こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

2000年、40歳を機にエッセイを書き始めました。2014年から過去の作品に加筆しながら、ここに発表しています。時間の堆積の中に埋もれてしまった作品をつまみ出し、虫干しをかねて少し新しい風を入れてやろうと思っています。あなたの琴線に触れる作品が見つかれば幸いです。

なお、本文の内容は基本的に初出の時点です。また、文中の数詞は、縦書き仕様のままとなっています。

  利尻(りしり)昆布、羅臼(らうす)昆布、日高昆布……、スーパーでよく目にする昆布の銘柄です。私のふるさとは、北海道の南、太平洋に面した小さな町、様似町(さまにちょう)です。「出汁によし食べるによし」、万能昆布と称される日高昆布の産地です。

 様似町は、襟裳(えりも)岬を擁するえりも町とサラブレッドの生産地浦河町に挟まれた人口3,800人の町です。そんな小さな町を見下ろしているのがアポイ岳です。

 地球深部のマントルの一部が突き上げられるように地上に現れたのが「幌満(ほろまん)かんらん岩体」であり、アポイ岳なのです。アポイ岳は、山全体が橄欖岩(かんらんがん)によって構成されています。そんな稀有(けう)な環境がユネスコの評価を受け、ジオパーク(「アポイ岳ジオパーク」)に認定されています。

 そのアポイ岳の特異な環境は、810メートルという標高にも関わらず、海霧(がす)の影響とも相まって高山植物の宝庫となっています。アポイ岳の高山植物群は、早くから国の特別天然記念物に指定されていました。80種ほどある高山植物の中で、ヒダカソウ、アポイアズマギク、サマニユキワリなど約20種が固有種です。動物もアポイマイマイ(カタツムリ)、ヒメチャマダラセセリ(チョウ)などの固有種やエゾナキウサギが生息し、かつて国定公園に指定されたときには、「日本最大で最後の秘境」と称されていました。

 この(2024年)6月に、国定公園から国立公園に格上げされ、「北海道に日本最大の国立公園が誕生」と報じられたのが、日高山脈襟裳十勝国立公園です。アポイ岳は、この広大な国立公園の中でも異彩を放つ存在となっています。

近藤 健(こんけんどう)

<一部写真提供 加藤みゆき>

 

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 目の前に積まれた原稿の束を眺めている。これから始まる気の遠くなる作業を前に、ただ呆然(ぼうぜん)と眺めている。秋から年末にかけての毎年の恒例行事の始まりである。

 タイトル、名前、性別、生年月日と目を移していく。〇〇に住んでいる人かと確認し、職業欄へ。そして再びタイトルを一瞥(いちべえつ)し、静かに息を吸い込みながらページをめくり本文へ。しばらく読み進んでから、「あれ? タイトルなんだったっけ」と原稿のカガミを見直すこともある。

「タイトルは予感であり、本文は実感である」と言っていた人がいた。タイトルは、本文から滲(にじ)み出てきた結晶ともいえる。作品を書き終えたとき、タイトルは自ずと決まってくる。だが、そうではない場合もある。どうしようかと悩む。そんな作品に限って、テーマが分裂しているものだ。また、安易な筆名は、作品を薄っぺらなものにしてしまう。作者の姿勢が透けて見えてくる。

 エッセイ賞の選考にかかわるようになって、何年になるだろう。数百本の応募作の中から予備選考を経た二十本ほどの作品が目の前にある。時には、その前段階からの選考分にも目を通す。そうなると原稿量は五倍にも膨れ上がる。以前は、事務局から原稿の束が郵送されてきたが、今は、PDF化された原稿がクラウド上に置かれ、それを自分のパソコンに取り込んでプリントアウトする。原稿の校閲ならばディスプレイ上で行うこともあるが、選考となるとそうもいかない。

 生原稿の場合、読みだす前から、凛とした存在感を漂わせている原稿がある。万年筆で清書された原稿からは、作者の並々ならぬ思いが感じ取れる。手書きの気迫が伝わってくるのだ。プリントアウトした原稿は、手書きのものでも概して均一なものになっている。紙質も同じで、モノクロで印刷するからなおさらなのだろう。

 一度目は、作品をサッと読んで点数をつけていく。私の場合は、五段階で評価する。予備選考を経た作品には、「1」や「2」はない。応募作品が例年六〇〇から九〇〇本程度あるのだが、すでに篩(ふるい)にかけられているためだ。

 結果的に「3」と「4」を、「3下」「3」「3上」「4下」「4」「4上」と細分化し、「5」を合わせた七段階で評価していく。「5」は当選作である。二度読み三度読み、納得するまで読み込みながら、「3」と「4」を区分けしていく。自ずと最終選考に残す五、六本は「4上」の中から選ばれることになる。「5」は不動なのだが、本当にそれが「5」でいいのか、という見極めが必要になる。

 選考には孤独感はもとより、強い罪悪感がつきまとう。作者には十人十色の体験があり、それぞれに固有の思いがある。そこに立ち入って、優劣をつけなければならない。‶選者の好み〟というレッテルを貼られないよう、自らを突き放し、自分との距離を保つ。その日の体調に左右されぬよう、均一な精神の保持を心がける。そして、文学というフィルターを通して、読み手の側からの判断をしていく。文芸の価値をその枠の中でとらえて判断する。否応なしに自分の力量が試される。

 選考の最終段階に入ると、候補作を読み返しながら、一生懸命に作品のアラを捜している自分がいる。肌触りはいいのだが、表面だけきれいに繕(つくろ)われているだけなのではないか。核心に突き刺さっているか。人生の葛藤がしっかりと描かれているか。突き抜けるような力強さがあるか。言葉の力で心の底を震わす、共鳴感のある作品に仕上がっているか……。狡猾(こうかつ)な顔で作品の皮を削ぎ落していく、そんな自分が嫌になる。

 本当にオマエはこの作品を優秀賞にするつもりか。その判断は正しいか。誰もが納得するものか……、鋭利な刃物が突きつけられる。強迫観念が怒涛(どとう)のように迫ってきて、押し潰される。それは紛れもなく、私の底辺の露呈なのだ。自分がその作品を選んだ理由を書き出していく。それは、選評というにはほど遠く、自分を正当化しようとする言い訳の羅列(られつ)である。

