こんけんどうのエッセイ -3ページ目

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 私は昭和三十五年(一九六〇)に北海道の片田舎、様似町(さまにちょう)で生まれている。そこは、太平洋に面した小さな漁村で、一帯は日高昆布とサラブレッドの一大生産地である。

 町(ちょう)が牧場の中に初めての公営住宅を造った。結婚してから銭湯を営む母の実家に居候していた両親は、そこに移り住む。私が一歳から小学五年までを過ごした家である。自宅の目の前が牧場であり、その先に太平洋が広がっていた。背後も牧場で、低い山々がグルリと周囲を囲んでいた。

 夕方になると、母に手を引かれ、一升瓶をもって牧場に牛乳を買いにいった。乳牛が五、六頭いて、裸電球の下で搾乳が行われていた。周りに街灯がなかったので、日が沈むと漆黒の闇に包まれる。懐中電灯を持たなければ、外出がままならなかった。夏になるとホタルが飛び交い、晴れた日には怖いほどの星が出た。

「おばんでした。気持ち悪い空だね」

 星づく夜(よ)には、そんな会話がよく聞かれた。月明りは道を照らすが、星明りは恐怖心を煽(あお)るだけだった。プラネタリウムを凌ぐ天球に、煙るような天の川が横たわっていた。その光景は、美しいというより、やはり気持ちの悪いものだった。

 幼いころの私は内気だった。極端な人見知りで引っ込み思案、いつも母の陰に隠れていた。母の知り合いから、「こんにちは」と言われても、一度も挨拶を返したことはなかった。

 当時の子供たちは、同学年だけで遊ぶということをしなかった。小学校低学年から中学生くらいまでが、混然一体となって遊んでいた。鬼ごっこやかくれんぼや缶けり、男の子はビー玉遊びや、パッチ(めんこ)、女の子はゴム跳びやけんけんぱやおはじきなど。私はいつも遠巻きにそんな彼らの遊びを眺めていた。彼らと一緒に遊べるようになったのは、かなり後になってからである。集団の輪の中に入っていけない子供だった。

 幼稚園の学芸会では、すべての演目の参加をボイコットした。木琴の演奏も、私のところだけポツンと空いていた。合唱も劇にも出ずに、舞台の下で親たちに紛れて眺めていた。担任の先生が何度も私のところにきて出ることを促したが、私は頑(がん)として拒絶した。

 自宅に戻ってから、母に泣かれた。初めて目にする母の涙に、胸が抉(えぐ)られるほどの衝撃を覚えた。だが、それで引っ込み思案が治ることはなかった。とにかく人前で何かをするのが嫌で、小・中学生を通して、演劇にかかわったことは一度もなかった。親には申し訳ないことをしたと思っている。

 私は一人遊びが好きだった。目の前の牧場と住宅地との境は、二メートルほどの深さの側溝で区切られていた。土を掘り下げただけの溝の側面には、春になると様々な植物が新芽を出した。幼いころの私は、側溝に入り腹這(はらば)いになって、黄緑色やほんのりと赤みを帯びた山野草の芽を眺めていた。植物の芽吹きは、長い冬から解き放たれた喜びだった。そのときの土の匂いは、浅い春の感触として、いまだに私の中に残っている。

 長じてくると、私は山に入るようになっていた。斜面に寝転んで、深く積った腐葉土をかき分けて植物を探していた。雑木林の中を駆け抜け、山ぶどうの蔓で遊んだり、小さな沢の水の湧きだすあたりで、ヤチブキやセリ、ミズバショウなどを眺めていた。そんなことが楽しくてならなかった。

 小学校三年生の時だった。担任の若い女性の先生が、

「ケンくんは、家ではいつも何をして遊んでいるの」

 と訊いてきた。山で遊んでいることを告げると、

「今度、先生も連れていってよ」

 そんなことを言って、日曜日に遊びにきたことがある。先生は、三キロほどの田舎道をどうやって訪ねてきたのだろう。当時は国道を含め、道路の大半が未舗装であった。そのときは、同じクラスの男子も加わり、七、八人で山に入った。

 そこは、けもの道すらない山の中の、私だけの秘密の場所だった。自宅から遠く離れた深い山の中で、私の遊び場を見る先生の目は、驚きに満ちていた。そんなところで遊んでいることを怒られるのではないかと、内心ビクビクしていた。だが、先生は、私を咎(とが)めることをしなかった。

 先生は、休みを返上してわざわざ訪ねてきたのである。それほど私は不可解な子供だった。私という子供を理解するには、そんな行動が必要だったのだろう。

 そのころを境に、私は友達の輪の中に入っていけるようになった。孤立していた私を案じた先生が友達に話して、さりげなく私をサポートしてくれていたのかもしれない。

 

 長じるにつれ、極端な私の内向性は影を潜めていった。だが、完全になくなったわけではなかった。そんな自分を克服したい、という強い思いが私にはあった。大学に入ってすぐのころ、落語研究会に入るべきか、真剣に悩んだのもそのためである。結局、英語を克服するため、ESS(英語研究部)に入部した。英語弁論大会に出たり、ディベートの試合にも出たが、人前での上がり症は克服できなかった。

 二十代後半から三十代にかけては、会社の同僚の結婚式の司会をずいぶんと行った。総務課にいたので、それも仕事の一環だった。この機に乗じて、自分を克服したいという思いがあった。

 その結果、趣味はと訊かれたら、「結婚式の司会」と答えるほどになっていた。横浜のとあるホテルでは、披露宴の後、司会のアルバイトをしないかと誘われたこともあった。人前での強い緊張をコントロールし、いい方向への力に変える、そんな方法をいつしか身につけていた。

 会議での議事の進行や社内のイベントの司会を一手にこなすようになっていた。会社では、社内旅行やスポーツイベント、花見や納涼会など様々なイベントがある。それらを企画し、積極的に参加していた。だが、皆が楽しんでワイワイやっていることには、まるで興味が持てなかった。

 社内旅行の終日フリーの日には、社員をアトラクション施設に解き放ち、私は一人で街中を歩きまわっていた。見知らぬ街の裏道ばかりを歩いていた。床屋で散髪したり、図書館を覗くのも好きだった。

「近藤さん、また床屋、いったんですね」

 社内旅行で床屋にいく男として、私は有名になっていた。店主とお客が方言丸出しで無防備に会話する、そんな光景を楽しんでいた。

 多くの社員が嬉々として参加しているゴルフなどは、まるで興味が持てなかった。それが私の個性だと、密かに思っていた。周りから見れば、単なる〝変わり者〟である。

 こういった私の性質は、幼いころからの内向性由来であると思っている。頑張って自分のマイナス要素をプラスに転じてきた。だが、不完全燃焼の部分がシコリとなって存在している。私と社会とのズレの部分である。それこそが、‶私〟なのだと思っている。

 

  2023年5月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 私の生まれ故郷は、北海道の太平洋岸に面した小さな漁村、様似町(さまにちょう)である。

 現在、私は札幌で暮らしているが、街中で〝様似〟を目や耳にする機会はほとんどない。たまに‶様似〟に出会うことがあると、ドキッとして胸がギュッとなる。同じ北海道でも、なかなか訪れる機会のない、交通の便の悪い土地である。そんな不便なところに、私のふるさとはある。だからいいのだ。

 様似町は、えりも岬を擁するえりも町とサラブレッドの浦河町に挟まれている。現在(二〇二三年時点)の様似の人口は、四千人を切ってしまったが、私がいたころはその倍を超す人々が暮らしていた。ここら一帯はサラブレッドと日高昆布の一大生産地である。私は中学を卒業するまでの十五年間を、この様似で過ごした。

