こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

2000年、40歳を機にエッセイを書き始めました。2014年から過去の作品に加筆しながら、ここに発表しています。時間の堆積の中に埋もれてしまった作品をつまみ出し、虫干しをかねて少し新しい風を入れてやろうと思っています。あなたの琴線に触れる作品が見つかれば幸いです。

なお、本文の内容は基本的に初出の時点です。また、文中の数詞は、縦書き仕様のままとなっています。

 私は会社員でありながら、長年、プロの作家から文章指導を受けてきた。それは、エッセイで賞をもらい、同人誌に加入したことに始まる。二〇〇三年、四十三歳の年だった。

 東京・世田谷の茶沢通りをゾロゾロと歩く一団、その中心は、六、七十代で、八十代の方もいた。久しぶりに会う十人ほどの男女が、しゃべりながら歩く。脚の悪い女性もいたので、その列は時に五十メートルにも達した。

 中でも飛び切り若かった四十代の私は、牧羊犬よろしく殿(しんがり)を務めていた。先頭がときおり立ち止まってくれ、後続隊の合流を確認し、また歩き出す。年に二度、同人誌に発表したエッセイの講評を受けに、作家の佐藤愛子先生のご自宅を訪ねるのだ。三軒茶屋駅から二十分ほどの徒歩の道である。

 佐藤愛子先生の講評はとても鋭利で、寸分の狂いなく急所を突いてくる。

「ん……、ここねぇ、この部分が説明的なの」

「この最後の一行、蛇足だわね」

 自分でもここはどうなのだろう、と密かに案じていた部分をピンポイントで指摘され、息が詰まる。プロの目線の鋭さに、弁解の余地がない。

 佐藤先生の講評では、褒(ほ)められることはめったになかった。だが、

「ここ、いいわね」

 と言っていただけることが、時々あった。

「……褒めれれるのは、あなただけよ」という仲間からの恨み節を何度か耳にした。帰り道は緊張感の解放とも相まって、行列はさらに長くなった。ガックリと肩を落として歩く、そんな私たちの後ろ姿は、引揚者さながらであった。だが、佐藤先生の謦咳(けいがい)に接した喜びと高揚感を胸に抱き、誰もがその余韻に浸っていた。そんなことを半年に一度、繰り返していた。

 その後、佐藤先生が多忙だったり、高齢になられたこともあり、対面での講評はなくなった。私たちの不出来が先生に徒労感を抱かせ疲弊させてしまった、という一面も否めない。だが、その後も拙作を目にする機会があると、人づてに批評をいただくことがある。ありがたさが胸に満ちる。

 脚本家の布勢博一(ふせ・ひろいち)先生も、ご自宅で作品評をしてくださっていた。こちらは佐藤先生を補完する形になっていたが、すでに私は東京を離れており、参加する機会は一度もなかった。ただ、勉強会のたびに、文書で丁寧な作品評をくださった。先生は糖尿病の悪化からすでに全盲になられていたので、秘書の女性が口述筆記したものである。布勢先生も水谷豊の「熱中時代」、北野武の「たけしくん、ハイ!」、萩原健一の「課長サンの厄年」など、数多くのテレビドラマの脚本で、一世を風靡(ふうび)された方だった。全盲になられてからも、精力的に映画の脚本を手掛けていたが、二〇一八年八月に亡くなられてしまった。八十六歳だった。

 私が二〇〇三年の当初から添削指導を受けたのが、斎藤信也先生である。斎藤先生は随筆春秋の代表で、元朝日新聞の記者(後に社会部デスク)であった。そのころの斎藤先生は、首都圏一円と札幌の朝日カルチャーセンターでエッセイの講座を六教室も抱えていた。七十五、六歳だったと思うが、その生活は多忙であった。

 この二〇〇三年から五年ほどの間に受けた添削指導が、現在の私を作っている。この時の四十本を超える添削がなければ、今の私は存在しない。

 私は先妻の精神疾患を機に文章を書き出した。それまで、まったく何も書いたことがなかった。添削されて戻ってくる原稿をチェックしながら、どうしてここに朱筆が入ったのだろう。朱筆が入ることで生き生きとしてくる文章に目を瞠(みは)った。単に行を入れ替えただけなのに、喉の痞(つか)えが取れていた。

「悲しい、辛い話は、ユーモラスに、笑い話は大真面目に書く!」

「広く浅くではなく、狭く深く掘り下げるんです」

 そんなことを擦り込まれてきた。だが、当時の私は、実際、どう表現したらいいのか、あまりよくわかっていなかった。

 多忙な斎藤先生に代わり、事務局の石田多絵子さんが添削をすることもあった。当時、石田さんは舞台の脚本や演出に携わっていた。布勢先生の門下でもあり、彼女の働きかけで布勢先生の勉強会が実現していた。

「『美しい』『悲しい』と書かないで、その美しさや悲しみを読者に映像で見せるの。説明しちゃダメ。目をつぶってみて、映像が浮かぶように。場面を描写するのよ。いくら『美味しい』『美味しい』と連呼しても、その美味しさはちっとも伝わらないわけよ」

「セリフは感情の表現に使われるもの。ストーリー運びや説明に使うと、作品自体が軽くなっちゃうのよ」

 後に高齢になった斎藤先生に代わって、石田さんが添削を行うようになった。私に対しては、右のような作品評が多かった。斎藤先生が飴(あめ)で、石田さんはムチ、そんな両輪の中で私は育てられた。数年後、この石田さんと分担しながら、私も会員の添削指導に携わるようになった。

 二〇一六年十二月、斎藤信也先生が八十九歳で亡くなられた。その年の夏に佐藤愛子先生が『九十歳。何がめでたい』を出され、翌年の年間書籍総売上ランキングで一位になった(「日販調べ」)。九十四歳の快挙である。百歳になられた現在、『九十歳……』は文庫化され、発行部数は一三〇万部を超えた。この六月には映画化される。

 

 こうして書いていると、この四人の師から檄(げき)が飛んでくる。それぞれに緩急はあるものの、「まだ、あなたはその程度なのか……」という嘆息である。

 

  2024年5月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 私がエッセイの添削を始めたのは、二〇一四年五月からです。所属する随筆春秋の添削指導に携わって十年になりました。これまでに一一六名、六二七本の作品を拝見してきました。その五八八本目がこの作品集になります。ここに収録された二十九点も、一本とカウントしていますので、実際の添削数は一〇〇〇本近くになるでしょうか。

