かぶき者 ~竹山洋先生を偲ぶ~ | こんけんどうのエッセイ

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  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 授賞式の開始間際になって、竹山先生が現れた。いつものように黒づくめの服装だったが、靴だけがオレンジ色の蛍光色のスニーカーであった。靴がこちらに向かって歩いてくるような、そんな印象を受けた。年齢にしてはずいぶんと大きな足だなと思った。目もどことなく虚(うつ)ろで、まだ半分自分の世界の中にいるような、そんな雰囲気を醸し出していた。二〇一八年五月、随筆春秋賞の授賞式が行われた東京四谷の主婦会館でのことである。

 そもそも随筆春秋は、堀川とんこう先生のお母様、堀川としさんが始められたエッセイの同人誌である。元朝日新聞記者(社会部デスク)の斎藤信也先生を代表に迎え、一九九三年に発足した。当時、斎藤先生は首都圏や札幌の朝日カルチャーセンターで複数のエッセイの講座を持たれていた。

 表彰が終わると、そのまま食事を摂りながらの懇親会となる。出席者は、受賞対象者と随筆春秋の会員とスタッフ、そこに先生方が加わる、五十名に満たない小さな会合である。以前は、私が世田谷の佐藤愛子邸に立ち寄って、佐藤愛子先生をお連れしていたこともあった。

 食事が一段落すると、自然と先生方のお話を聞く形になる。話は自ずと文学との向き合い方といった内容になる。プロの作家や脚本家の話を目の前で聴くわけだ。堀川先生はテレビドラマのプロデューサー、演出家、映画監督という顔を持つ。竹山先生は脚本家である。お二人とも何冊かの著作があり、作家としての一面もあった。お二人の話は、すこぶる興味深く、いつまでも聞いていたいと思わせるものだった。いわゆる、‶謦咳(けいがい)に接する〟という言葉にふさわしい、年に一度の至福の時間であった。

 この二〇一八年のときは、私は竹山先生と並んで座っていた。ふと見ると、竹山先生の指が青いことに気がついた。右手の人差し指の腹から親指の内側にかけ、万年筆のインクがベットリとついていた。私は思わず息を呑んだ。

 先生のご自宅は新宿区内だったので、タクシーでほどない距離のはずだ。午前中から執筆を行っていて、時間になって慌てて自宅を飛び出してきたのだろう。虚ろな目はそういうことだった。うっかり履いて出たのがこのスニーカーで、手を洗う時間もなかった。いつもは、フォーマルな靴を履かれていた。万年筆のインクで汚れた手は、衝撃的な光景として私の中に残った。プロの作家の一面を垣間見た思いがした。

 授賞式は新型コロナウイルス感染症のため、二〇二〇年から中止している。高齢者の出席が多いため、二〇二三年五月の授賞式も慎重を期して取り止めた。苦渋の決断だった。

 突然、降ってくるのが訃報である。竹山先生の知らせも、そんな唐突な出来事だった。一報を受けたとき、私は会社で仕事をしていた。

「えっ! どういうこと?」

「死んだって……、どうして? 竹山先生が……」

 まるで予期せぬ知らせだった。それは二〇二三年四月十七日のことだったが、その日、第一報を流したのは、NHKだった。先生は数多くの脚本を書いているが、NHKでは大河ドラマ二本と朝ドラ(連続テレビ小説)一本を書いており、そんなことからNHKとのお付き合いも深かったのだろうと勝手に想像した。

 先生の実際の死亡は十二日で、すでに葬儀などは身内だけで済ませていた。メディアの発表では、「敗血症性ショック。七十六歳」とあった。後日、新型コロナウイルスに感染し入院していたと聞いた。

 私は竹山先生とはまともに話をしたことがない。年に一度、授賞式で同席させていただくだけで、これまでにお会いしたのは四度ほどである。先生は大柄で怖い風貌をされており、近づきがたい雰囲気を醸し出していた。もちろん、共通の話題もないし、なにより畏(おそ)れ多かった。当時、私は随筆春秋の副代表であったので、堀川先生、竹山先生と並んで座らされていた。それでも初めてお会いした際、竹山先生を驚かせたことがある。

