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ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

易経、そして易占を、
よりわかりやすいカタチでご紹介しようと、
2005年2月から、このブログをはじめました。

これを書いている時点で丸2年になるわけですが、
占いの方法や解釈の仕方については、
必要なことは(粗方ではありますが)
網羅できていると思います。

興味のある方は、
アーカイブをたどっていただき、
このブログの最初から「占い」のテーマの記事を
順を追って読んでいただければ、
大体ご自分のことはご自分で占えるようになるはず……
ぼくの筆力がそこまであれば、の話ですが、
まあ、参考程度にはなるでしょう。

一応、易のことはなにも知らない人を、
仮想読者として書いたつもりではあります。

一方、それとは別に、
一冊のモールスキン・ノートあります。


モールスキン


これはこのブログをはじめるより以前に書いていたもので、
易占を中心とした自分の考えをまとめたものです。

このブログの内容ともオーバーラップすることもあって、
このブログを書き始めてからは、
なんとなく書くのをやめてしまいました。
易占の記録ともゴッチャになっていて、
半分ぐらいしか埋まっていない雑然としたノートです。

ときとして話題は、
「易占」という具体的なレベルから
はるかに遠ざかってしまったり、
また、独りよがりな勝手なリクツを
展開している部分もあり、
要するに、
ヒトサマにお見せする形になっていないのですが……

それでもベースになる考えは
基本的に変わっていないので、
これをもとにある部分はそのまま、
またある部分は適宜修正変更を加えながら、
しばらくつづってみたいと思います。
その際、
タイトルはこの「書きかけのノートから~」で」いきます。

図がある場合は、
ノートのやつをそのまま使いたいと思いますが……

これがまあ……きったない。

ご勘弁ください。

あまりに汚くて理解できないときは
リライトしますが、
図版をつくるのってケッコウメンドーなので。

そんなわけで、今日はイントロですが、
次回から、ご興味と時間のある方は、
よろしくおつきあください。

でんでん。


たくざんかん


非常にセンシティブな状態。
あなたのよびかけにたいして答えてくれるものが必ずある状況。
返答はあなた以外のどこからか、またはあなた自身の中からかえってくる。
実はこのつながりは「いつも」私たちと共にあるが、
ふだんは、雑事・雑念にジャマされて隠れてしまっている。
いつもより注意深く、意識的に歩みをすすめよう。


「癒しの宝石たち」
~パワー効果と活用法の事典
北出幸男著

青弓社

すべての石はパワーストーンである、
てな話を2006年07月28日のログ、
なんでもない石のこと 」で書いたが、
この本も、

「すべての宝石鉱物はパワーストーンである。」

という出だしで始まる。

ひとことでいうと、
こんな本が読みたかった!
という本。

どういう順番で本をひもとくかは読み手の自由だ。
「事典」と銘打たれているわけだから、
まずはリファレンスとして活用するように作られていて、
巻頭には、カタカナ順の索引も付いている。

でも、やっぱり、
にもかかわらず、ワタクシ的には、
通読してほしい本なのである。

話は、バリ島の観光絵地図になぞらえた、
こんななビジョンから始まる。

最高峰を水晶が占め、
下るにしたがって含まれる成分の違う鉱物たちがあらわれ、
さらにその下には、水晶成分が他の鉱物に浸透することで生まれる
鉱物が裾野の原生林を構成し、それにつづく平原が、
珪酸が他の原子分子と結びつくことでできる
ケイ酸塩化合物で……(一部引用)

この本は、そういう「島」の観光案内書というわけだ。
このビジョンのあとに、おもしろいことが書いてあるので、
あまりやらないことだが、ふたたび引用してみる。

「~本書の目的はパワーストーンとともに暮らすことで
以下の四項目を実現することにあって、
鉱物事典をつくることにあるわけではない~

(1)スピリチュアルな世界への理解を深めていくこと。
(2)日々の暮らしを望む方向へと調律していくこと。
(3)ヒーリング技法によって自分を癒して開いていくこと。
(4)これらによってそれぞれの人が新たな意識の地平に立つこと。~」

