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ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press


もう

山、水に煙る……霧。
行く手は、いまひとつはっきりししない。
なによりも謙虚かつ慎重になること。
いっさいの決めつけ、先入観は
プロセスをこじらせることはあっても、
なにかが改善されることはない。
そこに作為があっては、得られるものもえられない。
ひたすら純粋に待ち、求めることで道はひらける。

ソフトカバー版 ゲド戦記
 全六巻(セットもあり)
岩波書店
ル・グウィン
清水真砂子訳

今から30年~25年位前の学生の頃は、
SFばっかり読んでいた。
はっきりとは覚えていないが、
「易経」にのめりこんでいったのも
ディックの作品がきっかけだったのかもしれない。

さて、グインというと、
ぼくにとっては、ちょっと観念的なおハナシを書く、
アメリカの女流SF作家で……

個人的な偏見があって、
ことSFという分野においては女流作家の作品には、
ほとんど手をつけたことはなかった。
グインも、アンソロジーに入っていた作品などを
もととんなきゃ!などと、
仕方なく(作者にはシツレイだが)
読んだことがあっただけで、
まあ要は、「闇の左手」もなにも、
ほとんど知らないのである。

映画の影響で、
たまにはこういうのもいいか……
などと思って読み始めたら、
存外おもしろかった。

ただ……
「おもしろかった」というのは、
おっさんになった今だから言える感想かもしれない。

エンターテイメント性という意味では
タイクツな部分も多々あり、
もしここに18歳のオレがいたとしたら、
その18のオレにはすすめない。

比較的テンポがいいのは3巻までで、
そこから先、話運びはぐっと減速する。

なぜだろう。

ゲドがおっさんになったからである。
最初からそのきらいはあったが、
舞台はワカイモンの時代になり、
ゲドは完全にその背景にとけこんでしまう。

一世一代の大仕事をした後は、
持てる魔法の力もすべて失ってしまい、
おっさんどころかじいさんになってしまって、
故郷の土地を耕しながら、
愛する人と共に、淡々とくらしていくのである。

いいねえ。
すごくいい。

野暮なたとえだが、
社長、部長もそれなりに力(魔法)があって、
大仕事もするだろうが、
退職してしまえばただの人だ。
それまでにいかにして
安定した人格を築けているのかが、
結局は問題になる。
なにをもって「安定」というのか。
いろいろな考えや、観方があるかとは思うが、
「死の受容」は、その安定に決定的に重要な役割を果たす。

手垢のついた言い回しで恐縮だが、
「死(生)」というコンセプトは全六巻を、
通奏低音のように貫いている。
これが作品全体を暗く、重くしている理由だろう。
そしてこれが、18のオレにこの作品をすすめない
もうひとつの理由である。

舞台になっている世界には
産業らしい産業はないが、
魔法使いが使う「魔法」は、
風を起こしたり病気を治したり、
生活の様々な側面を支える実用的な技術である。
自然界の力をニンゲンの都合に合わせて利用するわけで、
使えば必ずどこかに負担がかかる。
したがって、サリーちゃんのように
気軽にパーパーパーパー、マホーを使うわけにはいかない。
どんなに小さな魔法でも、
乱用は世界というシステムの均衡を崩す。
どこにどう負担がかかるか、
予測するのはむずかしい。
だから魔法使いには、
魔法が使えるという才能のみならず、
幅広い視野を持っていることと、
人格的にも高いレベルに成長していることが
どうしても必要なのである。

「高度に発達したテクノロジーは
魔法と区別がつかなくなる」
といったのはクラークだが、
ご賢察のとおり、この作品における「魔法」は、
おそらくテクノロジーのメタファーである。
クルマやパソコンは現代の魔法だが、
さて、この現実世界の均衡は……
どうなっているのだろう。

外伝である6巻の、作者自身による
「まえがき」でもチラリとふれられていたが、
この作者は、たぶん間違いなく、
道徳経をはじめとする、
老荘思想についてもわかっている。
そういう意味では易システムとも、
無関係ではないのである。

