後輩が怖すぎて食堂に行けません -5ページ目

後輩が怖すぎて食堂に行けません

一人生んで職場復帰したら、仕事もろくにできない後輩から「パートじゃダメなんですかぁ?」と言われて傷ついてから食堂に行けなくなったメンタル豆腐の女。いわゆるワーママ。できるかも分からない二人目不妊治療中

妊娠し8wすぎて、そろそろ産院決めなきゃというときに、

切迫早産で入院するの可能性もあるから

家から近いとこにしよう

と母に相談ついでに妊娠を打ち明けた



その次の週、流産確定した直後


母が「けっこうやばそうな病気かもしれない」と告白してきた。


母の異変には年明けには気づいていたが、

病院に行けと言ったら

何度も嫌な顔をされたので黙っていた。


が、母自身、やっと意を決して行ったら、すぐに精密検査と言われたらしい。


憶測だが


私が妊娠したから病院に行ったのだと思う。

おそらくまだ生きたいとか、元気になりたいとかまだまだがんばらなきゃ

とかそんなことを思って、行きたくない病院に行く気になったのだろう。




それから約2ヶ月。


母の病気、発覚時は

「もしや余命宣告か?」くらいのヤバさを醸し出していた

私は母が死ぬかもしれないという不安と恐怖で毎日立っているだけで精いっぱいなほど追い詰められた。

もちろんそういう覚悟を持つ年代ではあったけれど。


職場も変わり、子供も進学し、家族は病気、

なんなら自分もズタボロ。

眠るのが怖くて、不安も収まらず、

冴えた頭がいつまでも思考を止められず、

せっかく会得したはずのマインドフルネスは役に立つこともなく、

睡眠も減った。

そうするとますます思考が止まらなくなる。

だれか止めてくれーー!と叫びたくなる。


流産した胎児は染色体異常だった。


「生まれてこれない命なのに

 9wまで粘ってがんばったんだぁ。

 もし8wを超えなかったら私は妊娠を母に言わなかった。

言わなければ母はきっと、病院にまだ行ってないはずだ」


全ては偶然だと思うけれど、

そんなことを思い込んで、

生まれなかった命に価値があったと思うことは

自分を慰めてくれた。

9週間しか生きられなかったけれど、

母の命を守ってくれた。



母は検査から2ヶ月足らずで手術

医者から

「案外大丈夫そう」

と言われ、当初の懸念、余命宣告なんてところからはだいぶ遠ざかった。


それでも体の一部を切り取るようなそこそこ大変な手術をして、

その回復期で母は今とても苦しい。

だが私が流産してだいぶ落ち込んでいると知っているので私には気を使っている。


それが、申し訳ない。

病人なのだから当たり散らしたり、文句を言ったり、わがまま言ったっていいのに。

私には、言えないのだ。


私は、流産あとの生理が一度も来ず、

移植は??