 高校から大学にかけて札幌、京都とそれぞれ四年、東京には二十八年いた。その後、室蘭で二年、再びの札幌で十年になる。その合計が六十三年で、それが私のすべてである。様似で暮らした日々は、六十三年間の人生の、二三・八パーセントに過ぎない。だが、私の基本的な仕組みは、この様似で作られた。様似の海と山が私の主成分である。

 東京にいたころ、久しぶりの帰省で幼なじみや知り合いに出くわすと、

「おッ! いづ来たぁー?」

「きのうだ」

「いづ帰る?」

「あさってだ」

「あれ……」

 挨拶も何もない。

「ガニ(毛ガニ)食うが?」

 何年ぶりかで出会っても、大方、こんなやり取りで万事が終わる。「こんにちは」という言葉自体、存在しないのだ(こんなことを言ったら、様似の人にぶん殴られそうだ)。素の自分でいられるホッとできる時間、それが様似でのひと時だった。

 都会での暮らしは、私に計り知れない影響を及ぼした。私を大きく変えたことは事実である。だがそれらは、いずれも様似で作られた私の基本構造の増築部分に過ぎない。私の芯は、‶様似〟なのである。だから、私を輪切りにすると、どこを切っても様似なのだ。そんな感覚が、私の細胞の隅々にまで沁(し)み込んでいる。

 先ごろ、自宅近くの場末のスナックで飲んでいたときのこと。客はいつものように私一人であったが、途中から会社の上司と部下と思しき男女二人連れが入ってきた。何の話からか、様似出身であることを口にすると、

「あらッ! そう言われてみると、なんだか様似顔してるわ」

 四十代前半の女性から言われた。‶様似顔〟などという言葉は初めて耳にしたが、なんだか少し嬉しい気分になった。浦河出身の女性で、父親は遠洋漁業の漁師だったという。ただ、浦河からみると様似は田舎なのである。その女性から、少し小バカにしたような、そんな上から目線を感じた。ほどよく酔いが回っているようだった。私からすると、‶目クソ、鼻クソを笑う〟で、思わずニヤリとしてしまった。

 二〇一四年に様似高校が閉校になった。二〇二一年には、JR日高本線も廃線に。それまで様似は終着駅だった。ただ、地元の側からすると、始発駅ということになる。人生はこの駅から始まった。また、人によっては様々な事情があって〝戻ってきた駅〟でもある。‶迎え入れてくれた駅〟‶受け入れてくれた駅〟と感じている人もいるだろう。だから、廃線後も駅舎は、特別な愛着を持って守られている。

 大学生のころだったと思うが、様似駅では乗客が希望すると発車の際に駅構内に音楽を流してくれた。三曲の中から選択するのだ。「蛍の光」と山口百恵の「いい日旅立ち」、もう一つが何だったか思い出せない。私はもっぱら「いい日旅立ち」に送られてふるさとを後にしていた。無人駅になってからは、それもなくなってしまった。

 ふるさとへの帰省には、長距離バスではなく、もっぱらこのJR日高本線を利用してきた。海岸沿いと牧場の中を縫うようにしてひたすら走る。一両編成のディーゼル機関車だ。町の人は「ジーゼル」(=ディーゼル)とか、単に「汽車」と呼んでいた。間違って「電車」とでも言おうものなら、「都会かぶれ」と思われてしまう。

 窓外には牧場が広がり、群れをなしたサラブレッドが点々と草を食(は)んでいる。牧場(まきば)の香りが胸に満ちる。干し草の匂いに、「あ、一番牧草の刈り取りの時期だな」と思ったりする。

 夏場、海岸沿いを走ると、干した昆布で前浜が真っ黒になっている。昆布の香りが一帯に満ちているのだ。この香りを嗅(か)ぐと、涙ぐむほどの懐かしさが溢(あふ)れてくる。匂いに刻まれたふるさとの記憶である。

 私が最後に様似駅に降り立ったのは、二〇〇九年七月である。前年に様似で一人暮らしをしていた母が脳梗塞に倒れ、札幌にいる妹と暮らし始めた。空き家になってしまった実家をたたむために、様似を訪れたのである。当時住んでいた東京・練馬の自宅を出てから、九時間の長旅だった。アルバムなどの必要最小限のものだけを持ち出し、あとは近所にいる母の兄である伯父夫婦に処分をお願いした。

 それ以降は、墓参りで訪ねるだけになってしまった。その墓も二〇二〇年には墓じまいし、父の遺骨は札幌の納骨堂に安置した。それでも年に一度は、ドライブがてら様似を訪れている。母も連れていきたいのだが、往復三八〇キロの行程は、もうムリである。

 浦河を過ぎ、様似の鵜苫(うとま)の集落を抜けると、海の中にロウソク岩が立っている。その脇の塩釜トンネルを潜(くぐ)ると、もう右手は親子岩だ。心臓がドキッとする。親子岩イコール様似なのだ。海岸沿いを進むに従い、一塊に見えていた親子岩が二つに分かれ、最後まで母岩に寄り添っていた小岩も離れて三つになる。左側にはソビラ岩も見えてくる。高校一年のひと夏、私はこの親子岩の前浜で昆布干しのアルバイトをしたことがあった。キラキラとした想い出として、今も私の中に残っている。

 親子岩を正面に見ると、背後はかまぼこ型の観音山である。国道を道なりに進んでいくと、今度はエンルム岬が出てくる。そのエンルムの手前を大きく左に曲がると、群青のアポイ岳が忽然(こつぜん)と姿を現す。そのダイナミックな光景に息を呑む。様似だ、という思いが胸に満ちる。

 日高山脈から連なるアポイ岳の稜線は、なだらかなカーブを描きながら太平洋に落ちていく。この一帯は日高山脈襟裳国定公園であり、世界ジオパークに認定されている。アポイ岳の高山植物群は、国の特別天然記念物にもなっている。二〇二三年度には、国立公園への格上げが決まっていて、間もなく日本最大規模の国立公園が誕生する。

 様似の街中を走っていても、人を見かけることは、めったにない。以前には、名前は知らないが、「顔見知りのおじさん」や「どこかで見たことのあるおばさん」によく出くわしたものだ。稀にそんな人を見かけると、「この人、まだ生きていたんだ……」感嘆とともに大きな驚きを覚える。皆、すっかり年老いてしまった。

 車を走らせていると、かつては「ん? 誰だ?」という顔を向けられたものである。札幌ナンバーの車は、ここでは〝よそ者〟なのだ。いつの間にか自分がよそ者になっていた。そんなことに愕然(がくぜん)としたものである。

 だが、私には確たるアイデンティティーがある。自分が自分であることの拠(よ)りどころがこの町なのだ。それは親子岩であり、エンルム岬、アポイ岳である。「エンルム岬(さき)につつまるる……」旧様似小学校の校歌の歌い出しだ。五年生のとき、近隣の分校と統合されるまでは、この校歌であった。二番は「アポイヌプリのお花畑……」。中学校は「雲ひかるアポイ……」である。

 これらの校歌を今でも朧気(おぼろげ)ではあるが、口ずさむことができる。それは、自分が様似者(さまにもの)であることのゆるぎない証(あかし)だ。

 地元には、アポイ岳ファンクラブという有志の集いがある。「アポイ岳がいつまでもアポイであり続けるために」という思いを胸に、登山道の整備や高山植物の保護活動などを行っている。自分たちの山を守っている人々だ。人が入ると、どうしても山は荒れる。加えて気候変動が、デリケートな植物群に大きな影響を及ぼしている。

 様似自体も「消滅可能性都市」とささやかれて久しい。非情な言葉である。ふるさとの山は、そんな町の人々によって守られている。

 

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 ここ数年、夏になると決まって富良野へいっている。えみ子がラベンダー畑を見にいきたいというので、ドライブがてら出かけるのだ。彼女は私と出かけた後、間を置かずに娘たちとも出かけている。札幌―富良野間は一二〇キロの道程、ドライブにはほどよい距離である。

