陽性者になる ~ 新型コロナウイルスに感染して ~ | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

  (一)

「大変! コロナになっちゃった。喉(のど)、全然よくならないし、微熱あるなーって思ってて……。まさかと思ったけど、抗原キット使ったら、陽性だった。まいったー ごめんねー」

 えみ子からのLINEを受け取ったのは、二〇二二年十一月二十四日(木)の午後六時近くのことであった。この時、私は娘夫婦の家にいた。二十三日(祝)から四泊の予定で、長野県にいっていた。

(ということは……、オレって……、濃厚接触者か?)

 そういわれると、喉に違和感がないでもない。前夜、調子に乗ってけっこう酒を飲んだので、鼾(いびき)のせいだろうと思っていた。そんなことはよくあったが、夜になっても違和感が残っていた。そのことを娘に告げると、考え過ぎだと一蹴(いっしゅう)された。娘婿も小学一年生になる孫も数か月前に感染を経験していた。近所に住む孫の小学校の友達やその家族は、すでに一通り感染を終えていたが、私の娘だけが感染を免れていた。感染慣れもあって、えみ子の感染は冷静に受け止められた。

 この日は平日で、孫は学校へ、娘夫婦はそれぞれ仕事に出かけていた。私は一人、長野の街中を気ままに歩きまわっていたのだ。前夜の土砂降りの雨の余韻があり、天気は今ひとつパッとしなかった。十五キロも歩いただろうか、かなりの疲労を覚え、途中、見つけた日帰り入浴施設でくつろいでから戻っていた。

 えみ子は、二十二日の夜に微熱を感じ、早々に就寝していた。この日、うたた寝をしたときに、寒気を覚えたという。翌日には熱も下がり、単なる寝冷えだったと思い、予定通り私を新千歳空港まで送ってくれていた。えみ子とはまだ籍を入れずに、別々に暮らしている。

 私の運転する車の助手席に彼女はいたのだが、いつものように終始マスクをつけていた。彼女は、エステという仕事柄、他人に直に接触するため、感染には人一倍気を遣っていた。空港での買い物にも付き合ってもらって、一緒に昼食を摂った。アクリル板が会話の邪魔だったので、えみ子の隣に並んで座った。小食のえみ子はいつも食べ残しをする。このときもえみ子の残したラーメンの具を食べ、スープも二、三口飲んでいた。

 

 三週間ほど前のこと。

「……そんなこと言ってたら、三年も四年も会えないことになるよ」

 電話口の娘が強い口調で言った。後半は涙声になっていた。十一月に遊びにきてくれと言われたのだ。こんなに急だと航空券も高いし、コロナだってひどいことになっているから、春になったらいくよと答えていた。それに対し、娘は語気を強めたのだ。

 考えてみると、娘家族とはもう三年も会っていない。春にいける確証もなかった。当初は娘たちが十一月に遊びにくることになっていたのだが、都合がつかなかった。それで、私にきて欲しいというのだ。そんな経緯があり、二十三日から娘のところを訪ねていた。

 

 翌二十五日、この日も平日なので一人で出かけた。前日までの曇天とは打って変わって、朝から冬晴れの青空が広がっていた。三千メートル級の北アルプス連峰が圧倒的な存在感で街を見下ろしていた。山脈が空中に浮かんでいる、そんな表現の方が的確かもしれない。群青色の山の頂(いただき)は、食塩のように真っ白な雪を冠している。とりわけ北の端、白馬あたりは、神々しいほどに白く輝く峰が連なっていた。冬枯れの田んぼ道のあちらこちらに、実を残した柿の木が点在している。その背後に白銀の連山と青空があり、柿の朱が鮮やかなコントラストをなしていた。〝信州〟というにふさわしい風景だった。

 途中見つけた調剤薬局で、抗原検査キットを求めた。薬局の駐車場では、店が開くのを待っていた人が、車の中で検査を受けていた。数日前のネットニュースでは、十万人当たりの感染者数で、北海道がダントツのトップで、次が宮城県、長野県は第三位だった。コロナがすぐ傍らにいた。

 この日私は、日がな一日、図書館で過ごした。途中、昼で仕事を終えた娘と昼食を摂り、私は再び図書館に戻っていた。娘は学校まで孫を迎えにいって、そのまま自宅に孫の友達を呼んで遊ばせるという。私は所属同人誌の会員がエッセイ集を出版する予定になっており、そのゲラを持参していた。原稿の校閲と、「あとがき」を頼まれていたのだ。