 その私の添削第一号が、西澤貞雄氏の「自治会長の初仕事」でした。その後、西澤作品は「熊ん蜂焼酎」「女王蜂狩り」「ザリガニレシピ」と続いていきます。これまでに二十三作を添削させていただきました。いつも、痛快だなと思っており、いつしか「西澤ワールド」と呼ばせてもらっています。添削のコメントの中で「西澤ワールド炸裂!」、このフレーズを、何度、連発してきたことでしょう。

 本書の収録作品は、これまでに『随筆春秋』に発表されてきたものです。二〇〇九年九月発行の三十二号から、二〇二四年三月発行の六十一号までの二十九作です。今回、改めてまとめて読んでみて、「どうしてこんなに温かいのだろう」と思ったのが正直な感想です。なにもかもが温かいのです。

 どの作品を読んでも、十歳の少年がそのまま後期高齢者になったような、そんな映像が浮かんできます。いや、正確に申し上げますと、お友達を含めて後期高齢者前後の方々全員が、まるで十歳の少年たちなのです。

 たとえば、物語はこのように始まります。

 

「今、何してる? この前アンタと約束した女王蜂狩り、今からいくけどいっしょにどうだ」

 彼は現場近くの道路からかけているといった。その言葉で眠気がふっ飛び、二つ返事で了解した。(「女王蜂狩り」)

 

 西澤ワールドは、ご自身が野球帽を被って、散歩に出るところから始まります。コースはその日の気分。まず、鳥の声が聞こえてきます。それはウグイスだったり、ホトトギス、メジロやコジュケイのことも。

 すると、決まって友達に出くわすのです。畑で作業をしていたり、軽自動車や自転車に乗って向こうからやってくる。

 お友達をピックアップしてみると、次のような面々になります。

 ヒーさん、タカさん、ヤマさん、ヒイさん、イシさん、ミヨシさん、アキさん、ミヤさん、エンさん、レイさん、ナガさん、ハルさん、ブンさん、モッチャン、スーさん、イリさん、ターさん、ケイさん、イチさん、スギさん、Tさん、K君、Yさん、Mさん、Nさん……、おびただしい数です。

「ヤー!」と右手を上げて、冗談を言い合うことから始まるのです。みんな、満面の笑みをこぼす。もちろん、前述したような、お誘いもあるわけです。

 熊ん蜂(スズメバチ)やアシナガバチを捕りにいったり、タヌキやハクビシン、モグラ、アナグマ、イノシシといった畑を荒らす害獣対策を手伝ったり。

 ですが、その後は決まって酒と肴を持ち寄って、車座になって一献を傾けるのです。場所は、地域のシニアハウス。持ち寄った筍ご飯は、その時季の風味まで漂ってきます。そのシニアハウスでは、獲ってきたヒヨドリでヒヨ飯を作ったり、ハチノコの炒め物をするわけです。

 作者の人間性がこれほど豊かに現れている作品を私は知りません。大笑いするわけでも、大泣きするわけでもない(なかにはそんな作品もあります)。たいがいはニヤリと笑って、ホロリと涙する。なにより読後感がたまらない。ラスト数行でヒラリとかわして、静かな余韻を残す。なんともいえない心地よさです。「枇杷の葉」「恥かきの付添い料」「不届き者たち」……、こんな作品との出会いは、まさに‶至福〟のひとときです。

 本書の最初の作品を二点、三点と読み始めて、

「なんだよ、ニシさん(なれなれしくてゴメンなさい)、泣かせないでよ」

 思わずそんな言葉が口を衝いて出ます。

 こういう起伏の大きさも、西澤作品の真骨頂です。あまり褒めるとリアリティーに欠けてしまい、逆にウソっぽくなってしまいます。だから、もうこの辺でやめます。

 この作品集は、どこから読んでもいいのです。それは読者の自由で、目次を眺めて、思いついたところから読んでいただく、そんな作品集です。できれば、シニアハウスにもこの本を置いていただき、皆さんで本書を肴に、ワイワイやっていただける、そんな光景を勝手に思い描いています。

 

 これまで西澤さんには、事務局を通じて何度か本の出版が持ちかけられました。私自身も、添削原稿に同封するコメントでお勧めしたことがあります。ですが、大変に慎み深い西澤さんは、そのたびに固辞されてきたのです。

 本書は、西澤さんが大病をされたとの話を聞いたのをきっかけに形になりました。編集長の富山が動き、代表理事の池田と私が後押しをしたのです。西澤作品群をこのまま埋もれさせてはいけない、そんな強い一念が私たちを動かしました。そんなことをしたことは、これまでに一度もありません。

 西澤さんのご家族はもとより、西澤さんを取り巻くお仲間たちからも、本書は歓迎され、喜ばれるものだと思ったからです。そして何より、西澤さんへのエールという意味がありました。書くことは救いです。何より、西澤さんの人生のよき伴走者となってくれるものと思ったからです。

 『随筆春秋』六十号に西澤さんの作品がなかったのは、殺風景なものでした。西澤さんは今、いわゆる‶故障者リスト入り〟(プロ野球になぞらえて)をされています。私たちはそのように理解しています。どうぞ、この期間にじっくりと充電され、そしてまた今回の苦(にが)く辛い体験を貴重なネタとして育み、新たな作品を紡いでいただきたい。ふたたび、温かなやさしさとユーモアに包んだ作品に仕上げ、披露していただけることを、楽しみにお待ちしております。

 そんなふうにして待っていましたら、六十一号からの復帰が実現しました。私たちが心から待ち望んだものです。

 これまでがそうであったように、そしてこれからもまたそうであるように、書くことを人生の傍らに置いていってください。それが私たちの願いです。

 

   2024年4月29日     随筆春秋代表 近 藤  健

 

 

 

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「面舵(おもかじ)いっぱーい!」

 をネットで検索すると、次のような内容が出てくる。

 

 船の操縦のときに使われる言葉で、「舵を右に一杯にきりなさい」という意。左に曲がりたいときは、「取舵(とりかじ)」という。

 これは十二支に由来するもので、船首を十二時の子(ねずみ)の方向に向けて時計回りに十二支を配置すると、右側の三時の方向は卯(うさぎ)、左側の九時の方向が酉(とり)になる。

 そこで右側を卯面(うも)、左側を酉と呼ぶようになった。それにより、卯面(右)に舵をきることを「面舵」、酉(左)に舵をきることを「取舵」という。「一杯」というのは、最大舵角(だかく)の三十度(軍艦は三十五度)まで舵をきることをいう。

 

 実は私、つい最近まで、この「おもかじいっぱい」を「重舵一杯」だと思っていた。舵を左右に大きくきるのは、けっこう力のいることで、舵が重いに違いない。だから「重舵」だと勝手に解釈していたのだ。