みたいな感じで3ヶ月近くたってしまった。


こんなに時間がかかって、

次も染色体異常で流産するならPGT- Aを選択肢に入れるべきだったなと改めて思っている。


疲れ切っているのに頭が回るので気持ち悪い。

休みたい。

でも気持ちが、休ませてくれない。

疲れているのに眠ろうとすると頭が冴える。


気持ち悪い。

気持ち悪い。


悩んでいても結論は出ないし、ますます可能性が広がるだけだ。


そう。

前もこういう感じの時に思っていた。


助けて欲しい。と。


先週から、会社に行くのが辛くなった。

眠りも浅く、夜になったら冴えてしまう。

このままじゃだめなのに夜中の暴飲暴食が止まらない。

そして、自分を、責める心が止まらない。


このままではヤバイ。

けれど、自分では止められない。

正常だったところから

転がり落ちるように

息ができないほど苦しい所まで来てしまった。



3ヶ月前

ふわふわとした幸福の中にいたなぁ

と思い返す


今の状態を嘆くことはないけれど、

どうしてこうなってるんだろうと なんだか遠い昔のことのように思える。




このブログで書いたことが現実になった。

はっきりいって
芝居はさっぱりわからなかった上、
ショーは肝心のデュエットダンスで眠くなってしまうていたらくで。

申し訳ございませんえーん

最初から最後まで月城さんのご尊顔を拝して終わった。

月城さん、なんか作品運に恵まれなかったような、、、

今思えば、DEEPSEAとか案外良かったのかも。


先月から、家族に振り回されて毎日に必死なので、いいリフレッシュになりました。



不妊治療において、高齢で出産ができるための確率は

圧倒的に低い。

そのあまりの低さはこころを簡単にへし折ってくる。

また、流産する可能性が圧倒的に高い

また、遺伝子異常の可能性も高い。

考えれば考えるほど、おろかな博打だ。


だが、そのたびに思い出すことがある。



私の母は脳の検査を受ける際、

検査前に受けた説明によると、

0.6%程度副作用だか事故だかが起こるといわれた。

でもそんなの微々たる可能性でしかないよね、と思ってた。


でも母はその0.6%に当たって脳出血となった。



私はその時思った。


確率が、何になる。

医者が選択するための指針であって

医療を受ける私にとってそれは

起こるか、起こらないか、の常に二択でしかない。



生まれるか、生まれないか


確率に押しつぶされそうなとき、

そんなふうに考える。


少しは気が楽になれるように。

宝塚ファンになり「この人好きかも?」と思いつつも


トップになったら「あれぇ??なんか違う」ってなって


最後までそれが解消されなかった人というのが一定数存在するのですが


相手役や演目によることも多いと思うんですよ。


それが私にとって

柚香光と月城かなと になりそうな。


と思ってね。


で、ファンも熱烈なので花組と月組のチケットは少なめに。。。


でも、なんとか花組を見に行く機会をいただけまして。


見た結果。


おお。

私の見たかったカレー、これじゃなかったなぁ、、、、

(遠い目)



95期ってなんか若手の時に結構みんな「うわぁ!」ってなって熱狂的なファンを生んだと思うし、宝塚ファンの拡大にも貢献してると思うんだけど、


おかげでその後の人たちが次々にやめてって、

焼け野原になっちゃった感じもあり

最近は「まあ、劇団が推してたから仕方ないけどさあ」という気も拭えなくて

スカステ番組見ても「楽しいけど」と複雑な気持ちなんだよね。。。

べつに本人たちが悪いわけじゃないし

実力が劣っていたとも思わないし、

辞めてった人がトップになれたとは限らないのも分かってるんだけど。

そこまでして選んだトップなんだからもっと大事にしてほしいなって。

私は思ってしまいますのです。





なんかこうトップになってからぐっとくる作品にめぐまれない感じが全体的にね。(人気すぎて見れなかった)というか。

コロナってこともあるんだろうけども。


そういう意味では

礼真琴 もそれに該当してしまってたのですが、

私的にジャンプ的ヒーローの「RRR」はまさにはまり役だったし

サイッコーだったので!

「これこれこれこれ!

 見たかったのこれ!!」

ってなってやっと除外されたかな。


そういう意味では

カレーとれいこさんは

そういうのがあんまりなくて。


いや。

カレーは初演のはいからさんの「少尉」が異次元によくってさぁ!!!

見て欲しい。

あんなダサい軍服をかっこよく着こなせる人がいない。


そして今回もそれを超えなかった笑い泣き


小池センセのあてがきは素晴らしかったんだけどね。さすが座付きとも思ったよ。


でもね、ワタシ的にはカレーはショースターっていうよりは少女漫画の王子様の印象なので

やっぱ、ラスト一本モノなら

もう少し王子様で良かったような。

レビューシーンはかっこよかったけど。

ってかラストシーンはもう一度レビューシーン見せてよぉ!

となりましてん。


カレー、もう一作品どうですか??

と言いたくなります。



さて、れいこさん

ワタシ的に、相手役がどうも萌えないのですが、

とはいえ他の相手役の時に萌えたかと言われるとなんとも言えず。


来月なんとかゲットしたチケットで

「こんなれいこさんが見たかった」ってなるのかなぁ。

なるといいなぁ

と心底期待しています。


カレーはキレッキレの単独ダンス踊ってるときと、

まどかちゃんをぶんまわすぞーーっと気合入れてリフトに向かってるとこが好きです。


チケットとれて本当にありがとうございました!

なんだかんだいってもラストを見れてよかった!!





育休あけから5年半

後輩にビビって昼ご飯さえ食べれず

仕事が激務過ぎて死にそうだったり

コロナで繁忙期が延々と続いたり

適応障害になったり

後輩に無視されたり

仕事干されて閑職になったり


色々なことがあったけど、

やっとこの職場から卒業ですえーん


一言で言うなら

やっぱ。


「辛かった」


この感情を認めたらもうそれ以上出来ないかもって思ったから認めなかったけど

ほんっとーーーーに辛かった。


どこにも吐き出せない本音を

誰に見られてるかわからないブログに書くほどには

辛かった。



そして、部署異動時に

「いかないでほしい」とか

「さみしいです」とか

「明日からどうしよう」とか。

去ることを惜しむ言葉を思ったよりも多くの方からいただいて、

たとえ建前でもお決まりの定型句でも

「まあそれを言ってもらえる程度には頑張ったよな」と。


自分的にそこそこの充実感も味わえた。


思えば適応障害で休んだ時に「異動」はもちろん望めばできたと思うけど

あそこで戻りたいと思って、もう一度戻ってきて、きっちり送別されてよかったと思う。

自分の人生にとって。


会社には迷惑だっただろうとは思うけども。


新しい部署に行くまで2日しかないので通勤時間も増えるし、ゆっくり休みたいと思いますニコニコ



咲ちゃんの「ALL BY MYSELF」

チケットもないのに

大阪に突っ込んできました。


結果


見れました!!!


