木九五郎等の名前がある。

梅屋庄吉をめぐる世界は、「立志伝の実業家」・・実際にあった 秘密結社・亡命者・地下資金・偽名・匿流・・列強の半植民地状況・公然とやれないから地下化せざるを得なかった現実が生んだ当時の標準的な政治運動の形だった。「秘密結社っぽさ」は歴史です。

 

仮に孫文の主張する革命が成功していたら?・・・

「革命いまだならず、同志なおすべからく努力すべし」
(革命尚未成功,同志仍須努力)・・・・成功せんでエエ!! 

孫文が「国父」として神格化されたのは、皮肉にも「志半ばで倒れ、権力の汚濁に完全に染まりきる前に退場したから」という側面否定できません。

結果として「民権」ではなく「外国資本と結託した一部の資本家による独裁」に変貌していた恐れがあります。孫文の活動を支えた資本家による「国家の私物化」革命資金の返済として、利権の切り売り、結果、「外国資本と結託した一部の資本家による独裁」に変貌していた恐れがあります。孫文が提唱した「軍政・訓政・憲政」の三段階論は、理屈の上では民主主義への準備期間ですが、実態としては「国民が賢くなるまで党が独裁する」という免罪符になり得ます。蒋介石時代の國民黨がそうであったように、「今は訓政の時期だから」という理由で言論統制や政敵排除が正当化され、結局は「民国」という看板を掲げただけの専制政治が長く続いた可能性が高い。孫文には自前の強力な軍隊が不足していた。

恩賞としての官職: 資金援助した勢力や、協力した地方軍人に「実効支配権」を安売りせざるを得ず、中央政府の威信は形骸化します。軍閥割拠と実態は何も変わらない

中華民國同様に実効支配不在・民衆支持欠如・国名と実態の不一致は同様であったでしょう。

 

房総に残る支那共和国

北洋政府時代、孫文さんと蔣介石さんは大原漁港のイセエビ食べとったらしいゾ!

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ロシア戰爭企業・ワグネルのプリゴジンか國民黨の蔣介石か?

*以徳報怨之碑・由緒(碑の裏面)

 昭和二十年(一九四五)八月。日本の降服で戦争は終わった。

 あの、泥沼さながらの全面戦争のなかで、日華両国、両族が体験した惨状、痛苦は言語を絶し、

今にしてもなお、胸えぐられる想いを禁じ得ない。

私たちは、戦勝国による国家分断占領、民族離別の危機に直面したが、中華民国の蔣介石総統の

尽瘁を戴くことに依り、現在を迎えることが出来得た。

 即ち蔣介石総統は日本の国体変革、分断占領の非を強く主張され二百余万人に及ぶ在華日本国

将兵、邦人の速やかな送還を実現されたのみならず、日本再生のためにと戰爭賠償すら求められ

なかった。

 往古以来の歴史を繙いても、この様な寛大極まる措置は稀有である。

 蒋介石総統は説かれた。「徳を以って怨に報いる」と。以徳報怨。僅か四文字。

 然し、そこにこめられた蔣介石総統の温情は天地を満たしてもなお余りあり、中国の国父

孫文の大アジア主義を礎とされていることに、深い感動を覚える。

 顧みるに此の地、千葉県夷隅郡岬町は、日華親善に生涯を捧げられ、慈父と仰がれた国士梅屋

庄吉翁(一八六八~一九三四)の終焉の地である。

 翁は若き日より義兄弟の盟を誓い合った親友孫文のために、私たちの想像を絶する莫大な私財

を投じ、革命支援、新生中国誕生に献身された。

 岬町江場土海岸に今なお跡の残る翁の別荘には、日本亡命中の国父孫文が秘かに身を寄せられ、

蔣介石総統も若き日に、しばしば訪れ中華革命の烈士ともども、幾度も挙兵の策を練られた。

 この様に、由緒深き地に在る私たちは、蒋介石総統に戴いた、あの恩義なくしては、今日の

日本の繁栄は有り得ないことを想い、有志相語らい、日本各地の同志各位の賛同を仰ぎ、ここに、

彼の恩義を石に刻み、以徳報怨之碑として永世に伝える。

   昭和六十年四月吉日

              蒋介石総統顕彰会  議

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碑の建立が1985(昭和60)年、蔣介石死去が1975(昭和50)年。