ここで著者がいっている「鉱物事典」とは、文脈から判断して、
アカデミックな専門的な「事典」のことである。
まあ、そうだろう。もしこの本が、
アカデミックなタイヘンなものだったら、ぼくだって

「通読してほし~の」

などと、気軽に薦めることはできない。

凡そモノゴトには、
目に見える側面とそうでない側面がある。

どちらがいいとか悪いとかではなくて、
おんなじナニカを構成するそれぞれ別の側面だ。
どちらか一方のみを語るだけでは、
そのナニカの半分を語ることにはなるが、
すべてを語ったことにはならない。

どちらか片方だけ……
たとえば、

目に見える側面=そのナニカの「すべて」、

だと思い込むのなら、
その人はそのナニカの半分を完全に見失っていることになる。

パワーストーンでいうなら、
その鉱物の化学的組成、採掘地、推定組成年代、
学術的・商業的分類、価格……
そんなものが目に見える側面ということになるだろうか。

反対に目に見えない側面としては、
その石の神話的、民族的意味、
いわゆるパワーストーンとしての効能、
というのも集団的意味になるなだろう。
個人的なものとしては、その石を持ったときの「感じ」、
その石と暮らすことのその人にとっての意味、
といったところになるだろうか。

本では、各鉱物について、
目に見える側面と目に見えない側面が、
ゆるやかにわけられて語られる。
各鉱物ぞれぞれの話が、
ひとつひとつ小さなエッセイまたはコラムだととらえることもできる。
自分が既に持っているパワーストーンかまたは、
気になる石の項目をチョイチョイ読むもよし、
ぼくのように一気呵成に読んでしまってもかまわない。
それぞれの項目は独立しているから、
どこからはじめてもどこで終わってもよい。
電車の中なら一駅二駅で読める項目もある。

著者は、西荻窪に自分のお店 を持っている。
ぼくもときどき行くことがあるが、
スタッフはこちらから質問しないかぎり話しかけてこないし、
じっくり石を選ぶことができる。
情報も大事だが、石は手にとって、ながめてみなきゃなあ。
ぼくが、そんなふうにそのお店にいくようになってから、
もう10年ちかくになるが、変なふうに大きくなることもなく、
お店がなくなってしまう、というさびしいこともなく、早20年だそうだ。

喫茶店でも飲み屋でも、
あ、行ってみようか、と思ったときに
いつもかわらないお店がそこにある、というのはいいものだ。
いいお店があって、世界中の石に触れることができて、
気に入ればおこづかいで手に入れることができる。

まあ、なんとシアワセな時代、
シアワセな国に生まれてきたものだ、
と、ときどきため息がでてしまうのである。

世の中、すてたもんじゃない。

たまにはブログらしく、
徒然なるままに書いてみることにする。
まったく持ち歩かなくなったipodをPCにつないで、
音楽などを聴きながら。
こういう……MP3プレイヤーも、
今みたいにメジャーじゃなかった頃からはじまって、
何台か持ってみたが、
結局みんなほっぽりだしてしまった。
今では、ipodも単なる外部ストレイジになっている。

平日は……
だいたい四時半かそれ以降に帰ってきて、
まずは昨日の分の食器洗い。
そのあとやることは日によって違うが、
宅配の生協や、無農薬の野菜が来ていれば、
それを取り込んだり、洗濯をしたり、
ときどきはトイレや排水口などの、
水周りの掃除をしたりする。

そうこうしていると、
あっという間に六時近くになってしまうので、
あわてて夕飯の準備をはじめる。
なぜあわてるのかというと、
カミサンが腹ペコで帰ってくるので、
待たせてしまうと、コキゲンナナメになるからである。

ま、しょせんふたりきりの家庭だし、
専業主婦さんからみれば、
屁でもないような「家事」なんだろうが、
それでもときどき、
イマ風にいえば「うざったく」なることもある。
だれか代わりにやってくれねえかな、と。

