こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break 別邸 ~ essence of essay ~

2000年、40歳を機にエッセイを書き始めました。2001年からは、北日本石油㈱のHPの片隅 Coffee Break Essay のコーナーで、順次発表させてもらっています。そんなエッセイが200作を超えました。そこで、時系列に並んでいる作品の中からランダムにチョイスし、改めてここに転載することにしました。題して「Coffee Break 別邸」。時間の堆積の中に紛れ込んでしまった作品をつまみ出し、虫干しをかねて少し新しい風を入れてやろうと思います。たあなたの琴線に触れる作品が見つかれば幸いです。

なお、加筆している作品もありますが、本文の内容は基本的に初出の時点です。また、文中の数詞は、縦書き仕様のままとなっています。

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 私のふるさとは北海道の太平洋岸、えりも岬にほど近い様似(さまに)という小さな漁師町である。この一帯は、日高昆布とサラブレッドの一大生産地となっている。

 昭和五十年、私は高校進学とともにふるさとを離れた。札幌の高校で寮生活を始めてすぐに、海のない環境に大きな戸惑いを覚えた。それまで意識することもなく目にしていた海が、突然なくなったためである。磯の香り、潮騒のない生活に、窒息しそうなほどの閉塞感を覚えたのだ。

 都会の学校で受験勉強に浸る生活をしながら、こんなことではいけないという思いを抱くようになっていた。モヤシになってしまうと思ったのだ。夏休みで帰省すると昆布干しのアルバイトに精を出すようになった。時季になると、敷きつめられた昆布で浜一面、見渡す限り真っ黒になる。町中に磯の香りが充満する。

 昆布採りの作業は、日の出とともに始まり、午前中には終わる。そしてその日のうちに昆布を干し切ってしまわなければならない。そのころの私は、朝四時から始まるこの労働を、一人前の男になるための通過点、試練だと考えていた。それまで私は、昆布干しをしたことがなかった。乗り越えたい壁だと思っていた。

 昆布旗が上がるとともに、満を持した磯舟が我先にと漁場を目指す。数百メートルの沖合に舟を泊め、手ぬぐいでねじり鉢巻きをした漁師のオヤジが、海面に身を乗り出して昆布を採る。やがて昆布を満載した磯舟が、浜に向かって一直線に戻ってくる。

「来たよ!」

 という声と共に、待機していた家族と手伝いの者たちが一斉に走り寄る。胸まで海に浸かりながら舟を迎えに行き、波打ち際へと誘導する。横付けされたリヤカーに昆布が移される。肉厚で黒光りした昆布は、間違いなく最上級の一等昆布だ。全身潮まみれになりながら、大急ぎで昆布をリヤカーに移し替え、再び舟を送り出す。昆布旗が降ろされるまでの間、この作業が繰り返される。流れ寄ってきた昆布はいつ採ってもいいのだが、舟での漁は旗が揚がっている間に限られる。乱獲を防ぐためのルールなのだ。

 大学時代、三十日間漁師の昆布小屋に寝泊りし、本格的に働いたことがあった。夕食を終え、夜の七時ともなるともう眠くなる。日没の時間なのだが、前浜の防波堤に腰掛けて夕陽に染まる海を飽かず眺めていた。夕焼けが満天の星空に変わっていく、自分はこれからどうなっていくのだろう、移り行く空を見上げながら、漠然とした将来の不安を思っていた。私にとって昆布干しは、アルバイトを超えた労働で、まさに漁師家族と一体となった生活であった。

 翌年の夏からは、一転、土方の仕事に従事した。昆布干しをやり切った私は、別の世界を覗いてみたくなっていた。最初の年は山奥の砂防ダムの建設、翌年には河川の護岸工事を行った。社会の底辺で働く、そんな土方の仕事を経験してみたかった。

 田舎の土方作業は、都会での肉体労働とは様相を異にしていた。

 午前六時半にワゴン車が迎えに来る。私だけがとびきりの若者で、大方は四十代、五十代の男女が主流だった。そんな七、八人の人夫を乗せた車がひたすら山奥を目指す。目的地は、日高山脈の山懐、ペンケだったかパンケかは定かではないが、そんなアイヌ語の地名の小さな沢だった。そこで砂防ダムの建設を行った。

 助手席に座らされた私は、銃を抱えていた。ライフル銃である。銃床を下にして太ももに挟み、銃身を肩に当てて抱きかかえるようにして持っていた。そのずっしりとした重みと、銃身の冷たさに、得もいえぬ緊張感を覚えた。弾が装填され、いつでも使用できる状態になっていたが、安全装置はしっかりとかけられていた。ライフルは、ヒグマの出没に備えるものだった。銃のほかに爆竹も用意されていた。車のトランクには、岩床を破壊するためのダイナマイトもあった。フル装備である。人間が入り込んではいけない領域での作業ゆえ、畢竟(ひっきょう)、命がけとなる。

 山を下る沢の両側の岩盤をダイナマイトで砕き、大掛かりな木枠をこしらえ、そこにコンクリートを流し込む。そんな作業に一ヵ月ほど従事した。実際は、途中から建設に加わって、完成を見ずに終わってしまったのだが、ほぼ一つのダムを造るところまでたずさわることができた。

 土方の仕事は、整理に始まり整理に終わる。乱雑そうに置かれている資材は、順番どおりにキッチリと並べられ、次の出番に備えられていた。だが、仕事自体はおおらかで、午後からいなくなるジイさんもいた。釣竿を持参しており、親方がいなくなると渓流釣りをしに行くのだ。ほかの人夫たちも、あのジイさんは仕方ない、という暗黙の了解があった。それは親方も知っていた。