 観光客に紛れてラベンダー畑の中で写真を撮る。丘陵一面のラベンダーは壮観である。テレビドラマ「北の国から」で、純と蛍が走り回っていた畑だ。どこまでも続く紫の絨毯(じゅうたん)、すべてがラベンダーの香りの中にある。えみ子がきたくなる気持ちもわかる。ましてや、本州からの観光客にとっては、夢のような光景に違いない。目の前に旅行パンフレットと同じ風景が広がっているのだから。しかもその中に自分がいる。コロナ前までは、日本人よりもアジア人観光客が圧倒していた。

 見慣れた光景ではあるが、どこまでも続く大地は圧巻だ。この地を切り拓(ひら)いた先人に思いを馳(は)せる。並大抵の苦労ではなかっただろう。だが、あまりのスケールの大きさに想像が追いつかない。遠くに広がる畑とも相まって、見渡す限りパッチワークのような鮮やかな色彩が広がり、現実離れしたバーチャルな風景と映る。もはや畑ではなく、芸術作品を眺めている気分になる。

 皆と同じように、私も胸いっぱいにラベンダーの香りを吸い込んでみる。身体の中も外も香りに包まれる。吹く風もラベンダーだ。いい香りなのだが……。

 ラベンダー畑に立つと、決まって別の思いが頭を擡(もた)げ出す。その思いが、あっという間に私を凌駕(りょうが)してしまうのだ。それは、「なんだか、便所の匂いを嗅(か)いでいるみたいだな」というものでる。公衆便所で深呼吸をしている自分を想像してしまう。トイレの芳香剤や消臭剤が頭をよぎるのだ。

 売店には、ラベンダーの枕まで置いてある。安眠が謳(うた)いなのだろうが、「こんな枕を使ったら、便所の中で寝ている気分だな」と思うのだ。富良野観光協会にケンカを売っているわけではない。私の思考回路が、どうしてもそちらへいってしまう。えみ子は、「おかしいんじゃないの」という顔を向ける。確かに、私はズレているのかもしれない。いったんそう思ってしまうと、頭にこびりついてしまい、もうダメなのだ。

 実は、金木犀(きんもくせい)でも同じような経験がある。東京で暮らしていたころのこと。燃えるような熱暑が去った秋の入り口の季節、住宅街を歩いていると、どこからともなく金木犀の甘い香りが漂ってくる。オレンジ色の小さな花の散らばりを足下に見つけ、ふと仰ぎ見ると金木犀の花が咲いている。金木犀とはそんな控え目な花である。小さな花々は、夜空に輝く満天の星ようにも見える。香りによって開花に気づかされる花である。ああ、夏が終わったのだな、という思いにさせられる。初めてこの金木犀の香りに出会ったとき、「どこかの家の便所の窓が開いているのか?」そう思ったのだった。

 私は、匂いに限らず、何かにつけて普通の人との感覚にズレがある。「オレは普通とはちょっと違う」「皆と同じではない」そんな思いを長年、抱き続けてきた。若いころは、それが気になっていた。人一倍、孤立を恐れていた。

 どうしてそうなのかはわからない。これまで六十年以上を生きてきて、自分に似た人に出会ったことがない。不思議なことだ。多くの人たちと私の違いは、私が左利きだということぐらいだ。左利きは全人口の一割ほどだという。だが、私のような左利きを見たことはないので、‶左〟で括ってしまうのは乱暴すぎる。

 ちなみに、私は見取り図などを書いていて、鏡に映したように正反対の図を書いてしまうことがある。言われて初めてそれに気がつく。かなり意識していないと、そうなってしまうのだ。しかも私は、人並外れた方向音痴でもある。札幌に暮らして十年になるが、まるで道が覚えられない。

「えっ? どこへいくの?」

 そう言われて、慌てるのである。どこがどこなのかサッパリわからない。最初のころは「覚える気、ないんじゃない」と言っていたえみ子も、今ではカーナビよろしく教えてくれるようになった。

 加えて私は、車の運転がダメなのだ。「オマエは、稀にみる運転不適格者だ。やがて免許は取れるが、車には乗らない方がいい」運転適性の結果を見た教習所の教官に言われた。

 私は車線変更ができないのだ。だいたい、免許を取った田舎には二車線の道路などなかった。信号機すらろくにないところである。周りが牧場なのだ。だから、車線変更をする際は、あらかじめ数キロ先から車線を変えておく。これまでに、どれほどの数のクラクションを鳴らされてきたことか。札幌市民の寛容な心に支えらえながら、ハンドルを握っている。東京では一切、運転をしてこなかった。

 これらが左利きと関係しているのか、となると大いに疑問である。私の脳の中では他の人とは違った変換が行われ、そのせいで空間処理がおかしくなっているのだ。とりあえずそのように理解し、強引に納得している。

 北海道の冬は長くて厳しい。寒い夜はナベが手っ取り早く、温まっておいしい。ナベには、たっぷりと春菊を入れる。春菊の独特な香りが好きなのだ。でも、食べながらいつも思う。「なんだか、茹でた蚊取り線香を食っているみたいだな」と。そんな話を友達にすると、

「うちの主人、春菊は葬式臭いと言って食べてくれないのよ」という。同類の匂いを感じ、嬉しくなった。

 今年もまた、ラベンダーの季節がやってくる。

 

  2023年4月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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  (一)

「大変! コロナになっちゃった。喉(のど)、全然よくならないし、微熱あるなーって思ってて……。まさかと思ったけど、抗原キット使ったら、陽性だった。まいったー ごめんねー」

 えみ子からのLINEを受け取ったのは、二〇二二年十一月二十四日(木)の午後六時近くのことであった。この時、私は娘夫婦の家にいた。二十三日(祝)から四泊の予定で、長野県にいっていた。

(ということは……、オレって……、濃厚接触者か?)

 そういわれると、喉に違和感がないでもない。前夜、調子に乗ってけっこう酒を飲んだので、鼾(いびき)のせいだろうと思っていた。そんなことはよくあったが、夜になっても違和感が残っていた。そのことを娘に告げると、考え過ぎだと一蹴(いっしゅう)された。娘婿も小学一年生になる孫も数か月前に感染を経験していた。近所に住む孫の小学校の友達やその家族は、すでに一通り感染を終えていたが、私の娘だけが感染を免れていた。感染慣れもあって、えみ子の感染は冷静に受け止められた。

 この日は平日で、孫は学校へ、娘夫婦はそれぞれ仕事に出かけていた。私は一人、長野の街中を気ままに歩きまわっていたのだ。前夜の土砂降りの雨の余韻があり、天気は今ひとつパッとしなかった。十五キロも歩いただろうか、かなりの疲労を覚え、途中、見つけた日帰り入浴施設でくつろいでから戻っていた。

 えみ子は、二十二日の夜に微熱を感じ、早々に就寝していた。この日、うたた寝をしたときに、寒気を覚えたという。翌日には熱も下がり、単なる寝冷えだったと思い、予定通り私を新千歳空港まで送ってくれていた。えみ子とはまだ籍を入れずに、別々に暮らしている。

 私の運転する車の助手席に彼女はいたのだが、いつものように終始マスクをつけていた。彼女は、エステという仕事柄、他人に直に接触するため、感染には人一倍気を遣っていた。空港での買い物にも付き合ってもらって、一緒に昼食を摂った。アクリル板が会話の邪魔だったので、えみ子の隣に並んで座った。小食のえみ子はいつも食べ残しをする。このときもえみ子の残したラーメンの具を食べ、スープも二、三口飲んでいた。

 

 三週間ほど前のこと。

「……そんなこと言ってたら、三年も四年も会えないことになるよ」

 電話口の娘が強い口調で言った。後半は涙声になっていた。十一月に遊びにきてくれと言われたのだ。こんなに急だと航空券も高いし、コロナだってひどいことになっているから、春になったらいくよと答えていた。それに対し、娘は語気を強めたのだ。

