今年の3月31日には、高校入学50周年のクラス会を開く。

 過日幹事6人が集まり、場所は東京駅近辺と決めた。

 そろそろ案内を出す時期に来たので、東京駅にある会場の下見をし、決めようと幹事3人が集まった。

 和食、オイスター料理店、よく結婚式の二次会に使われる会場などが候補として挙がっていた。

 会場の地理的な分かりやすさや、料理が年齢に合っていそうかなどを選定の基準に丸の内側をそぞろ歩きした。

 明治生命館は重要文化財に指定されている建物を内部に抱え込んでいた。いまと歴史がうまく溶け合ったいい雰囲気を醸し出していた。

 地下1階にあるオイスター料理店は、味といい雰囲気といい、なかなかいいものがあった。

 同じ地下には結婚式の二次会でよく使われるスペースもあったが、若者が使う場所のイメージがあるため、わたしは積極的にはいいと言えなかった。クラス会を地下でやることにわたしは違和感を感じたのだ。

 暖かい日である。男三人が気ままに歩くにはいい日である。決めずにぶらぶら歩いた。

 幹事の一人が、パレスホテルの目の前に噴水のあるレストランがあると言い出した。

 見に行くことになった。

 和田倉噴水公園レストランがあった。皇居を借景とし、時間になると噴水が吹き上がる。

 改装なった東京駅丸の内側がくっきり見える。

 わたしはすっかり気に入った。係の人に聞いたが、3月31日は予約が入っており、だめとなった。

 平日ならば、うまく段取りできると言われたが、決めてある日曜日は変更したくない。またの機会に回すことにした。

 最後に行ったのが和食の店である。東京駅丸の内北口から歩いてすぐである。

 和食で、掘りごたつタイプである。

 選定基準を超えている。料理もうまい。

 その場で、決定し予約した。

 お昼の東京散歩、いい景色を見させてもらった。

 「体罰」がいま普及している。

 教育現場で使われていると思うが、これは許容されていた。

 わたしは、小学生には柔道、中学にはハンドボールを経験した。

 指導していただいた先生にも、先輩からも体罰はなかった。

 したがって、今起こっていることが当初は理解できなかった。

 指導者が、体罰と称して、非指導者に暴力をふるうとはあってはならないことである。

 親にも叩かれたことのないわたしは、これは許されないことだと思った。

 桜宮高校からはじまり、いまや女子柔道日本代表にまで、体罰問題が露呈している。

 叩かない、殴らないのが指導でSる。話し合うことが指導でSる。

 暴力を嫌悪することが、スポーツをする人間の本能である。

 わたしは、体罰など家庭、スポーツの世界では特に拒否しなければならないと考えている。

 