 昼になると、作業場の近くに建てた小屋で昼食を摂る。みんなアルマイト製のドカ弁を持ってきており、そこには大量のスジコだったり、塩ウニや肉厚のシャケ、タラコといった海産物がギッシリと詰まっていた。昼食後は雑魚寝するのだが、ライフルは常に手の届く傍らにあった。

 休憩小屋にはトイレなどなく、茂みの中で用をたす。女性たちも慣れたものだった。用をたしに入った茂みの奥で丸い尻に出くわし、何度、ドキリとしたことか。クマに遭うのも怖いが、不意に遭遇する白い尻も、ある意味恐怖だった。年配の女性とはいえ、ズキーンとした衝撃が心臓を突き刺した。

 私は十五歳から二十二歳の夏の間に、密度の濃いアルバイトを体験してきた。受験勉強や就職活動でアルバイトができない夏もあった。このアルバイトを通して、一人前の男になれたかというと、とてもそうは思えない。だが、この時に流した汗は、四十年近くを経た今もなお、衰えることのない光度で輝いている。

 

  平成三十年十月

 

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 童謡「赤とんぼ」。先日、何十年かぶりでこの歌を耳にした。

 

  夕やけ小やけのあかとんぼ 負われてみたのはいつのひか

  山の畑の桑の実を 小篭に摘んだはまぼろしか

  十五で姐(ねえ)やは嫁に行き お里のたよりも絶えはてた

  夕やけ小やけの赤とんぼ とまっているよ竿の先

 

 改めて歌詞を読むと、郷愁と切なさが渾然一体となり、現実世界が一瞬にして遠のく。とりわけ三番のくだりは胸に迫る。この歌は、三木露風が大正十年(一九二一)に子供のころを過ごした兵庫県揖保郡龍野町(現たつの市)への郷愁から作詞したものだという。今から一〇〇年近くも前のことになる。

 「赤とんぼ」ほどの情緒はないが、夕焼けを目にすると思い出す光景がある。私は昭和三十五年(一九六〇)に北海道の小さな漁師町様似(さまに)に生まれている。一帯は日高昆布とサラブレッドの一大生産地である。

 海沿いに暮らしていると、当然ながら海に沈む太陽を毎日のように目の当たりにする。真っ赤な太陽が水平線に沈もうとする刹那(せつな)、海が黄金一色に染まる。幼いころからそんな光景を当たり前のように目にしてきた。

 太平洋岸沿いにへばりつくように伸びるこの町では、えりも岬の方向、町を見下ろすアポイ岳から昇った太陽が、やがて大きな夕日となり、親子岩へと落ちていく。地元の人は「様似はアポイで始まり、親子岩で一日が終わる」そんなふうに表現する。

 母の実家と自宅との間は二キロほど離れており、海岸沿いの道を通る。どこへ行くにも海沿いの道しかない町である。当時、母の足は自転車だった。まだ、一般家庭に自動車が普及していない時代、五十数年前のことである。初めて町に信号機がついたのは私が小学校五年の時で、自宅に電話が来たのも同時期であった。何もかもが遅れていた。

 その日も母の運転する自転車の後ろに私が座り、妹が前に乗っていた。実家に顔を出していた母が、父が仕事から帰ってくる時間が近づき、慌てて自転車を漕いで帰る、そんな構図が目に浮かぶ。国道とはいえ、舗装された道はほんの一部で、ほとんどが未舗装のガタガタ道だった。夕暮れの不安な気持ちとも相まって、怖い思いを抱きながら乗っていた。

 その日はひときわ海が真っ赤に染まっていた。

「ねえ、おかあさん、海に手ぇ入れたら熱いの?」

 思わずそんなふうに訊いていた。太陽が海に落ち、熱くなっていると思ったのだ。そのとき母はどのように説明したのか、定かには覚えていない。語りかける母の横顔が赤く染まっていたのを覚えている。あんなに焼けた空と海を見たのは、後にも先にもない。夕焼けが赤すぎて怖かった。

 それから十年ほど後のことになる。この海に向かって佇む女性の姿があった。観音山の下の浜だった。親子岩が目の前にある。その人は四十代半ばくらいで、その服装から明らかに地元の人ではないとわかる女性だった。

「ほら、お盆に内地の学生がおぼれたっしょ、母親だってよ。かわいそうに」

「お盆だから、地獄の釜のフタ、あいてたんだべさ」

 そんなことがささやかれていた。陽が沈み、空が群青色になるまで立つ姿が、数日あったという。後を追わないように遠巻きに見守る地元の人の姿があった。

 

 私が小学五年まで住んでいた家は、三方が牧場に囲まれた町立の公営住宅だった。自宅の前には広い牧場が広がっており、そこから直線で二〇〇メートルほど先が海だった。その牧場では数頭の乳牛と農耕用の馬を飼っていた。その後、サラブレッドに切り替わり、一時期七面鳥も飼っていた。

 夕焼けの残照が再び空を明るく照らし出す。そんな時間になると、母に手を引かれてよく牛乳を買いに行った。搾乳の時間なのだ。薄暗い牛舎では、裸電球の下で乳搾りが行われていた。搾ったばかりの牛乳を、持参した一升瓶に入れてもらう。いくらで買っていたのかはわからないが、破格の値段だったに違いない。

 持ち帰った牛乳は、いったん沸騰させ、殺菌して飲む。沸騰させたときにできる牛乳の膜は分厚く、箸で突いてもなかなか破れなかった。冬の寒い時期は、温めた牛乳に砂糖を入れ、バターを落とした。それが私の冬の味だった。

 私がまだ三歳にもならないころ、この牧場で悲しい出来事があった。近所の小学生の女の子が亡くなったのだ。その子は、オケケと呼ばれていた。オケケとサッちゃんは仲のいい友達だった。浜で遊ぶことになり、私を連れ出そうとサッちゃんが私を借りに来たのだ。オケケは、我が家から数十メートル先の牧場わきの道端で、サッちゃんを待っていた。