 考えてみると、娘家族とはもう三年も会っていない。春にいける確証もなかった。当初は娘たちが十一月に遊びにくることになっていたのだが、都合がつかなかった。それで、私にきて欲しいというのだ。そんな経緯があり、二十三日から娘のところを訪ねていた。

 

 翌二十五日、この日も平日なので一人で出かけた。前日までの曇天とは打って変わって、朝から冬晴れの青空が広がっていた。三千メートル級の北アルプス連峰が圧倒的な存在感で街を見下ろしていた。山脈が空中に浮かんでいる、そんな表現の方が的確かもしれない。群青色の山の頂(いただき)は、食塩のように真っ白な雪を冠している。とりわけ北の端、白馬あたりは、神々しいほどに白く輝く峰が連なっていた。冬枯れの田んぼ道のあちらこちらに、実を残した柿の木が点在している。その背後に白銀の連山と青空があり、柿の朱が鮮やかなコントラストをなしていた。〝信州〟というにふさわしい風景だった。

 途中見つけた調剤薬局で、抗原検査キットを求めた。薬局の駐車場では、店が開くのを待っていた人が、車の中で検査を受けていた。数日前のネットニュースでは、十万人当たりの感染者数で、北海道がダントツのトップで、次が宮城県、長野県は第三位だった。コロナがすぐ傍らにいた。

 この日私は、日がな一日、図書館で過ごした。途中、昼で仕事を終えた娘と昼食を摂り、私は再び図書館に戻っていた。娘は学校まで孫を迎えにいって、そのまま自宅に孫の友達を呼んで遊ばせるという。私は所属同人誌の会員がエッセイ集を出版する予定になっており、そのゲラを持参していた。原稿の校閲と、「あとがき」を頼まれていたのだ。

 夕方、娘の家に戻ると、子どもたちがまだ遊んでおり、孫と四人でギャーギャー騒いでいた。私は子供たちとの接触を避けるように、真っすぐに二階へと上がった。買ってきた検査キットを取り出し、手順に従って検査を行ってみた。結果は陰性だった。

 喉には、いがらっぽさが残っていた。時折、微熱の気配がある。三六度八分や九分になるのだが、すぐに三六度二分とか五分に下がるのだ。翌二十六日は土曜日で、学校も会社も休みなので、四人でどこかへドライブに出かけるつもりでいた。だが、濃厚接触者の私と長時間密室の車内で一緒に過ごすことは、どう考えても好ましくない。いろいろ思い悩んでいたが、予定を一日繰り上げ、翌二十六日の朝、札幌に戻ることを決めた。そう決めたのは、日付が変わった時間になってからだった。

 

 (二)

 札幌―長野間は、幸いにも飛行機の直行便がある。だが、その運航時間に問題があった。行きは新千歳空港十五時十分発(信州松本空港着十七時)で、帰りは信州松本発午前九時十五分(新千歳着十時五十分)なのだ。一日一便ゆえ、この時間だと行きと帰りの二日間が、まるまるムダになる。この空路は、長野の人が北海道に遊びにいきやすい時間設定になっていた。

 ほかの経路としては、東京経由がある。新千歳―羽田間が一時間半で、そこからJR特急あずさで三時間である。空港や駅までの時間などを考慮すると、片道八時間を超える。旅費も割に合わない。だから今回、思い切って二十三日からの四泊五日にしたのである。それでも、皆で自由な時間が持てるのが、二十六日(土)の一日だけだった。三年ぶりにせっかくきたのだから……、決断を躊躇(ちゅうちょ)させていたのは、そんな思いがあったからだ。

 万一、私が発熱した場合、十二月二日まで娘の家で缶詰になってしまう。それだけは避けたい。調べてみると、二十六日の飛行機はすでに満席だった。二十七日の航空券は、「変更不可」と記されている。だが、なにがなんでも、帰らなければならない。二十七日の航空券は捨てて、東京経由で帰るより方法がない。特急あずさで新宿へ出て、羽田から飛行機に乗る。空港で発熱が判明し、東京のホテルに缶詰めになる、そんな可能性を考慮に入れての決断だった。

 一方のえみ子は、同居している長女への感染を避けるため、二十六日からホテル療養を行っていた。彼女の症状は喉の違和感と、若干の咳(せき)と鼻づまりで、熱はなかった。軽い風邪症状といったところだった。

「ごめん、ほんとゴメン。せっかくの家族団欒(だんらん)だったのに……」

 私と娘家族の時間を奪った申し訳なさで、えみ子は小さくなっていた。この感染は、誰がどこで地雷を踏むかわからない。今回は、たまたまえみ子がもらってきたに過ぎない。お互い様だ。えみ子の感染がわかったときも、彼女を攻める気持ちは少しもなかった。私の娘家族も、こんな時期だからやむを得ぬことと割り切っていた。「えみさんには気にしないでと伝えてね」そんな言葉を何度も聞いた。

 こういう経験は、稀有(けう)なことである。のちに振り返って「あのときは、散々だったよな」、それでいいのだ。むしろ、有意義な体験として受け止めるべきことである。今回の残念な時間は、後にいくらでも挽回できる。

 

 二十六日の朝、娘婿に送ってもらい、午前八時過ぎに娘宅を出てJR松本駅へと向かった。あずさは初めてだった。

「八時ちょうどのあずさ二号で……」昭和の時代にはやった狩人の歌「あずさ二号」が頭の中で何度も何度も巡っていた。車窓を流れていく物珍しい地名に感心しながら、旅気分を味わっていた。発熱の兆候はなかった。

 車窓の景色も八王子を過ぎると東京の気配が漂ってくる。終点直前に新宿副都心の高層ビル群が出てきて、その景色がクライマックスに達した。東京も三年ぶりである。新宿駅のホームで耳にした山手線の発車メロディに、懐かしさが込み上げる。しかし、どこかに立ち寄ろうかという気分にはなれず、そのまま羽田へと向かった。

 浜松町駅から乗ったモノレールで戸惑った。ANAが羽田空港第一ターミナル駅だったか、第二がJALだったか。第三って何だっけ? 三年のブランクである。

 空港の保安検査場を通過し、機内の座席に座って、ホッと一息をつく。喉のいがらっぽさはあったが、発熱の気配はなかった。脱出は成功である。ダメだと諦めていた二十七日の信州松本―新千歳間の航空券代が、羽田のカウンターで払い戻された。チケットの変更はできないが、キャンセルは可能だという。なんだかよくわからないが、とりあえずはホッとした。

 午後五時過ぎ、電車と地下鉄を乗り継いで、自宅にたどり着く。長野を出てから九時間が経過していた。地下鉄を上がると、すでに辺りは真っ暗である。凍てついた夜道にキャリーバッグの音が寒々と響き渡った。

 

 (三)

 自宅に戻った私は、荷物を投げ出すように置き、すぐに近所のスーパーへと向かった。感染・発熱に備え、食料品の買い出しに向かったのだ。数時間前まで長野や東京にいたことが、夢の中の出来事のように思われた。両手にずっしりと食い込む荷物の重さに、嫌が応にも現実に引き戻された。

 洗濯をしながら風呂に入り、一息ついたところで悪寒を覚えた。午後八時を回っていた。体温は三七・七度。一時間ほどして悪寒が落ち着いた。前夜に続けて、抗原検査を行ってみる。キット中央の白地の小窓に二本のラインが現れた。陽性反応である。覚悟はできていたが、「コロナ患者になってしまった」という思いが覆いかぶさってきた。娘とこの日からホテル療養に入っているえみ子にその旨をLINEで伝える。次に、札幌市保健所のホームページから陽性者登録を行う。手持ちのロキソニンと解熱剤を飲んで布団に入った。娘に感染させてはいないだろうか、それが心配だった。

