わが師 | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 私は会社員でありながら、長年、プロの作家から文章指導を受けてきた。それは、エッセイで賞をもらい、同人誌に加入したことに始まる。二〇〇三年、四十三歳の年だった。

 東京・世田谷の茶沢通りをゾロゾロと歩く一団、その中心は、六、七十代で、八十代の方もいた。久しぶりに会う十人ほどの男女が、しゃべりながら歩く。脚の悪い女性もいたので、その列は時に五十メートルにも達した。

 中でも飛び切り若かった四十代の私は、牧羊犬よろしく殿(しんがり)を務めていた。先頭がときおり立ち止まってくれ、後続隊の合流を確認し、また歩き出す。年に二度、同人誌に発表したエッセイの講評を受けに、作家の佐藤愛子先生のご自宅を訪ねるのだ。三軒茶屋駅から二十分ほどの徒歩の道である。

 佐藤愛子先生の講評はとても鋭利で、寸分の狂いなく急所を突いてくる。

「ん……、ここねぇ、この部分が説明的なの」

「この最後の一行、蛇足だわね」

 自分でもここはどうなのだろう、と密かに案じていた部分をピンポイントで指摘され、息が詰まる。プロの目線の鋭さに、弁解の余地がない。

 佐藤先生の講評では、褒(ほ)められることはめったになかった。だが、

「ここ、いいわね」

 と言っていただけることが、時々あった。

「……褒めれれるのは、あなただけよ」という仲間からの恨み節を何度か耳にした。帰り道は緊張感の解放とも相まって、行列はさらに長くなった。ガックリと肩を落として歩く、そんな私たちの後ろ姿は、引揚者さながらであった。だが、佐藤先生の謦咳(けいがい)に接した喜びと高揚感を胸に抱き、誰もがその余韻に浸っていた。そんなことを半年に一度、繰り返していた。

 その後、佐藤先生が多忙だったり、高齢になられたこともあり、対面での講評はなくなった。私たちの不出来が先生に徒労感を抱かせ疲弊させてしまった、という一面も否めない。だが、その後も拙作を目にする機会があると、人づてに批評をいただくことがある。ありがたさが胸に満ちる。

 脚本家の布勢博一(ふせ・ひろいち)先生も、ご自宅で作品評をしてくださっていた。こちらは佐藤先生を補完する形になっていたが、すでに私は東京を離れており、参加する機会は一度もなかった。ただ、勉強会のたびに、文書で丁寧な作品評をくださった。先生は糖尿病の悪化からすでに全盲になられていたので、秘書の女性が口述筆記したものである。布勢先生も水谷豊の「熱中時代」、北野武の「たけしくん、ハイ!」、萩原健一の「課長サンの厄年」など、数多くのテレビドラマの脚本で、一世を風靡(ふうび)された方だった。全盲になられてからも、精力的に映画の脚本を手掛けていたが、二〇一八年八月に亡くなられてしまった。八十六歳だった。

 私が二〇〇三年の当初から添削指導を受けたのが、斎藤信也先生である。斎藤先生は随筆春秋の代表で、元朝日新聞の記者(後に社会部デスク)であった。そのころの斎藤先生は、首都圏一円と札幌の朝日カルチャーセンターでエッセイの講座を六教室も抱えていた。七十五、六歳だったと思うが、その生活は多忙であった。

 この二〇〇三年から五年ほどの間に受けた添削指導が、現在の私を作っている。この時の四十本を超える添削がなければ、今の私は存在しない。

 私は先妻の精神疾患を機に文章を書き出した。それまで、まったく何も書いたことがなかった。添削されて戻ってくる原稿をチェックしながら、どうしてここに朱筆が入ったのだろう。朱筆が入ることで生き生きとしてくる文章に目を瞠(みは)った。単に行を入れ替えただけなのに、喉の痞(つか)えが取れていた。

「悲しい、辛い話は、ユーモラスに、笑い話は大真面目に書く!」

「広く浅くではなく、狭く深く掘り下げるんです」

 そんなことを擦り込まれてきた。だが、当時の私は、実際、どう表現したらいいのか、あまりよくわかっていなかった。

 多忙な斎藤先生に代わり、事務局の石田多絵子さんが添削をすることもあった。当時、石田さんは舞台の脚本や演出に携わっていた。布勢先生の門下でもあり、彼女の働きかけで布勢先生の勉強会が実現していた。

「『美しい』『悲しい』と書かないで、その美しさや悲しみを読者に映像で見せるの。説明しちゃダメ。目をつぶってみて、映像が浮かぶように。場面を描写するのよ。いくら『美味しい』『美味しい』と連呼しても、その美味しさはちっとも伝わらないわけよ」

「セリフは感情の表現に使われるもの。ストーリー運びや説明に使うと、作品自体が軽くなっちゃうのよ」

 後に高齢になった斎藤先生に代わって、石田さんが添削を行うようになった。私に対しては、右のような作品評が多かった。斎藤先生が飴(あめ)で、石田さんはムチ、そんな両輪の中で私は育てられた。数年後、この石田さんと分担しながら、私も会員の添削指導に携わるようになった。

 二〇一六年十二月、斎藤信也先生が八十九歳で亡くなられた。その年の夏に佐藤愛子先生が『九十歳。何がめでたい』を出され、翌年の年間書籍総売上ランキングで一位になった(「日販調べ」)。九十四歳の快挙である。百歳になられた現在、『九十歳……』は文庫化され、発行部数は一三〇万部を超えた。この六月には映画化される。

 

 こうして書いていると、この四人の師から檄(げき)が飛んでくる。それぞれに緩急はあるものの、「まだ、あなたはその程度なのか……」という嘆息である。

 

  2024年5月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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