つれづれなるままに、愛子先生 (1)~(7) | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 (一)

 私がエッセイを書き始めたのは二〇〇〇年、ちょうど四十歳になった年からである。二年後の二〇〇二年八月、公募雑誌で見つけたエッセイ賞に初めて作品を応募する。自分の書いてきたものが、世間一般に通用するものなのだろうか、という疑念がわいてきたためである。

 十二月初旬、忘年会が跳(は)ね、したたかに酔って帰宅すると、優秀賞という受賞の報せが待っていた。発表が年明けだと思っていたので、息が止まった。酔いが吹き飛び、その夜は興奮のあまり寝つけなかった。その時の作品が「祝電」で、選考委員が佐藤愛子先生だった。

 第八回随筆春秋賞の表彰式は翌二〇〇三年五月、世田谷のイタリアンレストランを貸し切って行われた。そこで、私は誘われるままに随筆春秋に入会した。二、三年も入っておけば義理も立つだろうと思ったのだ。そして今に至っている。

 それまで私は、佐藤愛子先生の本を一冊しか読んだことがなかった。『日当たりの椅子』である。北海道の実家にあったものだった。賞をもらって、選者の作品を読んでいないのはマズイだろうと思い、読み始めたら止まらなくなった。結果、販売されている先生の本を全冊読み、絶版本は古本屋を歩き回って、文庫になったものはすべて入手した。その数は、新書や新装版の単行本を含め二〇五冊(二〇二三年四月現在)になる。

 愛子先生に初めてお会いしたのは、それからさらに二年後の、二〇〇五年六月のことだった。私は随筆春秋の事務局員になっており、メンバー八人とともに世田谷のご自宅を訪ねている。『随筆春秋』二十三号に発表した「三億円のおひたし」の講評をもらいにいったのだ。当時、先生は八十一歳で、私は四十五歳だった。

 私はすでに先生のあらかたの著作を読んでいただけに、異様なほどに緊張していた。ご自宅の前に立った時、「これが作品の舞台になった家なのか」と震えた。門の脇にある桜の大木に見覚えがあった。作品の中で何度もお目にかかっていた。「佐藤愛子」と正々堂々と書かれた表札を目にし、「さあ、いよいよだ」と血圧が跳ね上がった。この表札も作品の中で知っていた。私は数日前から緊張しており、すでに活きのいいサンマのように反り返っていた。

 玄関から出てきた先生を見て、「うわー、本物だ! 動いている」「こんな声なのか!」「若いな」……頭の中がアイドルに出くわした女子高生である。

 私たちが居間のソファーに腰を下ろすや否や、挨拶もそこそこに先生は私の作品を褒め始めた。唐突なことだった。その不意打ちに私の緊張が極に達し、流れ落ちる汗でメガネを曇らせていた。我々の訪問は午後二時で、先生は昼食後、事前に伝えられていたメンバーの作品を読んでいたのである。訪問直前に作品を読んで講評に臨まれていた。

 これ以降私は、年に二度、『随筆春秋』誌が発刊されるたびに、作品評をもらいに世田谷の先生のご自宅を訪ねるようになった。当日は会社を早退し、待ち合わせのJR渋谷駅、ハチ公前広場へと向かう。三軒茶屋駅で地下鉄を降りて、茶沢(ちゃざわ)通りをゾロゾロと歩くのだ。八十代から四十代のシンガリの私まで、七、八名の随筆春秋事務局のメンバーである。それは二〇一一年三月に私が東京を離れるまで続いた。六年間かよったことになる。

 私が北海道に移ってからは、年に一度、東京・四ツ谷で行われる随筆春秋賞の表彰式に出席するため、先生のご自宅に立ち寄って、会場までタクシーでご一緒するということをやっていた。四年間続けた。

 二〇二一年十一月、私は自身初のエッセイ集を出した。その時、事務局の荒川十太さんが先生に無理を言って「あとがき」をお願いしてくれた。すると先生から、初対面のころの経緯を教えるようにとの言づけがあった。何年の何月何日かまで正確に記すように、と。訝(いぶか)しく思いながらも先生に手紙を書いた記憶がある。

 後日送られてきた「あとがき」の原稿は、次のようなものだった。

 

 近藤健さんと初めて会ったのは、二〇〇五年六月一日だったらしい。健さんからの手紙でそうわかった。それからもう十六年のつき合いになるのかとしばし感慨に浸った。随筆春秋代表だった斎藤信也さんに連れられて拙宅へ来られた八人ほどの女性会員の中、黒一点という趣で若い近藤さんが混じっていたのだ。

 健さんは北海道に在住していた人と聞いて、北海道好きの私はそれだけでヒイキするという感じになったのもはっきり憶えている。

 二〇〇五年六月の日記を探し出して確かめると、

「六月一日。随筆春秋斎藤さん以下九人来訪。中に一人若い男性あり。この人の作品はダントツに面白い。賞にふさわしい人です」

 とある。何かの賞(多分、随筆春秋賞)を受賞されたのだろう。その時……

 

