こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break 別邸 ~ essence of essay ~

2000年、40歳を機にエッセイを書き始めました。2001年からは、北日本石油㈱のHPの片隅 Coffee Break Essay のコーナーで、順次発表させてもらっています。そんなエッセイが200作を超えました。そこで、時系列に並んでいる作品の中からランダムにチョイスし、改めてここに転載することにしました。題して「Coffee Break 別邸」。時間の堆積の中に紛れ込んでしまった作品をつまみ出し、虫干しをかねて少し新しい風を入れてやろうと思います。たあなたの琴線に触れる作品が見つかれば幸いです。

なお、加筆している作品もありますが、本文の内容は基本的に初出の時点です。また、文中の数詞は、縦書き仕様のままとなっています。

 ウイスキーのボトルを眺めている。「まだ、半分ある」と思うか、「もう、半分しかない」と考えるか。

「大変、もう半分も飲んでしまった。どうしよう……」これが、私だ。

 総じてものごとを楽観的に捉えられない。どんなときでも「どうしよう……」が枕詞のようにつきまとう。なにごとも悪い方向にしか思考回路が作動しないのだ。

「誕生日、おめでとう」

 と言われ、表向きは嬉しそうな素振りをみせる。だが、一方で「人生の残り時間が刻々と削られている。死へのカウントダウンだ。どうしよう……」と考えている。三十代の後半から、オレはもうすぐ死ぬんじゃないかと、常にビクついてきた。高校時代、帰省の列車の中で国鉄の幹部職員と相席になったことがあった。その人は、若いころ高名な漢学者の門下生となり、住み込み生活の中で姓名判断を学んだという。このままではあなたは四十代で命を落としかねない。名前に「一」を加え画数を増やせ、と言われた。以来数十年、私は「健一」と称していた。私が二十三歳の時、父が五十一歳で病死した。この二つの出来事が、ただでさえ情けない男をよけいにビビらせた。

 できれば、この性格を何とかしたい。だが、性格というものは実に堅牢な殻で鎧(よろ)われており、何が何でもビクともしない。自分で自分の性質に疲れ果てる。

 そんな私の対極にいるのが、相方のエミである。私とはまるで正反対で、違う物質でできているのではないかと思うほどだ。

 エミはクヨクヨしない。ウジウジもしない。もちろん、人並みに心配事は抱えている。平均以上かもしれない。だが、潔くバッサリと斬るのだ。負の回路を一定のところで遮断する。それ以上考えてもどうしようもないことは、いつまで悩んでいても埒(らち)が明かない。だから考えない。スカッとするほど単純明快だ。男らしい。だが本人、心配事と認識していない向きもある。悪く言えば「能天気」だ。かといって、深慮に欠けているわけではない。この点に関しては、私より数段優れている。

 煮え切らない不完全燃焼男と能天気な女がコンビを結成して四年がすぎた。石橋を叩いて渡る男が、力あまって石橋をたたき壊し、呆然(ぼうぜん)と行く手を眺めている。その男の背後で、天真爛漫な笑い声がする。そんな極端な二人だが、なんとなく互いに補完し合い、ゆるく噛(か)み合っている。いがみ合うこともないし、ケンカにもならない。

「しかたのねえヤロウだな」

 口には出さないが、互いにそう思っている。言葉とは裏腹にひそかに尊重しあっている部分もある。馬が合うのは、その辺の均衡が絶妙に保たれているからなのだろう。この歳になると、お互い大きなハンディを背負っている。二人とも二十年を超す夫婦生活を経験している。私は離別で彼女は死別だ。お互い娘を持つ。

 私たちは六十歳を挟んでプラス・マイナス一の年齢である。それゆえ若いころの恋愛とは違い、妥協の範囲がハンパではない。ハゲていようが、シワだらけだろうが、腹が飛び出ていたって、そういったものすべては、ストライクゾーンの範疇(はんちゅう)なのだ。眼も霞んでいるのだから、少しぼやけているくらいがちょうどいい。凄まじい寛容さだ。お金があればそれに越したことはないが、大切なのはやさしさだ。互いに思いやり、いたわりあう気持ちを持続できる関係であれば、それでいい。他人の幸せを羨まない。自分たちの幸せの形を見つけ出せばいいのだ。金がないことをごまかそうと、片っ端から拾い集めた理論をこれでもかと塗り固めていく。

 二〇二〇年一月、私は六十歳に到達し、定年退職を迎えた。引き続き嘱託で再雇用されている。そのまま辞めてしまう手もあった。だが、例のごとく将来への不安を払拭できず、ズルズルと留まっている。何歳で死ぬのかはっきりとわかれば、そこから逆算して計画を立てられるのだが……。相変わらず、アホな思考回路が作動している。再び石橋を叩き壊そうとしているのだ。冒険のできない、つまらない男である。

 さて、これからどうするかだ。いくら煮え切らない男とはいえ、いつまでも今の状況を続けているわけにもいかない。近い将来、どこかの時点でエミと生活を共にする。そのためには、クリアしなければならない課題がいくつかある。若いころのように、「好きだ、結婚しよう!」という安直な方程式は成立しない。

 とりあえず、年末ジャンボ宝くじは購入した。五億も十億も必要ない。だから「ミニ」の方にした。当たりくじも多い。連番十枚、バラ十枚と、緩急をつけた。大晦日、それがハズレてもショックを吸収できるよう、初夢宝くじも購入している。その辺はぬかりない。

「ケツの穴の小せぇヤロウだなぁ」

 そんな声が降ってくる。なんだかな……、やっぱり情けない男だよ、お前は。

 

 え? 宝くじ? もちろん両方ともカスリもしなかった。

 

  令和三年一月十五日 初出

 

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『肥後藩参百石 米良家』- 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜 -

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 選ばれる側、挑戦する立場から、選ぶ側に回ったのはいつのころだったろう。気がついたら選ぶ方にまわされていた、というのが正直なところである。

 所属している同人誌のエッセイ賞の選考に本格的に携わっている。以前にも下読みと言われる予備選考にかかわっていたことはあった。

 エッセイ賞などの文学賞の場合、多少の違いはあるが、だいたい似たような選考過程をたどる。全国各地から集まってきた原稿を何人かで手分けして読んで、評点の高い順から採(と)っていく。第三次または第四次選考が最終選考となり、最優秀賞、優秀賞、佳作が決まる。場合によっては、特別賞や奨励賞などを出すこともある。

 作業は単純である。いい作品とそうでない作品を選別していく。水揚げした鮭を瞬時に雄と雌に選り分けていく。または、ひよこの尻をみながら雌雄を選別していくのと作業的に大差はない。十数名で分担して千本ほどの作品にとりかかる。その中からまず百本程度を選び出す。

