ドリームランド | ぼくは占い師じゃない

ぼくは占い師じゃない

易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。


ちょっと長くなりますが……

久しぶりの書き込み、
そして久しぶりに、
手ごたえのある本を読んだので、
おつきあい願えれば幸いです

……

「身体症状に「宇宙の声」を聴く」
―癒しのプロセスワーク
アーノルド・ミンデル (著)
藤見 幸雄、青木 聡 (翻訳)
日本教文社
ISBN:4531081536
(2006/04)

あなたにとってこの世界は、
どんなふうだろうか。
その世界で生きる「自分」って、
どこからどこまでのことだろう。

『「自分」とは皮膚で区切られた
このボディの内側のことで、
この世界は目で見えるものがすべてで、
とくにこれといった意味も無く、
みんな、グーゼン・タマタマ、
ここに存在しているだけさ。
信じるものなどなにもない』

それもひとつのものの観方である。
いいんじゃないかと思う。
ニヒルで……
なんかカッコイイし。

ま、だけど、そういっている人でも、
他の人に

「オイオイ、空気読めよ」

な~んてことを言っていたりするのである。

今回はそんなハナシ。

上記の本の著者は、もう少し違ったふうにこの世界をとらえている。
カタチある現実が、現実としてあらわれるのに先行して、
カタチのないもの……その現実に関連した「ドリーム」があり、
さらにそれより前に、その「ドリーム」を生み出すおおもとの
「エッセンス」がある、というのである。

ところで、カタチある現実は、
この本の中では「合意的現実」と呼ばれている。
ぼくらが普段意識している日常的現実のこと。
ひらたくいえば五感で容易に認知しうる領域のことである。
「合意的」というのはこのレベルで、
ぼくたちは記号的に同意しあってコミュニケートするからだ。

例をあげるとこんな感じ。

「大人3人でやっと幹の周り囲めるんだってよ」
「ふてえ木ダナ」
「ふてえヨナ」

卑近な例をもうひとつ。

「じゃあ、明日、駅前のドトールで3時」
「わーった」

測定できる。手にとって見ることができる。
科学や技術が専ら対象としている領域だ。
唯識では「器世間」といわれたりする。
これに対してドリームやエッセンスは、
手にとって触れることができない。
測ることもできない。
しかし、主観的に感じることができる。
体験をある程度共有することもできる。

モノゴトは、まずエッセンスの領域で傾向として生じ、
さらに、ドリームの領域で、
なんとか語り得るモヤっとしたかたちをとり、
最後に、具体的現実として結実する。
概念や、夜見る夢も、ドリームのレベルに含まれる。
モノゴトは、

エッセンス -> ドリーム -> 合意的現実

の順で、微細~粗大になっていくのだ。
この文脈でいえば、
ミソ汁にはミソ汁のドリーム(エッセンスも)があり、
神田川には神田川のドリームがあり、
酒飲みには酒飲みのドリームがある。

ドリームやエッセンスは、ある種の「前兆」をともなっており、
これは「フラート」と呼ばれ、知覚することができる。
エッセンスやドリームの相互干渉ともいえるメッセージ……
この「フラート」こそがカギになるのだが、
なにせドリームやエッセンスのハナシだ。
視野の隅のちらつきや、かすかかな身体感覚、
ふとした思いつき、冒頭の例で出した「場の空気」などの
「微細な」かたちであらわれるのが関の山なので、
容易にシカトすることができる。

かすかなメッセージをシカトすることを著者は、
「周辺化(マージナライズ)」と呼ぶ。
教室のゴミを教壇の下にチャッチャッと掃き込んでしまってから、

「センセー、ソージ終わりましたあ!」

と言うことである。
マージナライズは、
心理学的に言う「抑圧」に近い概念だ。

さて、身体症状~病気を、
「エッセンス -> ドリーム -> 合意的現実」
の文脈でとらえるとどうなるか。
フラートとしてあらわれるかすかな身体感覚を周辺化し続けていると、
やがてそれは、より具体的で粗大な、たとえば肩のコリ、
慢性的な痛みなどの、感覚……ではなく、症状としてあらわれる。
臨床医学でいうところ自覚的所見である。
これをさらに放っておくと、
現象はさらに具体化し、測定可能な領域に結実する。
自覚的所見は他覚的所見になる。
いわゆる、「病気」だ。

コトはエッセンスの領域から始まっている。

合意的現実のレベルだけで対応しても、それは片手落ちいうものだ。
つまり、物理的身体(目に見える肉体)に対する、
機械論的アプローチ(不具合が起きた部分の切除、修理、交換など)
だけでは問題の解決にならないということ。

身体症状……病気は、その人へのメッセージである、
ということがよく言われるが、そのメッセージを解読するには、
ドリーム -> エッセンスの領域に入り込んでワークする必要があるのだ。
この本には、その方法~エクササイズも豊富に記されている(大丈夫。ペヨーテは必要ない)。

