働いているお母さんと昼食を食べた。

 1時間の昼休みを利用するので、あわただしい。

 これと言ったことを話すわけではないのだが、いま話さなければならないことってあるのではないかと、思ったのである。

 働き方、職場での人間関係の持ち方をわたしの体験から話しておきたいと考えたのである。

 お母さんは、働きながら二児の子育てうぃ一人でやっている。

 そのことを、周囲の一緒に働いている女性たちはわかっている。

 周囲の協力を得ながら、働き続けているのである。

 

 最近、わたしは周囲の女性たちと話す機会があり、当該お母さんの話題になった。

 お母さんの働き方、考え方に、かなりの批判がでた。

 周囲の女性たちとは、みなさん普通の家庭のお母さんである。

 

 その批判のいくつかは、当該お母さんに伝えておく方がいいと判断したわけである。

 わずか30分しか話す時間はなかったが、働き方、考え方についてアドバイスしておいた。

 はたして通じたかどうかはわからない。


 このテレビドラマの原作は、三上延さんの同名小説である。

 メディアワークス文庫から3冊出ており、2月に新刊が予定されてる。


 古書店を舞台に、古本がさまざまなミステリーを生じさせる。

 そのミステリーを若きビブリア古書堂女店主、栞子が解き明かしていくエンターテインメントである。

 「ビブリア」とはラテン語bibliaからとった言葉で、本を愛する人の意味である。

 一話には夏目漱石全集の中のそれから収載刊、二話には文庫本の落穂拾いが、謎の物語を作り、栞子が見事に読み解く。


 この栞子を、剛力彩芽さんが演じ、わたしの目をくぎ付けにした。

 原作の栞子は色白、お嬢さんタイプ、黒いロングヘアになっているのだが、剛力さんはショートヘア、文学少女、繊細な感覚の持ち主と栞子を受け止めて演じきっている。

 脇をAKIRA、高橋克実さんが固め、いいドラマになるのではないかと感じさせてくれる。


 来週月曜日午後9時、フジテレビで第3回が放送される。

 早く暖かくなってくれないかと思う。

 寒いと、行動できない。

 ゴミ出しもためらってしまう。

 月曜日は不燃物の回収である。

 室内で出せるゴミを探し、ポリ袋に入れ、口を閉じれば、

 あとは外の決められた場所に置いてくればいいのだが、

 気合が必要になる。

 それにしてもと、室内を見まわしてみると、使っていないものが、

 山となっている。

 つくづく、生きていることは、ゴミを出し続けることだと思ってしまう。

 もっと室内を片付け、すがすがしい環境にしなければとは思うのだが、1週間もたつと、山が大きくなっている。

 気持ちとは別に、その環境変化に慣れた方が楽だと妥協してしまう。頭が行動を決めてしまうのである。

 そこで、桜が咲くころまでに何とかしようと、考える。

 結論。安心する。


 春、桜。何人にも大学通りの桜見物の招待をしてしまった。

 そのうちの何人かは部屋にいれなければならない。

 それには、部屋の大掃除が必須になる。

 人間関係がなければ、快適な居住空間を作ることができない。

 己の弱さを感じ、寒さの中、大きなため息をついた。

 明日は可燃物のゴミ収集日である。

 曜日を確認する大切な手掛かりがゴミ出しでもある。

 昨晩はまとめて4人の誕生祝いをした。

 場所は、誕生祝いの対象者の一人の自宅である。

 当初は、食事会をするというのが集まりの趣旨だった。

 ところが、参加者の名前を確認したらフラワーキャンドルの「きょうちゃん」に昨年お願いした対象の2人がいたので、急遽わたしは誕生祝いをすると宣言した。

 みなさん、わけがわからなかったと思う。


 ワインを買ったり、誕生祝いを買い足したり、デパートでケーキを探したりと大忙しになった。

 荷物は増え、重くなる。しかし宣言した以上、必要なものを買い整えなければならない。

 バースディー・ケーキを買ったときは、さまざまなサービスが用意されていると感心した。

 名前を入れてくれたり、大小のろうそくをつけてくれたり、何時間後に食べるのかい聞いてくれ、ドライアイスを入れてくれたり、至れり尽くせりなのである。

 喜びごとの品物を売るとき、付随サービスが用意され、それをきちんと提供する販売員の気持ちがありがたかった。