「悪い作品を採ることはあっても、秀作をとりこぼすことはない」

 どこかでそんな文章を読んだことがあるが、実際に携わってみると納得がいく。いろいろな人が様々な思いで書いてきたものである。万が一にも見落とすことは許されない。いい作品を採りこぼさないためには、複数人での選定が求められる。

 この百本からさらにもう一段絞り込んで二十本にする。二十本を選出する作業も、さほど難しいことではない。各自がいいなと思って選別した作品を数えてみると、だいたい二十作前後になっている。不思議なことだが、この数は大きくぶれることはない。応募作品が五百本だったころも、千本になってからも、一定の完成度の作品として選び出されるのは二十本なのである。

 問題は、選定した作品が十六本だったり二十五本になった場合、限りなく二十本に近づける作業を行う。この二十本が「入選作」になるからだ。この選別が難しいのだ。正直なところ、十六位と二十五位に大差はない。それでも読み比べて優劣をつけていく。応募者側の真剣さを思うと、こちらも生半可な気持ちでは臨めない。誰もが納得のできる優劣差を見つけ出していく。

 人にもよるが、私の場合は、作品を読みながら五段階評価で点数をつけている。五段階といっても、1はない。2もすでに篩(ふるい)にかけられているから、これもない。5は文句なしに次のステップへ上げる。問題は3と4である。3下、3、3上、4下、4、4上と細分化する。最終選考では、5も細分化する。選定の基準は、自分の感覚である。オノレの感性が問われる。

 選考に当たって難しいのは、この二十本前後の作品の選定と、そこから五本選び出した時のそれぞれのボーダーライン周辺の作品の選定である。実は、二十本の選定を行っている過程で、上位五本が先に決まってしまうことが往々にしてある。先頭集団は、すでに独走態勢に入っているのだ。この五本が最終選考に残る作品となる。ただ、ここでも六位の作品、七位の作品は納得のいく形を見つけて切り落とす。五位と六位が拮抗している場合は、六位までは採るが、七位は落とす。

 ここまで絞られてくると、作品の純度もそれ相応に増してくる。この作品を選外にしていいのか。自分の判断は間違っていないか。そんな葛藤が始まる。飛びぬけて秀逸な作品があれば、選考は簡単に終わってしまう。優劣のつけがたい作品が残った場合、これが厄介なのだ。

 客観的に見て、自分が選んだものは本当に優れた作品なのか。そもそもすぐれた作品とは何なのだ。自分に関心のあるものを無意識のうちに優先して選んではいないか。落とした作品の中に、いい作品を取りこぼしてはいないか。強迫観念に駆られ、いったん落とした作品群を慌てて掘り返す。

 AとBでは明らかにBが優れている。その優れた部分は、自ら光を放つまでに磨き込まれているか。自分の好み、自分の価値観に近いものを選んではいないか。作者の職業や社会的地位、学歴、業績、年齢、性別などが評価の邪魔をしてはいないか。海外からの応募作品を特別扱いしていないか。そんな自問自答を延々と繰り返す。Aを読んだときにはまだよかったが、Dの段階ではすでに疲労困憊であった、では公正で客観的な判断ができない。均一な体調で一気に読むことが求められる。

 予備選考の段階で、選考委員が推薦する作品にはコメントがついてくる。自分が選んだものは、各委員の推したものと合致しているか。誰も推していない作品を自分一人が推す、そんな状況になっていないか。恐れる場面である。自分が間違っているのではないか、といった負のスパイラルに陥る。そうなることを極端に怖がっている自分がどこかにいる。だから、採った作品の理由づけより、選外にした作品の合理的な言いわけ探しに躍起になる。明確な論旨で、誰もが納得する形にしておかなければならない。だが一方で、なにもそれほどに迎合する必要はないじゃないか。もっと自信を持て。自分を信じろ。そんな檄(げき)が飛んでくる。試されているのは、オノレの力量である。

 いい作品というのは、原稿自体がいい雰囲気を醸し出している。読む前から書き手の気迫が感じられる。凛とした気概のようなものだ。そんなレッテルを貼って一概に決めつけてはいけない。だが、そんな作品は、応募規定の書き方ひとつとっても、他の原稿とは一線を画している。作者の祈りにも似た強い思いが漲(みなぎ)っている。

 読み手の琴線にそっと触れる、そんな作品に出くわしたとき、救われる思いに包まれる。いくら体裁をとり繕っても、実体験に基づかない作り物は、リアリティーを持って人生の葛藤を衝いてこない。闇を突き抜ける光を描いた作品、そんなものに出会ってみたい。

 

  令和二年十一月 初出

 

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『肥後藩参百石 米良家』- 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜 -

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 この作品集の柱は、冒頭の十一章からなる教員時代のお話である。若さ漲る初々しい娘が、教員採用面接に臨むところから始まる。命じられた赴任先は、北海道・江差町から四十キロほど離れた小さな漁村である。作中、どこの村なのかは明かされていないが、自然豊かでのどかな村である。そこで暮らす純朴な人々との交流が、余すところなく語られている。

 作者である瀧沢鈴さんが赴任したのは、昭和十九年(一九四四)三月である。七十六年前のことになる。

「こうして我が家から、職業婦人第一号なるものが誕生したのであった」

 この「職業婦人」という言葉が、その時代の気分というか、これから始まる新生活への大きな期待を現わしている。だが、ここまで書いてきて、ちょっと待てよ、と首を傾げた。瀧沢さんは一体、おいくつになられるのだ? 事務局に確認してみると、今年の秋で九十四歳だという。思わずのけ反った。文章が若々しくて、とてもそんな年齢には思えなかったのだ。数年前に一度、東京でお会いしているのだが、それほど年齢を感じさせる方ではなかったので、改めて目を丸くした。

 

 太平洋戦争の終結は、昭和二十年八月である。つまり、瀧沢さんが新人教員として赴任したのは戦争真っただ中、しかも戦況が刻々と悪化していく状況下でのお話になる。だが、本書では、この国家存亡の危機によくある暗いムードが漂ってこない。物資が欠乏する中でのお話だが、そんなことを感じさせないのだ。それは豊かな自然と、そこで暮らす人々のおおらかさがそうさせているのだろう。だが、なんといっても十八歳という作者の若いエネルギーが、沈滞ムードを払拭しているのだ。

