こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

2000年、40歳を機にエッセイを書き始めました。2001年からは、北日本石油㈱のHPの片隅「Coffee Break Essay」のコーナーで発表していました。2020年に定年退職を迎え、終了しています。
2014年から過去の作品に加筆しながらここでの発表を始めています。時間の堆積の中に埋もれてしまった作品をつまみ出し、虫干しをかねて少し新しい風を入れてやろうと思っています。たあなたの琴線に触れる作品が見つかれば幸いです。

なお、本文の内容は基本的に初出の時点です。また、文中の数詞は、縦書き仕様のままとなっています。

 私は、サラリーマン生活のかたわら、趣味でエッセイを書いている。

 昨年(二〇〇五年)に続き、今年も文藝春秋の『ベスト・エッセイ集』に拙作が収録されることになった。

 一報をもらったのは、土曜日の朝だった。全身に鳥肌が立った。思わず外に飛び出して、パンツを下ろして万歳三唱をしたい衝動に駆られた。変体ではないが、ケタ外れのとんでもないことをしたくなったのだ。そうでもしなければ、激しい動悸と、ワナワナ震える足が治まらなかった。正直、二年連続はないと思っていた。このエッセイ集への収録は、二十五歳のときに見た夢だった。

 その日は一日中、フワフワした気分ですごした。寝る前に、四リットル入りのペットボトルの焼酎、「大五郎」で祝杯をあげた。珍しくスルメを炙(あぶ)って食べた。

 異変はその夜に起こった。正確には午前三時半である。熟睡中の私は、腹痛で目を覚ました。元来、私は胃腸が弱い。胃が重苦しくて早朝に目覚めることがしばしばある。それだろうと思った。

 ところが、横を向いてもうつ伏せになってもどうにもならない。そればかりか、ますます痛みは増大する。これは尋常ではないと、這(は)うようにして蒲団を抜け出し、階下へ降りた。胃痙攣(けいれん)だと思った。スルメがいけなかったかと考えた。酒気はすっかり抜けていた。

 胃痙攣の対処法を探そうと、ノートパソコンを手繰り寄せ、床に転がったまま電源を入れる。指がこわばり、キーボードが叩けない。やっとのこと画面を表示させたが、読み続けられなかった。二階では妻と娘が寝ている。今、起こしたところでどうにもならない。朝を待とうと思った。

 痛みの中で、作家佐藤愛子先生のエッセイを思い出していた。かつて佐藤先生は、真夜中に腎盂炎(じんうえん)の激痛に襲われたことがある。お嬢さんが隣室で寝ていたが、不要な心配をかけまいと脂汗を流しながら、じっと耐えた。その結果、痛みのため二、三度気絶したという。並みの根性ではない。その話が頭をかすめた。

 だが、万が一を考え、非常用の持ち出しリュックに着替えと財布、保険証を入れて側に置いた。その間にも痛みはますます強くなり、背中まで痛み出した。声を出すと多少苦痛がまぎれる。居間のドアを閉め、タオルを口にくわえて唸(うな)った。脂汗が流れた。

 しばらくして娘が降りてくる音がした。体を起こし、なんでもないような顔をつくって、「おッ、小便か」

 と問うと、 

「どうした、チチ……」

 ギョッとしている。唸り声で目が覚めたという。万事休すと観念した。オレは腹が痛いから、今から救急車を呼ぶ。心配はいらない。ママをそっと起こしてこいと命じた。何たる敗北、佐藤先生にはかなわないと思った。

 妻は、長いこと精神疾患を患っており、この騒ぎに巻き込むのは避けたい。だが、黙って病院へいくのも問題がある。妻の不安を増大させることになると考え、やむなく起こすことにした。

 午前五時、どうしてもついていくと救急車に乗り込んだ妻を留まらせ、ひとりで病院へ向かった。救急隊員が、

「大丈夫ですよ、我々にまかせておいてください」

 といってくれたので妻が渋々納得した。

 けたたましいサイレンの音とともに救急車は走り出した。私は救急車の寝台にしっかりとくくりつけられていた。中年の救急隊員が、

「何か心当たりはありますかね」

 と問うので、スルメを食べたことをいうと、

「えッ、スルメ? 硬いスルメ?……」

 まるでスルメを食べたのがいけなかったような口調である。ネズミやカラスを捕って食べたというのならまだしも、スルメくらい誰だって食べるだろう。やわらかいスルメなどあるわけがない。八代亜紀だって「……肴(さかな)は炙ったイカでいい」と歌っているではないか。そんなことを考えながら、痛みを紛らわせていた。

 寝台の上で揺られながら、新聞配達しか走っていない休日の早朝なのだから、もっと速く走ってくれと祈るような思いでいた。病院までがひどく長く感じられた。

 搬送された先は大学病院だった。私を迎え受けた中年の看護師が、

「ん……、イシかな?」

 とささやいて、紙コップを持ってきた。尿検査の結果は数分で出た。

「やはり、尿管結石で間違いないですね」

 ひどく眠そうな顔の若い医者にいわれた。スルメでも胃痙攣でもかった。

 看護師が、

「産みの苦しみですよ。さあ、頑張って産みましょう」

 と冗談半分でおどけてみせたが、こちらはそれどころではない。子供が二、三人いそうな看護師で「何よそんな痛み、ダメねェ、男は」とでもいいたげな余裕の微笑を浮かべていた。

「痛み止めですからね。ゴメンなさいね」

 という声が頭の上でしたかと思う間もなく、いきなり私のパンツを下し、あっという間に座薬を入れた。プロの早業である。数時間前、パンツを下ろして万歳三唱したい、と考えた自分はもはやどこにもいなかった。それでも痛みが治まらず、点滴を受けている間中、悶え苦しんだ。

「痛み止めの注射、しますよ。痛いですからね、いいですか」

 と例の看護師に脅され、何で痛みを止める注射が痛いのかと、思う間もなく息が止まった。手術後、麻酔が切れたときに使う痛み止めだという。十分ほどで、痛みがウソのように消えた。

 午前八時、私は何事もなかったように病院を後にした。途中、自宅に電話をすると、横浜から義母が駆けつけていた。全員が心配の渦(うず)の中にいた。そういうこともあろうかと、尿管結石とわかった時点で医師に事情を説明し、這うような格好で病院の玄関にいって、自宅に電話を入れておいたのだが、私の努力は報われてはいなかった。

 長時間の激痛の後遺症はあったが、みんなを安心させるため、駅前の喫茶店で待ち合わせ、モーニングコーヒーを飲んだ。

 陣痛にははるかに及ばないが、尿管結石の痛みには恐れ入った。

「私のピストル、水鉄砲だとばかり思っていたら、弾丸も出るようだ。痛い祝砲になってしまった」と締めくくりたかったのだが、翌日の泌尿器科での検査の結果、石が見当たらないという。レントゲンにもエコーにも映らなかった。造影剤で腎臓まで調べたが、ない。出たのではないかと医者はいうが、そんなことはない。尿管結石といわれてから、細心の注意で放尿を見守っていたのだ。石を見逃すほど、私の口径は太くはない。

 「努力の結実」という言葉があるが、私の場合、時間がかかった分「結実」が「結石」に変化したようだ。

 かくして痛い祝砲は、空砲に終わった。

 

  2006年6月 初出  近藤 健(こんけんどう)

  加筆履歴 2014年9月、2020年5月、2021年6月

 

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近藤 健(こんけんどう) HP https://konkendoh.com

■『肥後藩参百石 米良家』- 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜 - http://karansha.com/merake.html

□ 随筆春秋HP 同人誌 随筆春秋 (themedia.jp)

□ 随筆春秋Wikipedia https://w.wiki/3vQ8

 会社のホームページにエッセイを書いて六年(二〇〇六年時点)になる。数えると一三〇作を超えている。書き始めたころは、せいぜい十編程度でギブアップだろうと踏んでいた。

 エッセイは誰がどこで読んでいるかわからない。それなりの覚悟で発表してきた。海外で読んでくれている友人もいた。恐る恐る書いていたのだが、そのうち緊張感が薄れてしまった。同人誌の公募で賞をもらったのがいけなかった。自分をコントロールしていたつもりが、調子に乗った。

 賞をもらった経緯を実見しないままエッセイにし、選考委員であった作家の佐藤愛子先生のことを好き勝手に書いてしまった。そのエッセイを読んだ方が、佐藤先生ご本人へ注進に及んだ。

「私、そんなこといってないわよ」

 佐藤先生のご自宅を訪ねた同人誌事務局の方が、先生から私の話を聞いた。後日、その話を聞き、穴に入りたい気分であった。

 思いもよらぬ出会いもあった。

 私には、大正十三年(一九二四)生まれの大叔父がいる。この大叔父の祖先が、元禄赤穂事件にいささかかかわっている。

 元禄十五年(一七〇二)、吉良邸に討ち入った四十七士は、その後大名四家に分散しお預けの身となり、翌年、切腹を仰せ付けられる。細川家にお預けとなっていた堀部弥兵衛の介錯を行ったのが米良市右衛門で、大叔父はその直系の子孫に当たる。私はその話をエッセイにしていた。

 それを読んだ東京の赤穂義士資料館(ネット上の仮想資料館)長の佐藤誠氏が、熊本の史家津々堂(ネット名)氏にその情報を提供した。津々堂氏は「肥後細川藩拾遺」というホームページを持っており、細川家と二千家に及ぶその家臣についての研究内容を発表している。

 その津々堂氏が自身のホームページで私の捜索を呼びかけた。すると電話帳のソフトを持っているという方が現れ、札幌の米良姓の電話番号と住所の提供を受けた。津々堂氏からの手紙が、大叔父の次男のもとに届き、大叔父の目に触れた。

「うちの事情を事細かに知っている、小山次男って誰だ!」

 大叔父は驚いた。

 小心者の私は、ホームページにエッセイを掲載するにあたり、できるだけ目立たない名前を考えた。学生時代、出席番号順でいくと私(近藤)の前にはいつも小山クンがいた。小山クンの次の男という意味で小山次男と装った。ペンネームではない。偽名である。

 騒いだ大叔父が思い当たる限りの親類に電話をかけ、最後に、実家の母のもとに連絡が入った。

「あんた、小山次男って、知ってるかい」

 唐突な母の言葉に動転した私は、素直に自分のことと認めた。気恥ずかしさもあって、親兄弟はもちろん、家族にさえホームページの存在を明かしていなかった。友人でさえ、気心の知れたわずかな者だけにしか知らせていなかった。

 津々堂氏の達筆な書簡での問い合わせに、八十二歳の大叔父は答える気力がなかった。同居している長男も忙しさにかまけた。数か月後、今度は佐藤誠氏から会社経由で問い合わせが舞い込んだ。かくしてこの二人との親交が始まった。

 佐藤誠氏は、今年三十四歳であるが、赤穂義士の研究では他の追随を許さない方、と津々堂氏は賞賛する。この二人のホームページは、趣味やオタクと称されるものとは、明確に一線を画していた。お二方とも真摯な研究者である。この二人の該博ぶりには、ただただ驚嘆するばかりである。

 佐藤氏との出会いで、大叔父の家に伝わる古文書の内容が初めて詳(つまび)らかになった。それにより、米良家四百年、十六代にわたる系譜が完成した。津々堂氏からは、米良家の古文書に登場する二十数名の熊本藩士についての詳細を教えてもらった。この二人は、わが家系のかけがえのない恩人となった。

 さらに、もうひと方。

 ある日、偶然にもフェリシアーノおじさんという方のホームページにいき当たった。大きな文字ばかりで飾り気のないホームページである。不思議に思いながら読み進め、疑念が解けた。