カイシャ勤めを辞めると、
時間はあるが、カネはない、ということになる。
そんなわけで、はいてるカーゴパンツは、
ユニクロでセールの1260円だし、
背負ってるリュックは御徒町の中田商店で2800円、
読んでる本は200円の古本で、
漫画は駅前でタダでくばってるヤツを眺めてたりする。

今はヤメてしまったが、模型作りが趣味だった。
部屋を空けたかったので、ほとんど処分したが、
高い模型はいくつか取ってあったりして、
こういうのが売れればいいんだけどな……

ネットオークションにとかに出せばいいのだろうが、
やったことないし、なんだかアレもモンダイ多そうだし……
などと思っていると、
なんか全部代行してくれるサービスがあるというので、早速飛びついた。
売れた値段の20~25%とそれなりの上前はハネられるが、
情報をアップロードする手間から代金回収まで全部やってくれるので、
まあ、いいかと。
頼めば自宅まで品物をとりにきてくれる(!)というので来てもらった。

「サイキンはいろんな代行があるんだね。
こういうプラモの製作代行とかさ」

「ええ。変わったのでは、
ゲームを代わりにやってくれる代行もあるみたいですよ」

「……なにそれ」

その兄ちゃんがいうにはRPGなんかのゲームで、
しょうもないレベル上げとか、かったるいところは、
代行してゲームを進めてくれて、
いわゆる見せ場の手前までもって行ってくれる
「代行屋さん」だそうである。

「なさけないっすよね」
「だね」

「なにそれ」の前の……は、
ちょっと絶句した間である。
その間にいろんなことを考えた。

じゃあナニか!

代わりに音楽でも聞いてもらって、
ケータイ打ってくれて、
家事もやってもらって、
仕事してもらって、
カネかせいでもらって、
そんで、そんで……

マインドは行き着くところまで、行く。

そうだ、オレの代わりに生きてもらえばいいんだ!

……

よく考えたら、代わりに生きてもらったら、
このぼくはイッタイなにをしたらいいか、
というモンダイがあることに気づき、
マインドの暴走は停止したのであった。

「私が、アナタの代わりに生きますんで、
まあ、ゆっくりしててください」

なんか、この言葉に
抗いがたい魅力を感じる気もする。

ちなみにこのブログは、
だれにも代行を頼まずに
ちゃんとぼくが書いている。
証拠をみせろといわれても困るケド。

さて、おじさんの長話の続きである。

とにかく書くことからはじめよう!

というアプローチは、
なにも前回紹介した本、
「魂の文章術」の専売特許でもないらしい。

ちょっと毛色は違うがこんな本もある。

「ずっとやりたかったことを、
やりなさい」
ジュリア・キャメロン
菅 靖彦訳
サンマーク出版

原題は「アーティスト・ウェイ」。

プロの芸術家はもちろんだが、
そうでなくたって、
読んで(そして実行して)ソンはないと思う。

訳者も巻末で同じようなことを書いているが、
創造・創作することははニンゲンの、
基本的な、きわめて自然な活動である
という前提で書かれている。
ていうか(マズいなこのコトバ、
あんまし好きじゃないのに、つい…)、
「前提」ではくて、一冊マルマル「そうでなんである!」
という力強い主張である、といった方があたっているかもしれない。

そんな、創作・創造(アート)なんてオレ(またはアタシ)、
カンケーないもんね~

と言われるかもしれないが、たとえばもし、
楽器を弾くとか、絵を描くとか、
あきらかにソレとわかるアート以外でも、
料理だって、ゴルフだって、散歩だって、
ひょっとしたら洗車だって、
「アート」だったとしたらどうだろう。

極端かもしれないが、その考え方を推し進めれば、
生きて活動すること、そのものがアートってことにならないだろうか。
なにも、「アーティスト」というコトバは、
ハヤリの若いミュージシャンのためだけにあるわけでもないだろう。