 自分の採点が終わるまでは、あえて他の人の評価を見ないようにしている。

 怖いと感じるのは、予備選考に携わった多くの審査員が評価していない作品を、自分が採ってしまっていたときである。他の審査員と大きく評価が食い違っている。多数決ではないが、かつては安易に大勢の側に迎合していた。その方が楽だった。

 最終選考で、作家の佐藤愛子先生から、私たちの文学性を見る目の価値観が違うとお叱りを受けたことがあった。そうか、やはり自分の判断はあながち間違ってはいなかった。曲げなければよかったと後悔したことが二度、三度とあった。また、その逆のケースもあった。自信を持て、もっと自分を信じろ、と自らに言い聞かせる。それでも大勢の評価が気になる。自分がゆれ動く。

 選考が煮詰まってくると、怖くてその場を離れることがしばしばある。作品との距離を置くために、数日、原稿から離れる。そうして自分の腹を決めていく。

 佐藤愛子先生が、いつかの選評の中で次のように言われていた。

「こういう厳しい現実は、人生いくらでもあることですが、読者に訴えかけるところまで、人間が書き込めるかどうかが、いい作品になるかどうかの分かれ目です」

 核心に突き刺さる言葉である。

 私の心の底には真っ暗な部分があり、そこは純水で満たされている。そんなイメージが私にはある。その純水を共鳴させ、突き抜けていく光のような作品との出会いを求めている。私が選考を続けている理由は、そんなところにあるのかもしれない。

 

  2024年7月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 今さら改まって言うことでもないのだが、私たちは〝地球〟という天体に暮らしている。その形状は球体で、自ら回転(=自転)しながら太陽の周りを回っている(=公転)。太陽の周りを一周すると一年になるわけで、その間に地球は三六五回自転する。

 私たちは、そんな知識を子供の頃から摺(す)りこまれてきた。だが正直な話、日常生活を送っている分には、球体であることも、回転していることも実感に乏しい。

 私は現在、札幌に暮らしている。郊外に向かって車を走らせると、ほどなく広々とした平野が開けてくる。走っても走っても尽きない広大な大地である。また、はるか彼方まで広がる水平線は、紛れもなく平坦なもので、これが球体の一面だとはとても思えない。

 時に地震に見舞われ、大きな災害がもたらされる。地球の動きを感じるのはこんな地震のときくらいで、自ら回転しているとは、俄(にわ)かに信じがたい。朝になれば太陽が昇り、夕方には沈んでいく。それが日常の営みであり、動いているのは太陽の方である。だが、それこそが地球が回転している証拠なのだ。頭ではわかっているのだが、「回転しているのに、球体なのに、どうして海の水はこぼれ落ちないのか」、そんな思いが、拭(ぬぐ)っても拭っても、あとからあとからジワリと沁(し)み出してくる。

「水平線から現れる船を見てみろ。マストから見えてくるだろう。地球が丸いからだ」

 中学の理科の授業で、窓の外に広がる水平線を指さした先生が、得意気に言っていた。このように私たちは教え込まれ、コペルニクス的転回を強いられてきた。だが、この年になっても、天動説への未練はまとわりついてくる。

「……それでも地球は回っている」と言ったガリレオガリレイは、たいした男だと思う。

 回転しているのは地球だけではない。地球を含めた惑星が、自転しながら太陽の周りを回っている。一番外側の冥王星(めいおうせい)は、現在では準惑星に格下げされたので、水・金・地・火・木・土・天・海の八個が、太陽系の惑星となっている。

 くどいようだが、もう少し続ける。

 地球に月(衛星)があるように、ほかの惑星にも衛星がある。木星には四十八個の衛星があるという。見上げた夜空は、どんな光景だろう。大小さまざまな月が四十八個も出ていると、さぞや気持ちの悪いものに違いない。それら衛星もまた、自転しながら惑星の周りを公転している。もちろん太陽も自転しており、太陽系を含む銀河系も回転している。

 驚くのはその自転速度だ。地球は秒速四六六メートル、太陽は秒速一八九〇メートル、月は秒速四・六四メートルで回転している。公転速度は、さらに高速になる。地球は毎秒二九・八キロメートルで、月は秒速一・〇一キロメートル、太陽が銀河系の中心を回る速度は、秒速二二〇キロメートルになる。

 つまり我々が暮らす地球は、高速回転をしながら猛烈なスピードで太陽の周りを公転しつつ、その太陽もろともさらに超高速で、銀河系の中心の周りを回っているというのだ。銀河系もまた、ほかの星雲ともども猛烈な速度で、宇宙の果てへと飛び散っているのだろう。その始まりはビッグバンのあった一三八億年前だという。しかしそれとて、現時点で我々人間が知り得た範囲内のことなのである。

 一九七七年に打ち上げられたNASAの惑星探査機ボイジャー一号は、二〇二四年二月の時点で、地球から二四三・七億キロ離れたところを秒速一七キロで飛び続けている。地球から光が到達するのに二十二時間三十五分を要する距離で、光年に換算すると〇・〇〇二五七六光年だという。一光年は、光のスピードで一年かかる距離で、約九兆五千億キロメートルになる。ボイジャー一号は、四十七年もの間、高速飛行を続けているのに、まだこの距離なのである。

 現在判明している最も遠い天体は、三四八・一億光年の彼方にある。光のスピードで三四八億年かかるというわけだ。いったい、宇宙というものは、どうなっているのだ。途方もない、人知を超えた世界だということだけはぼんやりとわかる。

 カタツムリやアリが世界一周をするのに、どれほどの時間がかかるだろう。バクテリアは……と考えると、私たちが宇宙に思いを巡らせ、途方に暮れるのと同種のニュアンスを覚える。彼らは、私たちが飛行機や新幹線、自動車などを使って長距離を高速で移動していることを知らない。地球の反対側の人とリアルタイムで会話ができるということも。

 幼いころ、忙(せわ)しなく巣穴を出入りしているアリや、ゆっくりとした動作で移動するカタツムリなどをよく眺めたものだ。彼らはしゃがんで覗き込んでいる我々にすら気づいていない。もしかして、私たちも同様に、その上の世界を知らないのではないか。ハッとして天を仰ぎ見る。私たちの営みを覗き見ている存在もあるのだろうか。それが‶神〟なのか……、そんな思いが過(よぎ)る。新興宗教の勧誘の論法も、このようなところから入っていくのだろう。