 「あとがき」はそんなふうに記されていた。これを読んだとたん、初対面当時の緊張が、ありありと甦(よみがえ)ったのであった。日記をたどるために正確な日付が必要だったのだ。この時、先生は九十八歳を目前にしており、私は六十一歳になっていた。

 

(二)

 北海道の太平洋岸に浦河町という人口一万一六〇〇人の小さな町がある。サラブレッドの一大生産地で、JRA(日本中央競馬会)の本拠地でもある。その浦河町のはずれに東栄(とうえい)という漁村があり、その集落の背後にある小高い丘の中腹に佐藤愛子先生の別荘がある。一九七五年に建てられたものである。

 眼下は荻伏(おぎふし)の集落で、見渡す限り牧場が広がっている。あちらこちらでサラブレッドが草を食(は)む姿を目にすることができる。牧場は別荘の窓の下まで続いている。その牧場の先、左手には太平洋の渚が大きな弧を描いており、並走する国道二三五号線は、いつのころからか「優駿浪漫街道」と呼ばれるようになっていた。正面から右手、そして背後にかけては、グルリと低い山並みが続き、その奥には青い日高山脈が連なっている。遠い山並みの残雪の白と深い群青色とが織りなすコントラストは、緑溢(あふ)れる牧場と相まって、鮮やかな色彩を放っていた。

 愛子先生は、毎年夏の期間をこの浦河で過ごされていた(二〇一九年まで)。私のふるさと様似町(さまにちょう)は、この浦河町の隣町である。そんなご縁もあって、私は浦河でのことを書いたエッセイ集『日当たりの椅子』を読んでいた。

 二〇一一年三月、私は会社の異動で東京から室蘭市に転居した。その前年に二十二年連れ添った妻と別れている。精神疾患を得た妻とは、十二年半の闘病生活を共にしてきた。そんな妻が、同じ病院で入退院を繰り返す病気仲間の男性の元へいってしまったのである。

 私は、二〇一三年の夏から、毎年、東栄の別荘を訪ねている。二〇一九年八月、新たな伴侶であるえみ子を伴って二人でいったのが最後になった。以降、先生は浦河を訪れていない。高齢のためドクターストップがかかったのだ。それまで、東京のご自宅を出てから一日がかりで別荘までいっていた。だが、いつのころからか身体の負担を考慮し、千歳空港周辺で一泊され、翌日、別荘へ向かわれるようになっていた。

 先生が北海道に着いて、旅の疲れが落ち着いた頃合いを見計らって、私は別荘を訪ねていた。先生は、私の顔を見ると決まって、

「ほんと、北海道は遠いわね」

 と言われた。それが私への挨拶代わりである。

「先生、羽田から千歳までは、一時間半です。それからが遠いんですよ、こんなところに別荘を建てられたから」

 そう言って互いに笑うのであった。千歳から浦河までは、一四〇キロの距離である。札幌からだと一七〇キロになる。

 そのころ、私は二度目の異動で、室蘭市から札幌市へ転居していた。東京にいたころは、同人仲間七、八人で世田谷のご自宅を訪ねていたものが、北海道にきてからは、私一人で浦河の別荘を訪ねるようになっていた。元来無口な私は、すぐに話のネタが尽きてしまう。そこで、お嬢さんの響子さんを誘って、三人でドライブに出かけるようになった。

 先生は響子さんと二人で東京からこられている。滞在期間中に、響子さんのご主人や娘の桃子さんが東京からやってきていた。だから私は、ご家族の邪魔をしないように、皆さんが揃われる前までに別荘を訪ねるようにしていた。響子さんと私は、共に一九六〇年生まれで、誕生月も二か月しか違わない。そんなこともあって、お互いに親しみがあった。

 三人でえりも岬や日高山脈の森の奥深くや、様似の景勝地巡り、そんなことをしていた。また、浦河の境町のスーパーで買い物をしたり、図書館へ寄ったり、お気に入りのパン屋「ぱんぱかぱん」にも何度か足を運んだ。お二人ともここのパンがお気に入りで、とりわけ響子さんは東京のどこのパン屋よりも好き(正確には、日本一好き)だと、大層入れ込んでいた。

 思い出深いのは、豊似(とよに)湖(馬蹄(ばてい)湖)へいったときのことである。豊似湖はえりも岬のさらに先、東栄からは片道一〇〇キロほどの距離にある。国道から未舗装の山道を十キロほど日高山脈の懐に向かって入ったところにあり、地元の人もめったにいかない湖である。湖畔は野生動物の宝庫であり、ナキウサギも棲息(せいそく)している。そんな湖をぜひとも先生にお見せしたかったのだ。だが、私は豊似湖を三十年以上も訪ねていなかった。事前に地元の知り合い二人に豊似湖の様子を尋ねてみたが、二人とも三十年前に訪ねたのが最後だと口を揃(そろ)えた。

