こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break 別邸 ~ essence of essay ~

2000年、40歳を機にエッセイを書き始めました。2001年からは、北日本石油㈱のHPの片隅 Coffee Break Essay のコーナーで、順次発表させてもらっています。そんなエッセイが200作を超えました。そこで、時系列に並んでいる作品の中からランダムにチョイスし、改めてここに転載することにしました。題して「Coffee Break 別邸」。時間の堆積の中に紛れ込んでしまった作品をつまみ出し、虫干しをかねて少し新しい風を入れてやろうと思います。たあなたの琴線に触れる作品が見つかれば幸いです。

なお、加筆している作品もありますが、本文の内容は基本的に初出の時点です。また、文中の数詞は、縦書き仕様のままとなっています。

 二十八歳を特別な年齢と意識しだしたのは、いつのころからだろう。この年齢を超えると本格的な成熟した大人の領域に入っていく、だからそれまでに自分を確立し、それなりの人間になっていなければならない、そんなふうに思うようになっていた。自分で勝手に設定したそんな人生の到達点が、思わぬプレッシャーとなってオノレにのしかかってきた。天に向かって吐いたツバが、自らに降りかかってくるように。

 二十七歳で川崎にあった会社の独身寮を追い出された私は、アパートで独り暮らしを始めていた。一九八七年当時はバブル景気の真っただ中、自分の給料の許す範囲で住むことの可能なアパートを見つけることは至難の業だった。どんなに探しても「東京都」と名のつく所在の物件はなかった。ワンルームで六万円台の後半から七万円台、人をバカにしたような家賃のアパートしか見当たらない。山手線を何周したことだろう。結局、私が住めそうな場所は千葉や埼玉で、最寄り駅からそれなりの距離があり、会社のある日本橋までは一時間半前後の通勤を要するものばかりだった。そこで私はヤケクソになった。そして居直った。

 半年をかけて私が見つけ出したアパートは、四畳半風呂なし、トイレ共同という古い一軒家を改造したシェアハウスのようなところだった。自室の部屋のドアは襖にカギがついたもので、その気になれば簡単に蹴破ることができた。場所は杉並区和泉、山手線の内側ではないが、堂々たる東京都である。神田川が近くを流れる学生街だった。

 私の部屋は外階段を上がった二階にあった。そこには私のほかに三人の若者がいた。ミュージシャンを志して九州から出てきた二人と、同じく九州から上京してきた脚本家志望の青年だった。ミュージシャンは日曜日のたびに原宿の歩行者天国に繰り出し、路上ライブを行っていた。脚本家は毎朝、始発電車で築地市場に出かけていた。アルバイトで糊口を凌ぎながら、脚本の勉強をしていた。

 そんなアパートで、私は二十八歳の誕生日を迎えた。昼近くに目覚めて、布団の中でじっと天井を見つめていた。私の誕生日は一月十五日で、当時は固定された「成人の日」で祝日だった。

 天井の木目に雨漏りのようなシミの跡がある。そのシミをじっと眺めていた。寒くて布団から出られなかったのだ。そうしているとき、ふと奈良へいってみようか、という唐突な思いが浮かんだ。その年は、この日から三連休だった。なぜか京都ではなく奈良へいきたいと思った。

 布団から出た私は、三十分後にはアパートを飛び出していた。新幹線に飛び乗り、京都から奈良へ向かう電車に乗り換える。奈良を訪れるのは高校の修学旅行以来だった。土地勘はまったくない。学生時代を京都で過ごしていたのだが、奈良を訪ねたことは一度もなかった。昼過ぎに起き出すという怠惰な生活をしていたため、奈良へいくことができなかったのだ。

 JR奈良駅に着いたときには、すでにとっぷりと日が暮れ、土砂降りの雨が降り出していた。駅の観光案内で近くの安い宿を見つけ、なんとかそこへ潜り込んだ。その薄汚れたホテルには、カメラを手にしたオジサンの泊り客が大勢いた。その日は若草山の山焼きだったが、あいにくの雨で中止になっていた。

 そのころの私は、自分の誕生日が成人の日であることに嫌気がさしていた。派手に着飾った振袖姿の女の子たちが街に溢れ返る。猫も杓子も「大人の仲間入り」だといって浮足立っている、そんなザワついた雰囲気が嫌だった。そういうものから逃避したい、そんな思いが私を奈良へと向かわせた。何より、「二十八歳」に耐えられなかった。

 二日間にわたって、奈良市内から明日香村にかけての寺社を精力的に訪ね歩いた。春日大社のほかはすべてお寺で、東大寺、法隆寺、興福寺、唐招提寺、長谷寺、薬師寺、新薬師寺、秋篠寺、中宮寺と今でも思い出すことができる。ひたすら仏像の顔を見て歩いた。最後に飛鳥寺の飛鳥大仏に向き合ったとき、得もいえぬ懐かしさを覚えた。この仏像に初めて対面したのは高校二年の修学旅行、十六歳の冬だった。そういう意味での懐かしさと、それとはまた別の感慨があった。それがどういうものなのか、言葉では表しがたい思いだった。

 明日香村ではレンタサイクルを利用し、明日香路を走りに走った。そして最後に向かった先が、甘樫丘(あまかしのおか)だった。この丘の麓には、かつて蘇我蝦夷(そがのえみし)、入鹿(いるか)親子の邸宅があったとされる。大化の改新(西暦六四五年)以前の話である。ここにはとんでもない時間の堆積があった。

 夕暮れが迫るなか、走るような勢いで甘樫丘に駆け上がった。眼前に広がる風景は、かつての日本の首都、藤原京である。その田園風景の中に往時の面影を探る。とんでもない想像力が試され、空想力と妄想力を総動員するが、国政の中心地であったというかつての映像には結びつかなかった。暮れなずむ大和三山を遠望しながら、しばし時間の堆積の中に身を浸す。当時の私は万葉歌に魅せられていたこともあり、甘樫丘に立って明日香風に吹かれていることに至福の喜びを覚えていた。

 これ以降、私は二十八歳で年齢を止めた。いつまでも二十八歳でいようと思った。だから年齢を訊かれると、まずは二十八歳と答えていた。そんな思いを失ったのは、五十歳を過ぎた当たりだろうか。気がつくと、フェイドアウトするように、二十八歳が霧の中に消失していた。

 大成した人間にはなれなかった。そして、いつの間にか二十八歳の呪縛から解き放たれていた。そんなことは、もうどうでもよくなっていたのだ。それはつまり、私が年をとったということを意味していた。

 

 令和元年十月 

 

