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ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

たくすいこん

ムダにつかっているエネルギーはありませんか。
沢は、適度な水量があるときは、
私たちの目や耳を楽しませる癒しの源泉になりますが、
水量が多いと荒れ狂う土石流に、
水量が少なければ無味乾燥な岩場になってしまいます。

自分も自分の周囲も健全であるためには、
多くも少なくもない、一定のインプットとアウトプットが必要です。
現在の状況下ではでてゆく流れ……
または、エネルギーのほうが多そうです。
自分のエネルギーの収支バランスをチェックしてみてください。


お気づきの方もいるかと思いますが……
このブログにはほとんど「占例」というものがありません。

ひとつには筆者自身がまだまだ修行中で
(そういったら一生そうなんですけどね)、
他人様に公開できるような模範的占例が乏しいこと、
それともうひとつは、
易システムによる占断の過程は、
きわめてパーソナルなものであることが多く、
定石のようなパターンを示しづらいからです。
他人の夢のハナシを聞かされてもオモシロくない……
ってのはよく聞くハナシですが、
占断の過程というのはそれと似たところがありまして、
あまり他の方の参考にはならないんじゃないかと。
とくにぼくの場合は。

でもこのあいだ久々にポトンと腑に落ちる占断ができましたので
珍しくアップしてみます。
お口にあう判断かどうかは、貴方次第ということになりますが。
「腑に落ちる」ハナシについては、
2005年10月30日ログ「電話が鳴ったときに誰からか判る 」を参照してください)。

* * *

髪がそろそろのびてきたんで千円カットに行きました。
財布見たら珍しく千円札がなく一万円札だけだったので、
千円カットの店の近くにあるマックで
百円のアイスコーヒーを頼んで一万円をくずしました。

コーヒー飲みながら、

そういやさっき「黄色」だったけど、
いつ行けば一番タイミングがいいかな~

などと思いながら、トレーに乗った紙に
ボールペンでちょこちょこ数字を書きながら卦をたてます。
とくに道具を使わずに卦を立てる方法については
2005年9月11日ログ「手ぶらで卦をたてる1/2 、2/2」を参照してください。
千円、10分程度でやってくれるのは安くてスピーディで助かるけど、
サイキンこの手の店は人気らしく、ケッコウ混んでたりします。
待たされてしまうと、スピーディってとこのメリットがなくなっちゃうな~
などと、セコイこと考えていたわけです。

詳細は忘れましたが、そのときはたしか目についた営業時間の表示とか、
電話番号を使って卦をたてたように思います。
まあなんでもいいんです。
大切なのは、機をのがさないように、
問いが浮かんだその瞬間にすかさず卦をたてること。
卦さえ立ててしまえば判断はそのあとゆっくりでもいい。
もっとも、占的によっては即刻判断を求められることもあります。
上司に問い詰められているときとか……

ハナシをもどして、「黄色」ってのは、
ぼくがよくいく千円カットのお店の看板の上についているサインで、
店の混み具合を信号の色で示しています。
赤ならイッパイ、
黄色ならちょっと待つ、
緑ならすぐやってもらえる。

で、でた卦は、
15:コウの四爻変で、55:巽に之く。

こうのそんにいく

まあ、ざっとみて風(巽)が多いので、風通しはいいな、
つまり客がとどこおることなくよく流れているナ、と判断。
しかしながら陰爻が少ないということは、流れはいいけど、
空きは少ない状態である、と観る事ができます。
この辺の判断については2006年4月15日ログ「ウリムとトムミム(応用編) 」を参照してください。
じゃ、いつ腰を上げて行ったらいいのか……ですが、
こういうときには変爻のポジションに注目します。
今は……四爻変ですね。
ここでちょっと考えます。
う~ん、じゃ、五爻変だったら?
15:コウの五爻変だと、35:鼎に之く、となる。

こうのていにいく

時間の観方については2006年3月5日ログ「大成卦上における時間の観方
を参照してください……ドトーの自己PRだナ。
「鼎」という卦で、反射的に連想してしまうのが3人の人。鼎談の「鼎」。

