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■『肥後藩参百石 米良家』- 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜 -
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□ 随筆春秋HP http://zuishun.net
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うちの家系は、総じて短命である。両親祖父母合わせて六名中、四名が五十代で亡くなっている。ここだけをみると、現在六十六歳の私は、比較的「長命」の部類になる。
わが国では、六十五歳以上を高齢者という。老齢年金が満額支給になる年齢、いわゆる前期高齢者だ。十年後には、後期高齢者になる。幼年期、少年期、青年期、壮年期、中年期ときて、とうとう高年期まで上り詰めた。その先はもうない。ある日突然、ハシゴを外されることになる。
二十代のころ、六十代とは首が痛くなるほど上を向かなければならない、はるか高みにいた。私が六十五歳になる二〇二五年に、日本の総人口に占める高齢者の割合がピークを迎える、ということを学生時代に知った。それは、昭和二十二年(一九四七)からの三年間に生まれた、いわゆる〝団塊(だんかい)の世代〟が七十六歳から七十八歳、つまり後期高齢者になる時期を意味していた。医療や介護などの社会保障費が増大し、財政が逼迫(ひっぱく)する「二〇二五年問題」と囁(ささや)かれた。本格的な高齢化社会が佳境を迎えると恐れられていたが、私には遠い遠い未来の話だった。
四十代になったとき、六十代が自分にも訪れる年齢であることを、薄々感じるようになった。でもそれは、五十歳を超えた、まだまだ遠い先のことだった。だから、さほど気にも留めてはいなかった。今、その年齢を超えている。光陰は矢のごとく過ぎ去っていった。
最近外出すると、やたらと老人の姿が目につく。私が六十五歳で会社を退職し、平日の日中に出歩くことが増えたせいである。老齢年金支給日のATMの前には、年寄りによる長い列が幾重にも蛇行している。昨年から私もその仲間に入った。
病院は、どこも年寄りで一杯だ。みな、朝早くから順番待ちをし、ひたすら自分の番号が呼ばれるのを待っている。週に何日か、複数の病院をかけ持ちで渡り歩いているのだろう。やがてはそういったものから解き放たれる日がやってくる。自分の順番が来るのだ。あちらからの呼び出しである。
長生きの秘訣は、「死なないように気をつけること」である。だが、それもほどほどにしなければ、周りへの迷惑となる。「空気を読んでくれー」という雰囲気がジワリと漂い出す。やっかいな問題である。
現在、首都圏などの火葬場はどこも満杯で、自分の番が来るのに一週間も葬儀社の冷蔵庫で待たなければならないのだという。死んでからも大変である。
ある日、午前中の住宅街を歩いていると、
「おじいさん、急いでください。お迎えがきましたよ」
という奥さんらしき年配女性の大きな声が聞こえてきた。声が大きかったのは、爺さんの耳が遠いせいなのだろう。「えッ?」と思って周囲を見回すと、デイサービスのワゴン車が玄関の前に止まっていた。
2026年10月 初出 近 藤 健 (こんけんどう)
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ふだんの生活で握手を交わす機会は、そうあることではない。
最近の私の握手は、古い友人との四十数年ぶりの再会だった。
「いやー、久しぶりー」
「うゎー、懐かしいな、おい!」
互いに駆け寄り、硬い握手を交わしたのだった。
このような場合、多くの人は無意識に、どちらからともなく手を差し出し、硬い握手を交わしながら肩を抱く。そのとき差し出すのは、当然、右手である。
だが私の場合、この握手という行為を無意識で行えないのだ。手を差し出すその瞬間に、意識のスイッチが入る。左利きの私が無意識に出してしまう手は、左手なのである。左利きの者が右手で握手を交わしても、どうもしっくりこないのだ。だから、相手が私の差し出す左手と握手をすることになったら、強い違和感を覚えるだろう。そんなわけで、意識して右手を出すことにしている。
実はこのとき、再会した友達は、もう一人いた。居酒屋で一杯飲みながら三人で久闊(きゅうかつ)を叙したわけだが、そのうちの一人が左手に箸を持っていることに気がついた。
「えっ! 松井クンって、左利きだった?」
と話の腰を折って投げかけると、そうだという。私は小さく仰(の)け反った。私が差し出した右手に、彼の手が出てくるタイミングが僅(わず)かに遅れたのである。それで合点がいった。
握手では忘れがたい想い出がある。就職のため上京する日の朝、父の入院する病院に立ち寄った。父は肝硬変を患っており、前年の冬から入院していた。年を越せないと言われながら、命を繋(つな)いでいたのだ。
私のスーツ姿を初めて見た父は、
「お前を東京に出すのは、失敗だった……」
と漏らした。
「ゴールデンウイークには、帰ってくるから」
そう言って握手を交わし、病室を後にした。今生の別れを覚悟した面会だった。
一両編成の汽車に乗り込んだ私は、履きなれない革靴を脱ぎ、四人がけのボックス席に足を投げ出した。ハンカチを顔に被せ、眠る素ぶりを見せて黙って泣いた。私が病室を出たあと、父もまた布団をかぶって泣いていたと、後日、母から聞いた。