この観点から原題をとらえると、
「アーティスト・ウェイ」は
「生きるすべ」という意味にもみえてくる。
生きる……ただ生きるだけではなく、
より自然に生きるすべである。
著者いわく、
その自然な衝動、すなわち、創造性に、
自分で自分にフタをしてしまっている人が多い
……そうだ。
まあ、いわれてみればそうかもしれない。
なにかにつけてチョーシが悪くなるのは、
明らかに自然に生きていない証拠だろう。

この本は、フタをされた「創造性」を回復するプログラム
~具体的な処方箋として書かれた実用書である。
定評のある本らしく、
あちこちの本で、タイトルや作者の名前をみかける。

その内容だが、ストーリーとしては、
12週間のプログラムになっている。
エクササイズの数がとても多いので、
正直いって時間に余裕がないと、
「すべてを」こなすのは、
ちょっとムズカシイかもしれない。

でも大丈夫。

すべてのエクササイズの基本となる、
ふたつの「ツール」というのがあり、
このふたつについては始めから終わりまで
(ひょっとしたらずっと)続けることになっている。
つまりはこのふたつのツールこそ、
この本のエッセンスなのである。

いやそりゃもちろん、他のエクササイズだって、
やったほうがいいに決まっているが、
このふたつを続けるだけでも相当に効果があると思う。
すくなくとも精神のの安定には充分役立つだろう。

ひとつは、
「アーティストデート」と呼ばれているもので、
週に最低でも1、2時間、
自分のために時間を割くというものである。
要は自分を甘やかすわけだ。
「甘やかす」というと、
とたんに眉をひそめる向きもあるかもしれないが、
自分の中のアーティスト、すなわち自然に生きる衝動、
それがしっくりくるというのなら
インナーチャイルドといってもいいかもしれない、
その衝動にしたがってみる、そのような時間をあたえる、
その衝動を解放する、ということである。

詳しくは本を参照してもらえればと思うが、
特段オカネをかける必要はない。
またその時間も長ければいいというものでもない。
きまった方法もない。
ポイントはその時間の「質」である。

もうひとつは、
「モーニングページ」と呼ばれているもので、
これがつまり、「書くこと」である(やっとでてきた)。
これもルールらしいルールはない。
毎朝起きたら、3ページ、なんでもいいから書く。
それだけ。
べつにノートの大きさも決まっているわけではない。
最初のうちは読み返さない。もちろん他人にもみせない。
そんな筆記をやっていることもいわない。

まあ、そうして、ひたすら書くだけなのである。

ぼくの場合は、つづけるために、
ちょっとルールを変えてみた。

ひとつは「書くのは別に朝でなくてもよい」。
その日のうちで時間ができたらいつでもよいということにした。
もうひとつは「別に3ページ以上でもよい」。
ノッてくればわかると思うが、3ページでやめてしまうと、
どうしてもキレの悪いことがある。

とにかくまとめて3ページ以上書く、ということ。
これを1ページずつ分割、
とか、クレジットカードの支払いみたいなことをやってはダメ。
フローが分断されてしまう。
それは3ページ以下複数回書くことであって、
3ページ以上書くことにはならない。

以下は本の受け売りだが、

「続けていると気分が落ち着き、
見る夢はあざやかになり、
シンクロニシティがおきやすくなる」

気分が落ち着くのはわかるが、
残りのふたつはいったいなんだろう。
本の中にもその説明はないが……
たしかにそういうこともあるようだ。

魂の文章術にしても、モーニングページにしても
どことなく、素振りに似ている。

だれに読まれるわけでもない
文章を書き続けることは、
実際にタマが飛んでくるわけではないのに、
見えない何かにむかって、
ひたすらバットをふり続けるあの素振りに、
なんとなく似ている。
たぶんどこかで
瞑想ともつながっているのだろう。