 途中、何頭ものエゾシカやキタキツネに出くわしたが、幸いにもヒグマを見かけることはなかった。駐車場から湖畔までは一〇〇メートルほどの距離があった。大きな岩がゴロゴロしていて、年寄りには険しい森の道である。半分ほど進んだところで、先生はギブアップした。何とか湖を見せたいと思った私は、負ぶわせてくださいと先生の前に進み出て、かがんでみせた。そんな私に、

「いいえ、結構です」

 とキッパリ断られた。あまりにもキッパリ過ぎて、それ以上の無理強いはできなかった。しかたなく、響子さんと私が交互に湖の畔(ほとり)までいって、スマホで撮った写真を先生にお見せした。すでに日が陰っていたので、豊似湖本来の透明感あふれる美しさは味わうことができなかった。しかし、佇んだその森の森厳とした雰囲気に私たちは圧倒された。人の手が入っていない森には、おびただしい数の倒木が見られた。それらの幹はふかふかの苔に覆われ、そこから針葉樹の五センチにも満たない幼木が、一列に並んで芽を出していた。いつ妖精が出てきてもおかしくない雰囲気に、しばし時間を忘れた。私たちは森の懐の中で、味わったことのない心地よさに包まれていた。

 引き返す道では、先生の手を取らせてもらった。これまでに幾多の作品を生み出された手だと思うと、その畏(おそ)れ多さに身が引き締まった。同時に、密かな幸福感を覚えていたのだった。

 

(三)

 二〇一四年の夏、浦河の別荘を訪ねたおり、思い切って色紙に一筆したためてもらったことがあった。揮毫(きごう)をお願いしたのは、初めてのことだった。それまで先生にお会いしてきた十年間、畏(おそ)れ多くて言い出せなかったのだ。

 色紙に向かわれる先生の姿は、何度も目にしてきた。同人仲間とご自宅を訪ねたおり、色紙を持参してくる人がいた。それに便乗して私も何か書いてもらいたかったのだが、私にはどうしてもそれができなかった。私にとって佐藤愛子先生は、ファンなどという軽々しいものではなかった。極めて特別な、半ば神格化された存在だった。私がそうなってしまった原因は、先生の膨大な著作を読んでしまった副作用にほかならない。

 先生が色紙に書かれる言葉は、決まって「戦いすんで日が暮れて」である。先生の直木賞受賞作品のタイトルでもある。その揮毫は「戦」の文字が一段と大きく雄渾(ゆうこん)に認(したた)められ、惚(ほ)れ惚れするような書であった。当然、私もその言葉をいただけるものと思っていた。ところが先生は、筆をとるや、何の躊躇(ためら)いもなく別の言葉を書かれたのだ。「人生は美しいことだけ憶えていればいい」だった。

 あとで調べてみると、沢田美喜さんの言葉であることがわかった。沢田さんは、戦後、エリザベス・サンダース・ホームを創設し、戦災混血孤児を育てた人物である。ある日、愛子先生がテレビを観ていて、この「人生は美しい……」という言葉に出会っている。そのことをインタビューで答えている記述がネットにあった。

 

 私の場合、言葉によって支えられたということはないですね。言葉が先にあって、その言葉で力づけられ自分の人生が決まったというのではなく、自分の人生が先にあって、人生観なり自分の気質なりにぴったり合う言葉を見つけた時に、嬉しくなってそれが力杖になる、ということだと思うんですね。そういう意味で気に入った言葉の一つに、「人生は美しいことだけ覚(憶)えていればいい」という沢田美喜さんの言葉があります。

 ホームで育った黒人の混血孤児なんですが、成長して二十七、八歳の青年になって、アメリカへ自分のお父さんに会いにいく。ところがお父さんは喧嘩か何かして監獄に入っているんですね。胸が潰れるような思いでその青年は、沢田さんが来るのをニューヨークの公園のベンチに座って待っている。沢田さんの姿が見えると青年は駆け寄って、抱きついて、思わず泣くんです。その時に沢田さんが英語でね、「泣いてはいけない、人生は美しいことだけ覚(憶)えていればいい」と言って、青年を励ますという場面があるんです。

 長いこと生きてくると、いろいろな経験をしてきますけど、楽しいことよりも、美しいことのほうが心に残るということが分かります。美しい自然、人の美しい心。そういう美しいことだけ覚(憶)えていれば、人生捨てたものじゃない、というふうに思えるわけでしてね。さすがに沢田さんはいいことを言われるなあと、感銘を受けましたね。(引用 致知出版社メールマガジン)

 

 先生は私の長年の苦悩を推しはかって「人生は美しい……」をくださったのである。

 私の妻は、一九九七年十二月に精神疾患を発症した。そのとき一人娘は、まだ小学二年生だった。闘病生活は十二年半に及び、妻は十二回の入退院と自傷行為を繰り返した。嫉妬妄想から包丁を持ち出すこともしばしばで、そんな兆候を察した娘が包丁を隠すようになっていた。妻の病名は、境界性パーソナリティー障害で、重篤(じゅうとく)なうつ症状を伴っていた。

