生きていく傍らに…… | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 眠れない夜がある。ベッドから起き出して原稿に向かう。パソコンの電源はすでに落してある。机の電気スタンドの小さな明かりを頼りに、常備している原稿に走り書きをする。ふわっと浮かんできた言葉を書き留めるのだ。

 パソコンを立ち上げて正式に書き出すと、いよいよもって眠れなくなる。若さが失せた今、夜更かしは次の日の仕事に響く。無謀は、もうできない。浮かんできた言葉は、どこかに書き留めておかないと、翌朝にはきれいさっぱり消え去っている。思い出そうにも、まったく何も出てこない。私のメモリー機能は、すでに壊れ始めている。イヤなことは、いつまでも引きずるくせに。

 私のパソコンは、そんな言葉の欠片(かけら)で溢れ返っている。もったいないという思いから、ついつい溜め込んでしまう‶端切れ〟のようなものだ。実家の押し入れのダンボール箱には、そんな端切れが詰まっていた。走り書きは、あとでパソコンに打ち直す。

 エッセイの題材に詰まった時は、そんな端切れを引っ張り出し、眺めている。

「ことの重大さ×曖昧さ=不安」

「悲しみも不条理も、すべての出来事を受け入れ、それでも前へと歩む」

「本当の格好良さや美しさって、全力で生きる、その生きざまに現れる」

 こんな切れ端が、新たな創作の糸口になる。どうしても書かずにはいられない、そんなもう一人の自分が、自分の中にいる。

「幸福は、一緒に喜んでくれる人がいると、いっそうの輝きを増す。だが、そんな幸せも、長くは続かない。幸福の背後には、同じ大きさの反動が潜んでいる」

 身をもって体験してきた負の反動は、激しすぎる荒波だった。「禍福は糾(あざな)える縄の如し」、そんな言葉にだまって頷(うなず)く。

 元妻が精神疾患を発症したとき、彼女は二十九歳で、私は三十八歳、娘は小学二年生だった。彼女の病名は境界性人格障害、重篤なうつ病(双極性障害Ⅱ型)を伴っていた。様々な妄想が出てきた中で、とりわけ厄介だったのは「嫉妬妄想」であった。私に女がいると確信した彼女は、包丁を持ち出し、

「わかっているんだよ。ほら、白状しろ!」

 と迫ってくる。連夜にわたる暴力の時期もあった。それらの症状を一つずつ薬で抑え込んでいく。それは、まさにモグラ叩きのようなものだった。そんなことを何年も続けていると、薬が効かなくなる。そこでワンクール七、八回の電気痙攣(けいれん)療法を行う。頭に電極を当て、通電するのだ。全身麻酔で一か月以上の入院治療になる。そんなことを二度行っていた。

 十二年半にわたる闘病生活の中で、十二回の自殺未遂があった。そのたびに救急車を呼び、運んでもらう。最後には、病院で知り合った病気仲間の男性のもとへ走ってしまった。あっけない幕切れだった。彼女が出ていくのを察知していた私は、脇を緩めて逃げ道を開けた。もはや娘も諦めていた。

「ねえ、結婚したい人がいるんだけど、どうしたらいい?」

 彼女から何度か相談を持ちかけられていた。

「ボクは、お父さんじゃないんだから。相談する相手が違うよ」

「同じ病同士でどうするの……」

 私は五十歳、娘は二十歳になっていた。

 そんな生活の中で、私は書くことを始めた。四十歳になっていた。書かなければ、こちらの方が先にダメになってしまう。強い危機感を覚えた。それまで書いてきたものといえば、仕事上でのいわゆるビジネス文章だけだった。これが私のエッセイを書くきっかけである。若いころから文学が好きで、興味があったというものではなかった。自分を守る唯一の手段が、書くことだった。

 私の場合、一作品を書きあげるのに、信じ難いほどの時間を要している。私が書いているのは、原稿用紙で五枚から七、八枚の作品である。何十枚という長編を書いているわけではない。私の根本には、いまだに〝書くことが苦手〟があるのだ。時間をかけることで、それを克服している。

 書いては削り、削ってはつけ足して。そんなことを何度も繰り返しているうちに、何が何だかわからなくなる。そうなったときは、いったん、書くことを打ち切り、放り投げる。すっかりほとぼりが覚めるまで知らないふりをし、別の作品を手掛ける。そんな中途半端な作品が、次第に溜まってくる。

 灰汁(あく)抜きの終わった作品を引っ張り出してきて、ふたたび捏(こ)ね回す。そしてまた放り投げる。真水に晒(さら)し、天日干しにし、何か月もかけてやっと形ができてくる。時間をかけると、それなりに熟成が進む。純度を増した作品は、味わいにコクが加わり、作品が自ら光を発するようになる。だが、そこまで到達できた作品がどれほどあったか。閉じられた自己満足の世界に浸(ひた)ってはいないか、常にそんな問いを投げかける。案外とすんなりできた作品は、後に読み返して〝青臭さ〟を覚える。要は、推敲(すいこう)不足なのだ。

 病気の妻がいなくなって、書く必要はなくなった。だが、それまで十年間書き続けてきたことは、単に身を守るという手段を突き抜けていた。いくつかの小さな文学賞をもらい、同人誌に所属し、プロの作家から文章指導も受けていた。書くことが常に身近にあり、それが生活の一部になっていた。自分の人生になっていたのだ。

 書けない人間が何かに突き動かされるように書こうとする。どうしても〝自分〟を描きたい。みっともない人生をさらけ出して生きていきたい。自分の中にそんな思いがあることを見つけていた。だから、二十年以上もジタバタしながら書いている。

 生きていく傍らに書くことを置いてみる、それが私の生活になっている。書くことを人生の伴走者として、もう一人の自分と向き合っていこうと思っている。

 なんだか格好のいい言葉を並べているが、やっていることはたいしたことではない。ただ、黙々と机の上に置かれたパソコンに向かっているだけなのだ。

 

  2023年9月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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