こんけんどうのエッセイ -2ページ目

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 十一月二十日、今年最後の雨が降り出した。夜半には雪に変わる雨だ。このまま順調にいけば、来年の二月下旬まで雨を見ることはない。だが、今年も暖冬に違いない。雪の上に思いもかけぬ雨が降るのだろう。

 冬の到来を喜んでいるのは、元気な子供と犬くらいなものだ。いや、いや、むかしのように「庭駈(か)けまわる」犬はもういない。防寒着を身にまとった室内犬が、冴えない顔で散歩をしている。

 「北海道の冬」といっても、地域によって大きなバラツキがある。太平洋側がマイナス一〇度のときに、内陸部ではマイナス三〇度に達している、そんなことはザラだ。二〇一三年三月一日付の異動で、私は室蘭市から札幌市に転居した。そのとき、札幌の積雪が一三〇センチで度肝を抜かれた。室蘭はゼロだったのだ。特急で一時間半の距離である。だから、「北海道」と一括りにしてしまうのは、乱暴なことなのだ。

 本州の地図に北海道を重ねてみると、知床半島が福島県にあるとき、もう一方の西の端、函館のある渡島(おしま)半島は紀伊半島をすっぽりと覆っている。その時、道南のえりも岬は伊豆半島にあり、北の果て稚内は、能登半島の遥か沖合に位置する。北海道はデカい。

 テレビの気象情報で、

「……北海道では、現在降っている雨も、夜半には雪に変わるでしょう」

「……北海道では、大雨による土砂災害にご注意ください」

 などと平気で言うものだから、本州の友達がそれを真に受け、

「もう、雪なの? さすがは北海道だな」

「雨、ひどいようですね。気をつけください」

 といったLINE(ライン)が送られてくる。勘弁してくれよ、と思う。

 

 冬の初めは苦手である。

 毎年、十月下旬から十一月中旬にかけて、ナイフをちらつかせながら冬が近づいてくる。その気配を感じると、暗澹(あんたん)たる気分になる。長く閉ざされる冬の始まりだと思うからだ。東京感覚でいうと、札幌の十月中旬から四月中旬までが冬だ。つまり、一年の半分が冬ということになる。この時期は、まだ寒さに身体が順応しておらず、冬への覚悟が決まっていない。これが根雪になってしまえば諦めもつくのだが、それまでが大変なのだ。

 札幌が初雪をみるまでには、一つの定点通過のような流れがある。

 まず九月下旬、「大雪山系旭岳に初冠雪」というニュースが流れる。北海道に冬の到来を告げる第一報だ。富士山の初冠雪とほぼ同時期である。

「えっ? 北海道、雪だってよ」

 東京にいたころ、そんな驚きの声を何度も耳にした。紅葉の上に雪が積もっている映像を眺めながら、私自身も驚いていた。長く北海道を離れていると、北国の季節感覚がわからなくなる。

 その旭岳の二週間後、札幌近郊の中山峠に雪が降る。それから十日前後して、朝、カーテンを開けると、ひんやりとした空気が流れてきて、見上げると手稲山の山頂付近が白くなっている。我が家から手稲山は望めないが、イメージとしてはそんなところだ。その一週間ほど前には、旭川市内に初雪がある。手稲山から数日後に、私のマンション前のドウダンツツジが真っ赤に燃え上がる。そこに雪が降りかかるのだ。その赤と白のコントラストに一瞥(いちべつ)をくれながら、ジャンパーのファスナーを首元まで締め、会社へと急ぐ。

 旭岳初冠雪に始まった雪は、中山峠、旭川市内、手稲山を経て札幌市内の初雪となる。ほぼ一か月のストーリーだ。現在の札幌の初雪の平年値は十一月一日である。根雪となるのは、十二月中旬、十四日の赤穂浪士討入りあたりである。イブの夜はホワイト・クリスマスという設定は、しっかりと守られる。

 そんな雪に風情を感じるのは、せいぜい正月三が日あたりまでである。それ以降はうんざりしながら雪を眺めている。最高気温が氷点下という真冬日がこれでもかと続き、毎日毎日雪が降る。降り込められるという表現がピンとくる。

 三月の雨は長く閉ざされた氷雪を解かす。それゆえか、どことなく温かみを覚える。だが、十一月の雨は、耐えがたいほどに冷たい。雪を誘う雨は、ときおり霙(みぞれ)となって冬への覚悟を迫ってくる。すっかりと葉を落とした冬枯れの街路樹が、呆然(ぼうぜん)と立ち尽くしている。

 年々、冬の初めが億劫になってきている。年を重ねるということは、そういうことなのである。

 

   2023年11月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 将来、私はがんで死ぬだろうと思っている。明確な根拠はない。ただ、ぼんやりとそう思っているのだ。

 がんの家系かというと、父方に若干、その傾向がみられる。だが、そうだとまでは言い切れない。母方は、どちらかというと血管系、つまり血管が詰まったり破れたりする方の色合いが強い。

 最近、周囲で、がんになったという話をよく耳にする。

「ねえねえ、〇〇さん、すい臓がんだってよ。気の毒に……」

「〇〇ちゃん、乳がんだってさ。会社の健診で引っかかって、それでわかったみたい」

 おおむね、このようなものである。六十歳を過ぎてから、その頻度が明らかに増えた。聞くたびに、ゾッとする。次は自分か、と。神様が上空から一本釣りを楽しんでいる、そんな構図が脳裏をよぎる。

 高血圧に肥満、高脂血症や糖尿病が重なってくることを「死の四重奏」という。五十代半ばを過ぎたあたりから、私にも肥満傾向が現れ始めた。太りだすと肝機能や中性脂肪、コレステロールなどの脂質代謝の数値が上がってくる。六十代になってからは血圧の薬も飲み始めた。糖代謝もギリギリのラインをうろついている。だが私は、健康に気をつけていないわけではない。二十七歳から現在までの健康診断の数値を、エクセルで管理している。三十六年にわたる壮観なデータだ。さらに、長い間、ジョギングをして体調を整えてきた。

 私がジョギングを始めたのは、十九歳からである。京都の大学に進学した五月、あまりにも体調が悪くて近所の病院にかかったことがあった。私の遠隔地保険証に記された「北海道」の文字を目にした老齢の医師が、

「夏バテやな。これからやでぇ、夏は。今からバテてたら、あかんがな」

 一刀両断である。以来、走っている。結婚して子供が生まれてからはしばらく中断していたが、その後再開している。東京の夏を乗り切るためだった。だが、五十一歳で北海道に再び戻ってからは、冬場のジョギングをやめた。雪と氷点下十度を下回る寒さの中では、とてもじゃないが走る気になれない。

 ここ数年、いくらジョギングやウォーキングをしても、体重がビクとも落ちない。下腹に脂肪が蓄えられ、体重もジリジリと増加している。そんなわけで、走る意欲がすっかり失せてしまい、今は何もしていない。痩せない原因は、加齢による代謝の低下なのだ。

 

 どれほど健康に気をつけて頑張っても、私たちは必ず死ぬ。それは〝決まり〟なのだ。一人の例外もない。悲しもうが落胆しようが、泣き叫んでも、これだけはどうにもならない。覚悟を決めるしかないのだ。とはいえ、家族との死別は、辛く悲しく、耐えがたい。自分の死もまた、底なしの闇に一人いるような怖さがある。

 トンボは、幼虫のときはヤゴとして水中生活をしている。ある時期になると、水草の茎をよじ登って上の世界にいってしまい、二度と戻らなくなる。そんな仲間の姿を見ながら、自分も上にいきたいと思い茎をよじ登るが、水面でガーンと頭が弾かれ、押し戻されてしまう。ある一定の年齢に達しないと、その上にはいけないのだ。水中から出たヤゴは、やがてトンボとなり大空を飛び回る。ヤゴの大好物のボウフラだって、時期が来たら上へいって蚊になって飛び回るのだ。私たちも本当はヤゴやボウフラと同じなのではないか。思わず天を仰ぎ見る。

 年齢を重ねるということは、人生の持ち時間が刻々と減っていくことを意味する。だから誕生日は、死をカウントする目盛りにほかならない。おめでとうなどといわれ、喜んでいる場合ではないのだ。

 現在、私は六十三歳である。ここまで生きられるとは思ってもいなかった。致命的な病気を持っているわけではないが、短命で終わるだろうと勝手に決め込んでいた。現に私の父は、五十一歳で他界している。六十歳まで生きられたのだからもういいだろうと言われれば、そういうことにはならない。七十歳まで生きたいとか、八十歳まで何とかやっていきたいと、次第に欲が出てくるものだ。何より私には相棒のえみ子がいる。これから結婚して二人で楽しく暮らしていかなければならない。死んでなどいられないのだ。

 三十センチの物差しを手にしてみる。その一センチの目盛りを一年とすると、これまでの六十三年と合わせ、九十三歳までの長さになる。五センチごとの数字は、人生の節目の印だ。私の場合、三十センチの物差しですら、もう全(まっと)うするのが困難な長さになっている。すでにそういう年齢に達しているのだ。どおりで周りがポロリポロリと上へいくわけだ。冷酷な現実が突き付けられる。

 〝未病〟という言葉がある。病気とは言えないまでも、なんとなく身体がだるい、疲れやすい。頭痛や肩こり、めまいがする。このような症状を指す東洋医学用語である。未病とは、健康と病気の間にあるゆらぎの状態だという。高脂血症、糖尿病、高血圧なども未病だというから、私もその分類に入ることになる。

 眠くて読書もままならないのは、良質な睡眠がとれていないからで、加齢による現象だと思っている。当然、身体もだるくて重い。死ぬためにはある程度の予兆が必要で、未病はそんな領域なのだろう。友達にそんな話をすると、

「ミビョウ? ビミョーだなぁ」

 すかさずダジャレの餌食(えじき)になった。長生きの秘訣は、能天気に生きることである。ストレスのない生活ができれば、間違いなく長生きする。彼は、そちらの領域にいる。私とは対称をなす。私はちょっとした言葉にも傷つき、小さなことにいつまでもクヨクヨしている。ストレスを一身に背負ってしまうタイプである。人生を謳歌するとか、楽しんで生きるということが、どうしてもできない。グラスのウイスキーを眺めて、「まだ、半分ある」とは思えないのだ。どうしても「もう、半分しかない」と思ってしまう。損な性質(たち)である。だから短命で終わると勝手に思っているのだ。

 必死に生きる、という言葉がある。字面だけ眺めるとヘンテコな言葉だ。「必ず死ぬ」+「生きる」=「必死に生きる」なのだから。単に「生きる」ではなく、「必死」を冠して、「人は必ず死ぬ。でも、死ぬ直前まで懸命に生きる」、そういうことなのだろう。

 親しくしている親類が、六十歳の定年退職を機に、札幌郊外に自分たちの墓を建てた。

「子供たちに迷惑、かけられないからさ」

 という。奥さんも傍らでニコニコしている。そばにいた子供たちに、

「お前たちの父さん、死ぬ気満々だな」

 というと、皆、一様に変な顔をしていた。しかもこの夫婦、一人二二〇〇〇円もする帯状疱疹のワクチンを打ってきたばかりだという。半年後にもう一度、打たなければならないらしい。計八八〇〇〇円だ。これで十年以上は安心だという。

「そう考えると安いもんだべよ。お前たちもヤレ!」

 できるものならやっておきたい。だが、八八〇〇〇円は、躊躇する金額である。それだけあれば、贅沢な小旅行ができる。死ぬまで健康でいたいという気持ちはわかるのだが……。

 えみ子にその話をすると、

「私は、いらなーい」

 と、ニベもない。必要性をまったく感じていなかった。だが、私には必要だよなと思う。

 必死に生きるのも、たいへんだ。

 

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 北海道の南部、太平洋に面した様似町(さまにちょう)が私のふるさとである。その西方の海岸沿いに、かまぼこ型の小高い山がある。アイヌの人々からソピラヌプリ(崖滝の山)と呼ばれていたこの山は、和人の進出とともに円山と称されるようになり、明治中期以降は観音山として親しまれている。