 愛子先生が私の実情を知ったのは、私が同人誌に発表した作品からであった。作品評をもらいにご自宅を伺った際、

「これはね、エッセイの限界でしょう。小説にすべき作品ですよ」

 妻の病気関連の作品を目にするたび、そのように言われた。講評が終わって雑談に入ると、私の生活の状況をいつも訊かれた。

 二〇一一年三月、私が転勤で室蘭市に転居してほどないころ、突然、愛子先生からお手紙をいただいた。そこには「あなたは小説を書く気がおありですか」と改めて尋ねるものだった。もし私が応じるのなら、先生はそれなりの指導を考えていらっしゃったのだろう。だから、わざわざお手紙をくださったのである。その心が私の胸に沁み、もったいなくて涙が零(こぼ)れた。

 だが、残念ながら、私には小説を書く技量がなかった。サラリーマンを投げ出す覚悟がなければ書けないと思っていた。だから、やんわりと、お断りをしてしまったのである。情けない男である。周りの同人仲間からも「あなたの作品は、もう小説じゃないの。書きなさいよ」と言われていた。だが、どうしても書けなかった。私は、先生や仲間の期待に応えることができずに今日に至っている。

 先生が前述の拙著に書いてくださった「あとがき」は、次のように続いている。

「穏やかで誠実な人という第一印象は今も変わらない。穏やかさの中身もやさしさも変わらない。その美点のために健さんは、しないですむ苦労をかぶった人のように私には思えるのだが、その苦労は健さんの風貌のどこにも影を落としていないことに私は敬服せずにはいられない。それらは表には出ずに内向して濾過(ろか)され彼の人柄、精神性に深みをもたらしたように思われる。その成長が今回のエッセイ集に開花しているだろうことを見るのが楽しみである」

 

 二〇一九年四月、愛子先生のエッセイ集『人生は美しいことだけ憶えていればいい』(PHP研究所)が出版された。これまで先生が書かれてきた作品の中から再編纂(へんさん)されたものである。このタイトルを見たとき、思わず「あっ!」と声が出た。

 先生からいただいた色紙はきちんと額装し、部屋に掲げている。

 

 (四)

 二〇〇八年十一月、私は神奈川県秦野市の山間部にある仏乗院というお寺を訪ねている。元妻(当時の妻)を伴っていた。

 佐藤愛子先生のご自宅に通い始めて三年が経ったある日、いいお坊さんがいるが、その気があるのなら、紹介すると言われたのである。住職は霊視能力のある方だった。

「江原さん(江原啓之)は有名になり過ぎて、忙しいからムリね」

 そんなふうに言われた。当時、江原啓之さんは、超人気のテレビのレギュラー番組を抱え、多忙な日々を送られていた。

 愛子先生は浦河町に別荘を建てられてから、超常現象に悩まされることになる。当時、懇意にしていた作家の川上宗薫(そうくん)さんが助け舟を出してくれた。川上さんは作家になる前に長崎の高校で英語教師をしていた。その時の教え子に霊視能力のある者がいる、と紹介されたのが美輪明宏さんだった。その後、まだ学生だった江原啓之さんとも知遇を得ている。江原さんがテレビに出るきっかけを作ったのが愛子先生だと人づてに聞いているが、先生に直接聞いたわけではないので、その真意は定かではない。

 愛子先生が別荘を建てた場所は、かつてのアイヌの古戦場跡だった。しかも愛子先生の前世は、アイヌの酋長(しゅうちょう)の娘だという。周りには何もない小高い丘の中腹に別荘を建ててしまった。愛子先生の超常現象との闘いの発端は、ここから始まった。それまで愛子先生は、死んだら無になると漠然と考えていた。そんな世界とはまったくの無縁で、むしろその対極にいて胡散(うさん)臭いと思っていた。だが、突然に降りかかってきた災難に、否応もなく呑み込まれてしまったのである。

 

 私たち夫婦を迎え入れてくれた仏乗院の住職は、開口一番、

「近藤さんは、ずいぶんと心配されていましたね、奥様に動物霊が憑(つ)いているんじゃないかと」

 度肝を抜かれた。五十代と思しき住職は、柔らかい物腰の親しみやすそうな人だった。だが、私の脳ミソを透かして見ているように、私の思いを次々と口にするのだ。私が考えているエッチなことも、この人は見透かしていると思ってゾッとした。ウソがまったく通用しない、そんな人間に出会ったのは、初めてのことだった。住職の前で私は丸裸にされたのである。

「奥様の病気は、これをすれば治るといった単純なものではありません。病気の原因は、過去からの因縁です。動物霊の憑依(ひょうい)ではありません」

 そうキッパリと言われた。毎年、初詣にいくこと。年に一度、先祖のお墓参りをすること。自然豊かな郊外に住むこと。この三つの励行(れいこう)を促(うなが)された。妻の発病から十一年目のことであった。

