ぼくは占い師じゃない -18ページ目

ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

身の丈のままに。

   ☆

身の丈に合った謙虚さならば、その身体と共鳴するにちがいない。

経文の中では、これを「鳴謙」と呼ぶ。

身の丈より大きくとも小さくとも、その「謙虚」さは不協和音を奏でる。

この不協和音に直接対応する言葉は、経文の中にはない。

だけど、

「謙謙」は君子だから、大川を渉れるのであって、小人なら、たぶん嫌味になり、
「労謙」は君子だから、有終の美を飾れるのであって、小人なら、たぶん自慢に終わってしまうのだろう。

しかし今日も生きていくのである。

小人だけど。

陽は高く、
天よりも。

   ☆

今がいちばん調子がいい。

できることは、なにごとも盛大に。

ひっこんでみたり、ケチケチしても、始まらない。

遠慮はいらないけれども、やりすぎには注意。

陽の光を思い切り浴びよう。

「トモルオン」という、オリジナルのオラクル・ブックをイベントで売っていたら、こんなことをきかれた。

「これってなんか、根拠はあるんですか」

オラクル・ブックというのは、ききたいことがあったら、ぱっと広げて、そこに書かれていることを回答として読む、という、まあ、占いみたいなもの。

「トモルオン」はサイコロをふって読むページを決めることになっている。

きかれて考え込んでしまった。

「一応、正二十面体がモチーフになってて……」

それは根拠ではない。構造である。

正二十面体である必然も必要も……ぜんぜん、ない。

「まあ、ふだん、ぼく自身も使ってるものでして……」

それはそうだが……ちょっと根拠にはならない。

ぼくにとって役に立っているということが、あなたの役に立つ根拠にはならない。

   ☆

とりあえずめでたくお買い上げいただいたので、すっかり忘れていたが、存外、深い問いなのかもしれない。

根拠。

実は、ないのである。

「トモルオン」ではなく易の本であれば、古典であるという事、何千年かの歴史、それから、世間的にもある程度認知されているということが、根拠になるかもしれない。

「トモルオン」の副題には、一応、「Notes from the Inner Stream」と銘打ってある(よく聴くRishiのアルバムタイトルをそのままパクっている)。


自分で書いて、自分で使っているものを売っているだけで、その「Inner Stream」とやらが、どこまで非個人的で、どこまで他人<ひと>様の役に立つかは、結局は、ひとえに、読者様方の判断におまかせするしかないのである。

   ☆

ぱっと開いたページに、たとえば、

「可もなく不可もありません。でも、よいことです」

と、書かれていたとする。

なにをもって「可」として、なにをもって「不可」とするのか。

なにが「よく」て、「わるい」のか。

この文を、どのような回答ととらえるかは、その時の問いの内容、質問者がおかれている状況、回答者が持っている知識、経験、記憶……つまりは「文脈」によるのである。
そして、「トモルオン」の場合、ふつうは「質問者」=「回答者」だろう。

上記の回答文の例はわざと曖昧に書いた。「トモルオン」にこんな文章はない(あったかな)。でも、易もそうだけど、原理は同じだ。

ツール自体は鏡のようなもので「根拠」はない。

   ☆

正二十面体云々……の説明は、鏡自体の成り立ち……硝酸銀の銀幕をガラスの向こう側に付着させてあって……といったことを説明しているのと同じことだ。

顕在意識の影響を低減させるために、サイコロを使う。
それでも文章を読むのは顕在意識を介してだから、我のバイアスはどうしたって避けることはできない。

人はあらゆることの中にその人自身を観る。
たとえそれが自然の法則であっても、その中に自身を観る。
罰を与えたり褒美を与えたりする神は、たぶんそのようにして現れてきたのだろう。

「オラクル」は神のお告げだが、その神は顕在意識のあずかり知らない、他ならぬあなた自身だ。
つまるところ、根拠はユーザー自身なのである。

   ☆

「可もなく不可もありません。でも、よいことです」

なぜ「よい」と書けるのだろうか。

テキトーに書いただけで……といってしまうと、それこそ身も蓋もない。

根拠にはならないが、「トモルオン」の場合は、その時、それを書いた時の、判断の記録である。

詩や物語が回答代わりになっているセクションでは、そういった作品をそこに回答として持ってくることが、その時、適切だと思った。……そういう記録。
その時その状態では、そのような「回答」だったのだ。
「ぼくの場合は」という但し書きがつくが。

