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ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

イベントに出展して、文も絵も自分で書いた(描いた)本を手売りし始めるちょっと前から、フェイスブックも、ツイッターも、インスタグラムもやめてしまった。

続けているのはこのブログと、ホームページピクシブ

理由は、いろんなものに手を出しすぎて、それらから流れてくる情報を追うのに疲れてきたことと、自分は存外、他人様の動静にそれほど興味がないということに今更ながら気がついたからだ。

今は本作りに時間を割いている。

新作は……当分、ちゃんと形になりそうにない。

そんな事情で、ぼくにとってはおそらくは最も基盤になりそうな「夜の石は天に昇り空ゆく星に会えた」という長いタイトルの既刊書の新装版を作りはじめた。

この本は最初はB6横のコピー本で20冊くらい作った。
これは友人知人に献本と、イベントで頒布。

コピー本の後は、威沙(いずな)を利用して文庫版を作成。
これは遊星出版のホームページに載せた。

新装版では「あとがき」をつけることにした。「あとがき」にはこのお話を作った背景を書いている。10数ページくらいになる予定。

新装版は文庫版と同じく縦書きだが、初めて参加した文フリで横書きコピー本を見たお客さんに「これは……詩ですか?」ときかれたのがきっかけで、余計な改行を省いてもう少し読み物らしくしている。



来年ぼくは厄年だそうだ。

今のところ健康に問題はなさそうだが、やりたいことができる時間がどのくらいあるのかはわからない。

それは年齢にかかわらず、よく考えれば実はみんな同じだとは思うが、やれるうちにやりたいことを……とはいつも思っている。
 

2022/11/20、日曜日。
 
文学フリマ東京35に出展いたしました。
I-40、遊星出版です。
 
今回は東京流通センターのふたつの会場を使って、1400以上のブースの出展となったそうです。1400以上となってくると、遊星出版のような版元は、砂浜の砂の一粒に限りなく近くなっていきます。
でも、チャンスでもあるのかな、とも。
 
今回は「トモルオン」(オラクル・ブック……かな?)と「テンポウ航海記」(小説……かな?)、あと、Webカタログには載せなかったんですが、セール品で「夜の石は天に昇り空ゆく星に会えた」という長いタイトルのおとぎ話の3つを持って行きました。
 
有名でもなければプロでもない、ぼくのような者が書いたものを手に取ってくださったり、お買い上げくださるのは、そりゃもう、カミサマ、ホトケサマに決まっています。今後イベントの規模が大きくなれば、カミサマ、ホトケサマの数も増えるのではないか……と、勝手に思っています。
 
今回は都合で、16時半過ぎくらいに店じまいさせていただきました。もしその後お見えになったお客様がいらっしゃったら、あいすみませんでした。
 
おかげさまで「テンポウ航海記」以外は、印刷した分はすべてお買い上げいただきました。「すべて」といってもほんの数部で、もちろんたくさんの人に読んでもらえれば、それはシアワセだなことだと思いますが、自分で書いて自分で売っての、こんな「出版」もアリかと。たくさん・同時に、という、ふつうの意味での出版というよりも、メッセージを瓶につめて大海原に投げ込んでいるような心持ちです。
 
来場者の皆様、スタッフの皆様、ボランティアの皆様、ありがとうございました。
 

遊星出版です。

去る11月13日の日曜日に「NOWAY MAGAZINE #20」のリリースイベントに出展させてもらいました。

初めて出た文学フリマで「NOWAY MAGAZINE」主催の森さんに拾ってもらってから、同誌関係のイベントに出展させていただいています。

場所は池上のChanel For Rent(C4R)さん。
「黒」ベースのユニークなギャラリー/レンタルスペース。

出展者は8。

こりゃ、「ぐえーわりぃ」とか言って休んでたりしたら、1/8の大穴あけちゃうことになるから、這ってでも行かなきゃ。

(昔会社でよく言われた「這ってでも来い!」。今言ったら大問題。ぼくはもう定年過ぎですが、もちろんほんとうに這って出社した人は見たことはありません)。

幸い当日は、昼下がり頃まではお日柄もよろしく、体調も問題なく、大過なく楽しんでまいりました。



前回参加させてもらった「NOWAY MANIACS 9th」を、ぎゅう~と凝縮したような感じ。

必然的にお客さんや出展者の方々との距離もさらに近くなります。

元来コミュニケーション下手で、初めての方とか、なかなか声かけられないんですが、そうも言ってらんない。
せっかく話しかけてくださったのに黙ってるわけにはいきません。

このイベントならではだな~と思ったのは、隣の出展者の方に頼まれて、ちょっと卦を立ててみたことです。

本をお買い上げいただいて、その時占いの話になって、その流れで。

まったくの手ぶら。

経文やら易占用のサイコロなどは持って来ていません。
(まあ、本を売りに来たので)