 この「面舵」「取舵」はさほどでもないが、思い込みによる誤認で恥ずかしい思いをすることがある。

「『赤い靴はいてた女の子 異人さんに連れられて行っちゃった』ってあるやろ。うちな『異人さん』のこと『いい爺さん』やとずっと思うててん。笑うやろ」

「そんなん言わはったら、うちなんか『兎追いしかの山』なぁ、なんも考えへんで『ウサギ美味しい』思うてたわ」

 京都で過ごした学生時代、同じアパートにいた女の子同士の会話である。誰もが一つや二つ、思い当たる節があるに違いない。いまだ気づかず、潜(ひそ)んでいるものも、まだまだあるはずだ。

 先日、そんな大鉱脈を、偶然にも掘り当ててしまった。

 「袖振(ふ)り合うも多生(たしょう)の縁」である。「道行く他人と袖が触れ合うことさえ前世からの因縁による」という意味合いである。

 私は長年、袖が触れ合うのは「多少、縁がある」という意味で「多少」だと思っていた。そうではないと知ったのは、十年ほど前のことである。拙作(エッセイ)に「他生の縁」という作品がある。それを書いているときにいき当たった。「たしょうのえん」が「他生の縁」と変換された。ネットで検索して、目から鱗(うろこ)が落ちた。その後、ずっと「他生」を使用していた。

 実は、その鉱脈の下に、もう一つ隠れていたのである。その第二弾が今回の発見だった。たまたま「たしょうのえん」を変換すると「多生の縁」と出てきたのだ。改めてネットで検索すると、「多生」と「他生」が混在しており、どちらが正しいのか判然としない。いずれも仏教用語だという。こうなると、ネット検索ではどうにもならない。辞書に頼ることになる。

 『新明解国語辞典』には、「袖触(ふ)り合う多生の縁」とあった。念のため『広辞苑』で確認してみると、「袖振り合うも多生の縁」とある。「多生の縁」であることがわかった。「他生」は間違いではないが、辞書的にいうと「俗に『他生』とも書く」と記されるレベル、つまり、正統派ではないということなのである。愕然(がくぜん)とした。

 拙作「他生の縁」は、元禄赤穂事件に関する作品で、原稿用紙三枚にまとめたものだった。地方紙に掲載するために書いたもので、その後、同人誌にも転載していた。それを読まれた作家の佐藤愛子先生から、簡潔で一切の無駄のない、いい作品です、と珍しく褒めていただいていた作品だった。愕然としたのは、そんな理由からである。やむなく、手元に保存しているワードの原本を、「他生の縁」から「多生の縁」へと改題した。

 そこでもう一つ疑問が浮かび上がった。『新明解国語辞典』では「袖触り合う」とあるのに対し、『広辞苑』では「袖振り合う」になっていた。私はずっと「袖擦(す)りあう」だと思っていたのだ。こちらもネットで検索したが、まったく要領を得ない。「触り合う」、「触れ合う」、「振り合う」、「擦り合う」、「摺(す)り合う」と、百花繚乱(りょうらん)である。

 そこで『三省堂国語辞典』と『明鏡国語辞典』の加勢を得、「振り合う」がスタンダードであることがわかった。そういわれると「……君が袖振る」というのが万葉歌にあったことを思い出す。

「辞書は引くものではなく、読むものだ。辞書を読め」と言っていた人がいた。この類の誤認を探し当てる近道は、やはり辞書を読むことなのだろう。だが、たやすいことではない。

 さて、次はどんな鉱脈を探し当てることになるか。

 

  2024年4月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 東電・福島第一原発、その処理水の海洋放出は、二〇二三年八月のことだった。国際的な安全基準をクリアしたこの放出は、三十年に及ぶという。原発の功罪は計り知れない。

 この放出に過剰反応を示したのが中国だった。日本からの水産物の輸入を即日全面停止し、科学的根拠に基づくことのない大々的なプロパガンダを展開した。それは政治的意図を多分に含んだものだった。マイクを向けられた人々は「日本は、とんでもないことをする国だ」と口を揃える。一方的な情報しかなく、自由な発言が許されない国である。

 近年の温暖化の影響で、サンマやサバなどの漁は、根室市から千キロの沖合で行われている。公海上なので、中国漁船もいる。ここで獲れた魚は中国で水揚され、中国産として国内に流通している。同じ海域で日本漁船が獲った魚は、汚染魚として輸入を認めない。このような事例は、挙げれば切りがない。

 中国への輸出停止は、日本の水産業にとっては大打撃だ。とんでもないことになるぞ、と思った。ほどなくネット上に「風評被害に負けるな!」というスレッド(話題)が溢(あふ)れ出した。水産物の加工品を返礼としたふるさと納税の寄付が、それまでの十倍を超え、製造が追いつかなくなった。

 また、「#食べるぜニッポン!」というハッシュタグのついた水産物の写真が次々とネットに上がり、気運の盛り上げに大きく寄与した。日本の若者もやるなと思った。思わず涙腺が緩む。中国への冷静な対応も、節度があって好ましい。

 気がつくと、私たちは頭の上からスッポリと網を被せられている。ネット社会という網だ。投網を打たれたように一網打尽、否も応もない。そして、その〝便利〟という恩恵を享受している。

 だが、そこには深い闇もある。ネットを介した新たな犯罪だ。やり口が非人間的で、卑劣極まりない。何か事件が起こると、様々な投稿がネット上に飛び交う。好意的なコメントばかりではない。相手を死に追いやるような誹謗(ひぼう)中傷も溢れ返る。それがネット社会のもう一つの側面だ。

 もう、十年も前のことになる。走行中の東海道新幹線の車内で、焼身自殺を図るという前代未聞の事件が起こった。様々な投稿に埋もれるように、ひとつのコメントがあった。

「本日の新幹線の事件で、散々な思いをしたのですが、無事、東京に戻り改札を出る際、あまりにも駅員さんが『本日は本当に申し訳ありませんでした』と言い続けるので、逆に、『今日一日、ご苦労様』と言ったら、『そんなこと言われたら涙が出ます』と泣かれてしまいました。日本人の職に対する意識の高さに、こちらも涙が出てきました」

 やさしい気持ちから出た言葉は、温かい。嫌なニュースが氾濫する日々の中で、ほっとさせられ、思わずこちらまで涙が溢れる。

 日本人でよかったと思う。

 

   2023年12月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

 

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 エッセイの添削を始めたのは、二〇一四年からである。所属する同人誌会員の添削指導に携わって十年近くになる。これまでに一〇〇名超、一〇〇〇本近い作品を見てきた。