 その日、私はあいにくの風邪気味で発熱しており、母が誘いを断わっている。二人は私が赤ん坊のころから時々私を借りに来ており、抱いたり負ぶったりして連れ出していた。むかしは、そういう大らかさがあった。

 サッちゃんが一人で戻ると、オケケは道路脇に倒れており、すでに息絶えていた。感電死だった。サッちゃんを待つ間、オケケが牧場の周りに張り巡らされていた鉄線に触れてしまったのだ。鉄線には普段、微弱な電流が流れていたのだが、それが何かの間違いで過剰電流が流れていた。オケケはそれに触れてしまったのだ。

 夕暮れ迫るなか、多くの人だかりの中に、母に抱かれた私もいた。事件などない田舎で、警察の現場検証が行われていたのだろう。私は太い毛糸で編まれた目の粗いブランケットのようなものに包まれていたのだが、妙に肌寒かったのを覚えている。母やサッちゃん、オケケの母親の様子などの記憶は一切ない。ただ、騒然とした雰囲気の中、肌寒かったのを覚えている。私の幼いころの記憶で最も古いものが、この出来事であった。

 夕焼けを怖いと思うのは、このときのことがあるからなのかも知れない。

 

  平成三十年九月

 

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 平成二十三年、私は三十二年ぶりに北海道での生活を再開した。

 東京を離れる前に、近所の商店街のクリーニング店や薬局などへ引っ越しの挨拶をして回った。希薄な付き合いとはいえ練馬には二十年もいたので、それなりに顔見知りがいた。私が転勤の旨を告げると、誰もが一様に驚き、

「ねえねえ、このお客さん、北海道に引っ越すんだって!」

「ええッ! ほっかいどー! あら……」

 何人かが集まってきて、気の毒そうな顔で同情された。東京の人にしてみれば、北海道は「地の果て」の「とんでもない土地」なのである。観光で遊びに行きたい憧れの地ではあるが、住む場所としては、あり得ない土地なのだ。

 北海道生まれの私ではあるが、長年北海道を離れていたので、すっかり見知らぬ土地になっていた。数日帰省するのとそこで暮らすのとでは、感覚がまるで違う。それゆえ、戻ってきた当初は、驚きと戸惑いの連続であった。それまでの常識が、北海道では通用しないという場面に数多く出くわした。そのズレの修復には、かなりの苦戦を強いられた。

 最初の二年を室蘭市で過ごしたのだが、室蘭はまったくの見知らぬ地であった。母と妹が札幌にいたので、頻繁に行き来していた。室蘭と札幌は、特急列車で一時間半の距離である。東京感覚では通勤圏内となる。

 その見知らぬ土地で、私が最も驚いたのは、「人のやさしさ」だった。接してくれる誰からも感じたことは、人とのキョリの近さである。こんなに近くていいのか、と戸惑うほどだった。みな、一様に温かい。心が純朴なのだ。人のぬくもりが心地よかった。そのやさしさに、どれほど救われたことか。なかにはそうでもない人もいたのだが、それは稀であった。

 私は仕事柄、ハローワークや労働基準監督署、税務署、法務局などの公的機関へ行く機会が多い。つまり、公務員と相対することになる。彼らは書類の不備に対しては、極めて冷淡である。よく考えると、それは至極当然なことなのだ。問題は、不備のある書類を持ってきた相手への対応の仕方にある。

 東京では電車を乗り継ぎ、長時間待たされてやっと順番が回ってきた相手をにべもなく追い返す。

「印鑑が抜けてますね」

 印鑑の抜けた部分を指で押さえながら、あらぬ方向を見ている。

「今日中に書類を提出したいんですが、何か方法はないですか」

「ありませんね、押してもらわないことには」

 取り付く島がない。大勢の人々を手際よく処理するためには、それも仕方のないことなのだ。一人一人に手をかけてなどいられない。トラブルが起きたときに書類に不備があったら、自分たちの非が問われる。私は、これまで散々な目に遭ってきた経験から、覚悟をもって室蘭のハローワークに足を運んだ。

「ゴメンなさいね、分かりにくい書類で。いったん、お預かりしますので、後日、差替えという形にします。改めて書類を持ってきてもらえますか。郵送でもいいですよ」

 そこまで言われると、いったん会社に戻って、直した書類を持ってこようという気になる。距離も近いので十分それが可能なのだ。

 とにかく対応が丁寧で、親切なのだ。たまたま担当した女性がそうなのかと思ったが、誰もがやさしかった。税務署でも同じようなものを感じた。人間、こうじゃなくてはダメだ。自分もそうあらねばと強く思った。

 だが、同じ北海道でも、札幌を代表とする都会と郡部とでは、体感温度が違うようだ。

 室蘭に来てすぐのころ、駅前の小さなラーメン屋に入ったことがある。五十代後半と思しきオジさんが、カウンターの隅で一人ラーメンを食べていた。会計の段になったとき、

「お客さん、しばらくぶりでしたね」

 店主が声をかけた。

「札幌に転勤になってさ。懐かしくてね、ここのラーメン」

 これを皮切りに立ち話が始まった。ほかにお客はいなかった。会話の中でオジさんが、

「いやー、ダメだー、札幌は。人間が殺伐としてるんだわ。室蘭に帰ってくれば、ホッとするもんな」

 その会話を耳にし、吹き出すのを堪えた私の鼻の穴から麺が飛び出し、盛大に噎()せた。なにせ私は東京から来たばかりで、北国の人々の純朴さに感心していたところだった。私からすると、室蘭も札幌も同じだったのだ。このオジさんが東京に転勤になっていたら、どんな反応をするだろうか。私のふるさと様似(さまに)の人が室蘭に住むことになったら、同じような感想を漏らすだろうか。様似の人口は室蘭の二十分の一だ。そんなことを考えながら、しばらく一人でニヤニヤした。