あ~、五爻の頃になると、お客が3人になるんだあ~

それがどうした?
それがわかったところで、占的に対する判断につながらない。
だって占的は、いつ腰をあげて店にいけばいいか?
そのタイミングの判断、ですからね。

鼎は「かなえ」と読みます。
「かなえ」というのは足が三本ついた器で、
神様にお供えする料理をつくる器なんだそうです。
経文にはおいしそうなキジナベが出てきます。
料理、料理……ああ、そうか、
ぼくは五爻変の頃に料理される……
アタマ刈ってもらえるってことか。

35:鼎の上卦の3:離は器のボディのカタチで、
下卦の5:巽はその二股に分かれた様子が「かなえ」の足の部分、
という観方もあります。
つまり五爻というポジションは、
まさにナベの中で料理されている状態……ともいえるわけです。
占的の内容から考えて、大成卦全体を60分と観ます。
今が四爻の位置ですから、「料理される」五爻まではあと10分。
そのくらいにやってもらえるようなタイミングが一番イイ、
という最終判断になろました。

そんなわけで、あと10分のその時間目指してそそくさと席を立ったわけですが、
判断どおり、その時間にやってもらえた、というわけです。

実は、このケースでは、もう少し先も読んでいまして、
本卦、15:コウが六爻変になったらどうなるか。
六爻目(上爻)ですから、ぼくがアタマを刈ってもらってさらに10分後。
ちょうどぼくの頭が刈りあがるころ、ということになります。

15:コウの上爻変だと、25:大過に之く、となる。

こうのたいかにいく

おおっと、こりゃタイヘンだ。

大過は「大きく過ぎる」の意味です。
カタチ的には中の4つの陽爻を、
上と下の陰爻がサンドイッチ状に、
なんとか押さえている・支えている状態でして、
ぼくはこれが出るとほとんど自動的に、
「過負荷」「オーバーロード」と観てしまいます。
「鼎」で三人の人間を想像してしまうのと同様、一種のクセですが、
この場合はそのままの判断でOKと観ました。

そう、ぼくが終わる頃には、
お客さんイッパイで店員さんが、あっぷっぷということです。
それはそのとおりで、つぎつぎとお客さんが来て、
ケッコウあわてたような状態になってしまいました。
ついでにいうと店員さんはふたりで、
まさに25:大過の初爻と上爻みたいでした。

じゃあ、お客さんは、間の陽爻で四人かい?

だったら面白いんですが、
もっとたくさん来たように思います。
ただこの、最後の判断については、
その時間は夕方18時過ぎで、
近隣のサラリーマンが帰宅途中に
訪れる時間帯であることはわかっていましたので、
わざわざ易システムに拠らなくても、
充分に推論できることではありましたが。

店を出るときには振り返りませんでしたので、
その後信号が「赤」になったかどうかはさだかではありません。

* * *

しかしまあ、こういう他愛もないことのほうがよくあたるんですよね。
おそらく、「当ててやろう」という気負いがないからでしょうね。


訴訟

トラブル。争いごと。
通常は、他の人と自分との間に起こるものですが、
いつも意識している自分と、
自分でも知らなかった「自分」の間で起こることもあります。
そのどちらであるかは、変爻に注意して判断してください。
いずれにせよ、今は、争いはできるだけさけるようにしたほうがよいでしょう。
どうしても争わなければならないのであれば、
そのときは自分の中心にあるものを意識してください。
水のように透明で、水のように自然でいることです。


ちょっと長くなりますが……

久しぶりの書き込み、
そして久しぶりに、
手ごたえのある本を読んだので、
おつきあい願えれば幸いです

……

「身体症状に「宇宙の声」を聴く」
―癒しのプロセスワーク
アーノルド・ミンデル (著)
藤見 幸雄、青木 聡 (翻訳)
日本教文社
ISBN:4531081536
(2006/04)

あなたにとってこの世界は、
どんなふうだろうか。
その世界で生きる「自分」って、
どこからどこまでのことだろう。

『「自分」とは皮膚で区切られた
このボディの内側のことで、
この世界は目で見えるものがすべてで、
とくにこれといった意味も無く、
みんな、グーゼン・タマタマ、
ここに存在しているだけさ。
信じるものなどなにもない』

それもひとつのものの観方である。
いいんじゃないかと思う。
ニヒルで……
なんかカッコイイし。

ま、だけど、そういっている人でも、
他の人に

「オイオイ、空気読めよ」

な~んてことを言っていたりするのである。

今回はそんなハナシ。

上記の本の著者は、もう少し違ったふうにこの世界をとらえている。
カタチある現実が、現実としてあらわれるのに先行して、
カタチのないもの……その現実に関連した「ドリーム」があり、
さらにそれより前に、その「ドリーム」を生み出すおおもとの
「エッセンス」がある、というのである。