 この方は、五十九歳の日本人で、全盲の方だった。二十二歳の秋に突然の眼底出血に襲われ、四〇〇日の入院を経、全盲で退院した。入院中、デビューしたオーヤン・フィーフィーや小柳ルミ子の姿を記憶に留めているという。浅間山荘事件のころである。

 フェリシアーノ氏のホームページに、私のエッセイがリンクされていた。

 なぜ、目が不自由なのにパソコンができるのか。しかも自身のホームページまで作っている。私などは、ホームページも作れず、検索もままならない。どうしてそんなことができるのだろうという好奇心にかられ、フェリシアーノ氏に直接メールで問いかけた。

 返事はすぐにきた。勝手にホームページをリンクしたお詫びから始まっていた。

「貴殿のHPをパラム化するにあたり、IEで貴HPにアクセスを試みたのですが、どうしても音声化できませんでした。Google検索で連絡の手段を探したものの手がかりがなく、どなたか視力のある方に頼めばよかったと……」

 私は、興味本位でメールをしてしまったことに後悔した。黙って静観していればよかった。フェリシアーノ氏の人柄がにじみ出る文章に、罪悪感を覚えたのである。

「ウエブサイトのコンテンツをIEを使用して読む場合、私たち盲人には使い勝手がよくありません。そこで、盲人用に開発されたアプリを使用しているのですが、そのアプリに使うパラメータファィルを作成し、私のHPに登録させていただいているのです……」

 IE、アプリ、パラメータファイル……何のことかさっぱりわからない。お手上げである。

 さらにフェリシアーノ氏のメールは、ご自身のホームページの解説に及ぶ。

「NEWS to Speechはフリーウエアで、盲人用のブラウザで、音声で文字データを出力します。そのブラウザに「パラムファィル」と呼ばれる小さなテキストファィルをプラスしますと、目的の記事に簡単にアクセスできるようになります。つまり……」

 フェリシアーノ氏のコンピューターの知識には舌を巻く。

 何より感心するのは、彼のメールには誤字がない。文字にカーソルを合わせると音声ソフトにより読み上げが始まり、「例えば柴田」と漢字に変換したい場合、「此れの下に木、たんぼの田」と読み上げられ、大変賑やかです、という。さらに「詳細読み上げモード」などいくつかの読み上げ方法があり、それらを駆使して文章を作成しているのだという。

 彼は私に理解を促そうと言葉を尽くし、懇切丁寧に解説してくれるのだが、どうにもついていけない。いくら音声が読み上げてくれたとしても……という私の疑問は払拭できなかった。フェリシアーノ氏はまったくの闇の中で作業を行っている、それが私の理解を超えるのである。

 フェリシアーノ氏との出会いで、多くの盲人の方々がネット上でコミュニケーションをとっていることがわかった。その中には、自身でホームページを運営している人もいる。 フェリシアーノ氏は、私のエッセイを九州の知人から紹介され、自身のホームページで視聴覚障害者向けに公開してくれていた。

 現在、私のエッセイには、月間約五、〇〇〇件を超えるアクセスがある。私のエッセイは、大半がオチャラケである。しっかりと磨きをかけなければ、と心引き締めた次第である。

 さて、次はどんな出会いがあるだろうか。

 

  2006年5月 初出  近藤 健(こんけんどう)

  加筆履歴 2008年10月、2015年1月、2020年5月、2021年6月

 

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近藤 健(こんけんどう) HP https://konkendoh.com

■『肥後藩参百石 米良家』- 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜 - http://karansha.com/merake.html

□ 随筆春秋HP 同人誌 随筆春秋 (themedia.jp)

□ 随筆春秋Wikipedia https://w.wiki/3vQ8

 (一)

 東京高輪の泉岳寺といえば、赤穂義士ゆかりの寺として有名である。だが、その泉岳寺の裏手に、義士切腹の地があることは、ほとんど知られていない。

 泉岳寺の裏、二本榎通りを挟んだ向かいに近代的な高層アパート、都営高輪一丁目住宅団地がある。隣は高松宮邸(執筆当時)である。この閑静な一帯が、かつて肥後熊本藩五十四万石の藩主細川家の下屋敷(後の中屋敷)があった場所である。

 元禄十五(一七〇二)年十二月十四日、主君浅野内匠頭(たくみのかみ)の仇を討ち、本懐を遂げた赤穂義士一党は、大名四家に分散しお預けの身となった。大石内蔵助(くらのすけ)以下十七名は、この細川家に預けられた。

 翌元禄十六年二月四日午後二時、幕命を帯びた使者により、切腹の申し渡しが行われ、即日執行された。

「切腹仰せ付けられ候段、有り難き仕合せに存じ奉(たてまつ)り候」

 とは、その際の大石内蔵助の口上である。

 家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた細川家は、十七人の切腹人に対し、十七名の介錯人を選定した。切腹の場所は、大書院舞台側の上の間の前庭で、背後に池を背負った場所だった。この都営アパートの奥まった一画である。

 

 うだるような暑さの中、さんざん歩き回った私は、やっとの思いで「大石良雄外十六人忠烈の跡」と記された案内板を見つけていた。

 そこは鬱蒼とした潅木(かんぼく)に覆われた一画であり、私はその木陰で吹き出る汗をぬぐっていた。切腹の場所は塀で囲われ、正面には木製の門扉がある。門扉の隙間から恐る恐る中を覗くと、すぐに大きな平石が目に留まった。この一画だけ時間が止まっているような錯覚にとらわれた。無数のセミの声が、頭上から絶え間なく降り注いでいた。

 

 真っ白い幔幕(まんまく)が張りめぐらされ、切腹の座には三枚の畳が敷かれた。畳の上には木綿の大風呂敷が延べられている。切腹刀を手にした白装束の義士の斜め後方に、緊張の面持ちで介錯人が控えている。すでに抜き身の太刀を上段に構え、切腹人の挙措に神経を研ぎ澄ましている。次の瞬間、鋭い閃光がきらめいた。

 

 潅木の梢(こずえ)の上には九月の青い空が広がり、強い残暑の日差しが艶やかなクスの葉を照らしていた。首筋を汗が伝う。冷たい汗だった。この平石の位置が、義士切腹の座にあたる。

 

 切腹終了後、「切腹の庭を清めましょうか」という家臣の伺いに、

「忠義の者どもの聖地である。清めるには及ばない。……十七人はこの屋敷の守り神である」

 細川家で義士の接待に当たっていた堀内伝右衛門が、藩主綱利の言葉として伝えている。

 綱利は討ち入り直後の義士引渡しに際し、総勢八七五名の家臣と十七挺(ちょう)の駕籠(かご)と予備駕籠五挺を用意させた。一行が屋敷に到着したのは、午前二時を回っていた。深夜にもかかわらず、即夜の引見を行った。一党の「忠」「義」に対し、武士としての「礼」をもって応えたのである。その後も細川家は、大藩の威力と識見をもって、義士たちを優遇した。

 この十七名の介錯人の中に、米良市右衛門勘助という人物がいる。泉岳寺発行の小冊子に、今もその名が窺える。市右衛門は堀部安兵衛の父、堀部弥兵衛金丸(あきざね)の介錯を務めた。

 

  雪はれて思いを遂ぐるあした哉

 

 武士(もののふ)の気概横溢(おういつ)する弥兵衛七十七歳の辞世である。義士最年長であった。

 私はセミ時雨の中に佇みながら、三百年の時を経、やっとこの地にたどり着いた、という安堵(あんど)にも似た思いに包まれていた。この介錯人米良市右衛門が、私の母方の祖先にあたる。

 

 (二)

 私の大叔父(母方の祖母の弟)、米良周策の家の神棚から、古文書が出てきたのは昭和三十八年(一九六三)のことである。周策の父親は昭和八年(一九三三)に亡くなり、兄もまた太平洋戦争に招集され、抑留先のシベリアで果てている。米良家には、「女は神棚に触ってはいけない」という家訓があり、神棚は数十年もの間、放置されていた。

 昭和三十三年、私の曾祖母が亡くなった。続いて祖父が脳溢血で倒れ、その看病をしていた祖母がこれまた急死。周策にとっては、母親と姉を相次いで失ったことになる。たて続けの不幸に、これは何かあるに違いないと、神憑(かみがか)りの婆さんの神託を仰いだ。

 お告げは、謎めいていた。

「獣を殺める者がいる。倒れている。それは壁にくっついている。だから悪いことが起きたのだ」

 と何とも要領を得ない。みな頭を抱えた。家中探したが見当がつかない。そうしているうちに、米良家に何年も開かれていない神棚があることに気がついた。

 恐る恐る開けてみると、中から真白いキツネが二体と古文書、それに細川家の家系図が出てきた。

 神棚は壁にくっついている。中から出てきた二体のキツネのうち、雌が倒れていた。周策は、町役場に勤めるかたわら、狩猟を行う。お告げが解けた。

 その神棚から出てきた古文書に、堀部弥兵衛の介錯にかかわる記述がみつかり、北海道の片田舎に大きな騒ぎが巻き起こった。このとき私はまだ三歳で、この騒動の記憶はない。

 私は数年前から趣味でエッセイを書いているのだが、たまたまこの話をネット上で公開していた。それを読んだ熊本の史家の眞藤國雄氏が、自身のホームページで、札幌にいる大叔父の消息を問いかけた。すると、電話帳のソフトをもっているという人が現れ、札幌在住の二名の米良姓の住所の提供を受けた。さっそく眞藤氏は、私のエッセイを添えて問い合わせの手紙を出した。その一通が、周策の次男の元に届いた。長男は電話番号を公開していなかった。

 次男から長男のもとにいる周策に手紙が転送され、再び大騒ぎが巻き起こった。

「うちのことをことこまかに知っている小山次男という人物は、一体何者だ」ということになった。

 周策は、知りうる限りの自分の姉たち(ほとんど他界している)の子孫に電話をかけた。

 判事を退官した甥が、

「個人の情報を無断で公表するとはもってのほか、法的手段に訴えるべきだ」

 と息巻いた。だが、小山次男なる人物が誰なのか、一向にわからない。最後に、実家の母のもとに電話がきた。母は周策の姪(姉の子)にあたる。母から私のもとに電話があった。

「あんた、小山次男って知ってるかい」

 ストレートな母の問いかけに、意表を衝かれた私は、それはオレだ、と素直に認めた。母は私がエッセイを書いていることを知っていた。だが、ペンネームや会社のホームページでエッセイを公開していることまでは、明かしていなかった。気恥ずかしさがあったのだ。

「なにー、ケンが書いだってか。たいしたもんだな」

 驚いた周策も、私の文章に感激してくれていたようである。

 八十二歳(二〇〇五年)の周策は、体が思うように動かない。長男も忙しさに紛れて眞藤氏への返答を出しそびれていた。そんなある日、今度は会社を経由して東京の赤穂義士研究家の佐藤誠氏から、問い合わせが舞い込んだ。

 佐藤氏との親交は、ここから始まった。佐藤氏は熊本の眞藤氏のこともご存知で、私のエッセイを眞藤氏に紹介したのも佐藤氏であった。現代の歴史研究家は、インターネットを駆使し、密接に情報の交換をしていた。後日連絡をとった眞藤氏によると、佐藤氏は赤穂義士の研究では他の追随を許さない方だという。義士切腹の地の訪問も、この佐藤氏から教えてもらって実現したのである。

 

 (三)

 佐藤誠氏の後ろ盾を得た私は、本格的な米良家の資料探索を開始した。まず、米良家から昭和三十八年に出てきた三種類の古文書を借り受けた。ひとつは、一九〇ページに及ぶ細川家の系譜である。あとの二つは、米良家の由緒を書いたものと過去帳の写しで、後日、「米良家先祖附写」、「米良家法名抜書」と佐藤氏に名を付してもらった。いずれも江戸期から明治初年にかけて書かれたもので、素人には読み下すことができない。佐藤氏はその文書の翻刻と現代語訳を作成してくれた。