さて、誕生祝いを始めた。

 参加者はわたしをいれて5人。

 まずは進行を私が説明する。

 食事、食事後バースディー・ケーキを食べるとした。


 食事は知り合いの自宅なのですべて手作り。

 小エビ入り野菜サラダ、たくあん、タコの酢の物、白子のポン酢添え、鶏肉の唐揚げと素材の味が引き立つ調理で、わたしは満足した。

 1時間ほどでお皿からすべての食べ物が姿を消した。

 そこで、バースディーケーキを出してもらい、ろうそくを立て、明かりを灯し、電気を消してもらう。

 誕生祝いの対象者二人に吹き消すよう指示。

 電気をつけ、誕生祝いのきょうちゃんに作ってもらった誕生花のフラワーキャンドルを渡す。

 二人は大喜びであった。きょうちゃんがつけてくれたバースディーカードに記した誕生花とその花言葉でプレゼントの意味を理解した二人はじっくりキャンドルを見せ合い話が尽きない。

 ずっと見ていたかったが、ケーキを食べる。


 早すぎるお祝いであった。それでも年齢をこのような形でお祝いすることはいいものだと思ってしまった。









 準備が整い、マンションに向かった。

 

 寒中お見舞いを2通いただいた。

 1通はわたしの出した年賀欠礼の返書。わたしが師と仰ぐ方からの返書である。

 もう1通は、尊敬し生涯付き合いたいと思っている先輩からである。

 返書をしたためることで自分の常識のないことで、なかなか書けなかった。

 師と仰ぐ方には、寒中見舞いに対する礼状であるので、接ぎ穂がある。つまり書きやすいのだが、後が続かない。

 礼状は素直に書けばいいと思うのだが、格好をつけたい心理が働き、なかなか筆が前に進まないのである。

 感謝がある、その感謝を筆にしたい、感謝をことばにすることばが出てこないのである。

 一方の先輩は、いつもわたしの心を打つ内容の手紙をくれる。そのお返しをしなければと、力む。

 

 書けないなどの経験は皆無である。しかし今回は参った。

 書けないのである。


 心を落ち着かせ、素直に書く、と思いきかせて、ようやく2通を書き上げた。


 わたしのことを心配してくれる心に、答えられたかは疑問であるが、

何とか応えたかったわたしの気持ちは文章に込めたと思っている。

 おもしろい本を読んだ。

外山滋比古さんが大修館書店から2012年10月20日に出版した

 『ことば点描』である。

 なかでも、「敬語の論理」はおもしろかった。

 戦後、敬語は顧みられることが無くなった。

 そこに、外山さんは敬語の論理の考え方で明かりをともそうとしたのである。


 「敬語の基本は相手に不快の念を与えないようにという意識である。人間と人間がふれ合うとき、とかく、おもしろくない心理的摩擦を生ずる。それを避けるための潤滑油がほしい。敬語はそのために用いられる。相手を尊敬するかどうかではない。互いに気まずい気持にならないようにことばに油をぬるのが大人の知恵である」

 敬語の論理とは人間関係の潤滑油であると明確に言い切っている。


 そのうえに、コカコーラが日本に上陸したころの話をもってくる。

 当時のコカコーラ社は世界展開をしており、一つの宣伝戦略を実行していた。

 「Drink Coca Cola」を展開先の国のことばでいうことを要求したのである。

 日本のことばだと「飲め、コカコーラ」になる。

 日本人はまずいと考え対案を出したのが、

 「すかっと、さわやかコカコーラ」である。

 この表現であれば、消費者を敬う、敬語の心がにじみ出ていたというのである。

 わたしが就職したころはコカコーラ全盛の時代。

 独身寮に帰れば、コカコーラを飲み、研修のときにはコカコーラの宣伝を教材にしていた。


 さて、この敬語をもっとわかりやすく外山さんは説明する。

 敬語は敬遠の論理であるというのである。

 「コーヒーでよかったでしょうか」

 と、過去形こそ丁寧な言い方なのだというのである。

 

 わかりやすく説明してくれる。

 Go to the station please. 駅においでください、

 は命令形である。

 Will you go to the station?

 は、丁寧になるが、さらに、

 Would you mind going to the station?

