こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

2000年、40歳を機にエッセイを書き始めました。2014年から過去の作品に加筆しながら、ここに発表しています。時間の堆積の中に埋もれてしまった作品をつまみ出し、虫干しをかねて少し新しい風を入れてやろうと思っています。あなたの琴線に触れる作品が見つかれば幸いです。

なお、本文の内容は基本的に初出の時点です。また、文中の数詞は、縦書き仕様のままとなっています。

 二〇二五年、正月の慌ただしさが落ち着き、六十五歳になった。そんな年になる自分を想定していなかった。だが、どこから眺めてもジイさんである。とりわけ写真に写る自分の姿は無残なものだ。

 そのうち、私は命が尽きて死ぬ。その順番がいつくるのかはわからない。身近なこととして、‶死〟がまとわりついてくる。幼なじみの同級生は一七〇名ほどいるが、すでに二十人近くが鬼籍に入っている。実際は、その二倍以上はいるかもしれない。ほとんどの者がふるさとを出ているので、風の便りでしか消息がわからない。私もそんな一人なのだが。

 二〇二三年、暮れも押し迫って同級生が亡くなった。インフルエンザから肺炎になって逝ってしまった。札幌で親しくしていたので、通夜・告別式では、弔辞を読んだ。

 三十代、四十代で友達の死を知らされたときの衝撃は大きかった。だが、最近では「ああ、あいつも逝ってしまったか」程度にしか思わなくなってきた。ふるさとを離れ五十年、幼なじみとはいえ、半世紀も会っていない者ばかりだ。また、身近な人の〝死〟に慣れてしまったせいもある。さらに、こちらの鈍感力が増大してきたということもあるだろう。年を取るということは、そういうことだ。何事に対しても、反応が鈍くなる。そうでなければ精神が持たず、こちらが参ってしまう。うまくできているものだ。

 死は誰にも等しく訪れる。不可避である。死んだらどうなるのだろう。誰も教えてはくれない。人間のご先祖、ホモ・サピエンスが誕生してから二十万年といわれる。その間、人類は連綿として生死を繰り返してきた。だが、そんな基本的で単純なことが、わからないのだ。

 AIが人知を凌駕(りょうが)する勢いをみせているが、この素朴な疑問には答えてくれない。生成AIは「宗教や哲学が異なる見解を持っている。科学的には議論が続いている分野だ。あなたはどんな考えをもっていますか?」と逆に問いかけてくる。肉体は朽ちても、魂が別の世界に行くのか。そしてまた、輪廻転生(りんねてんしょう)によりリセットされて、ふたたびこの世に舞い戻ってくるのか。それとも、まったくの‶無〟に帰してしまうのか。何もかもがわからない。そもそも、神や仏といったものは存在するのか。

 私の高校は、カトリック系のミッションスクールだった。宗教の時間に神父さんから聞いた話を覚えている。神父さんは、学校の敷地内にあるレンガ造りの古い修道院で集団生活をしていた。神なんて見たこともないのだから、信じろと言われてもムリだ。そんなふうに反発する十六、七歳の私たち生徒に対し、穏やかな口調で次のような話をした。

 

 水中で生活するヤゴは、仲間がある一定の年齢になると姿を消します。水生植物の茎を伝って上の世界へと行って、戻ってこなくなるのです。

 ある日、上の世界に興味を抱いた若いヤゴが、年長者の後を追って茎を上っていったのです。しかし、上に出ようとすると頭がガーンと水面にぶつかり、どうしても弾き返されてしまうのです。

 やがてある年齢になったとき、スーッと水面に出ることができたのです。そこは昇ったばかりの太陽が輝く、眩(まばゆ)い世界でした。その柔らかで心地よい朝の光を浴びていると、体が硬直を始め、背中が割れて羽が出てきたのです。ヤゴはトンボになって空を自由に飛びまわることができるようになりました。信じ難いことです。このことをヤゴの仲間に知らせようと試みたのですが、水面にガーンと弾き返され、中に入っていくことはできませんでした。

 という話である。そして次のように続くのだ。

 地面にしゃがみ込んで、アリが忙しそうに巣穴を出入りしている様子を見たことがあるでしょう。木の枝で引っ搔(か)き回すと、彼らは慌てふためき逃げ惑うけれど、やがて大勢で修復にとりかかる。彼らは人間の存在には気づいていないのです。天災に遭った、くらいにしか思っていない。我々にも同じことが言えるのではないだろうか。

 君たちは、目に見えるものだけを信じる、神は見えないから信じられないと言います。はたして、そう言い切っていいのだろうか……

 そんな論法になっていく。当時は、説得力があるなと感心して聞いていた。

 

 例えば街中を歩いていて、ビルの工事現場に差しかかった時、上空から大きな鉄骨が落ちてきて私の頭を直撃したとする。私は即死だ。まったく予期せずして死んだことになる。痛いも苦しいもない。そのとき、私が自分の死を認識するのは、死んだ後ということになる。

 これが病死だと、苦しみが増大し「ああ、間もなく私は死ぬ……」と理解できる。やがて意識が遠のく。だがその場合でも、自分が死んだかどうかの認識は、やはり死後となる。「あ、オレは死んだんだ」と。そう考えると、即死も病死も同じではないか。死んでからでなければ、自分が死んだかどうかがわからない。

 ただ、心肺が停止しても、数分は脳が生きている。そうなると、耳が聞こえる可能性もある。自分が死んで騒いでいる周りの音で、自分の死を理解できる場合もあり得る。ただ、鉄骨が頭を直撃した場合は、そんなことも叶わない。

 よく聞くのは、「成仏していない」という言葉である。「この世に未練があり、天上界へ行けずにいつまでも霊魂が浄化されずに浮遊している」といった類のものだ。それは、霊媒師などの特殊能力者を介しての言葉となる。つまり、自分の死後に自分の死を認識して、死を納得して受け入れたか、この世に未練はないか、ということである。

 また、臨死体験というのがある。死にそうになって、三途の川まできたとき、川向うからすでに死んでいる両親や祖父母などの身内が、「お前はまだ早い、こちらにくるな」とさかんに言っている。目覚めたら家族が見守る病院のベッドにいた、という話である。これは、人が死に瀕した場合、脳の前頭葉にある海馬部分が活発に活動して起こる体験だという説がある。死の間際にだけ覚醒する脳の仕業らしい。

 何やらややこしいことを考えてはみたが、結論は出ない。私が敬愛する作家の佐藤愛子さんは、若いころから死んだら‶無〟になると信じて疑わなかった。そういう世界は胡散(うさん)臭く、興味もなかったという。だが、北海道に建てた別荘で、数多くの心霊現象を体験して体調まで崩し、死後の世界を信じざるを得なくなった。同じ体験をしてきた娘の響子さんも同様のことを言う。私は著作からだけではなく、直接本人たちからそのお話を聞いている。その別荘で話を聞いたこともあった。

 そんなこともあり、死んだらハード(肉体)は朽ち果てるが、ソフト(魂)はしばらくその残像を引くのではないか、死後に自分が死んだことを認識できるのではないか、とぼんやりと考えている。それまで強く感じていた肉体の痛みなどといった苦痛が突如、スーッと消える。宇宙飛行士が大気圏を脱して宇宙空間に放り出されたときの、無重力状態の感覚である。幽体離脱とは、そのようなものではないのか。そのとき、