 様似漁港を見下ろすこの観音山は、標高一〇〇メートルほどで、パンチパーマをかけたように山全体が柏の木で覆われている。強い海風の影響で、そのすべての木が海とは逆方向に枝を伸ばしているのだ。真っすぐ生えている木は一本もない。

 観音山の頂上には、パンチパーマの頭頂部が円形に禿げたような空間がある。その広場を取り囲む雑木林の中に石仏が点々と祀(まつ)られている。観音山と称される所以(ゆえん)である。

 私が幼いころは、この広場で幼稚園の運動会が行われていた。桜の季節には、人々が待ちかねたようにドッと繰り出す。桜まつりのピンクのボンボリ(花見提灯)が坂道に沿って飾られ、あちらこちらにところ狭しと茣蓙(ござ)が敷かれた。大人も子供もみんなが楽しそうにご馳走を食べている。誰もが桜の花を待っていた。今では想像も及ばない賑わいだった。

 かつてはこの観音山の下が、様似の中心であり、本様似(ほんさまに)(現・本町)と呼ばれていた。観音山を背に右が西様似(西町)、その反対側が東様似(大通)で、現在の中心街となっている。

 また、この観音山はカタクリの群生地でもある。春先にはエゾエンゴサクなどの山野草が一斉に咲き乱れる。だが、今では訪れる人も少なく、人知れず咲き、散っていく花々である。

 もう五十年以上も前のことになる。私が小学生のころは、この山でよく遊んだものだ。西町の公営住宅にいた私は、西側の斜面から山に登っていた。

「おい、桑の実、採りにいぐべ」

 子供たち三、四人が連れ立って、獣道のようなジグザグの急峻な山道を登っていく。登りきったところに石が幾重にも組まれたチャシ跡があった。チャシとは、アイヌ語で「柵囲い」という意味で、砦(とりで)や祭祀(さいし)場、見張り場といった多目的な用途で使われていた場所だという。私が幼いころは、アイヌの古戦場跡と教えられていた。当時は、そんな急勾配の山道を苦もなく小走りに登っていた。

 頂上には大きな桑の木が何本かあった。桑の木が見えてくると、皆、我先にと飛びついた。真っ黒に熟れた桑の実を、次々と口に入れていく。

「うめぇー」

「あんめぇ(甘い)!」

 口の中いっぱいに甘さが広がる。桑の実は金平糖を一回り小さくしたような形状で、赤い実が熟れると真っ黒になる。実はとても柔らかく、触るとすぐに潰れ、赤紫色の汁が出る。手も唇も派手に紫色にしながら、一心不乱に食べていた。

 

 冬が近づいてくると、足もとにはふかふかの枯れ葉が積もる。その落ち葉を蹴散らし、漕ぐように走り回る。子供の膝が隠れるほどだったので、二、三十センチは積もっていただろうか。その落ち葉に頭から飛び込んでいく。全身がスッポリと落ち葉に埋もれる。ガサガサと盛大に音をたてながら、落ち葉の海を泳ぐ。これほどまでに葉の積もっているところは、ほかにはなかった。おそらく強い風の影響で、この一帯に枯れ葉の吹き溜まりができていたのだろう。

 落ち葉の中は静かである。まわりの音が消えてなくなる。だが、少しでも身体を動かすと、ガザガサという音が耳元に伝わってくる。枯れ葉の乾いた匂いが鼻腔(びくう)を衝く。それがなんとも言えない、いい匂いだった。落ち葉の中はふんわりとして温かく、体が浮遊しているような感覚に陥る。いつまでもこの中に埋もれていたい、そんな心地よさがあった。

 私は東京で就職し、そこで二十八年間を過ごしてきた。再び北海道に戻ったのは、十二年前である。大都会での生活を離れることは、後ろ髪の引かれる、名残り惜しいものだった。都会は嫌いではなかった。むしろ都会の雑踏に好んで身を浸していた。

 電車と地下鉄を乗り継ぐ通勤は、酷なものだった。電車が途中の駅に着いても、車内の超満員の人の圧力でドアが開かない。そのドアを外から開けて人が乗り込んできた。乗客の背中を押す駅員がホームを走り回る。両足が浮いたまま、次の駅まで運ばれていた。

 そんな朝のラッシュだったが、慣れてしまうとそれも‶普通〟になっていった。若いころは、毎日が残業だった。午前七時に家を出て、寝るためだけに自宅に戻る。そんな生活が当たり前のように続いていた。

 そういった中で、ふとした拍子にふるさとを思い出す。満員電車に押し潰されながら、落ち葉の匂いに抱かれて眠る自分を空想していた。胸いっぱいに広がるあの懐かしい枯れ葉の匂い……。そんな記憶が、都会で暮らす力になっていたのかもしれない。

 

 観音山の落ち葉の季節は、そう長くはなかった。雪が落ち葉を押し潰し、腐葉土となってふたたび土に還っていく。春には新たな芽吹きが始まって、緑に覆われてしまうのだ。落ち葉で遊べるのは、晩秋から初冬にかけての、ほんのひと時のことだった。

 札幌―様似間の距離は、片道一九〇キロである。たやすい距離ではない。また、あの落ち葉の中にスッポリと潜(もぐ)り込んでみたい。そんなことが、今の私にできるだろうか。いざとなったら、虫が気になって尻込みするかもしれない。子供のころは、背中に虫が入ろうが、クモが首筋で蠢(うごめ)こうが、お構いなしだった。

 あの落ち葉を、また蹴散らしてみたい。枯れ葉の匂いに抱かれたい。そして、あのころの自分に、また戻ってみたい。そんな思いが密かに擡(もた)げている。

 

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 大学の四年間とは、貴重なムダな期間である。

 真摯(しんし)に学究を極めようとする者にとって、四年という期間はあまりにも短い。だから大学院へと進み、修士課程、博士課程と五年を上乗せする。それでも時間が足りない。ついには大学に残って研究者としての道を歩む。生涯を通しての探求となる。

 私の友達にもそんな研究の道を歩んでいる者がいる。高校時代、寮生活を共にした友人が、院生時代にショウジョウバエの遺伝の研究をしていた。そのまま研究室に残り、しばらくするとアメリカの大学へ行ってしまった。以降、音信が途絶えた。

 何年か前に、そういえばあいつ、どうしているだろうと思いネットで検索してみた。すると、顔中毛むくじゃらの男が出てきた。当時の面影はどこにもなかったが、それは紛れもなく彼だった。こいつは偉いヤツだと、つくづく感心した。研究に没頭するあまり、ハエのような顔になってしまったのだ。

 当時、同じ寮だった仲間に彼の写真を見せると、

「……確かに、ハエ男だな」

 と言って、続く言葉がない。「極めると、こうなるんだ……」。友人も同じ思いを口にした。経歴を見ると、彼は十年以上も前に教授になっていた。

 だが、圧倒的大多数の者にとって、大学の四年間は、社会人への助走期間、という認識に過ぎない。いわゆるモラトリアム(社会的猶予)期間である。私もそんな学生の一人だった。

 十八、十九歳から二十二、二十三歳というのは、人生の密度の濃い期間である。この四年間をどう過ごすかによって、その後の人生の方向性が決まってくる。ただ、この年だからこそ、そんなふうに冷静に俯瞰(ふかん)できるのであって、当時は、ポカンとしたただのアホだった。

 私は幸いにも学生時代を京都で過ごすことができた。歩き疲れたお寺の濡れ縁が、私の休憩場所だった。ぼんやりと庭を眺めながら、将来に対する不安を見つめていた。二年後、三年後、自分は、どこで何をしているのだろう……。地元、北海道に戻っているのか。関西で就職しているのだろうか。それとも東京か……。

 自分は、何がしたい? どんな仕事に就きたい? 夢って……、何? そんな思いが深い霧のように私を包んでいた。閉門時間が過ぎた清水の舞台に腰かけながら、暮れゆく京都の空を眺めていた。なにか答えがみつからないか、そんな思いがあった。だが、三回生になっても四回生になっても、何も見えてこなかった。

 私の過ごした学生生活は、ノンベンダラリとしたものではなかった。むしろ、その逆だった。私は苦手な英語を克服するために、ESS(英語研究部)に入部し、ディベート(討論)セクションに所属していた。とにかく忙しい部活だった。

 一、二回生を通して、教室にいるよりはるかに長い時間を図書館で過ごした。軍事問題、原発問題、農業問題、環境問題、選挙制度、付加価値税の導入問題(当時は消費税が未導入であった)……ディベートのテーマが決まると、資料収集に忙殺された。まずは、新聞・雑誌などの記事を十年間にわたって拾っていく。

「ええか、自分は読売、自分は朝日、自分は日経……」

 そんなふうに各自に割り振られ、同時に、岩波新書などの入門書籍により、総合的な知識を補っていく。軍事問題の時は、防衛白書の端が捲(めく)れ上がるほど読み込んだ。農作物の自給率に関しては、京都市の農業団体に何度か足を運んだ。「また、自分らかいな」と煙たがられた。

 ディベートの大会が近づくと、夜八時に図書館が閉まったあと、五、六人ずつに分散してアパートに集まった。集めた資料を英訳したり、模造紙に図やグラフを記したり、ロジック(議論の筋道)の組み立てを延々と話し合っていた。女の子も一緒だった。空が白々とし始めた道をトボトボと歩きながら、

「朝の五時まで(部活)やってるとこ、ほかにあるか?」

「こんなんしてるの……、うちらだけやでぇ」

 そんなことを口にしながら、大会に向けた準備をしていた。授業へ出るなどという余裕はまったくなかった。試験が近づき初めて教室に出向き、真面目そうな女の子を見つけて、

「ここは○○先生の民事訴訟法の教室ですよねぇ」

 とマヌケな質問をしていた。

「○○先生は、夏に亡くならはってますよ」

 女の子の驚き呆(あき)れた顔がマンガのようだった。

 三回生になって連盟の役員を引き受けたことから、その多忙さに拍車がかかった。おかげで留年スレスレ、憂えき目をみた。本当に、間一髪だった。四十代の初めころまで、ときおり留年の悪夢に悩まされた。すっかりトラウマになっていたのだ。だが、いつしかそんな夢に魘(うな)されることもなくなった。

 四回生になり部活から解放されると、周りはいつの間にかそれぞれの道を見定めていた。私一人が取り残されている……。どうしよう……。そんな思いが私を一層の不安に陥(おとしい)れた。私も周囲に釣られるように大阪や札幌の会社の人事部を訪ね、面談を重ねていた。当時の就職活動は、四回生から行われていた。それでも何も見えてこなかった。内心は、就職などしたくはないと思っていたのだ。

 大学院生の先輩を見ていたこともあって、大学に残る道にもあこがれた。だが、決定的に勉強が不足していた。私の第二外国語はフランス語だったが、アホ丸出しの成績だった。二年で終わるべきところ、単位を落して三年もやっていた。

「なあ、自分、留学したい言うてたことあったやんか。オレと一緒に、アメリカいかへんか」

 仏教の開教師になってアメリカへいこうというのだ。真顔で誘われた。私たちの大学は、浄土真宗系の学校だった。彼の祖父が僧侶だという。渡米四十年、彼は現在、ニューヨーク仏教連盟の会長職にある。熱心な平和活動を行っており、ホワイトハウスに招かれたり、国連でのスピーチ姿をSNSで見ることができる。