  見上げてごらん夜の星を/小さな星の小さな光が/ささやかな幸せをうたってる

 歌手の坂本九は、飛行機事故に巻き込まれ亡くなった。死んだら星になるとは思わないが、無意識のうちに空を仰いでしまう。死者の魂は空の上にあるということを、私たちは本能的に嗅(か)ぎ取っているのかもしれない。

 私たち人類は、長い間、田畑や海で働いてきた。狭い世界の中で男女が出会い、愛し合い、子供を産み育て、家庭を護り、やがて老いていく。そうして死んでいった者もまた、生きている人々の拠(よ)り所となり、死後もなお一体となって暮らしてきた。それが人間の営みだった。

 時代が変わっても大差はない。私たちは出会いと別れを繰り返しながら、生を終えていく。この壮大な宇宙の中で起こっていることや、仕組みを理解しないまま、生没を繰り返してきた。そしてこれからも、そんな営みが続いていく。

 いずれかの時代で、高度な地球外生命体と接触し、知識や技術が飛躍的に向上することになるだろう。長距離空間を瞬間移動することが日常になっているに違いない。そんな時代から眺めると、今の私たちの生活は縄文時代とさして変わらぬものと映るだろう。

 地球が太陽の周りを八十回から九十回ほど公転している間に、人間の寿命は尽きてしまう。私が幼いころは、人生五十年と言われていた。宇宙の壮大さに比べたら、人間もカタツムリもバクテリアも、まったく同じ同レベルの存在なのだ。

 だから、限られたこの期間内を楽しく生きるべきなのだろう。こうしている間にも、私たちの持ち時間は、刻々と削られていく。私たちの未来は、‶残された時間〟なのであり、それはあと僅(わず)かしかない。年老いた父母を敬い、パートナーを愛し、子供や孫があればそれを慈しみ、友達と楽しいひと時を過ごす。

 六十代も半ばになると、誰が先に逝ってしまうかは、運命にゆだねるしかない。すでに私たちの祖父母は死に絶えていない。悲しい別れは、必ず訪れる。

 詩人西條八十(やそ)の墓碑には、次のように刻まれている。

「われらふたり、たのしくここに眠る、離ればなれに生まれ、めぐりあい、みじかき時を愛に生きしふたり、悲しく別れたれど、また、ここに、こころとなりて、とこしえに寄り添い眠る」

 出会いと別れを繰り返す人生の中で、出会った伴侶との理想的な括(くく)りである。かくありたいものだ。

 

  2024年6月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 私は会社員でありながら、長年、プロの作家から文章指導を受けてきた。それは、エッセイで賞をもらい、同人誌に加入したことに始まる。二〇〇三年、四十三歳の年だった。

 東京・世田谷の茶沢通りをゾロゾロと歩く一団、その中心は、六、七十代で、八十代の方もいた。久しぶりに会う十人ほどの男女が、しゃべりながら歩く。脚の悪い女性もいたので、その列は時に五十メートルにも達した。

 中でも飛び切り若かった四十代の私は、牧羊犬よろしく殿(しんがり)を務めていた。先頭がときおり立ち止まってくれ、後続隊の合流を確認し、また歩き出す。年に二度、同人誌に発表したエッセイの講評を受けに、作家の佐藤愛子先生のご自宅を訪ねるのだ。三軒茶屋駅から二十分ほどの徒歩の道である。

 佐藤愛子先生の講評はとても鋭利で、寸分の狂いなく急所を突いてくる。

「ん……、ここねぇ、この部分が説明的なの」

「この最後の一行、蛇足だわね」

 自分でもここはどうなのだろう、と密かに案じていた部分をピンポイントで指摘され、息が詰まる。プロの目線の鋭さに、弁解の余地がない。

 佐藤先生の講評では、褒(ほ)められることはめったになかった。だが、

「ここ、いいわね」

 と言っていただけることが、時々あった。

「……褒めれれるのは、あなただけよ」という仲間からの恨み節を何度か耳にした。帰り道は緊張感の解放とも相まって、行列はさらに長くなった。ガックリと肩を落として歩く、そんな私たちの後ろ姿は、引揚者さながらであった。だが、佐藤先生の謦咳(けいがい)に接した喜びと高揚感を胸に抱き、誰もがその余韻に浸っていた。そんなことを半年に一度、繰り返していた。

 その後、佐藤先生が多忙だったり、高齢になられたこともあり、対面での講評はなくなった。私たちの不出来が先生に徒労感を抱かせ疲弊させてしまった、という一面も否めない。だが、その後も拙作を目にする機会があると、人づてに批評をいただくことがある。ありがたさが胸に満ちる。

 脚本家の布勢博一(ふせ・ひろいち)先生も、ご自宅で作品評をしてくださっていた。こちらは佐藤先生を補完する形になっていたが、すでに私は東京を離れており、参加する機会は一度もなかった。ただ、勉強会のたびに、文書で丁寧な作品評をくださった。先生は糖尿病の悪化からすでに全盲になられていたので、秘書の女性が口述筆記したものである。布勢先生も水谷豊の「熱中時代」、北野武の「たけしくん、ハイ!」、萩原健一の「課長サンの厄年」など、数多くのテレビドラマの脚本で、一世を風靡(ふうび)された方だった。全盲になられてからも、精力的に映画の脚本を手掛けていたが、二〇一八年八月に亡くなられてしまった。八十六歳だった。

 私が二〇〇三年の当初から添削指導を受けたのが、斎藤信也先生である。斎藤先生は随筆春秋の代表で、元朝日新聞の記者(後に社会部デスク)であった。そのころの斎藤先生は、首都圏一円と札幌の朝日カルチャーセンターでエッセイの講座を六教室も抱えていた。七十五、六歳だったと思うが、その生活は多忙であった。

