まず、権利概念についておさらいをする。
たしかに権利とは、「端的に認められるべきもの」であり「義務を果たした人だけが認められるもの」というのは誤った権利観である。だが人権にも限界がある。それは他者の権利を侵害しない限りにおいて、という条件であり、いくつかの権利概念は互いに厳しく対立することがある。例えば知る権利とプライバシー権、表現の自由と差別されない権利などである。厳密なことをいえばかなり論理が複雑化するはずであるが、おおよそ「侵害しない限り端的に認められるのが権利」ということになる。
また、学校教育における「子供」の権利については、加えて考えなければならないことがある。子供はまだ十分な判断力を備えていない存在だ、という社会的位置付けである。当然、発達に応じた個人差はあるはずであるが、一律「18歳未満は子供」とみなすことになっている。この点に関して、行為の結果責任が免じられる代わりに自ら行為を判断することが許されない場面があることをうまく説明する必要がある。発達が早熟で実質的に大人と同等の判断力をすでに備えている生徒が「子供扱い」に対して不満を持っている場合、どのような説得ができるか。「現にすでに結果について免責されているのだから甘んじて受け入れるべきだ」というのは不誠実だろう。責任を引き受け罰せられる自由を奪われているのだから。(死刑になりたいから無差別大量殺人を犯した場合、扱いようがない。きわめておぞましい想像だが論理的には可能だ)かといって、免責されていることに居直ればよいともいえない。どうせ大人扱いされないのなら誤った行動を取れば取るほど「支払いの差額分、儲かる」としてふるまわれると指導も何もなくなってしまう。実はきわめて難問であるはずだ。
次に、管理主義的教育について。私は管理主義教育には本当は大きく二つの対象があるのではないかと考えている。それがあたかもひとつであるように語られるのは意識的な操作と、無意識的な混同と、場面によって様々であるが。
先にエピソードを述べる。私は中華料理店でアルバイトをしている。調理業務も、接客業務も細かくマニュアル化されている。たとえばラーメン一杯の原価はいくらで、どういう調味料を何グラム用いるかなど、細かく決められている。「うちの店ではこうすることになっている」という基本的なオペレーションが教えられる。それに反したらダメで、合わせるようにせよといわれる。ただし、能力的に不足があり、やろうとしてもできないことについては許されるし、また、できないことを見極められずにやらせた店長の責任だということにされる。これは、一律の基準による管理主義指導そのものだろう。だが、私はそれを受けて、全く窮屈だ、という感じを受けない。もちろん個人差もあるだろうが、それは、この「しつけ」が善悪とは無関係であるだろうことが判明だからだ。究極的には、できなくたって、ぜんぜんどうでもいいのである。
管理主義教育の二つの対象とは、集団生活に必要な機械的な決めごと(左側通行など、別に右側通行でも良い)と、善悪である。かつての管理主義教育が機能しなかったのは、(あるいはえげつない反作用を生んだのは)その実践者たちがあたかも善悪を体現しているかのようにふるまったからである。陳麻家のマニュアルなど別にできなくても屁とも思わないが、「悪でいる」ことはそれ自体が許されないのである。