この回答が、他の人が使った場合や、自分で使った他のケースと、どれほどオーバーラップするかは、それこそ未知である。

   ☆

ある時ある方から、「トモルオン」のことを、「あれはちょっと判断がむずかしいですね」と言われた。

いろいろなものを詰め込み過ぎたせいかもしれない。

じゃあ、ということで、もうすこし短く、箇条書きにしたような普段使いの「トモルオン」を作り始めた。

だいたいは日々の指針を求めて、「トモルオン」引いて判断した記録をつけている。そんなやり方だから、もちろんいつできるかはわからない。

それぞれは短文で、たいしたボリュームにはならないが(易も本文だけなら手帳一冊に収まる)、120×nの節に分かれる予定。

最初は「デイリートモルオン」(「デイリーコンサイス」のパクリ)などと呼んでいたが、長たらしいので、上に書いたような事情を考慮して「空鏡録」と呼ぶことにした。

イッパシのことが書かれているようにみえるかもしれないが、やはり根拠はない。からっぽの鏡だ。

文章を短くして、サイコロで読むところを決めるとなると、ますますお神籤っぽくなるが……

お神籤だって立派な「オラクル」である。

ね。
 

書を捨てよ。
町へ出よう。

   ☆

同人於野。

「書」というのは、今なら、スマホかパソコンってところかもしれない。


とにかく顔を上げて、外へ出て人と交わる。

正直言って苦手だ。

だけど外へ出る。

お店の人と一言話すことだって、立派なコミュニケーションかもしれない。

自分はポツンと生えている木でない。
他にも様々な木がある森の中にいる。

そんなことに、今更気づいたりする。

そのうちに、同じように町に出た人に会って、
そのうちに、仲間がみつかるかもしれない。

pixivにまた駄文をアップロードしました。
ご笑覧いただければ幸いです。

内容はずいぶん以前に
このブログに掲載した記事です。

まとまった感じだったので、
ほぼそのまま「トモルオン」に収録しました。

架空のお話です。
お話に出てくる「わたし」はもちろん、
このブログを書いているぼくではありません。

 

↓ こちらです。
#トモルオン #読み切り 旅に関する覚書 - 白橋升の小説 - pixiv

遊星出版、「NO WAY MANIACS 9th」に参加しました。



「ずっとやりたかったことをやりなさい」(原題、The Artist's Way)は古典的名著だけど、絵も文章も自分で描(書)き、自分で本を作って、自分で手売りすることが、ずっとやりたかったことなんだ、たぶん……

と思い立ち、「威沙(いずな)」(フリー ! )のような組版ソフトや、製本直送のようなASPの力を借りて、本を作ったはいいものの、発表の場だ! と思っていた文フリがコロナのせいで中止。

2年間我慢して、あっという間に歳を取り、還暦(!)になって、おっかなびっくり出てみた初文フリ、初イベント参加で、声をかけてくれたのが「NO WAY MANIACS」主催の森さんという方だった。

ヒューマン・デザインの観立てによると、ぼくは他からの働きかけ……「招待」されて動くタイプなのだそうだ。

こりゃあ、出展しないワケにはいかないよね。

「NO WAY MANIACS」ってのは、ちょっとサイケな、クラフト系の地元(大田区)イベントなのかなって感じ(昭和な言い回し、ご容赦)。あくまで還暦ジジイの私見だけど。

還暦、還暦ってさわいでるけど、たぶんあの、こじんまりした会場の中にいた方々の中で一番歳くってるんじゃないだろうか(みなさんトシヨリには優しいです。それは……感じました。ガハゲヘゴホ)。

出展者とお客さん、出展者どうし、距離が近く話しやすいイベントだってのはホントウだと思う(ぼくは元来コミュニケーション下手なんで、ぼけっと座ってただけですが)。

ブースに立ち寄ってくれた人、ありがとう!

もちろん、本を買ってくれた人、ありがとう!

