ふるさと様似 | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 私の生まれ故郷は、北海道の太平洋岸に面した小さな漁村、様似町(さまにちょう)である。

 現在、私は札幌で暮らしているが、街中で〝様似〟を目や耳にする機会はほとんどない。たまに‶様似〟に出会うことがあると、ドキッとして胸がギュッとなる。同じ北海道でも、なかなか訪れる機会のない、交通の便の悪い土地である。そんな不便なところに、私のふるさとはある。だからいいのだ。

 様似町は、えりも岬を擁するえりも町とサラブレッドの浦河町に挟まれている。現在(二〇二三年時点)の様似の人口は、四千人を切ってしまったが、私がいたころはその倍を超す人々が暮らしていた。ここら一帯はサラブレッドと日高昆布の一大生産地である。私は中学を卒業するまでの十五年間を、この様似で過ごした。

 高校から大学にかけて札幌、京都とそれぞれ四年、東京には二十八年いた。その後、室蘭で二年、再びの札幌で十年になる。その合計が六十三年で、それが私のすべてである。様似で暮らした日々は、六十三年間の人生の、二三・八パーセントに過ぎない。だが、私の基本的な仕組みは、この様似で作られた。様似の海と山が私の主成分である。

 東京にいたころ、久しぶりの帰省で幼なじみや知り合いに出くわすと、

「おッ! いづ来たぁー?」

「きのうだ」

「いづ帰る?」

「あさってだ」

「あれ……」

 挨拶も何もない。

「ガニ(毛ガニ)食うが?」

 何年ぶりかで出会っても、大方、こんなやり取りで万事が終わる。「こんにちは」という言葉自体、存在しないのだ(こんなことを言ったら、様似の人にぶん殴られそうだ)。素の自分でいられるホッとできる時間、それが様似でのひと時だった。

 都会での暮らしは、私に計り知れない影響を及ぼした。私を大きく変えたことは事実である。だがそれらは、いずれも様似で作られた私の基本構造の増築部分に過ぎない。私の芯は、‶様似〟なのである。だから、私を輪切りにすると、どこを切っても様似なのだ。そんな感覚が、私の細胞の隅々にまで沁(し)み込んでいる。

 先ごろ、自宅近くの場末のスナックで飲んでいたときのこと。客はいつものように私一人であったが、途中から会社の上司と部下と思しき男女二人連れが入ってきた。何の話からか、様似出身であることを口にすると、

「あらッ! そう言われてみると、なんだか様似顔してるわ」

 四十代前半の女性から言われた。‶様似顔〟などという言葉は初めて耳にしたが、なんだか少し嬉しい気分になった。浦河出身の女性で、父親は遠洋漁業の漁師だったという。ただ、浦河からみると様似は田舎なのである。その女性から、少し小バカにしたような、そんな上から目線を感じた。ほどよく酔いが回っているようだった。私からすると、‶目クソ、鼻クソを笑う〟で、思わずニヤリとしてしまった。

 二〇一四年に様似高校が閉校になった。二〇二一年には、JR日高本線も廃線に。それまで様似は終着駅だった。ただ、地元の側からすると、始発駅ということになる。人生はこの駅から始まった。また、人によっては様々な事情があって〝戻ってきた駅〟でもある。‶迎え入れてくれた駅〟‶受け入れてくれた駅〟と感じている人もいるだろう。だから、廃線後も駅舎は、特別な愛着を持って守られている。

 大学生のころだったと思うが、様似駅では乗客が希望すると発車の際に駅構内に音楽を流してくれた。三曲の中から選択するのだ。「蛍の光」と山口百恵の「いい日旅立ち」、もう一つが何だったか思い出せない。私はもっぱら「いい日旅立ち」に送られてふるさとを後にしていた。無人駅になってからは、それもなくなってしまった。

 ふるさとへの帰省には、長距離バスではなく、もっぱらこのJR日高本線を利用してきた。海岸沿いと牧場の中を縫うようにしてひたすら走る。一両編成のディーゼル機関車だ。町の人は「ジーゼル」(=ディーゼル)とか、単に「汽車」と呼んでいた。間違って「電車」とでも言おうものなら、「都会かぶれ」と思われてしまう。

 窓外には牧場が広がり、群れをなしたサラブレッドが点々と草を食(は)んでいる。牧場(まきば)の香りが胸に満ちる。干し草の匂いに、「あ、一番牧草の刈り取りの時期だな」と思ったりする。