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「東京にいると、芸能人を見る機会って、多いんじゃない?」

 そんなことをよくいわれた。内心、そうでもないんだがなと思いながらも、曖昧に答えていた。確かに、「テレビで見る人」を街中で見かけることはある。「あ、あの人だ」と思うのも一瞬のことで、あっという間に人波に紛れてしまう。だが、そんな遭遇にも例外があった。

 以前に、元アイドル男性のDNA鑑定騒動が世間を賑わせたことがあった。前妻との子の鑑定結果が、父子確率〇パーセントだったという。男性が涙を流しながらインタビューを受けるシーンが、ウンザリするほどテレビに映し出されていた。二〇一七年のことである。たいして興味がないから真剣に観ていたわけではないが、その男性の顔が気になった。どこかで見たような気がしたからだ。

 しばらく後になって、その男性は元光GENJIのメンバーの一人であることがわかった。彼の若いころの顔がネットに出てきて、喉のつかえが取れたのである。私は光GENJIについては何の知識もない。ガヤガヤ歌っているな、くらいにしか思っていなかった。ただ、この男性の日本人離れした顔は、印象に残っていた。私は彼に、一度だけ会ったことがある。新幹線で相席になったのだ。

 

 独身のころ、私は半年に一度くらいの割合で、東京と京都の間をいききしていた。一九八八年のある日、私は京都からの帰りの新幹線に乗っていた。何月だったかは覚えていないが、寒くもなく暑くもない季節だった。

 東海道新幹線ひかり号の京都から東京までの停車駅は、京都、名古屋、新横浜そして終点東京で、約二時間四〇分の所要時間である。その日は、自由席が満席だったので、指定席に座っていた。日曜日の午後八時過ぎの列車だったので、新幹線としては最終に近いものだった。指定席の車両はガラガラで、私は三人掛けの椅子を回転させて六席にし、前の席に足を投げ出してのんびりと本を読んでいた。もうこんな時間なので、名古屋から乗ってくる人はいないだろうと高をくくっていたのだ。

 列車が名古屋に到着したときのことだった。駅のホームが黒だかりの人でざわついていた。何事かと思っていると、私の車両の扉が開いたとたん、若い男女が怒濤のようになだれ込んできた。私の席は扉からわずかに三、四列目だった。一体何が起こっているのか、まったく把握できない。すると、スーツ姿の若い男が、

「一般のお客様がいらっしゃいます。入ってこないでください」

「お客様のご迷惑になります。戻って!」

 両手を広げ、ギャーギャー騒ぐ女の子たちを必死に押し戻そうとしている。キャーという女性の声と怒声が入り乱れ、列車内がアリの巣を蹴散らしたように騒然となっていた。どれがマネージャーで、どれが有名人なのか私にはさっぱりわからない。そうこうしているうちに、列車が動き出してしまった。この女の子たちは、自動的に東京までいってしまう。明日は月曜日、折り返す新幹線などない時間帯である。押し戻された女の子たちがデッキに溢れ返っていた。

 静けさを取り戻した車内には、十人近い若者がいた。マネージャーが若者に座る席を指示している。私が独り占めしていた六人席には、五人の若者が座った。席を回転していたので、元に戻しますといって私は立ち上がった。すると、もしよければこのままでいいという。さらに隣の二人掛けの席も回転させ、私の並びの合計十席が向かい合わせの席となった。部外者は私一である。何とも気まずい。目の前のこいつらは、いったい何者だ? 子供のような少年もいる。

 端正な顔立ちからアイドルグループなのだろうということは想像できたが、見覚えのある顔がいない。そんな中、斜め左の若者が日本人離れした顔であるのに気がついた。もしかしたらこの若者たちは、ローラースケートを履いて滑りながら歌うあのグループではないか、そんなことが頭をかすめた。もちろん、グループ名などわからない。

 東京駅まで一緒かと思っていたら、列車が新横浜に到着するやいなや、彼らは蜘蛛の子を散らすような勢いで、降りてしまった。混乱する新横浜駅のホームを尻目に、新幹線は再び走り出した。私は名古屋から新横浜までの一時間半近く、彼らと気まずい時間を過ごしたのである。本に目を落としてはいたが、その内容はちっとも頭に入ってこなかった。彼らもまた私がいた手前、気軽な話ができなかったはずだ。彼らが何を話していたかは、まったく覚えていない。

 終点の東京駅に着くと、ホームは若い女性でごった返していた。彼女らは、新幹線の窓を覗きながら、ホームを右に左にせわしなく走り回っている。誰かが、

「やられた! シンヨコで降りてる」

 と叫んだ。

「シンヨコだ!」

 あちらこちらから、そういう声が上がった。彼らは東京駅で待ち受けているであろう彼女たちを想定し、一つ手前の新横浜駅で下車し、そこからタクシーで都内まで向かったのだ。

 携帯電話もない時代、彼女らはどうやって情報を共有し、連絡を取り合っていたのだろう。「追っかけ」の執念の凄まじさを見せつけられた思いがした。ある意味、怖かった。

 

 あれから三十年の歳月が流れ、涙する彼の面影に、当時のことを思い出したのである。

 今回、彼らのことをネットで調べてみると、次のように記されていた。

「光GENJIは、一九八七年六月に七人のメンバーでジャニーズ事務所からデビューしたアイドルグループである。八八年には『パラダイス銀河』で日本レコード大賞を受賞。同年のオリコン年間シングル売上の第一位から三位までを独占し、七八年のピンクレディー以来の快挙を達成。『最後のスーパーアイドル』と称された」

 私が彼らと遭遇したのが八八年だから、まさに彼らの絶頂期だったことになる。彼らの後ろで踊っていたのが、後のSMAPだということを知った。しかも長い年月の中で、私は彼らのことをベイ・シティ・ローラーズだと思っていた。ローラースケートに乗っていたから、ローラーズだ、と。かなりの重症である。

 当時、私は二十八歳だった。彼らは一九六八年から七三年生まれだというから、二十歳から十五歳だったことになる。あれだけの女の子に四六時中追い回されていたら、私なら発狂してしまうだろう。光GENJIじゃなくてよかったと、つくづく思ったのだった。

 

  令和元年九月 初出

 

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 今年、同級生の大半が還暦を迎える。私は早生まれなので年を越してからだが、大差はない。みな、それぞれに感慨があるようで、さかんに「還暦」という言葉を耳にする。

 私たちが幼いころ、還暦といえばとんでもない年寄りだった。赤いチャンチャンコに赤い頭巾を被らされ、座布団にこぢんまりと座って孫たちに囲まれ写真に納まっている、そんなお祝いの画像が目に浮かぶ。そのころの六十歳の人たちは、全員が明治生まれだった。