そんなわけで、シリーズの主要な構成の一部は、
以下のようにわりときれいに、
太極図というダイヤグラムに展開することができる。

げど


18のオレがどういう感想を抱くか、
今となってはわからないが、
このように「おもしろい」というイミは、
歳とともに変わっていくのである。
あたりまえだけど。


かんいすい

なにかに板ばさみになってしまったような困難。
今そうでなくても、そのようになる可能性あり。
なんとかそれを回避することができても、
必要なことを学んでいないのであれば、
コスモスは別の状況で再び同様の課題を出してくる。
大切なのは、高いところから低いところへと流れていく
水のような誠意と真心である。
「ギャラリー」というテーマを新設しました。


「写真が趣味です」
といえるほどウマくもないし、
カメラに詳しいわけでも、マニアでもない。
カメラを何台か持っています、というと、
へえ、すごいですね~
などといわれることもあるが、
そのほとんどは千円~一万円以内のトイカメラ、
オモチャのカメラである。

だからヒトサマの前では、
写真を撮ってるとか、カメラを持ってるとか、
あんまり、いわないようにしている。

要は、シロートです。
だもんで、
ほとんどが箸にも棒にもかからない写真ばかりだが、
継続して撮り続けていると、
それでも何枚かは

『これブログにだったらのせてもいいかな~』

なんていうのがでてきて、
いままではテーマ「雑記」の中で挿絵風に使ってきた。
だったらもういっこぐらい、テーマ追加していいかな、と。
見せれる方はいいメイワク。


7月にLOMOというロシアのメーカの、
CEMENA 8M(スメナ)というカメラを買ったので、
今回は、それで撮ったやつを何枚か載せてみた。
まずはカメラのご紹介。

すめな

↑コレ……なんですが、なんか…すごい。
もちろんすべて手動の原始的な構造のカメラだが、
絞りはレンズの周囲のリングを回すことになってて、
なんか、64,128,256、二倍進数の旧ISO表記だし、
上部にフラッシュがセットできるような
マウント(台)がみえるが、
これはただの台で、
レンズ向かって右側のデッパリは一応X接点らしいが、
動作をためす勇気は……ないなあ。
外付けのストロボの方が高くついたりして。

ピントは、目測。カンである。
前の筒を回すのだが、
買ってすこしして内部のストッパーが取れ、
くるくるよくまわるようになって、
1m以下までまわるようなって、
そのまままわし続けたら、
カポッと筒がとれてしまった。
だからなんだ。
またハメればいいのである。
実害はないのでほうっておく。
というかもともとデッドストック品の放出だから、
修理はできない。

レンズ向かって左のレバーはチャージレバーで、
チャージするの忘れてシャッターを押すと、
錯乱した夜明けの夢のような写真が撮れる。

cemena004

ではいくつかマトモっぽい写真を。

cemena005
だれもが一度はやってみたくなるバルブ撮影。
流れるクルマのライト。

近所に……といっても一駅先だが、
ちょっとしゃれた一角があって、
雑貨屋やフレンチレストラン、ブティックなどがある。
個人的にはリトル青山と読んでいるんだけど。
散歩がてらの3枚。

.cemena001
リトル青山その1

.cemena002
リトル青山その2

cemena003
リトル青山その3

今年の夏、水上温泉にいった。
天気はあまりよくなかったが、
まあまあくつろげた。

cemena006
朝霧は河の流れと共に下っていく。

サラリーマンをやめてから、
都会はトンとご無沙汰……でもない。
かみさんのお供で丸の内に行ったときの一枚。
肉かな……と思いきや、すべてマメ。

cemena008
オフィス街の自然食カフェ

都会のコーヒー屋にはしゃれたものが置いてある。

cemena007
銀座の天使

またたまったら載せます。
本日、これまで!(里見八犬伝…古いナ)


ふうすいかん

停滞していたもの、かたまり、人のあつまりなどが、
時を得た風によって吹き散らされる。

そのかたまりは、「悩み」かもしれない。

散らされたあとふたたび集まってきた
人々や、ものや、考えなどは、
いままでとはまったくちがったものになる。

そのなかには、
新しい目的、新しい視点での解決が、

かならずある。

(都合により、従来の敬体(ですます調)から、
常態(である調)に変更しました。
雰囲気変わりましたが、どんなもんでしょ)