「小樽からナホトカ行の船が出てんねん。そこからシベリア鉄道に乗って、ヨーロッパへいける」

「……カネがなくなったら、アルバイトすりゃええねん。何とかなるって。いっぺんいったら、やめられへん。どうや、一緒にいかへんか?」

 こんな誘いを受けたこともあった。大阪の語学学校でアルバイトをしていたあの青年は、今、どこで何をしているのだろう。

 大学は、夏休み、冬休み、春休みと、年間の三分の一は休みである。自分に費やす時間は潤沢にあった。中毒かと思うほど麻雀にのめり込んでいた者。アルバイトに明け暮れていた者もいた。学費と生活費を捻出していたのだ。モラトリアム期間を最大限に引き延ばした、八回生という先輩もいた。彼もまた、学習塾のアルバイトで生活していた。部活に打ち込んでいる者、何をしているのかよくわからない者、大学には様々な学生が犇(ひし)めいていた。大学とは、なにもかもが自由な場所である。その分、親の心労は、大変なものだったろうと思う。

 結局、私は小さな会社の平凡な会社員として、サラリーマン生活を送っている。東京に二十八年いて、北海道に戻って十三年間目になる。一つの会社に四十年在籍したことになる。途中、人生の荒波に吞み込まれ、一家が乗っていた船が転覆し、グループ会社に出向していたこともあった。六十歳で定年退職を迎えてからは、嘱託員として別のグループ会社に転籍している。

 オレの夢って何だったっけ……。そんな疑問が、ふいに吹く風のように胸に去来する。学生のころと、さほど変わっていない自分がいる。私にとっての唯一の救いは、人生の荒波に揉まれながら、書くことを手にしたことだった。すがるものがそれしかなかった。

「生きていく傍らに書くことを置いてみる」

 私がつかんだものは、これだったのかもしれない。

 

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 眠れない夜がある。ベッドから起き出して原稿に向かう。パソコンの電源はすでに落してある。机の電気スタンドの小さな明かりを頼りに、常備している原稿に走り書きをする。ふわっと浮かんできた言葉を書き留めるのだ。

 パソコンを立ち上げて正式に書き出すと、いよいよもって眠れなくなる。若さが失せた今、夜更かしは次の日の仕事に響く。無謀は、もうできない。浮かんできた言葉は、どこかに書き留めておかないと、翌朝にはきれいさっぱり消え去っている。思い出そうにも、まったく何も出てこない。私のメモリー機能は、すでに壊れ始めている。イヤなことは、いつまでも引きずるくせに。

 私のパソコンは、そんな言葉の欠片(かけら)で溢れ返っている。もったいないという思いから、ついつい溜め込んでしまう‶端切れ〟のようなものだ。実家の押し入れのダンボール箱には、そんな端切れが詰まっていた。走り書きは、あとでパソコンに打ち直す。

 エッセイの題材に詰まった時は、そんな端切れを引っ張り出し、眺めている。

「ことの重大さ×曖昧さ=不安」

「悲しみも不条理も、すべての出来事を受け入れ、それでも前へと歩む」

「本当の格好良さや美しさって、全力で生きる、その生きざまに現れる」

 こんな切れ端が、新たな創作の糸口になる。どうしても書かずにはいられない、そんなもう一人の自分が、自分の中にいる。

「幸福は、一緒に喜んでくれる人がいると、いっそうの輝きを増す。だが、そんな幸せも、長くは続かない。幸福の背後には、同じ大きさの反動が潜んでいる」

 身をもって体験してきた負の反動は、激しすぎる荒波だった。「禍福は糾(あざな)える縄の如し」、そんな言葉にだまって頷(うなず)く。

 元妻が精神疾患を発症したとき、彼女は二十九歳で、私は三十八歳、娘は小学二年生だった。彼女の病名は境界性人格障害、重篤なうつ病(双極性障害Ⅱ型)を伴っていた。様々な妄想が出てきた中で、とりわけ厄介だったのは「嫉妬妄想」であった。私に女がいると確信した彼女は、包丁を持ち出し、

「わかっているんだよ。ほら、白状しろ!」

 と迫ってくる。連夜にわたる暴力の時期もあった。それらの症状を一つずつ薬で抑え込んでいく。それは、まさにモグラ叩きのようなものだった。そんなことを何年も続けていると、薬が効かなくなる。そこでワンクール七、八回の電気痙攣(けいれん)療法を行う。頭に電極を当て、通電するのだ。全身麻酔で一か月以上の入院治療になる。そんなことを二度行っていた。

 十二年半にわたる闘病生活の中で、十二回の自殺未遂があった。そのたびに救急車を呼び、運んでもらう。最後には、病院で知り合った病気仲間の男性のもとへ走ってしまった。あっけない幕切れだった。彼女が出ていくのを察知していた私は、脇を緩めて逃げ道を開けた。もはや娘も諦めていた。

「ねえ、結婚したい人がいるんだけど、どうしたらいい?」

 彼女から何度か相談を持ちかけられていた。

「ボクは、お父さんじゃないんだから。相談する相手が違うよ」

「同じ病同士でどうするの……」

 私は五十歳、娘は二十歳になっていた。

 そんな生活の中で、私は書くことを始めた。四十歳になっていた。書かなければ、こちらの方が先にダメになってしまう。強い危機感を覚えた。それまで書いてきたものといえば、仕事上でのいわゆるビジネス文章だけだった。これが私のエッセイを書くきっかけである。若いころから文学が好きで、興味があったというものではなかった。自分を守る唯一の手段が、書くことだった。

 私の場合、一作品を書きあげるのに、信じ難いほどの時間を要している。私が書いているのは、原稿用紙で五枚から七、八枚の作品である。何十枚という長編を書いているわけではない。私の根本には、いまだに〝書くことが苦手〟があるのだ。時間をかけることで、それを克服している。

 書いては削り、削ってはつけ足して。そんなことを何度も繰り返しているうちに、何が何だかわからなくなる。そうなったときは、いったん、書くことを打ち切り、放り投げる。すっかりほとぼりが覚めるまで知らないふりをし、別の作品を手掛ける。そんな中途半端な作品が、次第に溜まってくる。

 灰汁(あく)抜きの終わった作品を引っ張り出してきて、ふたたび捏(こ)ね回す。そしてまた放り投げる。真水に晒(さら)し、天日干しにし、何か月もかけてやっと形ができてくる。時間をかけると、それなりに熟成が進む。純度を増した作品は、味わいにコクが加わり、作品が自ら光を発するようになる。だが、そこまで到達できた作品がどれほどあったか。閉じられた自己満足の世界に浸(ひた)ってはいないか、常にそんな問いを投げかける。案外とすんなりできた作品は、後に読み返して〝青臭さ〟を覚える。要は、推敲(すいこう)不足なのだ。

 病気の妻がいなくなって、書く必要はなくなった。だが、それまで十年間書き続けてきたことは、単に身を守るという手段を突き抜けていた。いくつかの小さな文学賞をもらい、同人誌に所属し、プロの作家から文章指導も受けていた。書くことが常に身近にあり、それが生活の一部になっていた。自分の人生になっていたのだ。

 書けない人間が何かに突き動かされるように書こうとする。どうしても〝自分〟を描きたい。みっともない人生をさらけ出して生きていきたい。自分の中にそんな思いがあることを見つけていた。だから、二十年以上もジタバタしながら書いている。

 生きていく傍らに書くことを置いてみる、それが私の生活になっている。書くことを人生の伴走者として、もう一人の自分と向き合っていこうと思っている。

 なんだか格好のいい言葉を並べているが、やっていることはたいしたことではない。ただ、黙々と机の上に置かれたパソコンに向かっているだけなのだ。

 

  2023年9月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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■『肥後藩参百石 米良家』- 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜 -

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 高校に入るまで、私はまったく読書をしてこなかった。夏冬の休みの読書感想文に、どれほど泣かされてきたことか。そのツケは、現代国語の点数に如実に現れた。

 どんなに頑張っても六十点台しか取れないのだ。いくら漢字を覚えても、微々たる点数にしかならない。高校生になってから小説に目覚め、読書を始めた。日記もつけ出した。だが、読解力と作文力は、一朝一夕には身につかない。メインエンジンである現代国語を補うためには、古文・漢文という両補助エンジンの出力を上げるしかなかった。

 だが、古文も漢文も「とてもじゃないが、やってられねーなー」と思うほど、取っつきにくいものだった。だが、やるしかなかった。虎の巻を買ってきて、とにかく読み込んだ。漢文などは、レ点や返り点なしで読めるほど読んで読んで、書きに書きまくった。意味も丸暗記である。力づくで頭に擦(す)り込んだ。

 その甲斐あってか、予備校生の春に受けた北海道模擬試験で、七十三だったか七十八か忘れたが、そんな偏差値を出したことがある。東大も射程圏内の数値だ。だが、それも一度切り。飛んできた球を大振りしたらたまたまホームランになった、それだけのことだった。

 ただただひたすら、修行のように擦り込むことに専念した。それしか方法がわからなかったのだ。

 受験で京都に滞在したときのこと。東山にかかる月を目にし、得もいえぬ強い感銘を覚えた。古文の中で幾度も目にしてきた、「あの同じ月だ」と思ったのだ。それが大学を京都に選ぶ理由になった。

 京都でのアパートは伏見区の深草で、師団街道を隔てた斜め向かいに大学があった。深草というだけで、もう嬉しくてたまらなかった。

  夕されば野辺の秋風身にしみて鶉(うずら)鳴くなり深草の里

 藤原俊成の代表作である。定家の父親だ。この歌は『千載(せんざい)和歌集』にあり、『伊勢物語』を本歌取りしたもの。元歌の一部を拝借して新たな歌を作ることを本歌取りといい、いわばオマージュ。この歌を口ずさむだけで、魂の震えを覚える。

  ひとつとりふたつとりては焼いて食ふ鶉なくなる深草の里

 こちらは、江戸時代の狂歌師太田南畝(なんぽ)である。俊成のパロディー版だ。太田南畝と四方赤良(よものあから)、そして蜀山人(しょくさんじん)が同一人物だと知ったのは、何年か前のこと。私の知識は、そんなレベルである。

 大学時代の仲間が集まるというので、東京から京都へ出かけたことがあった。私は東京の会社に就職していた。京都駅に降り立ち、向かったのが仁和寺(にんなじ)だった。約束の時間まで半日も空けていた。それまで仁和寺とは縁が薄く、この機会に、ぜひ訪ねてみようと思ったのだ。

「仁和寺にある法師、年よるまで石清水(いわしみず)を拝まざりければ、心うくお覚えて、あるとき思ひ立ちて、ただ一人、徒歩(かち)よりまうでけり……」

 「仁和寺にある法師」の冒頭である。この作品も読み込んだものだった。吉田兼好の『徒然草』の一節なので、鎌倉時代後半の作である。仁和寺自体は、平安初期の創建だから、一一〇〇年あまりの歴史がある。

 仁和寺をぐるりと巡った後、聳(そび)えるほど大きな二王門(におうもん)の石段に腰かけ、長い時間そこで身体を休めた。背後に平安時代からの息吹があり、目の前には現代の往来があった。そんな静と動の狭間に自分がいた。心地よいひと時だった。結局、半日をこの寺で過ごしていた。贅沢な旅である。

 私は通信教育で校正の勉強をしていた時期があった。三十代半ばのことである。一度だけ参加したスクーリングで、「読書の幅を横に広げるのもいいが、縦に広げることも大切です」そんな主旨の話を聞いた。岩波書店の相談役だという品のある老講師だった。以降、私は意識して明治の文学にも触手を伸ばすようになった。

 泉鏡花(きょうか)、森鴎外(おうがい)、島崎藤村(とうそん)、田山花袋(かたい)、幸田露伴(ろはん)、谷崎潤一郎、国木田独歩(どっぽ)、永井荷風(かふう)……。そんな中に高山樗牛(ちょぎゅう)の『滝口入道』があった。

「やがて来む寿永(じゅえい)の秋の哀れ、治承(ぢしょう)の春の楽しみに知る由もなく、六歳(むとせ)の後に昔の夢を辿(たど)りて、直衣(なおし)の袖を絞りし人々には、今宵の歓会も中々に忘られぬ思寝(おもひね)の涙なるべし……」