 と言えば、「駅までおはこび願ってよろしいでしょうか」となる。 

 人間と人間との距離をことばの込めながら、付き合う。その潤滑油が敬語だと分かって、得した心持になっている。

  

 まだ今日は終わっていないけれど、偶然の力の存在を信じた。

 今日は金曜日だと思っていた。

 というのは、市役所で働いている知り合いがいるので、昨日、メールした。

 ところが、その人は、知り合いに不幸があり、金曜日は告別式があるので休む、と返信があった。

 なぜか、というのではなく、曜日の感覚がゼロになっているわたしは今日は金曜日と思い込んでいた。

 本来ならば、ごみの収集で曜日を確認するのだけれど、それすら念頭になかった。

 あっ、今日は市役所に税金やら保険料を納めに行かなければと思い込んでいた。

 午前中は体が動かない。

 昼食を食べ終わった途端、市役所に行かなければの気持ちが体を押すではないか。

 昼前にスーパーに買い物に行き、雪解け状態を見ておいた。

 自転車に乗れるかどうかでの見極めをしておいたのである。

 乗れるがその時の判断であった。

 自転車に乗り、市役所まで一直線。

 支払窓口でお金を出した瞬間、見知った顔が近づいてきた。

 手を振るが、相手は気がつかない。

 「おい」と言うと。ようやく気がついた。


 耐震工事中のスペースは様変わり。

 「会計のOOさんはどこへ行ったのか」と聞いても、

 「さあ・・・」

 と言うだけ。

 突然、仕切りで囲まれた一角から、

 「アンクルさん、わたしはここですよ」

 と、懐かしい顔が出てきた。

 

 顔見知りに合わなければ、立ち止まって話をすることもなかったし、懐かしい顔にも出会わなかった。

 偶然とは、摩訶不思議な力である。

 経済がグローバル化し、日本企業は海外に安価なコストを求めて、

 国際競争力を維持しようとしている。

 日本的経営とは終身雇用であったが、この慣習さえ無視されてからもう30年は立つだろう。


 それは働く人間の人格、人間性を無視し、人間を不安定にしてきた。

 企業においては、早期退職制度が定着し、働く人間に不安を増殖してきた。

 コストを下げるには、正社員を減らし、派遣社員、パートを増やす。

 低賃金で働かざるを得ない状況がいまそこに生まれてしまった。

 少なくなった正社員には過重な労働が待っていた。

 いまの企業社会は余裕がないのである。

 結果、格差社会、若者の失業率の増加に歯止めがかからなくなっている。

 今年の成人式で、若者が言っていたのは「就職したい」。

 

 そこに、大阪市立桜宮高校のバスケットボール部主将体罰事件。陰湿な顧問による指導の名を借りた暴力。

 

 こんな社会になぜなったのか。

 「勝つ」ことが最優先になったためである。

 国際競争に勝つ、バスケットの試合に勝つ。

 勝つためであれば、何でも許されるが暗黙の了解として社会が認めてしまったのではないだろうか。


 逃げ場、逃げ道をなくした社会は不幸であるとわたしは思う。

 企業においても、高校においても、逃げ場、逃げ道をきちんと用意しておける社会をどうしても作る必要があるのではないか。

 昨日は、成人の日であった。

 平和の時代が60年以上続いている。

 平和の時代は自分の生き方を考えるだけで事足りる。

 ところが、空から焼夷弾が雨のように二十歳の女性に降り注いだ時代があった。

 そんな時代の思い出は、その女性から消え去ることはない。

 生きるために逃げる。

 そんな思いでしか語ることができない。


 息をつめ、聴いているしかない自分がいる。

 二十歳の時は、わたしもなにか浮き浮きしていた。

 少なくとも、生きることしか頭に浮かばなかった。


 戦争中で、米軍が都心に間断なく焼夷弾を投下してきたのである。

 制空権を失った日本はなすすべもなく、市民は逃げ回っていたのである。

 

 夢も希望もなく、ただ命を失いたくないという本能で逃げ回った二十歳がいたことを、忘れてはいけないとわたしは思う。

 昨日は雪の降り積もるさまを見て過ごした。

 見ながら、明日は歩くことに、困難が待っているだろうと思った。

 振込の用事があったので、長靴を履いて8分先の郵便局まで歩いた。休日明けの午前中はいつも混んでいるのだが、並んでいる人はいなかった。

 足元が危ないと考えて、外出を控えているのだろう。

 

 アイスバーンになっている歩道は、ゆっくり歩けば、滑ることはない。

 その感触を味わいながら、ゆっくりゆっくり歩いた。

 太陽の光を反射させて、雪はキラキラ輝いていた。


 雪道で転倒して負傷したり、死に至ったりするのは50代以上が多いらしい。

 

 急がない生き方がシルバーにとっては大切なんだなと思いながら、朝の散歩を楽しんだ。