 夕方、娘の家に戻ると、子どもたちがまだ遊んでおり、孫と四人でギャーギャー騒いでいた。私は子供たちとの接触を避けるように、真っすぐに二階へと上がった。買ってきた検査キットを取り出し、手順に従って検査を行ってみた。結果は陰性だった。

 喉には、いがらっぽさが残っていた。時折、微熱の気配がある。三六度八分や九分になるのだが、すぐに三六度二分とか五分に下がるのだ。翌二十六日は土曜日で、学校も会社も休みなので、四人でどこかへドライブに出かけるつもりでいた。だが、濃厚接触者の私と長時間密室の車内で一緒に過ごすことは、どう考えても好ましくない。いろいろ思い悩んでいたが、予定を一日繰り上げ、翌二十六日の朝、札幌に戻ることを決めた。そう決めたのは、日付が変わった時間になってからだった。

 

 (二)

 札幌―長野間は、幸いにも飛行機の直行便がある。だが、その運航時間に問題があった。行きは新千歳空港十五時十分発(信州松本空港着十七時)で、帰りは信州松本発午前九時十五分(新千歳着十時五十分)なのだ。一日一便ゆえ、この時間だと行きと帰りの二日間が、まるまるムダになる。この空路は、長野の人が北海道に遊びにいきやすい時間設定になっていた。

 ほかの経路としては、東京経由がある。新千歳―羽田間が一時間半で、そこからJR特急あずさで三時間である。空港や駅までの時間などを考慮すると、片道八時間を超える。旅費も割に合わない。だから今回、思い切って二十三日からの四泊五日にしたのである。それでも、皆で自由な時間が持てるのが、二十六日(土)の一日だけだった。三年ぶりにせっかくきたのだから……、決断を躊躇(ちゅうちょ)させていたのは、そんな思いがあったからだ。

 万一、私が発熱した場合、十二月二日まで娘の家で缶詰になってしまう。それだけは避けたい。調べてみると、二十六日の飛行機はすでに満席だった。二十七日の航空券は、「変更不可」と記されている。だが、なにがなんでも、帰らなければならない。二十七日の航空券は捨てて、東京経由で帰るより方法がない。特急あずさで新宿へ出て、羽田から飛行機に乗る。空港で発熱が判明し、東京のホテルに缶詰めになる、そんな可能性を考慮に入れての決断だった。

 一方のえみ子は、同居している長女への感染を避けるため、二十六日からホテル療養を行っていた。彼女の症状は喉の違和感と、若干の咳(せき)と鼻づまりで、熱はなかった。軽い風邪症状といったところだった。

「ごめん、ほんとゴメン。せっかくの家族団欒(だんらん)だったのに……」

 私と娘家族の時間を奪った申し訳なさで、えみ子は小さくなっていた。この感染は、誰がどこで地雷を踏むかわからない。今回は、たまたまえみ子がもらってきたに過ぎない。お互い様だ。えみ子の感染がわかったときも、彼女を攻める気持ちは少しもなかった。私の娘家族も、こんな時期だからやむを得ぬことと割り切っていた。「えみさんには気にしないでと伝えてね」そんな言葉を何度も聞いた。

 こういう経験は、稀有(けう)なことである。のちに振り返って「あのときは、散々だったよな」、それでいいのだ。むしろ、有意義な体験として受け止めるべきことである。今回の残念な時間は、後にいくらでも挽回できる。

 

 二十六日の朝、娘婿に送ってもらい、午前八時過ぎに娘宅を出てJR松本駅へと向かった。あずさは初めてだった。

「八時ちょうどのあずさ二号で……」昭和の時代にはやった狩人の歌「あずさ二号」が頭の中で何度も何度も巡っていた。車窓を流れていく物珍しい地名に感心しながら、旅気分を味わっていた。発熱の兆候はなかった。

 車窓の景色も八王子を過ぎると東京の気配が漂ってくる。終点直前に新宿副都心の高層ビル群が出てきて、その景色がクライマックスに達した。東京も三年ぶりである。新宿駅のホームで耳にした山手線の発車メロディに、懐かしさが込み上げる。しかし、どこかに立ち寄ろうかという気分にはなれず、そのまま羽田へと向かった。

 浜松町駅から乗ったモノレールで戸惑った。ANAが羽田空港第一ターミナル駅だったか、第二がJALだったか。第三って何だっけ? 三年のブランクである。

 空港の保安検査場を通過し、機内の座席に座って、ホッと一息をつく。喉のいがらっぽさはあったが、発熱の気配はなかった。脱出は成功である。ダメだと諦めていた二十七日の信州松本―新千歳間の航空券代が、羽田のカウンターで払い戻された。チケットの変更はできないが、キャンセルは可能だという。なんだかよくわからないが、とりあえずはホッとした。

