教員養成に関する中教審答申184号を読む | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

 これからの学校が抱える課題として「社会変化の加速、学校に対するニーズの多様化、教員集団の経験年数均衡の崩壊」などが挙げられている。このような未来が想定されるから、それらの課題への解決策が採られなければならないとされている。順に対応するものとして、PISA型能力、社会に開かれた学校・チーム学校、自己研鑽・教員の社会的地位向上がそれぞれ、答申においては位置づけられているのではないか。
 
 
 PISA型能力とは、機械化や情報化に伴って職業が消滅した際に「クビになってもつぶしが効く、転職に役立つ能力」である。一般的に通用するコアとしての力であり、ベタな知識ではなく一つ次数の高い「知識についての知識」である、という性質がある。しかしなぜそれを学校で身につけさせるのか。規制緩和によって雇用の非正規化が進んだことに遠因があると考えられる。これまで日本的雇用慣行の下で企業内において「配置転換」として実施されていた職業均衡の調整を外部化したためである。そのしわ寄せが学校に来ている。
 
 学校に対する多様なニーズへの対応には、社会に開かれた学校・チーム学校が提起されているが、その効果は疑わしい。社会に開かれた学校とは、結局、より多くの外部からの声を聞くようにせよということであるが、まずその要望を振り分ける作業が増えることが勘定に入れられていない。さらに、ただでさえ質・量ともに困難化したミッションを多く抱えている学校はこれ以上ニーズを引き受けることはできない。学校がもっていた「豊かな生活の保証」という目的喪失の他に主要な論点を二つ挙げれば、家族制度・地域互助制度の崩壊、そしてリスク社会化に伴う「安全管理コストの増大」である。チーム学校の考察については、185号答申の検討の際に行う。
 
 教員集団の経験年数均衡の崩壊への対応については、教員はそもそも自己研鑽すべきでものであるという従来の認識の確認と「教員の社会的地位向上」の必要性が強調されるだけである。
 まずもって指摘しておきたいのは、教員集団の経験年数均衡が崩れているのは「教員の大量退職のせい」ではない。中教審委員のみなさんは忘れているようであるが「不況期に採用を控えたから」に他ならない。なんでもかんでも現場教員のせいにするのは良くない。
 「教員の資質能力の向上は本人の責務であるとともに国、教育委員会、学校の責務」であるとの言及があるが、その表現がすでに無責任ではないか。公教育において、教育者の質を担保するのは国家の責任である。制度として、品質保証を維持発展していく仕組みづくりが課題である。「教員の社会的地位向上」によって慕われ敬われ信頼されたら教員研修は充実するのではない。そうした情緒的な方法への誘導のみのアリバイづくりはたくさんである。当然、人・金・物を入れるべきだろう。
 経営的な観点からの問題としてもうひとつ、日本の学校にはプライオリティーがない。部活も給食指導も教育的な価値が高く、学校教育活動全体における効果の占める割合も大きいかもしれない。だが、それと、各教員の自己責任として委ねられている「自己研鑽」とどちらが優先するのか。実態として、現場教員は自らの研鑽を優先する選択は採ることができない。制度化するほかないだろう。