この(二〇二六年)三月、病院で小便の勢いを測定する検査をした。
現在、六十六歳の私には、幸い大病の経験はない。高血圧症と前立腺肥大症が、現時点でのいわゆる〝持病〟である。
六十歳を過ぎたあたりから血圧が高くなり出した。前立腺の方は、この三月から小便を出やすくする薬を飲み始めている。
前立腺とは、男性の膀胱(ぼうこう)直下にあるクルミ大の生殖器官で、尿道はこの前立腺の中を通っている。そのため、前立腺が肥大すると尿道が圧迫され、小便が出にくくなるのだ。肥大の原因は、加齢である。
私の場合、六十四歳あたりから、小便の勢いが弱くなってきた。特に、朝一番がよろしくない。明け方近くに小便に起きるようになった。そのときの勢いが、パッキンが劣化した公園の水飲み場の蛇口のように、ショボイのだ。
そんなことから、泌尿器科で尿流量測定検査(ウロフロメトリー検査)を行った。尿の勢いと量、所要時間を測定し、前立腺の肥大具合を診るのだ。事前に渡された検査の注意書きには、「尿がしっかりと溜まっていないと正しい検査結果が得られない。来院後は、ギリギリまで小便を我慢し、いよいよとなった段階で、看護師に合図をするように」といった内容が記されていた。
三月上旬の札幌は、まだ深い雪の中である。この日も、水分を含んだ重い雪が降っていた。うっかり小便をしないよう、私は緊張感をもって病院を訪ねた。
検査は処置室内のトイレで行われた。一見、普通の洋式トイレとなんら変わりはないのだが、便器に測定装置が内蔵されており、採尿機能もあるという。検尿カップに尿を採らなくていい代わり、便器に座って小便をするよう言われた。
便器横にあるスタートボタンを押し、ガイダンスに従って小便をし、終わったら終了ボタンを押すという単純な操作だった。だが、中年看護師の説明が回りくどかった。こちらは、とにかく小便がしたいのである。
「それではお願いします」
と言って看護師自らスタートボタンを押して、検査室を出ていった。事を終えて終了ボタンを押したが、なんの反応もない。しかたなく看護師を呼んだら、
「あら? おかしいわ」
測定結果のレシートが、出ていないと言うのだ。そこに二人の看護師が加わった。
「へんだわね」
「どうしたのかしら……」
これ以上曲がらないというほど、三人で首をかしげている。つまり、スタートボタンがきちんと押されていなかったのだ。なぜ、音声ガイダンスがないのかと思ったが、小便をしたい気持ちが圧倒的に勝っていた。結局、やり直しである。
とにかく膀胱に尿を溜めなければならない。私は三人の看護師に見送られ検査室を後にした。
まずは院内の自動販売機の前で、りんごジュースを一気に飲み干した。次に、利尿作用の高いものをと、五〇〇ミリリットルのペットボトルのアイスコーヒーを購入する。それをもって玄関の外へ出た。寒い中で冷たいものを飲むと、出やすくなると考えたのだ。我ながら自分のアイディアに、「どうだ! いい考えだろう」というような思いを抱いていた。
外は雪の降りしきる氷点下である。そんな中、アイスコーヒーをガブ飲みしているオッサンは、異質な光景だったに違いない。最初の一口、二口はよかったが、次がなかなか進まない。大食い選手権大会後半でペースダウンした選手のように、目を白黒させながら頑張ってはみたが、なかなか飲めないのだ。
大きな病院だったので、外周をぐるりと歩きながら、なんとか飲み干した。すると、尿意の前に便意をもよおしてきた。腹が冷えたのだ。想定外である。マズイことになったと思った。
院内の一般トイレで大便だけ先に出すことができれば、それに越したことはない。だが、大だけで切り上げることは可能だろうか。万一、小便をしてしまったら、これまでの努力が台無しになる。看護師の見送りを受けてから、けっこうな時間が経っていた。再び、一からのやり直しは何としても避けたい。
どうしたものかと広い院内をウロウロ歩きながら考えているうちに、腹痛の波は収まり、強い尿意をもよおし始めた。検査室で大が出てしまったらどうなるのか、そんな不安を抱えながら看護師のもとへ戻った。大のことは恥ずかしくて訊(き)けなかった。
すると先ほどの尿で尿検査ができるので、勢いの検査は立小便でいいと言う。ホッと胸を撫(な)で下ろした。
結果、小便の勢いは、それほど悪くはないという。
「どうしましょう。薬、出します?」
と医師に訊かれ、朝の小便のショボさを考えて、出してもらうことにした。
「先生……、膀胱内射精になるので、ユリーフとは違う薬でお願いします」
と小声でつけ加えた。医師の傍らにいた看護師が、しっかりと聞き耳を立てていた。
私は五十五歳のとき、突然、小便が出なくなって入院したことがあった。このとき処方されたのがユリーフで、その副作用が膀胱内射精だった。つまり、精液が体外ではなく、膀胱内に放出されるのだ。とても不快な射精だった。今の病院に変わってからは、薬も不要と判断され、処方されなくなっていた。
私の前立腺肥大症は、この五十五歳からである。以来、半年に一度、前立腺がんを含めた検査を受けている。五十五歳のときは、会陰部(えいんぶ)に嫌な痛みがあり会社の同僚に相談すると、
「それ、尿管結石ですよ。ビールをガブ飲みして石を出せばスッキリしますよ」
とのアドバイスだった。彼は尿管結石のスペシャリストだった。それを真に受けた結果、小便が出なくなり、救急車での緊急搬送となったのである。そのときは「尿閉」と診断された。要は、急激なアルコール摂取により肥大化していた前立腺が強い刺激を受けた結果、尿道を圧迫して小便が出なくなったのである。
馬齢を重ねてくると、様々な障(さわ)りが出てくる。恥ずかしい出来事も、ますます多くなるのだろう。
近所の場末のスナックで飲んでいて、たまたま隣り合わせた爺さんにこの話をすると、「そんなことは序の口だ」と一蹴された。
「そういうことも含め、人生を楽しむことよ」
たばこの煙を吐き出しながら、ひどくロレツの回らない口調で諭された。
「若いのにだらしねえなぁ。オレの迸(ほとばし)る勢い、見せるか」
豪快に笑う爺さんと、楽しいひと時をすごした。七十代後半と思しきこの爺さんを、その後何度か見かけた。だが、あるときから、爺さんの姿を見なくなった。
しばらくして、爺さんが亡くなったことを知らされた。爺さんは大腸がんで、人工肛門をつけながら飲みに来ていたという。
爺さんの豪放磊落(ごうほうらいらく)さが目に浮かび、改めて自分のショボさを思い知らされたのだった。
2026年8月 初出 近 藤 健 (こんけんどう)
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