その後、父は頻繁に傾眠状態に陥っていた。
「父さん、今朝から意識が戻ってるんだけど、会うなら今しか……」
そんな電話を受けたのは、六月のことだった。私は九時間の道程をとって返した。父とは二言、三言会話を交わすことができた。再び眠りに落ちた父は、次に目覚めることはなかった。父が身罷(みまか)ったのは、それから一週間後のことである。五十一歳だった。
上京の朝に父と交わした握手は、右手だった。だが、私の左手は、父の右手の甲に添えられていた。そんな特別な握手だった。
2026年9月 近 藤 健 (こんけんどう)
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この(二〇二六年)三月、病院で小便の勢いを測定する検査をした。
現在、六十六歳の私には、幸い大病の経験はない。高血圧症と前立腺肥大症が、現時点でのいわゆる〝持病〟である。
六十歳を過ぎたあたりから血圧が高くなり出した。前立腺の方は、この三月から小便を出やすくする薬を飲み始めている。
前立腺とは、男性の膀胱(ぼうこう)直下にあるクルミ大の生殖器官で、尿道はこの前立腺の中を通っている。そのため、前立腺が肥大すると尿道が圧迫され、小便が出にくくなるのだ。肥大の原因は、加齢である。
私の場合、六十四歳あたりから、小便の勢いが弱くなってきた。特に、朝一番がよろしくない。明け方近くに小便に起きるようになった。そのときの勢いが、パッキンが劣化した公園の水飲み場の蛇口のように、ショボイのだ。
そんなことから、泌尿器科で尿流量測定検査(ウロフロメトリー検査)を行った。尿の勢いと量、所要時間を測定し、前立腺の肥大具合を診るのだ。事前に渡された検査の注意書きには、「尿がしっかりと溜まっていないと正しい検査結果が得られない。来院後は、ギリギリまで小便を我慢し、いよいよとなった段階で、看護師に合図をするように」といった内容が記されていた。
三月上旬の札幌は、まだ深い雪の中である。この日も、水分を含んだ重い雪が降っていた。うっかり小便をしないよう、私は緊張感をもって病院を訪ねた。
検査は処置室内のトイレで行われた。一見、普通の洋式トイレとなんら変わりはないのだが、便器に測定装置が内蔵されており、採尿機能もあるという。検尿カップに尿を採らなくていい代わり、便器に座って小便をするよう言われた。
便器横にあるスタートボタンを押し、ガイダンスに従って小便をし、終わったら終了ボタンを押すという単純な操作だった。だが、中年看護師の説明が回りくどかった。こちらは、とにかく小便がしたいのである。
「それではお願いします」
と言って看護師自らスタートボタンを押して、検査室を出ていった。事を終えて終了ボタンを押したが、なんの反応もない。しかたなく看護師を呼んだら、
「あら? おかしいわ」
測定結果のレシートが、出ていないと言うのだ。そこに二人の看護師が加わった。
「へんだわね」
「どうしたのかしら……」
これ以上曲がらないというほど、三人で首をかしげている。つまり、スタートボタンがきちんと押されていなかったのだ。なぜ、音声ガイダンスがないのかと思ったが、小便をしたい気持ちが圧倒的に勝っていた。結局、やり直しである。
とにかく膀胱に尿を溜めなければならない。私は三人の看護師に見送られ検査室を後にした。
まずは院内の自動販売機の前で、りんごジュースを一気に飲み干した。次に、利尿作用の高いものをと、五〇〇ミリリットルのペットボトルのアイスコーヒーを購入する。それをもって玄関の外へ出た。寒い中で冷たいものを飲むと、出やすくなると考えたのだ。我ながら自分のアイディアに、「どうだ! いい考えだろう」というような思いを抱いていた。
外は雪の降りしきる氷点下である。そんな中、アイスコーヒーをガブ飲みしているオッサンは、異質な光景だったに違いない。最初の一口、二口はよかったが、次がなかなか進まない。大食い選手権大会後半でペースダウンした選手のように、目を白黒させながら頑張ってはみたが、なかなか飲めないのだ。
大きな病院だったので、外周をぐるりと歩きながら、なんとか飲み干した。すると、尿意の前に便意をもよおしてきた。腹が冷えたのだ。想定外である。マズイことになったと思った。
院内の一般トイレで大便だけ先に出すことができれば、それに越したことはない。だが、大だけで切り上げることは可能だろうか。万一、小便をしてしまったら、これまでの努力が台無しになる。看護師の見送りを受けてから、けっこうな時間が経っていた。再び、一からのやり直しは何としても避けたい。
どうしたものかと広い院内をウロウロ歩きながら考えているうちに、腹痛の波は収まり、強い尿意をもよおし始めた。検査室で大が出てしまったらどうなるのか、そんな不安を抱えながら看護師のもとへ戻った。大のことは恥ずかしくて訊(き)けなかった。
すると先ほどの尿で尿検査ができるので、勢いの検査は立小便でいいと言う。ホッと胸を撫(な)で下ろした。
結果、小便の勢いは、それほど悪くはないという。
「どうしましょう。薬、出します?」
と医師に訊かれ、朝の小便のショボさを考えて、出してもらうことにした。
「先生……、膀胱内射精になるので、ユリーフとは違う薬でお願いします」
と小声でつけ加えた。医師の傍らにいた看護師が、しっかりと聞き耳を立てていた。