久々に占いの話です。

長くなってしまいました。
ご用とお急ぎでない向きは
よろしくおつきあいのほどを。


ここのところの、六十四卦の紹介ログ、
「××:通りがかりの人へのメッセージ
または「××」の意味」
シリーズでは、
下卦が坎(かん)、コード番号でいうと
「6」の卦の紹介になっています。

坎卦は自然物でいうと、
「水」が割り当てられています。

水といえば、四難卦。
四難卦の説明はしたかなぁ……
と過去ログを検索してみると……

去年のちょうど、9月。
イキナリ六四卦ではだめなのか
というお話のなかで、
カンタンだけど一応説明しています。

すっごく粗っぽくいうと、
易システムは異なった64のメッセージのうちから、
あるひとつのメッセージを無作為にとりだして占うものです。
(おみくじではありません!その辺の話は、2005年11月のログ、
【こたえはどこから】 をドウゾ(増えてきたな~自己参照。))

個人的には「いい・わるい」という言い方は、
あまり好きではないのですが、
「一般的には」いい卦わるい卦というのは、
確かにあります。

四難卦は、その名でわかるとおり悪い卦。
すべて「水」が絡んでいます。
どんなふうに悪いのか。
「イキナリ六四卦ではだめなのか」の説明を転載
します(ちょっとドドイツ風に変えてあります)。

屯(コード番号:64)
  =(ちゅん)下卦震の動きを上卦坎が妨害します。
  地面カチコチ、芽が出ない。
坎(コード番号:66)
  =(かん)純卦。上下坎。穴が二つある様子です。
  はまって這い出て、またはまる。
険(コード番号:67)
  =(けん)字からしてケワしい。
  前に急流(坎:外卦)、背後にお山(艮:内卦)。
  にっちもさっちもいかんぜよ。
困(コード番号:26)
 =(こん)上卦の沢から下卦の水へ。
  水がダダ漏れ、枯れた沢。

しなんか

このうち26は
(2006年07月22日ログ
【26:通りがかりの人へのメッセージ
または「困(こん)」の意味】
)で、
すでにご紹介しましたが、
残りはこれからです。


で、なぜ「水」絡みがそんなに悪いのか、
というのが今回のおハナシです(なげーマクラだな~)。

このコード番号6の八卦には「坎」
という名前がつけられていまして、
あまり見かけない字ですが、土へんに「欠ける」。
土が欠ける、つまり地面に掘られたアナを意味しています。
卦のカタチをみてもそんなかんじですよね。

かん2

なんかこう、人(真ん中の陽爻)が、
くぼみ(上下の陰)はまってしまっていて……
オトシアナに落ち込んでしまった人を上から眺めた図、
ということになりましょうか。
ちなに漢和辞典によりますと、
「欠」は人が身体をくぼませた様を描いた象形文字だそうです。
それで、なんで「水」なのかというハナシですが、
水は低いところにたまります。
アナっぽこにもたまるわけです。
そんなわけで、自然物としては水と結びついている……
というのが一般的な解釈です。

易システムは出自は中国です。
あちらにはハンパなく
でけえ河がありますよね。
揚子江、黄河。他にもいろいろ。
水です。
ちょっと前にもありましたが、
氾濫をはじめとする水難も多かったのではないか。
そんなところからも、

「坎」=「水」=災難・困難

という図式が成り立ったのではないかと……
個人的には思います。
とくに、どこかにそんなことが
書いてあったわけではないのですが。

そんなこんなで、実占でこの坎が出ると
『うわ』
などと、休日に職場の会いたくない人に
会ってしまったような感覚を
反射的に覚えたりしてしまうのでございます(大奥か!)。

とはいえ……

ここは日本。

そんなに毛嫌いすることも
ないんじゃないかと思います。
いえ、職場の人じゃなくて坎卦のことです。

日本では水は災難というより、恵みです。
世界的にみてもこれほど水が豊富なところも
珍しいといいます。
飲み水に困るということはありません。
ほかにいいところもたくさんあります。

まず柔軟ですよね。方円の器に従う。
四角い入れ物に入れば四角く、丸い入れ物に入れば丸くなる。
高いところから低いところへ流れる。なにをするにも自然体です。
すべてものを清める働きもある。
水のように澄んだココロ。
もう一度、坎卦のカタチをよ~くみてください。
やわらかいもの(上下の2陰)に、
芯はかたくしっかりした高貴なもの(真ん中の陽爻)がつつまれています。
人あたりはあくまでやさしく、芯はシッカリという構造です。
誠実さ、真心なんて感じもしますね。
また、水は命です。水なしでは生きていけません。
ぼくらの身体の70パーセントは水です。