単純に売り上げ冊数でいうと、文フリの倍でした(「倍」といっても、もとになる売り上げ冊数がごくわずかなんですが

……)。

「最初にたくさん来るお客さんたちゃあ、ご祝儀客って言ってな、次回も同じくらいお客さんが来ると思ったら大マチガイだ」

というのは、指圧の師匠から教わったことですが(あ、本業は指圧師です)、ゴシューギだろうと、チキューギだろうと、いいんだ、そんなことは。

「ずっとやりたかったこと」をやってるぼくは、たぶんシアワセなんだろうと思います。

ありがとう、みなさん。

泣けるぜ(ダーティ・ハリーの真似……いちいち古くてスミマセン)。
 

拙作「トモルオン」のお話の続きです。
(前回記事はこちら→

   ☆

トモルオンのもとになった、「夜の石は天に昇り空ゆく星と会えた」の章立ては、0.~21.の全部で22。

意図的にそうしたのではありませんが、タロットの大アルカナの数と同じになりました。

大アルカナの並びを、世界(21)を旅する愚者(0)の物話ととらえるなら、登場人物自身(0)とその舞台(21)は、全体をあらわすものとして、本体からは除外できる……かもしれません。

そもそも「夜の石~」や「トモルオン」とタロットは、直接的には関係ありません。
こういうのは、いわば勝手な……「観立て」です。
ご容赦ください。

かくて、トモルオンの章立は20になりました。

   ☆

歯切れの悪い書き出しですが、0と21を外すという操作は、わざとそうしました。
正二十面体のサイコロを使うためです。
サイコロの出目はふつうコントロールできません。
出目は「神」の意志と考えられた……
というのは、ネットのどこか(wikiだったかな)の記事で見た話。

まあでも、そうだと思います。

「神」と言うより、普段意識することのない「自分」から伝えられた、「ポインタ」と言った方がより近いかもしれません。

この、普段意識することのない「自分」という「潜在意識」は、顕在的な自分を明示的・強制的にコントロールするようなことはまずしません。

とはいえ、たとえば夢(やサイコロ)などを通じて、示唆する程度のことはするようです。

直接的には言わないけど、間接的には「言う」。

「指す」わけです。

「ここを見ろ」と。

「指された」現実の流れを見ると、
次のような事が「書かれて」いると思えることがよくあります。

『あなたは独りではない』

もしくは、

『この世は無意味(虚無)ではない』

「指されて」、「見る(解釈する)」。

この一連の(おそらくは)記号論的過程は、
共時性(シンクロニシティ)と呼ばれています。

   ☆

20というのは魅力的な数です
(といって、他の数が魅力的ではないというわけではありませんが)。

5つある正多面体のうちでもっとも面の数が多い正多面体の面の数は20で、人間の手足の指の数の合計も20で、TMは朝晩20分づつやるように最初は指導されます。20はまた、13月の暦の紋章の数で、易との関係でいうなら、64ある大成卦のうちの三陰三陽の大成卦は20あります。易との関わりについては「トモルオン」では、付録で説明しています。

【トモルオン「付 易との関係について」より】

この話は後付けではあるのですが、ご興味のある向きはお読みいただければうれしいです。

   ☆

トモルオンでは6は人間の意識を象徴する数として観立てています。

前後左右上下。

6。

【トモルオン 1-2「破るべき制限」より】

一方、人間そのものを見るなら、四肢と頭部で5。

四肢と頭部は物理的に目に見える側面ですが、6はさらにそれに+1した数です。
そんなところから、6を、最初に物理的な側面を超える「なにものか」の象徴とみなしています。

正多面体の数も5ですが、下の図では「完全な」立体である球も含めて、半ばムリヤリ(笑)、6にしてあります。

「球」は超えるわけです。
フィジカルな正多面体(不完全な「球」)の次元である5を。

【トモルオン 0-21「愚問と風」より】

トモルオン(二版)では、この「球」を近似するものとして、六方正二十面体(120面体)をあてはめていて、各セクションに1~120の連番をふりました。
このことについてはカンタンに以前の記事に書きました。