ところで、カタチある現実は、
この本の中では「合意的現実」と呼ばれている。
ぼくらが普段意識している日常的現実のこと。
ひらたくいえば五感で容易に認知しうる領域のことである。
「合意的」というのはこのレベルで、
ぼくたちは記号的に同意しあってコミュニケートするからだ。

例をあげるとこんな感じ。

「大人3人でやっと幹の周り囲めるんだってよ」
「ふてえ木ダナ」
「ふてえヨナ」

卑近な例をもうひとつ。

「じゃあ、明日、駅前のドトールで3時」
「わーった」

測定できる。手にとって見ることができる。
科学や技術が専ら対象としている領域だ。
唯識では「器世間」といわれたりする。
これに対してドリームやエッセンスは、
手にとって触れることができない。
測ることもできない。
しかし、主観的に感じることができる。
体験をある程度共有することもできる。

モノゴトは、まずエッセンスの領域で傾向として生じ、
さらに、ドリームの領域で、
なんとか語り得るモヤっとしたかたちをとり、
最後に、具体的現実として結実する。
概念や、夜見る夢も、ドリームのレベルに含まれる。
モノゴトは、

エッセンス -> ドリーム -> 合意的現実

の順で、微細~粗大になっていくのだ。
この文脈でいえば、
ミソ汁にはミソ汁のドリーム(エッセンスも)があり、
神田川には神田川のドリームがあり、
酒飲みには酒飲みのドリームがある。

ドリームやエッセンスは、ある種の「前兆」をともなっており、
これは「フラート」と呼ばれ、知覚することができる。
エッセンスやドリームの相互干渉ともいえるメッセージ……
この「フラート」こそがカギになるのだが、
なにせドリームやエッセンスのハナシだ。
視野の隅のちらつきや、かすかかな身体感覚、
ふとした思いつき、冒頭の例で出した「場の空気」などの
「微細な」かたちであらわれるのが関の山なので、
容易にシカトすることができる。

かすかなメッセージをシカトすることを著者は、
「周辺化(マージナライズ)」と呼ぶ。
教室のゴミを教壇の下にチャッチャッと掃き込んでしまってから、

「センセー、ソージ終わりましたあ!」

と言うことである。
マージナライズは、
心理学的に言う「抑圧」に近い概念だ。

さて、身体症状~病気を、
「エッセンス -> ドリーム -> 合意的現実」
の文脈でとらえるとどうなるか。
フラートとしてあらわれるかすかな身体感覚を周辺化し続けていると、
やがてそれは、より具体的で粗大な、たとえば肩のコリ、
慢性的な痛みなどの、感覚……ではなく、症状としてあらわれる。
臨床医学でいうところ自覚的所見である。
これをさらに放っておくと、
現象はさらに具体化し、測定可能な領域に結実する。
自覚的所見は他覚的所見になる。
いわゆる、「病気」だ。

コトはエッセンスの領域から始まっている。

合意的現実のレベルだけで対応しても、それは片手落ちいうものだ。
つまり、物理的身体(目に見える肉体)に対する、
機械論的アプローチ(不具合が起きた部分の切除、修理、交換など)
だけでは問題の解決にならないということ。

身体症状……病気は、その人へのメッセージである、
ということがよく言われるが、そのメッセージを解読するには、
ドリーム -> エッセンスの領域に入り込んでワークする必要があるのだ。
この本には、その方法~エクササイズも豊富に記されている(大丈夫。ペヨーテは必要ない)。

エクササイズも目玉だが、特筆すべきは、
ドリームもエッセンスも、時間空間の制約を受けないということ
(これらは合意的現実の属性だから)、
そして、実はニンゲンという存在もふくむすべてのものは、
ドリームやエッセンスといった領域でも存在する多元的な存在である、
ということである。

本の中では最新の量子物理学や生化学、遺伝子工学などの内容が、
この考えのアナロジーとして語られる。
ドリームやエッセンスやそれを応用した心理療法の妥当性を、
量子物理学などが証明するといっているのではない。
そのような誤解を招く表現は慎重に避けられ、
量子物理学云々のハナシは、
あくまでアナロジーとして語られているのである。
しかしながら、ひょっとしたら同じコトかも……
ということも書いてある。