「中正紀念堂」が出来たのが1980(昭和55)年で・・その後・・

蔣介石、蔣経国が死去し、戒厳令が解かれると、蔣介石像は一般市民からたびたび議論の的となり、破壊され、撤去されるということが繰り返されるようになった。一部の市民は、主に二・二八事件の日に合わせて蔣介石像を破壊するようになり、現在でも蔣介石像の破壊活動は頻発している。

国民党は一貫して蔣介石を支持してきたが、2000年に台湾最初かつ最大野党の民主進歩党が初めて政権を握り、陳水扁総統は精力的に去蔣化を推し進めた。

2020年10月時点の政府機関の統計によると、台湾全土の公共空間に蔣介石・蔣経国の像が971体あるという。

慈湖紀念雕塑公園 慈湖蔣公銅像公園 | 八条院暲子内親王之令旨 **** 乍恐以電信奉申上候

高雄県が2000年に最初に像を寄贈すると、続いて全土から続々と不要になった蔣介石像が送られ、さらに民主進歩党の蔡英文総統の時期には各地で公共の場所からの撤去が進められたが廃棄されずに寄贈されてくるものも多く、2022年時点で約300体の蔣介石像が展示された。

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1929年3月26日

蔣介石設宴招待護送孫中山銅像到中國的梅屋庄吉。

蔣介石、宋美齡與梅屋庄吉夫婦及女兒等合影

 

※:この場所「三門別荘」、蒋介石と梅屋庄吉の深い絆を示す歴史的拠点でした。 

梅屋庄吉は、三門海岸近くに15,000坪(約5ヘクタール)という非常に広大な土地を購入し、別荘を構えていました。蒋介石は日本滞在中、しばしばこの別荘を訪れ、孫文二人いすみ川で釣りを楽しんだ。大原海岸で獲れるイセエビやアワビを堪能していたと言われています。

この別荘には、蒋介石だけでなく犬養毅や頭山満といった当時の日本の有力者も招かれていました。 

蒋介石にとって三門の地は、政治的な亡命生活の合間に、信頼する梅屋庄吉夫妻のもとで心身を休めた「安息の地」の一つだったと言えます

※:だからと言ってバカデカイ銅像はいらんゾ!

ごきげんよう・・・

財團法人台北市私立愛愛院のホームページより・・

財團法人台北市私立愛愛院は、1923年に愛愛寮として設立されました。淡水出身の実業家であった創設者の施乾は、当初、物乞いや社会的に疎外された人々を保護することを目的としました。彼は自身の財産を売却し、これらの社会的弱者のための住宅を建設し、彼らの生活を根本的に改善しました。時が経つにつれ、「愛愛」の機能は徐々に変化し、物乞いのための特別な避難所から高齢者のための介護施設へと変化し、「財團法人台北市私立愛愛院」と改称されました。その運営理念は、「愛情と忍耐による包括的なケア、ホリスティックケア、人間中心のアプローチ、ケアを託された人々を大切にし、心からの愛情をもって個別のケアを提供する」です。今日、台北愛愛基金会は100以上の歴史を誇り、数万人の高齢者を支援し、革新的な精神で慈善活動を推進し続けています。

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「台湾乞食の父」・・施乾

写真は、「台湾乞食の父」として知られる愛愛寮の創設者、施乾先生です。台北県淡水街に生まれ(1899~1944年)、裕福な家庭に育ちながらも、謙虚さと自制心を強く持ち、仁の徳を体現する人物として育てられました。

 

施乾は滬尾公學校を卒業後台湾総督府工業研修所(台北工業学校、現台北理工大学)に入学しました。その後、総督府で技師として働き、工業・商業調査や統計業務を担当しました。この間、艋舺地區の貧困層の生活調査を命じられました。艋舺の貧困層の窮状を調査した際、路上で物乞いをしたり病に苦しむ同胞の苦しみに深く心を打たれました。貧しい同胞たちが路上で物乞いを強いられ、飢え、病気、そして無視に苦しむ姿を目の当たりにした彼は、1923年(大正12年)、困窮した乞食たちを保護するため、彼は決意を固めて職を辞し、全財産を投じて親戚からも借金をして艋舺に土地を購入し、より多くの貧しい乞食を助けるために愛愛寮を設立しました。