「あれッ? オレって……もしかして死んだ?」

 そう思うのではないだろうか。ただ実際は、意識が遠のいており、臨死体験の中でそう思うのかもしれない。その後はどうなるのか……、やはり死んでみなければわからない。トンボと同じ体験をするのだろうか。

 

 生の対極に死があるのではない。生の延長線上に死がある。ある程度生きてきて、そんなことがぼんやりとわかってきた。ただ、まだ、しばらくは死にたくない。

 

 

 追記

 この作品を書いている最中(さなか)、かねてより療養中だった母が身罷(みまか)った。満八十九歳だった。この二月一日、四十九日法要を執り行った。死んだらどうなるか、死をもって去って逝く母を間近に見守ってきたが、その答えは闇の中である。

 

   2025年2月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 休日の午後、日がな図書館で過ごしていた時期があった。十数年前のことなのに、遠いむかしの出来事のように思う。

 二〇一一年、私は二十八年暮らした東京を離れ室蘭市に移り住んだ。その転勤の前年、会社から懇請され、宅建士(当時は「宅建主任」)の勉強をしていた。五十歳からの試験勉強である。勉強を始めてすでに一年以上が経過していたが、覚えた知識が片っ端から消えていくザルのような頭に、力づくで知識を摺(す)りこんでいた。年齢との勝負だった。

 日没が近づき、慌てて海へと急ぐ。図書館前の道を西に数百メートルいくと、電信浜があった。夕陽を見に行くのだ。

 サンダルを手に、波打ち際をはだしで歩く。

「波は寄せ、波は返し、波は古びた石垣をなめ……」、むかし国語の授業で教わった詩の一節が口を衝く。電信浜は高い断崖に囲まれた小さな入り江である。目の前には穏やかな噴火湾が広がり、水平線の向こうに駒ヶ岳が遠望できた。電信浜という名称は、明治期に対岸の函館方面へ向けて海底ケーブルを敷設したことによるものだという。近くのマスイチ浜やイタンキ浜のように、ここもアイヌ語の「セタワキ浜」や「ポンモイ」と呼んだ方が、風情があってよかったのに、と思う。電信浜では味気も素っ気もない。だが、当時としては特筆すべき大事業だったのだろう。

 海水浴客の喧騒(けんそう)が失せ、すでにもう誰もいない広い砂浜が、プライベートビーチになる。海面には、緑や茶色の海藻が、夏の光の中で揺れている。エゾハルゼミの声が降り注ぐ中、ときおり甲高いカモメの鳴き声が響き渡る。

 オレンジからブルー、ダークブルー、やがてグレーへと刻々と色を変えていく渚(なぎさ)を、ただ歩く。打ち寄せる波の爽やかな感触が、足の裏から頭のテッペンへと突き抜けていく。裸足で歩く解放感と爽快感は、心も身体も解(ほぐ)していく。振り返ると、波に消されながらも自分の足跡が点々と続いている。もう、こんなに歩いたのかと思う。自分の来(こ)し方を視る思いがする。

 幼いころ、山と海に囲まれた小さな町様似(さまに)で育った私には、室蘭で目にするものすべてが新鮮で懐かしかった。忘れ果てていた光景なのである。潮の香が胸に満ち、海風が肌を優しく撫(な)でる。五感に伝わる感触が、心地よい浸透圧で身体に沁(し)みてくる。

 室蘭にくる前年、私は二十二年間生活を共にしてきた妻と別れている。精神を患った妻とは、十二年半の闘病生活を共にしてきたのだが、妻が家を出ていった。時を同じくして、北海道の実家で一人暮らしをしていた母が脳梗塞を発症し、札幌にいる妹のもとで生活を始めた。その妹が病を得、やむなく転勤希望を出したのだ。大学生だった一人娘は、東京に残した。東京を離れるのは痛恨事であったが、それしか方法がなかった。

 

 室蘭は初めての土地だった。異動の内示を受け、ネットで赴任先を検索して愕然(がくぜん)とした。

「えッ! オレって……、半島で生活することになるの? ウソだろう……」

 室蘭市中央町、そこは絵鞆(えとも)半島の中ほどに位置し、三方を海に囲まれていた。工業港である室蘭港と追直(おいなおし)漁港、そして電信浜である。絵鞆半島は噴火湾に小指を差し入れたような、そんな形状の半島だった。

 室蘭での生活を始めて、他人(ひと)との距離の近さに戸惑った。東京で暮らしていると、他人に対する警戒心というものが常にある。常態化したそんな感覚が‶普通〟だった。都会暮らしを始めた地方出身者が最初に直面する壁であり、それをクリアーすることが、‶都会に染まる〟ということだ。

 会社の同僚たちもみなバラバラの地域に住んでおり、二十八年間の東京生活で、街中で社員やその家族を見かけたことは一度もなかった。

「近藤さん、明日の飲み会ですが、妻を迎えに行かせますから。まず、近藤さんを乗せて、次に私を出先で拾って、という順番でいきますので、アパートで待っていてください」

(えッ? 奥さんが……)ドギマギした。ここでは、会社と家族が一体なのである。そういえば、幼いころの父と同僚たちもそうだった。そんな輪の中に私もいた。

 小さな会社ゆえ、事務職は総務・人事・経理といった事務全般を行う。銀行はもちろん、ハローワークや市役所、税務署などといった公的な機関とのかかわりが多い。どの窓口でも、温かな応対を受けた。東京では取りつく島もないつっけんどんな対応しかされたことがなかった。

「ここは、届け出ている丸印のほかに角印が必要です」

 というのはまだいい方で、記入漏れの部分を指差して、言葉もなく戻されることもあった。吹き出る汗をぬぐいながら階段を上って降りて、地下鉄を二本も乗り継いで、たかだか一か所の押印ミスのために振り出しに戻される。書類の不備は後々にトラブルが発生した際のもめごとの原因になる。窓口に押し寄せる大勢の人を捌(さば)いていくには、やむを得ない対応である。そんな環境に二十八年も浸かってきた。だから、こちらを気遣ってくれる室蘭の人々の心優しさに、面食らったのである。

 銭湯の奥さん、布団屋のオヤジ、地元の新聞記者や文芸協会の人々、貝殻研究家という方もいた。そんな多方面の人たちから、温かな思いをもらってきた。よそ者である私を包み込むように受け入れてくれた。

 私はこの二年間で、絵鞆半島をずいぶんと歩き回った。休日の散歩は、十キロを超す距離に及んだ。籠(こも)っていた図書館を出、運動がてらの散策である。この絵鞆半島は、半島自体がダイナミックに傾き、噴火湾に没している。造山運動の名残が見て取れる。

 その地名には、チャラツナイ、トッカリショ、ハルカラモイ、アフンルパロ……、先住民族の痕跡が沁(し)み込んでいる。漢字にも置き換え不能な地名が各所に点在していた。

 室蘭での生活は二年間で、その後、札幌に転居した。なんとか宅建士の資格も取得できた。ここでの生活を遠いむかしと感じるのは、生活環境が再びガラリと変わったせいである。

 室蘭を離れて十二年になる。だが、年に数回はドライブがてら絵鞆半島を訪ねている。温かな気持ちをもらった人々と、その人たちが暮らす土地への郷愁のような思いがある。

 私の中のぬくもりは、今もなお心地よい温かさを保ち続けている。

 