それはそうかもしれない。

たとえば、最新の量子物理学などは、
すでに測定可能な範囲を超えて展開しており、
その領域を語るコトバとしては数学が使われるからだ
(大丈夫、本にはムツカシイ式は一切出てこない)。
数学そのものは触れることはできない。
測定することもできない。
具体的現実として存在もしていない。
完全に内的なものなのである。
ひとつのりんご
一本の鉛筆、というが、
それは互いが“1”という概念を
共有しているからこそ成り立つ表現である。
どこか外部……庭先とか、表通りのマックとか……
合意的現実に“1”は存在しない。
“1”はエレガントなドリームなのだ。

ところで、ある存在どうしは、
実際に物理的接触を持つ前にフラートというかたちで、
ドリームのレベルで相互作用している。
たとえば、
ここに一枚の水たまりの写真がある。

みずたまり
【雨上がりの窓】
Baby-Holga 110-ISO100 晴・早朝・屋外

従来の観方……合意的現実の中では、
ぼくが水たまりに映った空を見つけて、
その写真を撮った、ということになる。

ところが、この本に書いてある観方でいけば、ハナシは変わってくる。
ぼくと、水たまりに映った空は、すでにドリームのレベルで接触していたのだ。
そしてぼくは、いつもどおりの通学の途中で、そのまま通り過ぎようとしたが、
水たまりに映った空にフラートされて、思わずきびすを返し、
水たまりのところまで戻り、
デイバックからBaby-Holgaをゴソゴソと取り出し、
シャッターを切ったのである。

ぼくが水たまりをとらえたのか。
それとも、水たまりがぼくをとらえたのか。

どちらも正しい。

ただ後者は主観的現実(フラート、ドリーム)の世界の話なので、
前者ほど多くの人は合意してくれないだろう。
だけどぼくにとってはれっきとした現実なのである。

ある問題に対して易システムを使って回答を得たときも、
その回答は上記の例の後者と同様の、
きわめて個人的な意味をもつ。
この場合のシステムからの回答は、個人的な現実なのである。
易システムを使うということは、
周辺化しそうになってしまうフラート(いわゆる前兆、占機)をとらえ、
それを増幅し、合意的現実の中にひっぱりだす作業なのだ。

納得できない?
それでもやっぱり人間は……
この身体だけの存在であって、他にはなにもないのだろうか。
エッセンスやドリームなんて所詮は存在しない単なる空想だろうか。
どちらをとるかはあなたの自由だ。

『信じるものなどなにもない……』

というコトバは、一見とてもネガティブにみえる。
だが実は、よく考えると、
その中に非常に明るい要素を含んでいることがわかる。
『信じるものなどなにもない』
という彼(または彼女)のつぶやきを、
彼(または彼女)自身はどうやらしっかり信じているらしいから。
そう、大事なのはあなたがどう感じるか、なのだ。

記憶にマチガイがなければ、
星新一の書いた「声の網」という作品の中で、
ある人の「神様はいますか」といったような質問に、
ひょんなことから「意識」を持ったコンピューターは、
こんなふうに答えていた。

「そう、それはあなたの思ったとおりだ」

「フラートやドリームやエッセンスなんて、
ホントにあるんすかあ~」」

どちらにしろあなたが感じたことが正解である。


-----私信-----

>あっこ先生

前略。ごぶさたしています。
上記の本の著者、アーノルド・ミンデルは、
POP(プロセス指向心理学)の提唱者で心理療法家です。
以前POPの概念にハマって何冊か本を読んだのですが、
いまいちピンとこずに放り出していました。
上記の本は、やはりベースはPOPで、

『またわかんないかな~』

と、思いつつ読み始めたのですが、
以前とは、ずいぶん違うとらえ方ができたので、びっくりしました。
POP自身も発展しているということもあるでしょうが、
内容からいって、瞑想の効果も大きかったのではないかと実感しています。
前にPOPの本を読んだときにはFFMは教わっていませんでしたから。
また、本文中にはそこまで書きませんでしたが、
人の身体に触れる仕事をする人には(自分も含めて)、
是非読んでもらいたい一冊だとも思いました。