 さらに佐藤氏は、この二通の古文書をもとに系譜を作成した。寛文七年(一六六七)に死去した初祖から、明治三年(一八七〇)に家督を相続した九代目までのものである。九代目以降は空白になっていた。

 そこで再度米良家に問い合わせると、除籍謄本が三通あるという。除籍謄本とは、死亡や結婚などで除籍され、カラになった戸籍謄本のことである。

 米良家にあった除籍謄本は、曾祖父である四郎次(しろうじ)(周策の父)が明治二十二年、熊本から屯田兵を志願して北海道に渡り、その後浦河に本籍を移してからものである。そこで、曾祖父を遡るべく札幌市と熊本市に除籍謄本の請求を行なったが、八十年という保存年数の経過により、すでに処分されていた。

 だが、この三通の除籍謄本により、九代目以降の空白が埋まった。周策は十三代目であり、高校生(二〇〇六年当時)の孫は十五代目にあたる。米良家四百年の歴史が、初めて一本の線でつながった。大名家ならまだしも、下級士族(三百石)でここまで判明するケースは稀だという。

 この調査の過程で、もうひとつの発見があった。佐藤氏と連絡を取り合うようになってから、何度か、米良亀雄なる人物が家系にいないかと訊かれていた。もちろん誰も知る者がいない。今回、除籍謄本を手繰っていて、周策の伯父が米良亀雄であることが判明した。

 さっそく佐藤氏に報告すると、

「神風連(しんぷうれん)の乱で戦死した米良亀雄という人物が市右衛門の末裔(まつえい)では、という私の推定は当たっていた」という興奮気味のメールが返ってきた。

 神風連の乱とは、明治九年(一八七六)に熊本市で勃発した新政府に対する士族の反乱である。亀雄とのつながりが明らかになった夜、佐藤氏は自身のホームページで米良亀雄について触れている。

 

 墓は熊本市本妙寺常題目(じょうだいもく)墓地にあり、名は「実光」という。神風連の乱では熊本鎮台(ちんだい)歩兵営(熊本城)を襲撃して奮戦したが、弾丸により重傷をうけ、岩間小十郎宅に退いて、立川運(はこぶ)、上田倉八、大石虎猛、猿渡常太郎、友田栄記らと共に自害した。二十一歳のことである。

 この亀雄さんの墓を捜索した熊本の史家故荒木精之(せいし)氏は、亀雄さんの墓を見つけた感想を、自著『誠忠神風連』において二首の和歌にしている。

 

  藪(やぶ)をわけさがせし墓のきり石に御名はありけりあはれ切石

 

  まゐるものありやなしやは知らねども藪中の墓見つつかなしえ

 

 荒木氏は、漸(ようや)くに墓を探し当てた。参る人の誰もいない墓が藪の中にあって、何とも悲しい情景である、と結ばれていた。

 

 残念ながら、私にはこの「神風連の乱」に関する知識がなかった。かろうじて士族の反乱として、受験時代にその名を記憶していただけである。この神風連の乱を前後し、各地で不平士族の反乱が多発している。最後は、明治十年の西南戦争であった。

 さらに佐藤氏によれば、この米良亀雄の叔父市右衛門(のちの左七郎、九代目)の「戦死」と記されている年号と、西南戦争が符合するというのだ。

 帯刀が禁止され、断髪令が下り、俸禄までも召し上げられ、丸裸にされた武士たちが暴発したのである。そんな時代の荒波に、私の曾祖父たちも翻弄(ほんろう)されていた。

 

 今回の探索で私が興味を覚えたのは、それまでまったく伝わっていなかった曾祖父の足取りが、わずかながら確認できたことである。それまで曾祖父を知る人も、資料も何も残されていなかった。思いもかけない除籍謄本の出現により、その本籍の変遷と家族の生没によって、曾祖父の足跡を垣間見ることができた。

 曾祖父米良四郎次は、今からちょうど一四〇年前の慶応二年(一八六六)に熊本で生まれ、兄亀雄が自害した年に、わずか十二歳で家督を相続している。父親を五歳、弟を七歳、そして母親を十四歳で失っている。兄亀雄が家督相続する以前、先に父親から家督を継いでいた叔父(左七郎)から、数年で亀雄に家督が移っている。このことからも明治初年の混乱が窺える。

 熊本藩に残る『細川家家臣先祖附(せんぞづけ)』は、細川家が家臣に命じて由緒書を提出させたもので、現在、原本は永青文庫(東京目白台の細川家下屋敷跡地にあり、細川家の歴史資料、文化財を保存。現在の理事長は、細川藩主家十八代当主で元首相の細川護煕(もりひろ)氏)の所蔵となっている。『米良家先祖附写』は、細川家に提出した由緒書の写しであり、代々加筆され明治三年七月の左七郎の筆で終わっている。

 

 (四)

 武士の時代は完全に終わっていた。だが、彼らにはその現実が受け入れられなかった。時代の残滓(ざんし)ともいえる存在の中で、過去の幻影にしがみついて暮らしていた。だが、そんな生活にも限界があった。武士の気概を持ちながら生きる、その最後の手段が屯田兵だった。

 屯田兵制度の発足は、明治七年である。北方警備と北海道の開拓を目的とし、時の開拓使次官の黒田清隆の発案により、札幌の琴似を皮切りに入植が開始された。興味深いのは、屯田兵制度の創設の発端が、西郷隆盛の建議によるものであることだ。当初、西郷は屯田兵の司令官を希望していた。その後下野(げや)し、西南戦争の首謀者(しゅぼうしゃ)となる。周りから担ぎ上げられたとはいえ、西郷もまた旧時代の人であった。

 新天地を求めて、開拓団に加わる者がちらほら周りに現れてきた。北海道には広大な手つかずの土地が豊富にあり、開墾しただけ自分のものになる。しがらみも何もない土地で、再出発しようじゃないか、と呼びかける人もいた。聞こえてくるのは、夢のようないい話ばかりだった。

 明治二十二年(一八八九)、二十四歳の四郎次は二歳年上の妻ツルと三歳の長男義陽、それと生後七ヵ月の長女栄女を伴って熊本を発った。またこのとき、四郎次の育ての親ともいえる亡叔父左七郎の妻、春道院(俗名不詳)も一緒だったものと思われる。屯田本部差し回しの御用船は、二一〇八トンの相模丸である。四郎次は刀剣、甲冑などの武具はもちろん、藩主から拝領した代々の品々に加え、夥(おびただ)しい数の家伝の文書を携え、乗船した。それは二度と再び故郷には戻れない旅だった。

 旅立ちを前にした慌しい日々の中、四郎次は菩提寺の宗岳寺へ赴いた。先祖代々の墓を持って行くことは叶わない。宗岳寺にいくばくかの寄進をし、墓守を僧侶に託した。当主として、せめて祖先の証しだけでも持っていきたい。厳しい残暑の中、吹き出す汗を拭(ぬぐ)いながら、ひとり静かに過去帳を写しとった。

 

 津軽海峡を通過したころから、空気が一変した。九月中旬、不安と期待の交錯する中、四郎次一家はついに北海道に降り立った。上陸した彼らが真っ先に目にしたものは、すでに色づき始める山々の紅葉であった。

 札幌までの道中が思いのほか長かった。雑木林の間から、マッチ箱のように建ち並ぶ兵舎の屋根が見えてきた。どの家も細い筒を持ち、そこから白い煙が立ち上っている。生まれて初めて目にする煙突だった。札幌郡琴似(ことに)村大字篠路(しのろ)字兵村六十五番地、そこが新たな生活の拠点であった。

 引越しの荷を解く間もなく、初雪を見た。長旅の疲れと、想像を超える寒さに、幼い子供たちが次々高熱を発した。夢のような生活を聞かされていた妻ツルにとって、現実はあまりにも厳しかった。こんなはずではなかった、という悔恨の思いが胸に去来する。涙を流さなかった日はなかった。南国で生まれ育った者が経験する、初めての長く厳しい冬だった。当時の耐寒設備は、きわめて劣悪だった。一緒に渡道した春道院は、最初の冬を越すことができずに、翌年二月に亡くなっている。

 

 明治三十七年、屯田兵制度が廃止される。四郎次には十八歳になった義陽を筆頭に、五人の子供を抱えていた。

 明治四十五年、四十七歳の四郎次は浦河に本籍を移している。営林署に勤務し、国有林の監視の仕事を得、転居したものと思われる。

「外出の時はいつも袴(はかま)をはいていた」

 現在、浦河に住む大正九年生まれの大叔母キクが、幼いころの父親を記憶している。現在存命する四郎次の子は、周策とすぐ上の姉キクの二人だけである。

 だが、このキクの記憶は、幌泉郡での記憶だった。札幌を出た四郎次は、直接浦河に入ったのではなく、現在のえりも町の外れの集落にいた。そのあたりの経緯は、深いベールに包まれている。

 四郎次は、六十八歳で他界している。かねてから自分の出自が気になっていたキクが、米良家の除籍謄本を取り寄せた。私が米良家から借り受けたものである。

 除籍謄本で見る限り、四郎次には少なくとも十四人の子がいる。そのうちの五人が本妻ツルの子で、あとの九人は妾(めかけ)の子であった。私の祖母も含め、周策もキクも妾の子であった。この妾が私の曾祖母チナである。今回、除籍謄本を手繰って、私は初めてその事実を知った。

 四郎次とチナとの間の最初の子は、屯田兵制度が廃止された翌年の明治三十八年に生まれている。

 チナの本籍は、幌泉郡大字歌別村番外地とあり、昭和三年に四郎次の戸籍に入籍した時点では両親がすでになく、チナ自身が戸主となっていた。二十歳で一人目の子を生んだチナは、四十三歳で四郎次の戸籍に入籍している。四郎次との年齢差は二十歳で、長男の義陽と同じ歳であった。

 四郎次の除籍謄本には、本妻やその子、孫、さらに、後妻とその子らが加わり、十八名が名を連ねている。この除籍謄本を見る限り、本妻を含めその子らも複雑な人生を歩んでいる。

 若くして死んでいく子供たちの届出を、四郎次が行っている。ツルの死は大正十四年で、この届出は同居の義陽が札幌で行っている。ツルの死亡住所は、長女栄女の二人目の夫の所在地である。この栄女は、十歳で養子先から復籍している。

 昭和五年に死亡した義陽の死亡届は、四郎次の手により網走郡美幌町に届けられている。義陽夫婦には子供がいなかった。栄女の後夫との間に生まれた女子が、義陽の養女となっているが、義陽の死にともない、わずか一年で養子縁組を解消し、四郎次の籍に復籍している。義陽の嫁は翌年、青森の実家の籍に戻っている。

 次女照も二人目の夫と離婚し、その後三人目の夫も亡くし、結局、東京で死んでいる。

 次男、三男の存在は、この除籍謄本ではわからない。長男の次がいきなり四男となっているためである。このひとつ先の屯田兵時代の除籍謄本がないのが残念である。札幌市西区役所によれば、平成七年(一九九五)に除籍謄本が処分されているという(除籍謄本の法定保存年数は八十年である)。西区の戸籍係は、札幌全域で除籍謄本の探索を行ったが、どこにも存在しなかった、とわざわざ電話をくれた。あと十年早くこの作業をしていれば、と悔やまれてならない。

 とにかく複雑に戸籍が錯綜(さくそう)している。それはそのまま複雑な人生を物語っている。本妻ツルの子たちは不遇な境遇のもと、次世代に米良姓を残すことなく去っていった。