茅葺き小屋を建てて乞食たちの住居としました。自ら彼らの体を洗い、読み書きを教え、豚の飼育、野菜の栽培、帽子や靴の編み方などを教え、自給自足の生活を教えました。さらに、物乞いの生活を観察した施乾は、物乞い問題の解決に向けた行動計画を提言し、この問題への意識を高めるための著書を執筆しました。

施乾(し かん、Shi Qian)は、日本統治時代の台湾で乞食や浮浪者の救済事業に尽力した社会事業家です。彼の著書や著作に関連する資料は以下の通りです。 

『乞食群衆の評論』 (原題: 乞丐群衆の評論)施乾が台湾の乞食の実態や、乞食となる原因について分析・執筆した著作です。

関連書籍(伝記・研究)

『臺灣乞丐之父:施乾』(玉山社) - 施乾の生涯をまとめた書籍。

『台灣乞丐之父: 施乾的思與為』施乾の思想と行動についての研究書。 

施乾は、賀川豊彦の『貧民心理の研究』などを参考にしつつ、自身が設立した「愛愛寮」における実践に基づいた乞食救済事業の記録を残しました

施乾は、自身が創設した乞食収容施設「愛愛寮(あいあいりょう)」での実体験を基に、乞食の生活を観察・分析しました。この本では、乞食問題を解決するための具体的な行動方針や社会への提案がなされています。

単なる施しではなく、乞食に住居と仕事(農業、工芸など)を提供し、自立を促す「更生」を目指しました。

社会運動家としての施乾:当時の社会で疎外されていた乞食に対し、敬意と愛情を持って接し、彼らの人間性を取り戻すための活動を生涯続けました。

社会的評価:1930年には、その功績が認められ、日本宮内省から天皇より下賜金(御賜賞金)を授与されました。 施乾の活動は、現代のSDGs(持続可能な開発目標)の目標1「貧困をなくそう」の先駆的な取り組みとして、現在でも高く評価されています。彼は物乞いをなくすという理想を実践しただけでなく、国民が担うべき社会改革の責任も示した。

施乾愛愛寮を設立した後、物乞いの世話と経費管理という困難に直面した時、最初の妻である謝惜女士は常に揺るぎない支えとなりました。彼女は持参金を愛愛寮の運営資金に充て、物乞いと共に暮らし、食事を共にし、昼夜を問わず世話を続けました。1930年、施乾は天皇に謁見し、愛愛寮にとって大きな栄誉となる皇室褒賞を授与されました。しかし、妻の謝惜は1932年に過労で亡くなりました。愛愛寮の運営危機と、物乞いの世話を担う有能な助手を失ったにもかかわらず、施乾は活動を諦めませんでした。 ******

 

日本の文豪である菊池寛は、台湾を訪れた際に台北の街から乞食が消えたことに驚き、その背後に施乾の活動があることを知りました。菊池は施乾の理念と献身に感銘を受け、日本国内のメディアでこの活動を広く紹介しました。これにより、施乾の事業は日本でも大きな注目を集めることとなりました。 

 

清水照子は1910年、京都市下京区の紙商の家に生まれました。4人姉妹の長女として、古都京都で育ち、使用人の世話を受け、祇園祭や稲荷祭を体験しました。清水照子は京都府立第二高等女学校(現・京都府立朱雀高等学校)を卒業後、茶道や華道といった婚礼の技を学び、父の縁結びを待ちました。

 当時、清水照子は菊池寛の文章などを通じて施乾の活動を知り、深い感銘を受けました。そして偶然にも、彼女の隣人であった施秀鳳は施乾の従妹であった。

施秀鳳が施乾清水照子相互文通の仲立ちを務めた。二人は手紙のやり取りをし、やがて結婚の話が持ち上がった。当時、施乾は妻を亡くしたばかりで、最初の妻謝惜との間に二人の娘を育てていた。しかし、両親の反対を押し切って、清水照子は1933年、加茂神社で施乾と結婚した。神戸港から台湾へ向けて出航した日、親族の見送りはなかった。