【「トモルオン(二版)」口絵より】

球の「近似」として、六方正二十面体をあてはめるのは、甚だ粗っぽいともいえます。

粗すぎて、「近似」とすらいえないのでは……

でも実際に、ゴルフボール大の120面サイコロ(六方正二十面体)を手にしてみると、まあまあ球だという感じもします。

人間の感覚も、この無理矢理の「近似」と同様、粗っぽいということなのかもしれません。

   ☆

等身大の通常感覚と、それにもとづく経験だけでは、現実はまったくとらえどころがありません。

「物語」はその現実にカタチを与える方便ともいえます。

大袈裟でしょうが、トモルオンは、ひょっとしたら、正∞面体(球)という現実(宇宙)をとらえる120面体という「物語」なのかもしれません。

社会や教育や伝統、文化、国家、民族などもこの「物語」に含まれます。「物語」は個人を超えて受け継がれていきます。

人は「物語」というゲタを履くことによって、ようやく現実がわかった気分になれます。

安心します。

「物語」という一服の清涼剤で。

   ☆

最後に、本文は20章だけど、実は22あるトモルオンのキーワードをあげさせていただいて、とりあえず「トモルオン解題」の記事はしめさせてただきます。

【 】内は易から来たキーワードです。

 0. 愚問【能動】      21.風【受動】

----------

 1,約束【安定】       20.物語【閉塞】
 2.光の海【犠牲】   19.探求【漸進】
 3.出発【節度】       18.記憶【旅路】
 4.世界【献上】       17.助言【感応】
 5.旅【豊穣】         16.お告げ【離散】
 6.理由【秩序】       15.贈り物【混沌】
 7.結婚【装飾】       14.それぞれの道【困窮】
 8.最後【追従】       13.珍客【修繕】
 9.大切なもの【障害】 12.占術書【源泉】
10.瞑想【天恵】       11.隠者【恒常】

故辻麻里子さんによれば、22は超えて行くものだということになりそうですが、「トモルオン」もしょせんは方便、ということかもしれません。

「トモルオン」は、またイベントで頒布したいと思っています。その節はお運びいただければ幸いです。
 

前回の、拙作「トモルオン」という本のお話の続きです。

「トモルオン」は正20面体のサイコロひとつと正6面体のサイコロひとつ、合わせてふたつのサイコロをふって、出た目に対応したセクションを読んでいただくことになっています。

20×6で120のセクションがあることになりますが、基本的にはそれぞれに関連はありません。なので、サイコロを使わないで、テキトーに拾い読みしていただいてもいいわけです。

   ☆

前回のお話で出たビブリオマンシー(書物占い)のように利用するのであれば、サイコロを使った方がいいと思います。

というのは、同じオラクル・ブックを長いこと使っていると、どこに何が書いてあるか、身体が(あるいは潜在意識が)覚えてくるからです。特定のページに開き癖や折れ、汚れのような目印がついてしまうこともあるでしょう。

   ☆

トモルオンに構造はありますが、構成はありません。構成は読む人とサイコロが決めるからです。

構造とはいっても難しいものではなく、6重の正二十面体です。20という数が、ベースになっています。

【トモルオン 17-3「地図」より】

正二十面体の各面にはそれぞれキーワードがあって、これらのキーワードが一.~二〇.各章のタイトルになっています。
さらに各章には6つの層に対応した6つのセクションがあって、これらのセクションにもキーワードがあります。


【トモルオン 19-5「ワクワク」より】

   ☆

20と6という数は、こないだの文フリにトモルオンと一緒に持って行ったけど、これがまあ、ぜんぜん売れなかった「夜の石は天に昇り空ゆく星と会えた」という作品からきています。

「夜の石~」は、文フリのwebカタログの紹介では、アクティブイマジネーションの手法を利用したようなことが書いてあります。

「アクティブイマジネーション」はユング派の心理療法ですが、意識的に見る夢のようなものです。
夢は基本、個人的なものなので、これが、よく言われる「他人(ひと)の夢の話ほどつまらないものはない」理由でしょう。

とはいえ。

そんな夢の話であっても、うまいこと非個人的な領域に近いところにふれることができていれば、ひょっとしたら、ちょっとは[他の個人|ひとさま]にも響く部分も出てくるかもしれない……と。

まあ、うまくいけばの話ですが。

   ☆

「夜の石~」は0.~21.までの全22章の構成になっています。

書き終えてから眺めていたら、ある夜ふと、章の名前がなんとなく、オラクルカードのキーワードのように見えてきました。もちろん、故意にそのようにしたわけではありません。

キーワードをふたつづつペアにして、その元になるキーワードを連想していくというやり方をくりかえして、22のキーワードを「煮詰めて」みました。錬金術風に言うなら、「蒸留」し「第一質料」へと、「還元」していったわけです。