 だが、気になることがひとつある。熊本の眞藤國雄氏のもとに寄せられたもうひとつの札幌の米良姓の存在である。四郎次の次男、三男は夭折したのではなく、その子孫が生き継いでいるのではないか、という思いが頭を掠(かす)めた。

 

 (五)

 四郎次の死後、残されたチナや未婚の子供たちは、生活に窮した。すでに嫁いでいた娘アキ(私の祖母)のもとに同居することになる。アキの夫は隣町の様似(さまに)郡様似町で銭湯を営んでいた。娘たちはそこから嫁ぎ、兄は出征していった。

 大叔父周策は十四番目に生まれた末っ子で、四郎次五十九歳の子である。六人いた男子の中で、ただひとり後世に米良姓を伝える存在となった。だが、この大叔父も太平洋戦争では九死に一生を得ている。

 第十六嵐特別攻撃隊、通称八田部隊としてゼロ戦に乗って出撃したのだが、途中エンジントラブルで洋上に墜落。南洋を三日間漂流した。たまたま通りかかった日本の航空母艦に拾い上げられ、終戦を迎えている。(後日の調査で、この事実に齟齬(そご)が判明する。詳細は近藤健・佐藤誠著『肥後藩参百石 米良家』(花乱社刊)を参照されたい)

 それぞれが時代の困難に遭遇しては、奇跡ともいえる幸運に助けられ、米良家は今日まで続いてきた。そこには、いくつもの「もし……だったら」が折り重なっている。

 家督相続においても、三代目、五代目は養子である。五代目の子の有無は定かではないが、四代目の娘を四代目の弟の子に嫁がせ六代目とし、急場を凌ぎながら米良の血をつないでいる。

 また、明治三年(一八七〇)から四郎次が家督を継ぐまでの七年の間に、三人の当主が次々と亡くなっている。四郎次の家督相続年齢が十二歳であったことを思うと、いかに大変な時代であったかが窺える。

 現代の尺度からすると、四郎次の行動は理解に難しい。だが、それぞれが生きた時代がある。「そんな時代だったんだよ」という、諦念にも似た結果論で強引に括るしかない。だから、もしこの曾祖父が妾を作っていなかったら、米良家の存続はなかったろうし、私自身も存在しなかったことになる。

 古文書を眺めていると、その時代を生きた人々の様々な人生模様が浮かび上がってくる。その事実に光を当ててやることが、不遇にして死んでいった者たちへの鎮魂につながる、そう私は信じている。

 

 米良家の資料を探索し始めたころ、熊本の眞藤國雄氏から佐藤誠氏を通じて史家らしい問い合わせがあった。素人にはきわめて難解ではあるが、興味深い質問である。

 

「肥後の名家である菊池家は、菊池義武の代に宗家(そうけ)は断絶しております。義武の大叔父、菊池国重が日向米良に移り、米良氏を称しました。

 国重の四代孫の(米良)重隆の代より、寄合交代衆として将軍家に参府拝謁しています。幕末の当主米良則忠は、勤皇の行動を起こし、子武臣は維新後、菊池氏に復姓し華族(男爵)に列しました。

 米良氏は、肥後人吉・相良(そうら)藩の付庸(ふよう)という身分でしたが、なぜ寄合交代衆の家格を得たのか大変疑問に思うところです。

 市右衛門家の米良氏の出自はいかなるものでしょうか。日向米良氏とのつながりなどもし分れば、ご教示いただけると幸いです」

 

 日向米良家との関連の問い合わせであった。

「なんじゃそりゃ。自分の兄弟のこともよく分らないのに、そんな難しいことわがるわけないべぇ」

 十三代周策の弁である。

 眞藤國雄氏の問いかけは、我々が初祖と考えている米良家の祖先の、さらにその先の存在を示唆するものである。

 そこで私は、眞藤氏が把握している北海道の米良姓の提供を受け、調査の手紙を出した。四郎次の系譜を同封し心当たりを訊ねたのである。

 札幌の二件を含む七名の米良姓のうち、二件は宛先不明で戻ってきた。一人から回答を得たが、私の家系とは直接の関係はなかった。だが、その回答は興味深いものだった。

 

「私は、米良一族の本家、熊野別当家、実方院の直系です。先祖の姓は昔から米良ですが、呼び名は熊野別当何某と呼ばれておりました。私どもの古文書では、米良、妻良、目良は、一族なりと記されています。

 九州の米良につきましては、過去に宮崎の西米良で調査したことがありますが、詳細は不明でした。ただ、熊野水軍の一部が九州に住みついた経緯や、島津家との家紋争いの後、監視役として一族の中より九州に住みついた者もおり、その流れの中に、九州の米良姓が存在するのではないかと考えております」

 

 上川郡標茶町(しべちゃちょう)の米良氏の回答なのだが、この内容は、眞藤氏の質問にあった肥後の菊池家のさらに先を示唆するものである。この米良氏は、いわば、米良家の源流の子孫の方であった。

「熊野別当家の米良氏とは恐れ入りました」

 眞藤氏も驚いておられた。

 ここまでくると、さすがにお手上げである。あとは、この私の文章を目にした専門家からの情報提供を受けるしか手立てはない。

 

 (六)

 あるとき、たまたま赤穂事件関係の本を眺めていて、「栗崎」という姓が目に留まった。私はハッとして除籍謄本をめくった。四郎次の次女照が昭和三年に嫁いだ相手が「東京市本所区柳島梅森町二十六番地の戸主、栗崎近之助」とある。ドキッとした。

 この本は以前に佐藤誠氏からもらったもので、野口武彦著『忠臣蔵―赤穂事件・史実の肉声』(ちくま新書刊)である。最初この本を読んだときは、除籍謄本の入手前だったこともあり、栗崎の記述は読み過ごしていた。

 吉良上野介(こうずけのすけ)が、江戸城松の廊下で浅野内匠頭(たくみのかみ)に斬りつけられた際、御典医の栗崎道有(どうう)がその手当に当たった。道有は、当代随一の外科医と称される南蛮医である。

 インターネットで検索してみると、この松の廊下事件後も、道有はしばしば本所の吉良邸に出向き、上野介の予後の処置を行なっている。「栗崎」というそれほど一般的でない姓と、本所という共通の地名に、栗崎近之助が道有の子孫ではないかと先走ったのだ。

 佐藤氏にそのことを伝えると、早速に返信が届いた。

「栗崎道有は、幕臣として江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)という系図集にも載っています。しかし、これ以後の子孫について、私は詳しい情報を持っておりません。道有は、伝来の文書も手放したらしく、現在は東京大学附属図書館にあります。

 栗崎の墓は吉良と同じ中野区上高田の萬昌院功運寺にあって、ご子孫が建てた卒塔婆(そとうば)がありました。施主としてご子孫の名前があったように思います」

 佐藤氏の該博ぶりには、改めて舌を巻く。佐藤氏はお寺を訪ねていた。

 さらに検索していくと、栗崎家が代々長崎で開業し、道有自身も長崎から上京していることがわかった。長崎といえば、有明海を挟んだ対岸が熊本である。道有の末裔の栗崎道隆氏が、熊本市本山町で医を生業としている、という記述があった。四郎次の熊本での居所は島崎(しまさき)で、本山町との距離はわずか数キロである。元禄期の米良市右衛門の居所は、今の熊本市役所付近の手取(てとり)で、本山町とはさらに距離が近くなる。

「この道隆氏のご令姉トキ氏は東京女高師の出身で、森山辰之助氏(前青森県師範学校長)夫人となり、『婦女新聞』の長い愛読者だったが、昭和十二年春、他界された」という記述をインターネットで見つけた。この記述が正しいとすれば、道隆氏の生まれは明治中期以前と推測できる。四郎次と同世代の可能性もある。ここで〝熊本〟という、新たな共通のキーワードが加わった。

 だが、私がドキリとした最大の根拠は、四郎次が自分の娘たちを次々と看護師(看護婦)にしていたことである。当時の田舎のこととしては、とても珍しいことだった、と祖母アキの言葉として母が伝えている。現に照のすぐ下の妹ハルは、医者に嫁いでいる。栗崎近之助が医者だったとしたら、その確証はいよいよ深まることになる。

 ここまで共通点がそろってくると、近之助が道有の子孫ではないかと思いたくなる。熊本での四郎次と栗崎家との接触は、十分に考えられる。熊本の米良家では、道有と上野介の関係のことは、もちろん承知していたはずである。問題は、北海道に渡ってからの四郎次との接点である。たとえ道有とは無関係な栗崎家だったとしても、娘の照を東京の本所に嫁がせているのは事実であり、東京と北海道の片田舎との間に、何らかの接点が存在していたことになる。

 これまでの私の推理が正しければ、吉良上野介の手当てに当たった医者の末裔(まつえい)と、その上野介の首を討ち取った一党のひとり、堀部弥兵衛の介錯を行った米良市右衛門の子孫とが、二二五年の時を経て再びめぐり合っていたことになる。私の血が再び騒ぎ始めた。

 赤穂義士に討ち取られた上野介の首は、その翌日に泉岳寺にから吉良邸に戻っている。その首と胴体を縫合(ほうごう)したのは栗崎道有である。道有は首だけではなく、ほかの刺し傷も丁寧に縫い合わせている。上野介の亡骸は、牛込の萬昌院に葬られた。道有自身の墓もこの萬昌院にある。

 大正七年(一九一八)、牛込の萬昌院は中野区上高田の功運寺に合併された。上野介も道有の墓も功運寺に移されている。その時、上野介を納めた瓶棺は、無傷で掘り出されている。

 

 先日佐藤誠氏から、思いもかけないお誘いのメールをもらった。堀部安兵衛のご子孫にお引き合わせいたしましょう、というのである。私は思わず身を乗り出した。

 米良家の名代として、どんな口上を述べようか。あれこれと考えあぐねた。

「元禄十六年の切腹の節は、御役目とはいえ貴殿の父上の首を刎(は)ね……どうもすみませんでした」というのもおかしい。かといって「見事な最期でありました」と適当なことをいうわけにもいかない。どうしようか思い悩みながら、ワクワクした。

 大叔父にもこの報告をしなければならない。待ち合わせの日程まで決めていたのだが、土壇場で都合が悪くなり、三〇三年ぶりの再会は頓挫(とんざ)した。その後、改めて日程を調整して、対面が実現した。奇(く)しくもその日が、二月四日となった。義士切腹の日と重なったことに、偶然とは思えぬものを感じた。

 

 真実を求め歴史を掘り下げていくということは、過去からほんのわずかに顔を出している糸の端をたぐっていく作業である。この糸は、いわば〝縁〟である。人と人とのつながりを丹念にたどっていくと、人間の喜びや楽しみ、そして夥(おびただ)しい悲しみと苦しみがまとわりついてくる。思いもかけない発見があり、予期せぬ人物と遭遇する。そしてその糸の先は、未来につながっている。

 死者から伸びる一本の糸が分岐を重ね、複雑に絡み合いながら今を生きる我々生者につながっていく。母の血を遡上(そじょう)しながら、そんなことを強く感じた。

 

  2006年5月 初出  近藤 健(こんけんどう)

  加筆履歴 2007年4月、2014年7月、2020年5月、2021年6月

 

 付記

 2013年6月1日、『肥後藩参百石 米良家』― 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜 ― (近藤健・佐藤誠共著)を、福岡市の花乱社より刊行。

 

 米良周策 2019年10月8日死去(享年満95歳)

 山本キク 2020年4月26日死去(享年満99歳)

 

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 小学校の帰り道、よく石蹴(け)りをした。そんな名残が、ふとした拍子に目覚めることがある。