 午後五時過ぎ、電車と地下鉄を乗り継いで、自宅にたどり着く。長野を出てから九時間が経過していた。地下鉄を上がると、すでに辺りは真っ暗である。凍てついた夜道にキャリーバッグの音が寒々と響き渡った。

 

 (三)

 自宅に戻った私は、荷物を投げ出すように置き、すぐに近所のスーパーへと向かった。感染・発熱に備え、食料品の買い出しに向かったのだ。数時間前まで長野や東京にいたことが、夢の中の出来事のように思われた。両手にずっしりと食い込む荷物の重さに、嫌が応にも現実に引き戻された。

 洗濯をしながら風呂に入り、一息ついたところで悪寒を覚えた。午後八時を回っていた。体温は三七・七度。一時間ほどして悪寒が落ち着いた。前夜に続けて、抗原検査を行ってみる。キット中央の白地の小窓に二本のラインが現れた。陽性反応である。覚悟はできていたが、「コロナ患者になってしまった」という思いが覆いかぶさってきた。娘とこの日からホテル療養に入っているえみ子にその旨をLINEで伝える。次に、札幌市保健所のホームページから陽性者登録を行う。手持ちのロキソニンと解熱剤を飲んで布団に入った。娘に感染させてはいないだろうか、それが心配だった。

 翌十一月二十七日(日)、保健所からメールが届く。私の発症日が二十四日で、療養期間が二十四日から翌十二月一日までの八日間である旨が記されていた。このときから十二月一日まで、その日の最高体温や体調をメールで報告することになる。会社の総務課長へは、二十五日の濃厚接触者報告に次いで、陽性者となった旨を連絡。二十八日の月曜から、リモートでの仕事を申し出る。

 この日は、夜からひどい悪寒を覚えた。喉の違和感が痛みへと変化し、鼻の奥にまで刺すような痛みが広がっていた。思わずマスクをつけて就寝。高熱を覚悟したが、三八・一度で治まった。解熱剤のせいもあるが、これまでに接種した四回のワクチンが功を奏しているのではないかと思われた。えみ子の次女のところでは、ワクチンを接種していない。ダンナと一歳九か月の子が、四〇度を超す高熱を発した。次女も三九度近くまでいっていた。四回のワクチン接種を受けていたえみ子と私は、三八度台の前半止まりだった。えみ子の感染は、この次女の子、つまり孫からである。身内からでは、防ぎようがない。

 新型コロナ感染症は、現在(二〇二二年十二月)、第八波の入り口で高止まりしている。私が感染したのは、オミクロン株のBA1かBA4-5なのだろう。病院へはいかず、ただじっと療養期間が終わるのを自宅で待つのだ。それだけで感染力がなくなるという。症状は風邪薬で押さえるしかない。そもそも抗原検査キットを使って調べなければ、単なる風邪で終わっていた。つまり、軽い風邪だと思い、市販の風邪薬を飲みながら治ってしまう人が相当数いるということである。まったくの無症状者もいるのだから、感染を防止する手立てはない。

 重症化をもたらす基礎疾患さえなければ、罹患によって抗体を獲得していくというのは、ある意味、自然の流れなのかもしれない。現に子供のいる家庭では、子供が学校や幼稚園などからウイルスをもらってきて、あっという間に家族が全滅してしまう。防ぎようがないのだ。

 世界の感染による死者数は、二〇二二年十二月三十一日時点で、六七〇万人。うち米国がダントツで一一二万人。日本は五万七〇〇〇人である。これまでに七〇〇万人近くが新型コロナで亡くなっている。パンデミックの脅威を改めて思い知らされた。

 ニワトリならば、鳥インフルエンザがみつかった時点で、半径三キロ圏内にある養鶏場のニワトリは否応なく殺処分である。徹夜の作業だ。その数は何十万羽という数に上る。ニワトリにしてみれば、たまったものではない。この方式で人間もやられたらと考えると、ゾッとする。

 翌二十八日の夜には、えみ子の次女が風邪薬とゼリー、飲み物などを玄関先まで届けてくれた。これには助かった。解熱剤を飲んでいるので、熱は上がらない。だが、さすがに体調は悪い。自宅療養中、可能な限りリモートワークを行った。同時に、自費出版本の校閲をしながら「あとがき」を書いたり、年賀状の作成を行っていた。暇だと感じることはなく、むしろ時間が足りないほどだった。