 言葉には温度がある。心やさしい人が発する言葉にはぬくもりがある。どんなに厳しいことを言われても、芯が温かいのだ。だから、そのときは「なにクソ!」と思っても、あとでジワリとしみてくる。

 東京でも忘れがたい思い出がある。

 私は二十一年の結婚生活をしてきたのだが、離婚する直前までの十二年半、精神を病んだ妻との闘病生活を強いられていた。妻が発病したのは娘が小学二年の冬である。私は三十八歳だった。

 妻の病状は変遷していくのだが、初めのころは自殺未遂と、妄想からくる耐えがたい私への暴力が繰り返されていた。何度、もうダメだと観念したことか。だが、そのつど奮いたって立ち上がってきた。私が強かったからではなく、幼い娘を守ろうとする気持ちからだった。娘から母親を奪うまいという思いがあった。

 そのころの私は、ギックリ腰に始まり、胃潰瘍、帯状疱疹、メニエール(目眩)と、神経性の病気が次々に現れていた。追い詰められていたのだ。妻の病気のことは周りには知らせていたのだが、具体的にどのような状況であるのかまで、いちいち説明していなかった。そんな気力も失せていたし、説明したころで理解できないだろうと思っていた。私はギリギリの精神状態で日々を過ごしていた。そんな私の雰囲気を見かねたのだろう、ある日、上司が、

「お前、だいじょうぶか。本当は、大変なんだろう。少し外をふらついて来いよ」

 仕事中の私の机の傍らでそっと呟いた。その言葉がどれほど私を救ったことか。私の胸は一杯になり、

「ありがとうございます。だいじょうぶです」

 と言って上司から目をそらし、天井を仰いだ。こぼれそうになる涙をこらえていたのだ。

「人生の荒波」という言葉がある。私はこの上司の言葉で人生の荒波を乗り越えられた、と言っても過言ではない。

 東京も、捨てたものじゃないのだ。だが、よく考えてみるとこの上司、出身は函館だった。

   平成三十年八月

 

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 六月、肌寒い日にはまだダウンジャケットを着ている。この時期、札幌でダウンを着ているのは私と的外れな外国人観光客くらいのものだ。バカかと思われても仕方ないのだが、寒いものは寒い。現に、去年も今年も六月中旬に北海道の峠(どこかは忘れた)では、雪が降ったというニュースを耳にした。そういうところなのだ、北海道は。

 私は十九歳で北海道を離れている。以来、三十二年間、本州で暮らしてきた。学生時代の四年間を京都で、その後就職した東京に二十八年いた。つまり、十九歳から五十一歳までの期間となる。

 再び北海道へ戻ってきたのは、東日本大震災のあった年の三月である。母と妹が体調を崩したため、会社に転勤希望を出したのだ。以来、七年になるが、本州での暮らしの感触が、いまだに根強く体の芯にくすぶっている。時差ボケのような感覚が、思いのほか私を苛(さいな)ませているのだ。だが、そんなことは周囲には言えない。

「東京かぶれ、まだ治らないのか?」

 と白眼視されるのがオチである。五十八歳という年齢が環境への順応を鈍化させているのは否めない。しかし、もう七年が経過している。原因はそれだけではない。

 もともと私はひどい寒がりである。一月十五日という厳寒期に、予定日より一ヵ月も早く生まれた。母が実家の階段から足を滑らせたのだ。しかも、体の弱い初孫だった。祖母はかつて初産の自分の子を亡くしていた。そんなこともあり、真綿に包んで大切に育てられた。私が寒がりになった元凶は、その辺にあると睨(にら)んでいる。

 北海道の生活環境は過酷である。十月から翌年四月上旬までの半年が、東京でいう冬だ。一月に入ると、一日中氷点下の真冬日が、くる日もくる日も続く。毎日雪が降り、景色が色を失い、見渡す限りモノトーンの世界と化す。あまりの寒さに感覚自体がバカになり、氷点下一桁の日を暖かいと感じるようになる。

「マイナスも一桁になって、ずいぶんと日も長くなった。春だね」

 二月も半ばを過ぎると、こんなことを言って嬉しそうな顔をしている人を見る。確かにあの寒いころに比べればマシかもしれない。でも、

「八〇〇万円のミンクのコートが今なら特別価格で三五〇万円! どうだ、お買い得だろ」

 といわれているのと大差がない。しかし、こっそりと頷(うなず)いている自分がいることも確かだ。それはある意味、寒冷地生活への順応の兆候ともいえる。連日、三十五度を超す真夏日が続いていると、三十一、二度を過ごしやすいと感じるようになる。そういうことなのだ。

 二十四節気では、二月上旬から立春が始まる。雨水は二月中旬、三月上旬が啓蟄、その後順繰りに春分、清明、穀雨と続く。関東の太平洋岸の冬は、来る日も来る日も晴れの日が続く。冬晴れの毎日である。乾燥するがゆえに、風邪もひくし、インフルエンザも大流行する。江戸時代には火事が多かった。それが雨水を迎えるあたりから、春雨が降り始める。春雨前線が長雨をもたらすのだ。ああ、春が始動しだしたなと感じる。春一番が吹くのは、立春から三月上旬の啓蟄にかけてである。この春一番を合図に、一気に虫が蠢(うごめ)きだす。春はゆっくりとした歩調で、うつらうつらとやってくる。

