「トモルオン」解題(その1)ー書物占い | ぼくは占い師じゃない

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易経という中国の古典、ウラナイの書を
使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう!
というただそれだけのブログ……
だったんですが、
最近はまた淡々と経文に向かっております。

初めて文フリに出て、「トモルオン」もせっかく売れた(といってもほんの数冊ですが)ので、ここらでちょっと「トモルオン」とその周辺について、お話させてください。

   ☆



見た目は320ページを超える、ちょっとぶ厚い文庫本です。
通読するものではなく、サイコロをふって読む本です。
オラクル・ブック(お告げ本)、占い本のようなもの。

なにか聞きたいことがあったとき、サイコロをふって、出た目のページを読む……そこに書いてあることを、質問の回答としてとらえる……


もともと、そんな「本」を作ろうとして書き始めました。

書いているうちに、もっといろんなものを入れて、ラム・ダスの「ビーヒアナウ」みたいになったら(もちろん足下にも及びませんが)、おもしろいかなぁ、などと思ってました。

そしたら、イラストや図や詩やお話が混じってきて、エッセイ集のようにもなってきました。

そんなところは一応、「文学」ということもできるかな、と。

どこからでも読める。
どこでやめてもいい。

そんな120編のエッセイとしてとらえるなら、無理に占いのように使うこともありません。

話題はいろいろ。

中には一言で終わっているセクションもあって、一冊をとおしての一貫したお話ではありません。

そんなわけで、「結局なんなの?」と聞かれると、一言では答えにくいものになりました。

   ☆

質問を決めて本を開き、最初に目に付いた、そこに書かれていることを質問の回答としてとらえる……

こういう本の「使い方」は、書物占い(ビブリオマンシー)と呼ばれる占術の一種で、古くからあるのは、聖書を使うやり方です。

「命卜相」の分類で言えば、易やオラクル・カードなどと同じ、「卜」の部類になるでしょう。

ご賢察のとおり、それならどんな本でもいい。
「人間失格」でも「エヌ氏の遊園地」でもいい。

聖書とならんで昔からあるのは、おそらくは、辞書を使って占うことでしょう。

   ☆

いつの頃から世に出始めたかはわかりませんが、ビブリオマンシー専用の本(オラクル・ブック)というものもあって、有名で入手が容易なのは、鏡リュウジさんが監訳している「魔法の杖」でしょう。

類書はたくさんあるようで、テレビかなんかで「魔法の杖」が紹介されたのがきっかけでしょうか、定かなことは知りませんが、一時期はヴィレッジバンガードかなんかで、そういう「本」のコーナーができていたのを見たことがあります。もう10年以上昔の話です。

この類の本は、大概1ページに一言二言、ぱっと見て読める文章があり、どうしても下駄で天気を占うような(やってる人、見たことないけど)遊び感覚がつきまといます。

まあそれを言ったら、卜占自体遊び的な側面があることは否めません。
もちろん「遊び」があってもいい。
真剣に問うことがあってもいい。

要は鏡のようなもので、回答がいかなる性質を帯びるかは、質問者がその仕組みに臨むスタンスによるわけです。

   ☆

もし、オラクル・ブックを作ろうとするなら、その中に、どんな言葉や文章を、どんなルールに従って入れていくのか決めることは、なかなかにむずかしく、そして、おもしろいところだと思います。

「ルール」といっても直観に負うところ大でしょうし、とにかくなんでもいいから目についた言葉や文章を手当たり次第に放り込むというのも、ひとつの手ではあります。「手当たり次第」といってもそこには著者の直観や潜在意識が働きます。

上述の類書の中には、古今東西の偉人賢人の言葉……いわゆる名言、金言を集めてオラクル・ブックとして仕上げられていたものもありました。

既存のリソースを利用するということですが、それでも誰の、どんな金言を採用するかは編者の直観や潜在意識にまかされています。

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いろいろある中で、「こりゃすごいな」と思ったのが、ある方から教えてもらった、あーす・じぷしー姉妹が書いた「ミラクル 奇跡の毎日が始まる」というオラクル・ブックです。

各セクションは一言では終わっておらず、1ページにまとまったメッセージになっています。

これらが実に、元気をもらえる雰囲気に満ちています。

もちろんただそれだけではなくて、人生同様、ビターなセクションもあります。

お使いになってみればわかるとは思うのですが、軽いスピというノリではなくて、まあなんというか、深いところで響くメッセージも多数あります。

   ☆

響くか響かないかというのは、質問の内容や、質問者がその時置かれている状況(タイミングとか年齢とか)という、利用する側の「文脈」と、そのときに開いたオラクル・ブックに書かれている内容とのぶつかりあい……「化学反応」に依存するので、単純な評価はできません。

でもたしかに、「合う」「合わない」というのはある。

こういったオラクル・ブックに接してみて思うのは、新調した服みたいな感じで、だんだん身体になじんでくることもあるということです。

最初は、「なんだかな」と思っても投げ出さないで、ある程度の期間つきあってみることも必要でしょう。「慣らし期間」というわけですが、それでも、合わない服はあります。

だからといってすぐに、手放してしまうのは得策ではないかもしれません。

書かれている文章や言葉は変わりませんが、経験や歳を重ねるなどして、質問者自身が変わっていくからです。そうしたら、また合うようになるかもしれません。

手放すのは、逆のケース、合っていたものが合わなくなってからでも遅くありません。
大きくなったら、子供服はもう着ることはできません。

   ☆

同じセクションの同じ文章であっても、その時の受け手の「文脈」によって、意味合いが変わってくる。
このことからすぐにわかるのは、オラクル・ブックは読み終わるということが「ない」ということです。

易のような古典も同じ構造を持っていて(辞占の場合)、まったく同じ文章であったとしても、質問者ごとに、占者ごとに、占的ごとに、時代ごとに意味は変わってきます。
易占の場合、この「読み替え」を前提としているといってもいいでしょう。

易経をオラクル・ブックとするなら、おそらくは世界最古の「オラクル・ブック」ということができるかもしれません。

   ☆

あれ。

自著のことを書くつもりが、いつの間にか、なんだか他人(ひと)様の本の紹介になってしまいました。

続きます。