私は五十五歳のとき、突然、小便が出なくなって入院したことがあった。このとき処方されたのがユリーフで、その副作用が膀胱内射精だった。つまり、精液が体外ではなく、膀胱内に放出されるのだ。とても不快な射精だった。今の病院に変わってからは、薬も不要と判断され、処方されなくなっていた。
私の前立腺肥大症は、この五十五歳からである。以来、半年に一度、前立腺がんを含めた検査を受けている。五十五歳のときは、会陰部(えいんぶ)に嫌な痛みがあり会社の同僚に相談すると、
「それ、尿管結石ですよ。ビールをガブ飲みして石を出せばスッキリしますよ」
とのアドバイスだった。彼は尿管結石のスペシャリストだった。それを真に受けた結果、小便が出なくなり、救急車での緊急搬送となったのである。そのときは「尿閉」と診断された。要は、急激なアルコール摂取により肥大化していた前立腺が強い刺激を受けた結果、尿道を圧迫して小便が出なくなったのである。
馬齢を重ねてくると、様々な障(さわ)りが出てくる。恥ずかしい出来事も、ますます多くなるのだろう。
近所の場末のスナックで飲んでいて、たまたま隣り合わせた爺さんにこの話をすると、「そんなことは序の口だ」と一蹴された。
「そういうことも含め、人生を楽しむことよ」
たばこの煙を吐き出しながら、ひどくロレツの回らない口調で諭された。
「若いのにだらしねえなぁ。オレの迸(ほとばし)る勢い、見せるか」
豪快に笑う爺さんと、楽しいひと時をすごした。七十代後半と思しきこの爺さんを、その後何度か見かけた。だが、あるときから、爺さんの姿を見なくなった。
しばらくして、爺さんが亡くなったことを知らされた。爺さんは大腸がんで、人工肛門をつけながら飲みに来ていたという。
爺さんの豪放磊落(ごうほうらいらく)さが目に浮かび、改めて自分のショボさを思い知らされたのだった。
2026年8月 初出 近 藤 健 (こんけんどう)
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京都に住みたくて、大学を京都に選んだ。もう、四十七年も前のことになる。
受験で一か月ほど京都に滞在した。その間、従兄のアパートに居候していた。二人で街中を歩いていたとき、市バスの行き先表示を指差した従兄が、「何て読む?」と試してきた。「四条烏丸」とあった。
「……よじょうからすまる?」
と読んだら、私が「とりまる」と読まなかったことをいたく褒められた。「しじょうからすま」だという。
「京都ではなぁ『四条』は『しじょう』、『七条』は『しちじょう』、読むんや」
と教えられた。いかにも京風な読み方に、私はワクワクした。
この従兄は、私の入学と入れ替わるように大学を卒業し、札幌へ戻っている。従兄の家財道具は私が引き継いだ。
京都で生活を始めて、真っ先に教えられたのが「京の通り名の歌」という数え歌である。京都の街は碁盤の目になっていて、縦横それぞれの通りに名前がある。札幌の条丁目のように番号制だと、自分のいる位置がすぐにわかる。だが、京都では通りの名前を覚えなければ、自分の座標位置がわからないのだ。
「うちが教えたるわ」
と先輩女性から教わったのが、東西の横の通り歌「丸竹夷(まるたけえびす)」だった。その歌は、「まる・たけ・えびす・に・おし・おいけ(丸太町通、竹屋町通、夷川通、二条通、押小路通、御池通)……」と、京都御所から東寺(とうじ)までの二十七通りの頭の文字を歌い上げるものである。
この先輩、面倒だったのか、
「横さえ覚えれば何とかなる」
ということで、南北の縦の通り歌「寺御幸(てらごこ)」(三十通り)は割愛された。今だとネット検索ですぐにわかるが、当時は誰かに教わらなければそれまでだった。確かに不便は感じなかったが、私が「丸竹夷」しか歌えないのは、そんな理由からである。
京都に住んだら、ぜひ行ってみたいと思っていた寺の一つに龍安寺(りょうあんじ)があった。龍安寺は、枯山水(かれさんすい)(石庭)で有名な寺である。
電車を乗り継いで地図を片手に閑静な住宅街を歩いていた。スマホのない時代、旅行者はみな地図を持ち歩いていた。
寺の近くまで来ていながら、道に迷ってしまった。ぐるぐると歩き回っていると、住宅の土塀の修理をしている職人がいた。
「すみません。龍安寺は、この道をまっすぐでよかったでしょうか」
と尋ねると、
「違(ちゃ)うでぇ。りゅうあん寺やったらな、ここ右に行くやろ、そいでな、どんつきを左や」
と言われた。四十代半ばと思しき職人だった。教えてもらった道順よりも「りゅうあん寺」に気を取られてしまった。京都の人も間違って覚えているのか、と驚いたのだ。だが、そんな間違いは、いたるところにあった。
通常、寺の正門のことを山門(さんもん)という。山門は、俗世と聖域を分ける結界である。もともと寺が山に建てられていたことから、山門と称するようになった。
京都には大きな寺が数多くある。山門もそれ相応に立派である。なかでも、「京都三大門」と称されるのが、南禅寺、知恩院、仁和寺(にんなじ)の門だ。門前に立つと、その圧倒的な門構えに言葉を失う。
ただ、その呼称に難があった。いずれの寺も「山門」とは称していない。南禅寺、知恩院は「三門」であり、仁和寺は「仁王門」ならぬ「二王門」なのである。京都検定上級レベルの難問だ。意味があってそうしているのだろうが、それをきちんと区別している人に出会ったことがない。総じて「山門」である。
もっと悩ましいのが、金閣寺と銀閣寺である。厳密に言うと、金閣寺とか銀閣寺という寺は存在しない。金閣は鹿苑寺(ろくおんじ)、銀閣は慈照寺(じしょうじ)の境内にある楼閣(ろうかく)なのである。これらは日本史の授業で習うところであり、受験では要注意点となっている。