「春の海 ひねもすのたり のたりかな」蕪村の句がそれを語る。春とはそういうものなのである。

 今年の啓蟄は三月六日だが、この日の札幌の最高気温は氷点下二・三度で七十センチの積雪があった。それでも今年は雪が少ないほうで、私が札幌に来た年の三月の積雪は、一三〇センチであった。私が時差ボケという感覚がこれなのだ。この季節感のズレは春に限ったことではなく、四季を通して万事この調子だ。八月なのにアジサイが咲き、お盆を過ぎるともう秋風がススキの穂を銀色に靡(なび)かせている。どうしてそんなに冬を急ぐのだ? そう言いたくなる。

 むかし地理の授業で習ったが、津軽海峡を境に気候区分が変わる。

「ごらん あれが竜飛(たっぴ)岬 北のはずれと……」

 石川さゆりが拳を握りしめ熱唱するように、北のはずれである青森県の竜飛岬までが温帯気候で、その先は亜寒帯気候なのだ。そんな御託(ごたく)を並べても詮(せん)ないことだが、力づくで自分を納得させる、ねじ伏せる必要があるのだ。それでも脆弱(ぜいじゃく)な私のメンタルが、知らず識らずのうちに環境への順応を阻(はば)み始める。「寒いのは嫌だ」と思いながら生活している自分が頭をもたげ出す。ゆえに、いつまで経っても拒絶感が払拭(ふっしょく)できないのだ。

 

 一昨年(平成二十八年)の秋、私は友達を介してエミと知り合った。エミは二つ年下だ。私は平成二十二年に妻と別れ、エミは連れ合いを亡くして四年が経っていた。お互いに娘がいる。以来、田舎者同士の私たちは一緒に歩んできた。一緒といっても、生活を共にしているわけではない。いずれは、そのつもりでいる。

 エミと出会ってからは、あれほど耐えがたく苦痛だった冬を、あまり意識しないで過ごしている。こんな安直(あんちょく)なことを言ったら女性にぶん殴られるが、なんだか無痛分娩を経験したような、そんな感覚なのである。ただ、寒いことには変わりはないのだが。

 彼女は寒風吹きすさぶ日本海で生まれ育っている。間近に迫る山を背にし、日本海と対峙(たいじ)して暮らしてきた。家々の周囲は軒先まで届く高い塀で覆われている。塀といっても、板を打ちつけただけの殺風景な囲いだ。それは叩きつける海風のただならぬ強さを物語っている。冬場は近づき難い地域である。

 そんなところで彼女は育った。だから安易に「寒い、寒い」などとは言えない。そんな言葉を発したら、「この、へなちょこ野郎」と一蹴(いっしゅう)されるのは、明白だ。彼女は決してそんな言葉を使わないし、そんなふうにも考えないだろう。むしろ私に対しては寛容な態度を示すに違いない。そんな彼女に甘んじる自分を潔(いさぎよ)しとはできないのだ。

 ともすれば逃げ腰で生活してきた自分自身に対し、「いいかげんに、覚悟を決めろ」と喝(かつ)を入れ、自らにナイフを突きつける。半年が冬の生活だぞ。本当にそれでいいのか、そんな葛藤の冬を過ごしてきた。気づいたら、私は北国で暮らす覚悟を容()れていた。自らの脅迫に屈したわけではない。進んで受け入れていたのである。

 でも、寒いものは寒いのだが。

 

  平成三十年七月

 

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 仕事をしていてふと顔を上げると、窓の外に白い浮遊物を目にするようなった。六月に入る数日前からのことである。タンポポよりもよほど大きい。何かの綿毛だ。まるで無重力の中を漂うように、気の向くままに浮遊している。ネットで調べて、それがポプラの綿毛であることがわかった。

 実は、高校時代にこの光景を同じ札幌で見ていた。長い歳月の中ですっかり忘れていたのだ。かつて、大陸からの引揚者が、ハルビンの風物詩として、街中に綿毛が飛ぶという話を何かで読んだことがある。中国の方は、ヤナギの綿毛のようだ。

 浮遊する綿毛を眺めながら、いかにも北海道だなと感じる。ゴールデンウィークに桜と梅が同時に咲いて、そのあとは百花繚乱といった様相を呈する。この時期、特に目立つのがライラックだ。香りを感じて顔を上げると、ライラックが咲いている。東京にいたころ、春まだ浅い季節に、どこからともなく漂ってくる沈丁花の香りがあった。香りが季節の移ろいを知らせてくれる。

「家ごとにリラの花咲き札幌の人は楽しく生きてあるらし」

 とは、歌人吉井勇の歌である。札幌医科大学の医師だった渡辺淳一の「リラ冷えの街」を夢中になって読んだころが懐かしい。リラとはライラックのフランス語名である。

 数日前に、滝川市に菜の花畑を見に行ってきた。青空のもと、地平線の遥か彼方まで広がる黄色い大地は、壮観である。遠い山はどこまでも青く、食塩のように真っ白な雪を冠している。そうか、北海道は桜と梅が終わってから、菜の花なのかと改めて気づく。順番がメチャクチャだ。とにかく準備が整ったものから一気呵成に咲かなければ、すぐにまた冬がやって来る。多少の順番の入り繰りなど、気にしてはいられない。

 紫陽花は、七月下旬から八月にかけて咲く。秋風が吹き始めてもまだ咲いているのもある。十月に咲く紫陽花に、愕然としたものだ。ドライフラワーになってしまった紫陽花は、即身成仏を連想させる。そんな物悲しい光景にも、すっかり慣れてしまった。

 私は学生時代を京都で過ごした。新緑の永観堂を訪ねたことがある。この世のものとは思えない、目にも鮮やかな青色の紫陽花が飛び込んできた。六月の雨に打たれ静かに輝いていた。