 夏場、海岸沿いを走ると、干した昆布で前浜が真っ黒になっている。昆布の香りが一帯に満ちているのだ。この香りを嗅(か)ぐと、涙ぐむほどの懐かしさが溢(あふ)れてくる。匂いに刻まれたふるさとの記憶である。

 私が最後に様似駅に降り立ったのは、二〇〇九年七月である。前年に様似で一人暮らしをしていた母が脳梗塞に倒れ、札幌にいる妹と暮らし始めた。空き家になってしまった実家をたたむために、様似を訪れたのである。当時住んでいた東京・練馬の自宅を出てから、九時間の長旅だった。アルバムなどの必要最小限のものだけを持ち出し、あとは近所にいる母の兄である伯父夫婦に処分をお願いした。

 それ以降は、墓参りで訪ねるだけになってしまった。その墓も二〇二〇年には墓じまいし、父の遺骨は札幌の納骨堂に安置した。それでも年に一度は、ドライブがてら様似を訪れている。母も連れていきたいのだが、往復三八〇キロの行程は、もうムリである。

 浦河を過ぎ、様似の鵜苫(うとま)の集落を抜けると、海の中にロウソク岩が立っている。その脇の塩釜トンネルを潜(くぐ)ると、もう右手は親子岩だ。心臓がドキッとする。親子岩イコール様似なのだ。海岸沿いを進むに従い、一塊に見えていた親子岩が二つに分かれ、最後まで母岩に寄り添っていた小岩も離れて三つになる。左側にはソビラ岩も見えてくる。高校一年のひと夏、私はこの親子岩の前浜で昆布干しのアルバイトをしたことがあった。キラキラとした想い出として、今も私の中に残っている。

 親子岩を正面に見ると、背後はかまぼこ型の観音山である。国道を道なりに進んでいくと、今度はエンルム岬が出てくる。そのエンルムの手前を大きく左に曲がると、群青のアポイ岳が忽然(こつぜん)と姿を現す。そのダイナミックな光景に息を呑む。様似だ、という思いが胸に満ちる。

 日高山脈から連なるアポイ岳の稜線は、なだらかなカーブを描きながら太平洋に落ちていく。この一帯は日高山脈襟裳国定公園であり、世界ジオパークに認定されている。アポイ岳の高山植物群は、国の特別天然記念物にもなっている。二〇二三年度には、国立公園への格上げが決まっていて、間もなく日本最大規模の国立公園が誕生する。

 様似の街中を走っていても、人を見かけることは、めったにない。以前には、名前は知らないが、「顔見知りのおじさん」や「どこかで見たことのあるおばさん」によく出くわしたものだ。稀にそんな人を見かけると、「この人、まだ生きていたんだ……」感嘆とともに大きな驚きを覚える。皆、すっかり年老いてしまった。

 車を走らせていると、かつては「ん? 誰だ?」という顔を向けられたものである。札幌ナンバーの車は、ここでは〝よそ者〟なのだ。いつの間にか自分がよそ者になっていた。そんなことに愕然(がくぜん)としたものである。

 だが、私には確たるアイデンティティーがある。自分が自分であることの拠(よ)りどころがこの町なのだ。それは親子岩であり、エンルム岬、アポイ岳である。「エンルム岬(さき)につつまるる……」旧様似小学校の校歌の歌い出しだ。五年生のとき、近隣の分校と統合されるまでは、この校歌であった。二番は「アポイヌプリのお花畑……」。中学校は「雲ひかるアポイ……」である。

 これらの校歌を今でも朧気(おぼろげ)ではあるが、口ずさむことができる。それは、自分が様似者(さまにもの)であることのゆるぎない証(あかし)だ。

 地元には、アポイ岳ファンクラブという有志の集いがある。「アポイ岳がいつまでもアポイであり続けるために」という思いを胸に、登山道の整備や高山植物の保護活動などを行っている。自分たちの山を守っている人々だ。人が入ると、どうしても山は荒れる。加えて気候変動が、デリケートな植物群に大きな影響を及ぼしている。

 様似自体も「消滅可能性都市」とささやかれて久しい。非情な言葉である。ふるさとの山は、そんな町の人々によって守られている。

 

  2023年4月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

 

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