 平家滅亡の哀史(あいし)で、滝口入道(斎藤時頼)と横笛の悲恋の物語である。

 大学四回生の十一月、嵐山を歩いていて、滝口寺と書かれた小さな案内板を目にした。それは案内板というより、古びた板の切れ端に墨書されたものだった。今、改めてネットで検索してみると、立派なお寺であることがわかる。私の記憶が別の場所とすり替わってしまったのかもしれない。四十年前に私が訪ねたときは、廃寺の雰囲気が漂っていた。訪ねたのが誰もいない夕暮れ時だったせいもある。

 濡れ縁から中を覗くと、正面奥に古色然とした小さな木像が二体見えた。そのとき「あがっておくれやす」という嗄(しわが)れた声が中から聞こえた。不意の出来事だったので、飛び上がるほど驚いた。暗がりに目を凝らすと、部屋の端に端座する老女がいた。

 言われるままに木像の前に座らされた。歳月を経て黒ずんだ木像は、仏像ではなかった。老女は、滝口入道と横笛の像であることを説明し、何やら吟じ始めた。それは平家物語の一節だった。「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色……」朗々とした声が薄暗い本堂に低く響いた。まるで幽玄の世界に紛れ込んでしまったような、そんな感覚に陥(おちい)っていた。京都の寺では、様々な場面に出くわしてきたが、このときのことは、鮮烈な記憶として残っている。

 この寺が、しっかりとした輪郭で立ち現れたのは、高山樗牛の『滝口入道』によってである。衝き抜けるような悲恋の物語に、味わったことのない深い感銘を覚えた。滝口寺を訪ねてから十五年ほどの時を経て、突然、両者が結びついたのだった。あのとき老女が吟じていたのは、「平家物語」と、この『滝口入道』の一節だったのだろうと思う。樗牛は子規や漱石と同時代人である。

 

 現代国語の出来が悪かったばかりに、なりふり構わず古典を擦り込んだ。そんな古文や漢文の一節が、折に触れて泡沫(うたかた)のように浮かんでは消えていく。他人には理解され得ない、自分だけが満たされる世界である。

「故人西のかた黄鶴楼(こうかくろう)を辞し、煙花(えんか)三月揚州(ようしゅう)に下(くだ)る。孤帆(こはん)の遠影(えんえい)碧空(へきくう)に尽き……」

「渭城(いじょう)の朝雨(ちょうう)軽塵(けいじん)を浥(うるほ)す、客舎(かくしゃ)青青(せいせい)として柳色(りゅうしょく)新たなり。君に勧む……」

「水を渡り、復(ま)た水を渡り、花を看、還(また)花を看る……」

 大袈裟な言い方になるが、これらの古典が、今の私の人生に彩(いろどり)を添えてくれている。移ろう季節の中で、不意にふわっと立ち現れるフレーズだ。当時は気づくことのなかった味わいを、一人静かに噛(か)みしめる。

「ああ、オレも年を取ったんだな」と、遠いところで考えながら。

 

  2023年8月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 授賞式の開始間際になって、竹山先生が現れた。いつものように黒づくめの服装だったが、靴だけがオレンジ色の蛍光色のスニーカーであった。靴がこちらに向かって歩いてくるような、そんな印象を受けた。年齢にしてはずいぶんと大きな足だなと思った。目もどことなく虚(うつ)ろで、まだ半分自分の世界の中にいるような、そんな雰囲気を醸し出していた。二〇一八年五月、随筆春秋賞の授賞式が行われた東京四谷の主婦会館でのことである。

 そもそも随筆春秋は、堀川とんこう先生のお母様、堀川としさんが始められたエッセイの同人誌である。元朝日新聞記者(社会部デスク)の斎藤信也先生を代表に迎え、一九九三年に発足した。当時、斎藤先生は首都圏や札幌の朝日カルチャーセンターで複数のエッセイの講座を持たれていた。

 表彰が終わると、そのまま食事を摂りながらの懇親会となる。出席者は、受賞対象者と随筆春秋の会員とスタッフ、そこに先生方が加わる、五十名に満たない小さな会合である。以前は、私が世田谷の佐藤愛子邸に立ち寄って、佐藤愛子先生をお連れしていたこともあった。

 食事が一段落すると、自然と先生方のお話を聞く形になる。話は自ずと文学との向き合い方といった内容になる。プロの作家や脚本家の話を目の前で聴くわけだ。堀川先生はテレビドラマのプロデューサー、演出家、映画監督という顔を持つ。竹山先生は脚本家である。お二人とも何冊かの著作があり、作家としての一面もあった。お二人の話は、すこぶる興味深く、いつまでも聞いていたいと思わせるものだった。いわゆる、‶謦咳(けいがい)に接する〟という言葉にふさわしい、年に一度の至福の時間であった。

 この二〇一八年のときは、私は竹山先生と並んで座っていた。ふと見ると、竹山先生の指が青いことに気がついた。右手の人差し指の腹から親指の内側にかけ、万年筆のインクがベットリとついていた。私は思わず息を呑んだ。

 先生のご自宅は新宿区内だったので、タクシーでほどない距離のはずだ。午前中から執筆を行っていて、時間になって慌てて自宅を飛び出してきたのだろう。虚ろな目はそういうことだった。うっかり履いて出たのがこのスニーカーで、手を洗う時間もなかった。いつもは、フォーマルな靴を履かれていた。万年筆のインクで汚れた手は、衝撃的な光景として私の中に残った。プロの作家の一面を垣間見た思いがした。

 授賞式は新型コロナウイルス感染症のため、二〇二〇年から中止している。高齢者の出席が多いため、二〇二三年五月の授賞式も慎重を期して取り止めた。苦渋の決断だった。

 突然、降ってくるのが訃報である。竹山先生の知らせも、そんな唐突な出来事だった。一報を受けたとき、私は会社で仕事をしていた。

「えっ! どういうこと?」

「死んだって……、どうして? 竹山先生が……」

 まるで予期せぬ知らせだった。それは二〇二三年四月十七日のことだったが、その日、第一報を流したのは、NHKだった。先生は数多くの脚本を書いているが、NHKでは大河ドラマ二本と朝ドラ(連続テレビ小説)一本を書いており、そんなことからNHKとのお付き合いも深かったのだろうと勝手に想像した。

 先生の実際の死亡は十二日で、すでに葬儀などは身内だけで済ませていた。メディアの発表では、「敗血症性ショック。七十六歳」とあった。後日、新型コロナウイルスに感染し入院していたと聞いた。

 私は竹山先生とはまともに話をしたことがない。年に一度、授賞式で同席させていただくだけで、これまでにお会いしたのは四度ほどである。先生は大柄で怖い風貌をされており、近づきがたい雰囲気を醸し出していた。もちろん、共通の話題もないし、なにより畏(おそ)れ多かった。当時、私は随筆春秋の副代表であったので、堀川先生、竹山先生と並んで座らされていた。それでも初めてお会いした際、竹山先生を驚かせたことがある。

「私と事務局の池田元は、奇縁で結ばれています。元禄十六年の赤穂義士切腹に際し、私の先祖は熊本藩邸で堀部弥兵衛(安兵衛の父)の介錯、池田の方は、松山藩邸で堀部安兵衛と不破数衛門の介錯をしているんです。私たち、介錯人仲間でして……」

 と申し上げると、先生は身を乗り出し、目を丸くされた。俄(にわ)かに信じ難いという顔だった。

「なぜだ!」

 と言われ、しばし絶句された。偶然だと申し上げても、信じられないという顔で私と池田を交互に眺めていた。先生はかつて、高倉健主演の映画「四十七人の刺客」(市川崑監督)の脚本を書かれていた。そんなこともあり、忠臣蔵の話題を口にしたのだった。

「それは、書かなきゃダメじゃないか。ぜひ書け。書くべきだよ」

 と怒ったような強い口調で言われた。その姿がとても印象的だった。

 

 今回の訃報に接し、私は『随筆春秋』誌の四十三号から最新の五十九号までに掲載された竹山先生の全作品を通して読んでみた。自らを‶かぶきもの〟と称されるとおり、ヒリヒリするような作品を書かれている。ムダな言葉が一切ない。いきなり斬り込んできて、急所を抉(えぐ)ってくる。そこまで踏み込むか、といった容赦のない荒々しさである。数行読んだだけで、プロの厳しさがひしひしと伝わってくる。他を寄せつけない殺気と、近づき難い怖さを覚えた。

 先生は、意外な一面を覗かせたことがあった。何年か前の懇親会でのことだった。堀川先生が竹山先生の「清左衛門残日録」(一九九三年、NHK金曜時代劇)を激賞したことがあった。この作品は、竹山先生が脚本を書くようになってから二十年ほど経ったころの作品である。「最高傑作」というような最上級の言葉を使われた。

 並んで座っていた竹山先生がそのマイクを受け取った。当時の堀川先生を、東大出のプロデューサー(TBS)で、何をどうやっても、まったく太刀打ちできなかった。カミソリのように鋭い人だった。

「その人から初めて認められ……」

 と言った言葉が突然震え、思わず口を押えた。淡々と話されていた竹山先生が、涙を流されたのだ。それは、こみ上げる嗚咽(おえつ)に堪えるといった仕草だった。当時のことを思い出したのだろう。私はその光景を隣席で目の当たりにしていた。‶プロフェッショナル〟が垣間見せる、一瞬の閃光のような厳しさと、一方でそれとは裏腹な繊細さが交錯する刹那(せつな)を視た思いがした。

 堀川先生が亡くなったのは、二〇二〇年三月のことだった。八十二歳、肺がんだった。新型コロナの蔓延で、延び延びになっていた偲ぶ会が東京元赤坂の明治記念館で行われたのは、二〇二二年五月のことである。感染症の波の間隙(かんげき)を縫って行われた。

「今やらなければ、できなくなる……」

 高木凛先生の切実な言葉で実現をみた。高木先生は堀川先生の奥様で、脚本家であった。随筆春秋にも寄稿され、お世話になっている。その高木先生も、がんに侵されていた。「ステージ4」だということをお別れ会で明かされていた。会には当然、竹山先生も参列なさっていた。そして今回の訃報である。お二人ともコロナ禍で休止中の死となった。

 今回の訃報を受け、なんだか随筆春秋が殺風景になってしまうなと、遠いところで考えていた。背中に寒々としたものを覚えた。なにも言葉が出なかった。合掌。

 

 

付記

 ※ かぶき者とは

 かぶき者は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮。特に慶長から寛永年間(一五九六―一六四三年)にかけて、江戸や京都などの都市部で流行した。異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと。茶道や和歌などを好む者を数寄者と呼ぶが、数寄者よりさらに数寄に傾いた者と言う意味である。(Wikipediaより)

 また、『広辞苑』によると、「異様な風体をして大道を横行する者。軽佻浮薄(けいちょうふはく)な遊侠(ゆうきょう)の徒や伊達者」とある。

 

  2023年6月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 初めての京都は、高校の修学旅行であった。以来、古都に魅了され、大学を京都に選んだ。北海道からの進学者のほとんどは、当たり前のように皆、東京へいった。そんな右へ倣(なら)えが、私には苦手だった。

 私が京都で過ごしたのは、一九七九年、十九歳から二十三歳までの四年間である。もう四十年以上も前のことになってしまった。過ぎ去った歳月の分厚さに、愕然(がくぜん)とする。

 一浪して、受験のために訪ねたのが二度目の京都だった。従兄の四畳半のアパートに、一か月ほど滞在した。従兄と一緒に銭湯へ向かう道すがら、東山にかかる月を見て心が震えた。平安の昔、貴族や女官たちが眺めていたのと同じ月だと思ったのだ。どうしてもこの街に住みたい、そんな思いを強くした。

 大学に入るとESS(英語研究部)に所属して、関西一円から時には名古屋、東京まで飛び回っていた。三回生では自分の大学より遥かに長い時間を、ほかの大学で過ごしていた。そんな日々の中、寸暇を惜しむように社寺仏閣を歩きまわった。

