エゴイズムとセンチメンタリズム | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで


「羅生門」の下人はがらんどうとして人気のない都の門下で、行く当てもなく途方に暮れていた。

  作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申の刻下りからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、下人は、何をおいても差当り明日の暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。


今、下人は経済的に困窮し、生きるために他人を搾取すべきか、否か、という問いの前に立っている。ここに言うセンチメンタリズム(Sentimentalisme)は、「河童」において資本家のゲエルたちに指弾されるのと同じ、余りにも幼稚でナイーブな見解である。河童の国では「平均一箇月に七八百種の機械が新案され、何でもずんずん人手を待たずに大量生産が行はれる」ために「職工の解雇されるのも四五万匹を下らない」。罷業された職工たちは殺して食肉として市場に流通されるというのである。

  「その職工をみんな殺してしまつて、肉を食料に使ふのです。ここにある新聞を御覧なさい。今月は丁度六万四千七百六十九匹の職工が解雇されましたから、それだけ肉の値段も下つた訣ですよ。」
「職工は黙つて殺されるのですか?」
「それは騒いでも仕かたはありません。職工屠殺法があるのですから。」
 これは山桃の鉢植ゑを後に苦い顔をしてゐたペツプの言葉です。僕は勿論不快を感じました。しかし主人公のゲエルは勿論、ペツプやチヤツクもそんなことは当然と思つてゐるらしいのです。現にチヤツクは笑ひながら、嘲るやうに僕に話しかけました。
「つまり餓死したり自殺したりする手数を国家的に省略してやるのですね。ちよつと有毒瓦斯を嗅がせるだけですから、大した苦痛はありませんよ。」
「けれどもその肉を食ふと云ふのは、…………」
「常談を言つてはいけません。あのマツグに聞かせたら、さぞ大笑ひに笑ふでせう。あなたの国でも第四階級の娘たちは売笑婦になつてゐるではありませんか? 職工の肉を食ふことなどに憤慨したりするのは感傷主義ですよ。」
 かう云ふ問答を聞いてゐたゲエルは手近いテエブルの上にあつたサンド・ウイツチの皿を勧めながら、恬然と僕にかう言ひました。
「どうです? 一つとりませんか? これも職工の肉ですがね。」
 僕は勿論辟易しました。いや、そればかりではありません。ペツプやチヤツクの笑ひ声を後にゲエル家の客間を飛び出しました。それは丁度家々の空に星明りも見えない荒れ模様の夜です。僕はその闇の中を僕の住居へ帰りながら、のべつ幕なしに嘔吐を吐きました。夜目にも白じらと流れる嘔吐を。


 たしかに、社会制度は明白に間違っている。弱者たちに体制の矛盾を何もかも押し付けて彼らを文字通り食い物にしているのだから。しかし、これに対して、有効な批判をするためには、自分がそうしたシステムから完全に独立した潔白の立場からそれを投げかけるのでなければならない。「羅生門」の下人がそうであるように、制度の内部に身を置いている人間は、自らが生きるために、自分よりもさらに弱い弱者を食う他ないのである。だからこそ、下人は、どこにも行くことができずに、門下で雨やみを待っているのである。

 どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない。選んでいれば、築土の下か、道ばたの土の上で、饑死をするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人になるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。

今、道は二つある。身を清いままに保って、自らの身体を燃やし尽くす理想主義(餓死)か、あるいは、悪人(盗人)として弱者を食って生きるか、のいずれかである。これは、芥川の芸術至上主義を倫理的側面からみたものである。
芥川は若い日にはもちろん、ここで、ふたまた道のうち、悪人として生きる道を選択したのである。この後下人は羅生門の楼上で老婆が死体の髪の毛を抜いているのを目撃するのだった。


「成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往いんだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」


社会関係はエゴイズムに満ちた娑婆苦の世界である。誰も彼も醜いエゴイズムによって動き、より弱い弱者を食い物にする。その連鎖こそが世界それ自体なのである。だから、まず以て悪ではない立場はありえないのであって、悪ではないということを主張する者は、自分の生活の安寧が弱者の犠牲の上に成立していることを忘れている、むしろ傍若無人な人間なのであって、そんな誰しもが逃れられない悪を嫌い餓死をするのは無力なセンチメンタリズムに過ぎない、という認識に、たどり着く。


「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」
 下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。


こうして一度「悪」への道を選んだ下人は、弱いものがさらに弱いものを犠牲にする悪の連鎖から離脱するための、善を可能にする無垢な立場の建設を目指すことになる。つまり、芥川が自閉する意識の世界を目指したのは、社会関係を「悪の連鎖」と感受したところに初めの動機をもつのである。社会関係のうちに生活を営むことは、必ずその足元に弱者の犠牲を要求するという認識が正しいなら、老婆のように悪に居直るか、死ぬかしか道はないだろう。