ブログタイトルのとおり「ぼくは占い師じゃない」ので、そうお断りさせていただいての話です。

そういや前にもそんなことが……→以前の記事

内容掲載の許可をいただいているわけではないので、詳しくは書けませんが、以前に手ぶらで占ったときと同様、好きな数を選んでもらって立卦。
前はずいぶん四苦八苦したけど、今回はわりとすんなり占うことができました。
お酒が入っていたせいかも。
2ドリンク付きのゴキゲンなイベントでした。



(台湾ハイボール。うまいなこれ。ちょっと甘め)

そういや昔、その「這ってでも来い」のカイシャで(這ってはいきませんでした。思いっきり休んでました)、ふだんのぼくがあまりに暗かったので、前の席に座っていた上司が「白橋、お前は酒飲んで仕事していい。おれが許可する」言っていたのを思い出しました。

できないって、そんなこと。
いくら許可されても。

閑話休題。

全部ではないけど、持って行った本も売れてよかったです。

主催の森さん、他の出展者の方々、そしてもちろん来場者の皆さん、ありがとうございました。

次回参加は来年の暑い頃でしょうか。
皆さん、それまでお元気で。

―いまだにカイシャの夢を見る白橋升@遊星出版
 

「観る」ことこそ、「すべて」。

   ☆

爻辞すべてに観の字がある。

九五と上九は同じ事を言っているようにも見える。
咎められる筋合いはないのだ。
君子ならば。

こういう句は「でもそう(君子)じゃないよね、アナタは」という含みがあるように思えてならない。しかも2回繰り返している。

君子。

「風(上卦巽)」のようになれるかどうか。

六三がその分水嶺である。

ぼくのような小人(凡人、凡夫)は、まずは無邪気に、先入観なしに、「観る」ということから始めなければならないようだ(初六)。

それとて、カンタンにできることとは思えないが。

臨む。
[相対|あいたい]する。

   ☆

原文卦名は「臨」一文字。


「対峙」とすると、「睨み合う」ようなニュアンスが含まれる。
しかし、そこはちょっとちがうかもしれない。

ぎりぎりの境「界」と向き合う、臨界。
病「床」の患者さんと向き合う、臨床。
ここぞという「時」に向き合う、臨時。
千載一遇の「機」会に向き合う、臨機。

自分の「中心」に近づく。

それはまるで、大きく暗い休火山の火口のような穴の淵に立つようでもある。

巨大な穴に「臨む」。

つぐなう。

   ☆

経文ではおそらくは亡き親の後始末をする子の様子が描かれる。

ほころびを[繕|つくろ]うともとれるこの卦を目にしたとき、思い出すのはいつも、自分が面倒をかけた人たちのことだ。

迷惑をかけたらかけっぱなし。

そのままハイサヨナラという、不義理のカタマリのようなこの人生。

借りは返せていない。返せない。

しかしもし、巨大な「流れ」というものがひとつきりあるだけ……という姿がこの宇宙の実態だとしたら、なんらかをその「流れ」に還元することができれば、借りは返せたことになる……のかもしれない。

直接その人にでなくても。

詭弁だろうか。
いいわけだろうか。

まあたぶん両方だろう。

それでも樹は伸び続ける。
季節もめぐっていく。

手放す。

  ☆

力が弱まりつつある。
動くのは得策ではない。

いや。

動くことは動くのだ。

このタイミングでは、その動き方が「自らを特定の目的地へ持って行くために、あるいは、特定の目標を達成するために、自分から行く・動く」という通常のアクションとはちがう、ということなのである。

流れに乗るために、
流れに乗るように、
流れを読んで、「動く」。

結果はわからない。

流れの行き先まではコントロールできない。
「流れ」の動きは、あなたの管轄外だからだ。

放っておけ。
結果なんか。

よろこびが花ひらく。

   ☆

「蕾<つぼみ>」という字はおもしろい。
草かんむりに「雷」。
この「雷」はカミナリサマではなく「震」。
奮い立つエネルギーのこと。
草、植物が奮い立っている。
さあこれから花を咲かせるぞ、と。
今まで備えてきたことが、やっと花ひらく。

が。

易の経文はこういうときに、警句を忘れることはまずない。
曰く、「鳴豫、凶」。
コントロールできないような喜びは、NGなのである。

身の丈のままに。

   ☆

身の丈に合った謙虚さならば、その身体と共鳴するにちがいない。

経文の中では、これを「鳴謙」と呼ぶ。

身の丈より大きくとも小さくとも、その「謙虚」さは不協和音を奏でる。

この不協和音に直接対応する言葉は、経文の中にはない。

だけど、

「謙謙」は君子だから、大川を渉れるのであって、小人なら、たぶん嫌味になり、
「労謙」は君子だから、有終の美を飾れるのであって、小人なら、たぶん自慢に終わってしまうのだろう。

しかし今日も生きていくのである。

小人だけど。