しょう

大地から吹き上げる風。上昇気流。
さしあたっては、さまたげるものもないようです。
この際ですので、どこまでいけるか風にのって、
いけるところまでいってみましょう。
ああ、やっぱりたいしたことないや、
と思うか、
いままでみたことのないような展望がひらけて、
それを「すばらしい!」と思うかどうかは、あなた次第です。
いずれにしても、いまは、舞い上がったその状態を楽しんでおいて損はないと思います。
先のことは、もちろんよく認識しておく必要がありますが。

え~、ここのところ続いています、
「ウリムとトムミム」シリーズでは、
問いをたてて、64の大成卦のうちひとつを取り出して、
その「陰爻、陽爻の数」だけに着目して占う占い方を
ご紹介しました。

タイトルの「ウリムとトムミム」は、
「アルケミスト」(パウロ コエーリョ (著)、
山川 紘矢・ 亜希子、 平尾 香(翻訳),角川書店)
という小説の中で、主人公がどこぞの王様からもらった
袋に入った白黒二つのタマのことで、
そこから名前を拝借しています。
問いを立て、心を落ち着けて袋から、
どちらかひとつを取り出すことで、
YESまたはNOの回答が得られるというシロモノです。

同じことを易システムでやる場合には、
問いを立て、
大成卦を何らかの方法で無作為にひとつ取り出し、
その陰爻、陽爻の数をみます。
パターンは全部で7つあって、
おさらいになりますが、
意味とパターンのリストを以下に示します。

A)YES!………………………6つ全部が「陽」
B)強いYES…………………1つが「陰」で5つが「陽」
C)弱いYES………………2つが「陰」で4つが「陽」
D)どちらでもない……3つが「陰」で3つが「陽」
E)弱いNO……………4つが「陰」で2つが「陽」
F)強いNO…………5つが「陰」で1つが「陽」
G)NO!…………6つ全部が全部「陰」

ウリムとトムミムが語るコトバとしては、
YESまたはNOふたつのコトバしかありませんが、
易システムでは、D)のイデオットを含む、
上記7つのコトバが使えることになります。
大成卦の意味もあわせて考慮するなら
(この場合は必須ではありませんが)、
64のコトバがあることになります。

さて……

ここで気付くのは、

ウリムとトムミムではYES!またはNO!の出る確率は50%。
言い換えれば、インプットされる問いをすべて、
YESまたはNOで割り切る、
そういうシステムであることがわかります。

これに対して、
易システムを利用したYES/NO判断では、
YES!またはNO!の出る確率は1/64=1.6%で、
なんかものすごく少ない。
同様に他のパターンも計算してみると、
以下のようになります。

A)6つ全部が「陽」………………………1.6%
B)1つが「陰」で5つが「陽」…………9.4%
C)2つが「陰」で4つが「陽」…………23.5%
D)3つが「陰」で3つが「陽」…………31.3%
E)4つが「陰」で2つが「陽」…………23.5%
F)5つが「陰」で1つが「陽」…………9.4%
G)6つ全部が全部「陰」…………………1.6%
(小数点第二位以下四捨五入)

な~んか数字ばっかり並べちゃって、
カクリツとか言っちゃって、
味気ないなぁ~

と、思われるかもしれませんが、
ご心配なく。ぼくも数字は苦手です。
いましばらくおつきあいのほどを。

ええと、上の数字を見てて、
ひょっとしたらとてもニンゲン臭い数字かも!
と思ったわけです。

たとえば、
A)~G)の意味を、
以下のような4つにまとめて考えてみます。

1.A)とG)=ばしっとシロクロ決められるコト
2.B)とF)=ほとんどシロクロ決められるコト
3.C)とE)=だいたいシロクロ決められるコト
4.D)=シロクロ決めるなんてムリだよ~ってのが本音ってコト

これに先のパーセンテージをあてはめてみると、

1.ばしっとシロクロ決められるコト………………3.2%
2.ほとんどシロクロ決められるコト………………18.8%
3.まあだいたいシロクロ決められるコト…………47.0%
4.シロクロ決めるなんてムリだよ~ってのが本音ってコト……31.3%

これはもうカクリツではありません。

2006-04-05【ウリムとトムミム】 」のログで、
世の中、シロクロきちんと分けられることなんて
そうそうないんじゃないかな~
といったことを書いたかと思いますが、
その具体的な比率のモデルといっていいでしょう。