  2025年1月 初出    近藤 健(こんけんどう)

 

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  (一)

 二〇二三年十二月二十六日、幼なじみの淳穂(あつほ)が死んだ。淳穂はイタリアンの料理人だった。

 インフルエンザ罹患(りかん)から肺炎を発症し、札幌の大学病院でエクモ(ECMO)(体外式膜型人工肺)による治療を受けていた。淳穂には糖尿病という基礎疾患があった。四十日ほどHCU(高度治療室)で治療を受けていたが、力尽きた。六十四歳だった。

 一報は、二十七日の早朝のこと。淳穂の妻、さとみからのLINE(ライン)だった。中学時代、私は野球部員で、さとみはマネージャーだった。淳穂も一時期野球部にいたが、柔道部へ鞍(くら)替えしていた。さとみは夜が明けるのを待って、連絡をくれたのだ。

 朝、会社へ顔を出し、すぐに遺体の安置されている斎場へと向かった。さとみは、東京から駆けつけていた娘と二人で淳穂の傍らにいた。私は遺体を前にひとしきり泣いて、会社へ戻った。仕事を終えてからえみ子を伴って、再び斎場へ赴(おもむ)いた。

 通夜が二十八日、告別式は二十九日だという。

「ねえ、けんちゃん。お願い、あるんだけど……。弔辞、読んでもらえる? 通夜と告別式の両方なんだけどさ」

「えッ? ……(弔辞? ……両方?)」

 五十年を経ても、マネージャーは、マネージャーだ。逆らえない。しかも、現在の私の伴侶、えみ子を紹介してくれたのもさとみだった。

 このさとみのムチャ振りで、私の悲しみは吹き飛んだ。それどころではなくなったのだ。告別式にくる人は、通夜にも出ているはず。同じ弔辞はダメだろう。どうする……。何をどう書けばいいのか。ネットで調べている時間はなかった。自分の心を伝える、それしかない。

 無我夢中の二日間だった。通夜も告別式も、当日は上の空である。滞りなく弔辞を読み上げる、ただその一点だけだった。緊張の極の中にいた。それぞれの弔辞は、当日の明け方近くまでかかって書き上げた。書き始めると涙が込み上げてくる。期せずして、淳穂と過ごした濃密な二夜となった。

 

 

  (二)

  弔辞〈二〇二三年十二月二十八日 通夜〉

 アツホ、聞こえるか。みんなの溜息。まだ、六十四歳、早すぎだろう……っていう溜め息。完全に順番狂わせだな。

 まさかさ、お前の弔辞をこうして読むことになろうとは夢にも思ってなかった。だってさ、報せを聞いたのは、昨日(十二月二十七日)の朝だぜ。そりゃ、誰もが驚くさ。オレだってそうだ。

 今のオレは、ものを書くのを半分、仕事のようにしている。でもさ、弔辞なんて書いたこと、ないんだよ。どうする……。

 何年か前に、赤塚不二夫のお別れ会でタモリが弔辞を読んでいたな、覚えてるか。タモリが祭壇を前に奉書を広げていたけど、カメラが映し出した紙には文字が書かれていなかった。奉書を読むスタイルにしなければ格好がつかないので、と後にタモリが明かしていた。そんな芸当、オレにはムリだよ。

 さとみがな、今日と明日の二回お願いって言うんだよ、弔辞。そんなこと聞いたことないよ。二回も弔辞読むなんて……。でも、オレはヤルよ。オレたちは、そういう仲だから。

 オマエ、その辺の上から今のこの光景を見ていると思うんだけど。この遺影、なかなかいいよな。本当はこの写真、オレとのツーショットだよな。見事にオレがカットされてる。写真屋もやるもんだな。フェイクだよ。

 でも、アツホ、オマエが死んだことは、まだ、オレの中では、フェイクなんだよ。オマエの訃報に接した人、みんなそう思ってる。現実が受け入れられない。一番そう思っているのは、さとみだけど。

 オレたちは幸いにして「ド」がつくほどの田舎で生まれ育った。キーワードは「様似(さまに)(町)」だ。だから、幼稚園から高校まで、ほとんどの仲間が、エスカレーター式の一貫教育を受けてきた。オマエの報せだって、またたく間に広がった。蜘蛛(くも)の子を散らすようにワーッとな。

 オマエはみんなの自慢、一流シェフだ。だから、ズルイんだよ。オレなんか今死んだら、悲しんでくれる人、少しはいるかもしれない。でもさ、何年かすると忘れ去られていくんだよ。フェイドアウトするようにファーッとな。でも、オマエは違う。ここに集まってくれた人もそうだが、来られなかった人にとっても、その人が死ぬまでオマエのことは忘れないよ。みんな、オマエに魔法をかけられているんだから。オマエがかけた魔法は、みんなの舌に「味覚の記憶」として残り続けるものだ。それは、ペペロンチーノだったり、ペスカトーレ、カルボナーラ、フォカッチャ、ミネストローネ、カルパッチョ、エキストラバージンオイル、バジル、ズッキーニ……、あれ? なんだか怪しくなってきた……。

 フォカッチャって、パンだったよな。うまかったな~、あれ。パンナコッタ、栗山町の小林酒造の酒粕で作ったプリンみたいなやつ。あれは最高傑作! そう思うだけで誰もの脳裏にその味が甦(よみがえ)る。でもさ、もう二度と、二度と味わえないんだよ。それが、オレたちに突きつけられた現実、悲しみなんだよ。だからさ、アツホ、オマエのことは、忘れないよ。

 マーノ・エ・マーノでさ、一般のお客さんが帰った後、氷下魚(かんかい)を毟(むし)りながら、オレタチだけの時間が楽しかった。だから、忘れない。

 でも、マーノの後半は大変だったな。脚の手術もあったし。

 お店を閉めるとき、オレ、手紙書いてきたんだよ。何日も練って書いたんだけど、酔っ払い過ぎて、オレ、読めなかったんだよ。だから、忘れられない。

 今のお店になっても、コロナ(ウィールス感染症)もあったし、骨折したり、いろいろあったさ。そしてこの一か月ちょっと、様々な機械に繋(つな)がれて、命を保ってきた。大変だったな。やっと楽になれた。

 

 オマエのこと、忘れないから。ゆっくりと休んでください。

 

  佐々木 淳穂 様

                          近 藤  健

 

 

  (三)

 アツホ、おはよう。夕べはよく眠れたか? ずいぶん、楽になっただろう。それじゃ、約束どおり、昨日の続きをまたやるか。

 

 弔辞〈二〇二三年十二月二十九日 告別式〉

 あれは、十三年前? いや、もう十四年になるか。オレが東京から異動で北海道に戻って、すぐのころだった。

 マーノ・エ・マーノを訪ねたことがある。お昼のお客さんが、ちょうどはけた時間だった。オレがお店に入ると、誰だ? という顔でカウンターの向こうからアツホが顔を出した。

「おおッ! アツホ、久しぶりだな」

 声をかけると、さとみの顔も横からニューッと出てきたんだ。二人で、遅い賄(まかな)いを食べていたみたい。

「やー、さとみ! 久しぶりだな~」

 というと、二人並んで怪訝(けげん)そうな顔を向けてきた。

「オレだよ、オレ!」

 って言っても、ピンときていない。しまいには、

「あの……失礼ですが、どちら様でしょうか?」

 ときたもんだ。古いお客様が訪ねてきたんだろう、っていう顔だった。仕方なく、

「こん・どう・けん!」

 と明かしたとたん、ウワァーともギャーともつかない叫び声を上げて、お前たち、飛び出してきたよな。三十六年ぶりの再会だった。覚えてるか?