 東京に暮らして二十三年(二〇〇六年時点)になる。会社からの帰り道には石ころがない。この歳になっても、そのことをもの足りなく感じる。

 昭和四十年代、私の育った北海道の田舎では、国道すらまだ十分に舗装されてはいなかった。当然、学校までは砂利道である。

 そんな道をとぼとぼ歩きながら、何気なく目についた石ころを蹴飛ばす。数メートル先にころがった石をまた蹴る。二、三回目には、道端の草むらに入って見失ってしまう。だが、まれに、いつまでもついてくる石がある。そんな石に特別な愛着を覚え、思わずポケットに入れていた。私の机の引き出しには、そんな石がごろごろしていた。

「どうするの、石ころばっかり集めて」

 母がよく嘆いていた。

 砂利道には、タイヤで磨耗され、艶やかな濃緑色や群青色の石が頭を出している。そんな石も掘り起こしては持ち帰った。だが、圧倒的に多かったのは、河原の石である。

 河原には、緑、茶、橙、白と色とりどりの石がある。小石が清流の底で陽光を浴び、生き生きと輝いていた。

 だが、それらの石を持ち帰ると、途端に色褪(あ)せてしまう。表面が乾いて白っぽくなるのだ。水をかければまた生気を取り戻すが、河原で見ていたのとはどこかが違う。石が本来の場所から持ち去られたので、精気を失ったのだ。そんなふうに思っている。

 引き出しの石を取り出しては、撫(な)でたり、重量感を確かめたりして楽しんでいた。この石は、どうやってできたのか、宿題の合間によくそんなことを考えた。握り締めていた石がしだいに温まってくる。そんな石のぬくもりが好きだった。

 岩石は、その成り立ちにより、火成岩、堆積岩、変成岩に大別される。中学の理科で教わった。石の誕生は、二億年から一億三千万年以上前である。たとえば石灰岩は珊瑚の死骸であり、河原でよく目にするチョコレート色の石はチャートと呼ばれ、放散虫(プランクトン)などの死骸である。いずれも赤道付近の海底堆積物で、海洋プレートに乗り、何千万年という時間を旅し、海溝から数千メートルの地底に沈み、高圧下で岩石となったものである。それが地殻変動で再び隆起し、秩父などのとんでもない山奥の河原に、散らばっている。

 千年前、一万年前といわれると、まだ何とかなる。だが、一億年となると想像が及ばない。人間の尺度では、もはや〝無限〟である。その辺に無造作に転がっている石ころが、永遠に近い歳月を経ていると考えただけで、ワクワクしていた。

 私の本棚には、いくつもの石が並んでいる。いまだに拾う癖が抜けない。

「その石ころ、どうするの」

 と妻が嘆く。

 先日、久しぶりに家族三人で休日の銀座を歩いた。そのとき、人造石ではなく、本物の花崗岩を使っている建物が目に留まった。外壁を撫でながら、つい花崗岩の説明に熱が入った。見ると、妻と娘はショーウィンドウの宝石に目を奪われている。二人には、ティファニーのダイヤモンドの方に関心があったようだ。

 花崗岩は、マグマが地下でゆっくりと冷えて固まった深成岩である。大陸地殻の大部分をなし、日本列島の基盤を形成する岩石である。

 田舎に帰るといつも父の墓参りをする。墓石に代表される御影石も、花崗岩である。父の墓石を感慨深げに撫でながら、父への懐旧の思いもさることながら、地球創造のころに思いを巡らせている自分に、ハッとする。

 死んだら星になりたいならまだしも、石ころになりたい、という私に、

「あなたの頭は、もう石よ」と妻。

 そういわれると頭のてっぺんが薄くなり、タイヤに磨かれた石の頭に近づきつつある。もちろん妻は、柔軟性のことをいいたかったのだろうが。

 宝の石というくらいで、ダイヤモンドも石なんだがな、と思いながら言葉にはしなかった。

 

 2006年2月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 加筆履歴 2014年、2020年5月、2021年6月

 

付記

■ アポイ岳ファンクラブ会報「アポイ マイマイ」57号(2009年7月10日 アポイ岳ファンクラブ刊)に収録

 

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 東京の台所、築地市場の一角に築地本願寺がある。

 東京にきて間もないころ、本願寺の前を車で通りかかり「さすがは東京だな、インドの寺院もあるんだ」と感心していた。実はその少し前、青山通りの銀杏並木の奥にチラリと近代絵画館が見えた。「あッ、国会議事堂だッ!」と声を出していた。手に負えない田舎者である。

 その後、築地本願寺が浄土真宗のお寺であることを知って、さらに驚いた。総本山は、京都の西本願寺である。私は、札幌のカトリック系の男子校を卒業し、進学した先が龍谷大学である。龍谷大学は西本願寺直系の学校であり、キャンパスはお寺の敷地内にあった(もっとも私の学部は、伏見区にあったが)。つまり、築地本願寺は身内のお寺だった。

 身内といっても私の実家は、曹洞宗である。父が死んで始めてそれを再確認した程度で、それまでは母方の天台宗のお寺とのかかわりが多かった。一方、妻の方は、数代前からのクリスチャンであり、娘は現在、真言宗系の女子高に通っている。メチャクチャな宗教感である。

 その築地本願寺で年に一度、大学の校友会(同窓会)が行われており、二、三度出席したことがある。築地本願寺とはそれっきりになっていたが、このたび十五年ぶりに訪ねる機会を得た。

 京都に西本願寺があり東京に築地本願寺があるように、ニューヨークにもニューヨーク本願寺がある。あちらでは「ニューヨーク・ブディスト・チャーチ」と呼ばれている。ごく最近、その存在を知った。

 大学を卒業し二十三年になる今(二〇〇六年時点)でも、毎年校友会新聞が送られてくる。その新聞に「九・一一マンハッタンで」という記事があった。「グランド・ゼロでの初盆セレモニー(二〇〇二)」という写真に目が留まった。「初盆」と「ニューヨーク」のミスマッチに興味を覚えたのだ。写真には頭を青々と剃り、立派な法衣をまとった僧侶がアメリカ人に囲まれて写っていた。この僧侶「ニューヨーク本願寺住職・中垣顕實」とあり、文章も師によるものだった。その経歴を読んで飛び上がった。大学時代、ESSで部活を共にした友人だった。改名していたことと剃髪(ていはつ)だったので、まったく気づかなかったのだ。

 さっそく大学に問い合わせ、中垣に手紙を出した。一週間後、地球の裏から返信のeメールが届いた。一か月後に講演旅行で日本にいくが、会えないか、とあった。

 再会当日。私は築地本願寺の会場で、中垣を待っていた。数名の僧侶とともに、ひときわ精彩を放つ僧侶が現れた。内面の自信が、堂々とした風格となって滲み出ていた。それはもう私の知る中垣ではなく、「師」と敬われる存在であった。

 私は思わず席を立って中垣のもとに駆け寄った。

「おお、中垣やないか、久しぶりやな。みごとな坊主やないか、アッ、ハッハー。元気にしとったか」

 と剃り上げた頭を撫で、肩を抱いて握手を交わしたかった。

 やや緊張した表情で現れた中垣は、目の前に現れた私を「誰だ?」という面持ちで凝視した。ひと呼吸おいて、

「わぁー、面影ぇあるわぁ、むかしとかわらへんやないか、自分」

 と相好を崩した。その声は紛れもなく中垣だった。二十三年ぶりの再会である。握手を交わしながら、私は中垣の手の大きさに感心していた。こんなに大柄な男だっただろうかと。

 学生時代の中垣は、シシャモのように痩身(そうしん)だった。しかも女子高生のような長髪の髪を真ん中から分け、色のついたメガネをかけていた。売れないシンガー・ソング・ライターといった風貌だった。だが、ふざけた学生生活をしていた我々とは違い、中垣は真面目だった。人前にしゃしゃり出てくるようなタイプではなく、我々のバカ騒ぎを後方で静かに楽しんでいるような、控え目な存在だった。

「おい、中垣、どっちがええねん、はっきりせぇや」

「自分らがそれでええいうねんから、オレもそれでええと思うわぁ」

 しっかりしているのか、腑抜(ふぬ)けなのかよくわからなかった。

 ところがあるとき、

「ボクは開教使になってアメリカへいこうと思うてんねんけど、自分も一緒にアメリカ、いかへんか」

 留学したいと口にした私を、真面目な顔で誘ってきたのだ。開教使がいかなるものかまったく知らない私は、当時、京都に大勢いたモルモン教の布教者のようなものだろうと勝手に想像し、俺にはムリだと断った。だが、その後しばらく、そんな手法もあるのかと、中垣の誘いが気になっていた。ESSを経験すると、誰もが留学に憧れるのである。

 卒業後ほどなく中垣は結婚し、渡米した。

「あの中垣が、どないして口説いやんやろな」というのが大方の見方で、「中垣もやる時はやるもんやな」と、早かった結婚に、大いに感心したのである。相手は、二学年下の後輩で、小柄で愛らしい女の子だった。

 その中垣が、国連本部での法要に参加したり、ニューヨーク仏教連盟会長という要職を経験していた。セントラルパークでは、毎年、盆踊りを主催し、ホワイト・ハウスに招かれたこともあるという。

 そんな中垣の変貌ぶりを、ぜひともこの目で確かめたい。方々に散らばっている昔の仲間を代表し会わねば、という変な使命感がわき起こっていた。

 だが当日まで、築地本願寺へいくことをひどく躊躇(ためら)っていた。中垣の法話が「英語法話」とあったのだ。卒業以来、私はまったく英語に接していない。つまり、英語がわからなくなっていた。はたして一時間の法話に耐えられるか。寝てしまったらどうしよう。参加者もそう多くはないはず。アメリカ人ばかりだったら……。不安は増すばかり。

 当時の仲間で、唯一東京にいる蜂屋に声をかけた。蜂屋は外資系の会社で日常的に英語を使っている。その頼みの綱が、当日は仕事があって抜けられないという。仕方なく腹をくくって出かけたのである。

 法話の参加者は四十名ほどで、欧米人が四名だけだった。

 司会の坊さんが出てきて、いきなり英語で始まった。最初の三十分は教会のミサの仏教版のようなことをやった。出席者全員で賛美歌まがいの歌を二曲歌い、お経を唱えた。白人女性が大きな声で「ナーモアミダブ、ナーモアミダーブ」とやっている。摩訶不思議な光景だった。お経だけが日本語である。はたして、お経は日本語か。どちらにしても意味はわからない。

 演台の横に立った中垣が、紙袋の中からマッキントッシュの真っ白いノートパソコンを取り出した。ニューヨークでの活動をスライド・ショーにしての法話だった。

 中垣の英語は恐ろしく滑らかで、長崎、広島の原爆と同時多発テロの話題から始まった。「ナーガサキ」、「ヒローシマ」、「グランド・ゼロ」という言葉を小耳に挟んだのだ。居眠りの懸念は払拭されていた。みんなが笑うところで、私ひとりムッツリとしているわけにもいかない。英検のヒアリング試験に臨む中学生のような心境で耳を傾けた。周りがドッと笑ったところで、私も衛星中継よろしくワンテンポ遅れてニッコリ。時折目が合う中垣が、意気に感じて話を振ってくるのではないかと、臨戦態勢をとっていた。

 法話終了後、二人で久闊(きゅうかつ)を叙(じょ)すつもりでいたが、十五名ほどで近所の華料理屋に繰り出すことになった。ほとんどが僧侶である中、二人の白人女性がいた。ひどく疲れた。

 最初はみんな日本語で話していたのだが、気づくと英語が入り混じり、しまいには全部英語になった。私は中垣の隣に座っていたのだが、中垣を中心に会話が行われるため、落ち着いて話もできない。

 中垣の右隣には、お人形さんのような若い白人女性がいた。ニューヨークで中垣から書道を習っていたという。その女性が時折、私にも微笑んでくる。話しかけられてはかなわない、と私はまたもや中学生男子のようにビクビクしていた。