「添削で、そんなに赤字を入れちゃダメよ」

「あなたは、手を加えすぎなのよ」

 先輩講師から、何度、そんなふうに言われてきたことか。それは私にもよくわかっている。現に、プロの作家や脚本家などの原稿には、明らかな誤字脱字がない限り、朱筆を入れない。その辺のバランス感覚はわきまえている。

 添削を始めてしばらくすると、私への指名が増え出した。添削希望原稿は、東京の事務局にて振り分けられ、私のもとに送られてくる。

「添削者の指定は受けられません」

 事務局がいくら言っても、次々と‶ご指名〟がかかる。そのうちに、私自身も手が回らなくなった。会社から帰宅後の作業である。先輩が引退した後、私一人で対応しなければならない時期もあった。今では、優秀な添削指導者が増えて、安心できる状況になっている。

 私は三十五歳のとき、つまり一九九五年からの一年間だが、校正の勉強をしていたことがあった。通信教育であったが、そのときの勉強が、四半世紀を経た今になって役立っている。

 私が所属している同人誌には、一〇〇名ほどの会員がいる。四十代、五十代は若い方で、年配者が圧倒的に多い。七十代は平均値で、八十代の後半から、九十歳を超える方もいる。元大学の先生から現役のお医者さんに専業主婦と多岐にわたり、日本各地から原稿が送られてくる。時には海外からもメールで原稿が届く。感心するのは、入所している老人施設から原稿が送られてくることだ。

 死に直面する病の中で書いている人がいる。難病を患っている人。精神のバランスを崩し、ギリギリの状況の人も。認知症が進行し、体をなしていない作品もある。皆、それぞれに思いがあり、作品を綴(つづ)ってくる。

 自分の思いを言葉に乗せるという作業は、生やさしいことではない。発した言葉が、書き手の意図した方向から大きく逸(そ)れていたり、読み手に伝わりにくい表現になっている場合が往々にある。そんな文章を丁寧に解(ほど)いて、仕立て直していく。筆者の溢(あふ)れる思いを汲(く)んで、熱伝導率をよくして読み手に渡していく。私が行っているのは、そんな作業だ。

 原稿用紙五、六枚の作品を添削するのに、数日を要する場合もある。そこまでする必要があるのかと自問しながら、結局は、自分が納得するまで向き合ってしまう。だから朱筆が多くなる。私の思いが筆者に伝わるよう、同封するコメントに腐心する。ただ、一つだけ肝に銘じていることがある。それは、相手を過剰に褒(ほ)めない、ということだ。自分が思っている以上に褒めると、簡単に見破られてしまう。

 相手が真剣勝負なら、こちらもそれを正面から受け止める。がっぷり四つに組む。時には厳しい注文を出す。だが、七十代半ばを過ぎた方に、厳しいことを言っても仕方がない。プロを目指しているわけではないのだから。まずは、書いてきた思いに敬意を表する。八十歳になった自分が原稿やパソコンに向えるかと問われたら、そんな姿は想像ができない。とうに死んでいるよ、と内心では思っている。

 書くということは、孤独な作業だ。

「○○様には筆力があります」

「とてもいい題材です。○○様なら、この素材を生かすことができるはずです」

 どんなに嬉しいアドバイスをもらっても、書いているときは、たった一人だ。誰もいない静かな部屋で、一人、原稿用紙やパソコンに向かう。自分と向き合い、自分の底から漏れ聞こえてくる声にじっと耳を澄ます。先立たれた夫を思う。優しかった声が聞こえてきて、思わず涙する。振り返ると写真の夫が微笑んでいる。母親と二人で蒸かしイモを食べている。一本のイモを半分にして。早く食べ終わった私に、自分のイモをさらに半分にし、笑顔で渡してよこす。そんな戦時中のひとコマが甦(よみがえ)る。

 書きたいことが何も出てこない日が続き、何日ももがき苦しむ。そんな日々の中で、「これだ、書きたかったのは!」という覚醒にも似た思いが飛び出してくる。それを逃さず捕まえる。ストーリーが動き出す瞬間である。

 作品のネタは、自分の内側にある。それをいかに見つけ出すか。ふだん目にしていても、気づいていないのだ。そんな模索が、辛く孤独な作業に繋(つな)がる。それは同時に、‶救い〟でもある。ほんの小さなアドバイスが、書くという意欲に繋がっていく。

 あるとき、会員の作品に、「生きていく傍らに書くことを置いてみる」という言葉を見つけた。「これだ!」と思った。私が長年探し求めていた言葉である。私はたまらず手紙を書き、「ぜひ、使わせてもらいたい」とお願いした。わざわざ電話をいただき、快諾をもらった。札幌市在住の九十歳の女性である。

 添削原稿のコメントの最後に、

「言葉を紡ぐことは、あなたのよき伴走者になってくれるはずです。生きていく傍らに書くことを置いてみる、一緒にやっていきましょう」

 まるで、自分の言葉のように記している。だがそれは、自身に対する激励でもある。

 

  2024年1月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 バカにつける薬がないのと同じく、ハゲに効く薬もないと思っていた。「ハゲを治す薬ができたら、ノーベル賞モノだぞ」、そんな言葉を耳にしたこともあった。育毛剤、増毛剤は昔からよく聞くし、テレビでも宣伝している。だが、その効果については、ホントかな、という疑念が払拭(ふっしょく)できない。塗るのか振りかけるのかは知らないが、髪の毛がボウボウに生えてきたという話は、聞いたことがない。

 ハゲが気になるのかと訊かれると、さほどでもない。だが、毛は、あるに越したことはない。ハゲは見た目が悪いし、どうしても嘲笑(ちょうしょう)の対象となる。ハゲた高倉健を観たいとは思わないだろう。なにより、毛があると若々しく見える。毛が生えていた松山千春と、現在の千春では、まるで印象が違う。別人だ。

 私の場合、幼なじみと数十年ぶりに会う機会があっても、

「えーと……、誰だっけ?」

 私を見た誰もが首をひねる。

「ほら、オレだよ、オレ! わからない?」

 私の顔をまじまじと見て、周りと相談するが、見当がつかないと言われる。これまでに、私の名前を言い当てた者は一人もいない。札幌でイタリアンレストランをやっていた幼なじみ夫婦も、三十数年ぶりに訪ねてみると、

「あの……、失礼ですが、どちら様でしょうか」

 と真顔で言ってきた。ヨメの方は遠い親戚筋であり、中学時代、彼女は私が所属していた野球部のマネージャーだった。

 私たちは北海道の小さな田舎町に暮らしてきた。なので、幼稚園から高校までは、一貫教育を受けて育っている。高校から都会の学校へいった者も若干はいたが。それだけ、私の外見が変貌を遂げたということだ。毛があるのとないのでは、雲泥の差がある。