 幼なじみって、すごいんだよ。どんだけブランクがあって再会したってさ、一瞬にしてむかしに戻っちゃうんだから。不思議なもんだな。

 それにしても「どちら様ですか」には参ったな。それだけオレが垢(あか)抜けて変貌を遂げたと、頑張ってプラス方向に解釈している。だけど、オマエの目はさ、

「なんだ! その病気の犬のような毛並みは」

 と言ってたな。会うたびにオレの頭を撫(な)でるようになった。この遺影の笑顔も、そんなひと時の余韻が残っている。いい写真だ。

 昨日はさ、オマエがオレたちにかけた魔法の話、「味覚の記憶」のこと言ったけど。もう一ついいか。

 オレはいつも、「な、アツホ、ナポリタン、なんでメニューにないんだ。イタリアンのくせにナポリタンがないって変だろう?」

 そんな突っ込みを入れるオレに、

(バカ言ってるんじゃねえよ。それはイタリアンじゃない)っていう顔、してたな。

 あるとき、オレの高校時代の友達が奥さんの両親を伴ってマーノにきたことがあった。後でオレも合流したんだけど。その老齢な父親がメニューを見ながら、「ナポリタン」が食べたいというようなことを口にした。それをカウンター越しに耳にしたオマエは、近所のコンビニに走ったんだよな。ケチャップを買いに行ったって、後にアルバイトの女性から聞いたよ。

 初対面のお父様が、

「私はこんな美味しいナポリタン、今まで食べたことがありません」

 というようなことをオレに言ったんだよ。(なにィー、ナポリタン、出したのかよ)って思ったんだ。カウンターの向こうのアツホに、

「聞こえたか、美味しかったってよ」

 と言うとニヤリと笑ってた。ニヤリとしただけで何も言わない。それがアツホなんだよな。

(オマエ、高倉健じゃないんだから、もう少し何とか言えよ)と思うけど、オレは知ってるよ、そんなオマエのやさしさ。でもさ、オレには作ってくれなかったな、ナポリタン。

 

 アツホ、オマエは今、オレの目の前に横たわっている。コックコートを着て、コック帽を被ってさ。なんだかカッコイイよ。粋な計らいだよな。

 そんなオマエの姿とも、もうすぐお別れだ。その時間が近づいている。「見納め」「最後のひと時」という言葉がチラつき出してる。やり切れないなー。

 昨日、通夜でお坊さん、言ってたよな。死別は悲しいこと。でも、悲しまなくていい。いつも心の中にいるからって。

 そうだよな。そのとおり。お坊さん、もう席を外しちゃたから大丈夫だよな。そんなこと、わかってるよ。みんなわかってる。でも、無性に悲しい。悲しいものは、悲しい。それを受け入れるには、時間がかかる。

 

 アツホ、お願いがある。オマエがいなくなって、心の底から悲みに打ちひしがれているのは、さとみだ。オレたちには計り知れない悲しみだと思う。誰もが通る道だから、仕方がないんだよな。でもさ、さとみが仕事から帰ってきて、真っ暗な部屋に入って、

「ああ……、アツホ、いないんだ……」

 それって、辛いよ。これまでにさとみ、どんだけ涙を流してきたか。

 告別式が終わったら、みんないなくなってしまうだろ。それって……、耐え難いことだ。

 だからさ、お願いがある。時々、出てきてやってくれないか。ほんのちょっとの間でいい。オバケになって、とは言わない。ほんの少し、気配だけでも感じさせてやってくれないか。

 オレ、ナポリタン食えなかったこと、もう言わないからさ。

「パンナコッタ、また食べたいよ」って言わないから。

 だから……、お願い。

 

 アツホ、さようなら。また、会おう。

 

  佐々木 淳穂 様

                           近 藤  健

 

  2024年2月12日 初出    近藤 健(こんけんどう)

 

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 ふきのとう、漢字では「蕗の薹」と書く。ふきのとうは、フキの花のつぼみ、つまり花茎(かけい)部のことである。一般的にフキと称しているのは、その葉柄(ようへい)部分になる。花茎とは、スミレやタンポポなどのように、地下茎や根から直接出て花だけをつける茎のこと。また、葉の本体ともいうべき平たい部分を葉身(ようしん)というが、その葉身と茎との間にある棒状の部分を葉柄という。つまり、ふきのとうはフキの花だが、花と葉柄が別々の時期に別々のところから出てくる特異な植物なのである。

 つくしとスギナの関係も似たようなもので、つまりふきのとうがフキになるのでも、つくしがスギナになるのでもないのだ。知ったようなことを長々と書いているが、たまたま調べ物をしていてわかったことである。

 一般的な植物は、茎が伸びて葉が開き、その先のつぼみが膨らんで花が咲く。ふきのとうは、まだ雪の残る地面を割って、いきなりつぼみが出てくるのだから、わけが分からなくなるのだ。葉はどうした? と。

 ふきのとうは、つぼみが開くと同時に花茎、薹の部分がみるみる伸びていく。そうなる前に採って食べなければ、硬くて食用には適さない。「薹が立つ」とは、食用に適する時期を過ぎるという意味で、転じて、「盛りが過ぎる」、「年ごろが過ぎる」、という意味で使われてきた。時代にそぐわぬ不適切な言葉ゆえ、いつしか使われなくなってしまった言葉である。

 かつては、結婚適齢期を過ぎた女性のことを「薹が立つ」と言っていた。そもそも結婚適齢期とはいつか、ということになる。一般的には、体力があるうちに出産、子育てができる年齢ということだったのだろう。現在、男性の平均初婚年齢は三十一歳で、女性は二十九歳になっている。女性の初婚率が最も高いのは二十五歳から二十九歳の年齢層だ。これは、時代によって大きな差がある。年々晩婚化が進み、今では未婚の男女も相当な割合で存在している。

 私が幼いころ、一九六〇年代のことだが、「人生、五十年」という言葉をよく耳にした。だから、還暦を迎えるということは一大イベントであった。赤いちゃんちゃんこを着せられ、赤い頭巾をかぶり、座布団に座らされて写真を撮られたものである。今考えると、隔世の感がある。

 縄文時代の平均寿命は、男女ともに三十一歳だったという。現在、男性は八十一歳、女性は八十七歳になり、五十年も人生が伸びたことになる。それにしても三十代は若すぎる。それだけ過酷な環境で暮らしていたということなのだろう。

 「薹が立つ」をネットで検索してみると、遠慮がちながら、「えッ! そこまで言っていいのか」というほどの記述が出てくる。

「戦後から昭和のころまでは、三十歳以上の女性を年増(としま)と呼ぶことも多かった。江戸期、武家の女性の結婚適齢期は、十代後半から遅くて二十五歳。一般女性は、十六、七歳が適齢期であった。十九歳の女性はすでにトウが立っており、二十歳で年増、二十四、五歳で中年増(なかどしま)、ニ十八、九歳になると大年増(おおどしま)と呼ばれていた」現代感覚からすると、〝残酷〟な言葉である。