ザックリ言って(でましたサラリーマン・コトバ)、
日常生活で出くわす問題の約半分は、おおむね
シロクロつけられるけど、3割は時間をかけるとか、
状況が変わらない限りやっぱりシロクロつけるのはムツカシクて、
もうこれはぜったいシロ!またはクロ!
ってハナから判るようなコトはほとんどない(3%)、
ってのが、

このシステムの言っていること、
ということになります。

そこいらへんがニンゲン臭い
(ナマナマしい?実生活を言い当てている?)なあ、と。
45年ほど人間をやっていますが、根拠はないけど、
まあだいたいそんなものかな~、
という気もします。

ぼくより10コ位上の、
やはり易システムに興味を持っている
人生の先輩にもきいてみましたが、

「う~ん、まあなあ。そんなもんじゃねえかなあ」

といっていました。

こういうのはアレですか、
たとえば現場の弁護士さんなんかに
アンケートをとってみるのも
おもしろいかもしれません。
とれるものなら。
得られた数値が仮に上記の比率に近くても、
まあ、主観を含むので、このモデルの
ゆるぎない根拠とはなりがたいでしょう。

そんなわけで「客観的に証明」することはできませんが、
あなたはどのように感じますか。


こ

山から大地にふきわたる風。
かわいた大地は、いままでの繁栄のあとといった感じで、特にみるものはありません。
そこにあるのは過去の残骸ばかりですが、あなたはそのなかから新しいものを創り出す必要があります。
おそらくそれは容易な道ではないでしょう。しかし、順をおって地道にやっていくならば、かならず過去の繁栄、いや、それ以上の、全く別の、高みにまで成長することができるはずです。
しかしながら実際、ここで大切なのは、そういった結果ではなくて、その再建をやり通す信念です。この「信念」とは、「こりかたまった昔ながらの考え」ではなく、あなたが目指す、まったくあたらしい方針のことです。

GWは中日も休みだけど(その分夏休みがミジカイ)、
前の会社の連中と飲みに行く約束とゴミだし以外、
とくに予定はない。

とくにトピックもないのだけれど、
テキトーにつづってみることにする。

ごみ
【ゴミ袋はるうらら】

ウラナイをやっている、などというと、
「さぞやカンがいいんでしょう」
などとほめてくれる人もいるが(皮肉かな)、

ぼく自身は、ハッキリいってドンカンである。

街中で友人に会っても気付かない。
昔からそうで、翌朝教室で、

「おまえ昨日シカトしたろう」

などと詰め寄られることもしばしばだった。

サラリーマン時代も、
だれがいつ結婚するだの、
だれとだれが付き合っているだの、
だれだれはどこそこに転勤になるだの、
昇格するだの降格するだの、
人事百般に関することにはまず、疎かった。

「へえ。あいつら結婚すんだぁ」
「そんなの見てりゃ誰だってわかるじゃんかよ」

わかんないのである。

そもそも、ヒトのことなどどうでもいいや、
と思っていたということもあるが、
まあとにかくそのニブさといったら、
他人様からみるとソートーのものだったらしい。

総務の手違いで給料がナンボか安くなってたときも、
しばらく気がつかなかった。
ぼくの肩越しに明細を覗き込んでいた、
シツレイなヤツに発見してもらったのである。

ヤツはため息をついてこう言ったものだ。

「いままでよく生きてきましたね」

そんなにダマされやすくてどうするんだ、
とヤツは言いたかったらしい。

そりゃぼくだって、
もし、支給額が半分になってたら気付くさ。

でも明日食うに困らない金額であれば、
とりあえずよしとしていたので、
たまたま発見がおくれたのだ。

推理ドラマの犯人なんかはまず判らない。
横で一緒にみているカミサンの方がはるかによくあてる。

カミサンといえばこの間、
食後に一本600円の安ワインを飲みながらドミノをしたが……

あ、そうそう、みなさ~ん、
アレは「倒すもの」ではありませんよ~!
海の向こうではポピュラーな、
非常に歴史のあるゲームなんです。

……ドミノ(ドローゲーム)をしたが、
ぼくの方は酔っているとはいえ、
論理と推理を最大限に駆使して確実に点を稼いでいた。
だが、あの女……
もとい、うちのカミサンときたら、
ギリギリで終端オール3のブロックをかけてきて、
あっという間に大逆転されてしまった。

