二〇二五年、正月の慌ただしさが落ち着き、六十五歳になった。そんな年になる自分を想定していなかった。だが、どこから眺めてもジイさんである。とりわけ写真に写る自分の姿は無残なものだ。
そのうち、私は命が尽きて死ぬ。その順番がいつくるのかはわからない。身近なこととして、‶死〟がまとわりついてくる。幼なじみの同級生は一七〇名ほどいるが、すでに二十人近くが鬼籍に入っている。実際は、その二倍以上はいるかもしれない。ほとんどの者がふるさとを出ているので、風の便りでしか消息がわからない。私もそんな一人なのだが。
二〇二三年、暮れも押し迫って同級生が亡くなった。インフルエンザから肺炎になって逝ってしまった。札幌で親しくしていたので、通夜・告別式では、弔辞を読んだ。
三十代、四十代で友達の死を知らされたときの衝撃は大きかった。だが、最近では「ああ、あいつも逝ってしまったか」程度にしか思わなくなってきた。ふるさとを離れ五十年、幼なじみとはいえ、半世紀も会っていない者ばかりだ。また、身近な人の〝死〟に慣れてしまったせいもある。さらに、こちらの鈍感力が増大してきたということもあるだろう。年を取るということは、そういうことだ。何事に対しても、反応が鈍くなる。そうでなければ精神が持たず、こちらが参ってしまう。うまくできているものだ。
死は誰にも等しく訪れる。不可避である。死んだらどうなるのだろう。誰も教えてはくれない。人間のご先祖、ホモ・サピエンスが誕生してから二十万年といわれる。その間、人類は連綿として生死を繰り返してきた。だが、そんな基本的で単純なことが、わからないのだ。
AIが人知を凌駕(りょうが)する勢いをみせているが、この素朴な疑問には答えてくれない。生成AIは「宗教や哲学が異なる見解を持っている。科学的には議論が続いている分野だ。あなたはどんな考えをもっていますか?」と逆に問いかけてくる。肉体は朽ちても、魂が別の世界に行くのか。そしてまた、輪廻転生(りんねてんしょう)によりリセットされて、ふたたびこの世に舞い戻ってくるのか。それとも、まったくの‶無〟に帰してしまうのか。何もかもがわからない。そもそも、神や仏といったものは存在するのか。
私の高校は、カトリック系のミッションスクールだった。宗教の時間に神父さんから聞いた話を覚えている。神父さんは、学校の敷地内にあるレンガ造りの古い修道院で集団生活をしていた。神なんて見たこともないのだから、信じろと言われてもムリだ。そんなふうに反発する十六、七歳の私たち生徒に対し、穏やかな口調で次のような話をした。
水中で生活するヤゴは、仲間がある一定の年齢になると姿を消します。水生植物の茎を伝って上の世界へと行って、戻ってこなくなるのです。
ある日、上の世界に興味を抱いた若いヤゴが、年長者の後を追って茎を上っていったのです。しかし、上に出ようとすると頭がガーンと水面にぶつかり、どうしても弾き返されてしまうのです。
やがてある年齢になったとき、スーッと水面に出ることができたのです。そこは昇ったばかりの太陽が輝く、眩(まばゆ)い世界でした。その柔らかで心地よい朝の光を浴びていると、体が硬直を始め、背中が割れて羽が出てきたのです。ヤゴはトンボになって空を自由に飛びまわることができるようになりました。信じ難いことです。このことをヤゴの仲間に知らせようと試みたのですが、水面にガーンと弾き返され、中に入っていくことはできませんでした。
という話である。そして次のように続くのだ。
地面にしゃがみ込んで、アリが忙しそうに巣穴を出入りしている様子を見たことがあるでしょう。木の枝で引っ搔(か)き回すと、彼らは慌てふためき逃げ惑うけれど、やがて大勢で修復にとりかかる。彼らは人間の存在には気づいていないのです。天災に遭った、くらいにしか思っていない。我々にも同じことが言えるのではないだろうか。
君たちは、目に見えるものだけを信じる、神は見えないから信じられないと言います。はたして、そう言い切っていいのだろうか……
そんな論法になっていく。当時は、説得力があるなと感心して聞いていた。
例えば街中を歩いていて、ビルの工事現場に差しかかった時、上空から大きな鉄骨が落ちてきて私の頭を直撃したとする。私は即死だ。まったく予期せずして死んだことになる。痛いも苦しいもない。そのとき、私が自分の死を認識するのは、死んだ後ということになる。
これが病死だと、苦しみが増大し「ああ、間もなく私は死ぬ……」と理解できる。やがて意識が遠のく。だがその場合でも、自分が死んだかどうかの認識は、やはり死後となる。「あ、オレは死んだんだ」と。そう考えると、即死も病死も同じではないか。死んでからでなければ、自分が死んだかどうかがわからない。
ただ、心肺が停止しても、数分は脳が生きている。そうなると、耳が聞こえる可能性もある。自分が死んで騒いでいる周りの音で、自分の死を理解できる場合もあり得る。ただ、鉄骨が頭を直撃した場合は、そんなことも叶わない。
よく聞くのは、「成仏していない」という言葉である。「この世に未練があり、天上界へ行けずにいつまでも霊魂が浄化されずに浮遊している」といった類のものだ。それは、霊媒師などの特殊能力者を介しての言葉となる。つまり、自分の死後に自分の死を認識して、死を納得して受け入れたか、この世に未練はないか、ということである。
また、臨死体験というのがある。死にそうになって、三途の川まできたとき、川向うからすでに死んでいる両親や祖父母などの身内が、「お前はまだ早い、こちらにくるな」とさかんに言っている。目覚めたら家族が見守る病院のベッドにいた、という話である。これは、人が死に瀕した場合、脳の前頭葉にある海馬部分が活発に活動して起こる体験だという説がある。死の間際にだけ覚醒する脳の仕業らしい。
何やらややこしいことを考えてはみたが、結論は出ない。私が敬愛する作家の佐藤愛子さんは、若いころから死んだら‶無〟になると信じて疑わなかった。そういう世界は胡散(うさん)臭く、興味もなかったという。だが、北海道に建てた別荘で、数多くの心霊現象を体験して体調まで崩し、死後の世界を信じざるを得なくなった。同じ体験をしてきた娘の響子さんも同様のことを言う。私は著作からだけではなく、直接本人たちからそのお話を聞いている。その別荘で話を聞いたこともあった。
そんなこともあり、死んだらハード(肉体)は朽ち果てるが、ソフト(魂)はしばらくその残像を引くのではないか、死後に自分が死んだことを認識できるのではないか、とぼんやりと考えている。それまで強く感じていた肉体の痛みなどといった苦痛が突如、スーッと消える。宇宙飛行士が大気圏を脱して宇宙空間に放り出されたときの、無重力状態の感覚である。幽体離脱とは、そのようなものではないのか。そのとき、
「あれッ? オレって……もしかして死んだ?」
そう思うのではないだろうか。ただ実際は、意識が遠のいており、臨死体験の中でそう思うのかもしれない。その後はどうなるのか……、やはり死んでみなければわからない。トンボと同じ体験をするのだろうか。
生の対極に死があるのではない。生の延長線上に死がある。ある程度生きてきて、そんなことがぼんやりとわかってきた。ただ、まだ、しばらくは死にたくない。
追記
この作品を書いている最中(さなか)、かねてより療養中だった母が身罷(みまか)った。満八十九歳だった。この二月一日、四十九日法要を執り行った。死んだらどうなるか、死をもって去って逝く母を間近に見守ってきたが、その答えは闇の中である。
2025年2月 初出 近藤 健(こんけんどう)
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