 むかしの女性の平均初経(初潮)は十六歳とやや遅かった。つまり、子供を産む能力が備わる、イコール結婚適齢期という図式になっていた。ちなみに閉経は四十代後半で、こちらは早かった。

 幼いころ、よく口ずさんだ童謡「赤とんぼ」には、「十五で姐(ねえ)やは、嫁に行き/お里のたよりも、絶えはてた」とある。三木露風の詞に山田耕筰(こうさく)が曲をつけたのが昭和二年(一九二七)である。十五歳でお手伝い(当時は女中)さんも嫁いでいき、彼女の実家からの手紙も来なくなってしまった、という意である。朝から晩まで働きずくめの貧しい生活、そんな婚家の農村の様子が透けて見えてくる。何とももの悲しい歌である。

 「薹が立つ」というのは、男尊女卑を象徴する言葉である。もし、大臣などが調子に乗って発してしまったら、即刻、更迭(こうてつ)になる強い毒性を含んでいる。猛毒だ。

 とにかく、昭和の半ばころまでは、人生が短かった。だから、初経とともに妊娠と出産を繰り返す必要があった。十人近い子だくさんの家庭も、珍しくはなかった。農作業の労働力の確保ということもあったが、ひとたび疫病などが蔓延すると、弱い小さな子からバタバタと命を落としていった。そう考えると多産も頷けるが、子のいない家庭にとっては、周囲からの目は残酷なものだったことだろう。

 慢性的な貧困と栄養不足、何年かおきに襲ってくる飢饉(ききん)。東北の惨状は凄惨を極めた。生きるためには、亡くなった家族に手を合わせ、その肉を食べざるを得ないこともあった。そんなことが有史以来、連綿と繰り返されてきた。それが、三十代、四十代までしか生きられなかった、という現実である。想像も及ばないことである。

 現在、深刻な社会問題と化しているのは認知症である。だが当時は、そんなことを経験する間もなく、人々は亡くなっていた。まれに長生きできたとしても、口減らしと称して、子供におぶわれ、姥捨(うばす)て山に置いてこられたのである。それほど食うに困っていた。幼い自分の娘を売らなければ生きていけない、そんな社会が存在していた。大昔の話ではない。

 男女という性差で見ると、若いころの男性は圧倒的に力強く逞(たくま)しい。だが、長寿社会を迎えた今、七十歳を超えたあたりから、女性の元気さが目立つ。男性はといえば、見る影もなくヨレヨレになり、衰えている。男性が瞬発力だけで生きてこられたのは、そう長い期間ではなかった。人生九十年と囁(ささや)かれる今、持続力にまさる女性の優位さが目立つ。男尊女卑とは、男がまだ元気な年齢のうちに寿命を迎えていた、そんな社会から垣間見えていたものだったのかもしれない。子に手がかからなくなり、両親を看取り、昭和遺産のような夫を見送る。そういった縛りから解放された女性たちが、元気に見えるのかもしれない。

 

 ふきのとう味噌は、私の大好物である。あの香りと苦みが、なんともいえない〝春〟なのだ。来年こそは自分で作ってみたい、そう思ってネットで検索した結果、思わぬ方向へそれてしまった。

 

  2024年11月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 夏は暑い。とにかく暑い。

 だが、日本全国、どこへ行っても猛烈に暑いというわけではない。

 私のふるさと様似町(さまにちょう)は北海道の南岸にあるのだが、夏の最高気温がせいぜい二十八度程度である。それでも、

「昨夜(ゆうべ)はムシムシして、眠れなかったー」

 という言葉をよく耳にした。私自身も寝苦しいと思っていた。住んでいる地域によって、人々の暑さの体感はまるで違う。最近では、様似も三十度近くにまでなることがあるという。気の毒な話である。

 私が東京を離れ北海道に戻ってきたのは、二〇一一年三月のことである。今年(二〇二四)で十四回目の夏を迎えたわけだが、いまだに「どうもな……」という思いがある。

 どういうことかというと、GWが終わり、六月が過ぎ、七月になっても、一向に暑くなる気配がないと感じるからだ。もっとも暑い日中、私が会社にいるせいも多分にある。八月に入って、やっと夏らしくなってきたかなと思うが、朝夕はけっこう涼しい。そんなことを感じているうちに、秋風が吹き始める。旧盆の終わりとともに、振り返ることもなく夏が立ち去っていく。ゆえに、残暑がない。そんな季節の移ろいに違和感を覚えるのだ。

 これは〝北海道の夏〟なので仕方のないことなのだ。長く閉ざされる冬を知っているだけに、「え? もう逝ってしまうのか」と思う。それより何より、自分の順応性のなさに愕然(がくぜん)とする。京都や東京で擦り込まれてきた強烈な暑さの印象が、タトゥーのように消えることなく残っている。そんな思いは、今年の夏も変わらなかった。

 暑くならないといっても、七月に入ると三十度を超す日も出てくる(北海道といっても様々なので、札幌に限定した話にするが)。二十五度を超えてくると、みな、暑い暑いと騒ぎ出す。テレビの情報番組が、煽(あお)るせいもある。

「北海道でも今やエアコンは必需品になっています」

「しばらくは二十五度を超す蒸し暑い日が続きそうです」

 などと大げさなことを言う。

 この六月の下旬に妹のマンションのエアコンが壊れた。エアコンはすぐに購入可能なのだが、取付業者が手配できないという。

「お客様、現時点でですね、最短でも八月中旬になってしまいます」

「えっ……、それじゃ、夏が終わっちゃうでしょう」

 何をどう頑張ってもムリなものはムリだと言う。強固な岩盤に弾き返されるツルハシのように、「ムリ」というむなしい響きが返ってくるだけだった。

 かつては家畜の飼料だった北海道米も、今では美味しい米として人気になっている。シャケもイカも獲れなくなった。昆布もウニもダメだ。すべては海水温の上昇のせいだという。

「北海道も暑そうですね。この間なんか、東京より気温が高かったじゃないですか」

 などとよく言われる。だが、同じ三十度でも札幌と東京では、‶湿度〟が決定的に違う。札幌でも刺すような日射しを感じるが、タールのようにネットリと纏(まと)わりついてくる不快な暑さはない。ただ、台風が連れてくる高湿度の熱波は、さすがに暑いと思う。最近は、湿度の高い日も増えてきた印象がある。それでも夕方には涼しい風が吹く。それが札幌の夏である。一日に何度もシャワーを浴びなければ耐えられないような、そんな高温・高湿度の日はない。

 襖(ふすま)の紙を波打たせる梅雨が一か月続き、どこもかしこもカビ菌に包まれる。その梅雨が明けるとともに太陽がカッと目を見開き、燻(いぶ)された鉄板の上での生活が始まる。そうなると大気が不安定になり、毎日のように夕立に見舞われる。自宅が練馬にあったので、会社帰りにしばしば駅で足止めをくらった。それはひどい雨で、特に‶練馬豪雨〟といわれていた。傘がまったく用をなさないのだ。

 先日、東京の知り合いから、

「近藤さんはいい時に東京を離れましたね。今は、本当にひどいですよ、暑さも雨も」

 そんなふうに言われた。

 確かにテレビは、連日の猛暑とゲリラ雷雨を伝えている。その猛暑も四十度超えなのだ。三十七、八度は当たり前で、猛暑日と言われる三十五度を下回ると、涼しく感じるという。明らかに身体がバカになっているのだ。その感覚はよく理解できる。かつて私もそんなふうに思っていた。