「オー、ハイドレンジア」

 という女性の声が背後から聞こえ、振り返るとアメリカ人の老夫婦が足を止め、息を呑むように見入っていた。雨に打たれる紫陽花を見ると、なぜかその時の光景が甦る。永観堂といえば十一月の紅葉だが、六月の紫陽花も忘れがたい。

 落葉樹が一斉に芽吹き、初夏の日差しに輝く六月。長く閉ざされた冬から解き放たれ、すべての生が一気に躍動する。

 北海道が輝く季節を迎えている。

 

   平成三十年六月

 

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 先日、近所の床屋へ行ったときのことである。そこは従業員が四、五名いるスーパーに併設された床屋なのだが、その日は、初めて見る年配の男性が私を担当した。散髪が終わり、レジで会計をしようとしたとき、

「お客さん、カードありますか」

 その男が人の良さそうな笑顔で訊ねてきた。

(カード?)

 私は一瞬、何のことかわからず、小さな戸惑いを覚えた。すると、レジのところに立てかけてある案内プレートが目に入った。そこには、「六十五歳以上の方は、シルバーカードをご提示ください」と記されていた。

 現在、私は五十八歳なのだが、ここ五、六年の間に派手に年齢を間違えられる場面に出くわしている。そんなことが重なるうちに、いちいち反応するのも面倒になり、「出たー」と思いながら黙殺している。

 私の服装がいけないのか。メガネが地味なのか。色々と考えたが、やはり顔に問題があるのだと結論付けている。私は二十代の中ごろから、三十二、三歳に勘違いされていた。つまり、七、八歳年上に見られていたのだ。そのころはまだ、私の髪の毛も普通に生えていた。それが、いつの間にか残念なことになっている。だが不思議なことに、ハゲが年齢誤認を増長することもなく、若いころと変わらず七、八歳の年齢差をキープし続けているのだ。それがなぜなのか、大いに首をひねるところである。

 そもそもあからさまな年齢誤認は、室蘭の銭湯が始まりだった。私は銭湯が好きで、平成二十三年に東京から室蘭に転居してからというもの、週に二度は近所の銭湯にかよっていた。銭湯へ行くようになって一年半ほどが過ぎた時だった。番台に座っていたいつものバアさんが、身を乗り出すようにして、

「お客さん、何歳?」

 唐突に私の年齢を訊いてきた。

「オレ? 五十二だよ」

 と言うと、

「あら…… 若いのね」

 と言うなりバアさんは顔を赤らめ、肩をすぼめた。若奥さんとはよく話をするのだが、それまで一度も話しかけてこなかったバアさんだった。風呂に入っている間中、何でババァ、オレの歳を訊いてきたんだ? と考えてみたが、納得のいく答えは見つからなかった。バアさんに面と向かって「なんで歳を訊いてきたの?」と尋ねるのも抵抗があった。悶々としながら銭湯を後にした。玄関を出て何気なく振り返ると、入り口に貼り紙があった。入るときには気づかなかったものである。そこには雄渾な字で「本日、敬老の日。六十五歳以上の方は入浴無料です」と墨書されていた。

 その時の衝撃は大きかった。八十歳を超えたバアさんとはいえ、五十二歳の私が六十五歳以上に間違えられたのだ。言葉を失くした。

 それから二年後、さらなる衝撃が私を待っていた。

 私は二年間の室蘭での生活を終え、札幌に転勤になっていた。三年前に脳梗塞を発症した母がふるさとを引き払い、妹とともに札幌にいた。その後大腿骨を骨折した母は、長時間の歩行が困難になっていた。日曜日は母と妹を車に乗せ、ドライブへと誘い出す。寝たきり防止のためである。当時、母は七十九歳だった。

 ある日、ドライブがてらスキーのジャンプ台がある大倉山シャンツェへ行ったときのことだった。ジャンプ台に上る前に、ふもとのオリンピックミュージアムに入ってみた。札幌オリンピック当時の展示物を見てみたかったのだ。

 受付には四十代と思しききれいな女性がいた。私は母の車椅子を押していたのだが、母を見た女性が、

「年齢証明をお持ちですか。高齢者割引があります」

 と教えてくれた。あいにく何も持ち合わせがなかったのだが、生年月日を言ってもらえればそれでいいという。大腿骨を骨折してから認知症が出始め、耳も遠くなっていた母には、私たちのやり取りが理解できていない。妹が母の耳元で、

「母さん、生年月日、言えるかい」

 と促したところ、母は、

「昭和十年五月……」

 スラリと言ってのけた。幼子を見守るような笑顔でその様子を見ていた女性が、

「はい、いいですよ。では、シルバー二枚と大人一枚ですね」

 朗らかに言った。

(シルバー……)

 そのとき妹が、間髪を入れずに、

「ハイ、それでいいです」

 と言って入場料を払ってしまった。場内に入るやいなや、妹が腹を抱えている。小便を漏らすほどの勢いで笑っていた。年寄りから間違えられたなら笑っていられるが、ちゃんとした大人の女性から正々堂々とヤラレたことに、私は少なからぬ衝撃を受けていた。この一件を境に、私はいかなる誤認に遭遇しても微動だにしない、という体質ができ上ってしまった。

 母はどこからどう見ても年相応の八十代にしか見えない。スーパーの試食コーナーを通りかかると、決まって声をかけられる。

「ご主人もどうぞ」

 イメージチェンジに髪型でも変えてみたいが、肝心の毛がなければどうにもならない。よく行く近所の場末のスナックでも、年配のジイさんから敬語で話しかけられる。何度正しても、信じてもらえない。敵もしたたかに酔っ払っているから、糠に釘なのだ。最近では先輩ズラで、会話を楽しんでいる。