 ただ、そんな中でも、お兄様の帰還の話は圧巻である。

 旭川第七師団に入隊したお兄様が、昭和二十年春に樺太へ向かうとの一筆を残し、音信が途絶えてしまった。終戦を迎え、続々と帰還兵が戻ってくる。

 そのころ、よく当たると評判の八卦のお婆さんの噂を耳にし、瀧沢さんは家族に内緒で密かに婆さんのもとを訪ねる。すると、お兄様の写真をじっと見ていた婆さんが、

「この人はとっくに亡くなっております。あきらめなさい。もうシベリアの氷土の中でしょう」

 と言われ、言葉を失って帰ってくる。だが、家族にはそのことが言えない。早く帰還したお兄様の同僚や部下たちが、引き揚げ船から真っすぐにご自宅を訪ね、お兄様の消息を知らせてくれる。母親は涙を流しながらその話に耳を傾ける。その姿がいたたまれない。しかし、肝心のお兄様は一年経っても二年経っても戻ってこない。その間にも帰還兵が次々と訪ねてくる。すでに亡くなっていると言われたことを、口にすることもできず、瀧沢さんは身を切られるような日々を過ごす。

「寒い冬になった。いつものように一人の兵隊が我が家を訪ねてきた。汚れて破れた軍服。左右の靴は形も色も違っていた。今まできた人たちの中では、一番みすぼらしく見えた。その姿に私は胸がいっぱいになった。随分と苦労なされたことであろう。しかし、それが待ちに待った兄だったとは。私たち家族は抱き合い、涙も拭かずに声を上げて喜んだのであった」

 

 戦争が終わると、赴任先の小さな村にも復員兵の姿が見られるようになる。その中には元教員もいた。結局、瀧沢さんは地元の復員兵に職を譲る形で退職する。戻ってこいという親からの強い要望もあった。失意のうちに辞めることになるのだが、その別れのシーンは涙なしには読むことができない。

 全校生徒に見送られてバスに乗る。どこまでも追いかけてくる子供たち。それに気づいた運転手は、バスをゆっくりと走らせる。自転車で追いかけてきた教頭に制された子供たちは、みな肩を震わせて泣いている。そんな子供たちに瀧沢さんは後部座席で手を振っていた。やがてバスは峠を上り子供たちの姿も見えなくなる。

「はっと我にかえり、前の席に戻る。車内の人にありがとうございました、すみませんでしたと頭を下げる。そして運転手にありがとうございましたとお礼をいったら、運転手は頬に水滴をつけながら、にこにこして何度も頷いた。乗客の四人も皆涙を拭っていた。村の人々の優しさにふれた私は、改めて涙を流したのである」

 とにかく、この地域の人々は、だれもが底抜けに心優しい。厳しい自然の中で、歯を食いしばって暮らさねばならない土地である。互いに助け合わなければ生きてはいけない。そんな中で暮らしていると、心がどんどん純化されていき、汚れのない純朴な人間ができあがる。いや、違う。これが人間本来のあるべき姿で、都会生活に浸っている人々の生き方がいびつになってしまったのだ。

 函館生まれの瀧沢さんがこの村で暮らしたのは、わずかに三年である。そこで築き上げてきた人々との太い絆が、別れの辛さの描写となってラストを飾っている。

 

 瀧沢さんご自身は、本書の「はじめに」で、自身の若き日の教員生活を、夏目漱石の『坊ちゃん』の愉快さに似た体験と記されている。だが、私には、壺井栄の『二十四の瞳』を彷彿とさせるものがあった。

 『二十四の瞳』は、師範学校を出たばかりの若いおなご先生が小さな漁村の教師として赴任してきて、そこで繰り広げられる十二人の子供たちとの物語である。やがて戦争、そして終戦を迎える。時代の波に翻弄されながら描き出される師弟愛。この『二十四の瞳』は、昭和二十七年(一九五二)の刊行で、空前のブームが巻き起こり、のちに不朽の名作と称される。

 瀧沢さんはその前年の昭和二十六年に結婚され、そのころは函館の小学校で再び教壇に立たれていた。当時は、この『二十四の瞳』にご自身を重ねられる部分も多かったのではないだろうか。

 

 瀧沢さんは、平成二十二年(二〇一〇)、八十四歳で執筆を始められた。本書はその十年間の集大成である。本書には、ほかに数編の作品が収録されている。なかでも、「ゆずり葉の花咲く村」は、前作同様、戦中・戦後の地域社会における学校の立ち位置を知る貴重な資料となろう。

 私は昭和三十五年(一九六〇)に北海道の小さな漁村様似で生まれ育っている。小学校の運動会が地域社会にとって最大の年間行事であり、誰もが心待ちにしているものであった。本書は遥か彼方に忘れ去られていたそんな光景を、目の前に思い起こさせてくれるものであった。

 

  随筆春秋代表 近 藤 健

    令和二年五月二十三日

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『肥後藩参百石 米良家』- 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜 -

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 今年、二〇二〇年は記録的な暖冬だと言われていた。確かに北海道の降雪量も例年に比べ極端に少なかった。だが、二月に入って季節はきっちりと帳尻合わせをしてきた。今季最強といわれるシベリア寒気団の南下により、一週間足らずで例年の降雪量を上回る積雪となった。

 二月九日、この日最も寒かったのは北海道内陸部の北寄りに位置する江丹別で、氷点下三十六・〇度。ほどない距離にある幌加内は氷点下三十三・五度と、全国四番目の寒さを記録している。しかもこの辺りは、寒いだけではなく内陸部ゆえ、夏場の気温は三十度を優に超す。つまり、年間の寒暖差が七十度近くになる。

 作者の黒木恵美子さんは、この幌加内で生まれ育っている。大正五年(一九一六)、祖父母(父方)の代に、十二家族が開拓移民団として岐阜から入植している。北海道への入植としては、後発隊になる。過酷な土地があてがわれたのは、もうそのような場所しか残っていなかったのかもしれない。

 私も生まれは北海道である。私は一九六〇年生まれなので、黒木さんは五歳上のお姉ちゃんになる。私の古里は太平洋に面した温暖な漁村、(さま)()である。いくら寒くても氷点下十五度を下回ることはなく、積雪量も十数センチ程度である。夏の最高気温も、二十八度を上回ることはない。家に電話がきたのは小学五年のときで、その年、町に初めて信号機がついた。山奥からかよっていた山形友子さんの家に電気がきたのも、五年生のときだった。私は学生時代を京都で、その後就職した東京で二十八年を過ごし、二〇一一年から再び北海道に戻り、現在は札幌に落ち着いている。

 私の父方は秋田、母方は熊本と徳島から北海道へ入植している。いずれも明治中期で、曾祖父母の代である。入植当時のことを調べたことがあるが、やはり並大抵の苦労ではなかったようだ。

 