最後は一つのキーワードになりますが、「蒸留」していく過程で6つの階層ができました。


【22のキーワードと6つの階層(「黄色の書」より)】

   ☆

この構造をそのまま使って「チャネリング・ツール」を作ってみようと思い立ち、そうしてできたのが「次元羅針盤」という「ツール」でした。

せっかく書いたので、この場を借りまして、その「ツール」を、こそっと公開させていただきます……
ドキュメントのタイトルは、「黄色の書」です。
「黄色の書」は無償です。閲覧・複製・印刷・配布も自由です。

黄色の書へのリンク

ご興味のある向きはごらんになっていただければと思いますが、チャネリング(という言い方も、もう旧いのかもしれないけれど)の指南書というわけではなく、あくまでもそれをサポートするという位置づけです。

   ☆

「黄色の書」=次元羅針盤は「ツール」とは書きましたが、作ってみたはいいものの、「サイコロで選んだキーワードから、メッセージを導きましょう」といった、普段使いにはちょっと無茶なシロモノになってしまいました。

もう少し説明があればいいんじゃないか……と考えて「黄色の書」をベースに書き始めたのが「トモルオン」です。

最初のうちは次元羅針盤のキーワードを情報カードに転記して、サイコロをふって使っていました。
結局、出てきたキーワードを、その日その時の質問に応じて、解釈して使っていました。
ならば、この「解釈」の方をまとめて本にすれば、少しは使えるものになるんじゃないか、と。

「夜の石~」を書き終えたのが、2018年で、黄色の書(次元羅針盤)を一応カタチにしたのが2020年。
トモルオン自体を書くのにイラスト(図)も含めて(過去絵も流用していますが)1年くらいかかっていますから、かれこれ3年。
コロナの影響もありますが、時間だけは、やたらにかかってます。

   ☆

ダラダラとよくやるよね、
とか言われそうですが……

稲垣足穂について、どなたかがおっしゃっていたことだと記憶していますが、足穂は自分の作品を工芸品のようにとらえていた節があって、ひとつの作品をちょっとづつなおしていって、仕上げようとしていたのではないか、それがあのバリアント(改作)の多さにひとつの要因だろう、という話でした。

足穂のようなすごい作家さんと自分を比べることなど到底できませんが、ぼくもそれにならって、ちょっとづつ、ディティールを加えたり削ったりしていたら、時間がたってしまったという……

実際に自分でも使いながら書いていったので、そういうところでも時間がかかっています。

   ☆

そんなわけで、この話も続きます。
もう少し、ダラダラさせていただければ幸いです。
 

初めて文フリに出て、「トモルオン」もせっかく売れた(といってもほんの数冊ですが)ので、ここらでちょっと「トモルオン」とその周辺について、お話させてください。

   ☆



見た目は320ページを超える、ちょっとぶ厚い文庫本です。
通読するものではなく、サイコロをふって読む本です。
オラクル・ブック(お告げ本)、占い本のようなもの。

なにか聞きたいことがあったとき、サイコロをふって、出た目のページを読む……そこに書いてあることを、質問の回答としてとらえる……


もともと、そんな「本」を作ろうとして書き始めました。

書いているうちに、もっといろんなものを入れて、ラム・ダスの「ビーヒアナウ」みたいになったら(もちろん足下にも及びませんが)、おもしろいかなぁ、などと思ってました。

そしたら、イラストや図や詩やお話が混じってきて、エッセイ集のようにもなってきました。

そんなところは一応、「文学」ということもできるかな、と。

どこからでも読める。
どこでやめてもいい。

そんな120編のエッセイとしてとらえるなら、無理に占いのように使うこともありません。

話題はいろいろ。

中には一言で終わっているセクションもあって、一冊をとおしての一貫したお話ではありません。

そんなわけで、「結局なんなの?」と聞かれると、一言では答えにくいものになりました。

   ☆

質問を決めて本を開き、最初に目に付いた、そこに書かれていることを質問の回答としてとらえる……

こういう本の「使い方」は、書物占い(ビブリオマンシー)と呼ばれる占術の一種で、古くからあるのは、聖書を使うやり方です。

「命卜相」の分類で言えば、易やオラクル・カードなどと同じ、「卜」の部類になるでしょう。

ご賢察のとおり、それならどんな本でもいい。
「人間失格」でも「エヌ氏の遊園地」でもいい。

聖書とならんで昔からあるのは、おそらくは、辞書を使って占うことでしょう。

   ☆

いつの頃から世に出始めたかはわかりませんが、ビブリオマンシー専用の本(オラクル・ブック)というものもあって、有名で入手が容易なのは、鏡リュウジさんが監訳している「魔法の杖」でしょう。