エクササイズも目玉だが、特筆すべきは、
ドリームもエッセンスも、時間空間の制約を受けないということ
(これらは合意的現実の属性だから)、
そして、実はニンゲンという存在もふくむすべてのものは、
ドリームやエッセンスといった領域でも存在する多元的な存在である、
ということである。

本の中では最新の量子物理学や生化学、遺伝子工学などの内容が、
この考えのアナロジーとして語られる。
ドリームやエッセンスやそれを応用した心理療法の妥当性を、
量子物理学などが証明するといっているのではない。
そのような誤解を招く表現は慎重に避けられ、
量子物理学云々のハナシは、
あくまでアナロジーとして語られているのである。
しかしながら、ひょっとしたら同じコトかも……
ということも書いてある。

それはそうかもしれない。

たとえば、最新の量子物理学などは、
すでに測定可能な範囲を超えて展開しており、
その領域を語るコトバとしては数学が使われるからだ
(大丈夫、本にはムツカシイ式は一切出てこない)。
数学そのものは触れることはできない。
測定することもできない。
具体的現実として存在もしていない。
完全に内的なものなのである。
ひとつのりんご
一本の鉛筆、というが、
それは互いが“1”という概念を
共有しているからこそ成り立つ表現である。
どこか外部……庭先とか、表通りのマックとか……
合意的現実に“1”は存在しない。
“1”はエレガントなドリームなのだ。

ところで、ある存在どうしは、
実際に物理的接触を持つ前にフラートというかたちで、
ドリームのレベルで相互作用している。
たとえば、
ここに一枚の水たまりの写真がある。

みずたまり
【雨上がりの窓】
Baby-Holga 110-ISO100 晴・早朝・屋外

従来の観方……合意的現実の中では、
ぼくが水たまりに映った空を見つけて、
その写真を撮った、ということになる。

ところが、この本に書いてある観方でいけば、ハナシは変わってくる。
ぼくと、水たまりに映った空は、すでにドリームのレベルで接触していたのだ。
そしてぼくは、いつもどおりの通学の途中で、そのまま通り過ぎようとしたが、
水たまりに映った空にフラートされて、思わずきびすを返し、
水たまりのところまで戻り、
デイバックからBaby-Holgaをゴソゴソと取り出し、
シャッターを切ったのである。

ぼくが水たまりをとらえたのか。
それとも、水たまりがぼくをとらえたのか。

どちらも正しい。

ただ後者は主観的現実(フラート、ドリーム)の世界の話なので、
前者ほど多くの人は合意してくれないだろう。
だけどぼくにとってはれっきとした現実なのである。

ある問題に対して易システムを使って回答を得たときも、
その回答は上記の例の後者と同様の、
きわめて個人的な意味をもつ。
この場合のシステムからの回答は、個人的な現実なのである。
易システムを使うということは、
周辺化しそうになってしまうフラート(いわゆる前兆、占機)をとらえ、
それを増幅し、合意的現実の中にひっぱりだす作業なのだ。

納得できない?
それでもやっぱり人間は……
この身体だけの存在であって、他にはなにもないのだろうか。
エッセンスやドリームなんて所詮は存在しない単なる空想だろうか。
どちらをとるかはあなたの自由だ。

『信じるものなどなにもない……』

というコトバは、一見とてもネガティブにみえる。
だが実は、よく考えると、
その中に非常に明るい要素を含んでいることがわかる。
『信じるものなどなにもない』
という彼(または彼女)のつぶやきを、
彼(または彼女)自身はどうやらしっかり信じているらしいから。
そう、大事なのはあなたがどう感じるか、なのだ。

記憶にマチガイがなければ、
星新一の書いた「声の網」という作品の中で、
ある人の「神様はいますか」といったような質問に、
ひょんなことから「意識」を持ったコンピューターは、
こんなふうに答えていた。

「そう、それはあなたの思ったとおりだ」

「フラートやドリームやエッセンスなんて、
ホントにあるんすかあ~」」

どちらにしろあなたが感じたことが正解である。


-----私信-----

>あっこ先生

前略。ごぶさたしています。
上記の本の著者、アーノルド・ミンデルは、
POP(プロセス指向心理学)の提唱者で心理療法家です。
以前POPの概念にハマって何冊か本を読んだのですが、
いまいちピンとこずに放り出していました。
上記の本は、やはりベースはPOPで、

『またわかんないかな~』

と、思いつつ読み始めたのですが、
以前とは、ずいぶん違うとらえ方ができたので、びっくりしました。
POP自身も発展しているということもあるでしょうが、
内容からいって、瞑想の効果も大きかったのではないかと実感しています。
前にPOPの本を読んだときにはFFMは教わっていませんでしたから。
また、本文中にはそこまで書きませんでしたが、
人の身体に触れる仕事をする人には(自分も含めて)、
是非読んでもらいたい一冊だとも思いました。