 三十度で暑いと言うと、本州の人たちからは鼻で笑われるに違いない。だが、考えてみると、一、二月の厳寒期、札幌では最高気温が氷点下の真冬日が続く。氷点下十度、十五度の日に吹雪が重なると、あっという間に体感温度はマイナス二十度を下回る。つまり、年間の気温差が五十度を超えるのだ。これが北海道の内陸部だと、夏は三十五度、冬はマイナス三十五度、七十度の気温差になる。倉本聰のTVドラマ『北の国から』の世界である。北海道民が二十五度を暑いと感じるのは、そんなところにある。

 夏と冬のどちらがいいかと聞かれると、答えに窮する。札幌は、冬が長い。十月中旬から翌四月上旬までの半年間が東京でいう冬にあたる。特に、十二月中旬から三月上旬にかけては根雪になり、風景が色を失い閉ざされてしまう。それがたまらなくイヤなのだ。

 秋風が吹き始めると、「ああ、またあの冬がくる……」と思う。私の超ネガティブな思考回路が、負の螺旋(らせん)階段を転がり落ちていく。

 

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 宝くじは、めったに買わない。買っても当たらないからだ。連番やバラなど、六千円とか九千円分を買っても、毎回、お金をドブに捨てるようなものである(溝(どぶ)と言っても、今の若者にはわからないか)。この四十年間での最高当選額は一万円、たったの一度きりだ。

「買ってもムダ、当たらない」とは思いつつ、それでも年に三、四回は買っている。買うのは、○○ジャンボというヤツだ。‶買わないと当たらない〟という思いが、‶買っても当たらない〟を凌駕(りょうが)するのだ。それが年に三、四回ある。

 二〇〇二年正月早々の「初夢宝くじ」で、下一ケタ一番違いで、前後賞合わせて一億円を逃したことがある。そもそも‶組〟が違っていた。一等の組違い賞は十万円だったが、そのときに限ってバラで買っていた。

 それまでは、前後賞を考慮して連番しか買ったことがなかった。だが、連番で買うと、一瞬にしてハズレが判明してしまう。だから魔が差したように、バラで購入していたのだ。正月早々、落胆気分を味わうのはイヤなものである。ハズレても、「初夢」があると思えば、元日の気分の悪さの受け皿になる。そんなわけで「初夢」を、年末ジャンボの〝保険〟にしていたのだ。だから一瞬でハズレがわからないバラで買っていた。この初夢ショックは、二十数年を経た今でも鮮烈なものとして残っている。

 そして今回、「バレンタインジャンボミニ」で、「初夢」を凌ぐ大ハズレをやらかした。

 ここ数年はジャンボではなく、同時発売の「ジャンボミニ」を買っている。当選確率の低いジャンボより、一等の本数の多いミニを買うようにしている。一等前後賞合わせての数億円は捨て、数千万円の方に狙いを定めている。六十歳を過ぎ、現実的になってきたのだ。

 それで今回買ったのが、バレンタインジャンボミニである。連番十枚、バラ十枚だ。若いころとは違い、抽選日に確認することはしていない。もう抽選日を過ぎただろうと、やおら宝くじを取り出し、パソコンで当選番号を確認するのだ。当たるという期待がないからだ。

 まずは連番の束を取り出し、一等から順番に下二ケタを見ていく。この下二ケタですら合致しない。今回の一等は「六一」、手元の宝くじを見ると、「六〇」だった。「おッ!」と思った。連番の二枚目、「六一」の六ケタの番号を上から見て、血圧が跳ね上がった。「一四八四六一」と読めた。もう一度、見直す。確かに「一四八四六一」、番号が合致している。だが、狼狽(うろた)えなかった。「組は?……」と目をやると、「六四組」。

「あッ、違う……」

 自分でも驚くほど、冷静だった。「初夢」の経験がそうさせていた。一等は「組下一ケタ六組」とある。私の番号は「四」。二番違いだ。組違い賞か? と思ったが、「ミニ」には組違い賞がなかった。いくら眺めてもハズレはハズレなのである。これはもう、正真正銘、〝当たったも同然のハズレ〟である。ほとんど当たっていたのだ。一等前後賞合わせて三千万円! そう思ったとたん、それまでの冷静さが一転し、動揺に変わってきた。

 パートナーのえみ子にLINE(ライン)で画像を送ると、

「えッ! これって……、ダメなの? 電話してみたら」

 どこに何と電話すればいいというのだ。えみ子も動揺を隠せない。次に私の妹。

「うわー……、何とかならないものなの?」

 それぞれに最大級の感嘆をLINEで返してくる。それはそうだ。当たったも同然の番号なのだから。当選番号案内をプリントアウトし、穴が開くほど眺めた。上空から獲物を探すトンビのように。そうしていると、一つの疑問が湧き起こってきた。

 当選番号案内には、一等から六等までの番号が、上から順にズラリと並んでいる。横には一等、二等という「等級」欄から始まり、「当選金額」、「組」、「番号」の各欄があり、一覧表になっている。

 そこで気になったのが、「一等の前後賞」の五百万円が、「一等の前後の番号」と記されていることだった。一等の「番号」欄にある「一四八四六一」の前後の番号か? もしかして、当たっている? という考えが頭を擡(もた)げてきた。だが、常識的に考えると、一等の当たり番号は、組の下一ケタの「六」を加えた「六一四八四六一」だろう。だから、その前後の番号ということだ。そうは思いながらも、藁(わら)にも縋(すが)る拡大解釈なのである。

 翌日、近所のスーパー脇にある宝くじ売り場のおばさんに当選番号案内を見せ、真意を尋ねてみた。するとおばさんは首をかしげ、

「機械で(当選番号の)確認ができるのは明後日からですから、宝くじを持ってきてください」

 という。自らの判断を避けたのだ。首の皮一枚、一縷(いちる)の望みが繋(つな)がった。

 二日後、機械判定を受けるべく宝くじ売り場へ再び出向いた。私にしてみれば、プロ野球でいうところの‶リクエスト判定〟の結果待ちの二日間だった。ブースには、あのおばさんがいた。だが、彼女は私のことを覚えていないようで、流れ作業のように宝くじを機械にかけた。結果は、やはりダメだった。

「はい、六等二枚で、六〇〇円ですね」

 とお金とハズレくじをトレイに乗せて、アクリル板の下から渡してよこした。

「……やっぱりダメでしたか、前後賞も」

 そう言ってハズレ番号の宝くじを見せると、

「え? ああ、この間の……」

 と言って、初めて私を認識した。「一四八四六一」という数字を見たおばさん、

「こんなの、初めて見ました!」

 座っていた椅子から降り、アクリル板越しに食い入るようにハズレくじを眺めている。

「番号、同じじゃですか!」

 スゴイ、スゴイを連呼して興奮している。そんな彼女の姿を見ながら、つくづく思った。宝くじとは、販売しているおばさんがこれだけ驚くほど当たらないものなのか、と。

 後日、ネットで調べてみると、私が購入した「バレンタインジャンボミニ」の当選確率は、二〇〇万枚に一本とあった。ブースのおばさんの驚きが理解できた。ちなみに一等前後賞合わせて三億円の「バレンタインジャンボ」の方は、十億円の年末ジャンボの二倍の確率に設定されており、一〇〇〇万枚に一本だという。論外だ。東京都の人口は一四〇〇万人、一人は当たるということだ。まったく、話にならん!