{清水照子死後になって彼女には當時銀行家御令息との見合い話があったことがわかる}

昭和9(1934)年、施乾の慈悲深い心に感銘を受けた日籍富家女清水照子女士は彼と結婚し、愛愛寮の活動を支援するために台湾に渡りました。清水照子もまた、物乞いたちの世話に自ら心を尽くしました。1944年(昭和19年)、施乾が脳出血で亡くなった後、清水照子は施乾の無私の愛を受け継ぎ、愛愛寮の運営を引き継ぎました。

 

「台灣乞丐之母」~施照子本名清水照子

 

施照子(してるこ、1909年3月30日 - 2001年12月9日)は、本名を清水照子といい、京都市下京区に生まれました。彼女は台湾で愛愛院の創設者である施干と結婚し、夫の物乞いを助けたいという思いを継承しました。

 

台湾に到着後、清水照子と夫は養護施設で野菜栽培、養豚、竹細工、裁縫など、農業と手工芸に従事した。当初、彼女は貧困と病に苦しむ住民たちとの暮らしに不安を感じ、ホームシックを和らげるため、近くの台湾製糖公司に頻繁に足を運び、日本人従業員と会話を交わしていた。結婚前、施乾は手紙の中で、乞食たちがユニフォームを着て野球をしている様子を描写していたため、彼女は乞食たちが清潔できちんとした生活をしているだろうと想像していたが、実際は全く違っていた。その後まもなく、彼女はアメーバ赤痢にかかり、1週間血便が続いた。アヘンの残留物と蜂蜜を混ぜた民間療法を服用し、回復した。

施乾與清水照子(左起 1.2.)及其幼女。

 

夫の前妻との間に生まれた二人の娘、施明月、施美代のほかに、施敏娜、施香、施愛鄉、施武靖、3人の娘と1人の息子を育てた。 1939年、太平洋戦争が勃発し、情勢は緊迫し、物資も乏しかった。彼女は食料を得るために、婚約指輪や着物などを質入れせざるを得なかった。夫は1944年8月、過労で亡くなった。その後、彼女は精神的な支えを求め、キリスト教を信仰するようになった。彼女は住民たちを率いて朝の祈りを捧げ。次女の施美代は、父の死後、母は当初日本への帰国を考えていたが、100人以上の住民が再び物乞いをするのを見るのが耐えられず、宣教を続けるために残ったと回想している。

 

1945年、彼女は中華民国に帰化し、「施照子」と改名した。1946年、台湾の物価が高騰した。6月9日、彼女は台北の龍山寺で許乃昌(日治時代の左派政治運動者 らと会談し、外部からの経済援助を求めた。翌年、彼女は二・二八事件を目撃したが、その出来事を思い出すことも、語ることもしなかった。

 経営初期には、療養所の物乞いが道端の慰霊祭で遺族に金銭を乞うという問題に直面した。彼女は遺族に対し、同様の状況に遭遇した場合はまず療養所に知らせるよう求め、職員を派遣して取り締まらせなければならなかった。

 夫は以前、物乞いを捕まえて療養所に強制的に収容し、カウンセリングと研修を受けた後に釈放していた。そのため、遺族は愛愛療養所の旗を掲げ、物乞いを脅して金銭を乞わせようとした。 また、彼女は台北市衛生部隊の路上清掃などの衛生活動に住民を派遣した。療養所の経済収入は、主に入所者の自立訓練と、危機を徐々に解決するためのアメリカからの援助に依存していた。

施乾夫婦に加え、愛愛ではもう一つの異文化結婚が起こった。清水照子の親戚である島敏恭が、施乾の養孫である謝伶姜と結婚したのだ。島敏恭が台湾の清水照子を訪ねた際、謝伶姜が案内役を務めたことがきっかけで、思いがけず二人は結婚に至った。

入所者たちにとって、施院長は常に親切で思いやりがあり、頻繁に巡回し、入所者たちの健康状態を気遣っていた。 記者たちは、施院長が大和撫子のような優しく忍耐強い性格だと称賛した。1954年3月8日、彼女は「模範婦人」の称号を授与された。

しかし、彼女は子孫たちに、言葉が通じない土地に嫁ぐことを禁じていました。なぜなら、彼女の子孫は誰も日本語で彼女とコミュニケーションをとることができなかったからです。