 体罰は、人間が人間になしてはならないことなのである。

 図書館で借りたいい本であった。

 ひとり親だけでなく、親になっている方にも読んでもらいたい内容になっている。

 筆者は、佐々木正美さん。子どもの精神医学・精神保健の臨床医として45年の経験のある男性である。

 小学館から2012年11月6日初版が出ている。


 結論から言うと、子育ては親の生き方が基礎になると、子どもの心の病と向き合った経験から述べている。

 本文にある、ゴシック体になっている文章をいくつか紹介する。

 「子どもがいくつになっても、ひとり親は子どもの教育者ではなく、保護者でいてください」

 「人との絆をたくさんつくりましょう。子育てに余裕が生まれます」

 「いろいろな人の手を借りて子育てをしてください。子供の育ちを豊かにします」

 「子どものプライドや自尊心を守れる親になれば、子どもは非行に走りません」

 「親が前向きに生きていれば、子どもは自然に大人への憧れを持ち、躊躇なく大人になることを望むはずです」


 子どもを一人で育てようと考えないで、肉親、地域のネットワークの助けを利用して育てる気持ちを持つことが大切と筆者は繰り返し述べていた。

 そうか、わたしも子育てに参加できるのだと、読み終わった後、感じた。

 わたしは大学に入って、初めて地方出身者と出会った。

 いまでも、付き合いのある友人は、鹿児島、高知、静岡、神奈川出身者である。

 以前も、いまも自分には温かい風土で生きてきた人間にしか親しみを感じないのか、と思っている。

 しかし、団塊の世代は長い人生を生きなければならなくなっている。

 そこで、自分の常識では思いもつかなかった現実に出会う。


 職場では札幌出身者と仕事を共にしたことがある。いい人だとは思ったが、自分が北国の人と友達になったという気がしていない。

 相変わらず、自分は北の人々とは距離があると思っていた。


 ところが、2年前に、岩手出身者と知り合う機会があった。

 先日、テレビで宮澤賢治と妹との関係を詩集「永訣の朝」で紹介していた。

 妹さんこそが、人のために生きると決めて生きた人間であり、賢治は妹さん亡きあと、その妹の遺志を継いで生きたといううのである。

 

 岩手の人間の優しさ、無私の心に触れるにつれて、北国の人間が身近に感じられるようになった。

 今週末から友は、数年ぶりに実家に帰るようである。

  今回の事件帖の主役は『論理学入門』(ヴィノグラードフ・クジミン著、青木文庫版)。わたしにとっては遠い世界の本である。

  しかし、身近に感じる人もいる。そんな中の二人が今回の副主人公(中村獅童と佐藤江梨子)である。

  

  ある日、鎌倉で囚人脱走のニュースが流れる。そんな時、息を切らせて、コートのボタンもきちんと掛けていない男が、ビブリア古書堂に来店し、『論理学入門』を売りたいという。住所名前を書いてもらい、 査定をする時間をくださいと言うと、男(中村獅童)はあわてて、翌日午後4時に来ると言い残して去る。

  その本には、夫婦生活を続ける男と女(佐藤江梨子)を結び付けた思い出が塗り込められているのである。

  自分を馬鹿だと思っていた女の人生観を変えさせたのが、男が『論理学入門』に書いてあったことばを使ったことによる。

  男は、

  「この本にも書いてある(女に文庫本を見せながら)。三段論法は馬鹿な人間には使えない。三段論法を、いま君は使った。だから君は馬鹿ではない」と、言った。

  

  この男は読書家である。その男が、本を手離す。

  ヒロインの栞子は、男が古本屋に手離した本を調べる。その時に見たものが最近3か月の雑誌にはスリップがはさんだままという事実確認をし、男がなぜ本を手離すことにしたかの真実を突き止める。


  この事件手帖のよさは、血も暴力も人間の卑しさもないことである。

  いまを、精いっぱい生きようとする人間を描いていることである。


  女が本を取り戻しに来たり、男が脱走犯の容貌に似ているなど、どたばたはあったが、ビブリオ古書堂に関係者が顔をそろえたところで、栞子が謎解きをする。

  男が失明の恐れのある眼病にかかっていることを雑誌のスリップからわかったと解説する。

  さらに、『論理学入門』に貼付されていた「私本閲読許可証」のことを夫婦間で解決しなければならないと示唆する。

  このときの、剛力さんの台詞回しが、少し気になった。優しさが欠けており、棒読みになっていると感じた。

  原作では、栞子は本の話になると饒舌になる、とある。

  饒舌には感情が入るはず、が私の見方。

  

  女は、男の代わりに自分が読み手・語り部になると言い、前科のこともわかっていたと言った。

  次回作が楽しみである。


そうそう、原作のビブリア古書堂は北鎌倉にある、しかしテレビでは江ノ島電鉄沿いにしている。江ノ電は絵になるが、ビブリア古書堂と剛力彩芽さんは北鎌倉が似合うような気がするのだが。