 それにしても、不可解なのは「組」である。「番号」が同じでも、「組」が違うとハズレなのである。「なぜだ!」と思う。三年四組の出席番号十五番は近藤だけれど、お隣の五組の十五番は小山クンなわけで、組みが違うとぜんぜん違うということだ。

 宝くじというもの、いかに当たらないように作られているか、つくづく身に沁(し)みた。非情なものである。だが、テレビCMでは、必要以上に煽(あお)り立てる。だから、ついつい買ってしまう。こういうハズレは、心底、疲れる。

 ところで、「組」って必要?

 

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 今年は暑いと思っていましたが、旧盆を過ぎると、とたんに透明感のある秋風が吹いてきました。ふり返ることもなく、夏が立ち去っていったのです。残暑? そんな未練など、残してはいきません。夕暮れの風は、肌寒いほどです。ですが、台風が湿気を伴った夏の残党を連れてくる可能性もあります。
 また、あの長く閉ざされる季節がやってくるのですね。

 

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 私のふるさとは、北海道の南岸、太平洋に面した様似町(さまにちょう)である。そこは襟裳(えりも)岬を擁するえりも町と、サラブレッドの生産地である浦河町に挟まれた小さな町だ。一帯は日高昆布の産地である。とりわけ様似の浜は、良質な昆布の採れる「上浜(じょうはま)」にランク付けされている。

 早朝から始まる昆布採りの作業は、かなりの重労働である。高校一年の夏、札幌から帰省したおり、初めて昆布干しの手伝いをした。一人前の男になりたい、そんな密かな思いがあった。

 毎年、七月上旬から九月下旬にかけて〝採り昆布漁〟が解禁となる。採ってきた昆布は、その日のうちに干し切らなければならない。太陽のほかに波や風の自然条件が整わなければ、昆布採りはできない。実際に漁ができるのは、わずかに二十日ほどになる。夏の昆布漁の時期、前浜はアリの巣を蹴散(けち)らしたような賑(にぎ)わいをみせる。

 朝五時、昆布旗が上がって磯船(いそぶね)が我先にと漁場を目指す。やがて昆布を満載して戻ってきた船に、七、八人の陸廻(おかまわ)りと呼ばれる手伝いの人々が飛びつく。船から降ろされた昆布は、次々とリヤカーに移し替えられ、波打ち際から前浜へと運ばれる。

「よす! 垢(あが)、掻(か)げ!」

 煙草を咥(くわ)えたオヤジの一声で船に乗り込み、船底に溜(た)まった海水を大急ぎで掻き出す。

「いいど!」

 の合図で、船は方向転換して再び沖へと向かっていく。手拭いでねじり鉢巻きをしたオヤジが、片手で舵(かじ)を操りながらカアちゃんから手渡されたおにぎりを頬張っている。海水で炊いたご飯の握り飯の中には、塩ウニが入っている。前浜で獲(と)れたバフンウニだ。空腹に沁(し)みわたる美味さは、言葉にならない。このウニもまた、日高昆布をたらふく食べて育ったものだ。

 午前九時過ぎに昆布旗が降ろされるまで、磯船は漁場と前浜の往復を繰り返す。前浜は干した昆布で、またたく間に真っ黒になる。昆布干しの作業は、両隣の家の分も互いに手伝いあう。年寄りから子供まで一家総出の作業だ。慣れないうちは目も眩(くら)むほどの疲労でフラフラになる。だが、夏の日差しが海面を輝かせ、干してすぐの昆布も呼吸をしているかのようにキラキラと輝いている。すべてが生きている歓びに躍動する。ふるさとの夏は、そんな活気に満ち溢(あふ)れる。

 

 いつもは、昆布干しが終わると、早々に自転車で帰宅する。時に、砂浜に寝転がることもあった。昆布の香りが一帯に満ちている。寄せては返す波の音が心地よい。カモメの喧(かまびす)しい鳴き声が響き渡る。

 その日は、疲れがドッと出て、干している昆布の傍で仰向けになっているうちに、トロリと微睡(まどろ)んでしまった。どれくらい眠っただろう。ふと目覚めると、私のすぐ横で膝を抱えて微笑む若い女性がいた。私は驚いて飛び起きた。誰だ? 何が起こっている? 私は明らかに混乱していた。するとその女性が、

「驚かしちゃってゴメンなさいね」

 と言ってニッコリとした。その女性は白っぽいブラウスにスカートを穿(は)いていた。腕も脚も日焼けを知らぬかのように真っ白だった。髪の長さ、話し声、それらがどんな様子だったか、もう五十年も前のことなので、朧(おぼろ)げなイメージしか残っていない。快活で、眩(まぶ)しいほどに健康的な都会の女性だった。

 私は海水パンツ一丁である。いつもそんな恰好(かっこう)で作業をしていたので、干した昆布さながら全身が真っ黒に日焼けしていた。この人は、いつから私の傍らにいたのだろう。私の寝顔や裸体をずっと見ていたのだろうか。羞恥心を覚えながら、ドキドキしていた。私は、十五歳だった。

 彼女は、苫小牧市の看護学生で、友達と車で遊びにきたという。キャンプだったのかもしれない。遠くの砂浜で、若い男女がビーチボールで遊んでいる姿があった。どうして彼女だけ友達の輪から外れて、私の傍らにいたのだろう……。どうやら彼女は、私が地元の漁師の子だと思い、興味を抱いて近づいてきたようだった。

 ひとしきり話をし、

「あっ、みんなが心配するといけないから」

 と言って、彼女は友達の方へ戻っていった。

 当時の私は、札幌光星高校の寮に寄宿していた。そこは一八〇名のマンモス寮で、一階には寮長先生家族も住み込んでいた。寮長先生は、学校で教鞭(きょうべん)を執るかたわら、夫婦で寮の管理を行っていた。寮長先生と呼ばれるのはそういうことだった。

 寮長先生は催眠術が得意で、ときおり談話室に寮生を集めては、それを披露していた。私は催眠術にかかりやすい性質(たち)のようで、みんなの前でよくかけられた。

 彼女はその先生に会ったことがあり、催眠術のことも知っていた。どうして先生のことを知っていたのかは、もう定かではない。そんなことがあり、話が弾んだ。

 男子校に通う生徒には、若い女性と接する機会がない。まるで異次元の生きものに出くわしたような、そんな感覚があった。目覚めたら若い女性が傍らにいた、それは夢の世界でしか起こらないことだった。私は一瞬にして彼女に魅了されていた。半世紀を経た今でも、その時の鮮烈な印象が残っている。

 海沿いの道を勢いよく自転車をこいで走る私に、友達の輪の中から、

「さようならー、さようなら……」

 大きな声で手を振る彼女の姿があった。

 翌日にはもう、彼女らの姿はどこにもなかった。

 

付記

※「採り昆布漁」は、七月上旬から九月下旬の夏の期間に、旗の上げ下げを合図に磯船を使って一斉に行われる漁である。これに対し「拾い昆布漁」は、浜辺に打ち寄せてきた昆布を拾う漁で、季節や時間に関係なく行われている。

 