だが、実際の京都でも、大きく矛盾したことがまかり通っている。金閣、銀閣の近くには「金閣寺道(みち)」、「銀閣寺道」というバス停がある。そういう名称の通りがあるのだ。それどころか、鹿苑寺周辺は金閣寺町、慈照寺は銀閣寺町という町名になっている。永年にわたる誤用が正論を凌駕(りょうが)し、正々堂々と定着してしまったのだろう。当の鹿苑寺や慈照寺の見解を聞いてみたいものだ。どう抗(あらが)ってもムダ、という諦めの境地で黙認しているのかもしれない。受験時代に、正確に暗記したあの努力は、何だったのか。とりわけ京都の受験生にとっては、大いに迷惑な話だろう。
「おうちな、そないにきっちりせんでも、ええんとちゃいますやろか」
もっと肩の力を抜きなさい、と言われそうな気がする。京都に馴染むということは、そういう寛容さを求められることでもある。
2026年7月 近 藤 健 (こんけんどう)
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車の運転中に、スピード違反の取り締まりを見かけると、ドキッとする。法定速度内で走っていても、思わずブレーキを踏んでしまう。そのたびに、「善良な一般市民なんか相手にしないで、もっと悪いヤツを捕まえてくれよ」と思うのだ。
ネットを眺めていると、「国道○○号線××付近で、サイン会が行われています!」、「昨日、○○号線を快走していたら、突然、警察官が現れ、サイン会場に誘導された~」こんな書き込みがある。スピード違反で青切符(違反切符)に署名・捺印(拇印(ぼいん))することを、「サイン会」と揶揄(やゆ)しているのだ。半ばヤケクソの自虐ユーモアである。
このサイン会には、私も三度、参加した経験がある。
一度目は、父の一周忌で帰省する際、叔母二人を乗せて走っていたときだった。話に夢中になっていて、長い下り坂でスピードが出ていたことに気づかなかった。
「けっこう、スピード、出ていましたね。お急ぎでしたか」
と言われ、思わず、
「父の一周忌で……」
警察官の同情を買おうと思い、出た言葉だった。「そうでしたか。若いのにお気の毒です」と言われ、切符を切られた。二十四歳のことだった。
二度目は、私が室蘭に赴任した年だから、五十一歳である。その間、車の運転はほぼしていなかった。娘が大学の休みで東京からやって来て、久々に会ったときである。二人で近場の登別温泉へ行こうと、娘を乗せて出発してほどなくだった。交差点を通過したとたん、パトカーのサイレンが鳴り響いた。
「もう、信号が赤でしたよ」
と言われ、咄嗟(とっさ)に、
「急に信号が変わったんですよ」
と面白いことを口走ってしまった。カーブを曲がったすぐのところに交差点があり、信号が黄色に変わり、ハッとした。一瞬ためらったが、そのまま通過したのである。信号待ちをしていた車の中にパトカーがいた。お陰で、テンションガタ落ちの旅行となった。
最後は、札幌市内である。T字路を右折したところで、警察官に停められた。待ち伏せだった。駆け寄ってきた若い警察官が、嬉しそうな顔で「右折禁止です」と言うのだ。
「この十年近く、何度も右折しているんだけど……。そんな標識あった?」
と尋ねると、時間帯により右折禁止になるという。T字路には交番があり、その時間になると警察官が待ち構えているのである。その罠(わな)に、まんまと引っかかったのだ。六十二歳のことだった。
私の免許証は、サイン会のつど金色から青色に変わった。そんな青い免許証を目にするたびに、忌々しい記憶が甦(よみがえ)っていた。昨年、免許証をマイナンバーカードに統合した。免許証を目にすることがなくなり、清々している。
会社員だったころ、「私は○○年間ゴールド免許です!」と誇らしげに言っていた同僚がいた。だが彼は、道路交通法を遵守してきた優良ドライバーではなかった。単に捕まらなかっただけの強運を誇っていたのだ。
強運といえば、私も信号無視を見逃してもらったことがある。元号が昭和から平成に変わった真夜中に、凶悪犯人を現行犯逮捕したことで警視総監賞をもらっていた。その賞状を縮小コピーして名刺大にし、免許証入れに潜めていたのだ。「お守りになる」と囁(ささや)いた同僚がいた。
それを目にした警察官が、無線で照会した結果、
「コンドーさんも警察活動に協力されているので、今回は〝注意〟ということで……」
と放免になった。信号無視といってもパトカーと並んで信号待ちをしていて、私が警察官の顔色を窺(うかが)いながらソロリと車を出し、数メートル先を左折したのである。マズかったら、何か言ってくれるだろうと思ったのだ。マヌケな信号無視である。
二回目、三回目のサイン会の際には、この切り札を使わなかった。免許証と例のお守りを財布に入れているため、財布ごと警察官に渡すわけにはいかない。警視総監賞のことを口にするような図々しさはなかった。
私の母は、免許証の提示を求められた際に、免許不携帯であった。だが母は、警察官の前で十二桁の免許証番号を諳(そら)んじてみせたのである。照会の結果、番号は正しかった。そのせいかどうかはわからないが、「次回から気をつけるように」と放免されていた。四十年も前の田舎での話である。
昨年(二〇二五年)の一月、私は六十五歳で会社を退職した。そろそろ車の運転もおしまいにしようかと思っている。私は学生時代の春休みに、田舎で車の免許を取った。自動車学校の初日に運転適性試験があり、