 それから一年半後の二〇一〇年四月、妻が私のもとを去って、すべてが終わった。その報告を愛子先生にすると、複雑な表情をされながらも心から喜んでくれた。人生の艱難辛苦(かんなんしんく)は誰しもの身に降りかかってくる。だが、どうにもならぬ状況が出来(しゅったい)した場合、腹を据(す)えてそこに居座るしかない。いくら逃げようとしても、逃げ出せるものではないのだ。そんなことを愛子先生の著書から教わり、いつの間にかそのとおりにしていた。もっとも私の場合は、腹を据えて居直ったというより、逃げ出す勇気がなかっただけである。

「人は、負けると知りつつも戦わねばならぬときがある」

 これはバイロンの言葉で、愛子先生の父君佐藤紅緑氏の座右の銘である。いつしか愛子先生の座右の銘にもなっている。私もまた、まったく勝ち目のない闘いの中でもがいていた。闘っていたのではなく、身を固くして丸くなっていた。ただただ、嵐の過ぎ去るのを待っていたのであった。

 私たち夫婦は多くの人から祝福され、結婚していた。だが、離婚を知ったさらに多くの人から、「よかったね」「本当によかった」と、私の手を取って涙ぐまんばかりに喜んでくれた。結婚の時よりも多くの祝福をもらったような気がして、なんだか複雑な気持ちになった。

 仏乗院の住職から進言された「自然豊かな郊外に住むこと」は叶わなかったが、初詣と墓参りは、今も欠かさず続けている。

 

 (五)

 私は、二〇一三年から二〇一九年までの七年間、浦河町東栄(とうえい)の別荘を訪ねてきた。七年間といっても、札幌からは片道一七〇キロの距離である。そう簡単にはいけない。先生が浦河に着いて落ち着かれた頃合いを見、また、響子さんご家族が東京からこられる前のまでの間隙(かんげき)を縫うようにして訪ねていた。

 今の伴侶であるえみ子と知り合ったのは、二〇一六年九月のことだった。札幌にいる様似(さまに)の幼なじみに紹介されたのだ。そのえみ子を伴って別荘を訪ねたのが、二〇一九年八月で、先生が別荘を訪れた最後の年である。前妻のことでは、長年、先生にお気遣いをいただいてきた。そんなこともあったので、先生にはぜひ、えみ子に会っておいてもらいたかったのである。

 えみ子は文学とは無縁の女である。私とは趣味も嗜好(しこう)も異なっている。えみ子は私の二歳下で、北海道の日本海に面した小さな漁村に生まれ育っていた。私は反対側の太平洋側の漁村である。だが、育った環境がとてもよく似ていた。お互いに娘がいる。私は離婚だが、えみ子は私と知り合う四年前に夫を亡くしていた。ただそれだけなのだが、妙にウマが合い、共に歩んでいる。だが、二人とも仕事を持って別々に暮らしており、いまだ入籍もしていない。いずれ、タイミングを見計らって一緒になることにしている。

 えみ子は仕事柄エステを行っている。先生との話が一段落したところで、先生にソファーに寝そべってもらって、そこでマッサージを施した。お客さんにやってもらうのは申し訳ないと、先生はしきりに遠慮なさっていた。だが、思いもかけないマッサージに、とても喜んでくださった。えみ子には突然の提案であったが、光栄なことと受け止め、快く引き受けてくれた。お陰で、えみ子と先生との距離がグンと縮まった。

 そのあと、浦河の図書館へご一緒した。先生は借りていた本を返却したあと、響子さんが持つ空のカゴに棚から取り出した本をポンポンと入れていた。迷っている風には見受けられなかった。五、六冊も借りていただろうか。本のジャンルは、日本文学から海外ものまで多岐にわたっていた。九十六歳を目前にした先生が、図書館で本を借りて読む、とんでもない光景として私には映った。

 先生が本を選んでいる間、私とえみ子は図書館の片隅に展示されていたサラブレッドの写真を眺めていた。そのとき年配の女性が外から入ってきて、私たちに声をかけてきた。見ると年季の入った重厚なカメラを携えている。この写真を撮られた方ですかと尋ねると、嬉しそうにそうだと頷(うなず)かれた。後に知るのだが、写真家の内藤律子さんだった。その時、彼女は六十九歳であった。

 埼玉県浦和市出身の彼女は、ウマに魅せられて一九九七年に浦河に移住している。展示写真の傍(かたわ)らには、何冊かの写真集が置かれていた。その内藤さんの写真集をめくっていると、巻頭に佐藤愛子先生の一文があった。お二人は旧知の仲だった。その後現れた先生と楽しそうにウマの話をされていた。先生は、写真家の目を通して見るウマの様子を熱心に尋ねられていた。その斬り込み方に作家の目線を感じた。先生の旺盛な探求心を垣間見、強い驚きと尊敬の念を新たにしたのだった。

 後日、響子さんから「近藤さん、えみ子さん(と出会えて)、よかったですね。飾らなく気さくな人で。いい人を見つけられてよかったと、母と話していたんですよ」と仰ってくれた。私は胸のつかえをおろし、こっそりと涙を拭(ぬぐ)った。

 