 この二〇〇三年から五年ほどの間に受けた添削指導が、現在の私を作っている。この時の四十本を超える添削がなければ、今の私は存在しない。

 私は先妻の精神疾患を機に文章を書き出した。それまで、まったく何も書いたことがなかった。添削されて戻ってくる原稿をチェックしながら、どうしてここに朱筆が入ったのだろう。朱筆が入ることで生き生きとしてくる文章に目を瞠(みは)った。単に行を入れ替えただけなのに、喉の痞(つか)えが取れていた。

「悲しい、辛い話は、ユーモラスに、笑い話は大真面目に書く!」

「広く浅くではなく、狭く深く掘り下げるんです」

 そんなことを擦り込まれてきた。だが、当時の私は、実際、どう表現したらいいのか、あまりよくわかっていなかった。

 多忙な斎藤先生に代わり、事務局の石田多絵子さんが添削をすることもあった。当時、石田さんは舞台の脚本や演出に携わっていた。布勢先生の門下でもあり、彼女の働きかけで布勢先生の勉強会が実現していた。

「『美しい』『悲しい』と書かないで、その美しさや悲しみを読者に映像で見せるの。説明しちゃダメ。目をつぶってみて、映像が浮かぶように。場面を描写するのよ。いくら『美味しい』『美味しい』と連呼しても、その美味しさはちっとも伝わらないわけよ」

「セリフは感情の表現に使われるもの。ストーリー運びや説明に使うと、作品自体が軽くなっちゃうのよ」

 後に高齢になった斎藤先生に代わって、石田さんが添削を行うようになった。私に対しては、右のような作品評が多かった。斎藤先生が飴(あめ)で、石田さんはムチ、そんな両輪の中で私は育てられた。数年後、この石田さんと分担しながら、私も会員の添削指導に携わるようになった。

 二〇一六年十二月、斎藤信也先生が八十九歳で亡くなられた。その年の夏に佐藤愛子先生が『九十歳。何がめでたい』を出され、翌年の年間書籍総売上ランキングで一位になった(「日販調べ」)。九十四歳の快挙である。百歳になられた現在、『九十歳……』は文庫化され、発行部数は一三〇万部を超えた。この六月には映画化される。

 

 こうして書いていると、この四人の師から檄(げき)が飛んでくる。それぞれに緩急はあるものの、「まだ、あなたはその程度なのか……」という嘆息である。

 

  2024年5月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 私がエッセイの添削を始めたのは、二〇一四年五月からです。所属する随筆春秋の添削指導に携わって十年になりました。これまでに一一六名、六二七本の作品を拝見してきました。その五八八本目がこの作品集になります。ここに収録された二十九点も、一本とカウントしていますので、実際の添削数は一〇〇〇本近くになるでしょうか。

 その私の添削第一号が、西澤貞雄氏の「自治会長の初仕事」でした。その後、西澤作品は「熊ん蜂焼酎」「女王蜂狩り」「ザリガニレシピ」と続いていきます。これまでに二十三作を添削させていただきました。いつも、痛快だなと思っており、いつしか「西澤ワールド」と呼ばせてもらっています。添削のコメントの中で「西澤ワールド炸裂!」、このフレーズを、何度、連発してきたことでしょう。

 本書の収録作品は、これまでに『随筆春秋』に発表されてきたものです。二〇〇九年九月発行の三十二号から、二〇二四年三月発行の六十一号までの二十九作です。今回、改めてまとめて読んでみて、「どうしてこんなに温かいのだろう」と思ったのが正直な感想です。なにもかもが温かいのです。

 どの作品を読んでも、十歳の少年がそのまま後期高齢者になったような、そんな映像が浮かんできます。いや、正確に申し上げますと、お友達を含めて後期高齢者前後の方々全員が、まるで十歳の少年たちなのです。

 たとえば、物語はこのように始まります。

 

「今、何してる? この前アンタと約束した女王蜂狩り、今からいくけどいっしょにどうだ」

 彼は現場近くの道路からかけているといった。その言葉で眠気がふっ飛び、二つ返事で了解した。(「女王蜂狩り」)

 

 西澤ワールドは、ご自身が野球帽を被って、散歩に出るところから始まります。コースはその日の気分。まず、鳥の声が聞こえてきます。それはウグイスだったり、ホトトギス、メジロやコジュケイのことも。

 すると、決まって友達に出くわすのです。畑で作業をしていたり、軽自動車や自転車に乗って向こうからやってくる。

 お友達をピックアップしてみると、次のような面々になります。

 ヒーさん、タカさん、ヤマさん、ヒイさん、イシさん、ミヨシさん、アキさん、ミヤさん、エンさん、レイさん、ナガさん、ハルさん、ブンさん、モッチャン、スーさん、イリさん、ターさん、ケイさん、イチさん、スギさん、Tさん、K君、Yさん、Mさん、Nさん……、おびただしい数です。

「ヤー!」と右手を上げて、冗談を言い合うことから始まるのです。みんな、満面の笑みをこぼす。もちろん、前述したような、お誘いもあるわけです。

 熊ん蜂(スズメバチ)やアシナガバチを捕りにいったり、タヌキやハクビシン、モグラ、アナグマ、イノシシといった畑を荒らす害獣対策を手伝ったり。

 ですが、その後は決まって酒と肴を持ち寄って、車座になって一献を傾けるのです。場所は、地域のシニアハウス。持ち寄った筍ご飯は、その時季の風味まで漂ってきます。そのシニアハウスでは、獲ってきたヒヨドリでヒヨ飯を作ったり、ハチノコの炒め物をするわけです。

 作者の人間性がこれほど豊かに現れている作品を私は知りません。大笑いするわけでも、大泣きするわけでもない(なかにはそんな作品もあります)。たいがいはニヤリと笑って、ホロリと涙する。なにより読後感がたまらない。ラスト数行でヒラリとかわして、静かな余韻を残す。なんともいえない心地よさです。「枇杷の葉」「恥かきの付添い料」「不届き者たち」……、こんな作品との出会いは、まさに‶至福〟のひとときです。

 本書の最初の作品を二点、三点と読み始めて、

「なんだよ、ニシさん(なれなれしくてゴメンなさい)、泣かせないでよ」

 思わずそんな言葉が口を衝いて出ます。

 こういう起伏の大きさも、西澤作品の真骨頂です。あまり褒めるとリアリティーに欠けてしまい、逆にウソっぽくなってしまいます。だから、もうこの辺でやめます。

 この作品集は、どこから読んでもいいのです。それは読者の自由で、目次を眺めて、思いついたところから読んでいただく、そんな作品集です。できれば、シニアハウスにもこの本を置いていただき、皆さんで本書を肴に、ワイワイやっていただける、そんな光景を勝手に思い描いています。