 

 数年か前から、‶薄毛はお医者さんに相談〟というCMをテレビで目にするようになった。「え? ハゲは病気なのか?」、愛煙家がニコチン依存症患者だと知ったときのような、新鮮な驚きを覚えた。だが、こちらもまた、劇的に生えだしたという話を聞いたことがない。そんなわけで、改めて調べてみる気にもなっていなかった。

 近所のスーパー銭湯へいったときのこと。露天風呂の縁(へり)に腰かけた二人の男の会話が漏れ聞こえてきた。一人は薄毛で、もう一人はツルッパゲである。二人とも六十歳前後のように思えた。本当は五十代前半かもしれない。ハゲは、どうしても老けて見える。

「オレさ、ハゲの薬、処方してもらってるんだよ。ほら、あそこの○○スキンケアクリニック。効くかどうかわからないけど、試してみようと思ってさ。で、それが、なかなかいい感じなんだよね」

 薄毛がツルの耳元で囁(ささや)いた。

「えーッ、ホントかよ。……オレもやってみっかなー。(値段)高いのか?」

 身を乗り出したツルを制するように、薄毛が一段と声を潜めた。

「この薬はよ、副作用がヤバイんだ。個人差はあるけど、あっちがダメになるんだよ」

「あっちって……、こっちかい?」

 ツルが下腹部を指差した。大きく頷(うなづ)く薄毛に、

「それなら大丈夫だ。そっちはもう何年も前に卒業してるから」

「バカだな、オマエ。そっちは、自分だけのモノじゃないんだよ」

 薄毛が意味深なことを言った。

「ちゃんとヨメさんと話し合わないと。うちのババアと違って、オマエんとこは、まだ若いんだから……。卒業じゃないだろう、無期停か?」

 そうか、自分だけのモノじゃないのか……。この二人の会話、近年にない衝撃と受け止めた。私はタオルを頭にのせ、のぼせ気味になりながらも、二人の会話をしっかりと傍受していた。

 

 自宅に戻ってさっそく調べてみた。ハゲの病名は「AGA(男性型脱毛症)」だという。なんだかコーヒーギフト(AGF)のようなネーミングである。AGCという会社もCMでよく耳にする。日本人男性のAGA発症率は三〇%で、男性ホルモンが関与しているというのだ。

 薬は二種類あった。いずれも弱みにつけ込むいい値段である。それぞれの副作用は、ED(勃起不全)、リビドー(性的欲望、性衝動)減衰、精液減少とあり、もう一方の薬には、射精障害もあった。

 この薬でハゲが治ってしまったら、カツラ屋にとっては会社存亡の危機、大問題である。だが、薬の服用は厳しいものである。究極の二択だ。ハゲを選ぶか不能のリスクを負うか。つまり、AGAかEDかの選択だ。ボウボウにはなったが、あっちがダメだというのでは、ボウボウになった甲斐がない。毛が生えてきて女性にモテ出したら、どうするつもりだ。そんな心配は杞憂(きゆう)か。

 お前はどうするんだって? 私には「ハゲるものならハゲてみろ」という気概がある。正々堂々、泰然としてハゲてみせ、周囲を大いに笑わせ、楽しませる、そんな開き直りにも似た諦念(ていねん)の境地にいる。カッコイイもの言いだが、いい薬が出てくるまで、服用は見合わせたい、というのが本音だ。現在の薬の副作用は、男の沽券(こけん)ならぬ股間(こかん)にかかわる大問題である。

 ノーベル医学生理学賞に燦然(さんぜん)と輝くような、そんな薬の出現を期待している。副作用もなく、飲んだらほどなくボウボウになるヤツだ。やがてはそんな時代もくるのだろうが、それはまだまだ先のことなのだろう。

 

 追記

 最近のクリニックでは、「生やして、勃(た)たせる」をキャッチフレーズにしているところも見受けられる。正々堂々としたものである。そして、「薄毛、抜け毛は手遅れになる前に」とつけ加えている。つまり、ツルッパゲは、すでに手遅れのようである。

 

  2024年1月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 私は手紙を書く機会が多い。できるだけ手書きを心がけてはいるが、場合によっては、どうしてもパソコン打ちになることがある。簡単で、なにより時間がかからない。

 だが、手書きの手紙や葉書をもらうと、その味わいに圧倒される。とりわけ、年配者の書きなれた方からの便りには、まったく手も足も出ない。先日もそういう手紙をもらった。短冊形の便箋に、「前略」も「怱々(そうそう)」もなく、いきなり始まる本文。惚(ほ)れぼれするほどの流麗な文字に、思わずため息が漏(も)れる。ブルーブラックの万年筆が、味わいに深みを添える。やっぱり手書きだよなと思う。

 好意を寄せている人から、思いもかけずラブレターが送られてきたとする。それがパソコン打ちだったら、興醒(きょうざ)めだろう。いくらグッとくる内容でも、心に届かない。単なる文書と同じだ。悪筆でも、手書きには温もりがある。なにより、心がある。

 わかったようなことを言っているが、はたして今どきの若者は、ラブレターのやりとりをするのだろうか。すべてはラインで事足りる? 便箋に文字をしたため、封筒に宛名書きをし、切手を貼ってポストに投函。手紙が届くのは、その翌日か翌々日だ。そんなことをするか? ふと疑念が頭をもたげた。

 

 二〇二〇年、私は六十歳で会社を定年退職し、引き続き嘱託員として再雇用されている。パートに毛の生えたような給料をもらいながら、老齢年金の支給年齢まで頑張らなければならない。そんなサラリーマンである。

 えみ子に出会ったのは、二〇一六年秋のことだった。

「けんちゃん、いい人いるんだけど、会ってみない?」

 幼なじみからの紹介だった。私は離婚、二歳年下のえみ子は、パートナーと死別していた。お互いに成人した娘がいる。

 つき合い出して五年目の冬に、改まってえみ子に手紙を書いたことがある。恥ずかしさを振り捨てて正直に話す。それは、クリスマスイブの夜だった。自分の思いをきちんと伝えることも必要かな、と思ったのだ。ふだん、彼女には何もしてあげていない。イブの夜は、やはり普通の日とは異なる。そんな特別な日に、手紙を思いついたのだ。

 私のところからえみ子のマンションまでは、七キロほどの距離がある。彼女とは週に一度、土曜日に会うことにしている。日曜日は、母の介護をしている私の妹のところへいって、スーパーでの買い出しなどを一緒に行う。平日のえみ子とのやり取りは、もっぱらラインである。お互いに電話が苦手なので、ラインは好都合なツールなのだ。

