ピクシブに絵をUpしました。
「利見大人」とはいっても、
こんな巨人ではないでしょうが。
背く、敵対する。
☆
時代はわからない。
場所もわからない。
泥まみれの家畜や、幽鬼を満載した荷車が目前を通り過ぎていく。
不穏な気配に、あなたは思わず矢を射かけようとするが、ふと思いとどまる。
番えた矢を緩め、あなたは思う。
これらは本当に自分に害を為そうとしているのか。
この卦の上爻辞は、全経文の中で最も奇怪であると言われる。
爻は陰陽に一対一に対応した記号だが、この記号が重なると、四象、八卦、大成卦という象徴になる。
象徴は多義的であり、占った時の時代、状況、占者や相談者が置かれた文化や立場、性別、年齢、経験、記憶等々……の文脈により意味は変わる。
そんなわけで、易卦すべてに言えることだが、たとえばこの、仮に、「反目」とした大成卦にしても、「反目」というそのままを通り一遍に解釈することはできない。
解釈を人まかせにしてはいけない。
あなたが占って得た大成卦は、あなたにしか解釈できない。
あなたが見た夢は、あなたにしか解釈できないのと同じことである。

いつ完成するかはわからないのですが、今、絵本のようなものを書いて(描いて?)いるのでその参考になるかもしれないと、オラクルカードの類のことをぼんやりネットを見ていたら、東京タロット美術館というところがあるのを見つけまして、ここのところはまず町を出ることはなかったのですが、なんとなく、ふらっと行ってきました。
占術ということでは、ぼくの場合、易一本槍なのですが、タロットのデッキもいくつか持っていることは持っています。
まあしかし、買ったはいいけど読まない本のようなもので、ほとんど何も知らないに等しい状態ですので、初めてということでいろいろ説明していただき、実りある時間を過ごさせていただきました。
本を読むのもいいけど、ひとさまからレクチャーしていただくというのも勉強という意味でもとても効果的なものです。
短く感じた時間でしたが、タロットとは何ぞやという概要から始まってその歴史までしっかり説明していただきました。
拙作「トモルオン」もゆるやかにではありますが、タロットとのかかわりもあります(「トモルオン」解題(その3)-「22」)。「トモルオン」では自前のシステムとタロットとの間で、いわば勝手な対応を取っているのですが、タロットの解釈というものが存外自由であることなどがわかり、ちょっと安心しました。
タロット美術館はワンフロアではありますが、お茶のサービスもあり居心地のいい空間でした。
入ると最初にスタッフの方の説明があり、一枚カードを引きます。
引いたカードは記念に持って帰れるのですが、ぼくが引いたカードは「14:節制」でした。バランスが大事ということですね。
あれ?
説明してくれたのは……
ひょっとして、ニチユーの社長さん?
いまごろ気づいたりしています。
失礼しました。
ありがとうございました。
拙作ホームページ(遊星出版)で最後まで頒布していた三冊の本。
この三冊も新装版を作成して、イベントにて頒布することにしまして、ホームページでの頒布を終了させていただきました。
ホームページからは数名の方にお買い上げいただきました。
ありがとうございました。この場をかりて御礼申し上げます。
☆
ホームページで最後まで頒布していたのは、
「大きな樫の木の下に」
「ミネリの銘板」
「ほんとうのこと、または、でたらめの書」
の三冊です。
この三冊は同じ舞台・背景で書いたファンタジーです。
「大成卦」や「八卦」という言葉は、作中「もよう」や「しるし」という言葉に言い換えてはいますが、内実は易の本です。
作中に頻出する「エーテル」という言葉も、特殊な意味で用いていて、物語の中では万物の基材である「気」のような位置づけです。
とはいえ「易」や「気」の事など気にしなくても、読むことができます。
なんと言ってもまずは「物語(お話)」なので。
おもしろいかどうかは別問題ですが(笑)。
「ほんとうのこと、または、でたらめの書」は、お話ではなくて、作中に出てくる占術書という設定です。

内実は、易占の本です。
登場人物の口を借りて基本的な易占の方法と、我流ですが、かみくだいた卦爻辞を実占でも使えるように書いたつもりです。
☆
「大きな~」と「ミネリ~」は同じ舞台ですが、登場人物も場所も異なるお話です。しかし密接に関連したお話です。
「~でたらめの書」はお話ではありませんが、これも含めてひとつの物語ともとれるような気もします。
この物語、終わった話なら旧作という事になるのでしょうが、そう言っていいのかよくわかりません。
最初の「大きな樫の木の下に」を書いたのは十年前。
新装版の作成過程でまた読み返すことになるわけですが、なんだかいまだにこの物語を書き続けているような気もしています。
十年前と言えば、義父が他界して甥っ子が生まれた頃です。
その子も十歳(あたりまえでんな)。
物語にはやっぱり、終わりはないのかもしれません。

