滅多にないが「観てくれ」と言われることがある。
ブログのタイトルにもあるとおり、ぼくは占い師じゃない。こんなぼくでも「観てくれ」と言われること自体、有り難い話なんだけど、まずはそう言う。
そんなわけで大昔、[他人様|ひとさま]方に易の話をさせていただいていた頃は、占い方の説明は一応しますんで、占いたい方は自分でやりましょう、とか言っていた。
占いと夢はどこか似ていて、ある人を占った結果というのは、実のところ、その人にしか解釈できない。
これは今でもそう思っている。
☆
ひょんなことから突然占ってくれと言われた。
道具も本もない。まったくの手ぶらである。
事情があって断ることもちょっとできなくなってしまった。
まずは世間話風に話を聞きながら、占的と周辺事情をはっきりさせつつ、サイコロも筮竹もないので、とりあえず相談者に、三つの数を自由に選んでもらうことにした。易占のときにはいつも使っている三つのサイコロの代わりである。
占的に絡んだ数でもいいし、そうでなくてもいい。
単にその時思いついた数でも、以前から好きだった数でもいい。要は何でもいい。その相談者がその時その数を選んだ事自体に意味がある。卜占はそんなふうなものだ。
選んでもらった三つの数のうち、最初の二つを八払いして下卦・上卦を出して心易的に立卦した。最後のひとつは六払いして変爻とした。
[鼎|てい]の五爻。
そこまではいい。問題はその後だ。
聴いた事と易卦を紙に書き出して、いろいろ思いを巡らせてみたはいいものの、サッパリ! なんにも! 引っかからない。
本もない。手元には何もない。
経文なんか全部覚えてるはずもなく、覚えているのは卦象卦名と、それぞれの卦の大意くらいなものだ。
内心だんだん焦ってくる。
鼎の五。何これ! どういう意味?
ちょっとカッコ悪いがスマホがあればグーグル先生にきくという手もある。
だけど乏しい経験から言うと、心身がこういうステータスの時は経文を見たってわかんないものはわかんないのである(そして実際その時点では、何やらとりあえずは良さげだということ以外わかんなかった。「鼎黄耳金鉉利貞」)。
あれやこれやと話を続けてみる。でもしょせんは時間稼ぎ。そのうち、こっちの手の内がカラッポなのがバレてしまうかもしれない。
困った!
仕方なく種明かしふうに手法の説明などをしてごまかす。
「選んでもらった数から、まあ、ある決まった方法を使うと、特定のイメージが出てくるんだけど、今回の回答になってるシンボルは鼎っていう名前でね、鼎っていうのはこう……三本足の祭器で……」
などと言いながら落書きみたいな絵を書いて、さらに相談者の話を聴いていたら「わかった」。
唐突に。
この場合カギだと思ったのは、「3」という数と「安定」というイメージだった。
そのように突然「腑に落ちた」。
ひょっとしたら、たとえ落書きのような絵でも、文字でも、手を動かして「描く」という身体運動がきっかけになったのかもしれない。
相談者に内容を公開する許可をもらったわけではないので詳しくは書けない。
だけど、この「腑に落ちた」瞬間から、明らかに相談者とのやりとりの流れが変わったのを感じた。
軸足さえ定まれば、そこから話を展開するのはさほどむずかしいことではない。
でも、どうしろこうしろというのは多少は言ったかもしれないが、「腑に落ちた」ことを基盤にどちらかというとシンボル……イメージの説明ばかりしていたように思う。之卦や五爻という位が示す意味やイメージについても話をした。
「へえ。おもしろいですね」
ぼくが描いたヘタクソな落書きを見ながら、こんなようなことを相談者自身がつぶやき始めると、それは相談者自身が説明されたイメージを自分なりに解釈しはじめている証左である。
それでいいのだ。
バカボンのパパじゃないけど。
ぼくにはできない。
ぼくがするものじゃない。
あなたの夢の解釈は。
☆
これを言うと世代がばれるが、小学~中学の頃は空前のオカルトブームだった。
クラスではコックリさんが流行り、テレビでは有名な超能力者が来日して特番が組まれたり、「心霊特集」などもよくやっていた(ぼくはどちらかというと「UFO特集」の方が好きだった)。
ぼくの青春などは「こまわり君」(これはオカルトじゃない)と「エコエコアザラク」で終わってしまったようなものだ。
タロットもこの頃日本に紹介されて、ぼくが最初に出会った卜占ツールは実はタロットや悪魔のカードで、易はその後だった。
易の卦は抽象的で、タロットに見られるような具体性がない。水と油とまでは言わないまでも、異質のものと見られがちだが、ぼくは、易の卦は64枚のカードのようなものだと思っている。
今は易のカードも売られているが、シンボル(易卦)そのものではなくて、具体的「絵」になってしまっているのは、ちょっとどうかな、と思うこともある(な~んて言いながら、自分も「WINDWATCHER」とか称してカードを作ってしまっているが……それはさておき。少なくとも「WINDWATCHER」は「具体的な」絵じゃない)。
「絵」には風景があって、人物がいたりする。
そのように描かれてしまうと、そのようにイメージが固定化されてしまって、今回の占例のような「腑に落ちる」感覚が、かえって遠のく側面もあるのではないか……などとエラソーに思ったりすることもある。
そんなことをする人がいるのかどうか知らないが、あらかじめタロット一枚一枚の絵を正確に細部まで覚え込んでおいて、必要に応じてそれを想起して利用するのはおそらく至難の業だろう。つまり、あたりまえの話かもしれないが、カードがなければ始まらない。
一方易卦なら、64のパターンを覚えておくことは、アホなぼくでも何とかできる。
何とか頭に入れておくことができる64枚の見えないカードというわけだ。
もちろんタロットをけなしているわけじゃない(タロットも好きだし。ずいぶん売っちゃったけど)。
タロットはなんと言ってもわかりやすい。
と同時に、生きた人間にも似た、アンビバレントな二面性も持っている。具体的にそこに在るのだが、深読みしようとすればいくらでもできる……絵。
ひょっとしたら今回の占例だって、デッキがあれば一枚のカードを引くだけで一発で「腑に落ちた」かもしれない。
☆
いろいろな抽象度を持ったツールがある。
カップに残った茶殻のパターンや、数そのものなんていうのは、易卦より抽象度が高いかもしれない。
要はその時その時自分に合ったものを選べばいいのだが、プロの鑑定家の先生方は、いくつかの方法を併用したりするとも聞く。
だから「プロ」なんだろうけど、ぼくにはできない。そんなこと。
だからやっぱり占い師じゃないし、占い師にはなれないのである。