なんていうか、人生が大きく動いているときにこのショーがあったと

いつか思い出すんだろうなぁ。


サヨナラとはなぜこうも発光して輝きが増すのでしょうか。

尊かったです。

とても。


何度見ても尊い「海の見える街」もそうだし

はっちゃけてるラテンとか和物シーンもそうだし。

本当にもう一度見られて良かったー。

本人もあんなに踊り狂ってて楽しそうだし、挨拶すらも楽しそうにしてました。

いやぁ、本当に好きなものは自分を楽しくさせてくれます。

どんなに辛くても耐えられそう。




で、大阪に行くにあたり、公演見れない可能性が高かったのもあり、

GWにどこも行く予定がなかった事もあって急遽、家族旅行になりました。

急ごしらえだったけれど、

海遊館あたりで過ごしたのですが

うちの子は水族館でほぼ1日過ごせるぐらいゆっくり鑑賞派なので、色々見れて楽しかったー。

周りからは韓国語しか聞こえてこないし常識も通じないので

「もしやここは外国なのかも?」と感じるちょい外国旅行気分でした。


観光に従事する方々が、

常識の通じない方に一生懸命話しかけたり、ルールを守らせたり、カタコトで応対したりの、必死に努力する姿をみるにつけ、

まだまだ色々足りてないなと、ハッとさせられることも多くて


国内であっても旅行することは気づきがあって大事だなぁと思いました。



な、な、長かった、、、


発表までクソ長かった。

半年近くドキドキしてたよ。


で。

やっと教えてもらった異動先。

今の通勤路線の沿線で今の職場の3駅先。

今まで通勤25分位なのが

40分位になりそう。


え、近いな!!


というのが第一印象。


でもって、体調不安をかかえているので本部系の休みやすい部署なのかと思ったら


フツーに忙しそうな、

(今とそう変わらない)

フツーの部署に異動。


先方は「たくさん仕事してもらお」と意気込んでいるらしい。


詰んだ笑い泣き


半年間なんの仕事もしてなかったけど大丈夫なのか??


とりあえず、通勤は時間的な苦労をせずに済みそうなのでそこは一安心だけども。


すこし生活を変えないとなぁ。


でもものすごく変えなきゃいけないわけじゃないので楽な気持ちになった。

あとは仕事内容か。


辞めてもいい。

そう思ってやろう。

今は他に大事なものがたくさんある。



色々起こりすぎて、もう会社を辞めるしかないのかな、なんて思いながら出社。


とりあえず異動の発令が今日出るはずだから辞めるかはとりあえずそれから。とギリギリの気持ちでいた。


ら。


4月にさんざん問題起こしてた

病んだ後輩が

完全に会社を休むことになってた。


私を無視してきた去年の8月あたりから、

病んでるのか疑惑状態で

私を排除したあとの半年でより悪くなっていった。

彼女が私のことを嫌だっていうから

彼女と一緒にやってた仕事のすべて手放したのに、悪化するってなんだよって思ったし、

一人でできるわけないよと思っていたのでざまあねえなぁ、というのが本音だった。



最後は、自滅に近い形で事件をおこしまくっていたので、可愛そすぎたけど、同情はしなかった。

だって彼女が「ワタシにはできる、助けはいらない」と言いまわってしまったわけだから。

さらに少しでも手伝おうとすると「私が仕事をできないって悪口言ってる」と周りを攻撃し始めてしまったから。


もっとはやく誰か止めてやれよって思っていたけど、

私はどうせこの部からいなくなるので

何も言わず静観し続けていた。


無策の上司たちによって病みが深くなったと言っても過言でない状態で

正直彼女に振り回された人たちの怒りは上司に向かっている。


そんな無策の上司たちは、彼女がいなくなっても無策だった。

彼女が持っていた仕事を把握していない。

そして、それをどう振り分けるかも考えているだけで、誰も決められない。

だが事務員の仕事は絶え間なくある。

待ってはくれない。

彼女が抱え込んだ分、反動は大きい。


煮えきらない上司たちに

急に腹が立ってきて、

彼女の仕事だった分の振り分けをするようになぜか私が上司に迫った。

しかも、なぜか私が持ってる半年前の情報ですら上司が知らないことばかりで

なんでそんなに把握してるのかと驚かれる始末だった。

更に腹が立って、久々にかなり強引な手に出て、無理やり決めさせた。

有無を言わさぬ態度で。


いなくなるのにでしゃばってしまった。


それをやりながら

「あぁ、私の手法はこうだったな。

仕事の振り分けや分担を強引にでもやりやすいように決めて、全体を見まわして仕事を割り振っていく。そんなめんどくさいことをこの部に来て散々やらされて疲弊したな。」

と思い出した。


そして、思った。


私は、この半年間

アイデンティティともいえる仕事そのものを奪われ、

仕事のやり方、手法すらも使う気力を失っていたんだなと。


それがなんのためかといえば。

不妊治療のためであり

でも、病んだ彼女のためでもあった。

なのに

結局何もかも悪くなって、

私が病んだときよりもずっと悪くなるって


なんてバカバカしい話だろ。

何したって駄目になるなら、私が我慢する必要なかったよね??