素振りかあ…ひたすら素振りかあ……

カッコよさそうだけど、
ちょっとヘヴィかなあ…

と思われる貴方には以下のような本もある。

「夢は、紙に書くと現実になる!」
ヘンリエッタ・アン・クロウザー
野津智子訳
PHP

この本にもエクササイズがたくさんあるが、
そうしなければならないこと、ではなくて、
書くためのさまざなヒントととらえ、
できそうなものをチョイスして、
気ままにやればいいと思う。

どの本も、文章のうまい/ヘタなど問題にしていない。
高尚なものを書こうとしてはいけない。
ムリにそれをやろうとすると、
吐き出されてくるものは、
際限のないエゴの独白になる。

まあ、なんにしろ「書くこと」には、
思った以上のパワーがある、
ということにつきる。

と、ここまで書いて気づいたのは、
どの本も著者は全部女性。

紹介はまた別の機会にゆずるが、
直観力を伸ばそう、といったテーマの本も何冊が読んだが、
これまた読んだ本すべて著者は女性。

もちろん意図してそういう選び方をしたわけではないのだが……
こりゃまたいったいどういうわけだろうか。

(単にあんたが女好きなだけなんデショ、
というツッコミはなしにしてください(笑))

書き込みをさぼっていたら、
ずいぶんと間があいてしまった。

その間に読んだ本も少々たまったが、
今回は「書く」ことについて、
書かれた本をいくつか。

またちょっと長くなります。

ワープロ(専用機は死滅。ソフトに化けた。
若い人はセンヨウキなんて知らない)、
それから、パソコン、
そんでもって、インターネットへの
接続環境の急速な普及で、
「書く」ことは、
ずいぶん身近になった。

ホースの太さももずいぶん太くなったみたいだが、
(ちなみにうちはまだナローバンドです)、
この世界でのコミュニケーション・ツールは、
相変わらず文字であり文章であり……が主体である。
これを読んでいる方はご自分でも、
おそらくネット上で文章を書くこともおありだろうから、
今回ご紹介する本は役に立つ……
かもしれない。

といっても、昔からあるような、
「文章作法」、「××の書き方」といった本ではない。
これらは紹介したくても紹介できない。
読んだことがないから。

「魂の文章術」
ナタリー・ゴールドバーグ
小谷啓子訳
春秋社

なんかすごいタイトルになっちゃったが、
旧タイトルは

「クリエイティブ・ライティング
   ―自己発見の文章術」

だった。

そう、過去に読んだことがある。

それを忘れて(タイトルも変わってたしぃ)、
読んだことがない本だと思って買い込み、
ゴロゴロしながらながめていたら、
むむ、なんか覚えてるぞ……
となり、出版社のワナにはまって
二度買いしていたことに気づいた。

とはいえ、読んだのはずいぶん前だし、
本はブックオフにいってしまったし、
一応著者へのインタビューなどがついた増補改訂版だし、
アマゾンは返品できないし、等々と思いつつ、
めったにしないことだけど、
また読んだ。

著者は作家で、自分の創作クラスも持っていて、禅をたしなむ。
作家って…
わたしは文章書きでプロになる気はないし……
と思われるかもしれないが、
冒頭に書いたように、
文章を書くことは身近になっている。
別にプロでなくても文章は書く。

なによりも書くことはストレスの発散になるし、
自分を知る、いい鏡になる。

ブログであれHPであれ、いかなるカタチであれ、
他人様に見せる文章はもちろん別。
他人様にお見せする文章で、
ストレス発散してはイケナイ。
読まされるほうはたまったものではない。

それとは別に、まったく個人的に、ひたすら書き続けていると、
自分というものがある種の「流れ」であることがよくわかる。
様々なスペクトルを持った、波束といったほうが正しいか。
ひたすら書き続けるなんてムリだ、といわれるかもしれないが、
そのためのネタと技術が、この本にはぎっしりとつまっている。

他人にみせない文章なんて書いたところでなんになる?

実はぼくもそう思っていた。

文章は他人にみせる=他人にモノを伝えるためのツールじゃ!
それ以外のナニモノでもない!