 翌十一月二十七日(日)、保健所からメールが届く。私の発症日が二十四日で、療養期間が二十四日から翌十二月一日までの八日間である旨が記されていた。このときから十二月一日まで、その日の最高体温や体調をメールで報告することになる。会社の総務課長へは、二十五日の濃厚接触者報告に次いで、陽性者となった旨を連絡。二十八日の月曜から、リモートでの仕事を申し出る。

 この日は、夜からひどい悪寒を覚えた。喉の違和感が痛みへと変化し、鼻の奥にまで刺すような痛みが広がっていた。思わずマスクをつけて就寝。高熱を覚悟したが、三八・一度で治まった。解熱剤のせいもあるが、これまでに接種した四回のワクチンが功を奏しているのではないかと思われた。えみ子の次女のところでは、ワクチンを接種していない。ダンナと一歳九か月の子が、四〇度を超す高熱を発した。次女も三九度近くまでいっていた。四回のワクチン接種を受けていたえみ子と私は、三八度台の前半止まりだった。えみ子の感染は、この次女の子、つまり孫からである。身内からでは、防ぎようがない。

 新型コロナ感染症は、現在(二〇二二年十二月)、第八波の入り口で高止まりしている。私が感染したのは、オミクロン株のBA1かBA4-5なのだろう。病院へはいかず、ただじっと療養期間が終わるのを自宅で待つのだ。それだけで感染力がなくなるという。症状は風邪薬で押さえるしかない。そもそも抗原検査キットを使って調べなければ、単なる風邪で終わっていた。つまり、軽い風邪だと思い、市販の風邪薬を飲みながら治ってしまう人が相当数いるということである。まったくの無症状者もいるのだから、感染を防止する手立てはない。

 重症化をもたらす基礎疾患さえなければ、罹患によって抗体を獲得していくというのは、ある意味、自然の流れなのかもしれない。現に子供のいる家庭では、子供が学校や幼稚園などからウイルスをもらってきて、あっという間に家族が全滅してしまう。防ぎようがないのだ。

 世界の感染による死者数は、二〇二二年十二月三十一日時点で、六七〇万人。うち米国がダントツで一一二万人。日本は五万七〇〇〇人である。これまでに七〇〇万人近くが新型コロナで亡くなっている。パンデミックの脅威を改めて思い知らされた。

 ニワトリならば、鳥インフルエンザがみつかった時点で、半径三キロ圏内にある養鶏場のニワトリは否応なく殺処分である。徹夜の作業だ。その数は何十万羽という数に上る。ニワトリにしてみれば、たまったものではない。この方式で人間もやられたらと考えると、ゾッとする。

 翌二十八日の夜には、えみ子の次女が風邪薬とゼリー、飲み物などを玄関先まで届けてくれた。これには助かった。解熱剤を飲んでいるので、熱は上がらない。だが、さすがに体調は悪い。自宅療養中、可能な限りリモートワークを行った。同時に、自費出版本の校閲をしながら「あとがき」を書いたり、年賀状の作成を行っていた。暇だと感じることはなく、むしろ時間が足りないほどだった。

 十二月一日(木)、自宅療養最終日。前日にホテル療養から解放されていたえみ子が訪ねてくる。若干の鼻声と時おり咳き込む症状は、私とまったく同じだ。いつもながら、手際よく、料理を作ってくれた。

 翌日からの出勤を前に、念のために抗原検査を行う。「陰性になりました」と胸を張って出社するつもりでいた。だが、結果は二本線が出た。陽性反応である。慌てて保健所のサポートセンターに連絡し、折り返し看護師から電話をもらった。一度、陽性反応が出ると、人によっては一か月から二か月は、陽性反応が出てしまうという。すでに感染力はないので、十二月二日から出社しても問題はないという。しかしながら、今後一週間は、用心をする必要がある。他者への感染が、完全にゼロになったとは言い切れないというのだ。

 

 十二月十七日、三度(みたび)の抗原検査キットを使用してみる。結果は陰性だった。これまで日曜日ごとに母と一緒に暮らす妹のもとを訪ねていた。ドライブがてらスーパーでの買い物を行うのだ。最後にいったのが十一月二十日だったので、一か月ぶりとなる。抗原検査で陰性が出るまで、こないで欲しいと妹から言われていた。母も妹も重篤な基礎疾患をもっている。万が一感染させた場合、取り返しのつかないことになる。そんな思いが妹にはあった。これほどまでに二人のもとを訪ねなかったことは、この十年間で初めてである。辛抱を強いてしまったことを申し訳なく思った。

 コロナ感染から一か月が経過した時点で、喉の違和感や鼻詰まりはなくなっていた。だが、時おりの咳き込みが完全に消えるまでには、さらに一か月近くを要した。それはえみ子も同じだった。

 

 長野で仰ぎ見た北アルプス連峰が目に焼き付いている。遠い山はどこまでも青く、群青色の山裾の頂(いただき)に冠した雪は、神々しいばかりの輝きを放っていた。畏敬の念を抱かせる風景であった。

 

 

付記

【会社宛 報告書(eメール) 二〇二二年十一月二十七日(日)】

 このたび、新型コロナ感染症の抗原検査で陽性となりましたこと、大変、ご迷惑をおかけします。発症の経緯をまとめましたので、ご報告いたします。

〈発症までの経緯〉

 私には内縁の妻(以下 妻)がいます。彼女とは生活を共にはしていません。私は十一月二十三日から二十七日までの予定で娘夫婦がいる長野県へいってきました。その際、妻が新千歳空港まで車で送ってくれました。空港で一緒に昼食を摂っています(それ以前、最後に彼女に会ったのは十一月十九日です)。

 その前日(十一月二十二日)、彼女に微熱があったようですが、翌日には熱が下がったため、単なる風邪だと判断したそうです(抗原検査結果は、陰性)。

 十一月二十四日、妻に再び風邪の症状が出たため、念のため抗原検査を行ったところ、陽性反応が出ました。感染経路は、彼女の孫(一歳九か月)からだろうと思われます。

 これにより、十一月二十三日が私の濃厚接触者初日となりました(二十四日の夕方、その旨連絡済)。十一月二十四日の夕方、喉に違和感を覚え、検温したところ、三六・八度でした。十一月二十五日、喉の違和感、軽い咳、最高体温は三六・九度。夕方、抗原検査を行ったところ、陰性反応でした。

 しかしながら、時おり微熱の気配を覚えたため、札幌に戻れなくなることを懸念し、予定を早めて十一月二十六日に札幌に戻ることにしました。二十六日の飛行機はすでに満席だったので、JRを使って東京経由で戻ってきました。自宅に戻り、夜になって若干の発熱(三七・七)があったため、二度目の抗原検査を行った結果、陽性反応が確認されました。その日のうちに札幌市のHPから発症登録を行っております。

 以上の経緯を保健所の基準に倣ってまとめますと、次のようになります。

 

  ・診 断 日   二〇二二年十一月二十七日(陽性者登録 十一月二十六日)

  ・発 症 日   二〇二二年十一月二十四日(症状初日)

  ・療養期間  二〇二二年十一月二十四日~十二月一日(発症日+七日)

  ・療養解除  二〇二二年十二月二日(出勤可能)

 

 現在は、喉の痛み、咳、鼻水で、いずれも軽微な風邪のような症状です。発熱はありませんが、まだ、何とも言えない状況です。

 

  2022年12月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 編集部から岩崎さんの初校ゲラができた、という連絡を受けたのは、昨年十一月下旬のことでした。現在、札幌で暮らす私と東京の編集部とのやり取りは、もっぱらLINE(ライン)です。LINEとは、スマホやパソコンなどで利用できるコミュニケーションアプリです。ゲラは郵送されてくるのではなく、クラウド上に置かれます。それが「ゲラができました」という意味です。