どうせ駄目になるなら、アホみたいに「静観」なんて言わずに、

自分が納得するようにやればよかった。


ま、異動だから心機一転しかないなと思って発令待ってたら。


今日も発令なし。

いいかげんにしろよプンプン

さっさと発表しろ、めんどくせえな!!!


と、今日は朝と夕方でむちゃくちゃアップダウンの激しい1日だったなぁ。


おかげで辞める気持ちが薄れて

「このクソがっ!!」

って思ってまだしがみつけそうです。

心の回復力を信じて


と言われたけれど、

回復のためには時間がかかる

そのためにたくさんの時間をさいたけれど


次から次へと耐えられないことが増える。

昨日もまた、家族に問題が大きく表面化した。

なぜもっと早く、なぜもっと強く言っておかなかったのか。

そばにいるのに何もできない。

もう耐えられない。

なにか自分の芯が心が溶けていくような

そんな気持ちになった。



逃げ回ったのに

全然逃げられないことばかり。


今年は大殺界らしいけど、

ここまでくると

サンドバックのように

もう打たれるままに打たれて

くったくたになるまで打たれ続けて


回復は二の次なのかもしれない


泣いても泣いても全然心が落ち着かない

考えすぎないようにしているのに

思考が止まらない。


病んだとき、「なんでもいいから誰か助けてくれよ」と思っていた。


今、まさにそんな気分で。


でも助けてくれる人なんかはいないことはもう分かっている。


立ち上がれないなら寝そべっちゃえばいい。

そう思うけど、

家族の前ではそうもいかなくて


もう明日のことはどうでもいいし

会社もやめちゃって、

なにもしないで過ごしたいと思う。


逃げても何も変わらないけど

猛ダッシュで逃げてしまいたい。

自分の人生から。

自分が流産したことを

というより妊娠した幸福だった時間のことを思い出すのが辛くて

この2週間逃げ回った。


まだ心の整理はつかず

でも、

大好きな人のリサイタルや

遠ざかったけど好きだった人のお察し訃報や

会社では、私を嫌った後輩が自滅して毎日のように騒動を起こしたり

子供が特性のある子に実は毎日のように他害に合ってたなど

とにもかくにも色々なことが起こりすぎて

考える間もなく過ごした。


春でよかった。

環境の変化が多い。

辛いことから逃げ回れる。



そして、手術後の検査のためようやく今日リプロに行った。

流産の際の遺伝子検査の結果が出ていた。


xx 21トリソミー


この結果になんか驚いた。


まず1つ目。

4AAでの染色体異常。

んでもって21トリソミー。


40代では可能性の高くなる、いわゆるダウン症の子供。

もし、もう少し育ったとしても私はこの子を産んで育てる覚悟はできなかった。



もうひとつは

xx

女の子。


体外受精も顕微授精も男の子が多いイメージだったけど、女の子もいるんだなぁ。

と。


そのとき、ダウン症の女の子を抱いている姿が浮かんだ。


不思議となんか、ストンといろんなものがあるべきところにおさまった気がした。


私が決断することをこの子は知っていたのか。それで生まれないと決めたのか。

遺伝子異常は、生物の摂理とはいえ、

そこに何かしら理由をつけたくなってしまうのは人間のさがだと思って許して欲しい。


それと同時に

私、あと何度、

これを経験することになるんだろうか。

とも。



胎児に「ストロング」と呼びかけていた。

第一子は寝ている間、私のお腹をさんざん蹴ってくるのだが、それでも元気に育ってくれたからだ。

でも染色体異常もあったのに9wまで育ったと言うなら、本当に「ストロング」な子供だったのだと思う。



喜びと悲しみが入り混じるこの瞬間をあと何度味わえばいいのだろう。

その感情はたとえ成功しようと失敗しようと報われることはなく、人生の一部として存在し続けると、もう知ってしまった。


私は妊娠できて幸せだった。

それなのにいまはそれが辛さとなって押し寄せてくる。

幸福だったことが恨めしいときもある。


もう一度この手に赤ちゃんを抱きたい

私には過ぎた願いだと思う。

続けるしかない。


でも今は。

苦しくて辛い自分のためではなく、

生まれなかったこのコのために泣こう。

やっとそれができる気がする