「トモルオン」という、オリジナルのオラクル・ブックをイベントで売っていたら、こんなことをきかれた。
「これってなんか、根拠はあるんですか」
オラクル・ブックというのは、ききたいことがあったら、ぱっと広げて、そこに書かれていることを回答として読む、という、まあ、占いみたいなもの。
「トモルオン」はサイコロをふって読むページを決めることになっている。
きかれて考え込んでしまった。
「一応、正二十面体がモチーフになってて……」
それは根拠ではない。構造である。
正二十面体である必然も必要も……ぜんぜん、ない。
「まあ、ふだん、ぼく自身も使ってるものでして……」
それはそうだが……ちょっと根拠にはならない。
ぼくにとって役に立っているということが、あなたの役に立つ根拠にはならない。
☆
とりあえずめでたくお買い上げいただいたので、すっかり忘れていたが、存外、深い問いなのかもしれない。
根拠。
実は、ないのである。
「トモルオン」ではなく易の本であれば、古典であるという事、何千年かの歴史、それから、世間的にもある程度認知されているということが、根拠になるかもしれない。
「トモルオン」の副題には、一応、「Notes from the Inner Stream」と銘打ってある(よく聴くRishiのアルバムタイトルをそのままパクっている)。
自分で書いて、自分で使っているものを売っているだけで、その「Inner Stream」とやらが、どこまで非個人的で、どこまで他人<ひと>様の役に立つかは、結局は、ひとえに、読者様方の判断におまかせするしかないのである。
☆
ぱっと開いたページに、たとえば、
「可もなく不可もありません。でも、よいことです」
と、書かれていたとする。
なにをもって「可」として、なにをもって「不可」とするのか。
なにが「よく」て、「わるい」のか。
この文を、どのような回答ととらえるかは、その時の問いの内容、質問者がおかれている状況、回答者が持っている知識、経験、記憶……つまりは「文脈」によるのである。
そして、「トモルオン」の場合、ふつうは「質問者」=「回答者」だろう。
上記の回答文の例はわざと曖昧に書いた。「トモルオン」にこんな文章はない(あったかな)。でも、易もそうだけど、原理は同じだ。
ツール自体は鏡のようなもので「根拠」はない。
☆
正二十面体云々……の説明は、鏡自体の成り立ち……硝酸銀の銀幕をガラスの向こう側に付着させてあって……といったことを説明しているのと同じことだ。
顕在意識の影響を低減させるために、サイコロを使う。
それでも文章を読むのは顕在意識を介してだから、我のバイアスはどうしたって避けることはできない。
人はあらゆることの中にその人自身を観る。
たとえそれが自然の法則であっても、その中に自身を観る。
罰を与えたり褒美を与えたりする神は、たぶんそのようにして現れてきたのだろう。
「オラクル」は神のお告げだが、その神は顕在意識のあずかり知らない、他ならぬあなた自身だ。
つまるところ、根拠はユーザー自身なのである。
☆
「可もなく不可もありません。でも、よいことです」
なぜ「よい」と書けるのだろうか。
テキトーに書いただけで……といってしまうと、それこそ身も蓋もない。
根拠にはならないが、「トモルオン」の場合は、その時、それを書いた時の、判断の記録である。
詩や物語が回答代わりになっているセクションでは、そういった作品をそこに回答として持ってくることが、その時、適切だと思った。……そういう記録。
その時その状態では、そのような「回答」だったのだ。
「ぼくの場合は」という但し書きがつくが。
この回答が、他の人が使った場合や、自分で使った他のケースと、どれほどオーバーラップするかは、それこそ未知である。
☆
ある時ある方から、「トモルオン」のことを、「あれはちょっと判断がむずかしいですね」と言われた。
いろいろなものを詰め込み過ぎたせいかもしれない。
じゃあ、ということで、もうすこし短く、箇条書きにしたような普段使いの「トモルオン」を作り始めた。
だいたいは日々の指針を求めて、「トモルオン」引いて判断した記録をつけている。そんなやり方だから、もちろんいつできるかはわからない。
それぞれは短文で、たいしたボリュームにはならないが(易も本文だけなら手帳一冊に収まる)、120×nの節に分かれる予定。
最初は「デイリートモルオン」(「デイリーコンサイス」のパクリ)などと呼んでいたが、長たらしいので、上に書いたような事情を考慮して「空鏡録」と呼ぶことにした。
イッパシのことが書かれているようにみえるかもしれないが、やはり根拠はない。からっぽの鏡だ。
文章を短くして、サイコロで読むところを決めるとなると、ますますお神籤っぽくなるが……
お神籤だって立派な「オラクル」である。
ね。