 連絡を受けた私は、インターネットを介してサーバー上に保管されたデータをコピー&ペーストで自分のパソコンに取り込むのです。今回のゲラをプリントしてみると、ずっしりとした原稿の束になりました。初校はイラストなしの文字原稿で、三〇〇ページ。人生の重みを感じさせるものでした。

 原稿を読み進めていくと、これまでに私が観てきた日本映画のいくつもの場面が、断片的によぎっていきます。セピア色に染まった、懐かしい昭和のシーンです。

 岩崎さんは昭和二年(一九二七)のお生まれです。昭和元年は一週間という短い期間でしたので、まるまる〝昭和〟を生きてこられたことになります。昭和は六十四年まで続く、とても起伏に富んだ時代でした。前半の三分の一は、戦乱を伴う激動の時代でした。岩崎さんは、幼少期から成人までの人生の輝かしい期間を、そんな時代の中で過ごされたのです。

 私の目の前には、令和五年の日めくりカレンダーがぶら下がっています。そのカレンダーには、小さな字で「昭和九十八年・平成三十五年」と記されています。ご丁寧に昭和と平成での換算年数が記されているのです。つまり岩崎さんは、今年の秋には、九十六歳になられるわけで、まさに〝昭和の語り部〟にふさわしい方なのだなと、改めて感じた次第です。日めくりカレンダーは二センチを超える厚さがあります。岩崎さんの生きて来られた年月分のカレンダーを積み上げると、三五〇〇〇枚、高さは二メートルに達します。岩崎さんが過ごされてきた日々の積み重ねです。

 人生九十年といわれて久しいのですが、その年齢も限りなく百年に近づいています。単純に百年といっても、百年後の世界を想像できるでしょうか。百年前、誰が冷蔵庫、洗濯機、テレビ……そんなツールの出現を想像できたでしょう。各家庭に電気が普及しているなど、夢の話です。蒸気機関車の登場に驚いていた世代にとって、新幹線の出現は驚天動地であり、何年か後にはリニアモーターカーが走り出します。誰が電話を持ち歩く時代を想像したでしょう。百年とは、そんな歳月です。

 百年後には、自動車は空を飛びまわり、現在の歩道・車道という概念はもちろん、交通事故という言葉自体がなくなっていることでしょう。AIの目覚ましい発達は、私たちの想像を超越した世界を出現させているに違いありません。百年を生きるとは、そういう変化を目の当たりにすることなのです。

 私が回りくどく長々と申し上げてきたのには、理由があります。岩崎さんがその百年を生きて来られたからです。身をもって体験してこられたことを著書として残される意義が、いかに大きいかをこの作品集を通して改めて感じました。

 私たちの共通の先生である佐藤愛子先生は、今年、百歳になられます。二〇二一年の春、佐藤先生は断筆宣言をされました。九十七歳のことでした。しかしながら、翌年の秋、九十九歳を目前にし、再びペンを取られています。つまり、この年齢に到達した、そんな高見からでなければ見えない景色があるのです。高齢の方は数多くいらっしゃいます。ですが、実際にペンをとってそれを表現できる方は、ごくごく少数で、選ばれた方のみがなし得ることなのです。岩崎さんは、そんなご指名を受けた方です。

 

 この作品集を通して感じることは、目に見えるモノ、物質の変化はもちろんのこと、そこで暮らす人々の心の持ちようが、しっかりと描かれていることです。「ああ、そんなふうだったか」「そうだよな、そうだった、そうだった」といったものです。それは〝懐かしい〟という感情とともに甦ってくるものです。私は昭和三十五年(一九六〇)生まれですので、岩崎さんとは親子ほどの年齢差がございます。ですが、この作品集を読みながら、すっかり忘却の彼方に葬り去られていた昭和という〝時代の気分〟が、何度も立ち昇ってくるのを覚えました。

 印象深いのは、岩崎さんが見つめる昭和の母子の姿です。とりわけ母親の振る舞いや考え方が、今ではお目にかかれないものなのです。それは、「奥ゆかしい女性」であり、ひかえ目でありながらも「逞(たくま)しい母親」の姿です。昭和の一場面が見事に切り取られています。それは、岩崎さんが、当時としては極めて稀だった〝女医〟だったことによります。小児科医としての目線の温かさが、得も言えぬ心地よさとして作品から滲(にじ)み出ているのです。

 二十代のころをつづった作品の中で、

「私は、小児科の病室で医師の勉強よりも、母親の覚悟を教えられた気がする」

 と述べられています。不治の病に翻弄(ほんろう)される人の運命や不幸というものを、誰よりも身近で視てこられた。「それは医学ではどうにもならないことばかりであった」と吐露されています。

 時代の流れの中で世の中は大きく変わりました。そんな中で、

「昭和、平成、令和と生きてきて、一番変わったのが世の中の母親だと思う」

 母子の在り方を見てこられた医師ならではの視点を感じさせる言葉です。

 誰よりも「奥ゆかしさ」と「常にひかえ目」な部分を持ち合わせていらっしゃるのが、いさんご本人にほかなりません。

 そんな岩崎さんの作品は、力みのない、肩の力がスッと抜けた作品が数多くあります。ゆえに、読んでいて微睡(まどろ)むような心地よさがあるのです。あっさりとしていながらも深みがある、本書は、そんな枯淡の境地ともいえる作品集です。星霜に耐え、努力をされた方だけが許される静かな到達点ではないか、そんな思いを強くしました。

 

 岩崎さんは、現在も月に二、三度、市町村の乳幼児健診に出かけられているといいます。

「泣く子、笑う子、怖がる子。赤ちゃんに接しているときが一番の幸せ」と仰る。

 ますますのご健筆を願ってやみません。

 

   2023年1月    随筆春秋代表 近 藤 健

 

 

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 酒は人並みに飲むが、決して強くはない。すぐに顔が真っ赤になり、ほどなく強い眠気に襲われる。または、酔い潰(つぶ)れる前に具合が悪くなる。そのいずれかだ。前後不覚になるまで酔える人が、ある意味、羨(うらや)ましい。

 私は、サラリーマン生活の大半を東京で過ごしてきた。会社では全員が電車通勤である。

「たまには、一杯、やろうか」

 という誘いが、会社帰りによくあった。会社を一歩出ると、魅力的な店が、いくらでもあった。日本橋人形町は小粋な街である。

 酒に強い人と飲んでいると、時にペースを乱される。相手の歩調につられるのだ。酔っ払いは酔っ払いなりに気を遣っていて、こちらの飲むスピードが遅いと、執拗(しつよう)に酒を勧めてくる。

「ほらほら、遠慮せずにググッと!」

 遠慮などこれっぽっちもしていない。だが、飲むほどに不必要なお節介が始まる。気がつくと相手のペースに引き込まれ、ついつい飲み過ぎてしまうのだ。

 酒での失敗談は数限りなくある。その大半は、電車で寝てしまい、自宅の駅にたどり着けない、または、目覚めたら見知らぬ場所にいたというもの。終電を逃して、公園のベンチで一夜を明かしたということは、幸いにして一度もなかった。だが、面白い仕出かしは、いくつもある。

 あるとき、前後不覚に近い経験をしたことがある。したたかに飲んだ帰り、会社近くの地下鉄駅の階段を下りながら、足がひどくふらつくのを覚えた。手すりにつかまらなければ、階段を降りられなかった。そんな状況だったが、なんとか家までたどり着いた。

 翌朝、二日酔いの重い体を引きずるように玄関を一歩踏み出したとたん、ガクッとなった。見ると革靴のかかとが片方なくなっていた。前夜のふらつきは、このせいだった。どこでかかとを落としたのかは定かではないが、それに気づかずに帰ってきたのだ。最寄り駅から自宅までは、徒歩で十五分弱の距離である。そんな自分に、我ながら驚いた。