 別荘の下の集落に、小さなお店がある。アベ商店という。あらかたの生活用品が揃うなんでも屋である。先生は、親しみを込めて「万屋(よろずや)」と言っている。店主の阿部さんは、先生の作品の常連で、別荘を取り巻く話題のときには必ず登場する。阿部さんは先生から絶大な信頼を得ており、別荘の管理のすべてを任されていた。それまで私は、阿部さんとは面識がなかった。だが、別荘を訪ねるようになってから、何度かお店に顔を出し、言葉を交わすようになっていた。

 この阿部さんの息子の奥さんは、様似の私の実家の隣の娘、ちえみちゃんだった。ずいぶんと後になって知ったことである。先生が北海道へくる際、千歳空港まで阿部さんの息子が車で出迎えていた時期があった。あるとき、いつものように迎えにきた車を見ると、助手席に若い女性がいた。先生も響子さんも驚いた。彼女を連れてきたことも驚きだったが、その女性が息を呑むほどの美人だったことに目を瞠(みは)ったのだ。

 我が家が、ちえみちゃんの家の隣に引っ越してきたのは、私が小学校五年生のときだった。同じ様似町内での転居だった。当時、中学生だったちえみちゃんは、すでに近寄りがたい美少女だった。それゆえ、親しく会話をしたことがなかった。私は、高校から実家を離れたので、その後のちえみちゃんを知らない。地元の銀行に就職し、そこで現在のご主人である阿部さんの息子と知り合ったのだ。実は、私が大学時代、四歳年下の様似の女性と遠距離恋愛をしていたことがある。その彼女が銀行に就職し、誰よりも親しくしていたのが、ちえみちゃんだった。田舎の狭さを感じさせる出来事だった。

 私が別荘を訪ねるようになって、愛子先生親子から「第二の阿部さん」と呼ばれていたことがあった。肝心の阿部さんが年をとってしまったためである。だが私は、何かあってもすぐに駆けつけられる距離にはいなかった。しかも、サラリーマン生活をしている。ゆえに、何の役にも立たない〝阿部さん〟で終わってしまった。

 愛子先生が別荘を建てられてから、間もなく半世紀になる。「かつて懇意にしていた集落の人たちは、もうみんな死んでしまいましたよ」と先生がこぼしたことがある。愛子先生も響子さんも東栄はもちろん、浦河町全体の移り変わりを見てきた。みんなが年をとってポロポロと欠けていき、街が寂(さび)れ、何もかもが変わってしまったという。夏の二か月ほどの滞在ではあるが、誰よりも敏感にそんな変化を感じ取られていた。

 

 (六)

 二〇一六年に別荘を訪ねたときのことである。その数日前に先生の新著を購入し、訪問前夜に読み終えていた。『九十歳。何がめでたい』である。この本は、それまで週刊『女性セブン』に書かれてきた先生のエッセイを収録した最新エッセイ集である。このエッセイ集がよかった。

「先生、読書離れと言われますが、このような本が売れないのはおかしいですよ」

 私はいつになく力が入って、前のめりになっていた。前夜の興奮を引きずっていたのだ。そんなふうに向けられた先生は、ただニヤリとされただけだった。だがこの本、その後、売れに売れた。一二八万部という空前の売り上げを記録し、翌二〇一七年には年間ベストセラー書籍の総合第一位になった。

 二十万部の売り上げで「凄いことだ」と言われる中、桁(けた)外れの一二八万部である。九〇メートル級ジャンプ台で、三〇〇メートルも飛んだようなものだ。それ以降今日まで、過去に出版された先生の作品が次々と新装版として発売され続けている。巨大地震の余震が未だに続いている、そんな様相である。出版不況の中で、各社が目の色を変えて先生にあやかろうとしていた。すでに絶版となり、古本屋でしか入手できなくなっていた著書が、装いを変えて日の目を見始めた。これはとてもありがたく、喜ばしいことである。

 今でも書店の入り口やレジの近くといった目立った場所に、先生の本が平積みにされている。何かの拍子に、不意に笑顔の先生と目が合う。そのたびに、ドキッとする。長年のお付き合いとはいえ、私にとって愛子先生は、〝三歩下がって師の影を踏まず〟という存在に変わりはない。二〇一七年四月、愛子先生は旭日小綬章(きょくじつしょうじゅしょう)を受章された。

 

 私の亡祖母の一番下の妹である大叔母は、浦河町生まれである。二〇二〇年四月に九十九歳で亡くなっている。彼女は大正九年(一九二〇)生まれなので、愛子先生より三歳年上になる。誕生日は十一月五日で先生と同日だった。亡くなる数年前に大腿骨を骨折し、以来、歩行ができなくなり、浦河の老人施設に入所していた。愛子先生も敬老の日に何度かこの施設で講演を行っている。敬老の日に、私より年下の年寄り相手に話をしてくれなんて……、「敬老」されるのは、こちらの方ですよ。よくそんなふうに仰り、笑っておられた。私は、そういうときの愛子先生の笑顔が好きだった。

