あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
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このあたりになんやら書いていたのですが編集中に誤って消してしまったので、
再現しません。
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お風呂で、なぜゲームが面白いか、最近考えていたのですが、その答えを思いついたので
かきます。
ゲームは、ちゃんと、おわるからです。
そこには十分に達成可能な有限性が備わっているからです。
その理由を、ユーモアたっぷりに説明したのですが消えちゃいました。
有限性があって、コレクションが完成するから、やる気が出るのです。
そうでなければ集めようというきもちができない。
無限は意味をむしばんでしまう。
科学性とは反証可能性のことだ、といいますが、それが最悪だとおもいます。
いや、たしかに、反省の態度としてはけっこうなのですが、やる気という観点からはあんまりです。
「最終的な解答」がでたら、ぼくを起こしてください。
それまで昼寝でもしています。
そして、ぼくの希望は、最終的な解答とそうでないものを色分けして、
確実なものだけを学びたいということです。
そんなものないのだ、ということなのかもしれませんが、
それにしても、どれくらい正しいのか、ということは、計算できそうな気がします。
論理学はただしそうですよね
言葉の仕組みや、完全な人工物は、長もちしそうです。
なんていうのか…有限性の線引きが、とても大切だと思うのです。
ここまではこだわるけど、この線を越えたら無視する、みたいな基準を、
「教養」なのか「知」なのかわからないですが、それに設けたいのです。
文科省が教育指導要領を設定している…
そうですね。
でも、人によって必要か否かのムラがあるし、どこまで知っているか、どこから知らなくても責められないのか、という基準なのかな…
すると、何をもってその基準とするのか、何に「必要」なのか、という問いに後退するのか。
そうすると、たとえば、国家にとって、国民が知っていると不都合なことはそのリストから削除するようになるだろうし、うーん。
開発者が善意に満ちたひとならよいのですが。
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なんていうのか、普遍的なただしさ、よさ、うつくしさ、という観念をかんがえてしまうのです。
特に、よさ、かもしれません。
歴史は繰り返すといいます。
賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶともいいますね。
歴史も経験と思いますが、そこには客観的な普遍性があるといいたいのかもしれません。
歴史に学ぶことの意味というか目的とは、
歴史が失敗や誤りの連鎖であり、なんていうか、「最終的な解答」を提出したプレイヤーがいないから、ですよね。
無垢な主体がなくて、みんな泥がついている。
失敗しない、最終的な「ゴール」のようなものを想像しているのではないでしょうか。
途中で穴ぼこにおちてしまわないように、越えるすべを学べ、ということですよね。
同じ失敗をするのはバカだ、とおもうのです。
進歩のない人間はバカだ、と。
そうであるなら、歴史上の失敗をよく観察して、それを避けなければいけません。
失敗と回避術です。
そのとき、人間は本当に進歩できるのか、疑問がわいてきます。
たとえば、古代の暴君がいたとして、人間を無数に殺して財産を築いた。
財産で官僚を買収して好き勝手やった。
民衆がついに怒って暴君を殺した。
「私利私欲のために人殺しをしてはいけない」という教訓が引き出せたとして、
同じ失敗を繰り返さないようにできるでしょうか。
いや、なんていうんだろう。
うまくかけないのですが、
たとえば、その暴君に、そういうのはちょっとあんまりだぜ、と言っても、全然聞かないだろうし、
その後似たようなやつがでてきそうなときに言っても、やっぱりぜんぜん聞かないとおもいます。
ならば、もっと早い段階で手を打っておく。
話をきかなくなるまえに、だれであっても、他人の話を聞かなくても済むようになれる方法は全部塞いでおく。
塞いでおく石をどける方法がのこっていたために、やっぱり暴君がうまれてしまった。
その失敗を生かして、石をどける棒を除いておいた。
棒をよそから持ち込んだ。
もちこめないように、そこまでの道のりに、てぶらでないと渡れないような仕組み(ターザンロープとか)を
用意した。
などなど、すこしは、時間がかかるようになるかもしれませんが、やっぱり失敗はするのではないか、と。
「はじめからそういうものだし、根気よくやるしかないんだよ」という大人びた答えがあるかもしれませんが、「いやになる」ことは、それも、場所が与えられないといけない気がします。
歴史を振り返った時に、あらゆる失敗の連鎖として、映りますが、わたしたちは過去の歴史のどこまでを解決し、どこからがまだ未解決の問題として残っているのか、すくなくともぼくはぜんぜんわかっていないことに気が付きました。
たとえば、「なぜ人を殺してはいけないのか」がもう答えられない。
答えが出るとも思えない。
そういうとき、理想を求める「問い」を凍結して、生きていくしかない。
ポーの短編に『ヴァルドマアル氏の病症の真相』 という作品がありますが、そんな感じです。
自分が死んでいることを忘れているうちにしか、生きていられないという感じがする。
ぼくは、あらゆる改善志向を拒絶して自殺する人を否定できないのです。
宿題やったか?歯は磨いたか?
めんどうだから自殺する。
理想が困難で凍結しているのに、なぜ、改善なんていうことを無垢に信じられるのだろう??
なんていうか、僕にとっては、生は「逃亡」しかえらぶみちがないのです。
ゲームや夢に逃亡するか、あるいは、「意識高い」ような、「就職活動」や「社会活動」やなんやらという「現実的」で「有意義」な承認に満ちた対象に「前方逃亡」するか、です。
「真面目」こそ、「アイロニー」の骨頂です。
いずれ、ぜんぜん信じられないのです。
映画「グレムリン」で、ケイトの父は自宅の煙突からサンタの姿で現れようとして首の骨を折って死んだという設定が与えられていますが、もうちょっと「マシ」な死に方にしてやれよ、とおもいます。
「戦争」で「殉死」とかのほうが、「意味」に満ちていてとてもいいんじゃないかな。
「無駄死に」だけは、ちょっと、いやですよね?