 一緒に食事をした中に、法衣を纏(まと)って法話の世話係りをしていた日本人女性がいた。お寺には不釣合いな精彩を放つ人だった。乾杯の後の自己紹介の中で、近くにいた坊さんが私に気を使って、

「あッ、この人、飛行機の中で坊さんにナンパされたの。元国際線のスチュワーデス」

 とダンナが坊さんであることをつけ加えた。

 ふだん、サラリーマンの世界にひたっている私にとって、面白い会食だった。坊さんだけでも興味深いのだが、尺八の先生やカメラマンまでいる。大いに飲んで語りたかったのだが、そうもいかなかった。

 坊さん主体の集まりである。酒が進まない。しかも、当然のごとく誰もタバコを吸わない(当時、私はタバコを吸っていた)。いつもの本願寺の集りと店も心得たか、テーブルに灰皿がなかった。私は、法話を含め五時間近い禁煙を強いられていた。おまけに英語である。疲労困憊(こんぱい)であった。

 店を出るとき、どこかでお茶でも飲もうと中垣に誘われたが、時間が遅かった。私は病身の妻を抱えていたため、帰宅時間が気になっていた。しかも近所にはマクドナルドしかない。ニューヨークならまだしも、剃髪で作務衣姿の坊さんとマックは合わないだろうと考えた。

「自分、すっかり落ち着いた感じになったなァ……ニューヨークにきたら声かけてくれるか。ゲストルームもあるしィ」

 近所の焼肉屋にでも誘うような気安さで声をかけてくれた。二十三年前「開教使になって、アメリカへいかへんか」と囁(ささや)いた中垣に重なった。私は何も落ち着いていない。ただ、英語ができないから黙っていただけだと言おうとしたが、もう別の人が割り込んできて、それっきりになった。

 かくしてニューヨーク坊主との再会は、あえなく終わった。

 

 この正月、ニューヨークから手紙が届いた。中垣ファミリーからの手作りのグリーティングカードである。その中に、小学生の息子が描いた父親の坊主頭の後頭部の絵があった。アメリカ生まれニューヨーク育ちの息子である。絵の余白に達筆な日本語で一句あった。

 

   我が父よそんな頭じゃさむかろう

 

 さすがは坊主の息子、と私は思わず膝を叩いた。そして次の瞬間、涙が溢れた。どうにもならないくらい涙が止まらなかった。

 

  2006年1月 初出  近藤 健(こんけんどう)

  加筆履歴 2014年10月、2015年4月、2020年5月、2021年6月

 

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 ズンドウ、ダルマ、ルンペン……人間の容姿ではない。石炭ストーブの名称である。

 私が幼いころの北海道では、まだ薪ストーブが主流だった。燃料が、薪から石炭に変わったのは、小学校の高学年あたりである。だが、駅の待合室や学校の教室など公共施設では、早くから石炭ストーブがあった。ビア樽のような形をした「ズンドウストーブ」といわれる大型の石炭ストーブである。

 石炭ストーブといえば、中学校の教室が目に浮かぶ。私のふるさと様似(さまに)は、北海道の南東部に位置し、比較的温暖な土地である。それでも寒冷地のこと、年間を通してストーブに火が入らないのは三か月にも満たない。ズンドウは教室の主役だった。

 冬、体育の時間の後、ストーブの周りには手袋や靴下、長靴がずらりと並ぶ。外での体育といえば、雪中サッカーだったり、クラス対抗の雪合戦だった。グランドには全校生徒総出で雪を踏み固めて作った大きなスケートリンクがあった。濡れた手袋や長靴が、ストーブの前でもうもうと湯気を上げる。

 授業中先生の目を盗んで、女の子の間で秘密のメモが回される。休み時間、そのメモを男子に取られそうになり、大騒ぎしながらトーブに放り込む。ストーブは証拠隠滅に打ってつけだった。

 男たちは無邪気に、雪玉や氷柱(つらら)をストーブの煙突につけて、ジュージュー溶けるのを楽しんでいる。上履きの底をストーブにサッとこすりつけて、煙を出して楽しんでいる輩(やから)もいた。私もそのひとりで、度がすぎて靴底のゴムの凹凸がほとんど平坦になっていた。

 休み時間になると、遠く離れた席の者が、我先にとストーブの回りに群がってくる。手をあぶる者、尻を温める者。

「ン? 臭い!」

「なンか、焦(こ)げてる!」

「キャー、アッチチチチッ!」

 スカートの裾が焦げる臭いだ。

 ストーブの周りは、いつもワイワイ、ギャーギャーと大騒ぎだった。燃え盛るストーブは、思春期の炎そのものだった。みんなの中心にストーブがあった。

 クラスの席替えともなれば、目の色が変わった。だれもがストーブの側に陣取りたい。祈る思いで席替えの行方を見守った。教室の端はシベリア級の寒さだが、ストーブの最前列は、みんな赤い顔でのぼせていた。うっかり石炭を入れすぎてしまうと、ストーブはおろか煙突まで真っ赤になる。机の端から煙が出ることもあった。

 三時間目の授業が終わると、ストーブの周りに弁当が並ぶ。冷えた弁当を温めるのだ。弁当の時間には給食と称して牛乳がついた。給食当番が牛乳箱を二人がかりで運んでくる。牛乳瓶の触れ合う音が、木造校舎の廊下のあちらこちらで響く。

 厳寒期には、凍てついてシャーベット状になった牛乳が、膨張して蓋(ふた)を押し上げている。水を張った大きなブリキの容器に牛乳瓶を入れ、それを石炭ストーブの上で温める。温めすぎて、いつも何本かの瓶の底が割れて抜け落ちた。

 朝、石炭ストーブに火を入れるのは用務員がやってくれたが、後始末は生徒たちが行う。それは石炭当番の仕事で、掃除当番が兼ねていた。

 ストーブの上蓋の小さな穴に、デレッキ(先が鍵状になった鉄の棒)を引っかけ蓋を開ける。そのデレッキでストーブの中にある鉄の網を引っかけ、網の上の石炭殻(石炭の燃えカス)をストーブの底に落とす。

 今度は石炭ストーブの下部にある口から、ジューノ(鋼鉄製の柄の長いスコップ)で石炭殻と灰を掻(か)き出し、ブリキの塵取りに移す。石炭殻はまだかなり熱い。それを学校の前の道路にぶちまけ、その足で、翌日分の石炭を小屋へ取りにいく。

 石炭小屋は校舎から少し離れたところにあった。だが、そこへの一番乗りは禁物だった。小屋に吹き込んだ雪が石炭の表面に積もり、凍った石炭が巨大な固まりになっている。それをスコップで砕くのにひと汗流すことになる。寒風の吹きつける中、石炭を入れた重い木箱を教室まで運ぶのは、辛い作業だった。

 私が掃除当番のとき、ひどい失敗をしでかしたことがある。

 教室の掃除が終わり、灰をとる段になってストーブの蓋を開けると、石炭がまだ赤く燻(くすぶ)っていた。ストーブの口がちゃんと閉まっていなかったため、石炭が燃えていたのだ。さて、どうしたものかと見回すと、牛乳を温め終わったブリキの容器に、お湯がたっぷりと残っていた。そこでストーブの上蓋を開け、そのお湯を勢いよく注いだ。一気に消そうと思ったのだ。

 ところが、ストーブにお湯を注いだとたん、ジュワーッという凄まじい音とともに、ストーブの中からもの凄い勢いで灰が舞い上がった。

「大変だ、逃げろ!」

 大騒ぎしながら教室の外に出て、廊下の窓から中の様子を見守る。教室の中はひどい降灰で、真っ白である。ストーブが爆発する火山さながらに噴煙を上げていた。

 先生に見つかったら大変なことになる。ほかの当番からさんざん文句をいわれながら、大急ぎで掃除をやり直した。床は雑巾がけである。母の代からの古い木造校舎で、モップなどはなかった。冷たいバケツの水で雑巾を濯(すす)ぐ。みるみる手が真っ赤になる。何度も何度も床を往復する。灰は床だけではなく、机の上、黒板、教卓、ガラス戸の桟(さん)にまで降り積もっていた。数か月分の掃除をまとめてやったほどの重労働だった。散々文句を言いながらも、掃除当番のみんなが手伝ってくれた。

 小学校五年になって、教室からストーブが消えた。学校が建て替わったのだ。中学校も我々が卒業後、数年で新築された。その後私はふるさとを離れたが、多くの者はそのまま地元の高校へとなだれ込んだ。みな幼稚園からの仲間である。そこでも彼らはストーブを囲んでいたに違いない。

「高校も新しくなっちゃったよ。俺たちの後でみんな新しくなるもんなァ。嫌ンなっちゃうよ」

 帰省した私に、幼なじみがぼやいた。相次ぐ建て替えは、昭和四十三年(一九六八)に道東を襲った十勝沖地震の影響である。小学校三年のことだった。マグニチュード七・九の地震は、老朽化していた校舎の建て替えに、拍車をかけた。

 学校が新しくなるたびに、教室からストーブが消えていく。幸い私たちがストーブのない教室を経験したのは、小学校を卒業するまでの二年間だけである。ストーブのない教室が物足りなく、しばらくは居場所が定まらなかった。

 中学に進学し、古い校舎に逆戻りしガッカリしたが、ストーブが復活した。ストーブの周りでふざけて騒ぐ者もいれば、だまって炎を見ている者もいる。ストーブに尻をあぶりながら、窓の外に目をやる者もいる。窓の外の寒々とした海に、将来への不安を重ねているようにも見えた。中学を卒業し、集団就職で町を出る者がクラスに四、五人はいた時代である。

 ストーブは、身体も心も温めてくれた。みんながそれを取り囲んでいた。

 

  2005年12月 初出  近藤 健(こんけんどう)

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 娘へ。君は、平成元年生まれである。私とママにとっては、それだけでも凄いことだった。なぜなら、当時、私たちの周りには、まだ平成生まれがいなかったから。だから君は新しい時代の子供として迎えられた。

 君がママのお腹にいるころから、どういう名前がいいかずいぶんと考え、思い悩んだ。

 現代の医学は優れたもので、妊娠して数か月で性別がわかる。生まれてくる子が女の子だと知ったのは、君が誕生する三か月くらい前のことだ。ママは半年以上も前から、医者から教えてもらっていたようだが。

 親は、生まれてくる子に様々な願いや意味を込め、名前をつける。一度決めた名前は、その子にとって生涯のものとなるのだから、あだや疎(おろそ)かにはつけられない。特に、初めての子には気合が入るものだ。力みすぎる人もけっこういる。

 女の子であるから、響きの優しい名前がいい。流行(はやり)の名前にするのでは芸がないと考えた。「たおやかさ」「しとやかさ」を秘めた少し古風な名前がいいと。もちろん、姓名判断による画数も考慮しなければならない。これが命名に当たって、私たち夫婦の共通認識であった。このすべての要素を満たす名前を考えるのだから、大変なことだった。

 悩んだ挙句、「織衣」とした。

 私とママの二人が出会ったころ、つまり私たちの蜜月の情景を、君の名に溶かし込むことにした。やがては素晴らしい恋愛をし、幸せに恵まれた人生をおくれますように、という願いを込めて。

 君の名前の底流に、歌人俵万智の歌を置いた。その歌は、「君の待つ新宿までを揺られおり 小田急線は我が絹の道」である。

 この歌は、歌集『サラダ記念日』(河出書房新社)の中にある。それは当時の私たちを象徴する歌、大袈裟にいうならば主題歌でもあった。

 私たちが知り合ったころ、私は東京・杉並の四畳半風呂なしのボロアパートに住んでおり、ママは神奈川県綾瀬市の伯父(小田和典画伯)の家に間借りしていた。そのため私たちは、小田急線をよく利用した。京王線で下北沢に出て、そこで小田急線に乗り換えた。かなりの距離である。