 季節が厳しければ厳しいほど、それとは裏腹に自然は美しい姿をみせる。

「妖精が魔法の杖で野山にふれると、片端からパァーンと色がはじけて、木々が芽吹いて葉が萌えたち、花が咲いて花びらが舞い散り、北国の春は駆け足でやってくる」

「古里の春はいつも真上からやってきた。まだ村全体も、それをぐるりと取り囲んでいる山々も雪景色で真っ白なとき、何日か続いて空に柔らかな霞がかかるようになって、冬はもう終わったよ、春がもうそこまできているよ、と風が優しく教えてくれるのだ」

 長い冬が明ける喜びが、行間から(ほとばし)る。光輝く季節の到来は、子供たちをじっとさせてはおかない。

「透明に澄んだ雨竜川の水はとてもきれいで、水面がキラキラ輝き、細かく揺れながらサラサラと音を立てて流れている」

「アイヌ語で雨竜川と呼ばれるこの川の名前をつぶやくと、今でも目頭が熱くなる」

 黒木さんが目を細めて、かつて遊んだ幼い日々に思いを馳せる。だが、北国の夏は短い。

「北海道の秋空はひたすら青く広がっている」

「前の晩に冷たい風がビューッと吹いて、冷たさの中に雪のにおいが混じっていると、翌朝には、あたりが真っ白になっている」

 黒木さんの自然描写は、行間から溢れ出す古里への思慕へとつながる。

 古里での生活は、にぎやかなものだった。黒木さんは五人兄姉の末っ子で、加えて祖母、叔父、叔母を含め十人の大家族であった。そのほか自宅には番犬が一匹、ネズミを捕るネコが三匹、農耕馬が一頭、食肉用のブタが八匹、搾乳用のヤギ一匹、綿羊六匹、玉子を産んでくれるニワトリが三十羽、ウサギが六羽にハトが五羽、さらにミミズクまで飼っていた。その賑やかさはどれほどのものだったか。

 生活は自給自足である。自宅に一頭だけ農耕馬のアオがいた。農耕馬がいる家は、村にも数軒しかなかった。アオはおとなしく農作業を一手に引き受け、実によく働いた。家族にとっては、かけがえのない宝物であった。そのアオが突然死んだ。

 家族の悲嘆は言葉にならない。だが、しばらくすると大人たちはアオを縛って吊し上げ、解体を始める。アオの肉は切り刻まれ、近所にくまなく配られた。「きれいに食べてあげる」それが供養なのだ。自給自足の生活とは、生きていくということは、そういうことなのである。同じ子供でも、都会のマンションの一室でゲームに興じる小学生とは根本が違う。本書を読んでいると、人間本来のあるべき姿を垣間見ることができる。

 五人兄姉の中で高校に進学できたのは、黒木さん一人であった。営林署に就職が決まった長兄は、

「『父さん、俺はこれで公務員になって一生働く。高校にいく夢は叶わなかったが、せめて完二とえみこは高校にやってくれ。俺も頑張って学費を稼いでくるから』父は目を閉じて何も答えなかったが、母はエプロンの裾でそっと目頭を押さえていた」

 明治や大正の話ではない。昭和四十年代半ばのことである。

 本書には幌加内町共和で繰り広げられる様々な出来事が描かれている。往時を彷彿とさせる描写に深い共感を覚えた。そして、本書のグランドフィナーレを飾るのが「腕時計」だ。圧巻の筆致に胸を打たれる。

 

 随筆春秋の代表理事である池田元と黒木さんは以前からの知り合いである。そのことを今回初めって知った。黒木さんが書いたものを目にしていた池田は、黒木さんの古里への思いを知り、エッセイ集の執筆を促した。

 黒木さんはパソコンをおやりにならず、この作品はスマホで書いたものだという。スマホに入力したものを池田に送信し、池田が原稿用紙の書式に直して、黒木さんに確認・修正してもらう。そんな作業が延々と続けられた。二年を要したという。黒木さんの執念には脱帽だが、池田の熱意にも驚嘆の思いを禁じ得ない。池田は常日頃、三、四人分の仕事を一人でこなしている。

「古里を書きたいという思いの結晶が『雨竜川』です。その気があれば、誰でも書けます」

 池田はそう言い切る。

 極寒の地で、想像も及ばないご苦労をされたおじいさん、おばあさん。そこで二人は九人の子をなし、長男であるお父さんのもとに、お母さんがお嫁にきた。末っ子の黒木さんを含め五人の子がここで暮らした。どんな思いでこの地を切り拓いてきたことか。助け合いがなければ生きてはいけない。

 今、この土地にはかつて入植された十二家族に繋がる人たちは、一人もいない。この地の過酷さを物語る現実である。ここで暮らした人たちが確かにいた。祖父母がいて、父母がいて、家族があった。それぞれの人生があったのだ。

 この書を書き上げた執念は、そんな人たちの思いが背中を押したということもあっただろう。書くべき人が現れて書いたのである。この書によって、一族の足跡、生きた証が刻まれた。そして、ここに生きた人々すべての魂を昇華させた。本書を読んでそんな思いを強くした。

 

  随筆春秋代表 近 藤 健

  令和二年二月二十四日

 

 

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『肥後藩参百石 米良家』- 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜 -

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 山田聖都さんの『随筆春秋』デビューは二〇〇〇年秋の十四号だという。つまり、今年がちょうど二十年という節目の年になる。きっかけは、奥様の幸子様が東京・国分寺市の朝日カルチャーセンターの斎藤信也エッセイ講座を受講されており、それで斎藤先生が代表を務めていたエッセイの同人誌である随筆春秋に直接入会したのが始まりだという。それまではNHKの通信講座で自分史の書き方を学んだ程度で、文学とは無縁だったというから驚きである。

 今回、エッセイ集の発刊に当たり、随筆春秋事務局から「あとがき」の依頼を受けた。ゲラが届いたのが二〇一九年十一月十日前後のことである。そのゲラに添えられていた事務局からのメッセージに愕然とした。山田さんの奥様が十一月七日に急逝されました、とあったのだ。山田さんのご心中を察し、呆然としてしまった。

 六十年も連れ添った妻が、何の前触れもなく突然逝ってしまう。その現実をどうやって受け止めるのか。受け止められるはずがない。あまりにも大きな哀しみと深い喪失感は、察するに余りある。エッセイ集どころではないだろう。私は机の上に置いた分厚いゲラを前に、動けなくなってしまった。

 