 

 これまで西澤さんには、事務局を通じて何度か本の出版が持ちかけられました。私自身も、添削原稿に同封するコメントでお勧めしたことがあります。ですが、大変に慎み深い西澤さんは、そのたびに固辞されてきたのです。

 本書は、西澤さんが大病をされたとの話を聞いたのをきっかけに形になりました。編集長の富山が動き、代表理事の池田と私が後押しをしたのです。西澤作品群をこのまま埋もれさせてはいけない、そんな強い一念が私たちを動かしました。そんなことをしたことは、これまでに一度もありません。

 西澤さんのご家族はもとより、西澤さんを取り巻くお仲間たちからも、本書は歓迎され、喜ばれるものだと思ったからです。そして何より、西澤さんへのエールという意味がありました。書くことは救いです。何より、西澤さんの人生のよき伴走者となってくれるものと思ったからです。

 『随筆春秋』六十号に西澤さんの作品がなかったのは、殺風景なものでした。西澤さんは今、いわゆる‶故障者リスト入り〟(プロ野球になぞらえて)をされています。私たちはそのように理解しています。どうぞ、この期間にじっくりと充電され、そしてまた今回の苦(にが)く辛い体験を貴重なネタとして育み、新たな作品を紡いでいただきたい。ふたたび、温かなやさしさとユーモアに包んだ作品に仕上げ、披露していただけることを、楽しみにお待ちしております。

 そんなふうにして待っていましたら、六十一号からの復帰が実現しました。私たちが心から待ち望んだものです。

 これまでがそうであったように、そしてこれからもまたそうであるように、書くことを人生の傍らに置いていってください。それが私たちの願いです。

 

   2024年4月29日     随筆春秋代表 近 藤  健

 

 

 

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「面舵(おもかじ)いっぱーい!」

 をネットで検索すると、次のような内容が出てくる。

 

 船の操縦のときに使われる言葉で、「舵を右に一杯にきりなさい」という意。左に曲がりたいときは、「取舵(とりかじ)」という。

 これは十二支に由来するもので、船首を十二時の子(ねずみ)の方向に向けて時計回りに十二支を配置すると、右側の三時の方向は卯(うさぎ)、左側の九時の方向が酉(とり)になる。

 そこで右側を卯面(うも)、左側を酉と呼ぶようになった。それにより、卯面(右)に舵をきることを「面舵」、酉(左)に舵をきることを「取舵」という。「一杯」というのは、最大舵角(だかく)の三十度(軍艦は三十五度)まで舵をきることをいう。

 

 実は私、つい最近まで、この「おもかじいっぱい」を「重舵一杯」だと思っていた。舵を左右に大きくきるのは、けっこう力のいることで、舵が重いに違いない。だから「重舵」だと勝手に解釈していたのだ。

 この「面舵」「取舵」はさほどでもないが、思い込みによる誤認で恥ずかしい思いをすることがある。

「『赤い靴はいてた女の子 異人さんに連れられて行っちゃった』ってあるやろ。うちな『異人さん』のこと『いい爺さん』やとずっと思うててん。笑うやろ」

「そんなん言わはったら、うちなんか『兎追いしかの山』なぁ、なんも考えへんで『ウサギ美味しい』思うてたわ」

 京都で過ごした学生時代、同じアパートにいた女の子同士の会話である。誰もが一つや二つ、思い当たる節があるに違いない。いまだ気づかず、潜(ひそ)んでいるものも、まだまだあるはずだ。

 先日、そんな大鉱脈を、偶然にも掘り当ててしまった。

 「袖振(ふ)り合うも多生(たしょう)の縁」である。「道行く他人と袖が触れ合うことさえ前世からの因縁による」という意味合いである。

 私は長年、袖が触れ合うのは「多少、縁がある」という意味で「多少」だと思っていた。そうではないと知ったのは、十年ほど前のことである。拙作(エッセイ)に「他生の縁」という作品がある。それを書いているときにいき当たった。「たしょうのえん」が「他生の縁」と変換された。ネットで検索して、目から鱗(うろこ)が落ちた。その後、ずっと「他生」を使用していた。

 実は、その鉱脈の下に、もう一つ隠れていたのである。その第二弾が今回の発見だった。たまたま「たしょうのえん」を変換すると「多生の縁」と出てきたのだ。改めてネットで検索すると、「多生」と「他生」が混在しており、どちらが正しいのか判然としない。いずれも仏教用語だという。こうなると、ネット検索ではどうにもならない。辞書に頼ることになる。

 『新明解国語辞典』には、「袖触(ふ)り合う多生の縁」とあった。念のため『広辞苑』で確認してみると、「袖振り合うも多生の縁」とある。「多生の縁」であることがわかった。「他生」は間違いではないが、辞書的にいうと「俗に『他生』とも書く」と記されるレベル、つまり、正統派ではないということなのである。愕然(がくぜん)とした。

 拙作「他生の縁」は、元禄赤穂事件に関する作品で、原稿用紙三枚にまとめたものだった。地方紙に掲載するために書いたもので、その後、同人誌にも転載していた。それを読まれた作家の佐藤愛子先生から、簡潔で一切の無駄のない、いい作品です、と珍しく褒めていただいていた作品だった。愕然としたのは、そんな理由からである。やむなく、手元に保存しているワードの原本を、「他生の縁」から「多生の縁」へと改題した。

 そこでもう一つ疑問が浮かび上がった。『新明解国語辞典』では「袖触り合う」とあるのに対し、『広辞苑』では「袖振り合う」になっていた。私はずっと「袖擦(す)りあう」だと思っていたのだ。こちらもネットで検索したが、まったく要領を得ない。「触り合う」、「触れ合う」、「振り合う」、「擦り合う」、「摺(す)り合う」と、百花繚乱(りょうらん)である。

 そこで『三省堂国語辞典』と『明鏡国語辞典』の加勢を得、「振り合う」がスタンダードであることがわかった。そういわれると「……君が袖振る」というのが万葉歌にあったことを思い出す。