まあ、確かにそうなんだけど、
じゃあ他人にモノを伝えるため「ではない」文章を
書いてはいけないか?というと、そうでもない。
だれにも見せない文章を書いたからといって、
隣人が怒鳴り込んできたり、
警察に捕まることもこともないのである。

そんなことしてなんのメリットがあるの?

ご利益のことをいっているのだとしたら、
それはその方次第……

確かにオカネはもうからない(多分)。
だけど、ぼくははご利益は大いにある!
と、思っている。

個人的な話だが(ていうかブログって、
他人様にお見せする個人的なものでもありますよね)、
20年以上会社勤めをしていて、2000年以降、
ある種の「行き詰まり」にぶちあたって、
結局辞めてしまったのだが、
この「行き詰まり」期間に支えになったのが、
この本にあるようなやり方で
書き続けることだったのである。
というかこの本に出会って、
そんなふうに「書く」ことをはじめたわけだ。

とにかく途中で放り出さないように、
高いノート(伊東屋のスカイバーノートとか)や
万年筆などをを買い込み、書き続けていた。
タネをあかすと、
このブログでやっている「易経」の独自解釈なども、
この時書いたことがもとになっているものもある。

おかげさまで、今はようやく、
心の安定を取り戻している状態だ。
(もちろん書くことだけじゃなくて、
妻をはじめとして、周りが助けてくれたからなんですがね)

言葉は他人にものを伝えるためだけにあるものではない。
注意してみれば、始終言葉がアタマの中をとびかっていることがわかる。
想念というコトバである。
もちろん画像を含む、その他の感覚の想念もあるが、
できるだけ間髪を入れずに、それらにカタチを与え続けていると
(つまりは「書く」ということ)、やがておもしろいことが起こる。

最近は、ライティング・セラピーのような療法もあると聞く。
もしご興味がおありになるなら、
メリットだのなんだの、シャンプーみたいなこといってないで、
まずはお試しアレ。

書くという行為から、
長い期間遠ざかっていた人がこれをはじめると、
最初は頭で書くことになるだろう。
ちょいとしんどいが、しばらくすると、
次に身体が書くようになる。
続けていけばやがて、魂が語りだす。

(キレがいいので連載形式にします。
このあと次回に続きます)

通学路にある銀杏の木が、またクサくなってきやがったなあ…
などと思っていたら、あっという間にまたテスト。
勘弁してくれ、こちとらも~若くねぇんだ、と、思いつつも…
おめーはテストがないと勉強しないだろう、
といわれれば、否定できないのもまた確か^^;
そんなわけで、次回Upするのは多分、12月過ぎになると思います。
悪しからず見捨てないでね~

★**☆
ケータイメールからアップできるてえんで、
やってみましたがこのへんがゲンカイですね~
あ~指がつかれるわぁ。

し

いくさ。
大地の下を静かに流れる水脈は、
いつかどこかで大きな流れとなって吹き上がる。
いくさのリーダーは、
よほどしっかりした人でなければつとまらない。
戦いはできれば回避したいものだが、
やむをえず始まってしまった場合には、
慎重な行動をとるようにする。
ときには撤退する勇気も必要。
時期をわきまえた撤退は、
やみくもに突き進む蛮勇とは異なる真の勇気である。

「書棚」のテーマで書こうか、
「占い」のテーマで書こうか。

ちょっと迷ったけど、ごらんのとおり、
「占い」のテーマでいくことにした。

夢に興味はおありだろうか。

ぼくのゆめ、
あなたのゆめ、
しょうらいのゆめ。

のことではなく、

毎晩夜、寝ている間に見る、
あの夢のことである。


「夢判断入門」
マークサーストン著
住友進訳
中央アート出版


エドガーケイシー文庫021。

ケイシーといえば、膨大な記録を残し、
かつその記録が現在も広範囲にわたって
利用されている幻視者として有名だが、
この本の特徴は、ケイシー云々よりも、
その高い実用性にある。