 この先、私はどうなってしまうのだろう。電車の席で向かい合わせになった人、病院の待合室、街を行きかう人、そういう人々から水増し年齢の目で見られ続けるのだろう。悲しみを突き抜け、もはや滑稽である。そういうことを楽しんで生きるのも悪くはないな、となかば諦念(ていねん)の境地である。

 先日、たいした買い物もしていないのに、スーパーのレジの女性が買い物カゴをレジ横のサッカー台(袋詰めをする台)まで運んでくれた。そんなことが続けてあった。

 近々、またなにか起こりそうな予感がする。

 

   平成三十年五月

 

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 昨年末に田中クンからりんごが届いた。田中クンは、高校からの四十年来の友達である。

 五年ほど前から、岩手県花巻市の農園経由でりんごが届くようになった。だが、私の住所の番地が間違っているので、毎回宅配便のドライバーから確認の電話が来ていた。

 最初の年は、そのままにした。親友とはいえ、もらい物をして、誤りを指摘するのがはばかられたのだ。だが、翌年も間違っていた。言おう言おうと思いながら、ついつい機会を逸し、さらに二年が過ぎた。

 一昨年、田中クンと飲んでいる最中、突然、住所のことを思い出した。そしてついに誤りを伝えた。だが翌年、またドライバーから電話がかかってきた。田中クンも酔っ払っていたので、住所変更を忘れたのだ。私の住所は農園に登録されているのだという。

 その日、私はたまたま留め置きしていた荷物をヤマト運輸の営業所で受け取っていた。それから一時間もしないうちの電話だった。私は外出していたので、帰りに営業所に立ち寄ることをドライバーに伝えた。

 帰り。小さな営業所で一人留守番していたおばちゃんにその旨を告げた。するとおばちゃんがあちらこちらを探し始めた。事務所の棚には荷物がなく、バックヤードを出たり入ったりしながら、首をひねっている。そして、ドライバーにも電話をかけ始めた。だが、荷物の所在はわからなかった。外は雪なのに、おばちゃんの額には大粒の汗が浮かんでいた。見ていて気の毒になってきた。私も約束が控えていたので、次第に気が急()いてきていた。

 そのうちにおばちゃんが、閃(ひらめ)いたとでも言いたげな顔で、

「お客様のスマホに着信、ありますよね。電話番号、教えていただけますか」

 と言った。電話番号簿をしばらく睨んでいたおばちゃんの顔が、パーッと明るくなった。そして、うちのドライバーではないと断言した。その瞬間、おばちゃんと私の形勢が、逆転した。送り状の番号を確認してみますからと言って、私は慌てて田中クンに電話した。

「田中、オマエ、オレに何を送った?」

 と訊くと、意外な答えが返ってきた。りんごだというのだ。私はのけぞった。りんごは、毎年佐川急便が運んできていた。ヤマト運輸を出たばかりで電話を受け取ったので、私はヤマトだと思い込んでしまったのだ。しかも、田中クンのご母堂が最近亡くなっていた。私は田中クンが香典返しを送ってよこしたのだと思い込んでいた。りんごは頭になかった。

 私は潔く敗北を認め、平謝りに謝って、営業所を後にした。後味の悪さが残った。

 佐川の営業所は近所にあった。荷物を受け取った私は、その足でヤマトへと向かった。何事かと怯(ひる)むおばちゃんにりんごを押し付け、足早に車に乗り込んだ。玄関先に立つおばちゃんの姿がミラーにあった。よく見ると涙を拭っていた。手元にあったりんごを齧(かじ)ると、口の中一杯に甘味が広がった。冬の味がした。

 

  平成三十年四月

 

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 三十年も前の話だが、母が千歳空港の駐車場でマフラーを拾ってきたことがあった。入れ違いで出て行ったベンツが落としていったもので、気づいて追いかけたのだが、そのまま行ってしまったという。

 妹が調べたところ、それはエルメスのマフラーで、定価が十五万円だというのだ。そのマフラーは私がもらい受け、いまだに愛用している。とはいえ、私はブランド物には、まったくといっていいほど頓着がない。

 昨年の十一月下旬、母と妹を車に乗せて、ドラッグストアに立ち寄った。札幌に大雪が降った日のことである。

 買い物を終えて車に戻ると、妹が雪の中から小銭入れを拾い上げ、

「拾っちゃった。ここに落ちてた」

 といいながら雪を払っていた。お店に届けてくるから待ってて、という妹を押し留めた。ドラッグストアで買ったものを一旦自宅に持って行き、今度はスーパーで買い物をしなければならない。いきなり積もった三十センチの雪と近づく夕暮れに私の気が急いていた。しかも、小銭入れは古びており、中には一二〇円ほどの小銭しか入っていなかった。そんなわけで、いいだろうと判断したのだ。

「これソメスサドルだよ。落とした人、ショックだろうな、高いから」

(何だ? その自転車の椅子みたいな名前は)と思いながら小銭入れを見ると「SOMES」という小さな刻印があった。後ろめたい、という妹の言葉を振り払うようにして、私は車を出した。

 スーパーでの買い物を終え、三人で夕食を摂った。会計をしようとレジで財布を出したのだが、小銭入れが手に触れない。改めてリュックの中を確かめながら探したのだが、どこにもない。背中に会計待ちのお客の視線を感じ、あせり始めたときだった。アッ! と思った。「あの小銭入れは、オレのか?」という思いがよぎった。

 そばにいた妹に小銭入れを見せろと言って手に取ると、小銭入れの小さなポケットに古びた十円玉が一枚入っていた。

「これ、オレのだ!」

 そう言ったときの妹の顔は、これ以上はムリと言わんばかりの最大級のあきれ顔だった。私は自分の財布がわからなかったのだ。あのとき、ドラッグストアに届けなかったのは、結果として正解だった。もう少しで自分の小銭入れを拾って、それを落し物だといって届けるところだった。