1995年11月19日、施照子は淡水小学校を訪れ、夫の石像の除幕式に出席した。彼女は非常に控えめな性格で、授賞式にもほとんど出席しなかった。唯一の例外は、2000年にロータリークラブが主催した資深職業婦女成就獎の授賞式だった。 彼女はかつて記者の董智森に対し、過去50年間、人生は何も変わっておらず、書くこともないと語ったことがある。2001年11月、息子の施武靖が母の後を継いで理事長に就任した。

 

2001年12月9日、「台湾乞食の母」として知られる施照子が逝去した。12月24日、陳水扁総統は彼女を偲ぶ命令を発布した。遺品を整理していた遺族は、施照子が箪笥の中にこっそり隠していた日本人男性の写真を偶然発見した。この男性は、京都の裕福な銀行家の息子で、彼女に熱烈に求愛したものの、叶わなかった元婚約者だった

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1997走尋台北人愛愛寮

 

最後までご覧くださりありがとうございました。ごきげんよう・・

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竹田車站
先週土曜日、竹田站、池上一郎博士文庫25周年慶だったので・・
現役の駅は隣に電化複線高架となっています。
歴史遺産として残してくれております。



枋寮車站
駅前にU-BIKEステーションが出来ていた。電力輔助タイプ有
屏東佳冬鄉は一大養殖魚拠点。ハタやスズキにエビも養殖しているらしい。太い塩ビのパイプが道路脇にたくさんあって海水と地下水の両方を使っているらしい。ハタやスズキの養殖場らしい。


乃木將軍登陸紀念公園.・乃木將軍登陸地點


1895年10月11日乃木希典率いる第二師團は台灣屏東枋寮に上陸し,東港、鳳山を占領した。清朝役人劉永福は臺南府城を放棄して廈門へ逃げた。10月20日多くの臺南民衆と上級紳士は和平を求め乃木希典一行を臺南府城小南門から入城させた。これにより府城五萬人は戰火に会わず流血なく占領を果たした。
大堆客家族火燒庄戰役1895年11月12日、屏東平原の平埔族は客家人に怨念を持っており日本軍を支持したが客家人は六堆義軍を結成して日本軍と対抗し現在の屏東市近郊、長治鄉長興村で最後の抵抗會戰が行われた。

1896年10月14日乃木希典は第3代台灣總督となる。-1898年2月)

太い塩ビのパイプから漏れた海水が道に溢れてグーグルマップで通れる道が通れないので迂回する。

佳冬神社
2012年09月24日屏東縣歷史建築指定。創建/起源年代・昭和11年(西元1936年)。


1936年4月9日7人代表、臺灣總督府提出申請。4月13日鎮座,主祀天照大神、大國魂命、少彥名命、大己貴命、北白川宮能久親王。
佳冬飛行基地、1930年5月23日完工啟用。佳冬神社は「航空神社」でもありました。神社から東へ2kmほどに現在は屏南工業區がありますが、戰前は佳冬陸軍飛行場がありました。飛行場勤務の軍士官兵たちの信仰対象でもありました。


國立佳冬高級農業職業學校の狛犬さん・・
佳冬神社の狛犬さんは保護の為、佳冬高農學校に置かれている。


佳冬戰備跑道をU-BIKEで走る
良い子の皆さんはマネしないように。
案内標識・道路標識・信号機、一切無し!
中央分離帯の大型コンクリートブロックは移動用に吊り下げ金具がついている。
E-2KもF-16も、いなかった。


佳冬戰備跑道を通って枋寮車站へ戻った。
近年臺灣南部でもU-BIKEが普及して便利になりました。
ごきげんよう・・・


 

 

地理と歴史は政治利用される・・

南京は歴史として真珠湾と同じ意味に利用される

ホノルルを爆撃しなかったのは“倫理”ではなく“合理”

それでもアメリカ人が「攻撃しなかった」と強調する理由

ここからが本題です。

戦後アメリカの自己物語=アメリカの一般的認識はこうです:

「日本は卑劣な奇襲をしたが、無差別都市爆撃まではしなかった」

これは実は、

アメリカ自身の都市無差別爆撃(東京大空襲・原爆)

それを正当化するための比較対象として機能します。

 つまり

「日本はやらなかった」=「我々は仕方なくやった」

 南京と真珠湾との対称性、ここで南京とつながります。

 

南京                       真珠湾

日本は「野蛮な陸戦国家」     日本は「卑劣な奇襲国家」

市民殺害の象徴            不意打ちの象徴

中国の被害者性            アメリカの被害者性

両者は

同じ物語構造の両輪です。

 