まあ、よく考えたらアチラ(中国)の古典である
「道徳経」の中でも

「上善水の如し」

な~んていって、
水の徳を手本にしようということが書いてあったりします。

まあ、結局ナニがいいたいかというと、

坎=悪い

といったような、固定的なもののみかたは
やめましょうというハナシでして。

あ、これって占いに限った話じゃないな。
ドン・ミゲル・ルイスも「思い込みをしない」
っていってたように記憶しています。
日本では水は恵み……
とかいいつつ、最近は、
そうともいえないケースが頻発しているようですが、
これも、ぼくたちが何かの
「思い込み」をし続けているせいかもしれません。

別に速読ができるわけではないが、
本を読むスピードはそこそこはやい方だと思う。
しかし、どうしてもはやく読めない本、
というのもある。

まあもちろん、
なんでもかんでも早く読めばいいというものでもない。
詩集を速読する人もいないだろう。

「ポケットの中のダイヤモンド」
ガンガジ著
三木直子訳
徳間書店
\1600-(税抜き)

この本は詩集ではない。
小説でもなければエッセイでもない。
なにかのハウトゥでもなく……

いや、ハウトゥといえばハウトゥかもしれない。
ただし、目的がはっきりしたエクササイズが、
こぎれいにまとめれているわけではない。

代わりに中に詰っているのは、ひたすら、
著者からの問いかけである。

いくつか拾ってみる。

・私が本当にほしいものはなにか
・それが得られればなにがもたらされるか
・わたしはだれか
・ここにあるのはなにか
・「存在」を思考することは可能か
・私はどんなふうに罰しているか
・私はどんなふうに褒美をあたえているか
・私はなにから逃げようとしているのか
・私はなにをコントロールしようとしているのか
・コントロールできないものはなにか
……
等々。

べつに哲学書ではなく、
とくに難しい言葉が使われているわけではないのに、
はやく読めない理由はここにある。

ときに、カウンセラーの言葉にも似た問いかけや、
異なる伝統にその身を置いていたマスターたちが
共通に発していた問いであったりするが、
どれもこれも素通りできない質問ばかりである。

最初に著者から伝えられるメッセージも、
直接的でありかつ単純である。

「止めろ」

これだけ。
そののちに上記の問いを吟味する。

止めろとは、
自分自身を、自分の肉体も含めた
どこかに求めることを止めることと同時に、
「なにものか」であろうとすることを
止めてしまうことでもある。

やつの言ったことが気にさわるのは、
粗っぽくいってしまえば、
皆が自分に敬意を払わなければならないと、
意識的にせよ無意識的にせよ思っているからだ。
つまり、
自分はそのようなエライ人でなければならない、
というわけである。

そんな人になることなんか止めちまえ。

そういう一切を停止して
はじめて自由が垣間見える(そうだ)。

ぼく自身は、
自分の中にある、ほぼすべて思いが、
その大本を慎重にたどると、
生存欲求(肉体の保存保持)
に分かちがたく結びついていることを、
なにかのひょうしに歴然と実感して、
ちょっと愕然とした。
そう、自分の中にある、
いかに高尚に見える衝動・思いであっても、である。

自分自身と物理的なボディを激しく同一化しているわけで、
死刑が極刑として成立している根拠でもある。
ぼくの場合は唯識という知識を通じて知ってはいたが、
ただ知っているのと、
それを実感することはまったくちがう。

エライ人になりかけたところで、
今回はこのへんで。

最近はやりのぬりえや書き取りが、
手を動かす瞑想だとすれば、
この本を読むことは読む瞑想といえるかもしれない
大手の出版社がこのような本を出していることも新鮮だった。
やはり時代は変わりつつあるのだろうか。


らいすいかい

とける。
ほどける。

これが、この組み合わせのテーマです。
ほどけることにもふたつの側面があります。
ひとつは、いままで組んでいた手や関係がほどけること。
もうひとつは、問題や悩みがとける(ほどける)こと。
どちらも、いい場合と悪い場合があります。
だけど、大事なのは、いまここで体験していることが、
「いい」か「わるい」か、ということではありません。