「お前は、まれにみる運転不適格者だ。やがては免許が取れるだろう。だが、乗らない方がいい」
そんなことを担当教官から言われたのである。あれから、四十五年が過ぎた。これまでに起こした大きな事故は、追突事故だけである。五十八歳のときだった。私のぼんやり運転のせいである。車をこすった回数は、数知れない。他人に危害を加える前に、車の運転は止めた方がいいだろうと思っている。
幸い、二歳年下の妻のえみ子は、車の運転が得意である。私の運転の危うさは、彼女がよく理解している。何度もゾッとさせてきた。
年齢を重ね、少しずつ様々なものから卒業している。寂しい思いより、ホッとしているのが本音だ。もう二度とサイン会場に誘(いざな)われることもなくなる。そんな日がくるまで、サインをお願いされないように気をつけなければ、と思っている。
2026年6月 近 藤 健 (こんけんどう)
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私は、かなりの「あがり症」である。
見知らぬ大勢の人を前にスピーチをする場面では、とたんに平常心を失くしてしまう。動悸(どうき)が強くなり、顔が上気してくる。手が震え、脚が震え、唇が震え、声が震える。話をしている途中で頭が真っ白になり、話の内容が尻切れトンボで終わってしまうのだ。若いころに比べると、鈍感になってきたせいか、いくぶんマシにはなってきている。だが、過剰ともいえる緊張は、相変わらずである。
試しに「あがり症」を検索してみると、「あがり症(社交不安障害)とは……」と出てきた。「えッ? あがり症は精神疾患なの?」と思わず身構えた。
社交不安障害は「性格ではなく、治療可能な精神疾患であり、放置すると鬱病などを併発することもあるため、早期の専門医への相談が重要です」とある。そんなことを言ったら、学習発表会(かつての学芸会)で緊張しまくっている多くの小学生は、みな病気なのか? と言いたくなる。
以前に驚かされたのは、喫煙者についての記述だった。「嫌煙権」という言葉が勢いづいてきたころ、喫煙者が、「ニコチン依存症患者」と言われるようになっていた。そのころは私もたばこを吸っており、ギョッとした記憶がある。ニコチン依存症とは、「薬物依存症の一つで(略)自らの意思で禁煙をすることが不可能になり、永続的に喫煙を繰り返すという精神疾患を指す」とあった。かつての「愛煙家」は、今や「精神病者」なのかと、衝撃を受けたのだった。
そんなあがり症の私だが、三十代のころ、結婚披露宴の司会が趣味だったことがある。長年、総務の仕事をしていたので、社員の披露宴の司会をやるように、と上司から言われたのだ。嫌も応もない。それが始まりだった。
一般的な披露宴の司会のセリフを調べ上げ、台本を作って丸暗記した。全部覚えると余裕が生まれ、アドリブが効くようになる。言い間違えや多少のミスがあっても、
「私の声の震えがおわかりかと思います。実は、新郎・新婦以上に緊張しておりまして、演台の陰の脚がガタガタなのです」
と言って、演台を小刻みに震わせて見せる。失敗を逆手にとって笑いに結びつけるのだ。強い緊張を、いい方向にコントロールできるようになっていた。そんな素人丸出しの司会が思いのほか好評で、続けざまに司会を引き受けていた。あるホテルでは、土・日限定でアルバイトをしないか、と密かに誘われたこともあった。これを仕事にしようか、と図に乗りそうになった。スピーチの基本的な骨格がしっかり頭に入っていると、何とかなることがわかり、自信に繋(つな)がった。
六十五歳で会社を辞めた後、マンションの管理人の仕事をしている。午前中だけのアルバイトだ。
二か月に一度、管理人を対象とした講習会がある。私は新人なので、初めて出席する講習会の冒頭で挨拶があると言われていた。
講習会場に入ると、七十人近い爺さんが席についていた。その光景に圧倒された。明らかに私は若かった。ただ、私はハゲなので、必要以上に老けて見られる。だから、迷彩服姿で紛れ込むように、その集団に違和感なく溶け込んでいた。
簡単な自己紹介をしたあと、このまま席に戻るのも芸がないという思いが、ふとよぎった。なぜ、そんな思いになったのか、自分でもよくわからない。そして、
「こうして皆さんが一堂に会している姿は、ある意味、壮観な光景です。事前に伺ってはいましたが、驚きました。なんだか、大きな病院の泌尿器科の待合室のようですね」
私は、ドッと受けることを期待していた。だが、小さな笑いは起こったものの、思ったほどではなかった。肩透かしを食らったような格好になった。さて、この後どう締めくくろうと思ったとたん、強い緊張が襲ってきて、頭の中が白い霧で覆われた。やむなく、そそくさと切り上げたのである。相変わらずの自分に、ガッカリした。
いくらいいネタがあっても、それを言うタイミングや話の速度、声のトーンがかみ合わなければ、すべてが台無しになる。わかってはいるが、強い緊張がそれを阻害する。このあがり症、治す薬があるのなら、飲みたいものである。
そういえば、結婚披露宴の司会を盛んにやっていたころ、会場に来賓を迎え入れる直前、私は緊張の極にいた。そんな私を見かねたスタッフのチーフが、「飲みますか」とウイスキーの水割りを持ってきてくれたことがあった。以来、事前に水割りをもらい、演台の内側に隠し持つようになっていた。