 クリスマスイブといっても、特別なことはなにもない。いつもよりほんの少し、艶(あで)やかな夕食をするだけだ。この日は平日だったが、仕事が終わってからえみ子が私のところへきて、夕食を共にした。

 食事が一段落した頃合いを見計らい、意を決して、

「手紙、書いたんだけど……」

 と切り出した。えみ子は「何が起こった?」という顔をした。潜(ひそ)めていた封筒を取り出し、彼女を正面に見据えて手紙を読み始めた。

 

  えみ子へ

 人を好きになるって、こんなにも幸せなことだったんだね。すっかり忘れていたよ。心がほんのりと温かい。

 (略)

「おはよう」「おはよう」

「帰ってきたよー」「お疲れさま」

「寝るよー」「うん、おやすみ」

 こだまが返ってくる。いつもえみ子がいる。

 えみ子と出会って、五度目の冬がやってきました。

  「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

 ボクは俵万智(たわら まち)のこの歌が好きです。

 (略)

 えみ子、君に出会えてよかった。本当によかった。

 

 大まじめに読んで顔を上げると、えみ子は涙を流していた。微笑む私に、

「なんでさ、急に。もう……」

 泣き笑いで私の肩を打(ぶ)つ。そんな彼女に、

「実はさ、これもあるんだ」

 と言って、私は小箱を取り出した。えみ子は息を呑(の)んで目を瞠(みひら)いた。リングケースの中の指輪を見た彼女の目から、大粒の涙がこぼれた。その涙は、あとからあとから溢(あふ)れ、嗚咽(おえつ)に変わった。

 えみ子の指のサイズは、彼女の長女に頼んでそれとなく訊(き)いてもらっていた。その指輪は、ハゲた六十歳ジジイが恥ずかしさで耳の裏まで赤くしながら、札幌・三越のティファニーで求めたものだった。

 

  2023年12月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 十一月二十日、今年最後の雨が降り出した。夜半には雪に変わる雨だ。このまま順調にいけば、来年の二月下旬まで雨を見ることはない。だが、今年も暖冬に違いない。雪の上に思いもかけぬ雨が降るのだろう。

 冬の到来を喜んでいるのは、元気な子供と犬くらいなものだ。いや、いや、むかしのように「庭駈(か)けまわる」犬はもういない。防寒着を身にまとった室内犬が、冴えない顔で散歩をしている。

 「北海道の冬」といっても、地域によって大きなバラツキがある。太平洋側がマイナス一〇度のときに、内陸部ではマイナス三〇度に達している、そんなことはザラだ。二〇一三年三月一日付の異動で、私は室蘭市から札幌市に転居した。そのとき、札幌の積雪が一三〇センチで度肝を抜かれた。室蘭はゼロだったのだ。特急で一時間半の距離である。だから、「北海道」と一括りにしてしまうのは、乱暴なことなのだ。

 本州の地図に北海道を重ねてみると、知床半島が福島県にあるとき、もう一方の西の端、函館のある渡島(おしま)半島は紀伊半島をすっぽりと覆っている。その時、道南のえりも岬は伊豆半島にあり、北の果て稚内は、能登半島の遥か沖合に位置する。北海道はデカい。

 テレビの気象情報で、

「……北海道では、現在降っている雨も、夜半には雪に変わるでしょう」

「……北海道では、大雨による土砂災害にご注意ください」

 などと平気で言うものだから、本州の友達がそれを真に受け、

「もう、雪なの? さすがは北海道だな」

「雨、ひどいようですね。気をつけください」

 といったLINE(ライン)が送られてくる。勘弁してくれよ、と思う。

 

 冬の初めは苦手である。

 毎年、十月下旬から十一月中旬にかけて、ナイフをちらつかせながら冬が近づいてくる。その気配を感じると、暗澹(あんたん)たる気分になる。長く閉ざされる冬の始まりだと思うからだ。東京感覚でいうと、札幌の十月中旬から四月中旬までが冬だ。つまり、一年の半分が冬ということになる。この時期は、まだ寒さに身体が順応しておらず、冬への覚悟が決まっていない。これが根雪になってしまえば諦めもつくのだが、それまでが大変なのだ。

 札幌が初雪をみるまでには、一つの定点通過のような流れがある。

 まず九月下旬、「大雪山系旭岳に初冠雪」というニュースが流れる。北海道に冬の到来を告げる第一報だ。富士山の初冠雪とほぼ同時期である。

「えっ? 北海道、雪だってよ」

 東京にいたころ、そんな驚きの声を何度も耳にした。紅葉の上に雪が積もっている映像を眺めながら、私自身も驚いていた。長く北海道を離れていると、北国の季節感覚がわからなくなる。

 その旭岳の二週間後、札幌近郊の中山峠に雪が降る。それから十日前後して、朝、カーテンを開けると、ひんやりとした空気が流れてきて、見上げると手稲山の山頂付近が白くなっている。我が家から手稲山は望めないが、イメージとしてはそんなところだ。その一週間ほど前には、旭川市内に初雪がある。手稲山から数日後に、私のマンション前のドウダンツツジが真っ赤に燃え上がる。そこに雪が降りかかるのだ。その赤と白のコントラストに一瞥(いちべつ)をくれながら、ジャンパーのファスナーを首元まで締め、会社へと急ぐ。

 旭岳初冠雪に始まった雪は、中山峠、旭川市内、手稲山を経て札幌市内の初雪となる。ほぼ一か月のストーリーだ。現在の札幌の初雪の平年値は十一月一日である。根雪となるのは、十二月中旬、十四日の赤穂浪士討入りあたりである。イブの夜はホワイト・クリスマスという設定は、しっかりと守られる。

 そんな雪に風情を感じるのは、せいぜい正月三が日あたりまでである。それ以降はうんざりしながら雪を眺めている。最高気温が氷点下という真冬日がこれでもかと続き、毎日毎日雪が降る。降り込められるという表現がピンとくる。

 三月の雨は長く閉ざされた氷雪を解かす。それゆえか、どことなく温かみを覚える。だが、十一月の雨は、耐えがたいほどに冷たい。雪を誘う雨は、ときおり霙(みぞれ)となって冬への覚悟を迫ってくる。すっかりと葉を落とした冬枯れの街路樹が、呆然(ぼうぜん)と立ち尽くしている。

 年々、冬の初めが億劫になってきている。年を重ねるということは、そういうことなのである。

 