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  利尻(りしり)昆布、羅臼(らうす)昆布、日高昆布……、スーパーでよく目にする昆布の銘柄です。私のふるさとは、北海道の南岸、太平洋に面した小さな町、様似町(さまにちょう)です。「出汁によし食べるによし」、万能昆布と称される日高昆布の産地です。とりわけ様似の浜は、良質な昆布の採れる「上浜(じょうはま)」にランク付けされています。

 様似町は、襟裳(えりも)岬を擁するえりも町とサラブレッドの生産地浦河町に挟まれた人口3,800人の町です。そんな小さな町を見下ろしているのがアポイ岳(ヌプリ)です。

 地球深部のマントルの一部が突き上げられるように地上に現れたのが「幌満(ほろまん)かんらん岩体」であり、アポイ岳なのです。アポイ岳は、山全体が橄欖岩(かんらんがん)によって構成されています。そんな稀有(けう)な環境がユネスコの評価を受け、ジオパーク(「アポイ岳ジオパーク」)に認定されています。

 そのアポイ岳の特異な環境は、810メートルという標高にも関わらず、海霧(がす)の影響とも相まって高山植物の宝庫となっています。アポイ岳の高山植物群は、早くから国の特別天然記念物に指定されていました。80種ほどある高山植物の中で、ヒダカソウ、アポイアズマギク、サマニユキワリなど約20種が固有種です。動物もアポイマイマイ(カタツムリ)、ヒメチャマダラセセリ(チョウ)などの固有種やエゾナキウサギが生息し、かつて国定公園に指定されたときには、「日本最大で最後の秘境」と称されていました。

 この(2024年)6月に、国定公園から国立公園に格上げされ、「北海道に日本最大の国立公園が誕生」と報じられたのが、日高山脈襟裳十勝国立公園です。アポイ岳は、この広大な国立公園の中でも異彩を放つ存在となっています。

近藤 健(こんけんどう)

<一部写真提供 加藤みゆき>

 

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 目の前に積まれた原稿の束を眺めている。これから始まる気の遠くなる作業を前に、ただ呆然(ぼうぜん)と眺めている。秋から年末にかけての毎年の恒例行事の始まりである。

 タイトル、名前、性別、生年月日と目を移していく。〇〇に住んでいる人かと確認し、職業欄へ。そして再びタイトルを一瞥(いちべえつ)し、静かに息を吸い込みながらページをめくり本文へ。しばらく読み進んでから、「あれ? タイトルなんだったっけ」と原稿のカガミを見直すこともある。

「タイトルは予感であり、本文は実感である」と言っていた人がいた。タイトルは、本文から滲(にじ)み出てきた結晶ともいえる。作品を書き終えたとき、タイトルは自ずと決まってくる。だが、そうではない場合もある。どうしようかと悩む。そんな作品に限って、テーマが分裂しているものだ。また、安易な筆名は、作品を薄っぺらなものにしてしまう。作者の姿勢が透けて見えてくる。

 エッセイ賞の選考にかかわるようになって、何年になるだろう。数百本の応募作の中から予備選考を経た二十本ほどの作品が目の前にある。時には、その前段階からの選考分にも目を通す。そうなると原稿量は五倍にも膨れ上がる。以前は、事務局から原稿の束が郵送されてきたが、今は、PDF化された原稿がクラウド上に置かれ、それを自分のパソコンに取り込んでプリントアウトする。原稿の校閲ならばディスプレイ上で行うこともあるが、選考となるとそうもいかない。

 生原稿の場合、読みだす前から、凛とした存在感を漂わせている原稿がある。万年筆で清書された原稿からは、作者の並々ならぬ思いが感じ取れる。手書きの気迫が伝わってくるのだ。プリントアウトした原稿は、手書きのものでも概して均一なものになっている。紙質も同じで、モノクロで印刷するからなおさらなのだろう。

 一度目は、作品をサッと読んで点数をつけていく。私の場合は、五段階で評価する。予備選考を経た作品には、「1」や「2」はない。応募作品が例年六〇〇から九〇〇本程度あるのだが、すでに篩(ふるい)にかけられているためだ。

 結果的に「3」と「4」を、「3下」「3」「3上」「4下」「4」「4上」と細分化し、「5」を合わせた七段階で評価していく。「5」は当選作である。二度読み三度読み、納得するまで読み込みながら、「3」と「4」を区分けしていく。自ずと最終選考に残す五、六本は「4上」の中から選ばれることになる。「5」は不動なのだが、本当にそれが「5」でいいのか、という見極めが必要になる。

 選考には孤独感はもとより、強い罪悪感がつきまとう。作者には十人十色の体験があり、それぞれに固有の思いがある。そこに立ち入って、優劣をつけなければならない。‶選者の好み〟というレッテルを貼られないよう、自らを突き放し、自分との距離を保つ。その日の体調に左右されぬよう、均一な精神の保持を心がける。そして、文学というフィルターを通して、読み手の側からの判断をしていく。文芸の価値をその枠の中でとらえて判断する。否応なしに自分の力量が試される。

 選考の最終段階に入ると、候補作を読み返しながら、一生懸命に作品のアラを捜している自分がいる。肌触りはいいのだが、表面だけきれいに繕(つくろ)われているだけなのではないか。核心に突き刺さっているか。人生の葛藤がしっかりと描かれているか。突き抜けるような力強さがあるか。言葉の力で心の底を震わす、共鳴感のある作品に仕上がっているか……。狡猾(こうかつ)な顔で作品の皮を削ぎ落していく、そんな自分が嫌になる。

 本当にオマエはこの作品を優秀賞にするつもりか。その判断は正しいか。誰もが納得するものか……、鋭利な刃物が突きつけられる。強迫観念が怒涛(どとう)のように迫ってきて、押し潰される。それは紛れもなく、私の底辺の露呈なのだ。自分がその作品を選んだ理由を書き出していく。それは、選評というにはほど遠く、自分を正当化しようとする言い訳の羅列(られつ)である。

 自分の採点が終わるまでは、あえて他の人の評価を見ないようにしている。

 怖いと感じるのは、予備選考に携わった多くの審査員が評価していない作品を、自分が採ってしまっていたときである。他の審査員と大きく評価が食い違っている。多数決ではないが、かつては安易に大勢の側に迎合していた。その方が楽だった。

 最終選考で、作家の佐藤愛子先生から、私たちの文学性を見る目の価値観が違うとお叱りを受けたことがあった。そうか、やはり自分の判断はあながち間違ってはいなかった。曲げなければよかったと後悔したことが二度、三度とあった。また、その逆のケースもあった。自信を持て、もっと自分を信じろ、と自らに言い聞かせる。それでも大勢の評価が気になる。自分がゆれ動く。

 選考が煮詰まってくると、怖くてその場を離れることがしばしばある。作品との距離を置くために、数日、原稿から離れる。そうして自分の腹を決めていく。

 佐藤愛子先生が、いつかの選評の中で次のように言われていた。

「こういう厳しい現実は、人生いくらでもあることですが、読者に訴えかけるところまで、人間が書き込めるかどうかが、いい作品になるかどうかの分かれ目です」

 核心に突き刺さる言葉である。

 私の心の底には真っ暗な部分があり、そこは純水で満たされている。そんなイメージが私にはある。その純水を共鳴させ、突き抜けていく光のような作品との出会いを求めている。私が選考を続けている理由は、そんなところにあるのかもしれない。

 

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