 歌のなかの「我が絹の道」とは、シルクロードを指す。シルクロードの終着点は奈良であり、その道をとおり有形無形の様々なものが運ばれてきた。代表格はその名の通り絹(シルク)織物である。

 「衣」と書いて《きぬ》ともいう。京都の西北に金閣や龍安寺、等持院といった寺院に囲まれる形で、こんもりとした衣笠山がある。古典では「明けゆればおのが衣衣(きぬぎぬ)なるぞ悲しき」などという表現もある。

 「衣」は通常《イ》と読むがこれは漢音読みで、呉音では《エ》となる。例えば、「衣紋(えもん)掛け」、僧侶が作業をするときに着用する「作務衣(さむえ)」、そんな言葉しか私には浮かばないのだが。

 「織」は、機織(はたおり)の織。織という字は、織姫を連想させる。織姫と彦星の七夕伝説である。七夕の夜に天の川を挟んで対峙(たいじ)する、織女(こと座のヴェガ)と牽牛(わし座のアルタイル)が出会うという恋物語である。この物語こそ、はるか遠いむかし、シルクロードを経て伝えられたものである。

 かくして、「織」を《おり》と訓読みし、「衣」を《エ》と音読みさせる重箱読みで、「織衣」と命名した。字画が多いという難点を除いては、私たちの希望を十分に満たす名前となった。

 ちなみに、五木寛之著『青春の門』に登場するヒロインと同名だが、特に意識はなかった。ほかに「織衣」という名を私は知らない。

 ただ、正直に君に告げねばならないことがある。命名したときには気づかなかったことであるので許してもらいたい。

 古典でいうところの「衣衣」というのは、当時の結婚形態が通い婚というもので、女性のもとに夜な夜な人目をしのんで通ってきていた男、いわゆる貴公子が、明け方になって帰っていく情景に使われていた言葉である。衣服を着けることが互いの別れを意味する、それが「衣衣の別れ」という言葉であった。「次にきてくれるのは、いつになるのかしら(もう少し一緒にいて欲しい)」という、女性の側からの切ない思いの表現として使われていた言葉だった。

 さらに、織姫・牽牛伝説も、年にたった一度の逢瀬の物語である。ある意味では、悲話かもしれない。だが、ほんの少し視点を逸らしてもらいたい。願いごとを短冊に書いて笹に括りつける。七夕の翌日、それを(天の川に見立てた)川に流すと願いが叶(かな)う、という方へ。何ともロマンチックな話ではないか。

 言い訳めいたが、以上が命名の経緯であり、君の名に託した親の思いである。書き残しておかなければなるまいと思い、記してみた。

 

  2005年11月 初出  近藤 健(こんけんどう)

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 「残念」と思うことは、日常茶飯事である。宝くじにハズレても残念だし、ボーナスが少なくても残念である。最近ではこの残念に慣れすぎて、残念をあまり残念と思わなくなってしまった。年齢のせいにしていたが、今回、諦め切れない「残念」が起こった。

 私は数年前からサラリーマン生活の傍らエッセイを書いている。これまでいくつかの賞をもらう幸運にも恵まれた。その影で、「没」にされた作品も数多い。

 平成十五年(二〇〇三)の暮れ、長野県小諸市が主催する「第十回小諸・藤村文学賞」に『昆布干しの夏』と題したエッセイを応募した。郷里の特産である日高昆布にまつわる話を書いたものだった。その作品で優秀賞をもらったのが、ことの始まりである。

 平成十六年八月二十一日、藤村忌前日に小諸市で行われた表彰式に出席した。東京から新幹線と在来線を乗り継いで二時間ちょっと。気軽な気持ちで出席した私は、度肝を抜かれた。会場が農協のホールだったことも油断の一因だった。受賞者控え室から整列して表彰式会場に入った我々を待ち受けていたのは、報道関係者のカメラのフラッシュだった。その凄まじい閃光の後、目の前に浮かび上がってきたのが、白い布に覆われたテーブルに座る面々だった。テーブルの前には肩書きが墨書された紙が下がっていた。選考委員の作家諸氏、予備選考委員、市長、市議会議長に教育長、市議会議員諸氏に藤村記念館館長などざっと見て百名近い。場違いな世界に入り込んでしまったような錯覚を覚えた。

 女性アナウンサーの司会で始まった表彰式は、表彰状の授与、お偉いさんの挨拶、選考委員の選評と進んだ。中でも最優秀賞作品の朗読は圧巻だった。

 照明を落とした会場にアナウンサーの声が響く。正面のスクリーンには、ストーリーに合わせた影絵が映し出された。席を移した懇親会では、メインテーブルに最優秀賞の女性を挟んで、市長と選考委員長が笑談している。そんな華やぐ会場で、私は二等賞の悲哀を味わっていた。私は優秀賞である。金メダルと銀の落差は大きい。

 最優秀賞受賞者の挨拶を聞きながら、来年、私は彼女の席に座れるだろうか、と考えていた。もしかしたらいるかもしれない。そのとき、ここにいる面々はまったく作風の違う私の作品に、驚きの表情をするだろうと考えていた。この時点で、次作『妻の生還』が八分通りできていた。

 今年(平成十七年)、『妻の生還』で応募した私は、最終選考まで残ったものの選外となってしまった。八月の表彰式に出席するつもりで六月にはスーツを新調し、半年も前から表彰式でのスピーチを考えていた。さらに、藤村を知らずして藤村文学賞もないだろうと、神田の古本屋街をくまなく歩き、島崎藤村の著作を片っ端から買いあさった。

 準備万端、自信満々で選考会当日を迎え、通知の電話を待った。だが、いくら待っても電話は鳴らなかった。

「なぜだ……」

 どうして佳作にも入選しなかったのか。落とされる理由が見出せない。落とされた理由が知りたい。このままでは何も書けない。大きな落胆の中で、頭を抱え込んでいた。

 この作品は、私が所属している同人誌の添削に出したことがあるものだったが、戻された経緯があった。

「これを先生にお見せすると、何らかの筆が入るでしょう。あなたのオリジナリティーが失われかねません。このままどこかへ応募してみてはどうですか」

 という添削指導の方からの言葉をもらっていた。その人は、舞台劇の戯曲を書く傍ら、同人誌の事務方を仕切っており、文章に関しては容赦のない人だった。そんな後ろ盾があった。

 いっそ選考委員長に直接問い合わせてみようかとも思いながら、悶々とした日々が続いた。そんなある日、ネット上に何かヒントとなるようなものがないだろうかという思いが浮かんだ。インターネットで幾つかのキーワードを入力しながら検索をすると、偶然にも長野県議会のホームページの中に、その答えらしきものがあった。

 ある県議が第九回の表彰式に参加し、その時の選考委員長の談話を紹介していた。

「よいものを、美しいものを誰の心にも沁みる文で書くのは難しい。悲しみや苦しみは訴えやすい……」

 これだ、と私は思わず膝を叩いた。前回の表彰式の席上、選考委員長が同じ話をしていたのを思い出した。そのときは半ば上の空で、選評を聞いていた。そうかこれだったか、と溜飲が下がった。

 今回の私のエッセイは、精神疾患を患う妻が人生に絶望し、過量服薬をしてから生還するまでの二日間を書いたものだった。前作より手ごたえがあり、最優秀の作品と比較しても、かなりイケルぞ、という思い上がりがあった。

 失意から一か月。公募雑誌に、今回の最優秀作品が掲載された。一読し、さらにもう一読。これが最優秀か、という釈然としない思いが巻き起こった。オレの方がいいんじゃないかという思いが、再び沸き起こってきた。

 九月末、藤村文学賞の小冊子が小諸市から送られてきた。同封された案内文に、事務局からの添え書きがあった。

「……一次二次選考を通り、最終選考でも評価は、表現力、文章力の高さを言われておりましたが、『妻の生還』という内容を入選作で公表されたとき、それを読んでプライバシー上、困ることが起るかもしれない、という選考委員の先生方の話し合いで、〝落ち〟ということになりました。他のテーマで、第十二回にもぜひ……」

 そうか、そうだったのか……そりゃないだろう。応募段階で本人がよしとしているのだから、すでにプライバシー問題はクリアーしているじゃないか。様々な思いが駆け巡ったが、この一文で完全に私は鎮まったのであった。

 だが、次作といわれても困るのだ。そう簡単に書けるものではない。さらに頭を抱え込む毎日を送っている。

 そんな日々、ふと、考えた。プライバシー上の問題がなかったとしたら、私の作品がどの位置にいたのだろうか、今度はそれが気になってきた。自分の強欲さというか、思い上がりに、いささかウンザリした。

 

  2005年11月 初出  近藤 健(こんけんどう)

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 昭和五十八年(一九八三)六月二十八日、父は五十一歳で生涯を閉じた。

 十年ほど前から患っていた慢性肝炎が、末期の肝硬変に移行していた。北海道の実家の隣町の総合病院に入院したのが、前年の十一月である。年を越せないといわれながら、もち堪えていた。その間、私は遠く離れた京都で、卒論と卒業試験に忙殺されながら、かろうじて大学を卒業し、東京の会社へ就職した。

 新入社員研修が一段落し、やっと仕事に慣れ始めたころ、母からの電話で実家に呼び戻された。

 それまで父は、いくたびか傾眠(けいみん)状態を繰り返し、最後はそれが一週間に及んだ。そして突然、高鼾(いびき)をかきはじめた。昏睡状態に陥ったのだ。半分開いた父の目には、もう何も映ってはいなかった。父の鼾が、病苦から解放された安堵の寝息に聞こえた。いよいよ逝くのだなと思った。

 父の周りには、母と私と札幌から駆けつけていた妹、それに泊り込みで付き添ってくれている伯母がいた。さらに、長年漁師をしていた父の友人が、その日たまたま見舞いにきていた。

 誰もが、父の死が目前に迫っていることを感じ取っていた。そしてその瞬間を、固唾を飲んで見守った。窓の外には、寒々とした灰色の海が白波を立てているのが見えた。夕暮れが近づいていた。

 鼾をかき出してから二時間、その鼾が突然、止んだ。父の上に次に起こる変化に全員が緊張した。父を襲う断末魔の苦しみを恐れたのだ。私は慌ててナースコールのボタンを押していた。

 ところが、予想に反して父は穏やかだった。鼾が止まった直後、深呼吸のように大きく長い息を「フーッ」と吐いた。長い長い息だった。しかも次の息を吸うことなく、続けて二度、ゆっくりとそれを繰り返した。痩せ細った身体のどこにそれだけの息が蓄えられていたのか。私は驚きをもってその状況を見守っていた。三度目を静かに吐き切って、父は動きを止めた。

 慌てて入ってきた看護師が、「アッ」と小さな声を発し、別の看護師に医師を呼ぶよう指示している。ややあってノッソリと入って来た五十代の主治医が、慣れた手つきで脈を診、瞳孔を確認した。それから医師はベッドに上がり、父をまたぐ格好で心臓マッサージを開始した。それは思いのほか強い力だったので、父がまるで生きているかのように、ベッドの上で飛び跳ねた。

 みんなが医師の措置を見守る中、私は病室の天井の隅を眺めていた。父の視線をそのあたりに感じた気がしたからだ。カーテンを閉め忘れた窓の外は、すでに真っ暗になっていた。北海道の六月は、まだ暖房が必要な寒さだった。