「辞書は引くものではなく、読むものだ。辞書を読め」と言っていた人がいた。この類の誤認を探し当てる近道は、やはり辞書を読むことなのだろう。だが、たやすいことではない。

 さて、次はどんな鉱脈を探し当てることになるか。

 

  2024年4月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 東電・福島第一原発、その処理水の海洋放出は、二〇二三年八月のことだった。国際的な安全基準をクリアしたこの放出は、三十年に及ぶという。原発の功罪は計り知れない。

 この放出に過剰反応を示したのが中国だった。日本からの水産物の輸入を即日全面停止し、科学的根拠に基づくことのない大々的なプロパガンダを展開した。それは政治的意図を多分に含んだものだった。マイクを向けられた人々は「日本は、とんでもないことをする国だ」と口を揃える。一方的な情報しかなく、自由な発言が許されない国である。

 近年の温暖化の影響で、サンマやサバなどの漁は、根室市から千キロの沖合で行われている。公海上なので、中国漁船もいる。ここで獲れた魚は中国で水揚され、中国産として国内に流通している。同じ海域で日本漁船が獲った魚は、汚染魚として輸入を認めない。このような事例は、挙げれば切りがない。

 中国への輸出停止は、日本の水産業にとっては大打撃だ。とんでもないことになるぞ、と思った。ほどなくネット上に「風評被害に負けるな!」というスレッド(話題)が溢(あふ)れ出した。水産物の加工品を返礼としたふるさと納税の寄付が、それまでの十倍を超え、製造が追いつかなくなった。

 また、「#食べるぜニッポン!」というハッシュタグのついた水産物の写真が次々とネットに上がり、気運の盛り上げに大きく寄与した。日本の若者もやるなと思った。思わず涙腺が緩む。中国への冷静な対応も、節度があって好ましい。

 気がつくと、私たちは頭の上からスッポリと網を被せられている。ネット社会という網だ。投網を打たれたように一網打尽、否も応もない。そして、その〝便利〟という恩恵を享受している。

 だが、そこには深い闇もある。ネットを介した新たな犯罪だ。やり口が非人間的で、卑劣極まりない。何か事件が起こると、様々な投稿がネット上に飛び交う。好意的なコメントばかりではない。相手を死に追いやるような誹謗(ひぼう)中傷も溢れ返る。それがネット社会のもう一つの側面だ。

 もう、十年も前のことになる。走行中の東海道新幹線の車内で、焼身自殺を図るという前代未聞の事件が起こった。様々な投稿に埋もれるように、ひとつのコメントがあった。

「本日の新幹線の事件で、散々な思いをしたのですが、無事、東京に戻り改札を出る際、あまりにも駅員さんが『本日は本当に申し訳ありませんでした』と言い続けるので、逆に、『今日一日、ご苦労様』と言ったら、『そんなこと言われたら涙が出ます』と泣かれてしまいました。日本人の職に対する意識の高さに、こちらも涙が出てきました」

 やさしい気持ちから出た言葉は、温かい。嫌なニュースが氾濫する日々の中で、ほっとさせられ、思わずこちらまで涙が溢れる。

 日本人でよかったと思う。

 

   2023年12月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

 

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 エッセイの添削を始めたのは、二〇一四年からである。所属する同人誌会員の添削指導に携わって十年近くになる。これまでに一〇〇名超、一〇〇〇本近い作品を見てきた。

「添削で、そんなに赤字を入れちゃダメよ」

「あなたは、手を加えすぎなのよ」

 先輩講師から、何度、そんなふうに言われてきたことか。それは私にもよくわかっている。現に、プロの作家や脚本家などの原稿には、明らかな誤字脱字がない限り、朱筆を入れない。その辺のバランス感覚はわきまえている。

 添削を始めてしばらくすると、私への指名が増え出した。添削希望原稿は、東京の事務局にて振り分けられ、私のもとに送られてくる。

「添削者の指定は受けられません」

 事務局がいくら言っても、次々と‶ご指名〟がかかる。そのうちに、私自身も手が回らなくなった。会社から帰宅後の作業である。先輩が引退した後、私一人で対応しなければならない時期もあった。今では、優秀な添削指導者が増えて、安心できる状況になっている。

 私は三十五歳のとき、つまり一九九五年からの一年間だが、校正の勉強をしていたことがあった。通信教育であったが、そのときの勉強が、四半世紀を経た今になって役立っている。

 私が所属している同人誌には、一〇〇名ほどの会員がいる。四十代、五十代は若い方で、年配者が圧倒的に多い。七十代は平均値で、八十代の後半から、九十歳を超える方もいる。元大学の先生から現役のお医者さんに専業主婦と多岐にわたり、日本各地から原稿が送られてくる。時には海外からもメールで原稿が届く。感心するのは、入所している老人施設から原稿が送られてくることだ。

 死に直面する病の中で書いている人がいる。難病を患っている人。精神のバランスを崩し、ギリギリの状況の人も。認知症が進行し、体をなしていない作品もある。皆、それぞれに思いがあり、作品を綴(つづ)ってくる。

 自分の思いを言葉に乗せるという作業は、生やさしいことではない。発した言葉が、書き手の意図した方向から大きく逸(そ)れていたり、読み手に伝わりにくい表現になっている場合が往々にある。そんな文章を丁寧に解(ほど)いて、仕立て直していく。筆者の溢(あふ)れる思いを汲(く)んで、熱伝導率をよくして読み手に渡していく。私が行っているのは、そんな作業だ。

 原稿用紙五、六枚の作品を添削するのに、数日を要する場合もある。そこまでする必要があるのかと自問しながら、結局は、自分が納得するまで向き合ってしまう。だから朱筆が多くなる。私の思いが筆者に伝わるよう、同封するコメントに腐心する。ただ、一つだけ肝に銘じていることがある。それは、相手を過剰に褒(ほ)めない、ということだ。自分が思っている以上に褒めると、簡単に見破られてしまう。