今にして思えば、それが私の上がり症の薬だったのだ。ただ、結婚披露宴以外では、なかなか飲むことのできない薬なのだが。
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ふだんの生活の中で握手を交わす機会は、そうあることではない。芸能人や政治家ともなると、その頻度は格段に増えるのだろう。
私たちが握手をするのは、「はじめまして」(初対面の人と)だったり、「よろしくお願いします」(商談成立や和解)、さらには「ありがとうございました」(試合や勝負が終わった場面)や、「おめでとうございます」(送別、卒業、退職)などだろうか。
最近の私の握手は、古い友人との再会だった。予備校時代に同じ寮で過ごした仲間と、四十七年ぶりに会う機会があった。
「いやー、久しぶりー」
「うゎー、懐かしいな、おい!」
互いに駆け寄り、握手を交わしたのだった。
このような状況の場合、多くの人は無意識に、どちらからともなく手を差し出し、硬い握手を交わしながら肩を抱く。そのとき差し出すのは、当然、右手である。
だが私の場合、この握手という行為を無意識で行えないのだ。手を差し出すその瞬間に、意識のスイッチが入る。左利きの私が無意識に出してしまう手は、左手なのである。
左利きの者が右手で握手を交わしても、どうもしっくりこない。握手が、強い感情を伴って伝わってこないのだ。相手にとっては利き手なのでいいのだが、左利きにはその力強さだけが伝わってくる。試しに利き手ではない方の手で握手をしてみると、私の抱く違和感が理解できると思う。
実は、四十七年ぶりに再会した友達は、もう一人いた。居酒屋で一杯飲みながら三人で久闊(きゅうかつ)を叙したわけだが、そのうちの一人が左手に箸を持っていることに気がついた。
「えっ! 松井クンって、左利きだった?」
と話の腰を折って投げかけると、そうだという。私は小さく仰(の)け反った。
私が差し出した右手に、彼の手が出てくるタイミングが僅(わず)かに遅れたのである。それで合点がいった。
左利きが右社会で暮らす不便さを挙げると切りがない。トイレのウォシュレットボタンの位置、パソコンのマウスやポインタの矢印の向き、缶切りや草刈り鎌は最悪で、急須に至っては、それこそ万事急須(休す)だ。
だが、握手の違和感は、不便という感覚とはまた違ったものなのである。敬礼も似たようなものだろう。大勢が一糸乱れず整列する中、一人だけ左手で敬礼をしたら、おかしいだろう。左利きが自衛官や警察官になったら、真っ先に直面する壁に違いない。
刀だって左腰に帯刀するのが正しい姿である。日本社会では〝右へ倣え〟で、右に矯正されるのが、当たり前のことだった。
私が小学生のころ、父がほろ酔い機嫌で帰宅したことがあった。その父の右手の甲に、三日月のような赤い線がいくつか入っていた。握手に力が入って、相手の爪が食い込んだ跡だという。子供心に、そんな強い握手ってあるものなのかと不思議に思った。いつになく饒舌(じょうぜつ)になっていた父が、その握手をやってみせた。漁業組合に勤務していた父が、誰とどんな場面で血が滲(にじ)むほどの握手をしたのだろう。とうとう訊(き)かず仕舞いに終わってしまった。
もう一つ、忘れがたいのは、父の病室で交わした握手だった。父が私のスーツ姿を見るのは、初めてだった。
就職のため上京する日の朝、病院に立ち寄ったのである。父は肝硬変を患っており、前年の冬から入院していた。年を越せないと言われながら、命を繋(つな)いでいたのだ。私は大学の卒業式を返上し、母と交代で父を看ていた。すでに就職していた妹は、札幌だった。
私のスーツ姿を見た父は、
「お前を東京に出すのは、失敗だった……」
と漏らした。
「ゴールデンウイークには、帰ってくるから」
そう言って握手を交わし、病室を後にした。今生の別れを覚悟した面会だった。
一両編成の汽車に乗り込んだ私は、履きなれない革靴を脱ぎ、四人がけのボックス席に足を投げ出した。ハンカチを顔に乗せ、眠る素ぶりを見せて黙って泣いた。私が病室を出たあと、父もまた布団をかぶって泣いていたと、後日、母から聞いた。
ゴールデンウイークの私の帰省を制したのは、母だった。今帰って来ても、どうしようもないと言う。父はすでに傾眠状態だった。
「父さん、今朝から意識が戻ってるんだけど、会うなら今しか……」
そんな電話を受けたのは、六月のことだった。私は九時間の道程をとって返した。父とは二言、三言会話を交わすことができた。再び眠りに落ちた父は、次に目覚めることはなかった。父が身罷(みまか)ったのは、それから一週間後のことである。五十一歳だった。
上京の朝に父と交わした握手は、右手だった。だが、私の左手は、父の右手の甲に添えられていた。そんな特別な握手だった。
2026年4月 初出 近藤 健 (こんけんどう)
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■『肥後藩参百石 米良家』- 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜 -
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□ 随筆春秋HP http://zuishun.net
近年、雨の時季になると「線状降水帯」という言葉をよく耳にする。線状降水帯とは、発達した積乱雲が次々と発生し、長時間にわたって同じ場所に停滞して大雨を降らせる現象だ。その雲の下では、毎年、土砂崩れや堤防の決壊など、甚大な災害が発生している。