 大叔母が入所してから、私も何度か施設を訪ねている。大叔母の部屋の窓の真正面、牧場を挟んだ先に先生の別荘があった。直線距離では五〇〇メートルほどだが、その間には遮るものが何もなかった。愛子先生のいらっしゃらない時期の別荘を、大叔母の窓から見上げていた。寝たきりになってしまった大叔母もまた、様々な思いを抱きながら、この景色を眺めていたに違いない。聡明だった大叔母は、最後までボケることはなかった。

 ちなみにこの大叔母の父親は、明治二十二年(一八八九)に屯田兵として熊本からやってきている。数年前、札幌の屯田資料館へいった際、入植者の史料パネルの中に曾祖父の名を見つけた。傍らにいた職員に、この入植者の実子がまだ二人存命である旨を告げると、「二世がいるとは、信じられないことです。ぜひ、お連れください」と驚きの表情を見せた。

 また、大叔母の伯父、つまり父親の兄は、明治十年に熊本で勃発した不平士族の反乱、神風連(しんぷうれん)の乱で自刃(じじん)している。父親は慶応二年(一八六六)生まれで、大叔母は父親が五十四歳の時の子である。母親は、父親より二十歳年下の二人目の妻であった。大叔母が歴史の生き証人たる所以(ゆえん)である。大叔母は「私は士族の教育を受けてきた」と常々口にする、気丈な女性であった。そういう意味では、常日頃、士族然とされていた愛子先生のお父様に重なるものがあった。

 

 先生が東栄に別荘を建てられた時から、私は別荘を見上げてきた。建てられた一九七五年(昭和五十年)は、私が高校に進学した年である。私は高校から様似(さまに)を離れ、札幌に出ていたが、帰省のたびにいつも国道から別荘を見上げていた。夜になって別荘に明かりが灯っていると、「あ、いるんだな」と思いながら仰ぎ見ていた。あの家の中には、どんな世界があるのだろう。東京があるのだろうか。それがどういうものなのか、想像も及ばなかった。だから、二〇一三年に初めて別荘を訪ねたときには、特別な感慨があった。

 居間に通された私は、眼下に広がる風景に息を呑んだ。海と牧場、草を食(は)むサラブレッドが大きな窓の向こうに見渡せた。国道を走る車を見下ろしながら、私は長年、あそこからここを仰ぎ見てきたのだと思った。そして、ソファーに腰を下ろし、先生と相対している自分を、実感として受け止められなかった。これは現実なのか? 夢ではないのか。 そんなふうに何度も反芻(はんすう)していた。離人症のような感覚に陥っていた。初めて世田谷のご自宅を訪ねたときもドギマギした。だが、別荘を訪ねたときには、それとは違った特別な想いがあった。

 ちなみに、浦河町の観光案内のパンフレットは、先生の別荘のある場所から撮った写真が表紙になっている。

 

 (七)

 私が随筆春秋に入会したのは、二〇〇三年五月である。その後、事務局員となって愛子先生の世田谷のご自宅を訪ねるようになる。当時、一緒に行動していた十名ほどの方々は、今、どうされているのだろう。すでに物故者となられた方が何人かいらっしゃる。代表の斎藤信也先生もその一人である。老人施設に入られている方もいる。自宅で介護を受けられている方もいるのだろう。皆、いつの間にかフェードアウトするように霧の彼方へ消えてしまった。もっとも、私が東京を離れ北海道で孤立しているから、よけいそんなふうに感じるのかもしれない。

 かつてのメンバーは、佐藤愛子先生のことを「愛子先生」と呼んでいた。さすがに、ご本人の前では「佐藤先生」だったが、先生を交えた会話の中でも、ときおり「愛子先生」が飛び出した。そんな中で、私は飛び切り若かった。今でも私がつい「愛子先生」と言ってしまうのは、そんな当時の名残である。「佐藤先生」だとよそよそしく、「愛子先生」の方が、収まりがいいのだ。

 

 愛子先生がこの浦河町東栄の別荘でどのような日常を送られていたのか、私は先生の作品を通してしか、そのご様子を知らない。私がこの七年間で実際に目にしたのは、先生と響子さんお二人の生活のほんの一端に過ぎない。年に一度しか訪れない私は、どうしても「お客さん」なのである。だから、三人でのドライブの道すがら、図書館やスーパーの買い物にご一緒できることが嬉しかった。ハンドクリームやシャンプーを買ったり、取り置きしてもらっていたパンを受け取りにいったり。お店の人との何気ない会話の中に一緒に身を置ける、そのことが無性に嬉しかった。

 愛子先生は、東京の暑い夏を避けるために浦河へやってくる。北海道の太平洋岸は、夏の最高気温がせいぜい二十八度である。札幌のように三十度超えの真夏日になることはない。東京の夏といえば、日中は連日三十五度を超す猛暑日が続き、夜は二十五度を下回らない熱帯夜に苛(さいな)まれる。体力の消耗戦が繰り広げられる。北海道と東京の夏の決定的な違いは、気温もさることながら、湿度なのである。タールのようにネットリと纏(まと)わりついてくる、あの不快な暑さがまったくないのだ。四六時中汗ばんでいるため、日に何度も水シャワーを浴びる。それがここでは必要ないのだ。