 私が幼いころ、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が三種の神器といわれ、もちろんパソコンも電卓もない時代である。自宅に電話がある家も稀だった。五十年ちょっとでこれほど景色が変わるものなのかと、隔世の感に驚きを禁じ得ない。

 むかしと比べて今の六十歳は若くみえる。それは間違いない。だが、六十歳はやはり六十歳なのである。老眼が進み、年々忘却力が漲ってくる。男たちは頭が禿げ上がり、女は化粧を落とすと顔認証が危ぶまれるほど別人と化す。個人差はあるが、そう遠くない将来にはみな枯れてしまう。

「ねえ、〇〇クン、亡くなったんだってよ」

「えッ……」

「ガンだったみたい」

 すでに何人もの友達がポロポロと欠け落ちている。死んだヤツらは一体どこへいったんだ? 素朴な疑問が頭をかすめる。北海道の小さな漁師町で育ったがゆえ、たいがいの者たちは幼稚園から高校までを一緒に過ごしている。つまり我々はエスカレーター式の一貫教育を受けてきた。それだけに何十年会っていなくても、深いところで繋がっている。

 そんな私も昨年の秋、前立腺がんの疑いをかけられた。いきなり目の前に人生の期限をチラつかせられ、ギョッとした。ある日突然招待状が届く、そんな「お年頃」になってしまったのだ。カツオの一本釣りよろしく、選ばれた人から順次昇って逝くことになるのだろう。話が八十過ぎの年寄り調になってきたので、話頭を変える。

 私が北海道に戻ってきたのは二〇一一年の三月であるから、もう八年前のことになる。三十二年ぶりの北海道生活の再開である。幼なじみ夫婦が札幌でイタリアンレストランを営んでおり、久しぶりの対面となった。店に入って、

「おっ! あつほ、さとみ、久しぶりだな!」

 と声をかけたのだが、二人ともまじまじと私を見つめて怪訝(けげん)な顔をしている。ややあって、

「あの……失礼ですが、どちら様ですか?」

 申し訳ないという真顔で訊かれた。古いなじみ客とでも思ったようだ。

「オレだよ、オレ! ……」

 二人は穴が開くほど私の顔を見ていたが、とうとう私のことがわからなかった。やむなく名を明かすと、二人とも叫び声をあげて飛びついてきた。昨年、数人の同級生がこのお店に集まった。そのときも、誰一人として私のことがわからなかった。

「えっ? 誰だっけ?」

 互いに顔を見合わせ、首をひねっている。私の変貌ぶりは、並大抵のものではないようだ。単に頭髪が失せただけではなく、星霜を経て彫琢された私の風貌は、まるで別人の趣になってしまったのだ。簡単にいえば、経年劣化である。

 私は四十代の後半あたりから、実年齢より十歳ほど老けて見られるのが常態になっている。元来私は消化器系が弱いので、耐用年数の経過した水道管さながらに、内側の老朽化が表面に出てきているのだろうと勝手に了解している。

 このような私だが、五十六歳の秋に縁あって一人の女性と出会った。幼なじみのさとみから紹介されたのだ。エミは二歳下で、お互い一度はパートナーを持ったことがあり、それぞれに娘もいる。私には孫も。そんな私たちが、一緒に歩み始めて三年になる。歩んできた道程も、趣味も好みもまったく異なる二人だが、妙にウマが合う。なにより一緒にいて心地がいい。これからの人生を共に歩んでいこうと決めている。

 早く結婚しろよ、という声が聞こえる。それを誰よりも切実に受け止めているのは私たちである。若いころのように「好きだ、結婚しよう!」という単純な図式が成立しない。大人の事情というものがある。一緒に暮らすタイミングは、もう少し先のことになるだろう。

 なにせこちらは定年退職が目前である。ゴールのテープが、すでに手のとどくところにある。零細企業に身を寄せる者には、豊かな老後など待ってはいない。仕事を続けながら、質素に慎ましく生きていかねばならない。だが、あまりモタモタしてもいられない。握った指の間からどんどん砂が零れ落ちていく。手持ちの時間が刻々とすり抜けていくのだ。

 自分が年寄りになることは、うすうす気がついていた。だが、こんなに早く五十代が終わるとは思ってもいなかった。三十代になり、もう若くはないと中年を意識しつつ四十代を迎えた。四十代から五十代、そして六十代と倍、倍の体感速度で過ぎ去った。六十歳を超えたら、その加速はもう手に負えないという。

 年齢を重ねるごとに坂道がきつくなっている。上り坂の頂点に達したのはいつだったか。五十歳以降は、すでに下り坂だった。六十歳の坂道を二人で楽しく転げ落ちていければと思っている。

 やっぱり話が年寄り調になってしまった。

 

   令和元年八月

 

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 忘年会が終わり外へ出ると、さかんに雪が降っていた。師走のすすきのは、酔客でごった返している。道行く人の頭はみな真っ白だ。そんな中、自分の頭にだけ雪が積っていないことに気がついた。解けた雪が、しきりに頬を伝ってくる。私の頭は、ロードヒーティングと同じ状況になっていた。

 父方にも母方にも誰一人としてハゲはいない。年老いてもみな、これ見よがしに剛毛を生やしている。

「どうしてそういう頭になったわけ」

 と妹から非難めいた口調で言われるが、そういわれても困るのだ。

 私の頭は、額から頭頂部にかけ、便座型に禿げ上っている。チョンマゲのない侍である。

 髪の毛がなくて困ることは、ラーメンやカレーなどを食べたとき、汗がストレートに流れ落ちてくることだ。乱伐された山が保水力を失い、ちょっとした雨で鉄砲水が発生する、それと同じ原理だ。汗はかろうじて眉毛で受け止められるが、そんなものは砂防ダムと同じで、すぐに決壊する。

 なにより髪がなくて嫌なのは、実年齢よりも老けて見られることだ。八十四歳の母の車椅子を押しながら、スーパーの試食コーナーに差しかかると、決まって声をかけられる。

「ご主人もいかがですか」

 と。このクソババアと思いながら、爪楊枝の刺さったソーセージを受け取っている。頭にくることを「怒髪天を衝く」というが、肝心の髪がなければ、毛を逆立てて怒ることもできない。耳の遠い母は、ただニコニコしているだけである。

 カツラを被ってハゲを誤魔化そういう気は毛頭ない。そんなことをして、何が楽しい。 伸ばした髪をこめかみあたりから持ってきて、整髪料で頭に貼りつけている人を目にする。あれでハゲを隠しているつもりなのだろうが、頑張れば頑張るほど滑稽で、悲しい。

