江戸時代中期の享保15(1730年)に、諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚協力の元、青の洞門が掘られたのだが、先にこちらにも触れておきたい。大正13年に架けられた耶馬溪橋である。
石材で組まれた8連アーチ橋が美しい。この規模にまでなると日本唯一ということもあってか、県の重要文化財に指定されている。
石の組み方がオランダの橋とよく似たものとされ、オランダ橋の異名を持つ。
護岸のアーチの部分だけコンクリート製になっており、後年になって橋梁が延長されたと見ていいだろう。山国川は悪天候になれば暴れ川に変貌する川。時が経つにつれて河岸が削られ流域面積が大きくなったのだろうか。
さて耶馬溪橋の見学もほどほどにR212を挟んで反対の川沿いの道路を歩く。
青の洞門はR212の旧道とされているが、それらしい痕跡はみつけられなかった。
旧道とは言え、大分県の著名な観光地ということもあり、たまに現道から外れて青の洞門を目指す車が目立つ。
と思ったらバスまで来るらしい。
鉄道が半世紀前に潰えたこのエリアでは車を持たない世代にはバスに頼らざるを得ないだろう。もちろん観光客をターゲットに運行していると思うのだけど。
肝心の時刻表だが、都市型のようなパターンダイヤではなく1時間に2本ある時間もあれば1時間に1本もこない時間もある。
どの時間帯にどれぐらい走ってるか…は失念したが、データイムの本数が多かったように思える。
葉桜になりかけの桜の木の下、ぽっかりと口を開けた穴が筆者を出迎えてくれた。
洞門…というより隧道?
それもそのはず。1907年に陸軍が自動車を通せるように洞門の拡幅工事が行われて、江戸時代の佇まいは過去のものとなってしまっていた。
だが、暴れ川にもなる山国川に橋を架けて対岸に新道を建設する技術は当時の日本には存在せず、この洞門を改良してまで使わざるを得ないほどの難所だという事実に気付かされた。
洞門のくぐる。車道と歩道の二手に分かれて筆者は自然に歩道の方を歩く。
車道は直線で出口へ向かっているが、歩道は3つの段差のある階段を降りる。石畳の床にノミで削ったような特徴的な洞門壁面に疑問が生まれた。
そしてこの灯り取りの窓。この歩道は何?
しばらく歩くと答えが見えた。
石を加工した禅海和尚がノミで岩を削っている石像があった。
なるほど!1907年に改良というのは車道の方で禅海和尚が拓いた洞門はそのまま歩道として生き続けたのか!
明かり取りの窓を2つを通過すると車道へ上がる階段と分岐。引き続き禅海和尚の拓いた洞門を進む。
ここまで来ると床が石畳から岩盤に変化。あれは観光客向けにシャレた内装ということか?
しばらく歩いて、洞門の先が光で眩しい。
出口である。
綺麗に整ったポータルを抜けると階段となっていた。
…おかしい。
この区間は埋め戻されて観光向けに新たに掘り直した?
ここには何もヒントとなり得るものが存在しないので階段を登り車道と合流した。
車道の方は先ほどと打って変わってセンターラインのある対面通行区間となっていた。
だが、奥の洞門が怪しい。
岩が口を開けて待っているという雰囲気が感じられる。
こ、これは…ド迫力だ!
岩をくり抜いただけのシンプル設計でここから幅員が狭くなる。
しかも右の方は掘ろうとした痕跡が残る。
禅海和尚の拓いた洞門はやはり先ほどの地下通路ではなかったようだ。
途中で埋め出したor途中で車道と合流した、が見解だろう。
改めて車道の方を歩く。
1907年に改良されて100年以上。岩から滲み出た湧水で洞門壁面も苔にまみれて、廃道チックな景色にどこか幻想的な景色が広がる。
歩道の方も明らかに後年になって新設されたものとなっている。
再び外に出る。
今まで通った道を振り返る。
若干桜も混じる新緑の競秀峯の姿が美しい。
秋には真っ赤に染まった姿も拝めるようだ。
その中で青の洞門がいいアクセントとなっており命綱無しの鎖道から安全な陸路へ…と熱い情熱を持った1人の男の苦労が垣間見える。
道路は難所に拓けば拓くほど見入る歴史がそこに残っているから面白い。それが自分が道路オタクをやめられない理由の一つとして今も生き続けている。