右社会に暮らす | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 私は左利きである。

「へー、ギッチョなんだ」

 かつては、よくそんなふうに言われた。相手に悪気はない。「左利き」や「サウスポー」はまどろっこしい。「ギッチョ」の方が言いやすいのだ。「あら? あの人、どうしたのかしら。ビッコひいてるわ」のビッコと同じ感覚である。だが現在は、いずれも差別用語として使われなくなった。

 私は見取り図などを書いていて、鏡に映したように正反対に書いてしまうことがある。言われて初めて気がつく。かなり意識していないと、今でもそうなってしまうのだ。また、左右が瞬時に判断できないことがある。

「この交差点を右折して」と言われ、一瞬、戸惑う。幼いころ、「小学校へ入れないよ」と脅され、鉛筆と箸を持つ手だけは右に矯正された。あとは、オール左である。左右の区別は、「茶碗を持つ方が左だよ」と教えられたが、それは私を混乱させるだけだった。本当は右手で茶碗を持ちたい、そんな気持ちが強かったからである。拳を握って、力の入る方が左、左右の判別はそうして理解した。

 日常生活の中では、無数の不便さがある。トイレのウォシュレットボタンの位置。パソコンのマウスの矢印(ポインター)の向き。伝票や書類の押印の位置。クリアーファイルだって右利き用にできている。缶切りは大変だった。草刈り鎌だって使えない。最悪なのは急須、まさに「万事休す」だ。挙げれば切りがない。警察官や自衛官で、一人だけ左手での敬礼はダメだろう。握手や指切りだって、相手は右手を差し出してくる。右手で握手や指切りをしても、しっくりとはこない。

 だが、安易に左利きグッズを愛用してしまうと、いざという時、どうにもならなくなる。だから不便さを受け容れて生活している。実際、不便さが常態化し、感覚自体がマヒして不便とは思わなくなっている。ただ、生活の中心が常に「左」であるため、右社会に対する違和感は否めない。

 左利きは、全人口の一〇パーセントだという。少数派ゆえ、洋の東西を問わず、「左」にはあまりいい意味がない。「左前」、「左遷」、「左巻き」など。

 スポーツでは、左が優位に立つものもある。私も野球をやっていたが、バッターボックスに左が立つと、ピッチャーはもとより、キャッチャーが非常にイヤな感じを持つ。だが、最も緊張するのはライトだ。草野球では、守備の一番ヘタな者がライトを守る。ボールが飛んでこないからだ。若いころはよく思った。左利きばかりを集めて、打ったら三塁に向かって走る時計回りの野球をやってみたい、と。

 最も信頼される有能な部下のことを、「右腕」という。私は左腕にもなれなかった。もし、私が成功者になっていたら、今ごろは左団扇の生活をしていただろう。もっとも、左利きからすると、「右団扇」となるのだが。

 右社会は、生きにくい。

 

  2023年4月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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