 医師は執拗に心臓マッサージを続けた。そんなことをして何の意味があるのか。たとえ父が一時的に蘇生したとしても、どうにもならないだろう。

 私は傍らの母に向って小さく首を横に振った。

「先生……もういいですよ……」

 母の言葉を待っていたかのように、医師は動きを止めた。ベッドから降りて腕時計を覗き、改まった顔で臨終を告げ、深々と頭を下げた。父の死が確定した。

 やっと父が楽になれた、という安堵感が私の胸を占めていた。医師は父の手を胸元で組み合わせ、合掌をして病室を後にした。この医師にとって父の死は、ごく一般的な平凡な臨終のひとつでしかない。この後、何事もなかったかのように、夕食の続きを始めるに違いない。そんなことを考えていた。

 このときから父は、「仏さん」と呼ばれる存在になった。傍らに横たわる父はもう父ではなく、単なる「亡骸(なきがら)」であった。父の魂は、長い吐息とともに身体を離れたのだ。父の骸(むくろ)は、刻々と腐敗を開始していく。生者に対し、死の受け入れを促すかのように。

 それから数日、父は多くの人に拝まれ、荼毘(だび)に付された。不思議と悲しみはなかった。生前、私は父と会話らしい会話を交わしたことがなかったのだが、父が姿を消してから、その存在を身近に感じるようになっていた。私はひと七日が終るまで郷里に留まった。

 二週間ぶりに東京に戻った私に、七月の配置換えで新しい仕事が待っていた。挨拶もそこそこに、持ってきた段ボールの荷物の整理をしていると、古ぼけた算盤(そろばん)が出てきた。父が長年会社で使っていたものを、持ってきていた。使い込まれて飴色になった、深い光沢のある算盤だった。

 幼いころ、父の帰りを待ちわびていたときも、父は会社でこの算盤に向かっていたに違いない。

「アッ、おとうさんだ!」

 母に寝かせつけられている蒲団の中で父のオートバイの音を聞きつけて、妹と二人で玄関に飛び出していった遠い日々……

 二人の子供を進学させ就職を見届けつつ、一家を支えていた算盤である。そんな親の思いも知らずに、ずいぶんと反発したなと思ったとたん、突然涙が込み上げてきた。トイレへ駆け込み、冷水で顔を洗った。鏡に映る自分の顔を見ながら、これからはひとりで生きていかなければならない、と思った。

 あれから二十数年の歳月が流れ、事務所から算盤を弾(はじ)く音が消えた。算盤は、もうだいぶん前に、パソコンに取って代わっていた。でも父の算盤は、護り刀のように今も会社のひきだしの中にある。

 

 2005年10月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 加筆履歴  2009年9月「父の臨終」を加筆、改題。2014年3月、2020年5月、2021年6月

 

付記

■『室蘭文藝』47号(2014年3月31日 室蘭文芸協会刊)に収録

 

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 一九八二年十一月十日、とっぷりと暮れた京都の四条河原町で、私は一枚の号外を手にしていた。それはソ連(現ロシア)のブレジネフ書記長の急死を報じるものだった。

 その日私は、紅葉が色づき始めた嵐山で、一日遊び呆けていた。卒論提出のちょうど一ヵ月前のことで、しばらく図書館にこもる生活をしており、誘われるままに友達と嵐山へ繰り出したのである。こういえばずいぶん格好いいが、実際のところは勉強不足がたたって、身動きがとれない状況だった。

 京都での最後の秋を満喫したという思いに浸った帰り、期せずして受け取った号外だった。卒論のテーマが米ソの軍備拡張政策に関する内容だったこともあり、ブレジネフの死に、私は少なからぬ衝撃を受けていた。

 アパートに帰った私に、さらなる追い討ちが待っていた。父の入院を告げる北海道の母からの電話だった。

「ビックリしないでね。父さんね、調子悪くて……今日、入院したんだわ。あんたが心配するからって、調子悪いの、ずっといってなかったんだ。先生がね……年越せないって……」

 そこまで話した母は、電話口で泣き崩れた。

 父は、十年ほど前から慢性肝炎を患っていた。それが肝硬変へと移行し、すでに末期と診断されたのだ。とうとうくるべきときがきたか……。年を越せないとは、あまりにも性急なことだった。

 実はそのとき、提出期限が迫る卒論に、まだひとつも手をつけていなかった。資料集めをしながら、最後の一か月で書き上げる段取りをつけ、遊びに出かけていたのである。

 翌日、担当教授に相談にいくと、

「何でもいいから、論文用紙を埋めて出せ。事務長には話をつけておく。とにかくすぐに帰れ」

 という恩情の言葉だった。

 私には、卒論に期する思いがあった。「何でもいいから」がどうしてもできなかった。

 「まだ、死ぬなよ」と念じながら、夜に日を継ぎ机に向かった。自分が今食べているものが夕食なのか朝食なのか、一日二十四時間という生活サイクルを全く無視した生活が始まった。

 一週間後、論文が仕上がった。その間、教授からは「何をしている、早く出せ」という催促の電話が二度あった。

 卒論を提出した日、私は突然の高熱を発した。翌日になっても熱が下がらない。やむなく病院へいくと、

「肝機能障害です。このまま入院できますか」

 予想もしない医師の言葉だった。父と同じ肝臓障害という診断に愕然とした。原因は、過労によるものだった。医師に事情を説明し、紹介状を手に、北海道へ戻った。

 

「なんだ、父さん、(入院したって聞いて)ビックリしたよ。まあ、ゆっくり休みな。オレの方は、卒論も終わったし、このまま冬休みが終わるまでいられるから……」

 半年ぶりに会った父は、老け込んでいた。五十歳の父の顔にしみが浮かび、七十代の老人に見えた。

 父に内緒で外来治療を行いながら、そのまま夜まで父に付き添う生活が始まった。仕事を持っている母は、夜から朝までを受け持つ。妹はすでに札幌で就職しており、父の看病にはつけなかった。

 看病といっても、ベッドの傍らにいて父に頼まれる細々としたものを買いにいく程度で、それほど厄介なことはなかった。

 わがまま放題の父は病院食を一切口にせず、母が作る食事しか食べない。肝臓疾患用の病院食は、もっぱら私が引き受けた。ほかにすることがないのを幸いに、日がな法律の専門書を読みふけった。

 卒論を提出し終えた私には、もうひとつの大きな試練が待っていた。卒業が危うかったのだ。帰省したとき、私のリュックには大量の専門書が詰まっていた。後ろに身体を反らすと、そのままひっくり返るほどの分量だった。

 私は、大学に入ると同時にESS(英語研究部)に所属した。どういう風の吹き回しか、三回生のときに京都の連盟の仕事をすることになり、同時に西日本の連盟の幹部も兼ねていたので、年中、関西一円の大学を飛び回っていた。

 この活動により、多くの友達を得たのだが、その代償に、三回生での学科の単位をことごとく落とした。夏がすぎ、冷たい秋風が吹くようになって、ようやく教室に出向き、

「ここは、民事訴訟法の○○先生の講義ですよね」

 などとマヌケな質問をして、教室を確認しなければならなかった。急病で亡くなっている教授もいた。訊かれた女の子は、あきれ果てた顔で私を眺めていた。

 大学のクラブ活動は、実質三回生で終わりになる。四回生を迎えた私の前には、ウンザリするほどの専門書の山が積まれていた。父の死を目前にして、留年はできない。就職もすでに内定していた。卒業が絶対命題だった。これは人生の一大事と、専門書との格闘が始まった。

 肝機能障害の者が、長時間本を読むなどご法度なのだが、そんなことはいっていられない。父も「必死」であれば、息子も「死にもの狂い」である。もちろん両親には卒業が危ういとは、おくびにも出せない。父の傍らで、黙々と勉強する私に、

「息子さん、もの凄い勉強家だなぁ。たいしたたまげたぁー」

 病室の患者たちが、口々に私を褒め始めた。大学生などめったに目することのない田舎なので、なおさらである。

「毎日、お父さんのお世話をして、感心な息子さんですね。とっても勉強熱心で……」

 看護師が追い討ちをかけた。回診に来る主治医は、司法試験の勉強ですか、と大真面目に訊いてくる。冗談ではない、そんなレベルの問題ではないのだ。本当のことがいえないもどかしさに歯噛(はが)みした。

 年が明け、試験直前に京都へ戻る。アパートでは、夕方起き出して朝まで勉強し、そのまま学校へいき試験を受ける、そんな究極の一夜漬け生活を二週間続けた。

 試験を終えた私に、アパートの引き揚げが待っていた。思い悩んだ末、荷物を実家に送らずに、東京の会社の独身寮に直接送った。一月下旬のことである。留年したら荷物はどうなる。そればかりが気がかりだった。

 北海道に戻って、自宅と病院を往復する生活が再開する。急に勉強を止めるのもバツが悪いので、分厚い小説を読みふけった。幸い試験には合格した。嬉しくて気絶するかと思った。だが成績は、親に見せられたものではなかった。

 私の勉強ぶりを目の当たりにしていた父が、卒業式へいけとしきりに勧める。

「オレは残念ながら総代に選ばれなかったから、卒業式には出なくても大丈夫なんだ。大学とはそういうところだ」と大ボラを吹いた。京都から東京へ荷物を送る日、私は学部事務室に出向き、卒業証書の郵送手続を済ませていた。最初から卒業式に出席しない覚悟だった。これ以上、親には負担をかけられない。大学の多くの仲間とは、別れの言葉もなくそれっきりになってしまった。

「すでに肝臓が機能していないはず。生きているのが不思議なくらいです」

 主治医が首をかしげるうちに、父は五十一歳になった。春休みが終わり、上京の日が近づく。

 社会人として東京へ向かう日の朝、病院に立ち寄った。もうこれが最後だと覚悟してベッドを覗き込むと、

「お前を東京へいくように仕向けたのは、失敗だった……」

 背広姿で現れた私に、父は思わず弱音を吐いた。サラリーマンになるなら、一度は東京へ出ろ、といっていた父だが、本当は私を手放したくなかったのだ。

「ゴールデン・ウィークには帰ってくるから」

 と握手し、笑顔で病院を後にした。

 

 一両編成のローカル列車に飛び乗った私は、大きな鞄をドッカリと座席の隣に置き、履き慣れない革靴を脱いで前の座席に足を投げ出した。顔をハンカチで覆い寝込むそぶりを見せ、とめどない涙を流していた。私が病室を去った後、父は蒲団を被ってしばらく泣いていた、と後日母がいっていた。

 東京で生活を始めると、私の肝機能の数値は正常に戻っていた。ゴールデン・ウィークも休まずに働き、六月に入って初めて帰郷した。父はその後傾眠(けいみん)を繰り返し、私が戻ってもどうにもならない状態だった。父の意識が明瞭になった、会うなら今だ、という母からの電話で北海道にとって返した。

 私のふるさと様似(さまに)は、飛行機を使っても片道九時間の行程である。病院に着いたのは翌日の夜だった。

 病室に入ると、父は蒲団にもたれて半身を起こした。私が調子を尋ねると、

「それがな、俺はもう少しで死ぬとこだった」

 と真顔でいう。私が笑うと、冗談じゃないんだ、と表情を崩さなかった。そして父は、テレビのスイッチを入れるよう母に命じた。プロ野球のナイトゲームが行われていた。

「また、巨人が負けてるな」

 そういって振り返ると、父は蒲団にもたれながらもう寝息を立てていた。それが父との最後の会話となった。再び傾眠状態に陥ったのだ。一時的に意識を戻した父は、私が帰ってくるという母の言葉に、最後の力で待っていた。それから一週間後、父は死んだ。

 父の死がなければ、私は卒業はおろか就職もままならなかった。今になって、そんなことを思っている。

 

  2005年10月 初出

  加筆履歴 2007年6月、2014年3月、2020年5月、2021年6月

 

付記

■『いぶり文芸』45集(2014年11月20日 胆振芸術祭実行委員会刊)に収録

 

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