 様々な場所を見て歩いた。そのほとんどが、一人での行動だった。友達と一緒だったこともあったが、何にも束縛されることのない一人がよかった。一人になりたかった。長い年月を経た今、歩き回った当時の記憶は、遠い彼方に霞んでしまった。朧気(おぼろげ)に浮かび上がるのは、何もしないで静かに佇んだ寺での場面である。

 京都の人は清水寺のことを、親しみを込めて「清水さん」と呼ぶ。あの独特なイントネーションのはんなり言葉を耳にすると、ほっこりとした気持ちになる。閉門後の清水寺で、舞台に腰を下ろし、オレンジから赤、ブルーからダークブルー、そして漆黒の闇へと移ろう京都の空を眺めていた。当時の清水は、閉門後、いつまで留まっていても何も言われなかった。そんなおおらかな時代だった。

 昼間の清水は、観光客や夥(おびただ)しい数の修学旅行生で喧騒に満ちている。そんな清水が、本来の姿を取り戻して静まり返る。私は嵐山方向の西の空を眺めながら、将来に対する漠然とした不安を視ていた。自分は将来、どこでどうなっているのだろう、そんな茫漠(ぼうばく)とした思いがあった。

 西の空に沈む太陽を眺めながら、極楽浄土を観想(かんそう)することを日想観(にっそうかん)という。浄土宗の瞑想(めいそう)法である。自分の内面と向き合う方法の一つとして、静かな心で夕日を見つめることのようだ。私はただただ漠然と移ろう風景を眺めていた。そこに自分の不安を投影し、なにか答えへと導くものがないかと、ぼんやりと探していた。答えは見つけられなかった。だが、京都にいた自分の姿は、清水とともに鮮明に残っている。東山方面を歩いたときは、清水で締めくくることが多かった。

 南禅寺の境内を歩いていて、夕立に降り込められたことがあった。思わず、近くの塔頭(たっちゅう)に駆け込んだ。濡れ縁に座って雨が過ぎ去るのを待っていた。だが、その雨脚が次第に強まり、飛沫(ひまつ)が濡れ縁を濡らし始めた。奥の部屋から出てきた年配の女性が、

「あらあら、みなさん、どうぞあがっておくれやす」

 と私たちを畳の間に招じ入れてくれた。そこには、私のほかに三、四人の観光客らしき若者がいた。暑い盛りのころで、夕立がもたらす一陣の風が心地よかった。強い雨が音もなく庭の苔(こけ)に吸い込まれていく。生気を帯びた苔が鮮やかに浮かび上がっていた。そんな庭を眺めていると、先ほどの女性が熱い緑茶を持ってきてくれた。お茶請けに、小さな和菓子が添えられていた。そのお茶の味は、忘れがたいものとして、今も鮮明に残っている。

 大学を卒業後、東京の会社に就職したので、毎年のように京都を訪れていた。独身のころは、ちょっといってみるか、といった思いつきで出かけることもあった。新幹線だと、二時間ちょっとの距離である。その気になれば、京都は身近にあった。

 そんな東京からふらりと訪ねたのが、仁和寺(にんなじ)だった。二王門(におうもん)の石段に腰を下ろし、ぼんやりと京の街を眺めていた。人々が行き交い、車の往来も多かった。‶静〟の側から‶動〟を傍観するような、そんなひと時だった。ただボーッとして、無意味な時間だけが過ぎていく。そんな旅行は、ある意味、贅沢の極みだったのかもしれない。

 うたた寝をした龍安寺(りょうあんじ)。失恋の深手を負ってたどり着いた常寂光寺(じょうじゃっこうじ)。青蓮(しょうれん)院、智積(ちしゃく)院、等持(とうじ)院……。目をつぶれば、深い霧の中から当時の光景が立ち現れてくる。そんな寺で、私はいつも座っていた。

 

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 (一)

 私がエッセイを書き始めたのは二〇〇〇年、ちょうど四十歳になった年からである。二年後の二〇〇二年八月、公募雑誌で見つけたエッセイ賞に初めて作品を応募する。自分の書いてきたものが、世間一般に通用するものなのだろうか、という疑念がわいてきたためである。

 十二月初旬、忘年会が跳(は)ね、したたかに酔って帰宅すると、優秀賞という受賞の報せが待っていた。発表が年明けだと思っていたので、息が止まった。酔いが吹き飛び、その夜は興奮のあまり寝つけなかった。その時の作品が「祝電」で、選考委員が佐藤愛子先生だった。

 第八回随筆春秋賞の表彰式は翌二〇〇三年五月、世田谷のイタリアンレストランを貸し切って行われた。そこで、私は誘われるままに随筆春秋に入会した。二、三年も入っておけば義理も立つだろうと思ったのだ。そして今に至っている。

 それまで私は、佐藤愛子先生の本を一冊しか読んだことがなかった。『日当たりの椅子』である。北海道の実家にあったものだった。賞をもらって、選者の作品を読んでいないのはマズイだろうと思い、読み始めたら止まらなくなった。結果、販売されている先生の本を全冊読み、絶版本は古本屋を歩き回って、文庫になったものはすべて入手した。その数は、新書や新装版の単行本を含め二〇五冊(二〇二三年四月現在)になる。

 愛子先生に初めてお会いしたのは、それからさらに二年後の、二〇〇五年六月のことだった。私は随筆春秋の事務局員になっており、メンバー八人とともに世田谷のご自宅を訪ねている。『随筆春秋』二十三号に発表した「三億円のおひたし」の講評をもらいにいったのだ。当時、先生は八十一歳で、私は四十五歳だった。

 私はすでに先生のあらかたの著作を読んでいただけに、異様なほどに緊張していた。ご自宅の前に立った時、「これが作品の舞台になった家なのか」と震えた。門の脇にある桜の大木に見覚えがあった。作品の中で何度もお目にかかっていた。「佐藤愛子」と正々堂々と書かれた表札を目にし、「さあ、いよいよだ」と血圧が跳ね上がった。この表札も作品の中で知っていた。私は数日前から緊張しており、すでに活きのいいサンマのように反り返っていた。

 玄関から出てきた先生を見て、「うわー、本物だ! 動いている」「こんな声なのか!」「若いな」……頭の中がアイドルに出くわした女子高生である。

 私たちが居間のソファーに腰を下ろすや否や、挨拶もそこそこに先生は私の作品を褒め始めた。唐突なことだった。その不意打ちに私の緊張が極に達し、流れ落ちる汗でメガネを曇らせていた。我々の訪問は午後二時で、先生は昼食後、事前に伝えられていたメンバーの作品を読んでいたのである。訪問直前に作品を読んで講評に臨まれていた。

 これ以降私は、年に二度、『随筆春秋』誌が発刊されるたびに、作品評をもらいに世田谷の先生のご自宅を訪ねるようになった。当日は会社を早退し、待ち合わせのJR渋谷駅、ハチ公前広場へと向かう。三軒茶屋駅で地下鉄を降りて、茶沢(ちゃざわ)通りをゾロゾロと歩くのだ。八十代から四十代のシンガリの私まで、七、八名の随筆春秋事務局のメンバーである。それは二〇一一年三月に私が東京を離れるまで続いた。六年間かよったことになる。

 私が北海道に移ってからは、年に一度、東京・四ツ谷で行われる随筆春秋賞の表彰式に出席するため、先生のご自宅に立ち寄って、会場までタクシーでご一緒するということをやっていた。四年間続けた。

 二〇二一年十一月、私は自身初のエッセイ集を出した。その時、事務局の荒川十太さんが先生に無理を言って「あとがき」をお願いしてくれた。すると先生から、初対面のころの経緯を教えるようにとの言づけがあった。何年の何月何日かまで正確に記すように、と。訝(いぶか)しく思いながらも先生に手紙を書いた記憶がある。

 後日送られてきた「あとがき」の原稿は、次のようなものだった。

 

 近藤健さんと初めて会ったのは、二〇〇五年六月一日だったらしい。健さんからの手紙でそうわかった。それからもう十六年のつき合いになるのかとしばし感慨に浸った。随筆春秋代表だった斎藤信也さんに連れられて拙宅へ来られた八人ほどの女性会員の中、黒一点という趣で若い近藤さんが混じっていたのだ。

 健さんは北海道に在住していた人と聞いて、北海道好きの私はそれだけでヒイキするという感じになったのもはっきり憶えている。

 二〇〇五年六月の日記を探し出して確かめると、

「六月一日。随筆春秋斎藤さん以下九人来訪。中に一人若い男性あり。この人の作品はダントツに面白い。賞にふさわしい人です」

 とある。何かの賞(多分、随筆春秋賞)を受賞されたのだろう。その時……

 

 「あとがき」はそんなふうに記されていた。これを読んだとたん、初対面当時の緊張が、ありありと甦(よみがえ)ったのであった。日記をたどるために正確な日付が必要だったのだ。この時、先生は九十八歳を目前にしており、私は六十一歳になっていた。

 

(二)

 北海道の太平洋岸に浦河町という人口一万一六〇〇人の小さな町がある。サラブレッドの一大生産地で、JRA(日本中央競馬会)の本拠地でもある。その浦河町のはずれに東栄(とうえい)という漁村があり、その集落の背後にある小高い丘の中腹に佐藤愛子先生の別荘がある。一九七五年に建てられたものである。

 眼下は荻伏(おぎふし)の集落で、見渡す限り牧場が広がっている。あちらこちらでサラブレッドが草を食(は)む姿を目にすることができる。牧場は別荘の窓の下まで続いている。その牧場の先、左手には太平洋の渚が大きな弧を描いており、並走する国道二三五号線は、いつのころからか「優駿浪漫街道」と呼ばれるようになっていた。正面から右手、そして背後にかけては、グルリと低い山並みが続き、その奥には青い日高山脈が連なっている。遠い山並みの残雪の白と深い群青色とが織りなすコントラストは、緑溢(あふ)れる牧場と相まって、鮮やかな色彩を放っていた。

 愛子先生は、毎年夏の期間をこの浦河で過ごされていた(二〇一九年まで)。私のふるさと様似町(さまにちょう)は、この浦河町の隣町である。そんなご縁もあって、私は浦河でのことを書いたエッセイ集『日当たりの椅子』を読んでいた。

 二〇一一年三月、私は会社の異動で東京から室蘭市に転居した。その前年に二十二年連れ添った妻と別れている。精神疾患を得た妻とは、十二年半の闘病生活を共にしてきた。そんな妻が、同じ病院で入退院を繰り返す病気仲間の男性の元へいってしまったのである。

 私は、二〇一三年の夏から、毎年、東栄の別荘を訪ねている。二〇一九年八月、新たな伴侶であるえみ子を伴って二人でいったのが最後になった。以降、先生は浦河を訪れていない。高齢のためドクターストップがかかったのだ。それまで、東京のご自宅を出てから一日がかりで別荘までいっていた。だが、いつのころからか身体の負担を考慮し、千歳空港周辺で一泊され、翌日、別荘へ向かわれるようになっていた。

 先生が北海道に着いて、旅の疲れが落ち着いた頃合いを見計らって、私は別荘を訪ねていた。先生は、私の顔を見ると決まって、

「ほんと、北海道は遠いわね」

 と言われた。それが私への挨拶代わりである。

「先生、羽田から千歳までは、一時間半です。それからが遠いんですよ、こんなところに別荘を建てられたから」

 そう言って互いに笑うのであった。千歳から浦河までは、一四〇キロの距離である。札幌からだと一七〇キロになる。

 そのころ、私は二度目の異動で、室蘭市から札幌市へ転居していた。東京にいたころは、同人仲間七、八人で世田谷のご自宅を訪ねていたものが、北海道にきてからは、私一人で浦河の別荘を訪ねるようになっていた。元来無口な私は、すぐに話のネタが尽きてしまう。そこで、お嬢さんの響子さんを誘って、三人でドライブに出かけるようになった。

