内向する心 | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 私は昭和三十五年(一九六〇)に北海道の片田舎、様似町(さまにちょう)で生まれている。そこは、太平洋に面した小さな漁村で、一帯は日高昆布とサラブレッドの一大生産地である。

 町(ちょう)が牧場の中に初めての公営住宅を造った。結婚してから銭湯を営む母の実家に居候していた両親は、そこに移り住む。私が一歳から小学五年までを過ごした家である。自宅の目の前が牧場であり、その先に太平洋が広がっていた。背後も牧場で、低い山々がグルリと周囲を囲んでいた。

 夕方になると、母に手を引かれ、一升瓶をもって牧場に牛乳を買いにいった。乳牛が五、六頭いて、裸電球の下で搾乳が行われていた。周りに街灯がなかったので、日が沈むと漆黒の闇に包まれる。懐中電灯を持たなければ、外出がままならなかった。夏になるとホタルが飛び交い、晴れた日には怖いほどの星が出た。

「おばんでした。気持ち悪い空だね」

 星づく夜(よ)には、そんな会話がよく聞かれた。月明りは道を照らすが、星明りは恐怖心を煽(あお)るだけだった。プラネタリウムを凌ぐ天球に、煙るような天の川が横たわっていた。その光景は、美しいというより、やはり気持ちの悪いものだった。

 幼いころの私は内気だった。極端な人見知りで引っ込み思案、いつも母の陰に隠れていた。母の知り合いから、「こんにちは」と言われても、一度も挨拶を返したことはなかった。

 当時の子供たちは、同学年だけで遊ぶということをしなかった。小学校低学年から中学生くらいまでが、混然一体となって遊んでいた。鬼ごっこやかくれんぼや缶けり、男の子はビー玉遊びや、パッチ(めんこ)、女の子はゴム跳びやけんけんぱやおはじきなど。私はいつも遠巻きにそんな彼らの遊びを眺めていた。彼らと一緒に遊べるようになったのは、かなり後になってからである。集団の輪の中に入っていけない子供だった。

 幼稚園の学芸会では、すべての演目の参加をボイコットした。木琴の演奏も、私のところだけポツンと空いていた。合唱も劇にも出ずに、舞台の下で親たちに紛れて眺めていた。担任の先生が何度も私のところにきて出ることを促したが、私は頑(がん)として拒絶した。

 自宅に戻ってから、母に泣かれた。初めて目にする母の涙に、胸が抉(えぐ)られるほどの衝撃を覚えた。だが、それで引っ込み思案が治ることはなかった。とにかく人前で何かをするのが嫌で、小・中学生を通して、演劇にかかわったことは一度もなかった。親には申し訳ないことをしたと思っている。

 私は一人遊びが好きだった。目の前の牧場と住宅地との境は、二メートルほどの深さの側溝で区切られていた。土を掘り下げただけの溝の側面には、春になると様々な植物が新芽を出した。幼いころの私は、側溝に入り腹這(はらば)いになって、黄緑色やほんのりと赤みを帯びた山野草の芽を眺めていた。植物の芽吹きは、長い冬から解き放たれた喜びだった。そのときの土の匂いは、浅い春の感触として、いまだに私の中に残っている。

 長じてくると、私は山に入るようになっていた。斜面に寝転んで、深く積った腐葉土をかき分けて植物を探していた。雑木林の中を駆け抜け、山ぶどうの蔓で遊んだり、小さな沢の水の湧きだすあたりで、ヤチブキやセリ、ミズバショウなどを眺めていた。そんなことが楽しくてならなかった。

 小学校三年生の時だった。担任の若い女性の先生が、

「ケンくんは、家ではいつも何をして遊んでいるの」

 と訊いてきた。山で遊んでいることを告げると、

「今度、先生も連れていってよ」

 そんなことを言って、日曜日に遊びにきたことがある。先生は、三キロほどの田舎道をどうやって訪ねてきたのだろう。当時は国道を含め、道路の大半が未舗装であった。そのときは、同じクラスの男子も加わり、七、八人で山に入った。

 そこは、けもの道すらない山の中の、私だけの秘密の場所だった。自宅から遠く離れた深い山の中で、私の遊び場を見る先生の目は、驚きに満ちていた。そんなところで遊んでいることを怒られるのではないかと、内心ビクビクしていた。だが、先生は、私を咎(とが)めることをしなかった。

 先生は、休みを返上してわざわざ訪ねてきたのである。それほど私は不可解な子供だった。私という子供を理解するには、そんな行動が必要だったのだろう。

 そのころを境に、私は友達の輪の中に入っていけるようになった。孤立していた私を案じた先生が友達に話して、さりげなく私をサポートしてくれていたのかもしれない。

 

 長じるにつれ、極端な私の内向性は影を潜めていった。だが、完全になくなったわけではなかった。そんな自分を克服したい、という強い思いが私にはあった。大学に入ってすぐのころ、落語研究会に入るべきか、真剣に悩んだのもそのためである。結局、英語を克服するため、ESS(英語研究部)に入部した。英語弁論大会に出たり、ディベートの試合にも出たが、人前での上がり症は克服できなかった。

 二十代後半から三十代にかけては、会社の同僚の結婚式の司会をずいぶんと行った。総務課にいたので、それも仕事の一環だった。この機に乗じて、自分を克服したいという思いがあった。

 その結果、趣味はと訊かれたら、「結婚式の司会」と答えるほどになっていた。横浜のとあるホテルでは、披露宴の後、司会のアルバイトをしないかと誘われたこともあった。人前での強い緊張をコントロールし、いい方向への力に変える、そんな方法をいつしか身につけていた。

 会議での議事の進行や社内のイベントの司会を一手にこなすようになっていた。会社では、社内旅行やスポーツイベント、花見や納涼会など様々なイベントがある。それらを企画し、積極的に参加していた。だが、皆が楽しんでワイワイやっていることには、まるで興味が持てなかった。

 社内旅行の終日フリーの日には、社員をアトラクション施設に解き放ち、私は一人で街中を歩きまわっていた。見知らぬ街の裏道ばかりを歩いていた。床屋で散髪したり、図書館を覗くのも好きだった。

「近藤さん、また床屋、いったんですね」

 社内旅行で床屋にいく男として、私は有名になっていた。店主とお客が方言丸出しで無防備に会話する、そんな光景を楽しんでいた。

 多くの社員が嬉々として参加しているゴルフなどは、まるで興味が持てなかった。それが私の個性だと、密かに思っていた。周りから見れば、単なる〝変わり者〟である。

 こういった私の性質は、幼いころからの内向性由来であると思っている。頑張って自分のマイナス要素をプラスに転じてきた。だが、不完全燃焼の部分がシコリとなって存在している。私と社会とのズレの部分である。それこそが、‶私〟なのだと思っている。

 

  2023年5月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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