 浦河の夏は、衝撃的な涼しさである。しかも別荘は丘の中腹にあり、常にカラリとした海風が吹いている。クーラーの効きすぎた部屋にいるようなものである。私が別荘にお伺いするのは、八月初旬から中旬にかけてだった。私を出迎えてくれる先生は、いつも長袖の上にサマーセーターを羽織っておられた。もちろん、窓は閉め切っている。そんな先生の姿を目にすると、なんだか気の毒な心持ちになる。当地の気候が、避暑地としては度を超した肌寒さなのだ。もっとも、地元の人にとっては、いつもと変わらぬ蒸し暑い夏なのである。

 そんな生活の中で、先生は響子さんと買い物にいかれたり、映画館へもよく足を運ばれていた。浦河には小さな映画館がある。大黒座は、北海道で最も古い映画館といわれ、近年では密かに注目されている。まるでお二人のプライベートシアターのように、貸し切り状態のこともしばしばあった。

 愛子先生は、浦河はもとより近隣の様似やえりも、静内(新ひだか)といったこの地域一帯の人々にとって、特別な存在であった。北海道新聞の地元版(日高版)に先生が海で遊ぶ記事が載ると、「山の上のセンセエ」が今年もきている、そんなふうに思ったものだ。そういう意味で、先生の来訪は、この地域の‶夏の風物詩〟になっていた。その姿が忽然(こつぜん)と消えたのである。この喪失感は、先生親子も去ることながら、街の人もやり切れぬ思いを抱いているに違いない。

 愛子先生が北海道にこられなくなってから、三年目の夏(二〇二二年)が過ぎた。私はこれまでに何度か、別荘や東栄の街並みの写真、動画を響子さんにLINE(ライン)で送っている。様似やその先のえりもへいく道すがら、寄り道をして別荘まで上がってみるのだ。東栄は、様似やえりもへいく途中にある。

 響子さんからは、懐かしいという思いが込められた返信が届く。その写真を先生にお見せしているのかどうかは、はわからない。「母に見せると、寂しい思いをさせる」そんな配慮が、響子さんにはある。お二人とも浦河へいきたい、その思いを堪(こら)えているのだ。お二人にとって浦河町は、夏の間だけの単なる避暑地ではない。長年にわたり風景に親しみ、そこで暮らす人々と裸の心で交流してきた特別な場所なのである。

「あれ……、センセエ、いづきたの」

「食ってけれー」

 魚箱には度を超した量の魚介類が入っている。魚はもちろんのこと、カニの時もあればウニだったり。タコやイカ、エビ、ツブなど、その時々で様々である。すべて前浜で獲れたものばかりだ。社交辞令もなければ、挨拶もない。構える心の必要ない、〝素〟でいられる場所なのだ。

 だが、そんな交流を持った漁師たちも年老い、いつしか誰もいなくなったしまった。

「もう、みんな死んじゃって、誰もいません」

 そう仰った先生の言葉が耳に残る。

 

 愛子先生が断筆宣言をされたのは、二〇二一年の誕生日前のことなので、九十七歳でのことになる。

「あなた、書くのをやめたら死んじゃいますよ」

 主治医からはそんなふうに言われたらしい。

「死ぬかどうか試してみます」

 そう答えたと言って、愛子先生は電話口で笑われた。私の好きな先生の笑顔であることが容易に想像できた。

 愛子先生は現在(二〇二三年五月)、九十九歳である。瀬戸内寂聴さんが二〇二一年十一月に九十九歳で亡くなられてからは、文壇の最長老という立ち位置にいらっしゃる。静かな生活を送りたくても、周りが放っておいてはくれない。たまに来客があるくらいなら、退屈凌ぎにいいだろうが、どうもそうではないようだ。九十歳を過ぎてから、これほど大ブレイクした作家はいない。まったく、お気の毒だ。可能なら、住み込みで書生にでもなって、お手伝いしたいところである。だが、六十歳を過ぎた書生など、無用の長物で役に立たない。

 現在、日本の百歳以上の高齢者は九万人ほどで、うち九割が女性だという。文字が書きにくくなったが、口だけは達者だと先生は仰る。ならば、口述筆記という手もある。愛子先生にはぜひとも、百歳の高みから見た風景を綴っていただきたい。それは誰にでもできることではない。今の愛子先生だけが、唯一、許されたことである。天からのご指名なのだ。

「つれづれなるままに、大往生の前にひと言……」そんなような作品を待っています。

 

 追記

 二〇二二年九月号の雑誌『婦人公論』の表紙に、「佐藤愛子九十八歳、新連載スタート!」という文字が躍った。「思い出の屑籠(くずかご)」と題した新連載は「前もってのお詫び」という異例の〝まえがき〟で始まっていた。断筆宣言の撤回である。拍手喝采!

 

  2022年4月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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