 先生は響子さんと二人で東京からこられている。滞在期間中に、響子さんのご主人や娘の桃子さんが東京からやってきていた。だから私は、ご家族の邪魔をしないように、皆さんが揃われる前までに別荘を訪ねるようにしていた。響子さんと私は、共に一九六〇年生まれで、誕生月も二か月しか違わない。そんなこともあって、お互いに親しみがあった。

 三人でえりも岬や日高山脈の森の奥深くや、様似の景勝地巡り、そんなことをしていた。また、浦河の境町のスーパーで買い物をしたり、図書館へ寄ったり、お気に入りのパン屋「ぱんぱかぱん」にも何度か足を運んだ。お二人ともここのパンがお気に入りで、とりわけ響子さんは東京のどこのパン屋よりも好き(正確には、日本一好き)だと、大層入れ込んでいた。

 思い出深いのは、豊似(とよに)湖(馬蹄(ばてい)湖)へいったときのことである。豊似湖はえりも岬のさらに先、東栄からは片道一〇〇キロほどの距離にある。国道から未舗装の山道を十キロほど日高山脈の懐に向かって入ったところにあり、地元の人もめったにいかない湖である。湖畔は野生動物の宝庫であり、ナキウサギも棲息(せいそく)している。そんな湖をぜひとも先生にお見せしたかったのだ。だが、私は豊似湖を三十年以上も訪ねていなかった。事前に地元の知り合い二人に豊似湖の様子を尋ねてみたが、二人とも三十年前に訪ねたのが最後だと口を揃(そろ)えた。

 途中、何頭ものエゾシカやキタキツネに出くわしたが、幸いにもヒグマを見かけることはなかった。駐車場から湖畔までは一〇〇メートルほどの距離があった。大きな岩がゴロゴロしていて、年寄りには険しい森の道である。半分ほど進んだところで、先生はギブアップした。何とか湖を見せたいと思った私は、負ぶわせてくださいと先生の前に進み出て、かがんでみせた。そんな私に、

「いいえ、結構です」

 とキッパリ断られた。あまりにもキッパリ過ぎて、それ以上の無理強いはできなかった。しかたなく、響子さんと私が交互に湖の畔(ほとり)までいって、スマホで撮った写真を先生にお見せした。すでに日が陰っていたので、豊似湖本来の透明感あふれる美しさは味わうことができなかった。しかし、佇んだその森の森厳とした雰囲気に私たちは圧倒された。人の手が入っていない森には、おびただしい数の倒木が見られた。それらの幹はふかふかの苔に覆われ、そこから針葉樹の五センチにも満たない幼木が、一列に並んで芽を出していた。いつ妖精が出てきてもおかしくない雰囲気に、しばし時間を忘れた。私たちは森の懐の中で、味わったことのない心地よさに包まれていた。

 引き返す道では、先生の手を取らせてもらった。これまでに幾多の作品を生み出された手だと思うと、その畏(おそ)れ多さに身が引き締まった。同時に、密かな幸福感を覚えていたのだった。

 

(三)

 二〇一四年の夏、浦河の別荘を訪ねたおり、思い切って色紙に一筆したためてもらったことがあった。揮毫(きごう)をお願いしたのは、初めてのことだった。それまで先生にお会いしてきた十年間、畏(おそ)れ多くて言い出せなかったのだ。

 色紙に向かわれる先生の姿は、何度も目にしてきた。同人仲間とご自宅を訪ねたおり、色紙を持参してくる人がいた。それに便乗して私も何か書いてもらいたかったのだが、私にはどうしてもそれができなかった。私にとって佐藤愛子先生は、ファンなどという軽々しいものではなかった。極めて特別な、半ば神格化された存在だった。私がそうなってしまった原因は、先生の膨大な著作を読んでしまった副作用にほかならない。

 先生が色紙に書かれる言葉は、決まって「戦いすんで日が暮れて」である。先生の直木賞受賞作品のタイトルでもある。その揮毫は「戦」の文字が一段と大きく雄渾(ゆうこん)に認(したた)められ、惚(ほ)れ惚れするような書であった。当然、私もその言葉をいただけるものと思っていた。ところが先生は、筆をとるや、何の躊躇(ためら)いもなく別の言葉を書かれたのだ。「人生は美しいことだけ憶えていればいい」だった。

 あとで調べてみると、沢田美喜さんの言葉であることがわかった。沢田さんは、戦後、エリザベス・サンダース・ホームを創設し、戦災混血孤児を育てた人物である。ある日、愛子先生がテレビを観ていて、この「人生は美しい……」という言葉に出会っている。そのことをインタビューで答えている記述がネットにあった。

 

 私の場合、言葉によって支えられたということはないですね。言葉が先にあって、その言葉で力づけられ自分の人生が決まったというのではなく、自分の人生が先にあって、人生観なり自分の気質なりにぴったり合う言葉を見つけた時に、嬉しくなってそれが力杖になる、ということだと思うんですね。そういう意味で気に入った言葉の一つに、「人生は美しいことだけ覚(憶)えていればいい」という沢田美喜さんの言葉があります。

 ホームで育った黒人の混血孤児なんですが、成長して二十七、八歳の青年になって、アメリカへ自分のお父さんに会いにいく。ところがお父さんは喧嘩か何かして監獄に入っているんですね。胸が潰れるような思いでその青年は、沢田さんが来るのをニューヨークの公園のベンチに座って待っている。沢田さんの姿が見えると青年は駆け寄って、抱きついて、思わず泣くんです。その時に沢田さんが英語でね、「泣いてはいけない、人生は美しいことだけ覚(憶)えていればいい」と言って、青年を励ますという場面があるんです。

 長いこと生きてくると、いろいろな経験をしてきますけど、楽しいことよりも、美しいことのほうが心に残るということが分かります。美しい自然、人の美しい心。そういう美しいことだけ覚(憶)えていれば、人生捨てたものじゃない、というふうに思えるわけでしてね。さすがに沢田さんはいいことを言われるなあと、感銘を受けましたね。(引用 致知出版社メールマガジン)

 

 先生は私の長年の苦悩を推しはかって「人生は美しい……」をくださったのである。

 私の妻は、一九九七年十二月に精神疾患を発症した。そのとき一人娘は、まだ小学二年生だった。闘病生活は十二年半に及び、妻は十二回の入退院と自傷行為を繰り返した。嫉妬妄想から包丁を持ち出すこともしばしばで、そんな兆候を察した娘が包丁を隠すようになっていた。妻の病名は、境界性パーソナリティー障害で、重篤(じゅうとく)なうつ症状を伴っていた。

 愛子先生が私の実情を知ったのは、私が同人誌に発表した作品からであった。作品評をもらいにご自宅を伺った際、

「これはね、エッセイの限界でしょう。小説にすべき作品ですよ」

 妻の病気関連の作品を目にするたび、そのように言われた。講評が終わって雑談に入ると、私の生活の状況をいつも訊かれた。

 二〇一一年三月、私が転勤で室蘭市に転居してほどないころ、突然、愛子先生からお手紙をいただいた。そこには「あなたは小説を書く気がおありですか」と改めて尋ねるものだった。もし私が応じるのなら、先生はそれなりの指導を考えていらっしゃったのだろう。だから、わざわざお手紙をくださったのである。その心が私の胸に沁み、もったいなくて涙が零(こぼ)れた。

 だが、残念ながら、私には小説を書く技量がなかった。サラリーマンを投げ出す覚悟がなければ書けないと思っていた。だから、やんわりと、お断りをしてしまったのである。情けない男である。周りの同人仲間からも「あなたの作品は、もう小説じゃないの。書きなさいよ」と言われていた。だが、どうしても書けなかった。私は、先生や仲間の期待に応えることができずに今日に至っている。

 先生が前述の拙著に書いてくださった「あとがき」は、次のように続いている。

「穏やかで誠実な人という第一印象は今も変わらない。穏やかさの中身もやさしさも変わらない。その美点のために健さんは、しないですむ苦労をかぶった人のように私には思えるのだが、その苦労は健さんの風貌のどこにも影を落としていないことに私は敬服せずにはいられない。それらは表には出ずに内向して濾過(ろか)され彼の人柄、精神性に深みをもたらしたように思われる。その成長が今回のエッセイ集に開花しているだろうことを見るのが楽しみである」

 

 二〇一九年四月、愛子先生のエッセイ集『人生は美しいことだけ憶えていればいい』(PHP研究所)が出版された。これまで先生が書かれてきた作品の中から再編纂(へんさん)されたものである。このタイトルを見たとき、思わず「あっ!」と声が出た。

 先生からいただいた色紙はきちんと額装し、部屋に掲げている。

 

 (四)

 二〇〇八年十一月、私は神奈川県秦野市の山間部にある仏乗院というお寺を訪ねている。元妻(当時の妻)を伴っていた。

 佐藤愛子先生のご自宅に通い始めて三年が経ったある日、いいお坊さんがいるが、その気があるのなら、紹介すると言われたのである。住職は霊視能力のある方だった。

「江原さん(江原啓之)は有名になり過ぎて、忙しいからムリね」

 そんなふうに言われた。当時、江原啓之さんは、超人気のテレビのレギュラー番組を抱え、多忙な日々を送られていた。

 愛子先生は浦河町に別荘を建てられてから、超常現象に悩まされることになる。当時、懇意にしていた作家の川上宗薫(そうくん)さんが助け舟を出してくれた。川上さんは作家になる前に長崎の高校で英語教師をしていた。その時の教え子に霊視能力のある者がいる、と紹介されたのが美輪明宏さんだった。その後、まだ学生だった江原啓之さんとも知遇を得ている。江原さんがテレビに出るきっかけを作ったのが愛子先生だと人づてに聞いているが、先生に直接聞いたわけではないので、その真意は定かではない。

 愛子先生が別荘を建てた場所は、かつてのアイヌの古戦場跡だった。しかも愛子先生の前世は、アイヌの酋長(しゅうちょう)の娘だという。周りには何もない小高い丘の中腹に別荘を建ててしまった。愛子先生の超常現象との闘いの発端は、ここから始まった。それまで愛子先生は、死んだら無になると漠然と考えていた。そんな世界とはまったくの無縁で、むしろその対極にいて胡散(うさん)臭いと思っていた。だが、突然に降りかかってきた災難に、否応もなく呑み込まれてしまったのである。

 

 私たち夫婦を迎え入れてくれた仏乗院の住職は、開口一番、

「近藤さんは、ずいぶんと心配されていましたね、奥様に動物霊が憑(つ)いているんじゃないかと」

 度肝を抜かれた。五十代と思しき住職は、柔らかい物腰の親しみやすそうな人だった。だが、私の脳ミソを透かして見ているように、私の思いを次々と口にするのだ。私が考えているエッチなことも、この人は見透かしていると思ってゾッとした。ウソがまったく通用しない、そんな人間に出会ったのは、初めてのことだった。住職の前で私は丸裸にされたのである。

「奥様の病気は、これをすれば治るといった単純なものではありません。病気の原因は、過去からの因縁です。動物霊の憑依(ひょうい)ではありません」

 そうキッパリと言われた。毎年、初詣にいくこと。年に一度、先祖のお墓参りをすること。自然豊かな郊外に住むこと。この三つの励行(れいこう)を促(うなが)された。妻の発病から十一年目のことであった。

 それから一年半後の二〇一〇年四月、妻が私のもとを去って、すべてが終わった。その報告を愛子先生にすると、複雑な表情をされながらも心から喜んでくれた。人生の艱難辛苦(かんなんしんく)は誰しもの身に降りかかってくる。だが、どうにもならぬ状況が出来(しゅったい)した場合、腹を据(す)えてそこに居座るしかない。いくら逃げようとしても、逃げ出せるものではないのだ。そんなことを愛子先生の著書から教わり、いつの間にかそのとおりにしていた。もっとも私の場合は、腹を据えて居直ったというより、逃げ出す勇気がなかっただけである。