「私と事務局の池田元は、奇縁で結ばれています。元禄十六年の赤穂義士切腹に際し、私の先祖は熊本藩邸で堀部弥兵衛(安兵衛の父)の介錯、池田の方は、松山藩邸で堀部安兵衛と不破数衛門の介錯をしているんです。私たち、介錯人仲間でして……」

 と申し上げると、先生は身を乗り出し、目を丸くされた。俄(にわ)かに信じ難いという顔だった。

「なぜだ!」

 と言われ、しばし絶句された。偶然だと申し上げても、信じられないという顔で私と池田を交互に眺めていた。先生はかつて、高倉健主演の映画「四十七人の刺客」(市川崑監督)の脚本を書かれていた。そんなこともあり、忠臣蔵の話題を口にしたのだった。

「それは、書かなきゃダメじゃないか。ぜひ書け。書くべきだよ」

 と怒ったような強い口調で言われた。その姿がとても印象的だった。

 

 今回の訃報に接し、私は『随筆春秋』誌の四十三号から最新の五十九号までに掲載された竹山先生の全作品を通して読んでみた。自らを‶かぶきもの〟と称されるとおり、ヒリヒリするような作品を書かれている。ムダな言葉が一切ない。いきなり斬り込んできて、急所を抉(えぐ)ってくる。そこまで踏み込むか、といった容赦のない荒々しさである。数行読んだだけで、プロの厳しさがひしひしと伝わってくる。他を寄せつけない殺気と、近づき難い怖さを覚えた。

 先生は、意外な一面を覗かせたことがあった。何年か前の懇親会でのことだった。堀川先生が竹山先生の「清左衛門残日録」(一九九三年、NHK金曜時代劇)を激賞したことがあった。この作品は、竹山先生が脚本を書くようになってから二十年ほど経ったころの作品である。「最高傑作」というような最上級の言葉を使われた。

 並んで座っていた竹山先生がそのマイクを受け取った。当時の堀川先生を、東大出のプロデューサー(TBS)で、何をどうやっても、まったく太刀打ちできなかった。カミソリのように鋭い人だった。

「その人から初めて認められ……」

 と言った言葉が突然震え、思わず口を押えた。淡々と話されていた竹山先生が、涙を流されたのだ。それは、こみ上げる嗚咽(おえつ)に堪えるといった仕草だった。当時のことを思い出したのだろう。私はその光景を隣席で目の当たりにしていた。‶プロフェッショナル〟が垣間見せる、一瞬の閃光のような厳しさと、一方でそれとは裏腹な繊細さが交錯する刹那(せつな)を視た思いがした。

 堀川先生が亡くなったのは、二〇二〇年三月のことだった。八十二歳、肺がんだった。新型コロナの蔓延で、延び延びになっていた偲ぶ会が東京元赤坂の明治記念館で行われたのは、二〇二二年五月のことである。感染症の波の間隙(かんげき)を縫って行われた。

「今やらなければ、できなくなる……」

 高木凛先生の切実な言葉で実現をみた。高木先生は堀川先生の奥様で、脚本家であった。随筆春秋にも寄稿され、お世話になっている。その高木先生も、がんに侵されていた。「ステージ4」だということをお別れ会で明かされていた。会には当然、竹山先生も参列なさっていた。そして今回の訃報である。お二人ともコロナ禍で休止中の死となった。

 今回の訃報を受け、なんだか随筆春秋が殺風景になってしまうなと、遠いところで考えていた。背中に寒々としたものを覚えた。なにも言葉が出なかった。合掌。

 

 

付記

 ※ かぶき者とは

 かぶき者は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮。特に慶長から寛永年間(一五九六―一六四三年)にかけて、江戸や京都などの都市部で流行した。異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと。茶道や和歌などを好む者を数寄者と呼ぶが、数寄者よりさらに数寄に傾いた者と言う意味である。(Wikipediaより)

 また、『広辞苑』によると、「異様な風体をして大道を横行する者。軽佻浮薄(けいちょうふはく)な遊侠(ゆうきょう)の徒や伊達者」とある。

 

  2023年6月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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■『肥後藩参百石 米良家』- 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜 -

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