 私は二〇〇三年春の十九号が随筆春秋でのスタートだから、山田さんは二年半ほど先輩になる。年齢は三十年も大先輩だ。山田さんはこの十二月に八十九歳になられた。これにも驚いた。九十歳に手のかかるご年齢である。どのような方なのだろうという思いが、私の中で大きくなっていた。私は山田さんとの面識はほとんどない。数年前、随筆春秋の授賞式会場で、一度だけお目にかかったことがある。そのとき、司会者と山田さんとのやり取りで、お名前を「まさくに」さんとお読みすることを知った。接点は、それだけである。もちろん、山田さんの作品は、何年もの間読ませていただき、よく存じ上げていた。

 プロフィールを拝見すると、山田さんは大学を卒業されてから、法務省法務教官として少年院更生担当の道を一筋に歩まれている。三十五年の在任期間中、北海道から名古屋まで十度にわたる転勤を経験されてきた。

 ひとえに少年院の法務教官といっても、そのご苦労たるや並大抵ではないと想像できる。少年たちが自分の人生を歩み直す、そのサポートがお仕事である。道を踏み誤った少年に寄り添い、時間をかけて本心を聞きながら教育指導や職業指導を行っていく。一筋縄ではいかない仕事である。

 そんな中、三十代の最後の歳にフランス政府から選抜され、フランス国際行政研究所への留学をなさる。この二年間にわたるフランス留学は、山田さんに大きな影響を与えた。そのことは行間から溢れる思いとなって、数多くの作品として結実している。

 

 山田さんの作品はすべからく穏やかである。作品自体が爽やかで、洋風でも中華でもなく、それはまさに和のテイストであり、極上の出汁を口にしたときに覚える、うま味と透明感のある後味である。衒いがあるわけでもなく、肩の力の抜けた自然体の筆致に心地よさがある。上質のエッセイを読ませていただいたという思いが胸に満ちる、そんな作品群である。

 しかも、一作一作の締めくくりが、実に小気味いい。サッと締めくくって、ピタリと決めてくる。体操競技の床運動や鞍馬、跳馬、鉄棒などで、着地をピタリと決めてくる姿に重なる。起承転結の「転」はクライマックスだが、転までに織りなされた葛藤が急転直下解決し、一気に下降して結末へと向かっていく。そのピタリと止まる「動」から「静」への移行は、静かな余韻と情緒的な感動をもたらしてくれる。山田さんの作品を読んでいると、そんな連想が浮かぶ。

 このエッセイ集には、法務教官としてのエピソードは「紅白まんじゅう」一作だけで、それ以外は一切つづられていない。もったいないなと思うのだが、公務員としての守秘義務を生涯遵守しようとする山田さんの固い決意が感じ取れる。それも山田さんらしいところなのだろうなと感じた。エッセイは緩急バラエティーに富んでおり、ご本人の多才さを存分に窺わせて読者を飽きさせないものとなっている。

 

 十二月になって、遺品の中から奥様のエッセイが数編出てきたという。そこで、急遽このエッセイ集に収録することになった。エッセイ集の発刊が前後一ヵ月ズレていたら、収録はかなわなかっただろう。最良の収まりどころをみつけて、よかったと思った。

 山田さんご夫妻は、伊勢湾台風(昭和三十四年)の翌日に名古屋で結婚式を挙げられている。それを題材にした山田さんの「大荒れのあと」と奥様の「結婚記念日」は、図らずもこの作品集に大きなアクセントを添えるものとなった。

 奥様のご冥福を心からお祈り申し上げる次第である。

 随筆春秋代表 近 藤 健

 令和元年十二月十八日

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『肥後藩参百石 米良家』- 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜 -

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 この本は、作者の自分史というより、夫婦がともに歩んできた航跡である。他人の半生記などを読んで、何がおもしろい? というのが当初の正直な気持ちだった。だが、読み進めていくうちに、前のめりになっている自分がいた。

 波乱万丈、禍福は糾える縄の如し、人生の帳尻は……そんなお決まりのフレーズが頭をよぎる。誰しも人生の起伏の中で暮らしており、波乱万丈とはいえないまでも、それなりの荒波というかウネリと対峙しながら生きている。夫婦生活というのはそういうものである。

 だが、この本の読み応えは、幾度となく襲ってくる困難に対し、夫婦が真正面から挑む姿にある。登れぬような山をやっとの思いで這い上がったら、その遥か向こうには渡れぬような河が流れていた。そんな現実を前にして、この夫婦は絶望しないのだ。絶望してもすぐに顔を上げる。その先にある希望を信じて邁進していく。その姿に感銘を受けるのだ。

 

 東京の目黒で生まれ育った夫婦が家業の拡大に伴い、まったく見知らぬ土地である静岡の田園風景の広がる土地へと移り住む。しばらくすると順調に推移していたその建材会社が、石油ショックの余波を受け大きく傾く。結果的に親の負の遺産を引き受けてしまうのだ。それをさほど苦とは思わないのだ。

 夫婦が住む静岡県袋井市とその南にある浅羽町は、メロンの産地である。メロンの栽培は、一本の蔓に一個のメロンを実らせるために、生育のよくない幼果メロンを除去していく。この間引き作業を「摘果」というのだが、その捨てられる摘果メロンに目を付けるのだ。こうして誕生したのが「子メロン漬け」(メロンの漬物)だ。

 おりしも郵便局の「ふるさと小包」のスタート、さらには全国のグルメブームとも相まって、「子メロン漬け」は静岡県の名産品にまで上り詰める。つまり、全国へ向けて販売されるようになるのだ。店舗数も急拡大するのだが、やがてそれにも陰りが出てくる。

 結局、最終的にはお店をたたむことになるのだが、その間にも「赤花そば」や「たまごふわふわ」などの新たな商品が、小さなヒントから生まれていく。その行動力が小気味いいのだ。

 とにかくフットワークが軽快である。たとえば、「去年の春、長崎を目的にして九州を旅行したとき、湯けむりのもうもうと立つ別府に二泊した」とある。単なる別府ではなく、「湯けむりのもうもうと立つ別府」なのであって、それだけでもうこの土地が気に入ってしまったことが窺える。作者の筆遣いの巧みさが垣間見られる。旅行から帰ってきたら、すぐに別府の空き家情報を検索し始めるご主人がいる。「夫は思いつくと同時にすっかりその気になる」ところがあり、作者も多少の不満はあっても「人の気持ちにすぐ沿ってしまうのが私の性」ということで、進んで渦中に身をおいてしまう。

 この夫婦は、希望の見えない日常の中で、拍子抜けするほどに悲壮感が希薄なのだ。そのタフさは、一体どこからくるものなのか、そんなことを考えながら夢中で読むことになる。