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 将来、私はがんで死ぬだろうと思っている。明確な根拠はない。ただ、ぼんやりとそう思っているのだ。

 がんの家系かというと、父方に若干、その傾向がみられる。だが、そうだとまでは言い切れない。母方は、どちらかというと血管系、つまり血管が詰まったり破れたりする方の色合いが強い。

 最近、周囲で、がんになったという話をよく耳にする。

「ねえねえ、〇〇さん、すい臓がんだってよ。気の毒に……」

「〇〇ちゃん、乳がんだってさ。会社の健診で引っかかって、それでわかったみたい」

 おおむね、このようなものである。六十歳を過ぎてから、その頻度が明らかに増えた。聞くたびに、ゾッとする。次は自分か、と。神様が上空から一本釣りを楽しんでいる、そんな構図が脳裏をよぎる。

 高血圧に肥満、高脂血症や糖尿病が重なってくることを「死の四重奏」という。五十代半ばを過ぎたあたりから、私にも肥満傾向が現れ始めた。太りだすと肝機能や中性脂肪、コレステロールなどの脂質代謝の数値が上がってくる。六十代になってからは血圧の薬も飲み始めた。糖代謝もギリギリのラインをうろついている。だが私は、健康に気をつけていないわけではない。二十七歳から現在までの健康診断の数値を、エクセルで管理している。三十六年にわたる壮観なデータだ。さらに、長い間、ジョギングをして体調を整えてきた。

 私がジョギングを始めたのは、十九歳からである。京都の大学に進学した五月、あまりにも体調が悪くて近所の病院にかかったことがあった。私の遠隔地保険証に記された「北海道」の文字を目にした老齢の医師が、

「夏バテやな。これからやでぇ、夏は。今からバテてたら、あかんがな」

 一刀両断である。以来、走っている。結婚して子供が生まれてからはしばらく中断していたが、その後再開している。東京の夏を乗り切るためだった。だが、五十一歳で北海道に再び戻ってからは、冬場のジョギングをやめた。雪と氷点下十度を下回る寒さの中では、とてもじゃないが走る気になれない。

 ここ数年、いくらジョギングやウォーキングをしても、体重がビクとも落ちない。下腹に脂肪が蓄えられ、体重もジリジリと増加している。そんなわけで、走る意欲がすっかり失せてしまい、今は何もしていない。痩せない原因は、加齢による代謝の低下なのだ。

 

 どれほど健康に気をつけて頑張っても、私たちは必ず死ぬ。それは〝決まり〟なのだ。一人の例外もない。悲しもうが落胆しようが、泣き叫んでも、これだけはどうにもならない。覚悟を決めるしかないのだ。とはいえ、家族との死別は、辛く悲しく、耐えがたい。自分の死もまた、底なしの闇に一人いるような怖さがある。

 トンボは、幼虫のときはヤゴとして水中生活をしている。ある時期になると、水草の茎をよじ登って上の世界にいってしまい、二度と戻らなくなる。そんな仲間の姿を見ながら、自分も上にいきたいと思い茎をよじ登るが、水面でガーンと頭が弾かれ、押し戻されてしまう。ある一定の年齢に達しないと、その上にはいけないのだ。水中から出たヤゴは、やがてトンボとなり大空を飛び回る。ヤゴの大好物のボウフラだって、時期が来たら上へいって蚊になって飛び回るのだ。私たちも本当はヤゴやボウフラと同じなのではないか。思わず天を仰ぎ見る。

 年齢を重ねるということは、人生の持ち時間が刻々と減っていくことを意味する。だから誕生日は、死をカウントする目盛りにほかならない。おめでとうなどといわれ、喜んでいる場合ではないのだ。

 現在、私は六十三歳である。ここまで生きられるとは思ってもいなかった。致命的な病気を持っているわけではないが、短命で終わるだろうと勝手に決め込んでいた。現に私の父は、五十一歳で他界している。六十歳まで生きられたのだからもういいだろうと言われれば、そういうことにはならない。七十歳まで生きたいとか、八十歳まで何とかやっていきたいと、次第に欲が出てくるものだ。何より私には相棒のえみ子がいる。これから結婚して二人で楽しく暮らしていかなければならない。死んでなどいられないのだ。

 三十センチの物差しを手にしてみる。その一センチの目盛りを一年とすると、これまでの六十三年と合わせ、九十三歳までの長さになる。五センチごとの数字は、人生の節目の印だ。私の場合、三十センチの物差しですら、もう全(まっと)うするのが困難な長さになっている。すでにそういう年齢に達しているのだ。どおりで周りがポロリポロリと上へいくわけだ。冷酷な現実が突き付けられる。

 〝未病〟という言葉がある。病気とは言えないまでも、なんとなく身体がだるい、疲れやすい。頭痛や肩こり、めまいがする。このような症状を指す東洋医学用語である。未病とは、健康と病気の間にあるゆらぎの状態だという。高脂血症、糖尿病、高血圧なども未病だというから、私もその分類に入ることになる。

 眠くて読書もままならないのは、良質な睡眠がとれていないからで、加齢による現象だと思っている。当然、身体もだるくて重い。死ぬためにはある程度の予兆が必要で、未病はそんな領域なのだろう。友達にそんな話をすると、

「ミビョウ? ビミョーだなぁ」

 すかさずダジャレの餌食(えじき)になった。長生きの秘訣は、能天気に生きることである。ストレスのない生活ができれば、間違いなく長生きする。彼は、そちらの領域にいる。私とは対称をなす。私はちょっとした言葉にも傷つき、小さなことにいつまでもクヨクヨしている。ストレスを一身に背負ってしまうタイプである。人生を謳歌するとか、楽しんで生きるということが、どうしてもできない。グラスのウイスキーを眺めて、「まだ、半分ある」とは思えないのだ。どうしても「もう、半分しかない」と思ってしまう。損な性質(たち)である。だから短命で終わると勝手に思っているのだ。

 必死に生きる、という言葉がある。字面だけ眺めるとヘンテコな言葉だ。「必ず死ぬ」+「生きる」=「必死に生きる」なのだから。単に「生きる」ではなく、「必死」を冠して、「人は必ず死ぬ。でも、死ぬ直前まで懸命に生きる」、そういうことなのだろう。

 親しくしている親類が、六十歳の定年退職を機に、札幌郊外に自分たちの墓を建てた。

「子供たちに迷惑、かけられないからさ」

 という。奥さんも傍らでニコニコしている。そばにいた子供たちに、

「お前たちの父さん、死ぬ気満々だな」

 というと、皆、一様に変な顔をしていた。しかもこの夫婦、一人二二〇〇〇円もする帯状疱疹のワクチンを打ってきたばかりだという。半年後にもう一度、打たなければならないらしい。計八八〇〇〇円だ。これで十年以上は安心だという。

