【2020年】福島第一原発の今。 | 新・笑ってでも駆け抜ける‼︎

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2020/8/12 


来年春に福島原発事故から10年になる2020年の盆休み。事故絡みで通行止になっていた国道たちの走破に出かけていたが、帰宅困難地域の生々しい看板や捨てられて壊れた家屋を見て被災地の中心部が気になってしょうがなくなり、海沿いまで車を走らせた。短い時間であったが"被災地の今"を写真におさめることができた。




   

キッカケはこれだった。​4年前に悔しくも浪江の町を見ることができずに引き上げる。
が。燻っていた悔しさが4年越しに爆発。仕事を終わらせて仮眠をとり、早朝から一路、東北へ。





   

​福島市内のネカフェで一晩過ごしてこの日も早朝より浪江町へ向かうR459を進路に取り東を目指す。
福島の市街地を抜けると次第に山がちな地形に変わり民家の数も減っていく。
夜も明けてきてすっかり明るくなる頃、それは現れた。
4年前に見たガチガチにフェンスに進路を阻まれた川俣と浪江の町境はそこにはなく、まっすぐな道路と英語と日本語で書かれた生々しい看板が幾つか建っていた。それと警備のおっちゃんも詰所から出てきた。
その光景は国境の検問のような重々しい空気が流れている。





   

​浪江町に入ると時折民家が現れるようになるが、屋根が壊れていたり窓ガラスが破られていたりして、人はほとんど住めなくなってしまったわけで、10年も経つと自然に還りつつある民家もあった。
中でも一際目立つ存在なのが

帰宅困難地域の為、長時間の停車はご遠慮ください。

の看板と直行する道路に対しての

帰宅困難地域の為、通行を制限しています

の看板。町と町を繋ぐ道路だけが生き返ってる状態にあり、町と集落を繋ぐ道路に関しては復活の兆しはない。





   

​そして山を抜けて景色はひらけた。浪江の町だ。
ここにきてようやく人の気配がする。それでも廃屋が目立ち、復興のスタート地点に立っている。
そんな印象を受けた。
国道6号と交差して狭い集落の路地を抜けると再び視界がひらけた。
道路は碁盤の目のように敷かれ、かつて建物が建っていた土地は更地となり、雑草が伸び、荒れ果てていた。
その中でポツポツと汚染物質処理施設や工事車両が生い茂る雑草の上に無造作に置かれている。
そんな最果てのような終着点のような土地に太平洋から運ばれた生ぬるい風が時折僕に吹き付けたことはとても印象に残った。





   

​続いて、第一原発のある双葉町へ向かう。が、海沿いの道路は全て町境で完全にシャットアウトされ、国道6号以外で町の行き来は難しい。これならむしろ、国道6号から原発見えるんじゃ?と思い、朝日が雲の隙間からチラつく国道6号を南下した。
丁度、第一原発と交差する道路との交差点付近でわずかに見えるコンクリートの塊とクレーンの梁が見えて、復興の足跡が伝わる。また、この写真のところの沿道には
30年後の復興を夢見て…
と地元の方がラミネート加工したものを木の枝にくくりつけて祈っている。
再びこの地で何も飾らない、ありふれた日常を取り戻したい…と、待ち焦がれている人たちのことを忘れてはならない。





   

​双葉町から再び南下して大熊町へ来たところですき家が見えてきた。朝6時。朝飯をこさえようとすき家へ入店。
ところが状況を見て恐怖を覚えた。
なんと、入り口には柵が。車を降りて店内を確認するも、もぬけの殻。
いくら国道6号沿いの店舗だからと言えども原発事故はそう甘いものではなかった。
それと同時に普段よく利用する店だからこそ、こんな形で原発事故の爪痕を見ることになるなんて思いもしなかった。その他、コンビニやパチンコ店でも同様の状態の店舗が見受けられ、駐車場が雑草で生い茂り、半ば自然に還っている店舗の姿も確認できた。





   

​再び双葉町に戻ってきて住宅街の中を走る。
すると、以下にも町役場な大きな建物が見えてきた。
公共施設の代名詞とも言える役所もご覧の有り様。町役場の周りの木々が成長し、道路から駐車場へのアプローチも徐々に難しくなっている。
駐車場には数台車が停まっているが、パンクしていたり、型落ちの旧型車が目立ち、明らかに廃墟の匂いがした。
なお、双葉町役場は現在内陸方面に移転し、震災前と同じように開庁している。





   

​町役場周辺は住宅街の中でも廃屋が目立つエリアで、歩道も草木が成長して歩行が難しい区間もあった。街路灯も長年使用されていないのか、色褪せて進行している。
国道6号を境にして内陸側はJR常磐線の線路も付け替えられて新駅になった双葉駅をはじめ、新しい双葉町役場や商店なんかも軒を連ねる新市街地なのに対して、海沿いの旧市街地は復興から見放されたエリアなんだなと感じ取れた。





   

​思いの外、興味関心に煽られてしまってかなり長居してしまった。まだまだ訪れたい場所はあったが帰路を急ぐ。途中で南相馬へ通じる県道と交差したが、ここも通行に制限が敷かれており通行できない。が、トンネル内には煌々とオレンジのハロゲン灯が灯され、工事車両や緊急車両が通れるようにしてあるのだなと思った。
数枚写真に収めて車に戻る時、近くの詰所から警備のおっちゃんが出てきた。怪しい者と思われたか?それとも朝の6時過ぎ。今から業務開始なのだろうか?
結局、車に近づくことはなかったから後者だということにしたが、こうして今日も原発事故から這い上がるために、また1歩ずつ歩みを始めようとした姿に変わりはなかった。





   

​そしてこれは知らないことだったのだけれど、この原発事故を未来に遺し、語り継いでいこうとする施設が浪江の海沿いに建てられていた。
筆者は震災や原発事故とは縁のない場所で生活したし、来春で震災から10年ということもあり、復興は概ね形となって現れてきているのではないか?と恥ずかしながら思っていた。だけど、1時間という短い時間の中で、10年間見てきたニュースや新聞では報道されていない、生々しい部分に触れることができたと思っている。そこには僕の思っていた浪江・双葉の町はなく、"あの日"見たテレビの惨状のまま残っていた。
しかし、復興の道は遠くても人々は確実に戻ってきているし、その一人一人の小さな力が復興への道しるべとなって毎日奮闘されているわけで。そのことは今回見てきたショッキングな光景の中で感じた小さな光であり、絶望している暇などないと感じずにはいられなかった。
復興への時計の針は動き出した。

全ては30年後の復興を夢見て────