 不意の夕立や強いビル風に遭遇し、慌てて毛繕いをしている無惨な落ち武者をしばしば目にする。誰もが一瞥(いちべつ)を投げ、見てはいけない光景に足早に通り過ぎていく。

 男のハゲも女性のペチャパイも、それを自分の「個性」として正々堂々と生きればいいのだ。なにも恥ずかしいことはない。綿のいっぱい詰まったブラジャーをつけて、胸を大きく見せるのもいい。だが、ハゲを誤魔化す男と貧乳の女が親密な関係になり、次の段階に踏み込むとき、すべてはバレるのだ。

 病気などでやむなくそういうものを使っている人がいる。私がここで言いたいのは、そのようなケースではない。もって生まれた個性を、詐欺まがいに誤魔化そうとする性根が気に食わないのだ。

 最近、私の頭は、髪が少し伸びただけで病気の犬の様相を呈し始めた。やむなく丸刈りにしている。さすがに坊主頭には躊躇いがあった。大きなことを言ってきた割には、後ろ髪を引かれる思いがあったのだ。

   令和元年七月

 

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 「必死に生きる」という言い方があるが、字面(じづら)だけ眺めると変な言葉である。「必ず死ぬ」+「生きる」という正反対の言葉が連結して、「めちゃくちゃガンバって生きる」という意味になっている。「毒をもって毒を制す」的なヤツか? いや、それは違う。少しトンチンカンだ。

 私は平成二十七年(二〇一五)八月二十五日、五十五歳にして人生初の入院を経験している。自宅の近所で酒を飲んでいて、突然、小便が出なくなったのだ。実は、数日前から会陰部、つまり肛門のあたりがモゾモゾしており、イヤな痛みがあった。会社の同僚にそのことを話すと、

「コンドーさん、それは石ですよ。尿管結石だわ。ビールをガーッと飲んで出した方がいいっすね」

 そのアドバイスを真に受けた。ふだんたいして飲まないビールをたて続けに飲んだ結果、小便が緊急停止した。水道の蛇口のパッキンが非常ブレーキをかけたのだ。同僚は、数年に一度、石の粉砕治療を行っている尿管結石のスペシャリストだった。

 やむなく救急車で緊急搬送してもらい、結果的に「尿閉」と診断された。翌朝の医師の回診時に、

「若いのにね……」

 と言われた。それがどういう意味なのかわからなかった。検査では結石も確認されず、排出された形跡もない。原因がわからず、ただ「尿閉」なのである。

 前立腺とは、男性特有の生殖器である。それは直腸と恥骨の間に存在し、膀胱の出口で尿道を取り囲んでいるため、前立腺が肥大すると尿道が圧迫される。小便が止まった原因は、これだった。前立腺肥大の原因はよくわかっていないらしく、簡単に言うと、老化現象である。「若いのにね……」は、そういう意味だった。後日ネットで得た知識である。

 私の入院した病院は、札幌では老舗の泌尿器科専門の病院だったが、医師からはきちんとした説明が何もなかった。検査こそしたが、あそこに管を入れたまま四日間も過ごした。その間、私はずっと小説を読んで過ごしていた。結果的に症状は消えたのだが、自ら退院を申し出て、病院を変えた。

 二軒目の病院も泌尿器の単科で、大きな病院だった。最初の病院で出された平滑筋を緩める薬が引き続き出された。副作用がないから飲み続けろというのだ。そんなわけで三、四ヵ月に一度の割合でその薬をもらいに泌尿器科に通っている。

 いずれの病院も、外来患者のほとんどが男性である。中には女性もいるが九割はジイさんだ。人工透析患者もいるようだが、泌尿器科=前立腺肥大という図式があるようだ。ジイさん相手の細かい説明には根気がいる。どうせ説明したってたいして聞いていないし、理解できないだろう、泌尿器科医にはそんな諦念ムードが蔓延しているのではないか、というのが私の個人的な印象である。もちろんそんな医師ばかりではないだろうが、とにかく医者は忙しいのだ。この三年の間に、私は二軒の病院で計六名の医師とかかわった。だが、しっかりとした説明をしてくれたのは、たった一人だけだった。

 泌尿器科なので、年に一度、血液検査をしてくれる。前立腺がんの検査である。昨年七月、そこでがんの疑いがあると言われた。血液検査でPSAの数値(前立腺がんの腫瘍マーカー)が、前回の「3」から「4」に上がっているというのだ。血液検査をして、その結果を聞くのが次の外来である、つまり検査の三、四ヵ月後になる。

「今日、もう一度検査しますから。数値が上がっていたら連絡します」

 数値が「4」を超えるとがんの疑いがあるという。ネットにもそんな記載があった。

 周りによけいな心配をかけたくはない。誰にも話さず、電話を待った。きっとくるに違いない、覚悟は決めていた。何があろうとも従容(しょうよう)と受け入れよう。こういう時こそ武士らしくなければ、そう自分に言い聞かせた。だが、そうは思いながらも、油断をするとどす黒い感情が、胸に満ちてくる。振り払っても振り払っても、ベットリと纏(まと)わりついてくるのだ。

 その電話が一週間を過ぎ、二週間を過ぎてもこなかった。小さな安堵を覚えた。しかし、一ヵ月が過ぎたころ、万が一の不安が頭を擡(もた)げだした。私のどこかに、この病院の医師を信頼していない部分があったのだ。念のため、という思いで病院を訪ねた。八月下旬のことだった。

「先生、やっぱり結果が気になりまして……」

 カルテに目を落としていた五十代前半と思しき医師が、

「あ、これはマズイな」

 と言った。

「生体組織検査、必要ですね。検査入院になります。なかには、会社休めないって、麻酔かけないで日帰りでやっちゃうツワモノもいるんですがね」

 PSAの数値が、「4」から「9」に跳ね上がっていたのだ。

(きさまーッ、なぜ、電話をよこさなかった……)

 不自然に饒舌(じょうぜつ)になっている医師の胸ぐらをつかみたい感情が沸き上がった。(この一ヵ月、オレがどんな気持ちで過ごしてきたか……)

 ジタバタしてもどうにもならない。私は丁寧なあいさつを残し、診察室を辞去した。だが、私はすでにこの医師を斬り捨てていた。

 自宅に帰り着いてから泌尿器科外来に電話し、紹介状を依頼した。電話に対応したのは、診察室にいた看護師だった。二日後、紹介状を手にした私は、がん治療に特化した近所の病院へと向かった。私はこの時点で、初めてパートナーのエミに自分の状況を打ち明けた。エミとは毎日頻繁にメールのやり取りをしているので、ヘタな隠し事はすぐにバレる。