 ほかの靴を履いていこうと思ったが、数日前に古い靴をきれいさっぱり処分していた。古い靴があるから新しいのを買わないのだ、と思い切ったのだ。やむなくピョコタン、ピョコタンと歩いて電車に乗り、会社へと向かった。ひどく難儀だった。

 会社に着いて、前夜、一緒に飲んだ同僚にその話をしたら、駅の階段にかかとが落ちていたという。しかも、私の靴のかかとではないか、と冗談半分に話していたというのだ。

「で、そのかかと、どうした?」

 と訊いたが、拾ってくるわけがない。

「バカヤロー、何で持ってこなかったんだよ」

 という私の声が、笑いの渦にかき消された。今度は、必ず拾っておきますと言われた。

 その後しばらく、「かかとを落しても気づかないで帰った男」として、酒席の話題に花を添えた。

 

  2023年3月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 私は左利きである。

「へー、ギッチョなんだ」

 かつては、よくそんなふうに言われた。相手に悪気はない。「左利き」や「サウスポー」はまどろっこしい。「ギッチョ」の方が言いやすいのだ。「あら? あの人、どうしたのかしら。ビッコひいてるわ」のビッコと同じ感覚である。だが現在は、いずれも差別用語として使われなくなった。

 私は見取り図などを書いていて、鏡に映したように正反対に書いてしまうことがある。言われて初めて気がつく。かなり意識していないと、今でもそうなってしまうのだ。また、左右が瞬時に判断できないことがある。

「この交差点を右折して」と言われ、一瞬、戸惑う。幼いころ、「小学校へ入れないよ」と脅され、鉛筆と箸を持つ手だけは右に矯正された。あとは、オール左である。左右の区別は、「茶碗を持つ方が左だよ」と教えられたが、それは私を混乱させるだけだった。本当は右手で茶碗を持ちたい、そんな気持ちが強かったからである。拳を握って、力の入る方が左、左右の判別はそうして理解した。

 日常生活の中では、無数の不便さがある。トイレのウォシュレットボタンの位置。パソコンのマウスの矢印(ポインター)の向き。伝票や書類の押印の位置。クリアーファイルだって右利き用にできている。缶切りは大変だった。草刈り鎌だって使えない。最悪なのは急須、まさに「万事休す」だ。挙げれば切りがない。警察官や自衛官で、一人だけ左手での敬礼はダメだろう。握手や指切りだって、相手は右手を差し出してくる。右手で握手や指切りをしても、しっくりとはこない。

 だが、安易に左利きグッズを愛用してしまうと、いざという時、どうにもならなくなる。だから不便さを受け容れて生活している。実際、不便さが常態化し、感覚自体がマヒして不便とは思わなくなっている。ただ、生活の中心が常に「左」であるため、右社会に対する違和感は否めない。

 左利きは、全人口の一〇パーセントだという。少数派ゆえ、洋の東西を問わず、「左」にはあまりいい意味がない。「左前」、「左遷」、「左巻き」など。

 スポーツでは、左が優位に立つものもある。私も野球をやっていたが、バッターボックスに左が立つと、ピッチャーはもとより、キャッチャーが非常にイヤな感じを持つ。だが、最も緊張するのはライトだ。草野球では、守備の一番ヘタな者がライトを守る。ボールが飛んでこないからだ。若いころはよく思った。左利きばかりを集めて、打ったら三塁に向かって走る時計回りの野球をやってみたい、と。

 最も信頼される有能な部下のことを、「右腕」という。私は左腕にもなれなかった。もし、私が成功者になっていたら、今ごろは左団扇の生活をしていただろう。もっとも、左利きからすると、「右団扇」となるのだが。

 右社会は、生きにくい。

 

  2023年4月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 年を重ねてくると、予期せぬ涙に慌てることがある。涙腺の根元が、経年劣化により弛(ゆる)んでしまっているのだ。水道のパッキンのように、交換できるものならしたいのだが。そんなこともあり、できるだけ危うい場面は避けるようにしている。

 娘がまだ就学前のこと。娘の友達と三人で近所の区民館へ子供映画を観にいったことがあった。妻が風邪をひき、前からの約束ということで、急遽(きゅうきょ)、代役を引き受けたのだ。

 区民館の小さなホールは、就学前後の子供と母親で満員だった。映画は「アルプスの少女ハイジ」。まいったなあと思いながら、三人の席を確保した後、私ひとり上映会場を抜け出した。子供の映画など観ても仕方ないと思ったのだ。

 しばらくロビーでコーヒーを飲んだりして時間をつぶした。それでも時間をもてあました。あまり居心地のいいロビーではなかったので、仕方なく上映中の会場に戻った。少し眠りたいと思ったのだ。

 目を閉じて眠ろうとしながら、ついつい観入ってしまった。途中からなので、話の筋はわからない。だが、薄目を開けて観るハイジが、小さな体を一生懸命に動かして仕事をしている。その姿が健気なのだ。明るく振舞えば振舞うほど、切なさがこみ上げてくる。自然と涙が溢れ、もはや眠るどころではなくなっていた。娘とその友達は、椅子から身を乗り出し、食い入るように観入っていた。

 東京出張の帰り、羽田空港でのこと。私の乗った飛行機が駐機場を離れ、ゆっくりと動き始めた。外の様子を何とはなしに眺めていた。三人のグランド・スタッフが横一列に並んで、手を振る姿が見えた。空港ではよく目にする光景である。

 だが彼らは、仕事上の決まりだからやむなく手を振っている、というふうには見受けられなかった。全員が微笑みを浮かべながら、こちらに向かって手を振っている。作業服の中年男性に混じって、白いつなぎの作業衣姿の若い女性もいた。そんな彼らの前を、機体がゆっくりと通っていく。

 仕事とはいえ偉いな、と思いながら眺めていると、彼らはそれまで振っていた手を下ろし、通り過ぎる機体に向かって一斉に頭を下げた。三秒、四秒、五秒……深々と頭を下げる姿が次第に遠ざかっていく。それでも彼らは頭を上げない。その姿を見ながら、「ああ、日本人でよかった」という思いが胸にこみ上げた。なぜそう思ったのかは、わからない。この気持ちは、日本人にしか理解できないだろうと思った瞬間、ワーッと涙が溢れ出た。

 隣の席のサラリーマンが気になり、チラリと目をやると、すでに目をつぶって微睡(まどろみ)の中にいた。東京でのひと仕事を終え、疲れが出たのだろう。私はホッとして涙を拭った。

 今までに何度も目にしていた光景が、特別に映るときがある。油断も隙(すき)もあったものではない。

 

  2023年4月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

 

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 冬になると、よくナベをする。寒いからだ。野菜がしっかり摂れるということもある。野菜を摂取しなければ、という強迫観念にも似た思いが、私の頭にこびりついている。だが、一番の理由は、一度作ると、ほかのメニューを考える必要がないからだ。四、五日は楽ができる。大量に作るのだ。カレーを作ると、カレーだけを毎晩食べる。数年前から白米を食べるのを止めた。太るからだ。だが、それでも太る。結局、食べ過ぎているのだ。

 とにかく、月曜から金曜日までを乗り切ればそれでいい。えみ子なら〝味変〟をして違う料理に作り変えてしまう。料理のセンスがない私には、直球しか投げられない。冷蔵庫には何もないはずだが、えみ子はそれでもチャッチャと料理を作ってしまう。小麦粉と調味料さえあれば、何とかなるという。

 えみ子とは、まだ一緒に暮らしていない。会うのは、週に一度、土曜日だけである。通い婚生活を始めて六年が過ぎた。お互いの住居は八キロほど離れている。日曜日は、午後から母と妹が一緒に暮らすマンションに出かけ、ドライブがてらスーパーでの買い物に付き添う。母のもとに通い続けて十年になる。