 この小銭入れ、どこで買ったのかも覚えていない。ただ、小銭入れのくせに生意気な値段だなと思ったのだった。飛び抜けて高かったわけでもなく、ほかの小銭入れとたいして変わらない値段だった。

 ちなみに古びた十円玉は、私が生まれた昭和三十五年の十円玉である。たまたま目にし、別にしておいたのだ。それがなかったら、最後まで気づかなかったかもしれない。

 

   平成三十年三月

 

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 私が敬愛する作家には、料理作りに傑出した人が何人かいる。立原正秋や檀一雄がその代表選手だ。

 檀一雄は、女優檀ふみの父親である。最後の無頼派と呼ばれた作家で、太宰治や坂口安吾、織田作之助らと親交があった。それゆえ、生活は破天荒(はてんこう)だった。

 独身のころ、檀一雄の代表作である「夕日と拳銃」が読みたくて、神田神保町の古本屋街を歩き回ったが、とうとう見つけることができなかった。ほかの著作を何作か見つけたが、いずれも一万円以上の値がついており、買えなかった。

 そのうちに全集を扱う店で、檀一雄全集を見つけた。本棚の最上段に整然と並んだ本は、全八冊で七六〇〇〇円という値札が下がっていた。何ヵ月もその全集を見上げていたが、とうとうボーナスで買ったという経緯がある。次にその店を訪ねたら、新たな檀一雄全集が並べられており、八四〇〇〇円の値札が付いていた。

 会社の社宅が空いたので、上司から入居を打診された。社宅といっても、プレハブ住宅に毛の生えたような、古くて汚い二世帯の住宅である。当時、私は杉並区和泉のボロアパートに住んでいた。むかし、ドリフターズの「八時だよ、全員集合」に出ていた長屋のようなアパートだった。だがそこは、京王線の明大前駅に近く、都心へのアクセスは抜群によかった。それゆえ、練馬には大きな抵抗があった。

 練馬の社宅周辺を調べていると、檀一雄宅の近くであることがわかった。もうそれだけで、二つ返事で承諾した。檀一雄はすでに亡くなっていたが、それでもよかった。檀一雄に高じていた私は、娘がもの心ついたころから、私のことを「チチ」と呼ばせていた。それは、檀一雄がふみら子供たちに呼ばせていたことに倣(なら)ったものだった。

 やがて、周りの子が「パパ、パパ」というようになる。娘も私のことを「チチ、チチ」と呼んでいたが、長じると人前では「チチ」と言わなくなった。他人と違うけったいな呼称が、恥ずかしくて言えなくなったのだ。悪いことをしたと悔いたが、あとの祭りだった。

 檀一雄のエッセイに触発されて、何度か料理を作ったことがある。男の料理ながら、その繊細さに憧憬(どうけい)にも似た思いを抱いていた。なかでも簡単に作れるイカ料理は、今でも思い出したように作っている。

 料理は得手(えて)ではない。二十七歳で会社の独身寮を出、一人暮らしを始めた。外食に飽きて自炊を始めたのだが、料理というにはほど遠い代物を作っていた。深刻な野菜の摂取不足を憂い、電話で実家の母にほうれん草のおひたしの作り方を訊いたことがあった。

「あんた……」

 母は、そんなものも作れないのか、という驚きと不憫(ふびん)さの入り混じったため息をついた後、その声は涙声に変わった。以来、二度と母に料理のことは訊いていない。

 私は、料理が苦手である。だが、娘が小学二年生のとき妻が精神疾患に陥って、家事の一切を引き受けることになった。当然、料理も作らなければならない。妻が入院している間、娘と二人だけの食事が始まった。そのとき、私はとんでもない料理を数多く作った。見た目がひどく、味も悪い。しょっぱすぎる。甘すぎる。味がない。全体的に焦げ臭い。万事、こんな調子だった。これまで料理をしてこなかったので、当然、失敗する。料理のセンスがなかった。

 電車と地下鉄を乗り継ぐこと三本、片道一時間の通勤であった。大急ぎで会社から帰ってきて、慌てて夕飯を作る。疲れ果てた青白い顔で、無我夢中で台所に立っていた。

「ゴメン、また、失敗しちゃった」

 といって見た目の悪い料理をテーブルに並べる。そんな夕食を、娘は嬉しそうな顔で食べる。

「チチの料理、おいしいね」

 娘のそんな声を聞きながら、私は自然体を装うようにして天井を仰ぐ。あふれる涙をぬぐっていた。気を抜くと嗚咽(おえつ)しそうになった。

 長い闘病生活の中で、高校生になった娘の弁当まで作っていた。娘は朝が苦手だった。十二年半の病気との生活の中で、なんとかそれなりの料理はできるようになった。結果的に妻と別れるのだが、料理に困ることはなくなった。苦手なことには変わりはないが。

 やがて娘も結婚し、会うのは年に一度になってしまった。久しぶりに娘と過ごすことがあると、

「ねえ、おにぎり作ってよ。あれ、おいしいんだよね」

 甘えた声で夜食をねだってくる。

「太るぞ」

 といいながら、重い腰を上げ台所に立つ。濡れた掌(てのひら)にサッと塩を塗り付ける。久しぶりだが、手がその感触を覚えている。小さめのおにぎりを握りながら、そっと涙をぬぐう。

 立原正秋や檀一雄に傾倒することがなかったら、ここまで頑張れなかっただろう。七六〇〇〇円の全集は、私の持っているどんな本より高価ではあったが、優れたテキストでもあった。そういう意味では、いい買い物だったのかもしれない。

 

   平成三十年一月

 

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