※ 追記
新装版では「大きな樫の木の下に」は「ほんとうのこと、または、でたらめの『話』」に改題しました。
「大きな樫の木の下に」は、最初は「ホノワール・オモタ氏のほんとうのこと、または、でたらめのお話」というタイトルでした。
二回改題していることになりますが……
落ち着きがなくてすいません。
基盤。ホームグラウンド。
☆
病床に伏せってしまった時に、ご家族が献身的なケアをしてくれたという話で始まるエッセイを読んだことがある。どなただったか失念したが、女流作家さんだったと思う。そこまでなら、心温まる……といった類いの反応をしたくなるが、そんな家族の思いこそが実は重荷だった……と続く。
記憶は曖昧なので正しい表現ではないかもしれないが、告げはしなかったものの、このまま死んでもいいから放っておいてほしいと本気でそう願った。彼女にとって、家族の情や絆は煩わしく、苦痛以外の何ものでもなかった。新たに家族をふやすことなく、独身を貫いた。
原文卦名「家人」卦は、乾が坎を包み込んでいる卦である(坎の包卦)。その内に深く、悩みを内包している。
物事をどうとらえるかは、その人が何を[基盤|ホームグラウンド]に据えているかによって、それぞれにまったく違ってくる。
いわゆる常識や「ふつうそうだろう」という名目の過度な一般化で、迂闊に、一律に、善し悪し、正論的決めつけを押しつける事はできない。
歳を取れば取るほど特に、そういう判断で凝り、固まってくる。
「すまん。オレがまちがってた」はますます言い辛くなる。
もしくは、言わない。
そんなことでは支援者どころか、家族にも嫌われてしまう。
ぼくは先の女性のように強く生きる事はできないだろう。
退職したら残る味方は家族ばかりだ。
友人知人?
いやいや。
彼等には彼等の人生がある。
家族にもそれぞれの人生があるが、友人知人とちがって、家族の人生は自分の人生とより深くクロスオーバーしている。
シェアしていると言ってもいいかもしれない。
正月には身内が集まる。
気をつけたい。
よいお年を。

ようやくイベントに参加できるようになった。
そんなわけで、ホームページでだけ頒布していた本も、イベントで頒布すべく、気が向いたら新装版を作ってみようとは思っている。
そのプロセスで旧作を見直すことになる。
眺めていると似通った話ばかりだ。
登場人物やプロットを決めてという設計をしてから書くというやり方で書いているわけではなく、アクティブ・イマジネーションのやり方を応用して……と言えば、もっともらしく聞こえるかもしれないが、筆まかせというか、要は思いつきなのである。
無意識に書いたとも言えそうだが、それが似通った話になるという事は、結局、自分の深いところにあるハナシというのは一本の物語というカタマリなのではなかろうか。
人は誰でも、自らの内に「一冊の本」がア・プリオリに与えられていて、人生の目的というのは、その一冊の本を読むことなのだ、というのは勝手な思い込みによる持論である。
もうちょっとハナシをすすめて、ひょっとしたら、家族、民族、人類に対応した一冊の本、物語があるのかもしれない。
いや、そこまで広げなくても、後天的に任意に作った集まりにでさえも、その集まりが創造された瞬間に、同時にその集団・集合意識に対応した物語が生じるのかもしれない。
つまるところ、この世はすべて「物語」でできているのかもしれない。
たぶんそのおおもとは、たったひとつの物語にちがいない。

ある本を読んでいて、
「クリスタル・グリッド」というものを知って、
手近にあった石とコースターで、
なんとなく石を並べてみました。
それだけの話なんですが、なんか良い感じで。
シンメトリカルなものを見たりつくったりすると、
心が落ち着くようです。
そこら辺で拾ってきて磨いた石も混じってます。
個人的には「なんでもない石」ってのはないと思っています。
こちらにも書きましたが→「なんでもない石のこと」。
グリッドとか言われてるけど、
これって、メディスンホイール、マンダラですよね。
【Map of Life ; 聖なる「20」】