100パーセントうけあうつもりはないけれど、
紹介されている方法でマジメに取り組めば、
かなりの割合でご自分の夢の意味を、
読み解くことができる。
というと、シンボル辞典のようなものを連想されるかもしれない。
この本にもシンボル辞典はついているが、それは二の次。
まずは「自分で自分の夢を解釈する」ことに力点が置かれている。

夢に興味はおありだろうか。

デジャブではなく、
以前に同じ書き出しで別の本を紹介したことがある。
2005年9月16日ログ「ドリームブック」 がそれだが、
この本はどちらかというとシンボル辞典に
やや力点が置かれている。

幸いなことに、
「ドリームブック」に出てくるシンボルの説明と、
ぼくの夢に出てくるシンボルの親和性は比較的高く、
ドリームブックは、かなり役に立っている
(あっこ先生ありがとうございました)。
それでもやはり限界はある。
最終的には夢は自分で解釈するもので、
それには自分のシンボル辞典が必要だ……
という点では両著は一致しており、
「夢判断入門」にはその具体的な方法も説明されている。

さてこれが、
なんで「占い(このブログでは易システム)」
のテーマになるのか。

思いがけない共通点を発見したからだ。
またちょっと長くなるが、
おつきあい願いたい。

「夢判断入門」によると、
夢にはいくつか種類があって
その中に、ある問題に答えてくれる
「ガイダンス夢」というタイプの夢がある。

ガイダンス夢の中にもいくつか種類があって、
その説明の「夢」という言葉を「卦」といいかえるだけで、
得卦の種類を判断するのに使えるのである。
以下、「夢」を「卦」にして引用してみる。

1:未来を予言する卦
←今の状態を続けていくなら、
将来起こりやすそうなことを明らかにする。

2:質問(占的)に対する正確な答えや、解決策を提供してくれる卦

3:新しい観点から質問(占的)をいいなおす卦
←質問にはこたえてくれないが、
代わりに答えに関する新しい情報をあたえてくれる。

4:質問に取り組んでくれない卦
←その代わり、本格的に質問に取り組む前に、
解決しておかなければいけない別の質問に注意をうながす。

どうだろう。

得卦が1、2なら問題はない。
これらは、誰もが期待する回答である。
問題は解釈がつかない場合で、
そのときは3,4のように、
回答が「スイング」している可能性を考える、
というわけ。

さらに、ガイダンス夢の解釈の妥当性を
チェックするリストも示されており、
これはこのまま、
得卦の解釈をチェックするのに使える。

○ その解釈には、「真実の響き」がきこえるか。
○ その解釈は、受け入れることができるだけでなく、
  実行すべきことがわかっている最善のことに矛盾していないか。
○ その解釈は、ものごとを新しい角度から観せてくれるか。
○ その解釈を受け入れることで、人生に希望がわいてくるか。
○ その解釈を利用したら、問題に関わる全員に利益がもたらされるか。
○ その解釈にしたがうことで、心が落ち着くか。
○ その解釈は、理にかなっているか。
○ 信頼できる友人は、その解釈に同意してくれるか。

甘いかもしれないが、占者としては、
上記のうちどれかを満たす解釈であれば、
信頼に足る解釈であると考えていいと思う。
解釈がただしいかどうかは、
その解釈が「腑に落ちる」ものであるかどうかによる……
ということは以前に書いたかと思うが、
上記のリストはその「腑に落ちる」感覚を
具体的にブレークダウンしたものである。

逆に相談者側から見た場合は、ここはきびしく、
上記チェックリストのどれかにひっかかる回答をもらったときは、
その内容を大いに疑ってみるべきだろう。

夢と易システム……
最初は意外な取り合わせだと思ったが、
考えてみたらそうでもないのかもしれない。
その夢がガイダンス夢であれば、
機能は易システムと同じだからだ。

つまるところ、わたしたちは
システムにアドバイスを求めているのだ。

(実はそれがすべてではないとも
考えているのですが……それはまた別の機会に)