「……それで今まで黙ってたんだ。一人で抱え込んでね……」

 エミは半ば呆れ、憮然(ぶぜん)としながらも、懐の深い部分で受け入れてくれた。涙がこぼれるほど、嬉しかった。

「まず、MRI検査をして、疑わしい場合、生体組織検査をしましょう」

 早い方がいいでしょうから、ということで二日後に、MRI検査を実施した。

「画像を見る限り、がんの兆候は認められません。生体組織検査をして、確定診断までもっていきますか?」

 医師の歯切れが実にいい。

「いや、そこまでしなくても大丈夫です」

 現時点では入院検査までは必要ない、という医師の考えに私が同調し、笑顔で頷(うなず)きあった。三ヵ月後に再びPSA検査をし、その結果により生体組織検査を考えることになった。

 三ヵ月後の検査では、PSA値が「4」まで下がっていた。何らかの原因で前立腺が炎症を起こしたのではないか、消去法でたどり着いた最終的な結論だった。なぜ、PSAの数値が上昇するような炎症が起こったのかは、分からないという。血液検査の結果は、検査の一時間後には判明する、という手際の良さである。念のため、半年後にもう一度血液検査をすることになった。通常の外来ペースでの検査である。前の病院で処方されていた薬を確認していた医師が、

「この薬、必要ですか?」

 と訊いてきた。例の平滑筋を緩める薬である。飲めと言われたので飲んでいる旨を告げると、とりあえず半年分を処方された。その後、この薬はなくなった。前立腺の肥大はみられるが、現段階で特段の処置は必要ないという。

 これが五十八歳後半、平成三十年の夏から冬にかけての出来事だった。

 私もいつがんになってもおかしくはない、そんな「お年頃」を迎えている。いつの間に、こんなに歳をとってしまったのだろう。我ながら驚き、同時に愕然(がくぜん)とする。

 

 人は必ず死ぬ。でも、死ぬ直前まで一生懸命に生きようとする。「必死に生きる」とは、そういう意味である。今回、人生の期限を切られそうになって、改めてそんなことに気づかされた。

 

  令和元年六月 初出  令和元年八月 加筆

 

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 まだ土曜日が半ドンだったころの話である。それは私が二十五歳くらいのことだから、一九八五年前後ということになる。

 そのころの私は、仕事が終わってから都内の一流ホテルの喫茶ラウンジで、コーヒーを飲みながらよく読書をしていた。帝国ホテル、ホテルオークラ、赤坂プリンス、パレスホテル……田舎者の私にとって、それがひとつのマイブームとなっていた。

 そんなある日、ホテルニューオータニでのことだった。私は四人掛けのソファー席で、いつものように本を読んでいた。しばらくすると、

「相席させてもらってもよろしいでしょうか」

 というスーツ姿の男性から声をかけられた。相手はとても恐縮している様子だった。私は本から顔を上げ、快く頷き、そのまままた本に目を落とした。

 男性二人が私の向かいに、連れの女性が私の横の席に座る気配がした。男性が三人連れであることに、そのとき初めて気がついた。広い喫茶室であったが、満席だったのだ。私は夢中になって小説を読みふけっていた。何を読んでいたのかは覚えていない。

 三人は私に気を遣いながら、テーブルの上に書類を広げ、何やら打ち合わせを始めた。顔を突き合わせるように、コソコソとしゃべっている。しばらくすると、それがレコードジャケットの打ち合わせであることがわかった。同時に、向かいの男性が発した「テレサ」という言葉が耳に残った。

 その「テレサ」をもう一度耳にしたとき、それが私の隣りの女性に向かって発せられた言葉であることに気がついた。私はそっと本から目を離し、隣の女性をチラリと見て、心臓が止まった。その横顔は、まぎれもなく、あのテレサ・テンだったのだ。

 私はサッと荷物をまとめ、「失礼しました」と一礼をして、席を立った。そんな私に、

「ゴメなさい」

 と言って投げかけてきた彼女の笑顔は、今も私の中に残っている。

 あの打ち合わせは、彼女のどの曲のレコードジャケットだったのだろうか。そのころの彼女のレコードの発売を調べてみると、次のようになっていた。

 八四年「つぐない」、八五年「愛人」、八六年「時の流れに身をまかせ」……この三曲だけで五〇〇万枚を売り上げ、メジャーな音楽賞を総なめにし、紅白の連続出場を果たしている。さらに八六年には、米タイムス紙による世界七大女性歌手の一人に選ばれていた。

 発売時期からすると、「愛人」か「時の流れに……」が怪しいのだが、今となってはなんとも言えない。恐らく超多忙な彼女のスケジュールの間隙(かんげき)を縫って行われた、打ち合わせの一つだったのだろう。

 九五年、彼女は静養先のタイのホテルで、気管支炎喘息の発作が原因で亡くなっている。四十二歳という若さだった。彼女と同席したのは、亡くなる十年前ということになる。

   令和元年五月

 

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 まさか自分がハゲるとは、思ってもいなかった。父方、母方を見回してもハゲている者は一人もいない。父はもちろん、おじもいとこも祖父たちですら。だから、私も年老いたら白髪のオジサンになるものだと思っていた。

「内面を磨くと、内側から光り輝くものだ」と常々言っていたのは中学の校長だった。校長の話は長く、朝礼ではいつも、四、五人の生徒が勢いよく倒れていた。私の場合、内面を磨く前に、外側が光り出した。

 もともと私の髪質は細く、若いころからかなりの短髪にしないと髪の毛が立たなかった。静電気で総立ちになったような友人の剛毛を見て、バカにしてよく笑ったものだった。

 ところが四十代あたりから、私の頭髪にハゲの兆候が現れ始めた。それに敏感に反応したのが、中学生の娘だった。私がハゲたら恥ずかしくて一緒に歩けない、彼女にはそんな強い危機感があった。だから、執拗に頭皮のケアについて口を挟んできた。だが、すべては徒労に終わった。というか、私は一切の努力をしなかった。それどころか、ハゲるものならハゲてみろ、白日の下に晒しながら堂々とハゲてやる! そんなトンチンカンな気概があった。要は、努力をする気が端(はな)からなかったのだ。娘には悪いことをしたと思うが、努力をしてハゲが防止できたかとなると、はなはだ疑問である。