1937年12月6日南京衛戌司令唐生智は六日夕刻を期し南京四圍の城門を一齊に閉鎖

六日午後三時空中偵察によれば南京市内は大火災を起し黑煙天に冲して悽惨な光景を呈して居る

 

蒋介石は1937年12月7日正午頃宋美齢と共に飛行機にて南京を脱出。市内には諸所に火災を起し人影殆ど絶え南京の大市街は廃墟の如く凄惨な光景を呈して居る、因に七日朝まで市民の四分の一は残存しアメリカ人十三名は居残りその他の外人は何れも各自國汽船に待機している、市中には小數の軍隊、憲兵が警戒に當り下關方面にも掠奪が行はれ支那軍常套手段の敗退の際における混亂が起ってゐる模様である

 

昭和12年12月9日に日本軍から飛行機により南京防衛司令官に對し投降勸告文を投下し十日正午までに回答を要求。(未回答)

日本軍十日午前六時過ぎ南京城中華門(南門)に達し各部隊城壁に殺到。

 

蒋介石は12月11日前後に脱出・撤退命令を出し、その後12月12日午後〜夕方にかけて、その命令が唐生智ら南京守備司令部へ伝えられた

 

【十二日午後九時半大本營陸軍部發表】南方地區より南京城を攻撃中の我軍は昭和十二年十二月十二日正午南京城門中最も堅固なる中華門を攻略し引續き南側城壁全部を占領せり

 

唐生智は1937年12月12日21:00頃(午後9時)に北側の義江門から長江方面へ脱出(船等を利用)

退却命令は十分に末端部隊へ伝わらなかった(この際、公式に日本軍に降伏や開城の意思を通知せず逃走した)。秩序的撤退にはならず混乱が生じた。

唐生智

 

☆昭和12年12月13日東京朝日新聞

南京南側全城壁に日章旗翻る  潮の如く城内へ殺到  凄絶・暗夜の大市街戰

【十二日午後九時半大本營陸軍部發表】南方地區より南京城を攻撃中の我軍は昭和十二年十二月十二日正午南京城門中最も堅固なる中華門を攻略し引續き南側城壁全部を占領せり

【南京にて本社前線通信本部十二日發】皇軍は南京城に入った、皇國正義の征矢はどす黑い抗日一色の血に狂ふ支那の心臓をぐさりと突き通したのだ、時に十二月十二日午後零時半、世界歴史を不朽に飾る歴史的な瞬間であった、仰ぎ見る日章旗の感激的なはためき、極東平和を永遠に象徴する正義の炬火は今こそ皇軍將兵の逞ましい双手によって首都南京の空高々と掲げられたのである。萬感胸に迫り感慨無量の面持で○○部隊は「総て我が○○部隊將兵の忠勇豪健の賜である、今の私の氣持ち推量してくれ給へ」と言葉少く語った

平和甦る南京

南京城内親善風景

南京は微笑む

手を握り合って越年

 

アメリカ国内世論と「南京」1937年当時のアメリカは:

強固な孤立主義・欧州問題(対独)が優先・対日参戦の正当化が極めて困難

そこで必要だったのが、

「太平洋の彼方で起きたが、道徳的に無視できない事件」

南京はこれに非常によく適合しました。

宣教師・外国人証言がある

写真・記事が使いやすい

「文明 vs 野蛮」という物語に載せやすい

つまり

南京は「利用された」のであって、「創作された」わけではない

ごきげんよう・・・

『日本書紀』では日本武尊の妃・弟橘媛。

『古事記』では倭建命の后・弟橘比売命。

さねさし 相武(サガム)の小野に 燃ゆる火の 火中(ホナカ)に立ちて 問ひし君はも

景行天皇(第12代)の時代、西暦110年頃、熊襲征伐で強制性交を繰り返して世を乱した景行天皇・大足彦尊(おおたらしひこのみこと)は東国平定に際し、女が少ないからという理由で大碓命(おおうすのみこと)に振ろうとしていたのだが、美濃国造の娘が美人というウワサで見に行かせたら、大碓命がその娘と密通して復命せず、景行天皇から恨まれて、のち美濃国に封じられた。大碓命がダメならと日本武尊ヤマトタケルが煽てられて、その気になって東国平定に行くことになってしまった。尚ヤマトタケルは古事記では倭建命、日本書紀では日本武尊、なのでこのあたり720年頃から「日本」と言ってよいのであろう。