「五十年間、この性癖のある人と一緒に生きてきたために、どれだけ苦労したことか」

 アイデアマンのご主人とそれに巻き込まれながらも、楽しんでいる節がある作者がいる。お二人が融合することで大きな原動力が生まれ、事業が展開していったことが窺える。

 人が「動く」ことで物事が進んでいく、そんな前向きの姿勢がお二人を突き動かしてきた。このアクティブな姿勢が、子や孫たちに受け継がれていくことになるのだろう。

 後半になると、作者ご自信の身辺を題材としたエッセイが配されている。学生時代の想い出や現在の様子などが綴られている。それらは多種多彩で、作者の守備範囲の広さを感じさせる。だが、それらはすべて夫婦の航跡に帰結し、また、そこから発しているもののような錯覚を覚えるのだ。

 夫婦にとっては大変な人生だったのだろうが、羨ましい思いが沸き起こってきてならない。それが本書の最大の特徴である。 

 随筆春秋代表 近 藤 健

  令和元年11月21日

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 私は現在札幌にいて、東京を訪ねるのは随筆春秋賞の授賞式へ出席するときだけになってしまった。式典が終わると、記念撮影の後、懇親会へと移行する。更井さんにお目にかかるのは年に一度、そのときだけである。更井さんをお見かけするようになってどれくらいになるだろうか。

 私もユーモア路線であるが、更井さんもまたそうである。私が随筆春秋に入会したころの代表は斎藤信也先生だった。斎藤先生に初めてお目にかかったとき、

「泣かせるものはみなさんお得意。なるほどな、と納得させるものはさらにお手のもの。でもね、ユーモアの書ける人は一〇〇名の会員さんの中でも、わずかに三、四人なんです。だからね、ボクは嬉しいんだよ」

 ユーモア路線の仲間が増えたことを素直に喜ぶ言葉だった。斎藤先生がいらっしゃったら、おそらく同じ言葉を更井さんに投げかけたに違いない。

 更井さんとはこれまで、簡単なあいさつ程度の会話を交わしたくらいで、一対一でじっくりとお話しする機会はなかった。ただ、更井さんの作品には、もうかなり前から接しており、作品をとおして更井さんとは親しくさせてもらっている。

 作中にも頻繁に出てくるが、更井さんには若き日々を過ごした渋谷に特別な思いがある。佐藤愛子先生も若いころ、北杜夫さんら同人誌仲間と渋谷の街に繰り出しておられ、先生の若いころのエッセイにはそんな場面がよく登場する。私の勝手な思い入れなのだが、更井さんが醸し出す独特な雰囲気を遠巻きに眺めていると、佐藤先生らの若い日々と重なる部分を感じる。

 世間の流れに迎合するでもなく、本を読み、音楽を聴き、ほとばしる熱い思いを時間を忘れて語り合う。ときおり自分の目指している方向がわからなくなり、いき場のない焦り、将来に対する大きな不安、そんなものを仲間とともに分かち合ってきた。そんな光景が透けて見えるのだ。

 私は大学を卒業してから一貫してサラリーマン生活を送っている。二十八年間の東京生活のなかで、長年、渋谷をとおる通勤をしていた。意味もなく渋谷の街を歩き回り、名曲喫茶ライオンで一人の時間を過ごしてきた。ふるさとは? と訊かれると、渋谷だと答えていた時期があった。渋谷にマークシティーなる再開発地域ができて、渋谷は私の街ではなくなった。

「先生、渋谷にはまだライオンがあるんですよ」

 何年か前、そんなことを佐藤先生に伝えると、

「そうみたいね。若いころはよくいったわよ」

 と仰って目を細められた。そんな情報までご存知だったことに、逆に驚く思いがあった。

 

 更井さんの作中には、何人ものユニークな人物が登場する。描き方によっては、できすぎたシチュエーション、作り物めいたお話になってしまいかねない。だが、きわどいラインでうまく体をかわし、そんな印象を与えないのだ。しかも、頻繁に読者を裏切る。意表を衝くストーリー展開にハッとさせられる。そんな素人離れした筆遣いに、思わず唸ってしまう。

 同人誌『随筆春秋』は、年に二度発刊されるのだが、更井さんの掲載原稿が事務局に送られてくると、スタッフの間では待っていましたとばかりに競って読まれるという。更井さんは、すでに特別な光彩を放つ存在でいらっしゃる。

 悲しみや不条理、抗しがたい老い、目にあまる今風な若者、いずれも滑稽である。そんなもの一切合切を笑いのオブラートで包み込む。その笑いが大きければ大きいほど、行間から滲み出てくる悲しみの重みがずっしりと響いてくる。笑っていながら、心の中でそっと涙を拭う、そんな珠玉のエッセイ集の完成に、乾杯!                                  

随筆春秋代表 近 藤 健

令和元年7月28日

 

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 (一)

 私がエッセイを書き始めたのは、四十歳になってからである。今年でちょうど二十年になる。人生の三分の一を占めるようになった。

 きっかけは、元妻が精神疾患を発症し、沸き起こる嫉妬妄想から暴力が始まったことによる。このままではこちらがダメになるという強い危機感が、私を書く方向に向かわせた。結局、十二年半に及ぶ闘病生活の末、妻は同類の病を持つ男性のもとに走ってしまった。だが、私はその後も書き続けている。私にとって書くことは救いであると同時に、日常の中でルーティーンと化し、つまり中毒患者となった。

 そもそも私は文章を書くような人間ではなかった。高校に入るまで、まるで読書をしなかった。まったく、である。北海道の小さな漁村様似(さまに)に生まれ育った私は、夏でも冬でも海や山で過ごしていた。友達と一緒のこともあったが、一人でいることの方が圧倒的に多かった。後に経験する都会生活からみると、ケタ外れの自然環境の中にいたことになる。

 私は、小学校の夏休みや冬休みの読書感想文をなによりも苦手としていた。始業式の前夜は、涙なしに過ごした記憶がない。

「せめて、漫画の本でも読んでくれないかな」

 という母の溜め息交じりの言葉を、何度、耳にしたことか。

 私が本を読みだしたのは、札幌の高校に進学してからである。高校では寮生活だったが、その四人部屋のうちの一人が、いつもベッドに寝転んで小説を読んでいた。それにつられて私も読むようになった。現代国語の点数があまりにもひどかったため、受験対策という意味合いもあった。日記を書くようになったのも高校生からである。ベッドに腹ばいになりながら、他人に読まれることのない文章を毎晩書いていた。

 大学では、法学部に入ったことにより、レポートの提出に翻弄された。書いても書いても合格点がもらえず、ひどく難儀したことを覚えている。数多くの判例を読み、レポートを書いた経験は、内容のバランスを考えながら客観的な文章を書く、そんな習得に大いに役立った。