類書はたくさんあるようで、テレビかなんかで「魔法の杖」が紹介されたのがきっかけでしょうか、定かなことは知りませんが、一時期はヴィレッジバンガードかなんかで、そういう「本」のコーナーができていたのを見たことがあります。もう10年以上昔の話です。

この類の本は、大概1ページに一言二言、ぱっと見て読める文章があり、どうしても下駄で天気を占うような(やってる人、見たことないけど)遊び感覚がつきまといます。

まあそれを言ったら、卜占自体遊び的な側面があることは否めません。
もちろん「遊び」があってもいい。
真剣に問うことがあってもいい。

要は鏡のようなもので、回答がいかなる性質を帯びるかは、質問者がその仕組みに臨むスタンスによるわけです。

   ☆

もし、オラクル・ブックを作ろうとするなら、その中に、どんな言葉や文章を、どんなルールに従って入れていくのか決めることは、なかなかにむずかしく、そして、おもしろいところだと思います。

「ルール」といっても直観に負うところ大でしょうし、とにかくなんでもいいから目についた言葉や文章を手当たり次第に放り込むというのも、ひとつの手ではあります。「手当たり次第」といってもそこには著者の直観や潜在意識が働きます。

上述の類書の中には、古今東西の偉人賢人の言葉……いわゆる名言、金言を集めてオラクル・ブックとして仕上げられていたものもありました。

既存のリソースを利用するということですが、それでも誰の、どんな金言を採用するかは編者の直観や潜在意識にまかされています。

   ☆

いろいろある中で、「こりゃすごいな」と思ったのが、ある方から教えてもらった、あーす・じぷしー姉妹が書いた「ミラクル 奇跡の毎日が始まる」というオラクル・ブックです。

各セクションは一言では終わっておらず、1ページにまとまったメッセージになっています。

これらが実に、元気をもらえる雰囲気に満ちています。

もちろんただそれだけではなくて、人生同様、ビターなセクションもあります。

お使いになってみればわかるとは思うのですが、軽いスピというノリではなくて、まあなんというか、深いところで響くメッセージも多数あります。

   ☆

響くか響かないかというのは、質問の内容や、質問者がその時置かれている状況(タイミングとか年齢とか)という、利用する側の「文脈」と、そのときに開いたオラクル・ブックに書かれている内容とのぶつかりあい……「化学反応」に依存するので、単純な評価はできません。

でもたしかに、「合う」「合わない」というのはある。

こういったオラクル・ブックに接してみて思うのは、新調した服みたいな感じで、だんだん身体になじんでくることもあるということです。

最初は、「なんだかな」と思っても投げ出さないで、ある程度の期間つきあってみることも必要でしょう。「慣らし期間」というわけですが、それでも、合わない服はあります。

だからといってすぐに、手放してしまうのは得策ではないかもしれません。

書かれている文章や言葉は変わりませんが、経験や歳を重ねるなどして、質問者自身が変わっていくからです。そうしたら、また合うようになるかもしれません。

手放すのは、逆のケース、合っていたものが合わなくなってからでも遅くありません。
大きくなったら、子供服はもう着ることはできません。

   ☆

同じセクションの同じ文章であっても、その時の受け手の「文脈」によって、意味合いが変わってくる。
このことからすぐにわかるのは、オラクル・ブックは読み終わるということが「ない」ということです。

易のような古典も同じ構造を持っていて(辞占の場合)、まったく同じ文章であったとしても、質問者ごとに、占者ごとに、占的ごとに、時代ごとに意味は変わってきます。
易占の場合、この「読み替え」を前提としているといってもいいでしょう。

易経をオラクル・ブックとするなら、おそらくは世界最古の「オラクル・ブック」ということができるかもしれません。

   ☆

あれ。

自著のことを書くつもりが、いつの間にか、なんだか他人(ひと)様の本の紹介になってしまいました。

続きます。