「人は、負けると知りつつも戦わねばならぬときがある」

 これはバイロンの言葉で、愛子先生の父君佐藤紅緑氏の座右の銘である。いつしか愛子先生の座右の銘にもなっている。私もまた、まったく勝ち目のない闘いの中でもがいていた。闘っていたのではなく、身を固くして丸くなっていた。ただただ、嵐の過ぎ去るのを待っていたのであった。

 私たち夫婦は多くの人から祝福され、結婚していた。だが、離婚を知ったさらに多くの人から、「よかったね」「本当によかった」と、私の手を取って涙ぐまんばかりに喜んでくれた。結婚の時よりも多くの祝福をもらったような気がして、なんだか複雑な気持ちになった。

 仏乗院の住職から進言された「自然豊かな郊外に住むこと」は叶わなかったが、初詣と墓参りは、今も欠かさず続けている。

 

 (五)

 私は、二〇一三年から二〇一九年までの七年間、浦河町東栄(とうえい)の別荘を訪ねてきた。七年間といっても、札幌からは片道一七〇キロの距離である。そう簡単にはいけない。先生が浦河に着いて落ち着かれた頃合いを見、また、響子さんご家族が東京からこられる前のまでの間隙(かんげき)を縫うようにして訪ねていた。

 今の伴侶であるえみ子と知り合ったのは、二〇一六年九月のことだった。札幌にいる様似(さまに)の幼なじみに紹介されたのだ。そのえみ子を伴って別荘を訪ねたのが、二〇一九年八月で、先生が別荘を訪れた最後の年である。前妻のことでは、長年、先生にお気遣いをいただいてきた。そんなこともあったので、先生にはぜひ、えみ子に会っておいてもらいたかったのである。

 えみ子は文学とは無縁の女である。私とは趣味も嗜好(しこう)も異なっている。えみ子は私の二歳下で、北海道の日本海に面した小さな漁村に生まれ育っていた。私は反対側の太平洋側の漁村である。だが、育った環境がとてもよく似ていた。お互いに娘がいる。私は離婚だが、えみ子は私と知り合う四年前に夫を亡くしていた。ただそれだけなのだが、妙にウマが合い、共に歩んでいる。だが、二人とも仕事を持って別々に暮らしており、いまだ入籍もしていない。いずれ、タイミングを見計らって一緒になることにしている。

 えみ子は仕事柄エステを行っている。先生との話が一段落したところで、先生にソファーに寝そべってもらって、そこでマッサージを施した。お客さんにやってもらうのは申し訳ないと、先生はしきりに遠慮なさっていた。だが、思いもかけないマッサージに、とても喜んでくださった。えみ子には突然の提案であったが、光栄なことと受け止め、快く引き受けてくれた。お陰で、えみ子と先生との距離がグンと縮まった。

 そのあと、浦河の図書館へご一緒した。先生は借りていた本を返却したあと、響子さんが持つ空のカゴに棚から取り出した本をポンポンと入れていた。迷っている風には見受けられなかった。五、六冊も借りていただろうか。本のジャンルは、日本文学から海外ものまで多岐にわたっていた。九十六歳を目前にした先生が、図書館で本を借りて読む、とんでもない光景として私には映った。

 先生が本を選んでいる間、私とえみ子は図書館の片隅に展示されていたサラブレッドの写真を眺めていた。そのとき年配の女性が外から入ってきて、私たちに声をかけてきた。見ると年季の入った重厚なカメラを携えている。この写真を撮られた方ですかと尋ねると、嬉しそうにそうだと頷(うなず)かれた。後に知るのだが、写真家の内藤律子さんだった。その時、彼女は六十九歳であった。

 埼玉県浦和市出身の彼女は、ウマに魅せられて一九九七年に浦河に移住している。展示写真の傍(かたわ)らには、何冊かの写真集が置かれていた。その内藤さんの写真集をめくっていると、巻頭に佐藤愛子先生の一文があった。お二人は旧知の仲だった。その後現れた先生と楽しそうにウマの話をされていた。先生は、写真家の目を通して見るウマの様子を熱心に尋ねられていた。その斬り込み方に作家の目線を感じた。先生の旺盛な探求心を垣間見、強い驚きと尊敬の念を新たにしたのだった。

 後日、響子さんから「近藤さん、えみ子さん(と出会えて)、よかったですね。飾らなく気さくな人で。いい人を見つけられてよかったと、母と話していたんですよ」と仰ってくれた。私は胸のつかえをおろし、こっそりと涙を拭(ぬぐ)った。

 

 別荘の下の集落に、小さなお店がある。アベ商店という。あらかたの生活用品が揃うなんでも屋である。先生は、親しみを込めて「万屋(よろずや)」と言っている。店主の阿部さんは、先生の作品の常連で、別荘を取り巻く話題のときには必ず登場する。阿部さんは先生から絶大な信頼を得ており、別荘の管理のすべてを任されていた。それまで私は、阿部さんとは面識がなかった。だが、別荘を訪ねるようになってから、何度かお店に顔を出し、言葉を交わすようになっていた。

 この阿部さんの息子の奥さんは、様似の私の実家の隣の娘、ちえみちゃんだった。ずいぶんと後になって知ったことである。先生が北海道へくる際、千歳空港まで阿部さんの息子が車で出迎えていた時期があった。あるとき、いつものように迎えにきた車を見ると、助手席に若い女性がいた。先生も響子さんも驚いた。彼女を連れてきたことも驚きだったが、その女性が息を呑むほどの美人だったことに目を瞠(みは)ったのだ。

 我が家が、ちえみちゃんの家の隣に引っ越してきたのは、私が小学校五年生のときだった。同じ様似町内での転居だった。当時、中学生だったちえみちゃんは、すでに近寄りがたい美少女だった。それゆえ、親しく会話をしたことがなかった。私は、高校から実家を離れたので、その後のちえみちゃんを知らない。地元の銀行に就職し、そこで現在のご主人である阿部さんの息子と知り合ったのだ。実は、私が大学時代、四歳年下の様似の女性と遠距離恋愛をしていたことがある。その彼女が銀行に就職し、誰よりも親しくしていたのが、ちえみちゃんだった。田舎の狭さを感じさせる出来事だった。

 私が別荘を訪ねるようになって、愛子先生親子から「第二の阿部さん」と呼ばれていたことがあった。肝心の阿部さんが年をとってしまったためである。だが私は、何かあってもすぐに駆けつけられる距離にはいなかった。しかも、サラリーマン生活をしている。ゆえに、何の役にも立たない〝阿部さん〟で終わってしまった。

 愛子先生が別荘を建てられてから、間もなく半世紀になる。「かつて懇意にしていた集落の人たちは、もうみんな死んでしまいましたよ」と先生がこぼしたことがある。愛子先生も響子さんも東栄はもちろん、浦河町全体の移り変わりを見てきた。みんなが年をとってポロポロと欠けていき、街が寂(さび)れ、何もかもが変わってしまったという。夏の二か月ほどの滞在ではあるが、誰よりも敏感にそんな変化を感じ取られていた。

 

 (六)

 二〇一六年に別荘を訪ねたときのことである。その数日前に先生の新著を購入し、訪問前夜に読み終えていた。『九十歳。何がめでたい』である。この本は、それまで週刊『女性セブン』に書かれてきた先生のエッセイを収録した最新エッセイ集である。このエッセイ集がよかった。

「先生、読書離れと言われますが、このような本が売れないのはおかしいですよ」

 私はいつになく力が入って、前のめりになっていた。前夜の興奮を引きずっていたのだ。そんなふうに向けられた先生は、ただニヤリとされただけだった。だがこの本、その後、売れに売れた。一二八万部という空前の売り上げを記録し、翌二〇一七年には年間ベストセラー書籍の総合第一位になった。

 二十万部の売り上げで「凄いことだ」と言われる中、桁(けた)外れの一二八万部である。九〇メートル級ジャンプ台で、三〇〇メートルも飛んだようなものだ。それ以降今日まで、過去に出版された先生の作品が次々と新装版として発売され続けている。巨大地震の余震が未だに続いている、そんな様相である。出版不況の中で、各社が目の色を変えて先生にあやかろうとしていた。すでに絶版となり、古本屋でしか入手できなくなっていた著書が、装いを変えて日の目を見始めた。これはとてもありがたく、喜ばしいことである。

 今でも書店の入り口やレジの近くといった目立った場所に、先生の本が平積みにされている。何かの拍子に、不意に笑顔の先生と目が合う。そのたびに、ドキッとする。長年のお付き合いとはいえ、私にとって愛子先生は、〝三歩下がって師の影を踏まず〟という存在に変わりはない。二〇一七年四月、愛子先生は旭日小綬章(きょくじつしょうじゅしょう)を受章された。

 

 私の亡祖母の一番下の妹である大叔母は、浦河町生まれである。二〇二〇年四月に九十九歳で亡くなっている。彼女は大正九年(一九二〇)生まれなので、愛子先生より三歳年上になる。誕生日は十一月五日で先生と同日だった。亡くなる数年前に大腿骨を骨折し、以来、歩行ができなくなり、浦河の老人施設に入所していた。愛子先生も敬老の日に何度かこの施設で講演を行っている。敬老の日に、私より年下の年寄り相手に話をしてくれなんて……、「敬老」されるのは、こちらの方ですよ。よくそんなふうに仰り、笑っておられた。私は、そういうときの愛子先生の笑顔が好きだった。

 大叔母が入所してから、私も何度か施設を訪ねている。大叔母の部屋の窓の真正面、牧場を挟んだ先に先生の別荘があった。直線距離では五〇〇メートルほどだが、その間には遮るものが何もなかった。愛子先生のいらっしゃらない時期の別荘を、大叔母の窓から見上げていた。寝たきりになってしまった大叔母もまた、様々な思いを抱きながら、この景色を眺めていたに違いない。聡明だった大叔母は、最後までボケることはなかった。

 ちなみにこの大叔母の父親は、明治二十二年(一八八九)に屯田兵として熊本からやってきている。数年前、札幌の屯田資料館へいった際、入植者の史料パネルの中に曾祖父の名を見つけた。傍らにいた職員に、この入植者の実子がまだ二人存命である旨を告げると、「二世がいるとは、信じられないことです。ぜひ、お連れください」と驚きの表情を見せた。

 また、大叔母の伯父、つまり父親の兄は、明治十年に熊本で勃発した不平士族の反乱、神風連(しんぷうれん)の乱で自刃(じじん)している。父親は慶応二年(一八六六)生まれで、大叔母は父親が五十四歳の時の子である。母親は、父親より二十歳年下の二人目の妻であった。大叔母が歴史の生き証人たる所以(ゆえん)である。大叔母は「私は士族の教育を受けてきた」と常々口にする、気丈な女性であった。そういう意味では、常日頃、士族然とされていた愛子先生のお父様に重なるものがあった。

 

 先生が東栄に別荘を建てられた時から、私は別荘を見上げてきた。建てられた一九七五年(昭和五十年)は、私が高校に進学した年である。私は高校から様似(さまに)を離れ、札幌に出ていたが、帰省のたびにいつも国道から別荘を見上げていた。夜になって別荘に明かりが灯っていると、「あ、いるんだな」と思いながら仰ぎ見ていた。あの家の中には、どんな世界があるのだろう。東京があるのだろうか。それがどういうものなのか、想像も及ばなかった。だから、二〇一三年に初めて別荘を訪ねたときには、特別な感慨があった。

 居間に通された私は、眼下に広がる風景に息を呑んだ。海と牧場、草を食(は)むサラブレッドが大きな窓の向こうに見渡せた。国道を走る車を見下ろしながら、私は長年、あそこからここを仰ぎ見てきたのだと思った。そして、ソファーに腰を下ろし、先生と相対している自分を、実感として受け止められなかった。これは現実なのか? 夢ではないのか。 そんなふうに何度も反芻(はんすう)していた。離人症のような感覚に陥っていた。初めて世田谷のご自宅を訪ねたときもドギマギした。だが、別荘を訪ねたときには、それとは違った特別な想いがあった。

