読む瞑想 | ぼくは占い師じゃない

ぼくは占い師じゃない

易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。

別に速読ができるわけではないが、
本を読むスピードはそこそこはやい方だと思う。
しかし、どうしてもはやく読めない本、
というのもある。

まあもちろん、
なんでもかんでも早く読めばいいというものでもない。
詩集を速読する人もいないだろう。

「ポケットの中のダイヤモンド」
ガンガジ著
三木直子訳
徳間書店
\1600-(税抜き)

この本は詩集ではない。
小説でもなければエッセイでもない。
なにかのハウトゥでもなく……

いや、ハウトゥといえばハウトゥかもしれない。
ただし、目的がはっきりしたエクササイズが、
こぎれいにまとめれているわけではない。

代わりに中に詰っているのは、ひたすら、
著者からの問いかけである。

いくつか拾ってみる。

・私が本当にほしいものはなにか
・それが得られればなにがもたらされるか
・わたしはだれか
・ここにあるのはなにか
・「存在」を思考することは可能か
・私はどんなふうに罰しているか
・私はどんなふうに褒美をあたえているか
・私はなにから逃げようとしているのか
・私はなにをコントロールしようとしているのか
・コントロールできないものはなにか
……
等々。

べつに哲学書ではなく、
とくに難しい言葉が使われているわけではないのに、
はやく読めない理由はここにある。

ときに、カウンセラーの言葉にも似た問いかけや、
異なる伝統にその身を置いていたマスターたちが
共通に発していた問いであったりするが、
どれもこれも素通りできない質問ばかりである。

最初に著者から伝えられるメッセージも、
直接的でありかつ単純である。

「止めろ」

これだけ。
そののちに上記の問いを吟味する。

止めろとは、
自分自身を、自分の肉体も含めた
どこかに求めることを止めることと同時に、
「なにものか」であろうとすることを
止めてしまうことでもある。

やつの言ったことが気にさわるのは、
粗っぽくいってしまえば、
皆が自分に敬意を払わなければならないと、
意識的にせよ無意識的にせよ思っているからだ。
つまり、
自分はそのようなエライ人でなければならない、
というわけである。

そんな人になることなんか止めちまえ。

そういう一切を停止して
はじめて自由が垣間見える(そうだ)。

ぼく自身は、
自分の中にある、ほぼすべて思いが、
その大本を慎重にたどると、
生存欲求(肉体の保存保持)
に分かちがたく結びついていることを、
なにかのひょうしに歴然と実感して、
ちょっと愕然とした。
そう、自分の中にある、
いかに高尚に見える衝動・思いであっても、である。

自分自身と物理的なボディを激しく同一化しているわけで、
死刑が極刑として成立している根拠でもある。
ぼくの場合は唯識という知識を通じて知ってはいたが、
ただ知っているのと、
それを実感することはまったくちがう。

エライ人になりかけたところで、
今回はこのへんで。

最近はやりのぬりえや書き取りが、
手を動かす瞑想だとすれば、
この本を読むことは読む瞑想といえるかもしれない
大手の出版社がこのような本を出していることも新鮮だった。
やはり時代は変わりつつあるのだろうか。