 私は二〇一〇年、五十歳で離婚をしている。そのころは東京にいた。精神疾患を得て長患いをしていた妻が、自宅を出ていった。翌年三月、三十二年ぶりに北海道に戻った。田舎で一人暮らしをしていた母が脳梗塞になり、札幌にいる妹と住み始めた。その妹が病を得たのだ。やむなく転勤希望を出して戻ってきた。

 午後五時半に仕事を終え、自宅に戻る。スーパーを経由して食材を買ってくることもある。だいたい六時過ぎには自宅にいる。ヘトヘトに疲れているので、すぐには次の動作に移れない。食事にするか風呂に入るか。椅子に座ってボーッとニュースを観ている。しばらくは放心の体(てい)である。

 食事と風呂を済ませると、第二ラウンドが始まる。エッセイの活動に入るのだ。それは寝る直前まで続ける。

 私はエッセイの同人誌に所属している。百名ほどの会員のエッセイの添削を行っている。この九年間に五七〇本ほどの添削を行ってきた。会員の添削は、ほかの事務局スタッフに肩代わりをしてもらって、私の負担は大幅に軽減された。だが、新入会員については、半年ほど私が担当することになっている。

 三月と九月発刊の同人誌に掲載する作品の校閲作業では、百本を超える作品に目を通す。その作業は、発刊の四か月ほど前から始まる。さらに、年末に発表するエッセイ賞の選考が夏場からスタートする。こちらも百本程度に目を通し、最終選考まで行った後に選評を書く。十数名のスタッフが選考にかかわるのだが、神経をすり減らす作業になる。何をしていても選考のことが気にかかる。自分の判断が、間違ってはいなかったか、と。強迫観念のようにズッシリとのしかかってくる。そんな日々が秋から冬にかけて続く。

 このほかに不定期で、会員の自費出版本の校閲と「あとがき」の執筆がある。加えて二〇二一年から開始した自身のエッセイ集の校閲を行う。こちらは半年に一冊のペースでの発刊になっている。また、年に二度、地方新聞にエッセイの投稿をしている。この二月でちょうど二十作目だったので、十年続けたことになる。同人誌への自作の投稿も四十作を越えた。こういった作業が幾重にも重なって押し寄せてくる。その間隙(かんげき)を縫って、自身の創作活動を行う。好きでやっているのかと問われると、素直には肯(うなず)けない。気がついたら、いつの間にかそういうことになっていた。

 そもそもエッセイの添削がいけないのだ。添削を行うようになって、私のことを「先生」と呼ぶ人が出てくるようになった。指導する立場だからやむを得ないのだが、私はそのたびに「先生はやめてください」とお願いしてきた。「先生」と言われるたびに、錆びたクギを嘗(な)めるような、イヤな感覚を首筋に覚えるのだ。私は他人に〝範〟を示せるような人間ではないのだ。だが、そんなことをいちいち説明するのも面倒になってきた。次々に「先生」が現れ、手に負えなくなったのだ。座り心地の悪い思いを噛(か)み殺しながら、やむなく放置している。

 現在、私は六十三歳である。会社の方は二〇二〇年、六十歳で定年退職を迎えたのだが、引き続き嘱託員として再雇用されている。六十歳からは遊んで暮らす予定だったのだが、パートに毛の生えたような給料をもらいながら、細々と生きている。

 以前の私なら、こまめに動いて部屋の掃除も行き届いていた。それが六十歳あたりから動きが鈍化し始めた。動けずにボーッとしている時間が増えてきたのだ。その影響が顕著に現れ始めたのが、書類の整理である。整然と並べられていた書類が雑然とし出し、机の横で堆(うずたか)く積み上げられている。何がどこにあるのかわからない、そんな状態は避けたいのだが、どうにもならない。造山運動は活発化をみせ、土砂崩れを伴いながら山脈を形成し始めている。年をとるとはこういうことなのだ。

 六十代の自分の姿など、想像すらできなかった。だが、五十代が駆け足で終わると、当たり前のように六十代がやってきた。風景が変わったわけではない。それまでと何ら変わらない日常がある。だが、自分の中では徐々に浸食が始まっている。そのうち、あらゆることが億劫になり、変化を好まない〝老爺(ろうや)〟になってしまうのだろう。ああ、イヤだ、イヤだ。

 とにかく死なないように気をつけて、自分が目指す創作を行っていきたい。「生きていく傍らに書くことを置いてみる」、私が守り刀として大切に懐に秘めている言葉だ。書くことを人生の伴走者に、力尽きるまで表現者であり続けたい、それが私の理想形だ。

 年が明けて、連日氷点下二ケタの日々が続いている。低温生活の中では、ナベは欠かせない。

 

   2023年2月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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 二十代のころから、老けて見られてきた。だから服装や身嗜(みだしな)みには、それなりに気を遣っている。年を取ったら相応に見られるだろうとガマンをしてきた。ところが、加齢とともに頭がハゲ出し、後続とのキョリがますます広がるばかり。気がついたら、すでに独走態勢に入っていた。人生とはままならぬものである。

 転勤で室蘭に二年間いた。そのころ、週に二度は銭湯通いをしていた。あるとき番台の婆さんから、唐突に「お客さん、何歳?」と年齢を訊かれた。ふだんは口を利かない婆さんである。五十二歳だよというと、「あら、やだ」と恥ずかしそうにした。(あらやだ)はこちらのセリフ。ババア、何でオレの年を訊いてきたんだ? と不思議に思った。婆さんは八十代である。

 帰り際、銭湯の入り口に貼り紙があるのに気がついた。そこには、「本日敬老の日。六十五歳以上入浴無料」と雄渾(ゆうこん)な字で墨書されていた。

 札幌に異動になって十年になる。脳梗塞を患った母は、実家を引き払い、札幌で妹と共に暮らしている。休日は二人を車に乗せ、買い物がてらドライブに連れ出すのがお決まりになっている。

「年齢証明をお持ちですか」

 とあるミュージアムで受付嬢が微笑んだ。高齢者割引があるという。あいにく何も持っていなかったのだが、生年月日を言ってくれればそれでいいという。綺麗なうえに優しい女性である。母が生年月日を言うと、

「はい、いいですよ。それではシルバー二枚、大人一枚ですね」

 と朗らかに言われた。

 四年ほど前、出かけたスーパーで、母たちと同じマンションの上階に住む年配の男性に出くわした。私は初対面である。妹が親しそうに話をしていた。そのとき、私はいつものように母の車椅子を押していた。その男性は、とても生真面目で優しい人だということだった。

 昨年の秋、マンションン階下の掲示板に遺品整理業者の貼り紙があった。「荷物の搬出があり、ご迷惑を……」というもの。母たちと同じ階のご主人が亡くなり、その遺品整理のようだった。個人情報もあり、部屋番号の記載はなく、階数だけが記されていた。ワンフロア―、三世帯のマンションである。

 数日後。ゴミ出しに出た妹が、上階の男性に出くわした。おもむろに近づいてきた男性、神妙な顔でかしこまり、

「お父様、亡くなられたのですね。気づきませんで、申し訳ございませんでした……」

 深々と頭を下げられたという。

「いえ、いえ、あれはうちじゃないんです……。お隣のご主人ですよ」

 そう言いながら、(お父様?……)と思った瞬間、妹はピンときた。とんでもない間違いをしてしまったと思った男性、気の毒なほど慌てふためいていたという。あのとき一緒にいたのは兄だという説明も、上の空だったとのこと。

「あんた、とうとう殺されたわ」妹から嬉しそうな電話がきた。

 四年前の私は五十九歳。母は八十四歳だ。妹と私は一歳九か月違いである。一体、私はいくつになったら、年相応に見られるのだろうか。

 

  2023年1月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

 

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