「そう考えると安いもんだべよ。お前たちもヤレ!」

 できるものならやっておきたい。だが、八八〇〇〇円は、躊躇する金額である。それだけあれば、贅沢な小旅行ができる。死ぬまで健康でいたいという気持ちはわかるのだが……。

 えみ子にその話をすると、

「私は、いらなーい」

 と、ニベもない。必要性をまったく感じていなかった。だが、私には必要だよなと思う。

 必死に生きるのも、たいへんだ。

 

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 北海道の南部、太平洋に面した様似町(さまにちょう)が私のふるさとである。その西方の海岸沿いに、かまぼこ型の小高い山がある。アイヌの人々からソピラヌプリ(崖滝の山)と呼ばれていたこの山は、和人の進出とともに円山と称されるようになり、明治中期以降は観音山として親しまれている。

 様似漁港を見下ろすこの観音山は、標高一〇〇メートルほどで、パンチパーマをかけたように山全体が柏の木で覆われている。強い海風の影響で、そのすべての木が海とは逆方向に枝を伸ばしているのだ。真っすぐ生えている木は一本もない。

 観音山の頂上には、パンチパーマの頭頂部が円形に禿げたような空間がある。その広場を取り囲む雑木林の中に石仏が点々と祀(まつ)られている。観音山と称される所以(ゆえん)である。

 私が幼いころは、この広場で幼稚園の運動会が行われていた。桜の季節には、人々が待ちかねたようにドッと繰り出す。桜まつりのピンクのボンボリ(花見提灯)が坂道に沿って飾られ、あちらこちらにところ狭しと茣蓙(ござ)が敷かれた。大人も子供もみんなが楽しそうにご馳走を食べている。誰もが桜の花を待っていた。今では想像も及ばない賑わいだった。

 かつてはこの観音山の下が、様似の中心であり、本様似(ほんさまに)(現・本町)と呼ばれていた。観音山を背に右が西様似(西町)、その反対側が東様似(大通)で、現在の中心街となっている。

 また、この観音山はカタクリの群生地でもある。春先にはエゾエンゴサクなどの山野草が一斉に咲き乱れる。だが、今では訪れる人も少なく、人知れず咲き、散っていく花々である。

 もう五十年以上も前のことになる。私が小学生のころは、この山でよく遊んだものだ。西町の公営住宅にいた私は、西側の斜面から山に登っていた。

「おい、桑の実、採りにいぐべ」

 子供たち三、四人が連れ立って、獣道のようなジグザグの急峻な山道を登っていく。登りきったところに石が幾重にも組まれたチャシ跡があった。チャシとは、アイヌ語で「柵囲い」という意味で、砦(とりで)や祭祀(さいし)場、見張り場といった多目的な用途で使われていた場所だという。私が幼いころは、アイヌの古戦場跡と教えられていた。当時は、そんな急勾配の山道を苦もなく小走りに登っていた。

 頂上には大きな桑の木が何本かあった。桑の木が見えてくると、皆、我先にと飛びついた。真っ黒に熟れた桑の実を、次々と口に入れていく。

「うめぇー」

「あんめぇ(甘い)!」

 口の中いっぱいに甘さが広がる。桑の実は金平糖を一回り小さくしたような形状で、赤い実が熟れると真っ黒になる。実はとても柔らかく、触るとすぐに潰れ、赤紫色の汁が出る。手も唇も派手に紫色にしながら、一心不乱に食べていた。

 

 冬が近づいてくると、足もとにはふかふかの枯れ葉が積もる。その落ち葉を蹴散らし、漕ぐように走り回る。子供の膝が隠れるほどだったので、二、三十センチは積もっていただろうか。その落ち葉に頭から飛び込んでいく。全身がスッポリと落ち葉に埋もれる。ガサガサと盛大に音をたてながら、落ち葉の海を泳ぐ。これほどまでに葉の積もっているところは、ほかにはなかった。おそらく強い風の影響で、この一帯に枯れ葉の吹き溜まりができていたのだろう。

 落ち葉の中は静かである。まわりの音が消えてなくなる。だが、少しでも身体を動かすと、ガザガサという音が耳元に伝わってくる。枯れ葉の乾いた匂いが鼻腔(びくう)を衝く。それがなんとも言えない、いい匂いだった。落ち葉の中はふんわりとして温かく、体が浮遊しているような感覚に陥る。いつまでもこの中に埋もれていたい、そんな心地よさがあった。

 私は東京で就職し、そこで二十八年間を過ごしてきた。再び北海道に戻ったのは、十二年前である。大都会での生活を離れることは、後ろ髪の引かれる、名残り惜しいものだった。都会は嫌いではなかった。むしろ都会の雑踏に好んで身を浸していた。

 電車と地下鉄を乗り継ぐ通勤は、酷なものだった。電車が途中の駅に着いても、車内の超満員の人の圧力でドアが開かない。そのドアを外から開けて人が乗り込んできた。乗客の背中を押す駅員がホームを走り回る。両足が浮いたまま、次の駅まで運ばれていた。

 そんな朝のラッシュだったが、慣れてしまうとそれも‶普通〟になっていった。若いころは、毎日が残業だった。午前七時に家を出て、寝るためだけに自宅に戻る。そんな生活が当たり前のように続いていた。

 そういった中で、ふとした拍子にふるさとを思い出す。満員電車に押し潰されながら、落ち葉の匂いに抱かれて眠る自分を空想していた。胸いっぱいに広がるあの懐かしい枯れ葉の匂い……。そんな記憶が、都会で暮らす力になっていたのかもしれない。

 

 観音山の落ち葉の季節は、そう長くはなかった。雪が落ち葉を押し潰し、腐葉土となってふたたび土に還っていく。春には新たな芽吹きが始まって、緑に覆われてしまうのだ。落ち葉で遊べるのは、晩秋から初冬にかけての、ほんのひと時のことだった。

 札幌―様似間の距離は、片道一九〇キロである。たやすい距離ではない。また、あの落ち葉の中にスッポリと潜(もぐ)り込んでみたい。そんなことが、今の私にできるだろうか。いざとなったら、虫が気になって尻込みするかもしれない。子供のころは、背中に虫が入ろうが、クモが首筋で蠢(うごめ)こうが、お構いなしだった。

 あの落ち葉を、また蹴散らしてみたい。枯れ葉の匂いに抱かれたい。そして、あのころの自分に、また戻ってみたい。そんな思いが密かに擡(もた)げている。

 

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