私がつかんだもの | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 大学の四年間とは、貴重なムダな期間である。

 真摯(しんし)に学究を極めようとする者にとって、四年という期間はあまりにも短い。だから大学院へと進み、修士課程、博士課程と五年を上乗せする。それでも時間が足りない。ついには大学に残って研究者としての道を歩む。生涯を通しての探求となる。

 私の友達にもそんな研究の道を歩んでいる者がいる。高校時代、寮生活を共にした友人が、院生時代にショウジョウバエの遺伝の研究をしていた。そのまま研究室に残り、しばらくするとアメリカの大学へ行ってしまった。以降、音信が途絶えた。

 何年か前に、そういえばあいつ、どうしているだろうと思いネットで検索してみた。すると、顔中毛むくじゃらの男が出てきた。当時の面影はどこにもなかったが、それは紛れもなく彼だった。こいつは偉いヤツだと、つくづく感心した。研究に没頭するあまり、ハエのような顔になってしまったのだ。

 当時、同じ寮だった仲間に彼の写真を見せると、

「……確かに、ハエ男だな」

 と言って、続く言葉がない。「極めると、こうなるんだ……」。友人も同じ思いを口にした。経歴を見ると、彼は十年以上も前に教授になっていた。

 だが、圧倒的大多数の者にとって、大学の四年間は、社会人への助走期間、という認識に過ぎない。いわゆるモラトリアム(社会的猶予)期間である。私もそんな学生の一人だった。

 十八、十九歳から二十二、二十三歳というのは、人生の密度の濃い期間である。この四年間をどう過ごすかによって、その後の人生の方向性が決まってくる。ただ、この年だからこそ、そんなふうに冷静に俯瞰(ふかん)できるのであって、当時は、ポカンとしたただのアホだった。

 私は幸いにも学生時代を京都で過ごすことができた。歩き疲れたお寺の濡れ縁が、私の休憩場所だった。ぼんやりと庭を眺めながら、将来に対する不安を見つめていた。二年後、三年後、自分は、どこで何をしているのだろう……。地元、北海道に戻っているのか。関西で就職しているのだろうか。それとも東京か……。

 自分は、何がしたい? どんな仕事に就きたい? 夢って……、何? そんな思いが深い霧のように私を包んでいた。閉門時間が過ぎた清水の舞台に腰かけながら、暮れゆく京都の空を眺めていた。なにか答えがみつからないか、そんな思いがあった。だが、三回生になっても四回生になっても、何も見えてこなかった。

 私の過ごした学生生活は、ノンベンダラリとしたものではなかった。むしろ、その逆だった。私は苦手な英語を克服するために、ESS(英語研究部)に入部し、ディベート(討論)セクションに所属していた。とにかく忙しい部活だった。

 一、二回生を通して、教室にいるよりはるかに長い時間を図書館で過ごした。軍事問題、原発問題、農業問題、環境問題、選挙制度、付加価値税の導入問題(当時は消費税が未導入であった)……ディベートのテーマが決まると、資料収集に忙殺された。まずは、新聞・雑誌などの記事を十年間にわたって拾っていく。

「ええか、自分は読売、自分は朝日、自分は日経……」

 そんなふうに各自に割り振られ、同時に、岩波新書などの入門書籍により、総合的な知識を補っていく。軍事問題の時は、防衛白書の端が捲(めく)れ上がるほど読み込んだ。農作物の自給率に関しては、京都市の農業団体に何度か足を運んだ。「また、自分らかいな」と煙たがられた。

 ディベートの大会が近づくと、夜八時に図書館が閉まったあと、五、六人ずつに分散してアパートに集まった。集めた資料を英訳したり、模造紙に図やグラフを記したり、ロジック(議論の筋道)の組み立てを延々と話し合っていた。女の子も一緒だった。空が白々とし始めた道をトボトボと歩きながら、