この線状降水帯の雪バージョンが、JPCZ(日本海寒帯気団収束帯)である。机の前の壁に貼った付箋を眺めながら「日本海寒帯……」と毎日アホのように唱えている。覚えられる気がしないのだ。「線状降雪帯」ではダメなのか、と思う。
今年(二〇二六年)の一月、札幌に大雪が降った。JPCZの仕業である。二十四時間降雪量が五四センチで、積雪深が一メートルを超えた。一月での一メートル超えは、二十一年ぶりだという。
札幌での生活を始め、十三年になる。その間、大雪で駐車場から車が出せず、歩いて出勤したことが三度あった。二月から三月にかけてのことである。
この日、妻のえみ子が昼近くに出かけるというので、私はマンションの駐車場前の雪かきをするために玄関を出た。すると、前日から降り出していた雪が、すでに長靴を超えるほどに積もっていた。数メートル進んだところで、あえなくギブアップ。パウダースノーだったが、自力での雪かきを断念した。
「雪、多すぎて、雪かきムリ。車、出せないよ。今日は諦めた方がいい」
と言うと、車道まで出てしまえば何とかなる、と言い張る。彼女は車の運転には自信があるのだ。仕方なく遠巻きに眺めていたら、車道に出る手前で車がスタックした。スタックとは、タイヤが雪の中で空転し、自力では動けなくなることである。そんな様子に、数年前の自分の姿が重なった。
そのときは、まだえみ子と一緒になる前だった。前夜からのドカ雪で、四〇センチを超す積雪があった。出勤のため駐車場を出ようとし、車道に出る手前でスタックしてしまったのだ。勢いよく車道まで出てしまえば、あとは大丈夫と思ったのである。
タイヤ周りの雪を掘り出したり、車に積んでいたタオルケットをタイヤに嚙(か)ませたりしながら、一時間以上も格闘していた。汗だくになり、疲労困憊(こんぱい)で呆然(ぼうぜん)としていたとき、
「押しましょうか」
との女性の声がした。見ると、通学途中の女子高生だった。切羽詰まっていた私は、その言葉に甘えた。車を押してもらい、なんとか車道に出ることができた。そのとき、後続車がすぐ後ろにいたため、きちんとお礼も言えないまま、発進してしまったのである。そんな苦い想い出が甦(よみがえ)った。
そのときのスタックに懲りて、スコップとスノーヘルパーというタイヤに噛ませる脱出用ボードを購入していた。だが、二人で力を尽くしても、タイヤは空転するばかり。道具が役に立たないのだ。
半ば途方に暮れていたとき、年配の男性が車を押す私の横に加わった。私たちの姿をどこからか眺めていたのだろう。
タイヤ周りの掘り方やスノーヘルパーの差し込み方、アクセルの踏み方まで事細かく助言してくれた。それでもタイヤは唸(うな)り声をあげて空転するばかり。そのうちに、通りがかりの若者が加わった。三人で車を押し、何とか脱出できたのである。お礼を言う間もなく、二人は散るようにいなくなってしまった。
周囲を見回すと、やや離れたところ二か所でも、車がスタックしていた。降りしきる雪の中、車を押す黒い人影が見えた。
この街では、通りがかった人が困っている人を助けるのは、普通のことなのである。なんの気負いもなく、自然体で見知らぬ人の車を押すのだ。そして車が溝から脱出できると、何事もなかったかのように、去っていく。
ふだん私たちは、他人に干渉することのない都会生活を送っている。一見、希薄な人間関係なのだが、困っている人には条件反射で助けてくれるのだ。どうして、そんなに優しいの? 泣きたくなるほどのありがたさを、今回、身をもって味わった。
札幌市民の〝民度の高さ〟に驚かされたことが、もう一つある。
二〇一八年の北海道胆振(いぶり)東部地震で、ブラックアウトが起こった。北海道全域が、大規模停電に陥ったのだ。札幌市は人口が二百万人弱で、街の中心部は碁盤の目になっている。交差点だらけなのだ。信号機が消えている中で、交差点では五、六台の車が通ると、次はこちら側と、誰が決めたわけでもないのに、整然と走行がなされていた。その譲り合いの見事さに、目を瞠(みは)ったのである。
スタック騒動が一段落し、自宅に戻りネットを眺めていたら、札幌の大雪の話題で溢(あふ)れていた。「札幌、終わった~」「飛行機もJRもバスも止まってる。タクシーも来ない。どうしよう……」「都市機能停止!」などである。この日は、新千歳空港で七千人が一夜を明かし、翌日も二千人が足止めを食らっている。
そんな書き込みの中に、「スタック祭り」という言葉がいくつもあった。「あっちでもこっちでもスタック祭り~」「スタック祭りで大渋滞!」とある。うまいことを言うものだなと感心した。
この日、札幌に出されていた大雪警報は、夕方まで続いた。テレビは、不要不急の外出をしないように、と盛んに呼びかけていた。
「あのまま車、出せたとしても、きっと帰ってこれなかったね」
この日の仕事をすべてキャンセルしたえみ子は、憑(つ)きものが落ちたかのように、妙に素直になっていた。
わが家のスタック祭り、〝あとの祭り〟という憂(う)き目を見ることなく、無事に終わったのであった。
2026年3月初出 近藤 健 (こんけんどう)
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二〇二五年の秋から、自分の車に〝四つ葉マーク〟を付けている。高齢運転者用のステッカーだ。今のデザインになる前は、〝初心者マーク(若葉マーク)〟の対極として、〝枯れ葉マーク〟と揶揄(やゆ)されていた。