 、閉塞とは、

  とじふさぐこと、とざされふさがること、とある。

  バブル崩壊後から社会を表現する言葉として閉塞感が使われ、

  いまだ、その言葉が使われている。

  閉塞した社会、閉塞した時代、と使われているのだ。

  市場の原理に従うとか、規制を緩和するとか言って、政治を進めて

 きたが、潤ったのは企業のみで、社会には所得格差、正社員減少、

  若者を中心に不安感を持って生きるしかない社会が立ちはだかる 

 ようになった。

  働き甲斐、生き甲斐を喪失した社会にしてしまった、政治の責任は

 重い。


  閉じ、塞ぐの反対語を考えてみた。

  やはり、開放かなと思ったが、それ以外は頭に浮かばない。

  開け放つは、閉塞に反対の意味は持つが、閉塞の持つ暗い重さを

 明るい快さを感じさせてくれない。

 絶望を広辞苑で引くと、

 望みのたえること。希望を全く失うこと。

 と書いてあった。

 

 となると、絶望の反対語は希望か。

 希望とは、

 あることを企て、その達成を望むこと、とある。


 望みとは、

 願い、願望、希望、とある。


 わたしは、絶望の反対語は願望ではないかと考えていたのである。

 希望より願望が、人間の真の望みにふさわしい言葉だと思うからである。

 

 希望は、いつでも、どこでも思っていい望みである。

 願望は、その人が深く考え、その人にしかないひとつの望みでありような気がする。


 絶望をばかり感じずに、願望を実現できる社会が、絶望のことばを死語にできるのだが。

 今日は、わした銀座ショップで、離島フェアをしているというので行った。

 いつも見る、沖縄特産品が入口の小さいスペースに置かれていた。

 沖縄で沖縄を売る。

 これは難しい。

 今後のわしたのアイディアを期待する。

 いくら離島でも、沖縄の特産品がそうあるわけではないだろう。

 いつも見ている沖縄特産品を凌ぐものはない。

 何も買わなかった。


 沖縄は日本文化ではないような気がする。

 泡盛はタイ米を使った蒸留酒である。

 白の作り方も日本文化圏とは違う。


 日本そばではない、そばを食べる。

 

 わたしは、だけど、沖縄で死にたいと思っている。

 昨日は、仕事をしてから映画観賞を楽しんだ。

 仕事も映画も移動は自転車。自転車を漕いだ時間は約2時間。

 手袋は落としてしまうし、あまりよい活動の日ではなかった。


 で、今日は何もやる気が起こらず、ただきちんと3回食べていた。

 

 活動した翌日は、燃え尽きてしまうのかと、今後の活動の仕方を考えた。

 100%力を出し切ると、翌日は充電モードになるしかない体になっていることを自覚することから始めなければならないと思った。

 エネルギー発揮もその補給も八分目で行こうと結論を出した。

 観客は40人ほど、40代以上の人ばかりであった。

 橋爪功、吉行和子、西村雅彦など芸達者をそろえた小津安二郎監督に捧げられた作品は、東関東大震災や新幹線を登場させて現在を含み込ませ、いい味に仕上げていた。

 山田監督は、どうしようもなく不器用な男とその男をしっかり支える女を描く天才である。

 この作品も不器用な、しかも信念を持って生きている男を、好きになってしまった女。この不思議なつながりを淡々と描く。男はこんな家族になってしまったことを嘆くが、女は光を見ることができる。

 ちゃんとしたコミニュケーションをとれなくなった親子、しっかりコミュニケーションをとれるのは他人。

 親子の断絶、核家族の課題などの問題意識で撮られた小津の作品。山田は若者に託す。

 二男のパートナーになる女性、ユキ(荒川ちか)ちゃんに、山田監督は思いを託す。

 わたしは、なぜ、山田監督は、小津監督の作品後、50年がたった時に、同名の作品を創りあげたのか。

 これは、突き詰めて考えることではないかと思うが、山田監督の痛々しいまでの崩れ去ろうとしている親子関係に対する、これでいいのかという叫びを聞いたような気がする。

 小津作品の尾道ではない、もっと都市から離れている瀬戸内の島を夫婦の住み場所にしたわけは、まだまだ残る強い人間関係に未来をかけようとしたのではないかと思う。