ちょっと解説すると、

手持ちの牌を全部出してアガリなのだが、
場に出せる牌がなければ出せるものが出てくるまで、
山から牌を引き続けなければならないところが
ドローゲームのおそろしいところなのである。

あまりそういうチャンスはないが、
それをだせばもう続けて出せる牌はない、
という牌をだされてしまうと、
次の手番の人は結局山の残りの牌を
全部抱え込むことになってしまう……
というわけなのである。

牌が増えるのは一概に悪いことではなく、
場をコントロールしやすくもなるのだが、
ブロックされると同時に
アガられてしまっては手も足もでない。
逆転サヨナラホームランというわけ。
ワイルドドロー4でアガられてしまうウノみたいなものだ。
(↑これってルール違反でしたっけ?)

カミサンは、
このゲームをやったのはもちろん初めてで……
ぼくがくやしがっていると、

「あ~ら、あたしはなにも考えずに
カンで出してただけだよ~」

などと、しゃあしゃあと言うのである。
ぼくの論理と推理はいったいなんだったのか。


カミサンをはじめとして、
ぼくの周りの人には、
直観というかカンの鋭い人が多い。
(浮気はできない。したことないけど。
隠しとおせる自信はまったくない)

うらやましい反面、
ぼくはドンカンでよかったと思うこともある。
センシティブな人たちは、
聞こえなくてもいい他人の話や、
思い・雰囲気を含むある種のバイブレーションなどに
影響されやすいらしくて、
うちのカミサンなどは(今回は登場回数多いナ)
しょっちゅう体調を崩したり、ケアレスミスを起こしたりしている。
知りたくもない情報まで聞こえてきて悩むこともあると思う。

ただ、ぼくのようにあまりドンカンなのも困る。
まず、先が見えない。
気配りが……したくてもできない、
アタマ悪いと思われてしまう
(実際、ワルイけどね)、
などなど。
ぼくにとっての易システムは、
実は、こういったドンカンさをおぎなう、
松葉杖のようなものじゃないのかなあ、
などと思うこともある。

「易システム=欠点を補うツール」
という図式のもとに限っていえば、
カンのいい人には易システムは必要ない、
ということになるのかもしれない。
記憶力のいい人には、
備忘録としての手帳が必要ない、
というのと同様に。

ただ、手帳の機能が備忘録だけでないのと同様、
ドンカンさを補うツールという機能は、
易システムの一側面に過ぎないことも、
おさえておく必要があるだろう。

易システムによるYES・NO判断、
これ、実は問いを組み立てる練習にもなります。
この方法では、
YES・NOで答えられる問いでなければ、
システムとの対話が成り立たないからです。

ちょっとした応用ですが、
たとえば、カノジョ(またはカレシ)と、
お店にいって食事をするようなとき、
席のあき具合を予想するのにも使えます。
この場合は、空席を陰爻、
陽爻をふさがっている席、
大成卦全体をお店とみたてて判断するわけです。

まったく当たらない?
それどころか、反対の結果?

そうお嘆きのあなたの場合は、
陽爻が空席、
陰爻がふさがっている席(上記一般的な説明と逆)、
という意味なのかもしれません、
そこは自分とシステムとの間のルールを探って、
決めてください。
そのためには、
何回か失敗することが必要かもしれません。
いったん決めたらそれ以降、
ルールは変えないでください。
そんなわけで、
陰爻・陽爻の実際の意味は、
個々人によって変わってくる場合があります。
このブログで説明できるのは一般的な意味だけですので、
これをベースに、システムとあなたの間、
「独自」のルールを組み立てていってください。

陰爻、陽爻の数の組み合わせパターンには、
全部で7とおりあって、冗長になりますが、
前回記事の内容を再掲すると、

A) 全部「陽」
B) 1つが「陽」で5つが「陰」
C) 2つが「陽」で4つが「陰」
D) 3つが「陽」で3つが「陰」
E) 4つが「陽」で2つが「陰」
F) 5つが「陽」で1つが「陰」
G) 全部「陰」