 相手が真剣勝負なら、こちらもそれを正面から受け止める。がっぷり四つに組む。時には厳しい注文を出す。だが、七十代半ばを過ぎた方に、厳しいことを言っても仕方がない。プロを目指しているわけではないのだから。まずは、書いてきた思いに敬意を表する。八十歳になった自分が原稿やパソコンに向えるかと問われたら、そんな姿は想像ができない。とうに死んでいるよ、と内心では思っている。

 書くということは、孤独な作業だ。

「○○様には筆力があります」

「とてもいい題材です。○○様なら、この素材を生かすことができるはずです」

 どんなに嬉しいアドバイスをもらっても、書いているときは、たった一人だ。誰もいない静かな部屋で、一人、原稿用紙やパソコンに向かう。自分と向き合い、自分の底から漏れ聞こえてくる声にじっと耳を澄ます。先立たれた夫を思う。優しかった声が聞こえてきて、思わず涙する。振り返ると写真の夫が微笑んでいる。母親と二人で蒸かしイモを食べている。一本のイモを半分にして。早く食べ終わった私に、自分のイモをさらに半分にし、笑顔で渡してよこす。そんな戦時中のひとコマが甦(よみがえ)る。

 書きたいことが何も出てこない日が続き、何日ももがき苦しむ。そんな日々の中で、「これだ、書きたかったのは!」という覚醒にも似た思いが飛び出してくる。それを逃さず捕まえる。ストーリーが動き出す瞬間である。

 作品のネタは、自分の内側にある。それをいかに見つけ出すか。ふだん目にしていても、気づいていないのだ。そんな模索が、辛く孤独な作業に繋(つな)がる。それは同時に、‶救い〟でもある。ほんの小さなアドバイスが、書くという意欲に繋がっていく。

 あるとき、会員の作品に、「生きていく傍らに書くことを置いてみる」という言葉を見つけた。「これだ!」と思った。私が長年探し求めていた言葉である。私はたまらず手紙を書き、「ぜひ、使わせてもらいたい」とお願いした。わざわざ電話をいただき、快諾をもらった。札幌市在住の九十歳の女性である。

 添削原稿のコメントの最後に、

「言葉を紡ぐことは、あなたのよき伴走者になってくれるはずです。生きていく傍らに書くことを置いてみる、一緒にやっていきましょう」

 まるで、自分の言葉のように記している。だがそれは、自身に対する激励でもある。

 

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 バカにつける薬がないのと同じく、ハゲに効く薬もないと思っていた。「ハゲを治す薬ができたら、ノーベル賞モノだぞ」、そんな言葉を耳にしたこともあった。育毛剤、増毛剤は昔からよく聞くし、テレビでも宣伝している。だが、その効果については、ホントかな、という疑念が払拭(ふっしょく)できない。塗るのか振りかけるのかは知らないが、髪の毛がボウボウに生えてきたという話は、聞いたことがない。

 ハゲが気になるのかと訊かれると、さほどでもない。だが、毛は、あるに越したことはない。ハゲは見た目が悪いし、どうしても嘲笑(ちょうしょう)の対象となる。ハゲた高倉健を観たいとは思わないだろう。なにより、毛があると若々しく見える。毛が生えていた松山千春と、現在の千春では、まるで印象が違う。別人だ。

 私の場合、幼なじみと数十年ぶりに会う機会があっても、

「えーと……、誰だっけ?」

 私を見た誰もが首をひねる。

「ほら、オレだよ、オレ! わからない?」

 私の顔をまじまじと見て、周りと相談するが、見当がつかないと言われる。これまでに、私の名前を言い当てた者は一人もいない。札幌でイタリアンレストランをやっていた幼なじみ夫婦も、三十数年ぶりに訪ねてみると、

「あの……、失礼ですが、どちら様でしょうか」

 と真顔で言ってきた。ヨメの方は遠い親戚筋であり、中学時代、彼女は私が所属していた野球部のマネージャーだった。

 私たちは北海道の小さな田舎町に暮らしてきた。なので、幼稚園から高校までは、一貫教育を受けて育っている。高校から都会の学校へいった者も若干はいたが。それだけ、私の外見が変貌を遂げたということだ。毛があるのとないのでは、雲泥の差がある。

 

 数年か前から、‶薄毛はお医者さんに相談〟というCMをテレビで目にするようになった。「え? ハゲは病気なのか?」、愛煙家がニコチン依存症患者だと知ったときのような、新鮮な驚きを覚えた。だが、こちらもまた、劇的に生えだしたという話を聞いたことがない。そんなわけで、改めて調べてみる気にもなっていなかった。

 近所のスーパー銭湯へいったときのこと。露天風呂の縁(へり)に腰かけた二人の男の会話が漏れ聞こえてきた。一人は薄毛で、もう一人はツルッパゲである。二人とも六十歳前後のように思えた。本当は五十代前半かもしれない。ハゲは、どうしても老けて見える。

「オレさ、ハゲの薬、処方してもらってるんだよ。ほら、あそこの○○スキンケアクリニック。効くかどうかわからないけど、試してみようと思ってさ。で、それが、なかなかいい感じなんだよね」

 薄毛がツルの耳元で囁(ささや)いた。

「えーッ、ホントかよ。……オレもやってみっかなー。(値段)高いのか?」

 身を乗り出したツルを制するように、薄毛が一段と声を潜めた。

「この薬はよ、副作用がヤバイんだ。個人差はあるけど、あっちがダメになるんだよ」

「あっちって……、こっちかい?」

 ツルが下腹部を指差した。大きく頷(うなづ)く薄毛に、

「それなら大丈夫だ。そっちはもう何年も前に卒業してるから」

「バカだな、オマエ。そっちは、自分だけのモノじゃないんだよ」

 薄毛が意味深なことを言った。

「ちゃんとヨメさんと話し合わないと。うちのババアと違って、オマエんとこは、まだ若いんだから……。卒業じゃないだろう、無期停か?」

 そうか、自分だけのモノじゃないのか……。この二人の会話、近年にない衝撃と受け止めた。私はタオルを頭にのせ、のぼせ気味になりながらも、二人の会話をしっかりと傍受していた。

 

 自宅に戻ってさっそく調べてみた。ハゲの病名は「AGA(男性型脱毛症)」だという。なんだかコーヒーギフト(AGF)のようなネーミングである。AGCという会社もCMでよく耳にする。日本人男性のAGA発症率は三〇%で、男性ホルモンが関与しているというのだ。