景行天皇は熊襲征伐で数限りなく「女狩り」を繰り返し、被害者へ交際関係を強要する手口は物品供与で誘い、暴力で脅し、従わない時は強姦する組織的・計画的で惨忍な犯行と言わざるを得ない。別名を関係者からは、「おんなたらしひこやりまくりのすめらみこと」と呼ばれていたのだが・・

日本武尊と関係した女性は、両道入皇女・吉備穴戸武媛・弟橘媛・宮簀媛の四人であり、遠征途中で交際が始まったのは宮簀媛一人である。

 各地でイジメに会いながら一行が、箱根を越えて房州(千葉県)に渡ろうと、走水の沖(現材の横須賀市浦賀水道)に差し掛かった時、海は荒れ狂い、船は木の葉のように翻弄された。

このとき暴風を起こしたヤツが支那斗弁命(しなとべのみこと)という海の女風神。支那という名前がいかにもイジワルであることがワカル。コイツは女であるが同様に海の男風神で志那都比古尊(しなつひこのみこと)と言ふヤツも居るがコチラは志那と表記する。

 弟橘媛が尊に申し上げたことは、『君公の佩(ハ)せ給へる御劔は、むかし素戔嗚尊大蛇の尾より切出したまふ宝劔なれば、悪神龍御船を覆し、宝劔を奪んとして起こる所の暴風ならん、吾宝劔と君とにかわり、海中に入りて悪龍を退治し、君公と宝劔を安泰ならしめ、又天下後世の人をして渡海風波の難を救ひ、永々海中の守護神となるべし』・・

海神の怒りを解くため、弟橘媛は「私は夫である皇子の身に替わって海の中に入ります。どうぞ皇子の東征を護らせ給え」と念じ、浪の上にボードを敷いて、その上に座って海に下りた。すると波が穏やかになり、船を進めることが可能になったが、ウェットスーツやラッシュガードを着ていなかったし、なによりサーフボードでなかった。リップカレントに流され着ていた着物の袖が岸に着いたところが袖ケ浦だった。

 暴風はすぐに止んだ。船は無事岸につけられた。時の人は、その海を名づけて、馳水といった。こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。日本武尊が木更津芸者と遊んでいた紀録は記紀にはない。弟橘媛が海に身を投じて難を救ったことから、日本武尊は御陵を作り、弟橘媛の櫛を納めて、橘の木を植えてここに祀った。『橘樹神社 (茂原市)』

石灯籠には天保十年(1839年)や嘉永二巳酉年(1849年)の文字が読める。

尚、ココは縄文遺跡の出土する宮ノ下遺跡でもある。裏の森が古墳。又海岸へ出て27km程南へ行くと志田下ポイント(2020年の東京オリンピック会場・釣ヶ崎海岸)になる。

弟橘比売命御陵

本殿

三社並ぶ境内社

向かって左から・・保食神(うけもちのかみ)・木花開耶媛命(このはなのさくやびめ)・天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)

日露戦争凱旋紀念

橘の紋

 

ところが話はこれで収まらづ・・風の神の支那斗弁命(しなとべのみこと)が厚かましくも無事に木更津まで着かせてやったのだから志那都比古尊も含めた社を作ってくれと言ってきた。日本武尊は民泊營業しないことを条件に建ててやったのだが、支那斗弁命はすぐに来たのに志那都比古尊は待っていても来なかった。そこで姉埼神社(あねさきじんじゃ)と言ふようになった。

島穴神社:主祭神は志那都比古尊(しなつひこのみこと)。

姉埼神社:主祭神は支那斗弁命(しなとべのみこと)。

 

「地名起源説話」

支那斗弁命が先に來たから・・・姉埼神社(あねさきじんじゃ)

弟橘媛の帯や袖が流れ着いたという伝説から・・・袖ケ浦市・習志野市袖ケ浦など

日本武尊は「吾妻はや」と嘆いた。・・・・日本の東部を「あずま」と呼ぶ

サーファーのご先祖様は房総で鎮座されておられます。ごきげんよう・・