 就職してからも小説を読み続けていた。往復二時間の電車通勤は、格好の読書の場であった。そんな東京での通勤を、二十八年続けた。日記も書いていた。ほかに書いていたものは、仕事上のいわゆるビジネス文書だけだった。

 本格的にエッセイを書き始めたのは、前述のとおり妻の発病がきっかけである。小説は書けそうにもなかった。エッセイなら何とかなるのではないかと思い、自宅にあった『ベスト・エッセイ集』(文藝春秋刊)三冊を再読してみた。それから未読の十四冊をブックオフで探し出し、貪(むさぼ)るように読み耽(ふけ)った。つまりこのシリーズの最初、八三年版から直近の九九年版までの十七冊をたて続けに読んだ。

 この『ベスト・エッセイ集』とは、前年に新聞・雑誌等に発表された作品が応募対象になる。文藝春秋内、日本エッセイストクラブ内でそれぞれ二次にわたる選考があり、最終的に六十編ほどの作品が収録される。プロ・アマ混在の作品集である。つまり私は、千点ほどの作品を読んで、その勢いで書き始めたことになる。

 何の制約もなかったので、一つの作品に膨大な時間を投下した。そんなことを二年ほど続けていたとき、はたして自分の書いているものが世間に通用するものなのか、という疑念を抱くようになっていた。そこで公募雑誌を眺めながら応募した作品が、優秀賞を獲得した。第八回随筆春秋賞である。これを機に誘われるままに同人誌「随筆春秋」に参加する。

 その翌年以降も、毎年のように何らかの賞に恵まれた。先に挙げた『ベスト・エッセイ集』は一一年版をもって廃刊になるのだが、〇五年版をかわきりに五度の収録が叶った。また、産経新聞の書評でも取り上げられた。私のふるさとでは、ボランティアサークルによる朗読会が何度か開かれた。宮沢賢治や石川啄木の前座である。日能研の全国模試の試験問題に採用された作品もあるのだが、これもまた嬉しい出来事であった。難解な問題なのには舌を巻いた。

 自分の人生が、思ってもみない方向に進み始めているのを感じていた。なによりありがたかったのは、プロの作家から直接文章指導を受けられたことである。同人誌に所属したことの恩恵である。当時の随筆春秋の代表であった故斎藤信也氏の添削指導がなければ、今の私はなかった。随筆春秋事務局で舞台演出家の石田多絵子氏、脚本家の故布勢博一氏からも丁寧な指導を受けた。作家の佐藤愛子先生とのお付き合いは十七年に及ぶが、いまだに作品評をいただいている。私が賞をもらった原動力は、これらの方々の文章指導なくしてはあり得ない。現在の私を作ってくれた方々である。

 

 

 (二)

 私は文章を書くのが苦手である。そういっても本気で受け止めてくれる人はいない。「なに言っているんだ」、という目で見られるのがオチである。ある意味、ありがたいことである。だが、理解されないという無念の思いもあるのだ。苦手である証拠は、私が一作書くために費やす時間が、それを物語っている。とにかくサッサッサーと書けないのだ。だから、これまでの年月の中で培ってきた自分なりの手順を踏みながら、作品を作ることになる。

 まず、ワード(パソコン)原稿を四〇字×四〇行、文字の大きさを一〇・五ポイントに設定し、書き始める。目標は四〇〇字詰原稿換算で五枚だ。この設定では、一枚半ほどの分量で、五枚になる。この書式でとにかく徹底的に書く。もう、何度読み直しても、書き直せない、というところまで持っていく。そうなって初めて、ワードの設定を変える。二〇字×二〇行、一六ポイントにするのだ。この書式こそ、四〇〇字詰原稿用紙そのものである。この書式に変えることで、句読点の位置の不具合や、文章の縒(よ)れというか捻(ね)じれ、歪(ゆが)みのようなものが見えてくる。そして、近接での同一表現の使用に改めて気づかされるのだ。不思議なものである。

 そんなことをしているうちに、何をどう直していいのかわからなくなってくる。つまり、頭の中がグチャグチャになるのだ。そうなるとこの作品をいったん離れ、別の作品にとりかかる。次の作品も同じことを繰り返す。行き詰ったところで、前作に立ち戻る。すると、不純物が沈殿したせいか、それまで見えていなかったものが見えてくる。だが、今度はもっと短期間で、また行き詰る。沈殿していた不純物が舞い上がり、ふたたび周囲が見えなくなるのだ。そしたらまた次の作品にとりかかる。結局、三作程度のかけ持ちでの作文になる。

 作品の放置とは、灰汁抜き作業でもある。しばらく放り投げていたものを読み直し、直し終えたら天日干しにする。場合によっては清流に晒(さら)す。あまりに文章を捏(こ)ねくり回していると、作品が熱を帯びてくるのだ。その粗熱を除去しながら「だった」「である」「だ」「する」などの語調を整え、回りくどい表現を修正していく。読み直して澱(よど)みを感じるようならダメなのだ。「ここまでやったんだから、もういいんじゃない?」そんなささやきが聞こえてくる。だが、自分への妥協はしない。

 この段階までくると、パソコンのディスプレイ上での作業ではなく、プリントアウトした紙ベースでの推敲になる。つまり第三段階である。作品をプリントアウトすると、また違った景色が見えてくる。一通り読んで澱みなく読めたら、「最終校正前原稿」と名付けたパソコン上のフォルダーに移し、ほどよい醗酵を待つ。いわば熟成庫である。発表前にもう一度読み直す、という段階になる。

 これが三ヵ月に及ぶ一連の工程である。一つの作品を七十回も八十回も手直しすれば、いやが応にも作品の純度は増してくる。ただ、いくら頑張っても素材がよくなければ、光彩を放つことはない。これが私の作文のスタイルである。

 ただ、これですべてが終わったわけではない。発表した作品は、「既刊エッセイ」というフォルダーに収納される。最終保管庫である。収納する作品は、四〇字×四〇行、文字の大きさを一〇・五ポイントの設定に戻す。容量をコンパクトにするためと、この設定が可読性というか視認性がいいのだ。作品のタイトル表示にも工夫を凝らす。タイトルの先頭に、作品名の最初の一文字を片仮名で振り、原稿換算枚数と完成日を記す。例えば「三億円のおひたし」なら、「サ『三億円のおひたし』8枚 04.12.21」となる。これにより、作品は自動的に五十音順に並び、これが何枚の原稿で、いつ書いたものなのかがわかる。