 私のハゲの進捗(しんちょく)状況は、床屋での注文の変遷でわかる。

「全体的に短めでお願いします。周りはバリカンで刈り上げてください」というのが長年の定番だった。それが五十歳を過ぎたあたりから、変化し始めた。頭頂部のハゲが尋常ではなくなってきたのだ。少しでも髪が伸びてくると、治りかけの傷口のように周りのヘリが盛り上がってくる。馬蹄形というか、洋式トイレの便座の形が出現するのだ。さらに伸びると、敗走する落ち武者の姿が想像できた。そんな醜態(しゅうたい)は晒したくない。

 やむなく、前述のセリフに加え「ここの部分を短くしてください」と頭頂部のヘリをU字になぞって見せる。すると決まって、「はい、カド、削っておきますね」と返ってくる。どの店員からも同じことを言われた。「カド(角)?……かよ」と思いながらも、それからは「カドを削ってください」が常套句(じょうとうく)となった。

 だが、多少カドを削っても、すぐにヘリがせり上がってくる。まるで噴火口のカルデラである。たまらず、もっと短く削るようにお願いしたら、

「お客様、それではスポーツ刈りですね」と言われた。以来、よけいなことは一切言わず、「スポーツ刈りでお願いします」とひとこと言って、目をつぶった。

 ところが、スポーツ刈りだと、すぐに髪が伸びてきて病気の犬の様相を帯びてくる。そこで、もう少し全体を短くするようにと頼むと、「丸刈りですね。何ミリにしましょう」といわれた。今では「(バリカン)三ミリの丸刈りで」に落着している。以上が、この八年間の変遷である。こうなってくると、バリカンを購入して自分で処理するという構図が見えてくる。いよいよ床屋の卒業が現実味を帯びてきた。そんな「お年頃」になってきたのだ。

「ケンさんは偉いよね、ハゲのこと言われても平気なんだもの。逆に笑いに変えちゃうんだからね」

 と、親しいお友達は褒めてくれる。「ハゲマシ(励まし)」という言葉が脳裏をかすめる。それを口に出してしまうと、安っぽいギャグ野郎だなと思われるので、グッと堪える。

 隠したってハゲはバレる。不思議なもので、隠せば隠すほど目立つのがハゲなのだ。わかっていないのは、当の本人だけである。そんな滑稽な努力をしているオジサンの姿は、健気であり悲哀に満ちている。その歳でハゲを隠して、あわよくば女性を誘惑しようという魂胆なのか。モテたいと思うのは男の悲しい性である。

 髪の毛はあるに越したことはない。なにより若く見える。カッコいい。イカした男には毛がある。スキンヘッドでは、せいぜいマジックでいたずら書きをするのが関の山、揶揄嘲笑(やゆちょうしょう)の対象になるだけだ。だから笑われる前にこちらから笑いを仕掛ける。

 これまで述べてきたこととは矛盾するが、実は私もハゲを隠しているのである。髪を伸ばしてハゲを隠すのではなく、髪を短くしてハゲを隠す方を選んだのだ。逆転の発想である。つまり保護色というか、迷彩によって敵の目を欺くカモフラージュが、「丸刈り」なのだ。それが私の最後にたどり着いた到達点である。毒を以て毒を制す(?)、という戦法だ。ズラを被って澄ました顔をしているヤツは見苦しい。もっとも、病気などによりやむなく被っている人は別だ。

「かっこ悪いから、ボウズにしなよ」

 三ミリの丸刈りを促したのは、エミだった。ことあるごとに私に諦めを迫ってきた。私とつき合いだしたころ、

「その頭、死んだジッちゃんと同じだわ」

 といってカラカラと笑った。そんな彼女に背中を押され、丸刈りに臨んだのである。だが、後ろ髪を引かれる思いは否めなかった。

 

  平成三十一年四月

 

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 (三)

 スマホが使用不能になってすぐに、NTTが公衆電話を無料開放した。公衆電話が唯一の通信手段となった。幸いにも自宅近くに公衆電話があったのだが、電話を待つ長い列ができていた。昭和の光景を彷彿(ほうふつ)とさせた。

 私の車は、ガソリンを満タンに給油したばかりだった。スマホの充電は車から行うことができた。情報は車のテレビから入手できた。だが、四六時中車の中にいるわけにもいかなかった。

 私の場合、自宅も会社も停電にはなったが、断水は免れていた。母やエミのマンションも水道が使えたのが幸いだった。だが、携帯電話が使えないのは、決定的な痛手だった。

 私との連絡が不通になったため、その日の夜、心配したエミが私の様子を見に来た。彼女は、ラジオ付懐中電灯とLEDのロウソクを持ってきた。コンビニやスーパーの棚という棚がガランとしてもぬけの殻となっていたので、大いに助かった。

 エミは、信号機のない七キロの夜道を車で来たのだ。街中が灯りを失って、懐中電灯がなければ外出できないほどの漆黒の闇に包まれていた。帰りに、エミを駐車場まで送っていく途中で見上げた空に、満天の星が瞬いていた。それは幼いころふるさと様似(さまに)でよく目にしていた夜空と同じものだった。天の川が天球を横断する、まさに満天の星月夜(ほしづくよ)であった。街の灯が消えると、宇宙が出現する。宇宙は遠い存在ではなく、見上げたすぐ頭上にあることを垣間見させてくれた。

 会社は二日間、まったく機能を停止した。必要な社員だけを出社させ、あとは自宅待機とした。出社していた社員も、日没とともに自宅に帰った。

 二日目の夜、私は満を持して母と妹のいるマンションへと向かった。マンションは街中にあり、私のところからは十キロほどの距離である。札幌は北の果ての地方都市とはいえ、名古屋に次ぐ一九六万人の人口を擁している。中心部は整然とした碁盤の目になっているので、それだけ交差点がある。警察官のいる交差点は、ほんのごく一部だ。信号のない交差点は譲り合いながら走る。まったく自発的に譲り合うのだが、誰かが交通整理でもしているかのように、何台おきかに車が停止し、また動き出す、そんな動作が繰り返されていた。その光景に少なからぬ感動を覚えた。日本人でよかったと思った。左右をよく見て慎重に運転していく。気の抜けない運転に、ハンドルを握る手が汗で滑った。

 コンビニやスーパー、ホームセンター、家電量販店からは、もののみごとに商品が消えた。食料品などはきれいさっぱり一切なく、乾電池やロウソク、ラジオなどの防災用品も跡形もない。無機質な棚だけがズラリと並ぶ光景は、不気味だった。群集心理とは恐ろしいもので、すべてを食い尽くすイナゴの大群である。必要のないものまで買い尽くす、そんな勢いを感じた。

