実質的な信教の自由の保証 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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2004年、フランスで公立学校におけるイスラーム・ヴェールの着用が禁止された。公立学校における宗教的表徴の禁止法案が下院で可決されたものだ。信仰の可視化は、世俗主義による信教の自由の保証原則に抵触するからという理屈であるが、そもそも世俗主義では「イスラームを信じる自由は認められていなかった」ということが明らかになったと考えるべきだ。
世俗主義では、他者の信仰を脅かさない限りにおいて信教の自由が認められる。しかし宗教的表徴が「信仰の脅かし」にあたるのであるとすると、世俗主義における信教の自由は信仰が私的に秘匿されている限り自由だ、ということになる。言い換えればそれは、第三者からは信仰(宗教的儀式)が見えなければよいということであり、さらに言えば、公共空間においては無信仰な人間のようにふるまう限り信仰が認められるということになる。けれども、「内面では信じているが行為の次元では信じていないようにふるまう」というのは、その人はもはや信仰をしていない、信仰の否定なのではないだろうか。
福沢諭吉は、合理主義の立場を貫徹するために、神社のお札を踏みつけたそうである。これは、福沢翁がお札や神社の神を本当は信じていたが、信じていないことにするために踏みつけたのだと考えられる。信じていなければ「お札を踏むこと」が劇的な事態として焦点化されることはないからである。そして、踏みつけるという行為を取った瞬間に「信じていなかった」ことに転じたのだ。なぜなら、信仰があればまさかそんなふるまいはとることができないだろうとみなされるからである。
このように、行為の水準における無信仰は、信仰の否定以外の何物でもない。可視化されてしまうにしても、行為の保証をするのでなければ実質的な信教の自由の保証とはならない。