このステッカー、身体の衰えから運転への支障が危惧される七十歳以上の高齢者が付けるものである。「努力義務」であり、義務や罰則はない。
六十五歳でステッカーを貼ることには、私自身、まったく抵抗はなかった。私は車の運転が下手クソで、クラクションを鳴らされることが多々ある。免許を取ったのが北海道の片田舎で、信号機がほとんどなく、ましてや二車線の道路など皆無の場所だった。路上運転の第一段階のコースは、地平線の広がる牧場の中だった。
運転免許を取得したのは、大学の春休みで帰省中のことだった。自動車学校初日に運転適性試験が行われ、担当教官から、
「お前は、まれにみる運転不適格者だ。やがては免許を手にするだろう。けれど、車には乗らない方がいい」
柔らかな口調で、グサリと釘を刺された。以来、「運転不適格者」のレッテルが、私の背中に貼り付いている。私の場合、加齢云々(うんぬん)以前の問題なのである。
幸い就職したのが東京で、二十八年間、車に乗らずに済んだ。本格的に運転を始めたのは、二〇一一年の異動で北海道に戻ってからである。五十一歳のことだった。
車の運転がダメなら、乗らなければいいだけの話だが、地方で暮らすには車はどうしても必要になる。仕事にも支障をきたす。
初任地の室蘭市では、会社の車を運転していた。あるとき助手席の同僚から、
「近藤さん、もう少しスピードを出さないと、逆に危険ですよ。バスにも抜かれています」
と言われ、恥ずかしい思いをした。
札幌市に来て、初めてマイカーを持ち、車通勤となった。三キロ弱の通勤距離である。
「近藤さんが、左折ばかりして会社に来ている」
そんな囁(ささや)きが聞こえてきた。
私は、車線変更がダメなのだ。右折が予想される場合、数キロ手前から右車線を走る。
「なんで右側を走っているの?」
つき合い始めてほどない助手席のえみ子から、何度か言われた。交差点ではないところで右折車に出くわすと、左車線に膨らまなければならない。左車線に後続車がいる場合、それが容易にできないのだ。仕方なく、その車の後ろにくっつくことになる。
厄介なのは車両運搬車である。左車線を走っていて、自動車販売店の前などに乗用車を積んで運ぶ車両運搬車が停まっていることがある。一車線を完全に占拠しているのだ。車線変更がままならず、このままだと、運搬車に乗り込んでしまう、そんな悪夢のような経験を何度したことか。クラクションを鳴らされるのは、そういった車線変更の時である。
「近藤さん、ずいぶん運転には慣れたようですね。冬道も平気じゃないですか」
と同僚に言われ、
「毎朝、時速三〇キロの猛スピードで走っているからな」
と、胸を張って答えてやった。さすがにアイスバーンの道では、スピードが出せなかった。
そんな私とは正反対なのが、妻のえみ子である。彼女には、天性ともいえる運転の素質がある。えみ子は私の二歳年下だが、今すぐにでもタクシードライバーとして通用する技量があるのだ。スキーの滑降選手よろしく、スイスイと車線変更を繰り返す。片手運転でやってのけるのだ。買い物先の狭い駐車場にも、一発で車を入れてしまう。だから、難しい駐車場に出くわした場合は、えみ子に運転を替わってもらう。私は、車線変更と並んで車庫入れに難があるのだ。
ただ、私の感覚からすると、えみ子の運転は荒々しい。彼女は、不必要にスピードを出す。前の車との車間距離を取らないのだ。
「もっと離れて! (前の車に)急ブレーキ、かけられたらどうするの」
「大丈夫だって。ほんと、心配性なんだから」
と意にも返さない。
私に言わせると、煽(あお)り運転なのだ。助手席にいて、脚だけではなく全身に力が入る。相撲の大一番を観戦するときのように、手に汗握り前のめりになるのだ。ツルツルの冬道でも、平気でスピードを出す。助手席にいて、何度も神に祈りそうになる。
近年、高齢ドライバーによる店舗などへの突っ込み事故や高速道路の逆走ニュースを頻繁に目にする。大型商業施設の前には、車両の突っ込み防止の鉄製のポールが、当たり前のように設置されている。高齢者の運転は、大きな社会問題なのだ。
昨年、私は六十五歳で会社を退職した。自由の身になって、にわかに閃(ひらめ)いた。爺(じい)さんマーク(四つ葉マーク)を付けたら、安心して運転ができるのではないか、と。
ステッカーの効果は、思いのほか大きかった。クラクションを鳴らされることが、目に見えて減った。このステッカーには、特殊な効果がある。周囲のドライバーは、私の車に「配慮する義務」があるのだ。高齢ドライバーのニュース報道も効いている。私はハゲ頭なので、見た目は七十歳超えの堂々たる老人なのだ。
運転しながらルームミラーをチラリと見ると、後ろの車が明らかに警戒している。私の不必要なブレーキランプの点滅に、不信感を抱いているのだ。怖くて近づいてこない。おかげで車の運転が格段に気楽になった。なんでもっと早く爺さんマークを貼らなかったのかと、悔やむほどである。
だが、問題の本質はそこではない。私は車を運転してはいけない人間なのだ。他人を殺める道具を操(あやつ)っているようなものである。爺さんマークに気をよくしている場合ではないのだ。
札幌市民に、これ以上の迷惑はかけられない。絶対にぶつからない自動車が発明されるまで、車の運転を控えようと真剣に考えている。
2026年2月 初出 近藤 健 (こんけんどう)
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