 多くの家庭は、水道とプロパンガスが使えたので、冷蔵庫に入っているものを片っ端から調理したはずである。私も食材をダメにしないよう、大量の野菜炒めを作った。

 スーパーの出口で立ち話をする六十代くらいの男性の姿があった。

「うちはさ、十五、六年前にオール電化にしたもんだから。最初はよかったのさ。それで、あの震災(東日本大震災)だもの、電気代も高くなったべさ。そしてこの停電だ……。まったくアウトだぁー」

「うちは、プロパン(ガス)だからいんだけどさ。女房がカカア殿下だべさ。どっちがいいもんだかね」

 そんなのどかな掛け合いに心が和んだ。オール電化のほうがカカア殿下でなくてよかったなと思った。停電が解消されたのは、それから間もなくのことであった。

 電気が通ると、何事もなかったように、すべてが動き出した。だが、お店の棚に以前のように商品が並んだのは、それから一週間ほど後のことであった。

 

 近年の地震では、平成二十八年(二〇一六)四月に起こった熊本地震が、大きなインパクトとして記憶に残っている。その後、鳥取県中部や大阪府北部など、震度六弱以上の地震が今回を含めて、七回も発生している。半年に一度のペースだ。日本がいかに地震大国であるかがわかる。

 今後、巨大地震が懸念されているのが、釧路・根室沖の千島海溝を震源とする北海道東部地震である。津波による甚大な被害が予想されている。だが、最も憂慮すべき地震は、静岡から九州沖合にかけての南海トラフ地震だろう。

 これから三十年以内にマグニチュード八~九クラスの地震が発生する確率は、七〇~八〇パーセントだという。しかも、過去の実績から、東海、東南海、南海と三連動型地震につながる可能性があるというのだ。「今後三十年以内に」というフレーズは、三十年以上前から言われていないだろうか。

 もし、この地震が現実のものとなったら、その被害は計り知れないものとなる。北海道は遠く離れているから大丈夫、という単純な問題ではない。多くのお友達が亡くなり、会社も本社機能を失い、存続ができないだろう。まさに国難であり、国家存亡の危機が出来(しゅったい)する。

 今のところ政府も「正しく恐れよ」としか言いようがないのである。いよいよ次なのか、という恐怖心が沸々と沸き起こってくる。だが、日本各地では、原発の再稼動がソロリソロリと始まっている。加えて被災予定地では、国家プロジェクトであるオリンピックや万博までもが予定されている。それどころではないように思うのだが。心配のし過ぎだろうか。(了)

 

  平成三十一年三月

 

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 (二)

 今回の北海道胆振東部地震による死者は四十一人、負傷者は六九一人に上った。ただ、その被災地区は限定的だった。もし、今回の地震が海底で起こっていたら、あと二ヵ月遅く発生していたら、そう考えるとゾッとした。

 家族を亡くし、家を失った人の気持ちは察するにあまりある。年老いた両親が自宅もろとも生き埋めとなり、その救出作業を遠くから見守る兄弟の姿がテレビにあった。二人は、大きな声で必死に呼びかけている。その悲痛な叫びに涙があふれた。それはいつ自分の身に降りかかってきてもおかしくないことであった。四十一人の死者は、自然災害の死者数としては多くはない。大災害とはいいがたい数字である。だが、当事者にしてみれば、最愛の家族の中からたった一人の死者が出ただけでも、それは人生を狂わせるほどの大きなダメージになる。死者数の本質とは、そういうものなのだ。

 今回の地震で、津波がなかったこと、そして何より冬の地震ではなかったことが、本当によかった。もし、北海道全域にわたるブラックアウトが真冬に発生していたら、と想像しただけで凍りつく。それは絶対に起きてはならないことだった。

 氷点下二十度では、暖房なしでは過ごせない。トイレや洗い物用としてバケツに汲んだ水も、液体として存在できるのはほんのわずかな時間だけである。私が幼いころは、住宅の寒冷地仕様がまだお粗末だった。寝るときは毛糸の帽子を被らなければ、頭が寒くて目が覚めた。そして、凍らせてはならないものは冷蔵庫に入れた。旭川の友人は、縁日で掬った金魚を寝る前には冷蔵庫に入れていたと言っていた。氷点下二桁での停電は、命に直結する。

 私が購入していたラジオ付懐中電灯は、最後に使ってから六年間、棚の上に放置されていた。今回、その懐中電灯はまったく役に立たなかった。中の電池が劣化して白い粉を吹いていた。手動の発電レバーを回してみたが、電灯が灯る気配はまったくなかった。スマホに登録しているラジコは、貴重なスマホのバッテリーを惜しげもなく食い尽くした。災害時には不向きであることがわかった。頼りになるのは、やはりラジオである。

 電気が止まると、何もかもが停止する。冷蔵庫が止まる。断水にはなっていないが、水が出ない。上階へ水を汲み上げるポンプが動かないからだ。そうなるとトイレが使えなくなる。当然、ウォシュレットもダメだ。風呂にも入れないし、顔も洗えない。ストーブがつかない。固定電話が使えない。パソコンもダメだ。スマホだって充電ができなくなる。ガソリンスタンドも給油ができない。ありとあらゆるものが停止する。

 スマホのバッテリー残量を温存するため、スマホの使用を最小限に控える。ラインやメッセンジャー、ショートメールがひっきりなしに届く。本州にいる多くの友人が、安否を気遣ってくれている。携帯電話のバッテリーがなくなるのは、室蘭・登別の大停電で経験していた。だから、返信は極力短く、必要最小限にした。だが、そのスマホが突然、作動しなくなった。ネットにつながらないばかりか、通話もできないのだ。見ると三本のアンテナが消えていた。非常電源で動いていた携帯電話の基地局の電源が、タイムアウトになったのだ。万事休す! 外部との連絡手段が遮断された。その瞬間から、スマホが不必要に重たい金属の塊となってしまった。

 実は、この数時間前に「拡散希望」と題するラインが知り合いから転送されてきていた。その内容は次のとおりである。

 

「NTTの方からの情報です。

 只今、道内全域で停電しているため、電波塔にも電気がない状況なので、携帯電話もあと四時間程度したら使えなくなる可能性が出てきたそうです。なるべく一人で行動せず、家族や仲間、友人などと共に複数で安全な場所に避難してください。

 追加情報です。札幌市の断水についての情報が入りました。今から六時間後だそうです。札幌は確定しています。復旧は二、三日かかる予定です。現在、対策本部も情報を集めています。自衛隊本部からの断水指示が出ています。江別市は断水しているみたいです」