 ちなみに、浦河町の観光案内のパンフレットは、先生の別荘のある場所から撮った写真が表紙になっている。

 

 (七)

 私が随筆春秋に入会したのは、二〇〇三年五月である。その後、事務局員となって愛子先生の世田谷のご自宅を訪ねるようになる。当時、一緒に行動していた十名ほどの方々は、今、どうされているのだろう。すでに物故者となられた方が何人かいらっしゃる。代表の斎藤信也先生もその一人である。老人施設に入られている方もいる。自宅で介護を受けられている方もいるのだろう。皆、いつの間にかフェードアウトするように霧の彼方へ消えてしまった。もっとも、私が東京を離れ北海道で孤立しているから、よけいそんなふうに感じるのかもしれない。

 かつてのメンバーは、佐藤愛子先生のことを「愛子先生」と呼んでいた。さすがに、ご本人の前では「佐藤先生」だったが、先生を交えた会話の中でも、ときおり「愛子先生」が飛び出した。そんな中で、私は飛び切り若かった。今でも私がつい「愛子先生」と言ってしまうのは、そんな当時の名残である。「佐藤先生」だとよそよそしく、「愛子先生」の方が、収まりがいいのだ。

 

 愛子先生がこの浦河町東栄の別荘でどのような日常を送られていたのか、私は先生の作品を通してしか、そのご様子を知らない。私がこの七年間で実際に目にしたのは、先生と響子さんお二人の生活のほんの一端に過ぎない。年に一度しか訪れない私は、どうしても「お客さん」なのである。だから、三人でのドライブの道すがら、図書館やスーパーの買い物にご一緒できることが嬉しかった。ハンドクリームやシャンプーを買ったり、取り置きしてもらっていたパンを受け取りにいったり。お店の人との何気ない会話の中に一緒に身を置ける、そのことが無性に嬉しかった。

 愛子先生は、東京の暑い夏を避けるために浦河へやってくる。北海道の太平洋岸は、夏の最高気温がせいぜい二十八度である。札幌のように三十度超えの真夏日になることはない。東京の夏といえば、日中は連日三十五度を超す猛暑日が続き、夜は二十五度を下回らない熱帯夜に苛(さいな)まれる。体力の消耗戦が繰り広げられる。北海道と東京の夏の決定的な違いは、気温もさることながら、湿度なのである。タールのようにネットリと纏(まと)わりついてくる、あの不快な暑さがまったくないのだ。四六時中汗ばんでいるため、日に何度も水シャワーを浴びる。それがここでは必要ないのだ。

 浦河の夏は、衝撃的な涼しさである。しかも別荘は丘の中腹にあり、常にカラリとした海風が吹いている。クーラーの効きすぎた部屋にいるようなものである。私が別荘にお伺いするのは、八月初旬から中旬にかけてだった。私を出迎えてくれる先生は、いつも長袖の上にサマーセーターを羽織っておられた。もちろん、窓は閉め切っている。そんな先生の姿を目にすると、なんだか気の毒な心持ちになる。当地の気候が、避暑地としては度を超した肌寒さなのだ。もっとも、地元の人にとっては、いつもと変わらぬ蒸し暑い夏なのである。

 そんな生活の中で、先生は響子さんと買い物にいかれたり、映画館へもよく足を運ばれていた。浦河には小さな映画館がある。大黒座は、北海道で最も古い映画館といわれ、近年では密かに注目されている。まるでお二人のプライベートシアターのように、貸し切り状態のこともしばしばあった。

 愛子先生は、浦河はもとより近隣の様似やえりも、静内(新ひだか)といったこの地域一帯の人々にとって、特別な存在であった。北海道新聞の地元版(日高版)に先生が海で遊ぶ記事が載ると、「山の上のセンセエ」が今年もきている、そんなふうに思ったものだ。そういう意味で、先生の来訪は、この地域の‶夏の風物詩〟になっていた。その姿が忽然(こつぜん)と消えたのである。この喪失感は、先生親子も去ることながら、街の人もやり切れぬ思いを抱いているに違いない。

 愛子先生が北海道にこられなくなってから、三年目の夏(二〇二二年)が過ぎた。私はこれまでに何度か、別荘や東栄の街並みの写真、動画を響子さんにLINE(ライン)で送っている。様似やその先のえりもへいく道すがら、寄り道をして別荘まで上がってみるのだ。東栄は、様似やえりもへいく途中にある。

 響子さんからは、懐かしいという思いが込められた返信が届く。その写真を先生にお見せしているのかどうかは、はわからない。「母に見せると、寂しい思いをさせる」そんな配慮が、響子さんにはある。お二人とも浦河へいきたい、その思いを堪(こら)えているのだ。お二人にとって浦河町は、夏の間だけの単なる避暑地ではない。長年にわたり風景に親しみ、そこで暮らす人々と裸の心で交流してきた特別な場所なのである。

「あれ……、センセエ、いづきたの」

「食ってけれー」

 魚箱には度を超した量の魚介類が入っている。魚はもちろんのこと、カニの時もあればウニだったり。タコやイカ、エビ、ツブなど、その時々で様々である。すべて前浜で獲れたものばかりだ。社交辞令もなければ、挨拶もない。構える心の必要ない、〝素〟でいられる場所なのだ。

 だが、そんな交流を持った漁師たちも年老い、いつしか誰もいなくなったしまった。

「もう、みんな死んじゃって、誰もいません」

 そう仰った先生の言葉が耳に残る。

 

 愛子先生が断筆宣言をされたのは、二〇二一年の誕生日前のことなので、九十七歳でのことになる。

「あなた、書くのをやめたら死んじゃいますよ」

 主治医からはそんなふうに言われたらしい。

「死ぬかどうか試してみます」

 そう答えたと言って、愛子先生は電話口で笑われた。私の好きな先生の笑顔であることが容易に想像できた。

 愛子先生は現在(二〇二三年五月)、九十九歳である。瀬戸内寂聴さんが二〇二一年十一月に九十九歳で亡くなられてからは、文壇の最長老という立ち位置にいらっしゃる。静かな生活を送りたくても、周りが放っておいてはくれない。たまに来客があるくらいなら、退屈凌ぎにいいだろうが、どうもそうではないようだ。九十歳を過ぎてから、これほど大ブレイクした作家はいない。まったく、お気の毒だ。可能なら、住み込みで書生にでもなって、お手伝いしたいところである。だが、六十歳を過ぎた書生など、無用の長物で役に立たない。

 現在、日本の百歳以上の高齢者は九万人ほどで、うち九割が女性だという。文字が書きにくくなったが、口だけは達者だと先生は仰る。ならば、口述筆記という手もある。愛子先生にはぜひとも、百歳の高みから見た風景を綴っていただきたい。それは誰にでもできることではない。今の愛子先生だけが、唯一、許されたことである。天からのご指名なのだ。

「つれづれなるままに、大往生の前にひと言……」そんなような作品を待っています。

 

 追記

 二〇二二年九月号の雑誌『婦人公論』の表紙に、「佐藤愛子九十八歳、新連載スタート!」という文字が躍った。「思い出の屑籠(くずかご)」と題した新連載は「前もってのお詫び」という異例の〝まえがき〟で始まっていた。断筆宣言の撤回である。拍手喝采!

 

  2022年4月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 自分というのは、誰よりも身近な存在である。当たり前だが、自分のことを最もよく知っているのは、自分自身だ。自分が自分だから。だが、そんな自分が、自分のことをうまく描けない。書いても、書いても表現しきれない自分がいる。本当は、自分のことをよく知らないのではないのか。わかっているようで、理解できていない、それが原因ではないか。そんな思いが頭をよぎる。

 いや、一概にはそうとも言えない。自分を描こうとすると、それを抑制しようとする力の存在を感じる。磁石のプラスとプラスの反発のような、もう一人の自分がそれをかわそうとする。自分を正当化し、よく見せようとするのだ。「自分のみっともない生き様を包み隠さずさらけ出せ、なにをカッコつけているんだ」そんな叫びとのせめぎ合いが始まる。

 いやいや、それも少し違う。そんな格好のいいことではない。ただ単に、表現力が欠如していて、満足のいく文章が書けないだけだ。それが最大の原因だろう。「説明するな、描写しろ」そんな言葉が降ってくる。わかってはいるのだが、言葉が出てこない。それが正直なところだ。出口の見えない自問自答が続く。

 私は四十歳を機にサラリーマン生活の傍らエッセイを書き出した。今年で二十三年になる。二〇一四年からは、所属同人誌でエッセイの添削指導を行っている。これまでに五七〇本ほどの作品の添削を行ってきた。会員さんの作品原稿が東京の事務局を経由して、札幌の私のところに送られてくる。朱筆を入れながら、実にもっともらしいコメントを書く。

「……説明するのではなく、描写してください。映像が見えるように場面を写し取るのです」

 へたをすると傲慢(ごうまん)ともとられかねない。

「……どんなに美しい花でも、美味しい料理でも、いくら美しい、美味しいと連呼しても、その美しさや美味しさはちっとも伝わりません。美しい、美味しいという言葉を使わないで、いかに美しいか、美味しいかを描写するのです」

 これまでに私は、愛している、好きだよという言葉を使わないで、恋焦がれる思いを表現してきただろうか……。

「一から十まで細かに書いてはいけません。省略によって読者は想像を働かせることになります。行間から滲み出てくるものを読者に読み取ってもらうのです」

「題材に選んでいただきたいものは、人生の葛藤です。生きにくい、思うようにならない人生の中で、真剣に生きる姿を描く。大真面目に描けば描くほど、それが滑稽(こっけい)に見えて笑いの中でいつしか涙が滲(にじ)んでくる、そんな作品になるものです」

 どこかで聞いたようなことを、よくもまあ、のうのうと書けるものだ。誰かの受け売りではないのか。オノレを省(かえり)みてみろ。読者の琴線に触れるような作品が、どれだけ書けているか。まったく呆(あき)れてモノがいえない。

「八十歳になられたのですか。素晴らしい! 私なぞ、その年齢まで生きていられるだろうか……。ましてやモノを書き続けるなんて……。八十代の境地からでなければ見えない景色があるはずです。何気ない日常生活を切り取って、書き継いでいってください。そして私たちにその景色を見せてください。ますますのご健筆を祈念しております」

 私の所属している同人誌も、ご多分に漏れず高齢の会員さんが多い。中には、老人施設に入所していて、そこから添削原稿を送ってくる人もいる。かつては、夫婦で入居していた人もいた。

 ニ十歳以上もの目上の方に対し、無礼千万な物言いであることは百も承知である。しかも相手は、かつて教職にあったり、高名な大学の先生やお医者さんだったりする。ネットで本名を検索して、ギョッとする。私のような若輩者に偉そうに教示されるのを、どのような気持ちで受け止めているだろう。

 だが、私も立場上、書かざるを得ない。因果な役割を引き受けたものである。大きなため息をつきながら、毎回、真剣勝負だという気持ちで原稿と対峙(たいじ)し、朱筆を入れている。一つだけ自分に言い聞かせていることがある。それは、歯の浮くような美辞麗句を述べないということだ。思ってもいないことは、口にしない。過剰に褒めてしまうと、書いている端(はな)からウソになる。そんなものは、簡単に見破られる。

 ウソは書かない。いい部分、優れた箇所を見つけ出し、そこを広げてやる。真剣勝負で向かってくる原稿には、それなりの殺気、迫力がある。書くという孤独な作業の中から生み出された作品には、一種異様な怖さがある。読む前からそんな雰囲気を漂わせる原稿を目にすることがある。背筋がスーッと伸びる。

 自問自答の中で溺れていては何もできない。まずは自分を棚に上げることだ。鈍感力を高めなければ、とてもじゃないがやっていられない。

 

  2023年5月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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