 十二月一日(木)、自宅療養最終日。前日にホテル療養から解放されていたえみ子が訪ねてくる。若干の鼻声と時おり咳き込む症状は、私とまったく同じだ。いつもながら、手際よく、料理を作ってくれた。

 翌日からの出勤を前に、念のために抗原検査を行う。「陰性になりました」と胸を張って出社するつもりでいた。だが、結果は二本線が出た。陽性反応である。慌てて保健所のサポートセンターに連絡し、折り返し看護師から電話をもらった。一度、陽性反応が出ると、人によっては一か月から二か月は、陽性反応が出てしまうという。すでに感染力はないので、十二月二日から出社しても問題はないという。しかしながら、今後一週間は、用心をする必要がある。他者への感染が、完全にゼロになったとは言い切れないというのだ。

 

 十二月十七日、三度(みたび)の抗原検査キットを使用してみる。結果は陰性だった。これまで日曜日ごとに母と一緒に暮らす妹のもとを訪ねていた。ドライブがてらスーパーでの買い物を行うのだ。最後にいったのが十一月二十日だったので、一か月ぶりとなる。抗原検査で陰性が出るまで、こないで欲しいと妹から言われていた。母も妹も重篤な基礎疾患をもっている。万が一感染させた場合、取り返しのつかないことになる。そんな思いが妹にはあった。これほどまでに二人のもとを訪ねなかったことは、この十年間で初めてである。辛抱を強いてしまったことを申し訳なく思った。

 コロナ感染から一か月が経過した時点で、喉の違和感や鼻詰まりはなくなっていた。だが、時おりの咳き込みが完全に消えるまでには、さらに一か月近くを要した。それはえみ子も同じだった。

 

 長野で仰ぎ見た北アルプス連峰が目に焼き付いている。遠い山はどこまでも青く、群青色の山裾の頂(いただき)に冠した雪は、神々しいばかりの輝きを放っていた。畏敬の念を抱かせる風景であった。

 

 

付記

【会社宛 報告書(eメール) 二〇二二年十一月二十七日(日)】

 このたび、新型コロナ感染症の抗原検査で陽性となりましたこと、大変、ご迷惑をおかけします。発症の経緯をまとめましたので、ご報告いたします。

〈発症までの経緯〉

 私には内縁の妻(以下 妻)がいます。彼女とは生活を共にはしていません。私は十一月二十三日から二十七日までの予定で娘夫婦がいる長野県へいってきました。その際、妻が新千歳空港まで車で送ってくれました。空港で一緒に昼食を摂っています(それ以前、最後に彼女に会ったのは十一月十九日です)。

 その前日(十一月二十二日)、彼女に微熱があったようですが、翌日には熱が下がったため、単なる風邪だと判断したそうです(抗原検査結果は、陰性)。

 十一月二十四日、妻に再び風邪の症状が出たため、念のため抗原検査を行ったところ、陽性反応が出ました。感染経路は、彼女の孫(一歳九か月)からだろうと思われます。

 これにより、十一月二十三日が私の濃厚接触者初日となりました(二十四日の夕方、その旨連絡済)。十一月二十四日の夕方、喉に違和感を覚え、検温したところ、三六・八度でした。十一月二十五日、喉の違和感、軽い咳、最高体温は三六・九度。夕方、抗原検査を行ったところ、陰性反応でした。

 しかしながら、時おり微熱の気配を覚えたため、札幌に戻れなくなることを懸念し、予定を早めて十一月二十六日に札幌に戻ることにしました。二十六日の飛行機はすでに満席だったので、JRを使って東京経由で戻ってきました。自宅に戻り、夜になって若干の発熱(三七・七)があったため、二度目の抗原検査を行った結果、陽性反応が確認されました。その日のうちに札幌市のHPから発症登録を行っております。

 以上の経緯を保健所の基準に倣ってまとめますと、次のようになります。

 

  ・診 断 日   二〇二二年十一月二十七日(陽性者登録 十一月二十六日)

  ・発 症 日   二〇二二年十一月二十四日(症状初日)

  ・療養期間  二〇二二年十一月二十四日~十二月一日(発症日+七日)

  ・療養解除  二〇二二年十二月二日(出勤可能)

 

 現在は、喉の痛み、咳、鼻水で、いずれも軽微な風邪のような症状です。発熱はありませんが、まだ、何とも言えない状況です。

 

  2022年12月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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