いまここで体験していることが、
これから新しい状況・新しい可能性がひらけてくる段階に達したしるしである、
ということを、わかっているかどうか。
実は、これが一番大事なことです。
いい、わるいのこだわりを越えて、
新しいステップへの準備をおこたらないように。


☆ときどきこのブログを
 気にかけてくださる
 あなたに感謝します。
 
謝謝。


びせい

未知。混沌。
ただし、なんでもかんでもゴチャ混ぜの混乱状態ではありません。
具体的な結果、または成果があらわれるまえの「可能性」が、
最大限に満ち満ちている状態です。
たしかに、外見的には「一寸先は闇」または「五里霧中」の状態と区別がつきません。
しかし、実際は、
ありとあらゆる可能性が同時にあなたの目の前につきつけられているために、
目の前が真っ白に見えているだけなのです。
このような状況で一番大切なのは、
できるかぎり、「決めつけ」や「執着」を低くおさえて、あらゆる可能性に心を開くことです。
たいていの場合答えは、まったく思いもよらなかったところからもたらされるものです。

長くなりますが……
3冊ほど本の紹介を。

   *

NHKアニメ「おじゃる丸」に出てくる
カズマ君の趣味は石集めだ。

ぼくはといえば、
別に石集めは趣味じゃないが、
カズマ君のように石にかわいがったり、
石を持ち歩くこと自体は、
別に変だとは思わない。
そんなふうに、
石にかかわったのはいつごろだろう。

多分、一番最初は中学生の頃……

30年以上前のことになるだろうか。
パルコの中に「王様のアイディア」という
アイディア商品やちょっと変わった商品を売っていた店があって、
そこでみつけた「ペットロック」というのを買ったのが最初だと思う。

「これなんですか」

ときいたら、

店員のおねえさんは、

「血統書つきの石です」

と、ニコニコしながら答えてくれたのを覚えている。

そんな血統書なんて、どこが発行しているかと思えば

「日本ペットロック協会」

とかいう、わけのわからないところで、
紙の切りくずをしきつめて、空気穴の開いた、
いかにもハムスターのようなイキモノが入っていそうな、
シャレた茶色い小箱に入っていたのは、
手のひらよりやや小さい、温泉マンジュウ色の、
そこらへんにありそうなただの石で……

血統書は、小さなブックレット~~「飼い方」の説明書~~の裏表紙で、
その説明書には、大真面目に、
石の買い方だの、散歩のさせ方だの、
「石を飼うのがアメリカではやっている」だとか、
他のペットを飼うのにくらべて、
「鳴き声で困ることはない」とか、
「エサはいらない」とか、
「放し飼いにしても都市条例にふれない」とか、
本気なんだか冗談なんだかわからないことが書いてあった。

そんなものを、
当時の中学生にとっては決してハシタ金とはいえない、
700円だか800円だったか忘れたが
(1000円はしなかったと思うなあ)
ケッコウな金額をはたいて買ってしまったのである。
ひとりでこっそり買いにいけばいいものを、
友達と一緒にいったりしたものだから、
当然「中みせろよ~」ってことになって、
翌日から、

「あんなもん買うなんてichingはバカだ」

ということになり、クラスの女の子にも

「ねえねえ、『ペットロック』ってナアニ?」

などと半笑いされながらきかれ
(バカにしているのだ、
あざけ笑っているのだ、
せせら笑っているのだ。)、
当然、親にも怒られる。

「だまされたんだ!
返してきなさい!
そんなもん買うために
こづかいやってんじゃないよ!
本を買いなさい!本を!」

今考えれば、一種のジョーク商品、
ということになるのだろうが、
それでもなかば本気で、
しばらく飼って……
あ~つまり、持ち歩いていた。

オヤジにケーベツされながらも
旅行にも連れて行った。
ときどき一緒にお風呂にも入った。

ほどよい丸みと大きさの石だったこともあって、
そんなことをしていると
だんだん愛着がわいてくるから不思議だった。
なにせ30年も前の話だ。
その石も今はどこへいってしまったかわからない。