「朝の五時まで(部活)やってるとこ、ほかにあるか?」

「こんなんしてるの……、うちらだけやでぇ」

 そんなことを口にしながら、大会に向けた準備をしていた。授業へ出るなどという余裕はまったくなかった。試験が近づき初めて教室に出向き、真面目そうな女の子を見つけて、

「ここは○○先生の民事訴訟法の教室ですよねぇ」

 とマヌケな質問をしていた。

「○○先生は、夏に亡くならはってますよ」

 女の子の驚き呆(あき)れた顔がマンガのようだった。

 三回生になって連盟の役員を引き受けたことから、その多忙さに拍車がかかった。おかげで留年スレスレ、憂えき目をみた。本当に、間一髪だった。四十代の初めころまで、ときおり留年の悪夢に悩まされた。すっかりトラウマになっていたのだ。だが、いつしかそんな夢に魘(うな)されることもなくなった。

 四回生になり部活から解放されると、周りはいつの間にかそれぞれの道を見定めていた。私一人が取り残されている……。どうしよう……。そんな思いが私を一層の不安に陥(おとしい)れた。私も周囲に釣られるように大阪や札幌の会社の人事部を訪ね、面談を重ねていた。当時の就職活動は、四回生から行われていた。それでも何も見えてこなかった。内心は、就職などしたくはないと思っていたのだ。

 大学院生の先輩を見ていたこともあって、大学に残る道にもあこがれた。だが、決定的に勉強が不足していた。私の第二外国語はフランス語だったが、アホ丸出しの成績だった。二年で終わるべきところ、単位を落して三年もやっていた。

「なあ、自分、留学したい言うてたことあったやんか。オレと一緒に、アメリカいかへんか」

 仏教の開教師になってアメリカへいこうというのだ。真顔で誘われた。私たちの大学は、浄土真宗系の学校だった。彼の祖父が僧侶だという。渡米四十年、彼は現在、ニューヨーク仏教連盟の会長職にある。熱心な平和活動を行っており、ホワイトハウスに招かれたり、国連でのスピーチ姿をSNSで見ることができる。

「小樽からナホトカ行の船が出てんねん。そこからシベリア鉄道に乗って、ヨーロッパへいける」

「……カネがなくなったら、アルバイトすりゃええねん。何とかなるって。いっぺんいったら、やめられへん。どうや、一緒にいかへんか?」

 こんな誘いを受けたこともあった。大阪の語学学校でアルバイトをしていたあの青年は、今、どこで何をしているのだろう。

 大学は、夏休み、冬休み、春休みと、年間の三分の一は休みである。自分に費やす時間は潤沢にあった。中毒かと思うほど麻雀にのめり込んでいた者。アルバイトに明け暮れていた者もいた。学費と生活費を捻出していたのだ。モラトリアム期間を最大限に引き延ばした、八回生という先輩もいた。彼もまた、学習塾のアルバイトで生活していた。部活に打ち込んでいる者、何をしているのかよくわからない者、大学には様々な学生が犇(ひし)めいていた。大学とは、なにもかもが自由な場所である。その分、親の心労は、大変なものだったろうと思う。

 結局、私は小さな会社の平凡な会社員として、サラリーマン生活を送っている。東京に二十八年いて、北海道に戻って十三年間目になる。一つの会社に四十年在籍したことになる。途中、人生の荒波に吞み込まれ、一家が乗っていた船が転覆し、グループ会社に出向していたこともあった。六十歳で定年退職を迎えてからは、嘱託員として別のグループ会社に転籍している。

 オレの夢って何だったっけ……。そんな疑問が、ふいに吹く風のように胸に去来する。学生のころと、さほど変わっていない自分がいる。私にとっての唯一の救いは、人生の荒波に揉まれながら、書くことを手にしたことだった。すがるものがそれしかなかった。

「生きていく傍らに書くことを置いてみる」

 私がつかんだものは、これだったのかもしれない。

 

   2023年9月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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