おじさんだから | ぼくは占い師じゃない

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易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

ソフトカバー版 ゲド戦記
 全六巻(セットもあり)
岩波書店
ル・グウィン
清水真砂子訳

今から30年~25年位前の学生の頃は、
SFばっかり読んでいた。
はっきりとは覚えていないが、
「易経」にのめりこんでいったのも
ディックの作品がきっかけだったのかもしれない。

さて、グインというと、
ぼくにとっては、ちょっと観念的なおハナシを書く、
アメリカの女流SF作家で……

個人的な偏見があって、
ことSFという分野においては女流作家の作品には、
ほとんど手をつけたことはなかった。
グインも、アンソロジーに入っていた作品などを
もととんなきゃ!などと、
仕方なく(作者にはシツレイだが)
読んだことがあっただけで、
まあ要は、「闇の左手」もなにも、
ほとんど知らないのである。

映画の影響で、
たまにはこういうのもいいか……
などと思って読み始めたら、
存外おもしろかった。

ただ……
「おもしろかった」というのは、
おっさんになった今だから言える感想かもしれない。

エンターテイメント性という意味では
タイクツな部分も多々あり、
もしここに18歳のオレがいたとしたら、
その18のオレにはすすめない。

比較的テンポがいいのは3巻までで、
そこから先、話運びはぐっと減速する。

なぜだろう。

ゲドがおっさんになったからである。
最初からそのきらいはあったが、
舞台はワカイモンの時代になり、
ゲドは完全にその背景にとけこんでしまう。

一世一代の大仕事をした後は、
持てる魔法の力もすべて失ってしまい、
おっさんどころかじいさんになってしまって、
故郷の土地を耕しながら、
愛する人と共に、淡々とくらしていくのである。

いいねえ。
すごくいい。

野暮なたとえだが、
社長、部長もそれなりに力(魔法)があって、
大仕事もするだろうが、
退職してしまえばただの人だ。
それまでにいかにして
安定した人格を築けているのかが、
結局は問題になる。
なにをもって「安定」というのか。
いろいろな考えや、観方があるかとは思うが、
「死の受容」は、その安定に決定的に重要な役割を果たす。

手垢のついた言い回しで恐縮だが、
「死(生)」というコンセプトは全六巻を、
通奏低音のように貫いている。
これが作品全体を暗く、重くしている理由だろう。
そしてこれが、18のオレにこの作品をすすめない
もうひとつの理由である。

舞台になっている世界には
産業らしい産業はないが、
魔法使いが使う「魔法」は、
風を起こしたり病気を治したり、
生活の様々な側面を支える実用的な技術である。
自然界の力をニンゲンの都合に合わせて利用するわけで、
使えば必ずどこかに負担がかかる。
したがって、サリーちゃんのように
気軽にパーパーパーパー、マホーを使うわけにはいかない。
どんなに小さな魔法でも、
乱用は世界というシステムの均衡を崩す。
どこにどう負担がかかるか、
予測するのはむずかしい。
だから魔法使いには、
魔法が使えるという才能のみならず、
幅広い視野を持っていることと、
人格的にも高いレベルに成長していることが
どうしても必要なのである。

「高度に発達したテクノロジーは
魔法と区別がつかなくなる」
といったのはクラークだが、
ご賢察のとおり、この作品における「魔法」は、
おそらくテクノロジーのメタファーである。
クルマやパソコンは現代の魔法だが、
さて、この現実世界の均衡は……
どうなっているのだろう。

外伝である6巻の、作者自身による
「まえがき」でもチラリとふれられていたが、
この作者は、たぶん間違いなく、
道徳経をはじめとする、
老荘思想についてもわかっている。
そういう意味では易システムとも、
無関係ではないのである。

そんなわけで、シリーズの主要な構成の一部は、
以下のようにわりときれいに、
太極図というダイヤグラムに展開することができる。

げど


18のオレがどういう感想を抱くか、
今となってはわからないが、
このように「おもしろい」というイミは、
歳とともに変わっていくのである。
あたりまえだけど。