 薬は二種類あった。いずれも弱みにつけ込むいい値段である。それぞれの副作用は、ED(勃起不全)、リビドー(性的欲望、性衝動)減衰、精液減少とあり、もう一方の薬には、射精障害もあった。

 この薬でハゲが治ってしまったら、カツラ屋にとっては会社存亡の危機、大問題である。だが、薬の服用は厳しいものである。究極の二択だ。ハゲを選ぶか不能のリスクを負うか。つまり、AGAかEDかの選択だ。ボウボウにはなったが、あっちがダメだというのでは、ボウボウになった甲斐がない。毛が生えてきて女性にモテ出したら、どうするつもりだ。そんな心配は杞憂(きゆう)か。

 お前はどうするんだって? 私には「ハゲるものならハゲてみろ」という気概がある。正々堂々、泰然としてハゲてみせ、周囲を大いに笑わせ、楽しませる、そんな開き直りにも似た諦念(ていねん)の境地にいる。カッコイイもの言いだが、いい薬が出てくるまで、服用は見合わせたい、というのが本音だ。現在の薬の副作用は、男の沽券(こけん)ならぬ股間(こかん)にかかわる大問題である。

 ノーベル医学生理学賞に燦然(さんぜん)と輝くような、そんな薬の出現を期待している。副作用もなく、飲んだらほどなくボウボウになるヤツだ。やがてはそんな時代もくるのだろうが、それはまだまだ先のことなのだろう。

 

 追記

 最近のクリニックでは、「生やして、勃(た)たせる」をキャッチフレーズにしているところも見受けられる。正々堂々としたものである。そして、「薄毛、抜け毛は手遅れになる前に」とつけ加えている。つまり、ツルッパゲは、すでに手遅れのようである。

 

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 私は手紙を書く機会が多い。できるだけ手書きを心がけてはいるが、場合によっては、どうしてもパソコン打ちになることがある。簡単で、なにより時間がかからない。

 だが、手書きの手紙や葉書をもらうと、その味わいに圧倒される。とりわけ、年配者の書きなれた方からの便りには、まったく手も足も出ない。先日もそういう手紙をもらった。短冊形の便箋に、「前略」も「怱々(そうそう)」もなく、いきなり始まる本文。惚(ほ)れぼれするほどの流麗な文字に、思わずため息が漏(も)れる。ブルーブラックの万年筆が、味わいに深みを添える。やっぱり手書きだよなと思う。

 好意を寄せている人から、思いもかけずラブレターが送られてきたとする。それがパソコン打ちだったら、興醒(きょうざ)めだろう。いくらグッとくる内容でも、心に届かない。単なる文書と同じだ。悪筆でも、手書きには温もりがある。なにより、心がある。

 わかったようなことを言っているが、はたして今どきの若者は、ラブレターのやりとりをするのだろうか。すべてはラインで事足りる? 便箋に文字をしたため、封筒に宛名書きをし、切手を貼ってポストに投函。手紙が届くのは、その翌日か翌々日だ。そんなことをするか? ふと疑念が頭をもたげた。

 

 二〇二〇年、私は六十歳で会社を定年退職し、引き続き嘱託員として再雇用されている。パートに毛の生えたような給料をもらいながら、老齢年金の支給年齢まで頑張らなければならない。そんなサラリーマンである。

 えみ子に出会ったのは、二〇一六年秋のことだった。

「けんちゃん、いい人いるんだけど、会ってみない?」

 幼なじみからの紹介だった。私は離婚、二歳年下のえみ子は、パートナーと死別していた。お互いに成人した娘がいる。

 つき合い出して五年目の冬に、改まってえみ子に手紙を書いたことがある。恥ずかしさを振り捨てて正直に話す。それは、クリスマスイブの夜だった。自分の思いをきちんと伝えることも必要かな、と思ったのだ。ふだん、彼女には何もしてあげていない。イブの夜は、やはり普通の日とは異なる。そんな特別な日に、手紙を思いついたのだ。

 私のところからえみ子のマンションまでは、七キロほどの距離がある。彼女とは週に一度、土曜日に会うことにしている。日曜日は、母の介護をしている私の妹のところへいって、スーパーでの買い出しなどを一緒に行う。平日のえみ子とのやり取りは、もっぱらラインである。お互いに電話が苦手なので、ラインは好都合なツールなのだ。

 クリスマスイブといっても、特別なことはなにもない。いつもよりほんの少し、艶(あで)やかな夕食をするだけだ。この日は平日だったが、仕事が終わってからえみ子が私のところへきて、夕食を共にした。

 食事が一段落した頃合いを見計らい、意を決して、

「手紙、書いたんだけど……」

 と切り出した。えみ子は「何が起こった?」という顔をした。潜(ひそ)めていた封筒を取り出し、彼女を正面に見据えて手紙を読み始めた。

 

  えみ子へ

 人を好きになるって、こんなにも幸せなことだったんだね。すっかり忘れていたよ。心がほんのりと温かい。

 (略)

「おはよう」「おはよう」

「帰ってきたよー」「お疲れさま」

「寝るよー」「うん、おやすみ」

 こだまが返ってくる。いつもえみ子がいる。

 えみ子と出会って、五度目の冬がやってきました。

  「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

 ボクは俵万智(たわら まち)のこの歌が好きです。

 (略)

 えみ子、君に出会えてよかった。本当によかった。

 

 大まじめに読んで顔を上げると、えみ子は涙を流していた。微笑む私に、

「なんでさ、急に。もう……」

 泣き笑いで私の肩を打(ぶ)つ。そんな彼女に、

「実はさ、これもあるんだ」

 と言って、私は小箱を取り出した。えみ子は息を呑(の)んで目を瞠(みひら)いた。リングケースの中の指輪を見た彼女の目から、大粒の涙がこぼれた。その涙は、あとからあとから溢(あふ)れ、嗚咽(おえつ)に変わった。

 えみ子の指のサイズは、彼女の長女に頼んでそれとなく訊(き)いてもらっていた。その指輪は、ハゲた六十歳ジジイが恥ずかしさで耳の裏まで赤くしながら、札幌・三越のティファニーで求めたものだった。

 

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