 現在(二〇二〇年六月)、「既刊エッセイ」の中には、二七五点の作品が収納されている。これらの作品は、ときおり取り出しては見直している。定期メンテナンスのようなものだ。その加筆履歴は、作品の末尾に記している。

 これら一連の作業は、パソコンがなければできないことである。つま私は、パソコンの普及と時を同じくするようにエッセイを書いてきた。偶然にもそうなったのだが、手書きするしかない時代であれば、私はものを書くことはしなかっただろう。

 ただ、私には、ここまでやってもわからないことがある。自分の作品の良し悪しである。内心、上出来だと思った作品に限って、酷評の一撃を喰らう。逆に、あまり期待していないものや、こんなのでいいのかな、と思ったものが褒められたりもする。ますますわからなくなるのである。

 で、今回の作品はどうかって? なんだか体よく自慢話を聞かされたような文章ですな。

 

  令和二年七月 初出

 

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 娘が一歳の誕生日を迎えた日の朝のこと。会社帰りに駅前のケーキ屋に立ち寄って、ケーキを取ってきて欲しいと妻に頼まれた。代金は支払い済みだという。

 帰り道。ケーキ屋に立ち寄って名前を告げると、店員が店の奥に入った切り、なかなか出てこない。どうしたのかと覗いてみると、なにやら三人でヒソヒソやっている。

 やがて、責任者らしき男が恐る恐る出てきて、オーダーを受けていないという。そんなはずはない、ちゃんとお金も払ってあるんだしと強気に出たが、埒(らち)が明かない。妻に電話し、直接店員と話してもらった。頼んだ日と金額、オーダーを受けた店員の特徴などを確認しているようだった。

「初めての誕生日なんですから、一歳の……」

 妻の甲高い声が受話器から漏れてきた。

 電話を切った後、店員から丁寧に謝罪され、すぐに用意しますのでお待ちください、といわれた。サービスだということで、ひと回り大きなケーキを持ち帰った。

 初めての誕生日なので、写真を撮ったり、ビデオを回したり、大忙しである。遠方の親たちに送らねばならない。やっと一段落し、やれやれとくつろいでいたところに、電話が鳴った。ケーキ屋からだった。

「今日のお約束のケーキ、どうなさいますか」

 という。

「え? 先ほどいただいてきましたが……」

 お互いに話がかみ合わず、トンチンカンである。受話器を手で押さえ、かたわらの妻に確認したら、「あなた、どこのケーキ屋にいったの?」という。

「駅のまん前のケーキ屋だ」というと、妻がのけぞった。胸の中で「あッ!」と叫び、

「明日、取りに伺います」

 そそくさと電話を切った。

 実は、駅の近くにもう一軒、ケーキ屋があったのだ。妻はそちらに頼んできていた。

「駅前のケーキ屋っていえば、駅のまん前だと思うじゃん」

「だって、いつもいっているお店、知っているでしょ」

 妻と押し問答しても意味がない。問題は、駅前の店への対応である。あれだけ強く言って丁寧に謝罪され、しかも大きなケーキを作ってくれた。今さら間違いだった、ゴメンなさいとは言えない。考えた末、黙っていればすべてが丸く収まる、という結論に達した。

 翌日、ケーキを持ち帰り開けてみたら、豪勢なものだった。見た目も断然いい。だが、駅前のケーキ屋のことを思うと、気まずさと申し訳なさが込み上げてくる。

 その夜もケーキを食べることになったのだが、さすがに眺めているだけで、なかなか手が出ない。二夜続けてのケーキは見るのもウンザリである。しかも昨日のケーキは大きかった。娘だけが無邪気に喜んでいた。

 以来、駅前のケーキ屋には近寄れなくなってしまった。

 

  令和二年五月 初出

   この作品は、「誕生日のケーキ」(平成十五年七月)を大幅に加筆改題したものである。

 

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 会社の独身寮にミツルがいた。釜石出身の純朴な男だった。ミツルは出不精で、休日はいつも寮でゴロゴロしていた。東京にきて数年になるのに、渋谷、新宿、池袋など、どこへもいったことがなかった。ある日、

「オラ、ヤッダよ、そんなどごさいぐの」

 渋るミツルを無理やり原宿へ連れ出した。原宿や表参道にはおしゃれな店がたくさんある。街ゆく人も華やいでいる。

 初夏の日差しが眩しい日だった。歩き疲れた私たちは、喫茶店に入った。そこは、オープンカフェで、客の大半が欧米人だった。コーヒーを飲みながら本を読む人、サングラスが似合うタンクトップのカップルなど、映画のワンシーンを観るような光景だった。

 私は、そこでしばらく涼みながら休憩したいと思ったのだ。あちらこちらから英語が飛び交い、日本とは思えない雰囲気に、

「この店、アッツイなァー」

 と言いながら、ミツルは何度も額の汗を拭っていた。オープンカフェだから仕方がないが、汗は緊張からくるものだった。

 アイスコーヒーがテーブルに置かれたとたん、ミツルはグラスを鷲づかみにして一息に飲み干してしまった。あっけにとられている私に向って、

「うめぇなぁー、近藤クン。グェー」

 と大きなゲップを出した。ミツルにしてみれば、居酒屋でビールを一気にグイッと飲み干すのと同じ感覚だった。

(バカャロー、何をしやがる)という思いをグッと飲み込み、私は立ち去りかけた店員を呼び止めた。店員の驚いた顔が見事だった。

 ミツルにはもうひとつ、伝説話がある。給料日直後の休日、ミツルを含めた若手三人が近所のファミリーレストランへと出かけていった。ステーキを食べにいったのだ。三十五、六年も前のことで、ファミレスがまだ珍しい時代であった。ほかの二人は青森出身で、東京生活の浅い者同士だった。

 レストランでステーキを注文すると、焼き方を訊かれる。「ウェルダン」とか「ミディアム・レア」などという人もいるが、たいていは「ミディアム」である。

 若い女性のウエイトレスに標準語でオーダーをしたまでは順調だった。焼き方を訊かれ、三人に緊張が走った。そんな筋書きを、誰も想定していなかったのだ。青森のひとりが、ひと呼吸おいて「ミディアム」だと気づいたが、時すでに遅し。沈黙に耐え切れなくなったミツルが、勢いよく立ち上がり、

「テッパンで焼いでください!」

 と言ってしまった。気負いもあって、その声は必要以上に大きかった。ウエイトレスが噴き出したのを合図に、周りの客からドッと笑いが巻き起こった。三人は周囲の視線を意識しながら、ひたすら肉を口に押し込み、逃げるようにして帰ってきた。

「つがれだぁ。ダーメだぁ、トーキョは」

 三人が口をそろえた。

 

  令和二年四月

 

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