 

 疑心暗鬼の中、本当にスマホが使用不能になった。デマがまことしやかに真実味を帯びてきた。断水も間違いないのではないか、という思いが頭をもたげ始めていた。その後、札幌市水道局が盛んに断水を否定する情報を流し始めた。

 そんななか、また別のラインが入ってきた。

 

「厚真(あつま)(大規模な山崩れがあった震源地)にいる自衛隊の方からの今来た情報です。地響きが鳴っているそうなので、大きな地震が来る可能性が高いようです。推定時刻五~六時間後とのことです! 早めに入浴、家事、炊事を済ませてください! との情報が入りました。備えあれば憂いなし! です!」

 

 これは、明らかなデマだとわかった。だが、私の周りでは真に受けている人が少なからずいた。スーパーやコンビニからモノがなくなった元凶は、これらの情報が寄与したことは否めない。デマだとわかっていても「買っておいたことに越したことはない」という心理が働いたのだ。

 この「○○の方」からの情報は、ラインを通じて瞬く間に人々のスマホに伝播した。そしてこれを打ち消す情報との情報合戦が始まったのである。(つづく)

 

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 (一)

 深い眠りの中で、揺れが来た。「地震だ」と遠いところで思いながら、なおも睡眠を継続しようとしている自分がいた。夜中の地震は、そんなふうにしていつもやり過ごしてきた。ところが、その揺れが急激に大きくなり、尋常ではないと思った瞬間、跳ね起きた。

 ベッドを飛び出した私は、寝室から居間へ出ようとした。室内の景色が歪んでいる。音が凄まじい。その揺れは、荒天の津軽海峡の最も激しい動揺地点、青森と函館の中間地点を連絡船が通過するときの、あのひどい揺れを思わせた。何かにつかまっていなければ、立っていられない。朦朧とした意識、激しい揺れと凄まじい音に圧倒されながら、とんでもないことが起こっている、と感じていた。

 だが、その揺れは意外にもすぐに収まった。時計を見る。午前三時を回っていた。電気がつかない。すぐに妹に電話を入れる。妹は老齢な母と一緒に暮らしていた。ダメだろうと思っていた電話が繋がり、二人の無事が確認できた。妹と母は札幌のマンションの九階にいる。揺れの激しさは、三階の私とは比べものにはならないはずだ。

 次にエミにメールを入れる。後日、スマホの記録を見ると、三時十一分とあった。エミはマンションの十階だ。彼女とは、生活を共にはしていないが、私の大切なパートナーである。

(私)三時十一分「だいじょうぶ?」 十八分「こっちは停電」

(エミ)十八分「なんとか」「停電??」「お母さん達は?」

(私)二十分「だいじょうぶ」「震源どこ?」「TVもラジオもダメなんだ」

(エミ)二十四分「胆振(いぶり)地方中東部だって」

(私)二十四分「えッ! 海じゃないの? じゃ、津波はだいじょうぶだね」

(エミ)二十五分「だいじょうぶだって」「あ、こっちも停電になった!」

(私)三十八分「まだ水、出るなら、浴槽に溜めて! トイレ用に」

(エミ)三十九分「わかった」「あら、出ないっぽい。ちょろちょろ」「ダメだわ」

 

 平成三十年九月六日午前三時七分、北海道胆振東部地震の規模はM六・七、最大震度は七を記録した。震度七は想像に難い。私のいる札幌は、震度六弱から五弱の範囲で、被害は局地的に留まった。だが、我が家からそれほど離れていない場所で、ひどい液状化現象が起こり、多くの人が家を失った。また、震源域に近い場所では、大規模な山崩れが発生し、この地震での最大規模の犠牲者を出している。また、この地震で特筆すべきことは、北海道全域で停電が発生したことだった。

 私はすぐに着替えて会社へと向かった。会社までは三キロほどの距離である。信号が消えていたので幹線道路を通らずに、住宅街を縫うようにして会社へと向かった。早朝だというのに、行きかう車の数が多い。職場へ向かう人や、離れて住む家族のもとに駆け付ける人なのだろう。真っ暗な中、灯の消えたコンビニの入り口には、幾人かの人の気配があった。

 午前四時過ぎ、会社へ到着。すでに数名の社員が出社していた。ガス会社なので宿直もいる。敷地内にあるプロパンガスの充填所では、倒れたボンベ五十本ほどが散乱していた。まずはそれを片付ける。事務所へ行ってみると、ほとんどの机の引き出しが飛び出していた。倒れているパソコンもあった。あとは、給湯室の食器が割れて散乱していたくらいで、とりわけ大きな被害はなかった。

 問題は、翌日の夕方まで続いた停電だった。会社にはガスの自家発電機があったので、パソコン一台と電話一台をそれで賄った。しかし、これだけではまったく仕事にはならない。ただ、黙って机の前に座っているしか術がなかった。不測の事態に備え、待機しているだけの状態だった。

 私は、平成二十三(二〇一一)年三月の異動で、東京から北海道に戻ってきた。最初の赴任地が室蘭市だったこともあり、生活用品を買いそろえる際に、ラジオ付懐中電灯も購入していた。

 北海道の太平洋岸は、地震の巣窟である。月に一度は有感地震がある。私は、ふるさと様似(さまに)で、昭和四十三年(一九六八)の十勝沖地震(M八・二)と、昭和五十七年(一九八二)の浦河沖地震(M七・一)を経験している。前者は小学三年生のとき、後者は大学四回生になる春休みで帰省している最中のことだった。それは天地がひっくり返るほどの大地震であった。一帯は泥炭地であるため、その揺れは公式の揺れを大きく上回っていた。

 そんな経験もあり、ラジオ付懐中電灯を購入したのである。ラジオがいかに大切かは、身をもって体験していた。東日本大震災(M九・〇)は、その十一日後に起こった。早々に懐中電灯の出番が来たことに、ゾッとした。幸い室蘭市は一メートルの津波が押し寄せただけで、とりわけ大きな被害には至らなかった。

 その翌年の冬には、登別・室蘭の大停電にも遭遇している。猛吹雪で高圧電線の鉄塔が倒れたのだ。氷点下の気温の中、暖房のない室内で一夜を過ごした。可能なものはすべて着込んだ。重ね着は五枚だったが、それでも身の危険を感じるほどの寒さだった。このときもラジオ付懐中電灯は絶大なる威力を発揮した。

 そして今回の地震である。ラジオ付懐中電灯を購入してから七年半、三度目の「非常時」に遭遇することになった。(つづく)

 

  平成三十一年一月

 

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