A)がYES、G)がNO、
というのは、はっきりしています。
B)~F)は、占う人個々人、
また、その時々によって意味が変わりますが、
一般的な意味をあげるとすると
以下のようになるでしょう。

B)強いYES
C)弱いYES
D)?
E)弱いNO
F)強いNO

さて、問題は「?」のD)、
YESとNOが拮抗しているときの判断です。
自由に意味を決めてもいいのですが、
YESとNOの度合が同じわけですから、
一般的には「YES・NOどちらともいえない」
という意味になります。

まあ、一種の回答保留ととらえて、
機会を改めてもう一度占いなおすか、
内容を吟味して、質問を変えてみる、
といったところが穏当なのではないかと思います。


Holgaを買った。

似たようなハナシで、
以前にBaby-Holgaを買ったハナシををしたが
((2005年10月18日ログ「ゆるいひとたち 」)
しかし、「買った」ハナシばっかりだ)、
Baby-Holgaには、Sister-Holgaという仲間もいて、
BabyやSisterがいるわけだから、
当然親もいるのである。


といかめらず
【ウチのオモチャたち…向かって右から
ホルガ(親)、大人の科学付録カメラ、
ハリネズミカメラ、ベイビーホルガ。
一番手前は110フィルム】


買ったのはその親の方のHolgaで、
クラブ・イクスピアリで鈴木重子の歌を聞いたあとに、
酔っ払って、モールでスターターキットを買った。
酔っ払ってはいたが別に衝動買いではなく、
前から買おうと思っていたので
なけなしのバイト代を
はたいたのである
(なんか言い訳がましい)。


トンネル
【トンネルを抜けるとそこは
やさしい光に満ちたトコロ】
Holga120CFN 120mmColorISO100 晴天・屋外


なんというか、コレもゆるい。
スターターキットの中身は、フィルム、ストラップ、写真集、
遮光テープ、マニュアルなどがセットになっている。

役に立たないという
うわさのストラップはともかく(どうせ使わない)、
遮光テープってなんだよ、と思っていたら、
なんか、光モレが前提のようで、
それがひとつひとつのHolgaの個性で、
したがって、どこをどう遮光したらいいかは……

やってみなきゃわかんない。

説明書にそう書いてある。


横浜1
【横浜1】
Holga120CFN 120mmColorISO400 晴・屋外


いちおう「ピント?深度?」調整らしきダイヤルと、
シボリもどきのスイッチがついているが、
こいつらもなんだかよくわからない。

ファインダーも、プラレンズのはまったタダの四角いアナっぽこで、

『覗いた先の、だいたいそこいらあたりが撮れる……

……かもね』

と書かれたシールが堂々と貼ってあるのも同然だ。

デジカメではないので、
ナニが撮れているかは写真屋さんで
現像・プリントしてもらわなきゃわからない。
これにまた4~5日待たされるのである。


.横浜2
【横浜2】
Holga120CFN 120mmColorISO400バルブ 晴・夜


撮れる写真は、
いつも限りなくアクシデントに近く、
フィルム・現像・プリント代という
ランニングコストもそれなりにかかるので、
不用意にシャッターを切るわけにもいかない。

シャッターチャージという仕組みもなく、
シャッターを切れば切っただけ、
何回でも露光できる。

できるっていうか、
それじゃ困るんじゃないのか。

フィルムは当然手巻きであるからにして、
意図しない多重露光を避けるには、
巻いてから切るか、切ってから巻くか、
きっちりしておかなければならない。

自分の中で。

ああっ、ダメぇっ!

そーゆー、キッチリとかカッチリは、
とくに苦手なんである。
おまけに頼りの「自分の中」は、
授業を聞きながら、
冷蔵庫の中にトリップしていたり、
ヒルメシを食いながら、
晩のオカズのことを考えていたり
(食いモンのことばっか)、
まあ要するに、
こういう言い方するのも、
サルに失礼なくらいの
モンキーマインドぶりなのである。


横浜3
【横浜3】
Holga120CFN 120mmColorISO400 晴・屋外


ここまで書いてハタと気がつく。

このカメラのええ加減さは……
どことなく自分と似ているカモ。

そうかあ、だから憎めないのかぁ(笑)。
類は友を呼ぶ、ともいうし。

結局、自分大好き!
というくだらんハナシかよ!

はい、そうです……

ということで、
今日のところはご勘弁ください。

ちゃんちゃん。