その後はといえば、
石集めにはまることもなく、
専門家になることもなく大人になったが、
もともとフシギなことが好きだったので、
社会人になってからパワーストーンなどを
いくつか買ってみたりもした。
いまはもうなくなってしまった店だが、
ある店でこんなようなことを言われたことがある。

「ウチの石はちゃんと鑑定して入れてますから、パワーは確かです。
それにくらべたら他の石はただの石ッころですよ」

PRと品質保証の意味もあったのだろうが、
なんだかちょっと、

「石ッころ」

というコトバに違和感を感じた。

パワーストーン屋さんのコトバじゃないような気も。

下の本には、
「ただの石ッころ」などというものはない、
と書いてある。

☆ 「パワーオブストーン」―石の力と力の石
北山耕平 著
荒地出版社

ネイティブ関係の著書が多い人なので、
ご存知の方も多いだろう。

同じようなテーマのエッセイで
以下のような本もある。

☆ 「ミステリーストーン」
徳井いつこ 著
筑摩書房

どちらかというと「パワーオブストーン」の方が、
石と自分(人間)との内的なかかわりにフォーカスされていて、
「ミステリーストーン」の方は、
民俗・博物誌的なエピソードが豊富である。
どちらも難しい本ではないので気軽に読める。

著者も出版社も違う二つの本だが、
不思議と、似たような、
結論というか、エンディングにたどりつく。

コンクリートもLSIチップも人工の石だ。
広く考えれば、燃料(石油)も金属も
石から取り出されて精錬されたもの。
樹脂は石油からできる。

石を加工してつくったモノに頼って生きている、という点では、
黒曜石を打ち砕いて造った矢じりも、
あなたが使っている、ホラ、その
ケータイやらパソコンもまったく同じものなのだ。

ぼくたちはいまだにストーンエイジに生きている。

分離しているのは人間の自我だけで、

「すべての石」

は、

地球と人ととのつながり、
つまり、忘れていた、そして今もそうである
ストーンエイジを思い出すカギになりえる。

だから、
「人にはひとりひとつの石がある(「パワーオブストーン」の帯より)」。

「すべての石」というところが大事だと思う。

路傍の小石だろうと、川原の丸石だろうと、
もちろんおこづかいはたいて買ってきた石だって、
適切なタイミングと、石との間の同意さえあれば、
「カギ」となりうる、とい意味ではまったく同等。

ただそうしていったん築かれた絆は特別なもので、
どこでどうやって出会った石であれ、
その石がいくらであれ、
他人からどうみえる石であれ、
あなたにとってその石は特別なものになる。

そんな石のみつけかたが、
「パワーオブストーン」の方に載っている。

もとは同著者が訳した「すべてのひとに石が必要」という、
バード・ベイラーという人の書いた絵本に載っているルールだが、
この絵本は現在絶版で出版社にも在庫がないようなので、
以下、冗長になるが「パワーオブストーン」から引用する。


○ 自分の石をみつけるための10の規則(一部略)

1)石をさがすのなら無数のきれいに輝く丸い石でできている山にいくこと。
でもそこにいけなくてもかまわない。
よくみれば石はどこにでも転がっている。

2)石をさがしている間はだれとも口をきいてはいけない。

3)石をさがすときはできるだけ身を屈める。

4)石をさがすときはあまり大きな石を選ばない。

5)石をさがすときはあまりちいさな石を選ばない。

6)石をさがすときは大きさにとことんこだわる。

7)石をさがすときは色にもとことんこだわる。

8)石をさがすときはカタチにもこだわる。

9)石をさがすときは匂いにもとことんこだわる。

10)石を選ぶときは誰の助けも受けず自分で決めること。


そういえば、冒頭のカズマ君が集めていた石も、
決して店で売っているような高級品ではなかった。
どこにでもころがっている普通の石だった。

なんでもない石の本では、こんなのがある。

☆ 「川原の石ころ図鑑」
渡辺一夫 著
ポプラ社

小学校高学年向けの本らしいが、
各地の川とその川原で採取できる「なんでもない石」が
みやすい一覧(フルカラー)になっていて、
「自分の石さがし」には、内容的に充分だと思う。

カズマ君は今は子供でお金がないから、
高いものは買えないのかもしれないが……

はたして、大人になったカズマ君は、
タイマイはたいて高っか~い
「パワーストーン」
を買うようになるのだろうか。